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Wslking the Tightrope

           ぺイマスィリ長老と語る瞑想修行 
                          
  デイヴィッド・ヤング

2015年1月~2015年10月

ペーマスィリ長老:
私たちが避けるべき行為の三番目は、不適切に感覚的な楽しみをむさぼること、カーメースミッチャー・チャーラ(kāmesumicchā-cāra)です。カーメース(kāmesu)の意味は快楽の対象を渇望することです。カーメース(kāmesu)は単数形ではなく複数形となっています。従って、「不適切に感覚的な楽しみをむさぼること」は単一の種類の行為に限定されているわけではありません。また身体による行為に限定されるわけでもありません。そうではありません。「不適切に感覚的な楽しみをむさぼること」から離れるというのは五感の濫用から離れるという意味でもあります。例えば、何か不適切な音を聞くために録音機を使ったとしたら、それは耳という感覚門を濫用することになり、「不適切に感覚的な楽しみをむさぼること」に含まれます。あるいは酔っ払おうと心に決めたら、それはもう一つの感覚門である舌を濫用することになります。どの感覚門であれ濫用したらそれは「不適切に感覚的な楽しみをむさぼること」となります。

デイヴィッド:今日私たちが理解している意味での感覚の濫用ということですか?

ペーマスィリ長老:
その通りです。感覚の濫用は官能的な感覚の濫用だけを意味するわけではありません。レイプは明らかに感覚の濫用です。それは力ずくで他人との不適切な性交渉に耽ることです。他人が自由に生きるという権利を損ないます。そして濫用はレイプに限りません。性的な虐待など、求められていないのに一方的に性的な関係を持つこともまた感覚の濫用です。他人の自由を阻害するからです。
  既に結婚しているのに、別の女性から性交渉を求められ、あなたも性交渉したくなったとしましょう。奥さんが同意しないまま、あなたがその女性との性交渉に耽ったとしたらそれは感覚の濫用とみなされます。しかし、奥さんの同意がある場合は感覚の濫用とはなりません。同意があれば他の女性のところに行って性交渉を持つのは可能です。そのような仕組みになっています。他の女性と性交渉を持つことが可能かどうかは夫婦間の同意があるかどうかにかかっています。パートナー同士の同意が必要です。
  古代においては王が100人、場合によっては1,000人近くの女性を擁するハーレムを持っていました。ブッダと同じ時代を生きたコーサラ国王はハーレムを持っており、時を選ばず、どんな相手とも性交渉に耽ることが出来ました。ハーレムは社会に受け入れられていた習慣だったので、それを不適切だと考える人は誰もいませんでした。もちろん彼自身は心の中で罪悪感に苦しんでいたかもしれません。実際、コーサラ国王が妃に迎えた女性は二人だけでした。マッリカーとバーサバーです。ほとんどの時間をマッリカー王妃と過ごし、サキヤ王国を訪問する際にはバーサバー王妃と一緒でした。
  三番目のタイプの節制、つまり「不適切に感覚的な楽しみをむさぼること」には五戒の五番目である「人を酩酊させる物を摂取しないようにする」という項目が含まれます。この戒律はパーリ語ではスラーメーラヤ・マッジャ・パマーダッターナーヴェーラマニーシッカーパダムサマーディヤーミ(surāmeraya-majja-Pamādaṭṭhānāveramaṇīsikkhāpadaṃ̣samādiyāmi)となります。ワインやお酒など酩酊作用のある薬物を摂取しないという戒律を受け入れますという意味です。なぜならそうした薬物は注意力を損なうからです。この文章の中にある二つの言葉マッジャとパマーダについて少しお話ししておく必要があります。
  マッジャ(majja)はアルコールなどの中毒性のある薬物のことです。マッジャパ(majjapa)は大酒のみで、自分のカースト、教育レベル、財産をひけらかす人のことです。アルコールの勢いに駆られて、高慢が高じて不適切な行動をとり、多くの悪事をしでかします。これがマッジャです。
  マーダ(pamāda)は怠惰という意味です。怠惰な人は、不適切な行動を控え、適切に行動するように努力するということをしません。彼らは怠けてぶらぶらしているだけです。そのためわざわざ他人のために慈悲を実践しようとは考えません。自分自身に対してさえです。そして皆の自由な暮らしを邪魔します。
  マッジャ(majja)とパマーダ(pamāda)は智慧を破壊します。例えば、この法話を聞きながらダンマを勉強している読者の皆さんは、智慧のある行動をとっています。善行為を行うために、正しいやり方で努力しています。善い事をしているのです。しかし、もしお酒を飲み、舌の感覚を通じて渇望を満足させようとするなら、皆さんは舌を愚かに使っていることになります。舌という感覚門を濫用していることになります。お酒を飲んだ結果として、適切な判断が出来なくなり、努力することもなくなります。そして何らかの不適切な行動をとるようになります。もはやダンマを学ぶ状態にはありません。ほんの少量でもアルコールは心の働きを鈍くします。極端な場合は、
  大酒を飲んだ結果、人殺し、盗み、レイプといったとんでもない罪を犯すことさえあります。酒に酔った人からは正しい努力が消え去ってしまうため、そそのかされて様々な不適切な行動に手を染めてしまう可能性があります。正しい努力が無くなると、正しい気づきも消え去ります。正しい気づきが無くなれば、正しい集中もまた消え去ります。そして正しい集中が無ければ、智慧も生じません。
  40年以上前のことです。私はまだ10代で、カンドゥボーダ瞑想センターに滞在していました。そこで私はスマティパーラ長老の親戚の人と知り合いになりました。彼もそこで瞑想実践していました。彼は、何年も前に広大な農園を相続し、経営もうまくいっていました。かつては大金持ちでしたが、ある時お酒を飲み始め、やがて大酒飲みになりました。たくさんのお金を自分と仲間たちの酒代にあてました。お酒を飲むようになったことで仕事での適切な判断が出来なくなり、やがて数百万ルピーという当時としては大変な額の借金を抱えることになりました。借金を返すため、10エーカーの土地だけ残してあとは全て売り払うことになりました。全て飲酒が原因です。彼はそのために土地と財産を失いました。
  彼は次いで健康状態が悪くなりました。甲状腺が腫れたため医師の診察を受け、また村の呪術師に助言を求めました。医師団は手術を勧めましたし、呪術師は彼の首に紐を巻き、マントラを唱えただけで代金を請求しました。彼は困り果て、どうして良いかわからなくなりました。病院で手術を受けるのは気が進まず、首に巻いた紐もマントラも効き目が無い様子でした。首の腫れはまずますひどくなり、このままでは死んでしまうと思いました。どうしようもなくなった彼はカンドゥボーダのスマティパーラ長老のもとを訪れました。長老は彼に瞑想を勧めました。
  ある時、スマティパーラ長老は6日ほど瞑想センターを留守にして旅に出ました。私の師である長老がいないと指導が受けられないため私も瞑想センターをしばし離れることにし、家に戻って家族と過ごしました。2週間後、私はカンドゥボーダに戻り、長老の親戚である彼と再会しました。しかし最初、彼だと分かりませんでした。確かに以前会った彼と似てはいましたが、首の腫れは消えていました。甲状腺の腫れがすっかり改善した彼を見て、別人と勘違いし声をかけることさえしませんでした。
  「どうして知らん顔するのですか、何か気に障ることをしたでしょうか」彼は言いました。
「いえ、あなただと分からなかったのです。すっかり変わってしまったので。首も正常だし、顔色も良いし、何がおこったのですか」と私は答えました。
  「スマティパーラ長老のおかげです、素晴らしい治療です」と彼は答えました。
  彼はきっぱりと酒を断ち、ダーヤカー(dāyakā:在家信者)としてスマティパーラ長老が1982年に亡くなるまでそのお世話を続けました。

