月刊サティ!
ぺイマスィリ長老と語る瞑想修行 |
2016年1月~2016年9月 |
ペーマスィリ長老:シーラ(sīla:戒律)、サマーディ(samādhi:集中)、パンニャー(paññna:智慧)、すなわち「反対のことを行って克服する」、「押さえつけて克服する」、「破壊により克服する」という三種類の克服は徐々に育っていきます。適切な方法をとるという技能、ウパーヤ・コーサッラ(upāya-kosalla:算段善巧)を上手に使いこなすことで、私たちは反対のことを行い、押さえつけることで不健全さを克服します。努力すればするほどより多くの不健全さが克服されます。修行実践はこのようにして進んでいきます。 不健全さを克服する技能が育ってくると、やがて不健全さの一部が破壊される点に達します。十個ある足枷のうちの最初の三つから解放され、ソーターパンナ(sotāpanna:預流者)となり、獲得する技能、アーヤ・コーサッラ(āya-kosalla:増益善巧)を手に入れます。ソーターパンナの段階で不健全さの一部は破壊されますが、全て無くなるわけではありません。私たちをサンサーラ(saṃsara:輪廻)に結びつける足枷がまだ七つ残っています。 残った七つの足枷を捨て去るために、「反対のことを行って克服する」実践を続けます。「押さえつけて克服する」実践を続けます。より多くの洞察を獲得し、智慧を増大させます。繰り返し繰り返し、絶えることなく「反対のことを行って克服する」実践を続けます。繰り返し繰り返し、絶えることなく「押さえつけて克服する」実践を続けます。そして少しずつ足枷から離れていきます。「反対のことを行って克服する」、「押さえつけて克服する」実践を、何度も何度も繰り返して高めていきます。瞑想実践を勧める上で、努力はバランスがとれて正しいものでなければなりません。それは、努力が正しい理解と正しい思考に基づいたものでなければならないということです。現象を明瞭に観察すれば自然に正しい努力が生じます。 正しい理解と正しい思考に基づかない努力はバランスを失い、苦しみをもたらします。例えば、バランスを欠いた努力は修正のきかない見解、ミッチャーディッティ(micchāditthi:邪見)を作り出します。必ず善行を行わなければならない、瞑想修行する時は常に白い服を着なければならない、自分の考えは正しく他人の考えは間違っている、といった見解です。このような瞑想者はたくさんいます。常に自分独自の見方で他人を観察します。彼らは自分だけが正しくて他は皆間違っていると考えます。バランスが取れていない努力の結果としてこうした修正のきかない見解が生じます。 努力のバランスがとれていないと修行者は自分自身を痛めつけるアッタキラマタ(attakilamatha)や、逆に官能的快楽に過度にのめりこむカーマスカ(kāmasukha)といった極端な修行方法を用いるようになります。自分自身を痛めつける修行法を実践する場合は断食したり、睡眠時間を減らしたりといった苦痛を伴う方法を使い、不健全さを抑えてそれを捨て去ろうとします。自分を否定し痛めつけることで官能的快楽への執着を取り除こうとします。身体を洗わず、適切に管理しないまま長期間過ごします。これが、苦痛に満ち、自分を苛む方向へと進んだ場合の努力です。 自分を痛めつける修行を実践する人は確かに心と身体で努力しています。しかしながら、着手、放棄、勇気ある努力といった基本にあてはまりません。なぜならこの種の修行はニッバーナ(nibbāna:涅槃)へと導くことが無いからです。輪廻からの解放を目指していますが、方法が間違っているため苦しみ続けます。 官能的快楽に過度にのめりこむ方法は、自分自身を痛めつける方法の対極にあります。官能的快楽への耽溺は確かに楽しみをもたらしはしますが、粗野で、長続きせず、不満がつのります。 自分自身を痛めつける方法も、官能的快楽に過度にのめりこむ方法も、苦しみの終わりへと導くことはありません。実際、この二種類の努力は苦しみを減らすどころか増やしてしまいます。ブッダは次のように説かれました。 「この二つの極端な修行は役に立たず、益がありません。このような修行は止めるべきです」 しかしながら、もし行うのであれば官能的快楽に過度にのめりこむよりも自分自身を痛めつける方がまだましであるとも説かれました。