月刊サティ!

Wslking the Tightrope

           ぺイマスィリ長老と語る瞑想修行 
                          
  デイヴィッド・ヤング


2014年4/5月~2014年12月

ペーマスィリ長老:いまだかって誰も車を作ったことが無いとしたら渇望はどこにありますか、執着はどこにありますか。

デイビッド:ありません。

ペーマスィリ長老:
何かが存在すると、そこには苦しみがあります。何も存在しなければ苦しみは滅尽しどこにもありません。五蘊が存在すれば、それに対する執着が生じ、苦しみが現れます。何もなければ苦しみはありません。あるのは滅尽(ニロ-ダ:nirodha)だけです。
  滅尽の第二の特徴は、心を乱すものが無いこと、ヴィヴェーカ(viveka:遠離)です。本来は心を乱すものが無いことを意味するヴィヴェーカという言葉を、スリランカの人々は一般的に休息、つまり、仕事を休んでほんの少しのことしかしないという意味で使っています。
  例えば、子供たちは、お父さんが休暇に入っていることを、お父さんはヴィヴェーカ中だと言います。父親は、くつろいで、新聞を読み、煙草をふかし、あれこれと考えます。私たちがヴィヴェーカと言う時には仕事を休んで休暇をとるという意味で使うのが一般的です。しかし、ブッダはヴィヴェーカを別の意味で使っています。
  「ヴィヴェーカとは、煩悩が無いことである」とブッダは説かれました。実際、父親は休暇をとっていても心を乱すものから離れているわけではありません。何故なら心を乱し続けているからです。煩悩を作り出し、重荷を背負っています。心を乱すものから離れていること、それは禅定の中にさえも見出すことができません。何故なら、禅定状態に入っても、やはり重荷、心を乱すものが残っているからです。カーマローカ(kāma-loka:欲界)では、一般の人々は、食べ物、車、家、子供、夫や妻、あるいは何らかの所有物など感覚的な快楽について考え、心が重くなります。一方、禅定に入り心が没入状態になっても、それに特有な心の重荷があります。例えば、第一禅定に達した人は尋、伺、喜、楽、一境性という禅支を手放すまいと頑張ります。こうした禅支を渇望しそれに執着してしまうかもしれません。欲界で見られる心の乱れや重荷とは異なりますが、それでもやはり心の乱れや重荷になります。禅定を成し遂げた人は色界に再生できます。つまりマハーブラフマ(mahābrahmā:大梵天)にさえなれます。しかし、それでも、心を乱すものや重荷が少しあります。
  シッダールタは、心を乱すものや重荷全てからの完全に離れようと努力しました。
  少しずつですが、私たちもまた、心を乱し重くする煩悩という荷物を降ろそうとしています。ゆっくりですが、心を乱すものから離れること、ヴィヴェーカを少しずつ増やしています。少しずつですが、私たちは、自由を、無執着を、重圧の無さを、不安からの自由などを手に入れています。預流果の悟りを得た聖者は、多くの荷物を降ろしています。阿羅漢の悟りを得れば、全ての重荷を降ろします。煩悩という重荷を全て降ろした時、私たちは障害から解放され、本当の意味でヴィヴェーカに住することになります。その時こそ、真に安らいでいると言うことができます。それが本当のくつろぎです。煩悩の無い人は誰でも、安らいでいます。障害から解放されています。これは真実であり、虚偽ではなく、他のなにものでもありません。
  だれも、それを変えることはできません。これが真実なのです。
  苦しみの滅尽、ドゥッカニローダ(dukkha-nirodha)の次の特徴は、アサンカタ(asaṇkhata:無為)、すなわち条件付けられていないということです。ドゥッカ(dukkha:苦)の特徴はサンカタ(saṇkhata:有為)、すなわち条件付けられているということです。条件付けられたものにはヘートゥ(hetu)とパラ(phala)、原因と結果があります。条件付けられていないものには原因は無く、そのため結果もありません。この世界では、条件付けられていないものは、二つしかありません。空間と涅槃です。
  私たちは、一般的に二つの物体の間隙を空間と呼びます。しかし、私が今使っている空間は二つの物体の間隙のことではありません。私が使っている空間はパーリ語でアーカーサ(ākāsa:虚空)と呼ばれています。親指と人差し指の間の空間と異なり、アーカーサは変化することも、崩壊することも、死に絶えることもありません。アーカーサは決して生じることはありません。誰も盗むことはできませんが、何も無いとも言えません。これらはまた涅槃にみられる特徴でもあります。
  空間には遮る物はありません。空と言う空間では鳥が自由に飛んでいる様子を見ることができます。条件付けられていない空間、涅槃において飛んでいるのは鳥ではなく阿羅漢です。違いはそれだけです。そのように空間はアサンカタ、つまり条件付けられていないのです。
  何故、私たちはこの世界を美しいと言うのでしょうか。

デイビッド:この世界が心地よい感覚を引き起こすからだと思います。私は、それが好きです。
学生2:私たちは顛倒(思い違い)しているので感覚的な快楽を美しいとみなします。


ペーマスィリ長老:
私は空間が世界を美しくしていると思います。充分な空間があるから、踊り子は美しい踊りを披露します。そして、充分な空間があるから私たちは新しい家を建てます。美しいのは家ではありません。違います。家を美しくすることができるのは空間です。条件付けられていない空間にはヘートゥとパラ、すなわち原因と結果はありません。ですから問題も苦しみもありません。原因と結果が条件付けられたものにだけ問題が生じるのです。
  ブッダの時代以前では、多くの瞑想指導者たちが、原因と結果を超越した、そしてその結果苦しみを乗り越えたレベルの意識を見つけようと努力しました。しかしながら彼らが見つけたのは、まだ原因と結果があり、そのため苦しみがあるレベルの意識でした。ブッダはニローダすなわち滅尽を発見されました。ニローダは全ての原因と結果、そして苦しみを超越しています。ニローダは、条件付けられていません。ニローダはニッバーナ(nibbāna:涅槃)です。
  苦の滅尽の第四の特徴はアマタ(amata)、不死です。マタ(mata)は死を意味します。条件付けられた全てのものは最終的に崩壊し消滅します。原因と結果があれば、必ず死があります。アマタの意味は不死、死が無いことです。苦の滅尽には原因も結果もありません。それは、死に行くものが何も無いことを意味します。以前に示した様に、これは、真実であり、虚偽ではなく、それ以外の何ものでもありません。変えることは出来ません。それがあるがままの姿です。