  「カッサパよ、一人の比丘がいて、敵意から離れ、悪意から離れ、慈愛を育て、堕落することなく、決して堕ちることのない心の解放を悟り、心の解放とともに住し、自らの洞察を通して智慧による解放を今生で悟ったとしたら、カッサパよ、その比丘は修行者、婆羅門と呼ばれます」
ブッダ:マハースィーハナーダスッタ(MahāsīhanādaSutta:大獅子経)


6.正しい生計
ペーマスィリ長老:
八正道の五番目は正しい生計、サンマー・アージーヴァ(sammā-ājīva)です。正しい生計の意味は以下の通りです。

  ・不全な生計の立て方(micchā-ājīva:ミッチャー・アージーヴァ)を止める。
  ・健全で適切なやり方で生計を立てる(sammā-ājīva:サンマー・アージーヴァ)。

  正しい言葉、正しい行為を実践しているときは、正しい生計も実践していることになります。心にとめておいてください。正しい言葉とは、(1)正しくない言葉、(2)人を中傷する言葉、(3)きつく、相手を責め立てる言葉、(4)噂話・無駄話、を慎むことです。
  正しい行為とは、(1)殺生、(2)盗み、(3)感覚的な楽しみを貪ること、から離れることです。
  正しい生計には様々なものがあり数えきれませんが、誠実で、平和で、地域社会に幸せをもたらします。アングッタラ二カーヤ(AnguttaraNikāya:増支部経典)の中で、ブッダは正しくない生計を五つ説かれています。(1)武器、(2)生き物、(3)食肉製造と屠殺、(4)毒、(5)中毒性のある薬物、の五つに関する商売は正しくない生計となります。

デイヴィッド:毒の意味は何ですか?

ペーマスィリ長老:
殺虫剤など命を奪うための薬のことです。

デイヴィッド:殺虫剤は人の命を奪いますか?

ペーマスィリ長老:
そうです。
  盗みは正しくない生計の立て方です。使用人の給料を不当に低くする雇い主がたくさんいます。このような雇い主は労働者から盗みを働いていることになります。一方で給料に見合った働きをしない労働者もたくさんいます。その場合は、労働者が雇い主から盗みを働いていることになります。どちらの行動も正しくありません。
  騙したり、トリックを使ったりするのも正しくない生計の立て方です。過去の事例を参考にして占いをするのは正しくない言葉の使い方ですが、同時に正しくない生計の立て方でもあります。占い師は人々を騙して生活の糧を得るからです。同様に、商人がキロ売りの乾燥トウガラシに水を加えて売ったとしたら、それは顧客を騙していることになります。正しくないことは明白です。
  適正以上の価格を要求して利益を得るのもまた正しくない生計の立て方の一つです。あなたは新しいテープレコーダーを買い、店員は2,500ルピーで売ったとします。本当は2,000ルピーの価値しかないのに、2,500ルピーで売って不当な利益を得たとします。これは正しくありません。
  これでもかこれでもかと利益を上げることに血眼になる人がいます。合法的で常識的な限度を超えて利益を得たいがために不当に高い値段で売りつけます。商取引で顧客と納得のいく関係を保つためには、値段に見合ったものを提供しなければなりません。
  ブッダの時代にもこれに関連した良い物語があります。ある猟師が二匹の鹿を仕留めました。雌鹿とその子供です。猟師は雌鹿を2ドルで、そして子鹿を1ドルで売りに出しました。そこに詐欺師がやってきて1ドルで子鹿を買いました。
  詐欺師は言いました。「いいかい、私は今お前に1ドル払った。そして私が買った子鹿もやはり1ドルの価値がある。ということは合わせて2ドルになる。だから、この子鹿を返して雌鹿をもらっていくよ」
  猟師は子鹿を受け取り、詐欺師に雌鹿を渡しました。まんまと騙されて雌鹿を1ドルで売ってしまったのです。猟師は鹿を殺して生計を立てますから、その職業が適切でないことは明白です。しかし詐欺師の生計の立て方もまた不適切です。詐欺師は騙しの手口を使って猟師から雌鹿を安い値段でかすめ取ったのです。
  八正道を歩み、真剣に戒(sīla:シーラ)を実践するなら、こうした状況は決して生じません。何故なら常に適切な言葉を話し、適切に行動し、適切に暮らすからです。
  人生の全てにおいて、自分の責任をしっかりと自覚し、善行為に身をつくします。そして、共感と慈愛を込めて仕事をするため、摩擦が生じることはありません。人生は簡素で穏やかなものになります。

  「尊師よ、私たちは仲良く暮らし、互いに感謝し、言い争うことなく、水と乳のように融和し、親愛の情をもって互いを見つめます。」
アヌルッダ尊者:チューラゴースィンガスッタ(cūlagosingasutta:小牛角経)

7.正しい努力

ペーマスィリ長老:
八正道の六番目は正しい努力、サンマー・ヴァーヤーマ(sammā-vāyāma:正精進)です。苦しみからの解放を目指して奮闘努力するという意味です。正しい努力についてブッダが説かれた内容は広範囲にわたり、聞き手の理解度、熱意、目標により異なっていました。ある人たちは俗世間的な生活の中で苦しみを減らし、人間界や天界の恵まれた境遇に再生することを目指していました。ブッダは、このような人たちに対しては、それに合ったレベルの苦しみからの解放を得るのにふさわしい努力の仕方を教えられました。
  一方で、全ての苦しみを完全に克服して、ニッバーナ(nibbāna:涅槃)を目指す人たちもいました。その場合、ブッダは努力を尽くしてアラハット(arahat:阿羅漢・・・最終的な悟りを得て、煩悩を滅尽し、輪廻からの解脱を果たした聖者)になるという難しい目標を達成するために、努力を最大限に生かす方法を指導されました。
  このように正しい努力はあらゆる範囲をカバーします。俗世間的な日常生活での自制から始まり、邪見という煩悩が破壊されて預流果の聖者になり、官能的な快楽を渇望するという煩悩が破壊されて不還果の聖者になり、そして最後に、永遠の生存を渇望するという煩悩と無明という煩悩が破壊されて、アラハットになるところまで含まれます。