サンユッタ・ニカーヤ(SamyuttaNikāya:相応部経典)のダンマチャッカッパワッッターナ経(DhammacakkappavattanaSutta:初転法輪経)に記録されたブッダの最初の説法で中道について説明されています。中道とは聖なる八正道のことです。自分自身を痛めつける方法と官能的快楽に過度にのめりこむ方法の間に位置します。苦しみを減らし、苦しみの終滅へと導くのはこの中道だけです。 正しい努力は中道、すなわち聖なる八正道の核心となります。それは、現象を正しく理解することを意味します。また輪廻からの解脱を達成するために正しく思考することを意味します。常に心と身体で努力することで不健全さを慎み、捨て去ります。不健全さから離れるために必要な態度と技能を培うために、懸命に努力します。 私たちは、アーランバ・ダートゥ(ārambha-dhātu:開始という基本的な態度)から初めて適切な方法をとるという技能、ウパーヤ・コーサッラについての知恵を得ます。そしてネッカンマ・ダートゥ(nekkhanma-dhātu:放棄という基本的な態度)と、獲得する技能、アーヤ・コーサッラへの知恵へと進み、最後にパラッカマ・ダートゥ(parakkama-dhātu:奮闘努力という基本的な態度)により、失う技能、アパーヤ・コーサッラ(apāya-kosalla:損減善巧)についての知恵を得て、心を清める修行のゴールであるニッバーナに達します。 心の身体の努力、態度、克服、技能、そうした異なる要素が集まり正しい努力となります。 シッダールタ王子は正しい努力を実践しました。最初にブッダになるという目標を掲げ、それを達成するために怠けることなく辛抱強く(不放逸:appamāda、アッパマーダ)努力を重ねました。様々な師の指導を受けて瞑想実践し、次いで、独力で瞑想修行を続け、瞑想の障害を克服し、完璧なネッカンマダートゥを育みました。適切な方法をとるという技能、ウパーヤコーサッラについての知恵と、獲得する技能、アーヤコーサッラについての知恵を得たシッダールタの態度はやがて「勇気ある奮闘」へと変わりました。そして、とてつもない努力、最大限の努力を重ねて失う技能、アパーヤコーサッラについての知恵を獲得し、苦しみからの解放を成し遂げました。シッダールタ王子はブッダになられたのです。 私たちもまた熱心に努力しなければなりません。必要な心と身体の努力を続けることにより適切にふるまい、正しい集中を育て、智慧を増大させます。熱心さは私達を智慧に結びつける強い幹となります。マンゴーの実とマンゴーの木を結びつける幹は太くはありませんが、とても強いので折れることがありません。私たちの熱意が本物であれば、智慧につながり、アラハト(arahat:阿羅漢)の段階に達します。 怠け(放逸:pāmada、パマーダ)は勤勉(不放逸)の反対です。無関心で無気力となった人は適切にふるまう努力を止めてしまいます。健全な行為を行う努力を止めてしまいます。 怠けは、正しい努力が欠けていることを意味します。正しい努力が無ければ、正しい気づきは決して生じません。正しい気づきが無ければ、正しい集中も生じません。そして正しい集中が無ければ智慧は生じません。 スリランカでは芳しい花々の中で、ジャスミンは最も香りが良いとされています。また芳しい木の根の中ではカルアギルという木の根が最も香りが良いと考えられています。ジャスミンの花や、カルアギルの根の香りが際立っているのと同様に、勤勉は全ての健全さの中でも際立った存在です。勤勉が私たちの生活の前面に出てこなければなりません。勤勉によって正しい努力を重ね、智慧を育て、修行を進めて、苦しみからの解放を為しとげます。 「これは、生命を清めるため、悲哀と苦悶を乗り越えるため、苦しみと悲しみを無くすため、真理に適った修行を成し遂げるため、涅槃を悟るための直通の道です。それは四つの気づきの土台です」ブッダ―サティパッターナスッタ(Satipaṭṭhānasutta:念処経) 8.正しい念 ペーマスィリ長老:八正道の七番目は正しい気づき、サンマーサティ(sammā-ssati:正念)です。サティ(sati:念)はクーサラ(kusala:善)すなわち善なる心の状態を表す言葉です。それは善と不可分に結びついた心の状態で、いかなる危害が混じることも触れることもありません。私たちが善なる行為を行う際にはサティが存在します。