  「夜の最初の三分の一の間に無明は消え去り、真の智慧が生じました。闇は消え去り、光明が現れました。強い意志をもって勤勉に励む者にはこのようなことが起きます」
(ブッダ:BhayabhēravaSutta、バヤベーラヴァ経)

5.苦しみの滅尽へと至る道
  ペーマスィリ長老:第四の真理は、マッガサッチャ(magga-sacca:道諦)、苦しみの滅尽へと至る道です。この道は八正道、アッタンギカマッガ(aṭṭhangika-magga)、正見(正しい理解)、正思惟(正しい思考)、正語(正しい言葉)、正業(正しい行為)、正命(正しい生計)、正精進(正しい努力)、正念(正しい気づき)、正定(正しい集中)です。これは瞑想により心を育てる道です。涅槃へと導きます。タターニアヴィタターニアナンニャターニ(Tathāniavitathānianaññathāni)
  八正道には四つの特徴があります。

  1.解放と脱出へと導きます;ニッヤーナ(niyyāna:出離)
  2.阿羅漢の悟りを得る因縁になります;ヘートゥ(hetu:因)
  3.四聖諦を観察します;ダッサナ(dassana:見)
  4.渇愛を乗り越え、自分自身の扱いに習熟します;アディパティ(adhipati:主人)

解放

  八正道の第一番目の特徴は、私たちが苦しみから脱出するように支えてくれるということです。私たちを解脱(niyyāna:ニッヤーナ、出離)へと導く八正道は、輪廻という川を渡るために使う筏となります。預流果の悟りを得ると、誤った理解が無くなります。もはや儀式に執着することはありません。心の修行に疑いを持つこともなくなります。
  修行について混乱している人たちがいます。彼らは戒(sīla:シーラ)が重要だということを知っています。心の成長には、不適切な行為を自制すること、ヴィラティ(virati:離)が必要であるということを知っています。また、不適切な行為を慎むためには、時として大変な努力しなければならないことも知っています。アーヤティサンヴァラシーラĀyatisamvarasīla:律儀戒)は適切に行動するための訓練に役立ちます。また不適切な行為にふけることを慎むための支えとなります。戒は瞑想を上達させるための基礎となりますが、ある人々は時として極端に走ってしまうことがあります。
  一人の比丘がいました。彼は肩に大きな傷を負っていました
が、手当をするどころか、ただれるに任せ、痛みに耐え、自分の身体を傷つけていました。自分の身体を罰さなければいけないと感じていたからです。彼のこのような行動は瞑想を進める上で何の役にも立ちませんでした。これは「戒」ではありません。彼は邪見にしがみつき、苦行の一種に耽っています。八正道を間違って実践しているだけです。適切な行為、戒は中道です。苦行とは一切関係ありません。戒とは、自分の言葉、行為を慎むという意味です。
  以前の悪行為が原因となって不善な結果(vipāka:ヴィパーカ、異熟)を経験することが時々あります。地獄界、畜生界、あるいは餓鬼界に生まれることさえもあります。しかし聖者の流れに入れば、将来の生存に影響を及ぼす全ての不善業は結果を出す機会を失います。解脱の第一段階である預流果の悟りを得ると、彼岸との中間まで渡ったことになります。下層世界に再び生まれることはなくなり、将来再生する回数は限られたものとなります。そして、預流果の悟りを得た聖者は、人間界や天界といった幸せな経過をたどる所にのみ生まれます。輪廻の中でやみくもにさまようことは、最早ありません。預流果の悟りを得ることで解脱(niyyāna:ニッヤーナ、出離)へと導かれます。

ディヴィッド:将来生まれ変わるのは七回までですか。

ぺーマスィリ長老:
預流果の悟りを得た聖者は最高で七回までしか再生しないと書いてある教典が複数あります。しかし、平均的な俗世間の人々の場合、再生する回数には限りがありません。私たちは、あと何回か再生すればそれで済むと言うことはできません。再生を生じさせるこのプロセスには限りが無いからです。こうした再生の数々がどこで始まってどこで終わるのか私たちにはわかりません。輪廻は終わりの無い苦しみです。
  苦しみの原因である渇愛の特徴の一つは、解放の妨げになるということです。渇愛は、苦しみの滅尽に達する上での障害(palibodha:パリボーダ、障碍)となります。渇愛があるが故に、私たちは欲、怒り、妄想で心を汚します。この三つの不善の元、欲、怒り、妄想は、解放の障害となるもの全てを含みます。金持ちと貧しいホームレスを比べてみましょう。
  金持ちは言います。「私は人生で多くの問題を抱えているが、ホームレスの生活は自由だ。彼には何の問題もない。お腹が空いたときだけ、物乞いをすればいいだけだし、木があればその下で寝れば良いし、いつでも好きなときに寝られるのだから。だが、私はそのようには生きられない。私は一所懸命働かなければならない。ホームレスが抱えている問題は私よりはるかに少ないことに間違いない」
  ホームレスも全く同じことを言います。「私は人生で多くの問題を抱えているが、金持ちの人生には何も問題がない。金持ちは食べ物を買う充分なお金を持っているから、物乞いをしなくて済む。豪邸に快適なベッドがあるから、木の下で寝なくてよい。金持ちには全く問題がない」
  金持ちもホームレスも全く同じことを言っています。両者とも自分は多くの問題を抱えているが、相手には問題がないと言っています。世間の誰もがそうであるように、この金持ちもホームレスも問題を抱えている、それが真実です。大勢の人が、自分の問題を解決するために、私たち比丘のもとを訪れます。仕事上でのちょっとした問題を抱えている人もいれば、家庭に問題がある人もいます。病気にかかっているか、もしくはもうすぐ死ぬという人もいます。人々が私たちのところに来るのは、私たちが彼らの助けになると思っているからです。
  多くの人が手首に聖糸を結んで欲しいと願い、祈りを捧げ、聖油で祝福を受け、菩提樹にお供えします。彼らは儀式が自分の苦しみを和らげると信じているのですが、多くの場合、それは失敗に終わります。そして思い通りの結果が得られないと、ブッダの教えに評価を下します。「仏教は役に立たない。得るものは何もない」と。
  四聖諦とダンマ(dhamma:法)には誤解されている部分が多くあります。例えば、富は幸福を保証するものではないし、貧しいからと言ってみじめだとは限りません。貧しいホームレスであっても、苦しみの滅尽を得られます。また、手首に聖糸を巻いてもらったり、或いは、聖油で祝福を受けたりしても、うまく苦しみから逃れることはできません。これらは仏教の低いレベルの一面であって、ブッダの教えとはほとんど関係ありません。ブッダは真理とはどのような性質のものかについて説明されたのです。
  ブッダは説かれました。「苦しみを和らげるには、問題の本質、自分の苦しみの本質、自分の心の本質を理解しなければなりません」
  自らの経験によって、苦しみから逃れる上で障害となるものを完璧に理解できた人は誰でもその障害を破壊し、解放を得ることができます。自分の心を理解しようとしない人は、障害を壊すことも、苦しみから逃れることも決してうまくいきません。