心と身体の努力

ペーマスィリ長老:
他の多くの事柄と同様に、正しい努力においても心と身体は相互に結びついています。ですから、健全な行いを為し、苦しみを減らすためには心と身体の努力を細かく調整しなければなりません。正しい心と身体の努力により、煩悩は抑制され、やがて破壊されます。そして心の修養の道を先へと進みます。
  心の努力であるヴィリヤ(viriya:精進)は何かをしようという意図を持つことです。あなたは瞑想実践したいと願います。サマタであれヴィパッサナーであれ、自分の瞑想方法を振り返り、もっと良い瞑想をしようと意図することは心の努力を要します。ヴィパッサナー瞑想の場合は、様々な感受、音、対象に気づきたいと意図します。一方、サマタ瞑想の場合は心を一点に集中させたいと意図します。
  正しい努力とは、不健全な行為を慎み、捨て去り、また健全な行為を育み、維持しようと意図することを意味します。私たちはまず心の努力を重ねなければなりません。そして、その心のエネルギーを内に蓄え、健全な言葉による行為、身体による行為が生じるようにしなければなりません。健全に行動するためには、まず健全に行動しようと意図する必要があります。健全な思考が健全な行為へとつながっていきます。
  ヴァーヤーマ(vāyāma:精進)という言葉を使う時には、主に身体で努力することを指します。身体を使った瞑想実践が身体の努力を要することは明らかです。坐っていても歩いていても、それを瞑想として行っている場合は身体で努力していることになります。
  アーラバティ(ārabhati:励む)は努力するという意味です。心と身体の努力を重ねながら、私たちは正しい努力を試みます。例えば、この瞑想センターで床を拭き、落ち葉を掃き、食事の手伝いをする時には心と身体の努力を前面に出しています。
  こうした行為を、何かを得ようと期待することなく、名声や称賛を望むことなく、ただ必要な行動として行う場合、あなたは正しい努力でその行為を行っています。アーラッバ(ārabbha:関心)で行っています。地域社会で生活する人々は、自分を慎み、住居をきれいにし、病人を助け、公共の仕事をこなす時、正しい努力をしていることになります。

デイヴィッド:初期の仏教の物語で、馬が正しい努力の象徴として使われていたようですが?


ペーマスィリ長老:
その通りです。良い馬は常に正しく行動します。排尿する時にもしかるべきところにいって行います。尿意をもよおしたら所構わずすぐに出してしまうようなことはしません。良い馬は正しい努力を前面に出します。
  アーターピー(ātāpī:熱意)とサンパジャンニャー(sampajañña:正知)という重要なパーリ用語があります。この二つはしばしば組み合わせて使われます。アーターピーは心と身体が熱意にあふれ生き生きとしているという意味です。一方、サンパジャンニャーは自分自身を知る、はっきりと理解する、智慧を持つ、という意味です。二つを組み合わせたアーターピー・サンパジャンニャー(ātāpī-sampajañña:熱意ある正知)は自分の行為の全てに気づくように熱意を持って努力するという意味です。サティパッターナスッタ(satipaṭṭhānasutta:念住経)の中で、ブッダは現象の本質をはっきりと理解するために必要な努力の質を表現するために、アーターピー・サンパジャンニャーという言葉を使われています。
  アーターピー・サンパジャンニャーは智慧のある努力です。正しい理解と正しい思考に基づいた努力こそが正しい気づきを生じさせることになるのです。サマーディ(samādhi:三昧)を得るためにはアーターピー・サンパジャンニャーが必要です。
  私たちが日常生活の営みにおいて努力する時には、それはアーターピー・サンパジャンニャーとともに行っているとは言いません。しかしながら、もし私たちがサンサーラ(saṃsāra:輪廻)からの解脱を目指し、完璧に健全なやり方で全ての心と身体の努力を注いだとしたら、アーターピー・サンパジャンニャーを伴ってその行為を行っていることなります。
  私たちは誕生、病気、老化、死に苦しみ、そしてそれを繰り返します。私たちは存在の不満足性に果てしなく苦しんでいます。アーターピー・サンパジャンニャーは私たちの全てのエネルギーと努力をこのサンサーラの世界から離れることに向けるということを意味します。あらん限りの力を振り絞って奮闘努力するのです。
  この奮闘努力は、まず四つの心と身体の努力を続けるように意図することから始まります。

  1.不健全な行為を慎む:サンヴァラッパダーナ(saṃvarappadhāna:律儀勤)
  2.不健全な行為を捨て去る:パハーナッパダーナ(pahānappadhāna:断勤)
  3.健全な行為を育む:バーヴァナッパダーナ(bhāvanāppadhāna:修勤)
  4.健全な行為を維持する:アヌラッカナッパダーナ(anurakkhanappadhāna:防護勤)

  この4つの努力を理解するためには、まず不健全、すなわちアクサラ(akusala:不善)と健全、すなわちクサラ(kusala:善)という言葉の意味を理解する必要があります。
  貪欲、怒り、妄想に根差した、身体、言葉、心の不健全な行為は現在および将来において好ましくないカンマ(kamma:業)の結果をもたらします。不健全な状態には心の汚れであるキレーサ(kilesa:煩悩)と足枷であるサンヨージャナ(saṃỵojana:結縛)が含まれます。煩悩とは心を汚染する性質であり、結縛は私たちを生存の繰り返しに結びつけます。10個の煩悩、10個の結縛がありますが、全てが貪欲、怒り、妄想という3つの範疇に含まれます。不健全な行為は全ての苦しみの源泉であり、私たちを苦しみに繋ぎ止めて、永遠にサンサーラ(saṃsāra:輪廻)の中で彷徨わせます。
  一方、健全な行為には善い心、善い行い、八正道を歩むことが含まれます。寛容、慈愛と智恵に根差し、好ましいカンマ(kamma:業)の結果をもたらします。健全な行為を行うことで私たちは不健全な行為を捨て去ることが出来ます。健全な行為が私たちを苦しみに繋ぎ止める鎖を断ち切り、サンサーラ(saṃsāra:輪廻)で彷徨うこともなくなります。
  アーターピー・サンパジャンニャー(ātāpī-sampajañña:熱意ある正知)は最も高いレベルの努力です。それが培われる過程には、多くの技能、態度、様々な克服が含まれます。これらは全て相互に結びつき、様々な形で重なり合います。

3つの技能

ペーマスィリ長老:
技能、すなわちコーサッラ(kosalla:善巧)は目標の達成に熟達することです。どのような目的であってもそれを達成するために、上手に考え、行動し、前進する時に、私たちは技能を使います。心の修養を進めるためには、3つの技能についての知識を得るように努力する必要があります。この3つはディーガ ニカーヤ(dīgha nikāya:長部経典)のサンギーティスッタ(sangītisutta:等誦経)に書かれています。

  1.適切な方法をとるという技能:ウパーヤ・コーサッラ(upāya-kosalla:算段善巧)(注)
  2.獲得する技能:アーヤ・コーサッラ(āya-kosalla:増益善巧)
  3.失う技能:アパーヤ・コーサッラ(apāya-kosalla:損減善巧)
   (注)「方便善巧」とも訳されるが、「方便」という言葉には「嘘も方便」のように誤解を与えかねないニュアンスがあり、「算段善巧」とした。(翻訳者)