物を施すときにはサティがあります。親切にする時にもサティがあります。瞑想センターを維持したり、五戒や八戒を守ったり、八正道を実践したりする時もサティがあります。 アングッタラニカーヤ(ańguttaranikāya:増支部経典)の中でブッダは「善なる心の状態全てがサティです」と説かれました。全てです。 見返りを期待せず施しを行うことは、サティとともに行われる行為です。見返りを期待せず手助けする時もサティとともに行います。見返りを期待せず瞑想堂の清掃をする時、サティとともに掃除します。そして徳のある行為を何も期待せず行う時もサティとともに行います。サティにより何も期待せず五戒や八戒を守り、サティにより何も期待せず八正道を実践します。 何かを期待して行われた行為は、サティとともに行われてはいません。物を施す行為も、将来良い生存領域に生まれ変わりたい、賞賛されたい、有名になりたい、何かを手に入れたいといった期待がある場合は、完璧に善なる施しとは言えず、サティとともに行われてはいません。一般的には施しはどのようなものであれ善行為ですが、何かを期待した時はサティがありません。同様に、戒律を守る場合も永遠に生きられる世界に行くとか、未来が好ましいものになって欲しいとか期待する場合、心の状態はサティのレベルに達していません。その時点で私たちの心に無明(真理に対する無智)が混じってしまいます。戒律を守ろうとする努力は善い結果を生む心の状態ではありますが、何かを期待した時点でサティは無くなります。 善なる心の状態という概念はシッダールタが覚者、ブッダになられる前にも存在していました。人々は戒律を守り、施し、親切、共感を実践していました。善なる心の状態を育てる伝統が既に存在しており、その心の状態をサティと呼んでいました。永遠に幸せに暮らせる世界に生まれ変わることなど、人々は良い結果を得るためにサティを実践しました。しかし、良い結果を得ることよりもレベルが高い目的のためにサティを実践することはありませんでした。 シッダールタはこのようにサティを実践しても、身体は老いてやがて死ぬだけであり、輪廻の中で永遠に苦しみ続けるだけであると悟り、輪廻から解放されるための納得のいく方法を探し始めました。そしてとうとう、老いと死から解放されるためには、身体、身体の行為、身体と心が経験すること、心が考える全てのことを善なる、そして手際のよい方向へと仕向けなければならないということを発見しました。身体と心をこのように訓練することでシッダールタは覚りを得てブッダになられました。 そしてその後、しかるべき人たちに輪廻からの解放をもたらす真理を説き続けました。このように教え諭した結果、サティを実践する目的は、老いと死に支配され因縁づけられた結果を得ることから、老いと死の苦しみを超越している境地、つまり因縁のない涅槃を得ることへと変わりました。ブッダはこうした実践方法をアリヤンサティ(ariyansati:聖なる気づき)、サンマーサティ(sammā-sati:正しい気づき)と呼びました。 サティの実践により私たちは輪廻の鎖を断ち切ってそこから解放されます。サティはいかなる期待も抱かないことを意味します。そこにあるのは、輪廻の中での生存は苦しみであり、老いと死をもたらすだけであるという考えだけです。心にあるのは輪廻での生存を乗り越え、克服しようという考えだけです。心に浮かぶ思考はたった一つ、私たちが探し求めるのは輪廻を乗り越え、老いと死を乗り越えることだけです。 注意 ペーマスィリ長老:注意を払うという意味である、マナシカーラ(manasikāra:作意)は、気づきという意味のサティと類似しています。しかしながらマナシカーラは現象を観察するという心の働きを表しているだけです。観察するという働きに過ぎません。マナシカーラを通して私たちは心を対象に向けてそれを経験します。 部屋の中にいる場面を想像してみてください。中にはたくさんの人がいて入り口には門番が一人立っています。門番の仕事は部屋のドアを開けて閉めることです。それが彼の仕事の全てです。他のことはしません。門番は歩き回ったり部屋の中の人とおしゃべりしたりすることはありません。部屋の外をうろつくこともありません。入り口に立ってドアを開けては閉めるだけです。部屋は私たちの心です。