因縁

  八正道の二番目の特徴は、八正道が苦しみを滅尽するための因縁、へートゥ(hetu:因)になるということです。私たちは皆多くの障害、パリボーダ(palibodha:障碍)を抱えているため、初めは八正道を正しく実践できません。実践を始めたばかりの時には正しく戒律を守ることができません。日常生活の中で、戒律を守る上で妨げとなる障害をたくさん抱えているからです。修行を始めたばかりの時には、また正しい禅定を得る上でのたくさんの障害、智慧を育てる上でのたくさん障害を抱えています。最初は八正道を正しく実践する上で非常に多くの障害があるのが常です。しかしこれらの障害を少しずつ減らしていくことにより、徐々に八正道を正しく実践する能力を育んでいます。この過程は進行形で進むものであり幾分か努力を要します。
  しかしながら多くの人は、ダンマを実践するのに少しは努力するものの、それ以上のことをしたがりません。それ以上努力すると家庭生活が崩壊すると思っているからです。それは誤解です。ブッダご在世当時、ヴィサーカー(Visākhā)という女性がいました。彼女は努力を重ねてダンマを正しく実践し、苦しみからの解放を妨げる障害を壊し、わずか七歳で預流果の悟りを得ました。彼女は16歳で結婚し、二十人の子供を生みました。彼女はまた大変なお金持ちであり、花嫁衣裳も大変高価なものでした。ダンマを実践しつつ、二十人の子ども-男の子、女の子それぞれ十人を育てあげた、ヴィサーカーのような人がいるのに、何故ダンマを実践すると、家庭生活が壊れるなどと言えるのでしょうか?
  正しく努力をする人は多くの障害を克服し、預流果の悟りを得ます。預流果の悟りを得た聖者はその後に続く幸福な生存の中でますます力を強めます。徐々に持戒の質が高まるばかりでなく、禅定と智慧の力が強まります。預流果の聖者は八正道の力、四つの気づきの土台の力を着実に強化していきます。不屈の努力(精進)、力を得る道、心を育てる能力(五根、五力)、悟りを得るための七つの要素(七覚支)が増強します。預流果の聖者はこうした能力すべてを徐々に育み強めていきます。これらの能力の開発は阿羅漢に達する根本原因、へートゥ(hetu)となります。これこそが私たちが育てはぐくまなければならないものです。

・観察すること

  八正道の次の特徴は、四聖諦を観察すること、ダッサナ(dassana)です。自分の煩悩を明瞭に観察します。はっきり観えるのは煩悩だけであり、他にはありません。煩悩をはっきりと観てしまえば、私たちはその煩悩から離れることができます。煩悩の本質に対する洞察を得た時に煩悩は根絶やしになります。私たちは観察すること、ダッサナによって煩悩を破壊します。
  明かりが点いたことで部屋はとても明るくなります。明かりが点ってから闇が消え去るまでどのくらいかかりますか。

ディヴィッド:ほとんど時間はかかりません。あっと言う間です

ぺーマスィリ長老:
暗闇はどこへ行ったのでしょう。

ディヴィッド:分かりません。

ぺーマスィリ長老:
暗闇がどこへ行ったのかを知るのは困難です。自分が密林にいると想像してください。大雨が降っており、真夜中で、しかも新月の日で、月明かりもありません。そのような深い暗闇の中で、突然稲光がありました。明るい稲光のおかげで、たちまちにしてすべてのものが見えます。ヘビや象やその他の野生動物が見えます。密林が危険であること、そこでは生きられないことは明らかです。あなたはそこから抜け出したくて、とりあえず一歩踏み出します。そのように一歩踏み出したこと、それは真っ暗で危険なジャングルから脱出する半分の所まで来たことを意味します。あなたは煩悩を根絶やしにする道のりの半分まで来た、言い換えれば預流果の聖者になったのです。
  過去に生じた煩悩は既に終わってしまっており、どうすることも出来ません。また未来に起こる煩悩についても為すすべがありません。まだ存在していないからです。何とかできるのは、今ここで生じている煩悩のみです。ヴィパッサナーを実践するということは現在に留まることを意味します。ヴィパッサナーとは、過去に起きたことについて考えたり心配したりしない、将来について考えたり心配したりしないという意味です。また、今この瞬間にいかなるものにも執着しないという意味でもあります。これはブッダが、サンタティ(Santati)という指揮官に与えたアドバイスでした。あなたはその物語を知っていますか。

ディヴィッド:いいえ。


ぺーマスィリ長老:
指揮官サンタティはコーサラ王のために戦い勝利をおさめました。サンタティの栄誉を讃えて王は祝宴を開き、たくさんの踊り子、音楽、食べ物、飲み物でもてなしました。サンタティはこの祝宴を大いに楽しみ、踊り子の一人を大変気に入りました。彼はその踊りを心の底から楽しみました。しかしその踊り子は演技の最中に、疲労困憊して倒れ、サンタティの目の前で命尽きてしまいました。何の前触れもなくやって来た踊り子の死に、指揮官は大変なショックを受けました。直ちに宴席から退出し、ブッダのもとを訪れ、教えを請いました。
  「今を捨ててください」とブッダはサンタティに言い聞かせました。「過去について考えることも捨ててください。将来について考えることも捨ててください。そして今の瞬間、いかなるものにも執着しないでください」
  サンタティは智慧のある人でした。彼はただちにブッダの教えを理解し、洞察を得て悟りを得ました。
  ブッダのご在世当時から同じような物語が沢山あります。ブッダはある日、ウッガセーナ(Uggasena)という名の熟練した軽業師のもとを訪れました。ウッガセーナは竹竿の上に立つ技を演じていました。ウッガセーナが気づくと、ブッダはサンタティに言ったのと同じことを話しました。
  「今を捨ててください。過去について考えることを捨ててください。将来について考えることも捨ててください。そして今の瞬間、いかなるものにも執着しないでください」
  ウッガセーナは竹竿に乗ったまま洞察を得て、悟りを得ました。ウッガセーナもまた、ブッダのご在世当時に生きた賢人でした。