適切な方法をとるという技能

ペーマスィリ長老:
適切な方法をとるという技能、ウパーヤ・コーサッラ(upāya-kosalla:算段善巧)が最初の技能です。ウパーヤ(upāya:算段、方法、手段、方便)という言葉は、目標を遂げるために用いることが出来る実際の方法という意味です。ウパーヤは成功への適切な道です。コーサッラ(kosalla:善巧)の意味は技能です。ですからウパーヤ・コーサッラの意味は適切な方法をとるという技能になります。適切な方法をとるという技能とは実践的な手際の良さのことです。目標を達成する方法に関する知識であり、またそのような方法を巧みに取り入れることです。前に進むためには、適切な方法をとるという技能についての知識を高めなければなりません。
  ジャータカ(jātaka:本生譚)の中に、賢い小鳥の物語があります。その鳥は実践的な技能、すなわちウパーヤ・コーサッラを使って一見不可能な目標を達成しました。
  その小鳥はドロンゴ鳥(注)、ハエ、カエルと友達でした。ある日のこと、大きな象がその小鳥が住むジャングルの一角にある木の枝を剥ぎ取り始めました。(注)尾が魚の尻尾の形状をしている鳥。
  小鳥は象に言いました。
  「お願いですから、枝を剥ぎ取るのをやめてくれませんか。私の巣が台無しになってしまいます。私はあなたに危害を加えたことは一度もありません。そしてあなたと同じように、ただ平穏に暮らしたいと願っているただの生き物です」
  象は言いました。
  「俺はお腹がすいているんだ。お前の巣なんか知るもんか。それに、お前はちっぽけな小鳥だ。お前がどうやって私に危害を加えることができると言うのだ?」
  象は鼻で枝葉をつかみ、幹から剥ぎ取りました。その最中に小鳥の巣も壊れてしまいました。小鳥は大変腹を立て、その象を殺したいと思いました。しかし、小鳥の小さな身体ではそれは一見不可能でした。賢いその小鳥はドロンゴ鳥の所に行きました。
  小鳥は言いました。
  「君は僕の友達だよね、手を貸してくれないか」
  ドロンゴ鳥は尋ねました。
  「何をしてほしいんだい」
  「象がわざと私の巣を壊したので、仕返しがしたいんだ。君にその象の目をつついて欲しいんだ」
  ドロンゴ鳥は頷き、その象を見つけて目をつつきました。小鳥は次にハエの所に行きました。
  小鳥は言いました。
  「ハエ君、力を貸してくれないか。意地悪いこの象の所にいって、傷ついた目にハエの卵を植え付けてくれ」
  ハエは象を見つけてその目に卵を植え付けました。ウジがわいて、象の目の状態は日増しに悪化し、ついに失明してしまいました。次いで、小鳥はカエルのもとを訪ねました。
  小鳥は言いました。
  「友よ、助けてくれないか。象がわざと私の巣を壊したので、罰を与えたいんだ。私はその象を殺したい。ドロンゴ鳥とハエのおかげで、その象は視力を失い、水を探すのに耳に頼るしかなくなっている。君の鳴き声でその象をあの高い山の頂上へと導いてくれないか」
  カエルは言いました。
  「いいよ、君のためにそうするよ」
  喉がカラカラになった目が見えない象はカエルの鳴き声に向かって歩いて行きました。カエルの鳴き声を頼りに、山の頂上まではるばるとついて行きました。象が断崖絶壁の縁まで来ると、カエルは最後の鳴き声を上げ、さっと脇へよけました。カエルがどこへ行ったか見ることが出来ない象は鳴き声がした方に足を踏み出し、絶壁を転がり落ちました。地面に叩きつけられた象は悲惨で苦痛に満ちた最後を遂げました。
  この小鳥は巨象をやっつける技能と能力を持っていました。ウパーヤ・コーサッラを使ったのです。

デイヴィッド:小鳥の行動はあまり健全とは言えないと思います。

ペーマスィリ長老:この話は、ウパーヤ・コーサッラの意味を説明するためのただの例えです。小さな身体にもかかわらず、小鳥は誰が見ても不可能な目標を達成しました。小鳥が成功したのは適切な方法をとるという技能を使ったからです。小鳥は置かれた状況に即して、巧みに行動しました。そしてこの小鳥が努力を重ね、巧みな方法で巨象をやっつけたのと同じように、私たちもまた、私たち自身の巨象、すなわち不健全さという巨大な重荷を打ち負かすために、適切な方法をとるという技能を全て使い尽くす必要があります。正しい努力を重ねることでそれを成し遂げることが出来ます。
  気づきがあり、現象の本質をはっきりと理解し、智恵を使って不健全な行為を打ちのめす時、私たちはウパーヤ・コーサッラを使っています。アーターピー・サンパジャンニャー(ātāpī-sampajañña:熱意ある正知)、すなわち智恵のある心と身体の努力を伴いながら、適切な方法をとるという技能についての知識を使うことで、少しずつではありますが不健全な行為から離れ、健全な心を目指す際の障害要因を減らし、健全な心を大きくする要因を育てます。
  あなたは小鳥の行動が不健全であると言いました。この物語を話したのは。巧みに行動することの潜在的な力を示したいと考えたからです。しかし、適切な方法をとるという技能は常に健全な思考、健全な行動を伴います。不健全な物事を伴うことは決してありません。私たちは適切な方法をとるという技能についての知識を、他の生命と自分自身の福利のために使わなければなりません。命を奪ったり、傷つけたり、そうしたことに使ってはなりません。
  適切な方法をとるという技能を実践することにより、私たちは自分のやり方で障害を取り除き、不健全な状態と行動を撃破して、心を清める道を進みます。適切な方法をとるという技能を使えば、目標を達成することが出来ます。例えば、私は木登りが下手ですが、梯子を使えば上ることが出来ます。その時私が使っているのはウパーヤ・コーサッラ(upāya-kosalla:算段善巧)です。そして、木を登るために梯子を使うことは心の修養の道を進んでいくために技能を使うのと何ら変わりはありません。
  私たちは前進するために正しい努力、アーターピー・サンパジャンニャー(ātāpī-sampajañña:熱意ある正知)を使います。この瞑想センターの中にも、必要な心と身体の努力を重ね、瞑想を実践し、不健全な物事から離れている人たちがたくさんいます。一生懸命努力しています。適切な方法をとるという技能、ウパーヤ・コーサッラを少し身に付け、ニッバーナ(nibbāna:涅槃)を目指して奮闘努力しています。しかし彼らには支える力が必要です。
  心の質と瞑想修行を高めようとしている人を支える最も大事な力は、一緒に修行する仲間です。これは大変重要なことです。あなたが適切な方法をとるという技能についての知識を少し持っていたとしても、一緒に修行する仲間が適切な方法をとるという技能についての知識を持ち合わせていなければ、当然ながら正しく実践することは出来ません。瞑想者は一人だけで実践することは出来ません。正しく実践するためには、瞑想者と仲間が調和し、全てのメンバーが同じ目標に向かって一緒に修行に取り組む必要があります。支えてくれる仲間は大変重要です。それが成功への鍵となります。
  仲間が協力的でなければ、それは瞑想実践の障害となります。例えば、瞑想センターに滞在する人たちの一部は、瞑想センターにふさわしくないやり方でしゃべったり、行動したりします。彼らは自分自身の中に正しい理解が確立していないため、心と身体で正しく努力しようとは考えません。こうした人々は適切な方法をとるという技能についての知識を欠いています。そして私たちの心と身体の努力を弱めてしまいます。
  私たちはこのダンマについての討論を午前5時に始めることに決めました。何故なら、一日の内で最も静かな時間であり、学習の妨げになるものが少ないからです。しかし、そばにいる誰かがラジオのスイッチを入れたら、気分が悪くなり、私たちのダンマについての討論が中断してしまいます。「私たちが、ダンマを学ぼうとしているのに、なぜこの人はラジオを聞聞いているのだろう。」私たちはそう思います。その人の行動が私たちの努力を損ねて台無しにします。
  私たちがこのダンマについての討論を深夜に始めたと仮定します。何故なら、この時間なら誰かが邪魔することは少ないだろうと考えたからです。しかし、私たちがまだ起きていることを誰かがみつけてお茶を入れます。それはかまいません。そういった人たちがお茶を入れるのはかまいませんが、問題なのは、私たちがダンマについて学ぼうと努力していることに気づいていないことです。私たちが苦しみからの解放に向かって前進しようと努力していることに気づいていません。私たちに気をつかい私たちの努力を支える代わりに、その人はくだらない話をし、音をたててお茶を入れ、私たちの自由な流れを妨げます。そうした人たちは私たちがダンマについての討論の中で何をしているのか全く無視します。このように行動する人にはウパーヤ・コーサッラがありません。
  人生のあらゆる場面で、適切な方法をとるという技能についての知識、ウパーヤ・コーサッラが必要になります。日々生じる問題を解決するためにウパーヤ・コーサッラが必要です。様々な場面で色々な人と接する際、適切に行動するためにはウパーヤ・コーサッラが必要です。状況を明瞭に把握し、必要に応じて智恵とともに作業を進めるために適切な方法をとるという技能についての知識が必要です。この世界では何らかの知識と智恵が必要です。
  適切な方法をとるという技能です。私たちは自分の弱点を知るという技能を高めるために訓練します。その弱点を克服するという技能を高めるために訓練します。私たちはこのように努力します。