部屋の中にいる人たちはチェータシカ(心の要素、心所)であり、ドアを開け閉めする門番がマナシカーラという働きです。 マナシカーラという働きを使うことにより私たちは経験する対象に心を向けます。注意を払うこと、マナシカーラとは、心を様々な対象に向けることに過ぎません。それは中立的な働きであり、善なる行為であれ、善でも不善でもない行為であれ、不善な行為であれ、それを支えます。これが生命の性質です。うなぎは蛇のような頭と魚のような尻尾を持っています。蛇に出会うと頭を蛇の方向に向けます。魚を見ると尻尾を魚の方に向けます。マナシカーラもうなぎのようなものです。ある時は善なる方向に向かい、またある時には不善な方向に向かいます。 デイヴィッド:熟練した泥棒の例え話があります。 ペーマスィリ長老:そうですね。泥棒が家に盗みに入るときには注意という働き、マナシカーラを使います。歩く、喋る、その他あらゆる動作に気を配ります。屋根から家に侵入する場合もあるでしょう。その泥棒がミスを犯して捕まったとすると、私たちは「おい、お前にはサティが無いな」と言います。これは正しくありません。なぜならサティのある行為には何の期待も無いからです。泥棒は当然ながら何かを得ることを期待しています。ですから泥棒の注意はサティではありません。善行為を行う際にも何も期待しないことはニッバーナ(nibbāna:涅槃)の原因となります。 デイヴィッド:「何も期待しないことはニッバーナ(nibbāna:涅槃)の原因となります」とは過激ですね。 ペーマスィリ長老:瞑想を始めたばかりの人が何かを忘れた時は、「あなたにはサティ(sati:念)がありません」と私たちも言います。その人が気づきを育てることが出来るようにとの願いからそのように言います。しかししばらくすると何がサティで、何がマナシカーラ(manasikāra:作意)なのか説明しなければならなくなります。しかし、瞑想修行を始めたばかりの人には、「あなたにはサティがありません」と言います。 私は今、たくさんのことをしています。そしてメガネをテーブルの上に置きます。私たちは議論を終え、私は立ち上がってどこかに行きます。私は、たった今、テーブルの上に置いたメガネを忘れてしまうかもしれません。 「ペーマスィリにはサティが無い。あの先生には気づきが無い」と誰かが言うかも知れません。しかし、そのように言うのは正しくありません。私の物忘れとサティが途切れたこととは異なります。私がどこにメガネを置いたかに注意を払っていなかったことについてはその通りですが、それでも私のサティ、善なる心の状態は続いています。忘れることはサティが途切れることだと考える人が多いですが、私たちはそのような言い方はしません。サティを正しく実践している優れた瞑想者であっても時々物忘れします。入浴した後で石鹸を忘れたり、歯磨きをした後で歯ブラシを忘れたりします。石鹸や歯ブラシを忘れるのは、注意、すなわちマナシカーラが石鹸や歯ブラシに向いていないからです。その代わりに、瞑想者は注意を心など何か別の経験対象に向けています。瞑想者は単に注意という能力を石鹸や歯ブラシに向けていないだけであり、その結果として忘れるのです。 注意を払うこと、マナシカーラとは、物質であれ、物質で無いものであれ、経験対象にただ意識を向けているという能力です。それ以上のものではありません。注意という能力により私たちは心を一つの経験対象から別の経験対象へと向けます。私たちの注意は一つの対象から別の対象へ、そしてまた別の対象へと常に変化しています。生じている物事にただ注意を向けるという能力です。もし、生じた物事を全て記憶することに注意を向ければ、全てを記憶することになります。注意を払うこと、マナシカーラは純粋に心を経験対象に向けるだけの働きです。私たちはどのようなものであれ注意を向けた対象に心を結び付けます。その対象は善、不善、そのどちらでもない場合の三通りあります。マナシカーラは必ずしも善なる心の状態と結びつくわけではありません。サティとは異なります。 サティは善なる心の状態です。生命が善なる意識状態にあるということです。サティは有益な経験だけに伴います。有害な経験に伴うことは決してありません。サティを絶やさず、行動の全てに気づいている人は、心を善なる状態から離れさせることはしません。心を堕落させることはしません。常に善なる経験対象に注意を向けています。