ディヴィッド:私たちの社会にも、聡明な人はいます。

ぺーマスィリ長老:
その通りです。今日の社会にも聡明な人たちはいます。しかし、ブッダのメッセージはその人たちの元に届いていません。だから、多くの人が何年も、何十年も、一生かかって、坐る瞑想、歩く瞑想をしても、実際には何も得られません。しかしサンタティやウッガセーナはメッセージを受け取りました。この二人はブッダのアドバイスを注意深く聞き、その結果として、ダッサナを得て、ほんの数秒で悟りに達しました。師は私たちを導きます。夜空のどの方角を見れば、星や惑星が見られるかを教えてくれます。師が指し示した方角を見ると、確かに惑星や恒星が見えます。正しい方角を見る智慧があれば、自分自身の目ではっきりと観て、解脱に達します。預流果の悟りを得た聖者は正しい方角を観たのです。現実の本質を洞察し、疑いを壊し、四聖諦の真理を理解したのです。預流果の聖者はダッサナ(dassana)を体験します。

自分自身のマスターになること

ペーマスィリ長老:
八正道の四番目の特徴は、渇愛を克服し、自分自身のマスターになること、アディパティ(adhipati)です。アディパティは権勢、支配と訳されています。マスターのことです。
  マスターには多くの種類があります。職場でのマスター、自然の中でのマスター、苦しみを滅する道でのマスターなどです。
  力のある管理職は従業員のマスターです。従業員の一部が、
仕事のやり方について自分なりの意見を持っていたとしても、力のある管理職のやり方に合わせます。自然界においては海がマスターです。河川はさまざまな国で流れ始め、色々な方向に流れますが、最後はすべて海に流れていきます。川から大量の真水が流れてきても、海の塩辛さは決して変わりません。巨大な塩水を蓄えた海は、永遠に塩辛いままです。海は河川のマスターです。全ての河川は海に流れ着きます。道の智慧、マッガニャーナ(magga-ñāna)は、私たちの人生におけるマスターです。苦しみを根絶する道におけるマスターです。
  マスターには一人しかなれません。一つの職場でマスターになれるのはいつも一人だけです。もし二人の人物が自分は職場のマスターだと考えたら、対立や問題が生じます。
  職場では一人の管理者、つまり一人のマスターが完璧にその任務をこなしている時だけうまくいきます。従業員たちが管理者のやり方に従い、自分のやり方にこだわらなければ、全てがスムーズに流れ進行します。しかし、マスターたちの中には、人々や社会にとっての厄介ごとの種になる人もいます。
  一方、いかなるもの、いかなる人に対しても、何の問題もおこさないマスターがいます。海は、そのようなマスターの一つです。世界の河川は全てが滞りなく海に向かって流れていきます。海は河川のマスターです。私たちは道の智慧というマスターのもとで働きます。道の智慧により人生は八正道を主体としたものになります。
  ですから道の智慧は海と同じように何の問題も起こしません。感覚門を抑制し、戒律を実践し、布施を実践し、今の瞬間に生きてヴィパッサナーを実践する、これらは全て自分自身のマスターとなり道の智慧を得るために行います。川の流れが何の問題もなく海に流れ込むように、私たちは八正道という流れに乗って問題を減らし、穏やかに生き、道の智慧という海に到達します。
  今度海に行った時、しばしその自然の姿に思いを馳せてみてください。海は徐々に深くなっていきます。海岸に近い部分はとても浅く、小さな鳥たちが歩いています。少し沖に進んだ所では、子どもたちが腰まで浸かって歩きます。さらに沖では、サメやクジラが泳ぎ、戯れています。サメやクジラが沖にいるのは、海面下深くに彼らが活動できる十分なスペースがあるからです。海は浅い所から始まり、徐々に深くなっていきます。海は深いのです。
  苦しみが止むためには、四つの質問に答える必要があります。

  1.苦とは何か?
  2.苦の原因は何か?
  3.苦の滅尽とは何か?
  4.苦の滅尽へ至る道とは何か?

  自分自身の経験を通して、この四つの質問に満足のいく答えが得られた時、苦しみからの解放を妨げるものを減らし、問題を減らし、苦しみを減らすことができます。
2500年前に、シッダールタはこの四つの質問の答えを見つけようと、出発しました。善とは何か、真理とは何かを見つけるために出発しました。そしてついに、存在についてのこの四つの真理を再発見し、この真理を完全に理解し、そして、ブッダとして世界に向かって、この真理を宣言しました。これは非常に重要なことです。ブッダの教えについての正しい理解、サンマーディッティ(sammā-diṭṭhi:正見)を持っている人は、持っていない人よりも、厄介ごとや苦しみが常に少ないでしょう。私たちはブッダの教えの価値が分かり始めたばかりです。ブッダは自分自身で試して、一人でそれを発見し、苦しみから完全に解放された人なのです。

第3部 八正道


「真理の道を賢明に歩む賢者は後退することがありません」ブッダ:アーディパテッヤ経(ĀdhipateyyaSutta)

1.はじめに

ペーマスィリ長老:アリヤ・アッタンギカマッガ(Ariya-aṭṭhaṅgikamagga)についてお話します。アリヤ(Ariya)は「聖なる」、アッタ(aṭṭha)は「八つの」、アンギカ(aṅgika)は「集まりないし部分」、マッガ(magga)は「道」を意味します。ですからアリヤアッタンギカマッガ(Ariya-aṭṭhaṅgikamagga)は聖なる八つの道(八正道)という意味です。八つの要素からなりたっています。

  1.正しい理解:サンマー・ディッティ(sammā-diṭṭhi:正見)
  2.正しい思考:サンマー・サンカッパ(sammā-saṇkappa:正思惟)
  3.正しい言葉:サンマー・ワーチャー(sammā-vācā:正語)
  4.正しい行動:サンマー・カンマンタ(sammā-kammanta:正業)
  5.正しい生計:サンマー・アージーワ(sammā-ājīva:正命)
  6.正しい努力:サンマー・ワーヤーマ(sammā-vāyāma:正精進)
  7.正しい気づき:サンマー・サティ(sammā-sati:正念)
  8.正しい集中:サンマー・サマーディ(sammā-samādhi:正定)