デイヴィッド:自分が怒っていることに気づいたら、それは適切な方法をとるという技能を実践していることになりますか?

ペーマスィリ長老:
その通りです。自分が怒っていることを知り、その怒りを克服する方法を知ることは適切な方法をとるという技能です。

デイヴィッド:自分が怒っていることを知るだけで十分ですか?

ペーマスィリ長老:
それは違います。自分に不健全な状態が生じていることを知るだけでは不十分です。同時に、自分の怒りを克服するための技能を高める必要があります。そうした技能を高めなければならないと知ることが、上で述べた技能と智恵を知るという知識になります。
  これが正しい理解の本質です。正しい理解があれば、適切に行動を目指して努力する以外に選択肢がないことを心から理解します。
  あなたはこの瞑想センターで床を拭き、枯葉を掃きます。必ずしもそれをする必要はありませんが、あなたはそうします。そうした作業に取り組む際に、不健全な状態を捨て去り健全な状態を培うならば、あなたはウパーヤ・コーサッラにより、正しい心がけでそれを行っています。健全さは作物を栽培するように育てなければなりません。例えば寛大になるためには寛大な行為を行う必要があります。自分は寛大だと思い込むだけではだめです。親切に行動し、他の人を助ける必要があります。

デイヴィッド:時々ホームレスにお金をあげますが、その人たちの攻撃的な態度に圧倒されることがよくあります。

ペーマスィリ長老:
ホームレスと付き合う際にはウパーヤ・コーサッラを使う必要があります。何年も前、私が最初に出家しようと思い立った時のことです。自分が比丘の生活に適しているかどうか決めるためにホームレスと一緒に暮らしたことがあります。彼らとともに路上で生活し、掘っ立て小屋に住み、彼らと同じ食べ物を食べました。その過程で、彼らの行動様式に関する多くの興味深い事実を発見しました。一人のホームレスは物乞いでたくさんのお金を得ていました。でもその人は、お腹がすくと所持金の大半を残して店に行き、わずかなパンだけ買いました。その人はホームレスですが貪欲ではありませんでした。

デイヴィッド:一部のホームレスは道理をわきまえています。

ペーマスィリ長老:
ホームレスには2種類あります。一つは純粋なホームレス、もう一つは詐欺師です。純粋なホームレスは一日一度だけ物乞いをし、どんなものをもらってもそれで満足します。純粋なホームレスが「食べ物が欲しい」という時は、彼は食べ物だけを欲しています。そして「着る物が欲しい」という時は、彼は着る物だけを欲しています。純粋なホームレスはそれ以上のものは何も欲しがりません。純粋なホームレスに「私があなたにあげられるお金はこれだけです」と言えば、彼はただそのお金を受け取るだけです。足りないと文句を言うことはありません。
  対照的に、詐欺師のホームレスは一日中何度も物乞いをします。そのようなホームレスはただ物を集めます。詐欺師のホームレスに「私があなたにあげられるお金はこれだけです」と言えば、彼はそのお金を受け取るだけでは済ませません。自分がもっと欲しいと思えば、さらにお金をせびります。そしてさらにお金を払うことを断れば、文句を言います。彼は決して満足しません。これが純粋なホームレスと詐欺師のホームレスの違いです。
  ブッダは、他者の寛大さに頼る、様々なタイプのホームレスについて語っています。サマナ(samaṇa:沙門)、ブラマーナ(brahmāna: 梵行者)、ヴァニッバカ(vaṇibbaka:浮浪者)、カパナ(kapaṇa:貧民)、そしてシンハラ語でプランノー(pulanno)と呼ばれる人たちです。サマナとブラマーナは宗教的な理由で俗世間を離れ、遊行する修行者で清らかな生活を送ります。ヴァニッバカは施しをしてくれそうな人に「善良なる紳士よ」「善良なる淑女よ」と声をかけ、それから物乞いをします。カパナは衣食にもこと欠く大変貧しい人たちで、ただ助けを求めます。彼らはただ物乞いをするだけです。プランノーも、窮乏し、飢え、粗末な着物を着た人たちです。彼らは誰かが助けてくれることを期待しますが物乞いはしません。期待はしていますが、恥を感じて、直接物乞いをすることはしません。彼らは黙ったままでいます。
  スリランカでは昨今、純粋なホームレスを見かけることは無くなりました。しかし、現実に助けを必要としている人はたくさんいます。そのような人々を助けるのは健全な行為です。困っているけれども声を上げない人たちを助けるのは、とりわけ健全な行為となります。私たちは寛大さを行動に移さなければなりません。適切な方法をとるという技能があればどの人が純粋で、その人が詐欺師であるか見分けることが出来ます。そしてそれぞれの状況に合わせてどのように助けるべきかが分かります。

デイヴィッド:私はある比丘に腹をたてています。彼は貧しい地域で布施された食べ物に文句を言っています。自分が受けた布施に感謝する気持ちがないところが嫌いです。こんな時、私はどうやってウパーヤ・コーサッラ(upāya-kosalla:算段善巧)を使ったらよいでしょうか。

ペーマスィリ長老:
私はその若い比丘のことを知っています。彼は私にその話しをしました。彼は英語が上手ではないので自分の思いをあなたに正しく伝えるのが難しかったのだと思います。彼の話では、極めて貧しく、汚いその地域に彼が托鉢に行ったのはそこに住む人たちを哀れんでのことだそうです。比丘たちはその地域に托鉢に行くことは滅多にありません。そこに住む人たち、環境、そして食べ物さえも極めて不潔だからです。だからこそこの比丘はあえてその地域に托鉢にいこうと思い立ったのです。