心の門番は善にのみ門戸を開きます。不善に門を開くことは決してありません。石鹸や歯ブラシを忘れた人が、優れた瞑想者でサティを正しく実践している場合、彼は常に注意を有益な対象に向けています。彼が石鹸を忘れるのは単に注意が石鹸に向かっていなかっただけです。石鹸や歯ブラシを忘れたからと言って、心が善なる意識状態、サティから堕落したというわけではありません。石鹸などの特定の対象に注意が向かっていなかった、ただそれだけです。それ以上のものではありません。 瞑想に関する西洋の翻訳本にサティの説明が書かれているのを読んだことがありますが、その内容には全く賛同できません。そのような本の1つには、サティの概念を説明するために、瞑想を学んでいる生徒とその指導者のやり取りが書かれています。 「瞑想しましたか?」 「はい、私はサティを実践しました」 「靴はどこに置きましたか?」 「ドアのそばです」 「ドアのどちら側ですか?」 「憶えていません」 「それならあなたにはサティはありません。出ていってください」 そう言って、指導者は生徒を追い出します。 その生徒が優れた瞑想者で、全ての行為をサティとともに行ったとしても、靴のことを忘れることはあり得ます。靴を脱いだ時に、善なる心の状態を、靴を脱ぐことに向けていなかっただけかもしれません。それ以外のものではありません。優れた瞑想者は入浴する時、歯を磨く時、靴を脱ぐ時などあらゆる行為を有益な心の状態で行うので、完璧なサティとともに行為を行っています。この生徒が靴のことを忘れたのは、彼のサティが、例えば心など他の対象に向かっていて、靴には向かっていなかったためかもしれません。この生徒に欠けているものがあったとしたらそれはサティが靴に向かっていなかったことだけかもしれません。もしそうであればこの生徒の心は善から堕落してはいません。彼は確かにサティを保っていたことになります。 サティとマナシカーラという二つの概念を、まるで同じものであるかのように教えるのは大きな問題です。サティとマナシカーラとは異なります。善なる心の状態は、ただ単に何かに注意を払うことと同じではありません。 私がこの二つの違いを理解するまで長い時間がかかりました。若かった頃、私は全ての行為を有益な心の状態で行うように努めました。何も期待せず、心が有害な状態に陥らないようにしました。しかし、時々所持品をどこに置いたか忘れてしまうことがありました。 私の指導者は「君にはサティが無い」と言いました。 私は尋ねました。「それならサティとは何でしょうか?全てのことを憶えているというのは何でしょうか?」 私は、不善で有害な行為を行っている際に、それに十分な注意を向けていられることが分かっていました。また後からそうした有害な行為を思い出せることも分かっていました。それで、どんなに多くの瞑想を行っても、「サティは単に注意を向けて憶えることである」ということに対する疑いが晴れませんでした。そしてその疑いは私にとって問題となりました。私は指導者の先生達を尊敬していました。私を正しく指導してくれていたからです。しかし、注意と記憶を強調する点に関してだけは問題でした。 サティとマナシカーラの違いが理解できたのはティピタカ(三蔵)を読むようになってからです。ブッダはサティとマナシカーラを別々のものとして説かれていました。マナシカーラはサティとは全く異なります。マナシカーラは私たちの状態と行為を単に支えるだけです。守衛、すなわち注意という能力は、心の諸要素に対して私たちの心の門を開いたり閉じたりするのが仕事です。それだけです。ただそこに居て門を開いたり閉じたりするだけです。マナシカーラは私たちが行動する際に、それが有益であれ、有害であれ、そのどちらでもないものであれ、全ての行為の手助けをします。マナシカーラが私たちの有害な行為を支えるときは、無明と結びついています。一方、サティは無明と結びつくことは決してありません。善なる行為だけを支えます。サティはパンニャー(智慧)とだけ結びつきます。パンニャー(智慧)以外にサティに結びつくものはありません。絶対にありません。サティとマナシカーラの違いはこの点にあります。 経験する対象に熱心に注意を向ける時、高いレベルの気づきが培われ、あたかもサティ(sati:念)のように機能することは認めます。