  本当の意味で八正道を歩く人は欠点が無く、自分の全ての行動において原因と結果を観察します。
  私たちは八正道の一つか二つだけを培う場合があります。例えば教えを良く理解しているのに集中がお粗末だったりします。あるいはたとえば布施をするときに努力と自制が極めて優れているのに、他の要素のレベルが低かったりします。
  布施が悪いと言っているわけではありません。それは通常の修行の一環です。私が言いたいのは、何をするにせよ八つの要素のバランスを取るということです。瞑想センターに滞在しているときでさえもバランスが取れていないこともあります。八つの道全てのバランスを取るためには瞑想しなければなりません。

  「聖なる弟子が不善と不善の根本、善と善の根本を理解すれば、その弟子は正しい理解を得ています」
サーリプッタ尊者:サンマーディッティスッタ(sammādiṭṭhiSutta:正見経)


2.正しい理解(正見)

ぺーマスィリ長老:
八正道の第一番目は正しい理解、サンマー・ディッティ(sammā-diṭṭhi:正見)です。サンマーは大切な言葉です。サンマーは「真理に適った」という意味であり仏教に独特な言葉です。

人間が到達可能な最も崇高なレベルです。聖者は八正道を理解し、八正道を明瞭に観察し、全ての煩悩を破壊します。彼らは聖なる真理を理解しています。平和と調和に満ちた生活を送ります。他の生命を傷つけることは決してありません。傷つけることに楽しみを見い出すことは決してありません。正しい理解とは四つの聖なる真理を理解することです。

  1.苦しみについての理解:ドゥッカ・ニャーナ(dukkha-ñāṇa)
  2.苦しみの原因についての理解:ドゥッカ・サムダヤ・ニャーナ(dukkha-samudaya-ñāṇa)、これは渇愛、タンハー(taṇhā)についての理解を意味します。
  3.苦しみの滅尽についての理解:ドゥッカ・ニローダ・ニャーナ(dukkha-niroda-ñāṇa)
  4.苦しみの滅尽に至る道についての理解:マッガ・ニャーナ(magga-ñāṇa)、道とは八支の道、アッタンギカ・マッガ(aṭṭhaṇgika-magga)のことです。

  苦しみ、苦しみの原因、苦しみの滅尽、苦しみの滅尽に至る道という四つの要素が、正しい理解(正見)と聖なる四つの真理の双方に共通していることに注意してください。正しい理解(正見)を詳しく知るためには四つの聖なる真理について学んだことを思い起こす必要があります。四つの聖なる真理の四番目が八正道であること、八正道の一番目が四つの聖なる真理についての理解であることも忘れてはいけません。八正道と四つの聖なる真理は相互に結びついています。正しい理解(正見)が生じると心に渇愛が生じる余地はなくなります。

  「尊い方(ブッダ)の教えに導かれた弟子はこのように考えます。私は今感受に打ち負かされている。そして、現在の感受に打ち負かされているのと同じように、過去にも感受に打ち負かされた。そしてもし未来の感受に喜びを見出したなら、今現在の感受に打ち負かされているのと同じように未来も感受に打ち負かされるであろう」
ブッダ:カッジャニヤ経(KhajjaniyaSutta)


3.正しい思考

ぺーマスィリ長老:
八正道の二番目は正しい思考、サンマーサンカッパ(sammā-saṇkappa:正思惟)ですサンカッパ(saṇkappa)は意図とも訳されます正しい思考には三種類あります。

  1.遠離と寛大さの思考:ネッカンマ・サンカッパ(nekkhamma-saṇkappa)
  2.善意と慈しみの思考:アヴャパーダ・サンカッパ(avyāpāda-saṇkappa)
  3.無害と憐れみの思考:アヴィヒンサ・サンカッパ(avihiṃsā-saṇkappa)

  遠離の思考には貪欲と官能的快楽に対する渇望はありません。善意と慈しみの思考は生命の福利のためです。無害と憐れみは全ての生命を傷つけないためです。
  慈しみ、憐れみ、寛大さ、智慧、これらの要素は正しい遠離の土台です。私たちは怒ったときに遠離を実践することがあります。何かを嫌い、あるいは憎んでそれから逃げたいと思います。これは正しい遠離ではありません。違います。
  正しい遠離はいつも智慧から生まれます。智慧があればそこには慈しみと憐れみもあります。結果として官能的快楽への渇望から離れ、遠離へと向かいます。シッダールタ王子が妻と生まれたばかりの息子を置いて出家したのは道義に反していると、彼がカピラヴァットゥ(Kapilavatthu:釈迦族の国の首都)を離れて出家したことを批判する人がたくさんいます。しかし彼が俗世間での生活から離れた大本にあるのは智慧です。憐れみを伴った行動の一つです。