デイヴィッド:それは質問の答えになっていないように思いますが。

ペーマスィリ長老:
その比丘が、実際にどのような経緯でその地域に托鉢に行ったかを理解しようと努力すること、それがあなたのウパーヤ・コーサッラを使うということです。その比丘は英語が下手なのであなたは誤解したのだと思います。彼はその不快な場所にわざわざ托鉢に行こうと決めたのです。そしてそうすることで努力と慈愛を巧みに示したのです。彼の行動にはウパーヤ・コーサッラがあふれています。彼がなぜその地域へ行ったのかこれで理解できたと思います。
  私も同じような地域への托鉢に行ったことがあります。
  シンハラ人に混じって、蛇つかいやその他の低いカーストの人たちがいました。彼らは極めて不潔でした。私はその人たちの家に行って食事の布施を受けました。食事を用意するやり方がとても汚く、ひどい味で食べるのが大変でした。2日間、食事の布施を受けたのですが、私の鉢にひどい臭いがついてしまいました。彼らが施した食事はとても汚かったのですが、私はブッダのサーサナー(sāsana:教え)に従ってその食事を食べました。このような貧しい人たちの家に行って、彼らの食事を受け取りそれを食べたのは、ブッダが比丘たちに、慈悲の心で、そして自分自身の修養のためにそのようにしなさいと諭したからです。私はこのブッダの助言に従いました。その結果私のヴィリヤ(viriya:精進)、すなわち心の努力とエネルギーが高まり、強化されました。
  コロンボに住む裕福な私の支持者たちは、私がその貧しい地域に行ったことを咎めました。裕福な支持者の所へ托鉢に行けば、何の問題も困難も障害もないでしょう。私は最高の待遇で迎えられ、最上の食事が用意されるだろうと思います。何の問題もありません。しかし、残りものや粗末な食事しか布施出来ない、そうした貧しい人たちの家に行くことははるかに大変なことです。ブッダも過去生において、貧しく不潔な地域に托鉢に行かれました。それがウパーヤ・コーサッラです。その若い比丘も同じ目的を胸に抱いてその貧しい地域へ行ったのです。彼は慈悲の心からそうしたのです。

デイヴィッド:わかりました。ありがとうございます。

ペーマスィリ長老:
適切な方法をとるという技能についての健全な力と知識は生まれつき備わっているわけではありません。私たちはそれを育て、訓練しなければなりません。力と知識を育てれば、私たちの健全さは高まり、より力強いものとなります。自分の弱いところを克服して、正しい道を進んでいくのです。

デイヴィッド:何か正しい事をしていると自分で分かっている時には、私は力を育てているのでしょうか。

ペーマスィリ長老:
そうです。自分の力を知るように努力してください。しかし自分の弱点を知ることも忘れないでください。自分の力と弱点を知ることで力を育て、維持することが出来ます。同時に弱点を抑え、克服することが出来ます。こうした健全な力を得るということ、そしてそれを知る正しい方法を身につける必要があります。また、不健全な弱点を無くすということ、それを知る正しい方法も身につけなければなりません。人生で何が起こってもそれを適切に理解できるように心を育てます。そして最後にはもはや健全な力を育てる必要がない、純粋な健全さだけが存在する段階に達します。

デイヴィッド:私はまだその段階には達していません。

ペーマスィリ長老:
それでよろしいです。少なくともこれだけのことを知っているのですから。

獲得する技能:アーヤコーサッラ(āya-kosalla:増益善巧)

ペーマスィリ長老:
獲得する技能、アーヤ・コーサッラ(āya-kosalla:増益善巧)はサンギーティスッタ(sangītisutta:等誦経)に書かれている技能の二番目です。アーヤの意味は、「進歩を遂げる」「目標に向かって前進する」、そして「本当の意味で利益を得る」です。アーヤコーサッラは男であれ、女であれその人がニッバーナ(nibbāna:涅槃)へと向かう流れに入り、十個ある足枷のうちの最初の三つから解放されたことを意味します。

  1. サッカーヤ・ディッティ(sakkāya-diṭṭhi:有身見)
  2. ヴィチキッチャー(vicikicchā:疑)
  3. シーラッバタ・パラーマーサ(sīlabbata-parāmāsa:戒禁取)

  アーヤ・コーサッラについての知恵を得ることは大変な進歩です。この三つの足枷から解放されるのは大きな利益です。

デイヴィッド:アーヤ・コーサッラというのは、その人がソーターパンナ(sotāpanna:預流果)の悟りを得たということですか?

ペーマスィリ長老:
そうです。アーヤ・コーサッラについての知恵があるということは、自分の中にある善を知り、その善をさらに育てなければならないことが分かっているということです。アーヤ・コーサッラとは、その人がソーターパンナの段階に達して、為すべき仕事の一部を成し遂げたという意味です。
  自分の中にある十個の足枷のうち三つを破壊してソーターパンナになったということです。そこから先の仕事は残った七つの足枷を破壊してアラハト(arahat:阿羅漢)になることです。
  アーヤ・コーサッラを得ることで善なる力と能力を得ることになります。

失う技能:アパーヤ・コーサッラ(apāya-kosalla:損減善巧)

ペーマスィリ長老:三番目の技能は、失う技能、アパーヤ・コーサッラ(apāya-kosalla:損減善巧)です。アパーヤ(apāya)は一般的に四悪趣(人間より下位の悲惨な生存領域、動物・餓鬼・阿修羅・地獄)という意味で使われています。しかし、技能という文脈でのアパーヤの意味は「失うこと」です。
  アパーヤは、男であれ女であれ、その人から、十個ある足枷の全てが無くなったことを意味します。最初の三つに加えて次の七つの足枷がなくなります。

  4. カーマ・ラーガ(kāma-rāga:欲貪)
  5. ヴャーパーダ(vyāpāda:瞋恚)
  6. ルーパ・ラーガ(rupa-rāga:色貪)
  7. アルーパ・ラーガ(arupa-rāga:無色貪)
  8. マーナ(māna:慢)
  9. ウッダッチャ(uddhacca:掉挙)

  アパーヤ・コーサッラの知恵があるということは、十個の足枷全てが完全に無くなっている、全ての悪が破壊されているということです。男であれ女であれ、その人は最終的な覚りを得てアラハトになったことを意味します。

デイヴィッド:覚りへと向かう最初のステップが獲得する技能、アーヤ・コーサッラで、二番目のステップが失う技能、アパーヤ・コーサッラということですか?

ペーマスィリ長老:
アーヤ・コーサッラについての知恵とは、最初の三つの足枷が無くなり、ソーターパンナになるという意味です。失う技能、アパーヤ・コーサッラについての知恵とは、残りの七つの足枷が無くなってアラハトになるという意味です。
  適切な方法をとるという技能:ウパーヤ・コーサッラ(upāya-kosalla:算段善巧)はそのプロセス全体に関係します。

デイヴィッド:三つの技能の間に関連はありますか?