何年も前、私はこのマナシカーラ(manasikāra:作意)に重点を置いた訓練を受けました。そして今は、「これから先、全ての行為に十分な注意を向ける」と決意すれば、全ての行為を、注意を絶やさずに行うことが出来ます。瞬きを含む全ての行為を十分な注意を持って経験し、後からほとんどの行為を思い出すことが出来ます。しかしこれはサティではありません。智慧が育つことはありません。進歩もありません。 心の成長には、注意を不善な対象から善なる対象へと向けることが必用となります。そうする時、注意はヨニソマナシカーラ(yonisomanasikāra:如理作意)と呼ばれます。そして、ヨニソマナシカーラはサティの成長を支えます。サティは常に善なる心の状態を伴うからです。注意を払うだけであれば簡単で自動的に行うことが出来ます。しかしヨニソマナシカーラと一緒に、完璧に善なるやり方で注意を払うことは自動的には生じません。努力と心の成長が必要です。 ブッダは500人の盗賊に説法されたことがあります。盗賊たちは既に高いレベルの注意という能力を身につけていました。彼らに必用なのは有害な注意を有益な注意に転換することだけでした。ブッダの話を聞いた盗賊たちは期待と渇愛を手放して悟りを得ました。 明瞭な理解 ペーマスィリ長老:ブッダがサティという言葉で表現される際には一般的にサンパジャンニャ(sampajañña:正知)を含んでいます。サンパジャンニャの意味は存在の本質を明瞭に観察することです。私たちはサンパジャンニャにより、経験が生じる際にそれを知り、経験が滅する際にそれを知ります。サンパジャンニャとは明瞭な理解です。そこには透明な意識があります。 サティとサンパジャンニャを組み合わせたサティ・サンパジャンニャ(sati-sampajañña:正念正知)は善なる心の状態と透明な意識が十分に開発されていることを意味します。善から逸脱した心の状態が生じることは決してありません。全ての行為に対する完璧な気づきがあり、行為の最中にその行為を、智慧をもって考察します。このように透明さが十分に開発されると、私たちの行為、感受、心の状態は全て善になります。私たちの精神的な活動の過程で生じる行為と経験のそれぞれが善で有益なものになります。サティ・サンパジャンニャとともに仕事をすれば、正しい理解と正しい思考でその仕事を行うことになります。精神的現象と物質的現象を区別し、智慧とともに仕事をします。 毎朝太陽が昇り夜の闇を追い払います。夜の間には見えなかったものが見えるようになり、それが何であるかについて疑いを抱くことはありません。混乱は生じません。朝日が朝露に当たると、朝露は見事にそれを反射します。朝露の中で朝日の光が輝きます。 太陽はニッバーナ(nibbāna:涅槃)であり、暗闇は無明です。朝露はサティがある時の心です。そして明瞭に観察することがサンパジャンニャです。明瞭に観察すること、そして清らかさの二つが組み合わさったものがサティ・サンパジャンニャです。サティ・サンパジャンニャという清らかで透明な心はニッバーナという光に照らされています。輝きを持った心の状態です。この心の状態はニッバーナを反射しているだけであり、本当の意味でニッバーナに達したわけではありません。それでもニッバーナのように輝いています。無明が混じることがないからです。智慧が満ちた状態であり、経験に関して混乱することがありません。経験する全ての対象を混乱することなく知ります。ニッバーナという光に包まれ、サティ・サンパジャンニャとともにある時、私たちは経験の真の性質を知ります。無明の闇は払われ、対象を透明さと理解をもって対象を観察します。 泥水が混じった朝露もあります。それは朝日を反射することはありません。それは無明が混じった心です。サティ・サンパジャンニャが無ければ、善なる心の状態はありません。清らかな心もありません。泥水が混じった朝露はニッバーナのように輝くことはありません。決してありません。 サティ・サンパジャンニャを実践すれば、実生活における私たちの行為は常に巧みなものとなり、人生に困難さは生じません。瞑想実践と日常生活は同じ1つのものであり、不可分の関係にあるとみなされます。瞑想実践を日常生活のあらゆる場面に取り入れることで、摩擦を起こすことなく、あらゆる行為をこなすことが出来ます。常に物事を明瞭に観察し、期待することが無いからです。