デイヴィッド:慈しみをもって振る舞い、憐れみを持つことには同意します。でもシッダールタのように家族や友人を捨てて出家したいと願う理由がわかりません。

ぺーマスィリ長老:修行実践は人々から離れることではありません。菩提ジャータカ(本生譚)にはシッダールタ王子とヤソーダラ王女、二人の生活が描かれています。シッダールタとヤソーダラはカピラヴァットゥで13年間夫婦として暮らしました。
   ブッダはおっしゃっています。「私たちは夫婦として意見を交わし、お互いの心を知りました」
  ヤソーダラは夫が尋常な人間ではないことを知っていました。彼が人生で何を目指してきたかを知っていました。そして彼の出家に備えていたのです。彼女は太子の出家を助けました。菩薩であるシッダールタは単に家族を拒絶して逃げ去ったわけではありません。違います。彼はヤソーダラに相談した上で出家を決断したのです。夫婦として共に暮らした年月の中で、二人で決めたことです。
  ヤソーダラが最大限にシッダールタを支えたことが複数のジャータカ(本生譚)の中に語られています。彼女は献身的で忠実な妻でした。ブッダが覚りを得たあと初めてカピラヴァットゥに戻った時の話を聞かれたことがあるだろうと思います。比丘たちを引き連れて歩いてくるブッダを目にしたヤソーダラは、七歳の息子ラーフラに言いました。
  「ご覧なさい。あなたのお父様が来ました。容姿端麗で偉大な方です。人間の中の獅子です」。
  ヤソーダラの言葉にはかつての夫に対する愛情が込められています。ブッダに対する怒りはこれっぽっちもありません。
  シッダールタ王子が彼女を拒絶し逃げたのだとしたらブッダに対する愛情を表現することはなかったでしょう。シッダールタが俗世間の生活から離れようと決断したことをヤソーダラは尊敬し理解していました。智慧に基づいた決断でした。
  私は茶碗を持っています。あなたはこの茶碗がどんな格好をしているか知っています。あなた自身の目で茶碗を見ているからです。あなたはこの茶碗を明瞭に見ることが出来ます。同様に私たちは四つの聖なる真理を自ら見ることでそれを理解するようになります。苦しみが存在することが真実である、それを観察することから始まります。明瞭に観察しようと頑張ることで、私たちが苦しんでいることがわかるようになります。そして苦しみを和らげるために出来るだけのことをしようとしますが、それは賢明な行動です。苦しみという真理を少しでも理解した時に、初めて苦しみからの解放を得たいと心から願うようになります。
  四つの聖なる真理を明瞭に観察することで正しい思考と意図が生じます。これが智慧です。解放を得るためには智慧が不可欠です。
  正しい思考とは、遠離、慈しみ、憐れみです。最初は自分自身に対して慈しみと憐れみを持たなければなりません。他の人々にも慈しみと憐れみを広げることができるのはそれからです。自分自身に慈しみの心を抱かないままでいったいどうやって他の人に慈しみの心を持つことができるでしょうか。自分自身の苦しみを和らげることが出来ないのにどうやって他の人の苦しみを和らげることが出来るでしょうか。他の人たちに対する慈しみと憐れみは、私たちが自分自身に対して純粋な慈しみと憐れみを感じた時に初めて可能になります。幸せを見つけて苦しみから逃れたいという願いは私たち自身にとって最も大切なことです。他の人たちが川を渡るのを手助けする前にまず自分が川を渡らなければなりません。
  象使いは鉄の鎖で自分の象を繫ぎます。力の強い象は自由を得るために鼻で鎖を断ち切ってジャングルに戻ります。私たちは誤った思考が原因で捕らわれの身となっています。
  その誤った思考は欲、怒り、無知から生じます。私たちは苦しみから逃れるために正しい思考を使い、誤った思考と置き換えなければなりません。正しい思考は慈しみ、憐れみ、遠離から生じます。慈しみ、憐れみという思考は残酷、冷淡、憎悪、加害という思考を追いやります。遠離と寛大さという思考は官能的快楽に対する欲と渇愛を追いやります。健全な行為を行うという思考は不健全な行為を行うという思考を追いやります。不健全な思考が無くなれば私たちは苦しみ、輪廻から解放されます。
  このセンターでは自動車事故で腕を怪我した瞑想者を介抱することがよくあるかと思います。周りで見ている人は、単にあなたが怪我したその瞑想者に強い慈しみと憐れみを抱いて助けていると考えます。あなたもまたその人の苦しみが無くなるように手助けしているだけだと考えます。しかしそれは幻想です。もちろんその人を助けるのは慈しみと憐れみから生じた正しい行為です。ですからそれは正しい思考により行った行為になります。しかし、実はあなたの慈しみと憐れみは怪我したその人ではなく自分自身に向けられています。その人が苦しむのを見るときあなたもまた苦しんでいるのです。

デイヴィッド:はいそんな時はお腹に鋭い痛みを感じます。

ぺーマスィリ長老:
あなたはその痛みを明瞭に観察できます。それはあなたの内部に生じた現象であり外部からやって来たものではありません。怪我をしたその人がプレッシャーを感じる時、あなたもまたプレッシャーを感じますその人が苦しむ時、あなたも苦しみます。その人の痛みを和らげようとしている時、あなたは自分の痛みを和らげようとしているのです。その人を助けることで自分自身の苦しみから逃れようとしているのです。これが、あなたが行っていることです。
  一般的に人はこの考えをしっかり認識しようとはしません。それどころか受け入れたいと思うことさえありません。あからさまに拒否する人もいます。多くの人が「こんな風に人とかかわるのは適切ではない」と言って五分五分を基本とした他人との関係を受け入れるだけです。ほとんどの人はこの五分五分の関係が良いことだと思っています。五分と五分の割合を過ぎて、対等な持ちつ持たれつの関係を越えてしまった場合、それは道を誤っていると言います。
  金銭、賞賛、名声、快楽、人々は行為の結果としてこうしたものを期待します。お金を稼いだり地位を高めたりすることが出来ない場合は何か別の報償を期待します。しかし純粋に寛容、慈しみ、憐れみから行動を起こす場合にはどのような形であれ報償を望むことは決してありません。期待することなく行動する、それが本当の遠離です。

デイヴィッド:期待することなしに社会が機能するでしょうか。犯罪者が自ら犯した罪のために罰せられることは必要ないでしょうか。

ぺーマスィリ長老:
人間世界では大変良いときもあればひどく悪い時もあります。悪魔のような人もいれば、慈しみがあり憐れみ深い人もいます。行動に善悪があります。思いやりのある教師は行うべきではない行為、行うべき行為について説明します。そのような教師はこの世の性質を明瞭に語っています。しかし思いやりのある教師が語っても、その言葉に耳をかたむけ、その教えに従う人はわずかです。ほとんどの人はそうしません。これがこの世の本質です。教師が出来るのは説明することだけです。教師は人々に行為を無理強いすることはできません。
  ブッダでさえご自身のサンガの行動を思いのままにすることは出来ませんでした。俗世間の場合はなおさらです。ある時、サンガで守るべき戒律について大きな論争が生じました。戒律の修正案について比丘たちが言い争い、サンガは分裂してしまいました。ブッダは森の中にこもってしまわれました。争う人たちもいれば、調和をもって暮らすことを選ぶ人たちもいます。ブッダのご在世当時ウッパラヴァンナー(Uppalavaṇṇā)という名前の美しい比丘尼が森の中で、一人で暮らしていました。その比丘尼の美しさに夢中になった近くの羊飼いが、彼女が托鉢に出ている間に彼女のクティ(kuṭi:修行用の個室、房舎)に忍び込みました。ウッパラヴァンナーが托鉢から戻ると羊飼いは彼女に襲いかかり犯しました。彼女は叫び声をあげ、抵抗し、羊飼いに止めるようにと懇願しましたが彼は言うことを聞きませんでした。このようなひどい目にあってもウッパラヴァンナーは羊飼いに対する憐れみを絶やすことはありませんでした。彼女には智慧があり原因と結果の法則を理解していたからです。しかしその羊飼いは愚か者でした。残虐なその行為のために地獄へ堕ちました。
  正しい思考は大切な課題であり、話し合わなければならないことがたくさんあります。 四つの聖なる真理を明瞭に観察することで私たちは正しい思考をはっきりとみることができます。