ペーマスィリ長老:
あります。適切な方法をとるという技能、ウパーヤ・コーサッラについての知恵を使いながら、私たちは少しずつ前進します。生存の繰り返しという車輪(輪廻)に繋ぎとめられている私たちは、育てるべきものを育て、捨て去るべきものを捨て去る途上にあります。ですから、自分自身の正しい理解の程度に応じて、可能な限り巧みに振る舞い、善を育て不善を捨て去るようにします。いつでもどこでも出来る限り賢く振舞うようにします。その時々でどのように振舞うのが良いかを知る技能を育てます。サマーディ(samādhi:三昧)の障害となる状況が生じたら、その障害をどのように扱えば良いかを知り、サマーディを維持します。これは簡単ではありません。でも、修行実践の中で、自分の裁量の範囲でウパーヤ・コーサッラを使うように懸命に努力することで徐々に前進し、ついには獲得する技能、アーヤ・コーサッラについての知恵が実を結んで最初の三つの足枷から解放されます。
  その時点で私たちはソーターパンナに達し、アラハトへと向かう流れに入ります。さらに、失う技能、アパーヤ・コーサッラについての知恵を得て、それが実を結んで残った七つの足枷から解放されるまで、私たちは懸命に努力して善を育て、不善を捨て去る作業を続けなければなりません。最も高いこの段階を得た時点で、アラハトに達します。もはや善なる力と資質を育て、不善な弱点を捨て去る必要は無くなります。この段階に達したら、不善は全くありません。修行は終わります。失う技能、アパーヤ・コーサッラについての知恵は、最も高いレベルの正しい理解です。
  失う技能、アパーヤ・コーサッラを育てるためには、獲得する技能、アーヤ・コーサッラが必要です。アーヤ・コーサッラが無ければアパーヤ・コーサッラへと進むことは出来ません。そしてこのプロセス全体をまとめて、適切な方法をとるという技能、ウパーヤ・コーサッラと呼んでいます。適切な方法をとるという技能が原因となって、覚りを得るという効果が現われ、最終的にアラハトとなります。これが効果です。
  ブッダの時代から、善良な生活を送り、適切な方法をとるという技能を育てて、ニッバーナ(nibbāna:涅槃)へ向かう道を歩んだ在家の人たちの話がたくさんあります。通常は、スダッタという億万長者の話がよく話題にのぼります。彼の寛大さは群を抜いており、その結果、アナータピンディカ(Anāthapindika)、恵まれない人たちに施しを与えるもの、という名前で知られるようになりました。アナータピンディカはとても高いレベルの寛大さを培い、若くして預流果の悟りを得ました。

デイヴィッド:彼はジェータヴァナ(Jetavana)僧院(祇園精舎)を寄進しましたよね。

ペーマスィリ長老:
そうです。ブッダとサンガを支えるために、アナータピンディカはジェータヴァナ僧院を建立、寄進しました。サーヴァッティ(Sāvatthi)という地方にジェータ(Jeta)王子が所有する園林がありました。この園林に僧院を建てたいと思ったアナータピンディカは、ジェータ王子にその園林を買い取りたいと申し出ました。
  「それは出来ません。この園林は売り物ではありません。」とジェータ王子は答えました。
  しかし、その園林を買いたいというアナータピンディカの願いは強く、王子を説得するために、彼は園林の土地を金貨で覆いつくすことを思いつきました。しかし、園林全体を埋め尽くす前にお金が尽きて、わずかな土地が残ってしまいました。その様子を見た王子は、園林を買いたいというアナータピンディカの熱意に感動しました。王子は園林を売ることを承諾しました。そればかりか、アナータピンディカが金貨で覆うことが出来なかった土地を無償で寄贈することにしました。
  アナータピンディカは、適切な方法をとるという技能、ウパーヤ・コーサッラ(upāya-kosalla:算段善巧)についての知恵、獲得する技能:アーヤ・コーサッラ(āya-kosalla:増益善巧)についての知恵を持ち合わせていました。彼は正しい理解と正しい思考が十分に備わっていたため、自信を持って必要な努力を重ねることができました。彼は間違いなく心を清める道を歩みました。
  ボーディサッタ(bodhisatta:菩薩)であるシッダ-ルタ ゴータマ(Siddhārtha Gotama)も、覚りの探求においてウパーヤ・コーサッラを使われました。様々な流派の修行者たちに教えを請いましたが、自分の探求に利するものは受け入れ、その障害になるものは拒否しました。修行の終わりに近づいた時、シッダ-ルタが交流したのは七人だけでした。瞑想指導者二人と、修行者五人です。瞑想指導者であるアーラーラ カーラーマ(.l.ra K.l.ma)とウッダカラーマプッタ(Uddaka R.maputta)は父子です。(訳者注:原文では「アーラーラ カーラーマとウッダカ ラーマプッタが親子」であると書かれていますが、一般的にはウッダカ ラーマプッタは名前の通り、ウッダカラーマの息子であるとされています)
  ボーディサッタであるシッダールタは適切な方法をとるという技能、獲得する技能、失う技能、この三つの技能全てについての知恵を培って覚りを得ました。ブッダはこの三つの技能についてディーガニカーヤ( D.gaNik.ya :長部経典) の中のマハーシーハナーダ スッタ(Mah.s.han.da Sutta:大師子吼経)で詳しく述べられています。
  私の話について来れていますか?

デイヴィッド:そう思います。アラハト(arahat:阿羅漢)は善を増強するのですか?

ペーマスィリ長老:
いいえ、アラハトの段階に達した人は不善行為から解放されているので、輪廻からの解脱のために意図的に善行為を増やす必要はありません。自分が清浄で、輪廻から解放されていることを知っています。結果として、善行為だけを行います。アラハトは聖なる八正道を歩み、捨て去るべきものを捨て、育てるべきものを育て、解脱の最終段階に達した人です。アラハトは、清浄道を完遂した人です。
  私たちもやがては善を培うことへの執着、不善を捨て去ることへの執着から離れなければなりません。なぜなら、こうしたことへの執着は、智慧を育てる上で邪魔になるからです。
   ダンマ(dhamma:法)は、サンサーラ(saṃsāra:輪廻)という危険な川を渡るためのいかだです。向こう岸に達したら、いかだを頭にかついで運ぶ必要はありません。

三つの態度

ペーマスィリ長老:
基本的な態度とは修行を進めるために必要な態度です。「基本的な」という用語は、あらゆる善に共通する根本的な部分ということを意味しています。要素を意味するダートゥ(dhātu:基)というパーリ語は一次的で、根本的で、基礎的な要素であり、これが元になってより大きな部分が形成されます。例えば、全ての物質的現象は地、水、火、風という四つの大きな基本要素からなりたっています。清浄道における態度の場合、「基本的な」の意味は適切に考える基本的方法、最初の原則のことであり苦しみから解放されるために必要となります。基本的態度には三つあります。

  1.アーランバ・ダートゥ(ārambha-dhātu):開始という基本的な態度
  2.ネッカンマ・ダートゥ(nekkhanma-dhātu):放棄という基本的な態度
  3.パラッカマ・ダートゥ(parakkama-dhātu):奮闘努力という基本的な態度