サティ・サンパジャンニャがある人は朝露のようなものであり、ニッバーナの光が輝きます。 サティ・サンパジャンニャがあるのは二種類の人です。アラハト(arahat:阿羅漢)、そして全ての行為を何も期待することなく気づきながら行う瞑想者です。執着や嫌悪は無く、ただ明瞭に観察するだけです。苦しみから開放されるためにはサティ・サンパジャンニャを育てる必用があります。 四つの気づきの土台 ペーマスィリ長老:サティパッターナスッタ(Satipaṭṭhānasutta:念処経)に書かれているサティパッターナ・ヴィパッサナー(satipaṭṭhāna-vipassanā)の教えの中で、ブッダはサティ・サンパジャンニャを育てる方法を説明しています。身体、感受、心の状態、心の対象をいかにして善で有益な方向に向けるかを説明しています。老いと死を克服するためにサンマー・サティ(sammā-sati:正念)へと向きを変える方法を教えています。サティパッターナスッタの中で仏陀が説かれた瞑想実践は幅広い項目を含むため、象の足跡に例えられています。他の全ての動物の足跡は象の足跡の中に納まってしまいます。サティパッターナ(satipaṭṭhāna:念処)の実践はまた大きな鉢にも例えられています。他の全ての実践がその中に納まってしまうからです。ここではサティパッターナスッタについて詳しく議論することはしません。サティパッターナスッタに書かれたサティの実践に限定して討論したいと思います。 サティとパッターナ(paṭṭhāna:処)という二つのパーリ語が組み合わさったものがサティパッターナ(satipaṭṭhāna:念処)です。ご存知のようにサティとは全てに気づいている健全な心の状態です。パッターナには、確立すること、参列すること、仕えること、という意味があります。従ってサティパッターナの文字通りの意味は、全てに気づいている健全な心の状態に対する注意を確立すること、となります。しかしながら、通常は「気づきの土台」と訳されています。 サティパッターナスッタには四つの気づきの土台が説かれています。 1.身体に対する気づきの瞑想、カーヤーヌパッサナー(kāyānupassanā:身随観) 2.感受に対する気づきの瞑想、ヴェーダナーヌパッサナー(vedanānupassanā:受随観) 3.心の状態に対する気づきの瞑想、チッターヌパッサナー(cittānupassanā:心随観) 4.心の対象に対する気づきの瞑想、ダンマーヌパッサナー(dhammānupassanā:法随観) サティを育てるためには、身体、感受、心、心の対象という四つの土台に向けた有益な注意、ヨニソマナシカーラを育てなければなりません。四つの土台に有益な注意を向けることで、誤って有害な対象に注意を向けてしまうのを防ぐことが出来ます。 身体に対する気づきの瞑想 ペーマスィリ長老:サティパッターナスッタに列挙されている四つの土台の一番目は、カーヤーヌパッサナーです。カーヤ(kāya:身)は身体を、アヌパッサナー(anupassanā:随観)は見ること、観察すること、気づきを絶やさず瞑想することを意味します。この二つの言葉を合わせたカーヤーヌパッサナーとは気づきを使って身体を対象に瞑想するということです。 身体に対する気づきの瞑想により、全ての行動を善、すなわちサティ(sati:念)する方向に変えていきます。これを成し遂げるための訓練には複数あります。 ・呼吸に対する気づき、アーナーパーナサティ(ānāpānasati:出入息念) 身体に対する気づきの瞑想、カーヤーヌパッサナー(kāyānupassanā:身随観)とは、自分の身体の動きを知ること、そして物質としての身体の真実を知るという意味です。身体に対する気づきの瞑想をする時には、私たちは現在に留まっています。真理は過去にはありません。未来にもありません。真理はたった今の瞬間にしかありません。何かをしている時に、それをしている事を知ります。お茶を飲む時には、お茶を飲んでいることを完璧に気づきます。ペンを手に取る時には、ペンを手に取っている事を知ります。ペンを動かしている時には、ペンを動かしている事を知ります。ペンを置くときには、ペンを置いていることを知ります。私たちは現在に留まります。過去は過ぎ去っています。様々な訓練を通して私たちは現在に留まります。 感受に対する気づきの瞑想 1.安楽という身体の感受、カーイカスカヴェーダナー(kāyikasukha-vedanā:身の楽受)