  「ですからアーナンダよ、これもまた如来の優れた驚くべき資質の一つであることを忘れないでください。アーナンダよ、如来は感受が生じ、感受が存在し、感受が消え去るのをありのままに知ります。認知が生じ、認知が存在し、認知が消え去るのをありのままに知ります。思考が生じ、思考が存在し、思考が消え去るのをありのままに知ります。アーナンダよ、これもまた如来の優れた驚くべき資質の一つであることを忘れないでください」
ブッダ:アッチャリヤ・アッブタ経(Acchariya-abbhuta Sutta)


4.正しい言葉

ぺーマスィリ長老:
八正道の三番目は正語、サンマー・ヴァーチャー(sammā-vācā)です。少し智慧が生じるつまり正見と正思惟が確立することにより、私たちは言葉の力、表現を健全で適切に使いこなすようになります。原因と結果の観点からみれば四つの聖なる真理を理解することが原因となって正しい思考が生じます。そして正しい思考に依存して慈しみと憐れみ、正しい言葉、正語が生じます。適切に話そうとするならば智慧が不可欠です。言葉を必要とするのは人々を仲良くさせるためだけではありません。私たちは次のようなことを話します。

  ・真実
  ・友愛と協調をもたらす言葉
  ・親切で同情心にあふれ慰めとなる言葉
  ・人を元気づける言葉
  ・有益な言葉

  人々の自由を損ねるような言葉は慎まなければなりません。慎むべき言葉は以下の通りです。

  ・正しくない言葉:ムサー・ヴァーダ(musā-vāda)
  ・人を中傷する言葉:ピスナー・ヴァーチャー(pisuṇā-vācā)
  ・きつく、相手を責め立てる言葉:パルサー・ヴァーチャー(pharusā-vācā)
  ・噂話、無駄話:サンパッパラーパ(samphappalāpa)

  これらは全て不適切な言葉です。
  正しくない言葉とは他の人を騙すために偽りを語ることです。そうした言葉は政治、芸能の他、時には説教の中にも見られることがあります。未来を予測することで生計を立てている占い師は神秘的でびっくりさせるような言葉を使って人々を騙します。こうした占い師は顧客の人生について何も知りませんが、あれが起こる、これが起こると言いながら狡猾に顧客の情報を仕入れます。それも正しくない言葉です。
  人を中傷する言葉とは人を仲違いさせる目的で相手の欠点をあげつらうことです。悪意に満ち、卑しい心を伴います。人を中傷する言葉は怒りと悪意から生じます。それは常に怒りと繋がっています。この種の言葉は共同体の調和と友愛を損ないます。きつい言葉とは怒りにまかせて喋る、人を罵り、侮辱し、批判する言葉です。聞き手に苦痛を与える目的で喋ります。そうしたきつい言葉を聴いたときには何時でも誰にでも自動的に怒りが生じます。
  噂話、無駄話は意味をなさない形の言葉です。こうした言葉にはなんの意味もありません。現世での今この時も、死後の未来においても聞き手に何の利益ももたらしません。このタイプの言葉は聞き手の心の質を高めることは出来ません。
  噂話はこれから先に全く何の価値ももたらしません。中身が無く、ただ喋るために喋っているだけです。
  真実と異なる言葉が全て不適切というわけではありません。金曜日の夜に街に出かけたいと思っている十代の若者がいたとします。母親は、それは危険だと思います。息子をこよなく愛する母親は言います。
  「息子よ、お願いだから今夜は家にいておくれ。私は今夜出かけなければならないの。お前がいてくれないと困るから」
  息子への母親の言葉は絶対に正しいというわけではありませんが、息子が外出してトラブルに巻き込まれるのを未然に防ぐため「私は今夜出かけなければならない」と言ったのです。この種の言葉は不適切だとか、嘘をついているとはみなされません。息子がトラブルに巻き込まれるのを防ごうという、慈しみと憐れみの心から話された言葉だからです。母親は息子のことを気遣っているのです。
  森林の隠遁所で共に暮らす阿羅漢と若い弟子の話もあります。阿羅漢は、弟子が学びやすい状況を作る必要があると個人的に考えて見せかけの言葉を使います。その阿羅漢は弟子が道果を悟るのを助けるにふさわしいやり方で真実ではない言葉を語ります。
  ある日その弟子が阿羅漢のそばに行き、言いました。
  「私は在家の生活に戻りたいのです。比丘の生活には興味がなくなりました」
  「ああ、いいよ」と阿羅漢は言いました。「お前が在家の生活に戻るのはかまわないが、お前のクティ(kuṭi:修行用の個室、房舎)は雨漏りがするし、壁は崩れかかっている。ここを去る前に屋根と壁を直してくれないか」
  「はい」と弟子は答えました。「ここを出る前に、先生のためにしっかりと修理します」
  クティを修復しながら、弟子は考えました。「この隠遁所での生活も残り数日となった。それが済んだら在家の生活に戻ることになる。瞑想するのが良いのではないだろうか」
  とても高いレベルの気づきでその弟子は瞑想しました。
  弟子がクティの修理を終えると阿羅漢は言いました。「私の袈裟は汚れてしまって洗わなければならない。私のために洗ってはくれまいか。お前が去った後は一人で暮らすことになる。誰も手伝ってくれる者がいない。だからお前に頼んでいるのだ」
  「はい」と弟子は答えました。「喜んで洗います」
弟子は隠遁所にもう一日滞在しました。彼は阿羅漢の袈裟を洗い、他にも少し仕事をしました。修繕され新しくなったクティはとても快適で、弟子の心は静まりました。
  「お前は間もなくここを去る」と阿羅漢は言いました。「瞑想してみなさい。去る前にほんの少しだけ瞑想してみなさい」
  弟子はクティに行き、瞑想しました。ほどなく彼は預流果の悟りの段階に達しました。そして修行に対する疑いが無くなりました。
  ブッダもまた、人々が解脱するのを助けるため様々な種類の言葉、様々な戦術を使われました。ブッダの義理の弟であるナンダ王子の話を憶えていますか?
  ブッダはナンダとジャナパダ・カルヤーニという美しい王女の婚約を祝うためにカピラヴァットゥの王宮に滞在されていました。食事の後、ブッダは義理の弟に托鉢の鉢を手渡してその場を去りました。王宮の敷地を出る前にブッダが鉢を受け取るのだろうと思い込んだナンダは義理の兄の後についていきました。しかし敷地の境界に来てもブッダは鉢を受け取らずそのまま歩き続けました。困惑したカルヤーニ王女は「早く戻ってください」と叫びながら王子の後を追って走りました。
  ナンダはブッダについて行く気はありませんでしたが、同時にそのまま王宮に戻ってしまうのも失礼でした。兄への敬意からナンダはブッダと一緒にこのまま歩いて行くしかないだろうと感じました。ブッダは一言も口にせず、二人はブッダが滞在されていた園へと歩いて行きました。そしてついにナンダから鉢を受けとるとブッダは言いました。
  「比丘になりませんか?」
  どうしようもありませんでした。ナンダは兄の願いを断ることが出来ませんでした。
  「はい」とナンダは答えました。
  ナンダ王子は出家すると言ったものの心は重苦しいままでした。そしてしばらくするとカピラヴァットゥでの過去の生活や美しいカルヤーニ王女のことで頭がいっぱいになり瞑想することが出来なくなりました。ナンダは袈裟を脱いで在家の生活に戻ることを画策しました。
  この様子を察したブッダはナンダを正しい道に戻すため彼に二つの光景を見せることにしました。
  超能力を使い、ブッダはまずチェーナという農地を見せました。そこでは広大な森林が火事に焼かれてしまいました。広大な土地が焼け野原になりましたがその真ん中に一本だけ木が立っていました。もちろんその木も火に焼かれていました。黒こげとなったその木の枝にメスのサルがしがみついていました。そのサルは火に焼かれて両耳と鼻と尻尾を失っていました。火に焼かれたため体中真っ黒でした。ナンダ尊者はこのメス猿をはっきりと目にしました。
  ブッダが次にナンダに見せたのは三十三天で、そこではピンク色の足をした数百人の天女たちが神々の王、帝釈天を待っていました。
  ブッダは言いました。「ナンダよ、あなたのかぐわしい婚約者ジャナパダ・カルヤーニ王女と天女たちとどちらがより美しいと思いますか?」
  ナンダは言いました。「尊師よ、この天女たちと比べたらジャナパダ・カルヤーニ王女は火に焼かれたあの猿のようです。
  「ナンダよ、私が保証します。瞑想修行を耐え抜けばあの天女の一人を手にすることが出来ます」とブッダは言いました。
  ナンダは言いました。「そうであれば比丘としての生活も大変楽しいものになります」
  ブッダとナンダは人間界に戻りました。ナンダは美しい天女を自分のものにしようと熱心に瞑想しました。しかしながら、ナンダはほどなく現象の本質を学び取りました。彼は渇愛と官能的快楽の本質を観ることを学びました。渇愛と官能的快楽を手放し、より気高く、価値のある目標に向けて心変わりしました。そしてついに彼は道の果、阿羅漢という報償を得ることが出来ました。
  ブッダがナンダ王子に語った言葉は嘘でも、絵空事でも、不適切でもありません。あなたはなぜブッダの言葉は不適切ではないと思いますか?