  この三つの基本的態度は精神的なエネルギーの段階を示しており、私たちはその段階を経て輪廻からの解放へと達します。最初の基本的態度は開始、アーランバ・ダートゥです。
  「開始」とは行為の始まりを意味します。心の成長に関して言えば、「開始という基本要素」とは、自分の心を善い方向に育てる必要があると自覚することを意味します。不健全なやり方を捨て去り、より健全なやり方を育てようとします。このようにして、私たちは心を育てるための努力を始めます。健全な行為を行うようにするなどの日常的な実践に着手し、実際に健全な行為を行います。そしてその背後にはいつもニッバーナに達したいという願いがあります。これが心を育てる仕事の始まりで、以後私たちは心を成長させる道を歩むことになります。
  心を育てる仕事を始めたいと思っても、その後は何もしない人もいます。自分の不善な部分を理解し、認識し始めます。自分の本質に関しての洞察が生じているのに、不善を捨て去るためのエネルギーを持ち合わせていないため、今までどおりの古いやり方に戻ってしまいます。不善行為がそのような人を引きずりおろしてしまいます。「開始という基本要素」が現われ、自分の不善なやり方を理解・認識し、多少なりともウパーヤ・コーサッラ、適切な方法をとるという技能についての知恵が生じています。しかしさらに前進するためのエネルギーが欠けているため、結果として心を育てることに関係のない様々な行為に手を染めます。「開始という基本要素」が始まってはいます。そしてニッバーナに達したいという基本的な願いが生じてはいるのですが、その後は何もしません。

デイヴィッド:そうした人たちは自分の不健全さを気に入っているのですか?

ペーマスィリ長老:
そうではありません。不健全さを捨て去るエネルギーが無いだけです。

デイヴィッド:不健全さを捨て去るためは、不健全さをそのままにしておくよりも多くのエネルギーが必要なのですか?

ペーマスィリ長老:
その通りです。より多くのエネルギー、そしてより大きな精神的努力が必要です。しかし彼らには必要な努力をするためのエネルギーがありません。道を誤り、ニッバーナ(nibbāna:涅槃)から遠ざかってしまいます。瞑想を止め、色々なことをします。心を清らかにする道を歩き始めた時には、配偶者、子供、財産に対する執着を捨てようとただ頭の中で考えます。しかし、実際にはそうした物事にしがみついたままです。そのため、エネルギーが出ず、先へ進むことが出来ません。ニッバーナへ向かうためには、アーランバ・ダートゥ(ārambha-dhātu:開始という基本的な態度)が必要です。その態度から初めてください。
  基本的な態度の二番目は、ネッカンマ・ダートゥ(nekkhanma-dhātu:放棄という基本的な態度)です。ネッカンマ(nekkhanma:放棄)は、欲、怒り、無知という自分の不健全さを認識し、理解し、捨て去り、手放すという意味です。不健全な物事を拒否し、先へと進みます。妻・夫や子供と一緒に在家の生活を送りながらネッカンマという態度を取り入れることが可能です。家庭での義務を適切にこなしながら不健全さを捨て去り、健全さを育てます。不健全なやり方に対する執着を捨てます。ネッカンマ・ダートゥは、心を清らかにする道を歩むという意味です。

デイヴィッド:ネッカンマ・ダートゥがある人はソーターパンナ(sotāpanna:預流果)の悟りを得ていますか?

ペーマスィリ長老:
ソーターパンナの悟りを得る、あるいは第一禅定を得ることを目標にして瞑想してはいけません。私たちは常にニッバーナを目指さなければなりません。ニッバーナに達するために歩みを進める過程でソーターパンナの悟りを得たのなら、それはかまいません。それは何の問題もありません。かごに卵を十個入れて運んでいる最中に誰かにぶつかって三つが割れたとします。それは事故です。アラハト(arahat:阿羅漢)の悟りに向かって歩む場合も同様であり、途中でたまたま最初の三つの足枷が壊れてソーターパンナ、預流果の悟りに達しただけです。私たちは十個の煩悩全てを破壊するように心を向けなければなりません。
  それが真の努力です。本当のヴァーヤーマ(vāyāma:精進)でありヴィリヤ(virya:精進)です。
  ネッカンマ・ダートゥを実現したら、私たちは先ほどお話した例え話の中の、小さいけれども賢い小鳥のようになります。象の目が見えないようにします。
  三番目の基本的な態度はパラッカマ・ダートゥ(parakkama-dhātu:奮闘努力という基本的な態度)です。奮闘努力とは、最大限の勇気と努力を振り絞って真理を追い求めるという意味です。究極の態度です。最後の努力を重ね、最高のエネルギーを注ぎ、アラハトになるという態度です。奮闘努力というこの態度により、私たちは障害を克服して、平穏を手に入れます。修行実践の中の成功体験が励みになって、私たちはさらに先へと進みます。努力すればするほど善い結果を得ます。このような形で前進しながら、私たちは自分を成長させ、ついにはニッバーナに達します。私たちは象を退治するのです。

三種類の克服

ペーマスィリ長老:
智慧、正しい理解、正しい思考がある程度確立したら、今度は不健全さを克服するために努力します。怠惰を乗り越えて立ち上がります。
克服には三種類あります。

  1.反対のことを行って克服する:タダンガ・パハーナ(tadańga pahāna)
  2.押さえつけて克服する:ヴィッカンバナ・パハーナ(vikkhambhana pahāna)
  3.破壊により克服する:サムッチェーダ・パハーナ(samuccheda pahāna)

  この三つの克服はシーラ(sīla:戒律)、サマーディ(samādhi:集中)、パンニャー(paññna:智慧)という八正道の三つの区分に相当します。
  最初は、健全さと不健全さを区別する智慧を身につけます。戒律を守り、適切な言葉をしゃべり、ふさわしい行いを為し、社会のルールを守ります。健全さに身を捧げます。しかしながら、無明のために、渇望したり不適切な言葉や行動などの不健全な行為をしたりする傾向がぶり返します。しかし私たちは自分を抑え慎みます。不健全な行為を抑えるために、正反対の健全な行為を行います。このように「反対のことを行って克服する」という方法をとります。智慧が育ってくると、渇望したり不健全な行為をしたりする傾向が煩わしいものであることを理解するようになります。そのため「反対のことを行って克服する」という方法の先に進む必要があると悟ります。そしてサマーディにより、渇望したり不健全な行為をしたりする傾向を押さえつけます。(集中を妨げる)五つの障害(欲、怒り、疑い、惛沈・睡眠、掉挙・後悔)を押さえつけます。
  五つの障害の支えが無くなれば、不健全な行為を行うことはなくなり、不健全な結果も生じません。
  しかしながら、「押さえつけて克服する」方法を実行しても、不健全さは表面下に埋没した形で残存します。不健全さがどのくらい深く埋没するかは私たちのサマーディの強さによって決まります。
  不健全さを根絶やしにするにはヴィパッサナー(vipassanā)瞑想の実践を通してパンニャー(paññna:智慧)を育てなければなりません。ヴィパッサナーが強化されると、全ての感覚対象が絶えず生滅を繰り返していることが分かるようになります。感覚対象の本質、すなわち常に変化しており(無常)、満足することはなく(苦)、実体が無い(無我)という本質を洞察することで私たちは道智を得ます。道智というパンニャーとは「破壊により克服すること」です。克服の最後の項目です。不健全さは破壊されます。


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