2.苦しいという身体の感受、カーイカドゥッカヴェーダナー(kāyikadukkha-vedanā:身の苦受) 感受は共通した要素です。最初の二つの感受、安楽という身体の感受、苦しいという身体の感受は身体、物質すなわちルーパ(rūpa:色)に関連します。次の二つ、安楽という心の感受、苦しいという心の感受は心理学的な感受、精神すなわちナーマ(nāma:名)に関連します。安楽という心の感受には喜びが含まれ、苦しいという心の感受には欲求不満と怒りが含まれます。五番目の種類の感受は苦しくも安楽でもない感受です。中立的な感受です。苦しくも安楽でもない身体ないし心の感受です。よくバランスがとれた心、嫌悪や執着から離れた心です。 デイヴィッド:圧迫感とはどういう意味ですか? ペーマスィリ長老:私たちは身体や心に重荷を背負うと圧迫感を感じます。この圧迫感は安楽であることもあれば、苦しいものであることもあります。例えば、友人が肩の痛みを訴えた時にあなたは苦しさを感じます。誰かがあなたと異なる見解を主張するとやはり苦しさを経験します。どちらの場合も精神的な苦しさを経験します。もちろん、なんらかの身体の苦しさを感じる場合もあります。 デイヴィッド:これは心身症的な苦しさですか? ペーマスィリ長老:身体に何らかの苦しさを経験することはありますが、上記の二つの状況においては主に精神的な苦しさを経験しています。 デイヴィッド:坐っている時の痛みは嫌いです。 ペーマスィリ長老:感受を経験するのは自分自身であり、他人が多くを語ることは出来ません。しかし、執着することなく自分の感受をよく調べて、「痛みとは何なのか?」と自分に問いかけてみてください。 デイヴィッド:苦しさを安楽さに変えるのですか? あるいは苦しくも安楽でもない状態へと変えるのですか? ペーマスィリ長老:身体の苦しさを経験したとしても、心の苦しさまで経験する必要はありません。身体の苦しさが生じても、心は苦しみません。身体の苦しさという感受を認識し、その苦しさという感受の本質を知ります。このようにすることで苦しさを巧みさへと変えていきます。 デイヴィッド:苦しさを保留するということですか? ペーマスィリ長老:これについて詳しく説明するためには、サティパッターナ スッタの内容にもっと踏み込む必要があります。ここではサティ、八正道のサティ(sati:念)に限定して議論したいと思います。 心の状態に対する気づきの瞑想 ペーマスィリ長老:サティパッターナスッタに説かれている三番目の気づきの土台はチッターヌパッサナー(cittānupassanā:心随観)です。チッタ(cittā:心)は心、意識、意識の状態と訳されています。ですから、チッターヌパッサナーの原意は気づきを絶やさずに、心を対象にして瞑想するという意味になりますが、チッターヌパッサナーは心の状態、意識を対象にした気づきの瞑想です。どのような対象であれ、それを覚知し、理解するのは心であるということを知ります。 デイヴィッド:テープレコーダーについての瞑想が身体に対する気づきの瞑想、カーヤーヌパッサナー(kāyānupassanā:身随観)になるのですか? 心の対象に対する気づきの瞑想 ・五つの集中の障害、ニーヴァラナ(nīvaraṇa:蓋) ペーマスィリ長老:サティ(sati:念)が十分に開発されると、心の対象に対する気づきの瞑想の領域に入り、それが瞑想の大部分を占めるようになります。心は水であり、思考は色であると考えてみてください。純粋な水には色も、臭いも、形もありません。水に色素を入れると、水はその色に染まります。しかしながら一緒に混ざっても水と色素は別物です。水と色素は異なる別々の実体です。私たちが何かを考える場合も同じで、心は思考の色に染まります。思考は、ニッバーナ(nibbāna:涅槃)に達する支えになることもあれば、それを妨害することもあります。瞑想の障害すなわちニーヴァラナとなる思考には、官能的快楽による興奮、悪意、怠惰と無気力、不穏と心配、疑い、が含まれます、思考が支えになるにせよ、障害になるにせよ、心と思考はやはり異なります。心と思考は全く別物です。 デイヴィッド:私はしょっちゅう怒りが生じます。 |