デイヴィッド:ブッダが語られた言葉は健全だからです

ぺーマスィリ長老:
ブッダの言葉が不適切ではないのはそれが正しい思考に基づいているからです。ナンダに対する慈しみと憐れみから語られたブッダの言葉は、ナンダが心を育てる支えとなりました。ブッダが語られた言葉はナンダにとって最も得るところが大きいものだったのです。ごく簡単に言えばその言葉はナンダにとって良いものだったのです。
  会話は私たちが気をつけなければならないものの一つです。解脱の妨げとなるものを減らしたいと思えば、私たちは真実のみを語ります。人々の調和をもたらす言葉を語ります。友愛と協調に満ちた言葉を語ります。親切で同情にあふれ利益をもたらす言葉を語ります。また、意味の無い言葉を良しとせず嘘を語りません。人を中傷する言葉、人を苦しめるきつい言葉、人を罵る言葉を話しません。他の人の噂話をすることは全くありません。中部経典のマハースンニャタ経(Mahāsuññata Sutta)には会話で話題にすべき言葉、避けるべき言葉が記されています。注釈書では避けるべき話題のリストが若干異なり、より広範囲になっています。
  私もこのリストを読みました。避けるべき話題のリストの中に「女性」が含まれていますが「男性」は入っていません。ブッダはこの経を比丘であるアーナンダ尊者に向かって説かれていたからです。

   「官能的快楽がもたらす喜びはわずかであり、多くの苦しみと絶望を伴い、大変な危険が潜んでいることを正しい智慧によりはっきりと、そしてありのままに知った今、そして官能的快楽から離れ、不善な心の状態から離れる喜びと安楽を得た今、私はもはや官能的快楽に心ひかれることはありません」ブッダ:チューラドゥッカカンダ経(Cūladukkhakkhandha Sutta:小苦蘊経)

5.正しい行為

ペーマスィリ長老:
八正道の四番目は正しい行為、サンマー・カンマンタ(sammā-kammanta)です。正しい理解と正しい思考を備えた正しい行為とは自分の身体を健全にかつ適切に使うということです。

  ・他の生命が自由に生きる権利を尊重する。
  ・命を大切にする。
  ・寛大さを実践する。
  ・生命を危害から守る。

  服を洗ったり歯を磨いたりすることから始まり、爪を切るなど、適切な行動には多くの基本的なルールがあります。例えば、トイレを適切に使うためにはどのようにすればよいか多くのルールがあります。私が、トイレを粗末に扱い、使用後きれいにするのを忘れたとしたら、次に使う人が気持ちよく用を足すことが出来ません。私と次にトイレを使った人との間にいさかいが生じ、言い争いになることも十分考えられます。そして、共同社会の調和が壊れてしまうでしょう。
  あるいは、私が机の上に飲み物をこぼしてひどいことになったとしましょう。こぼれた飲み物をきれいに掃除するのが適切な行動です。私がこぼれた飲み物をそのままにして立ち去ったとしら、その場に居合わせた他の人に迷惑をかけることになります。私がこぼした飲み物をその人がきれいにする責任を負わなければならなくなるからです。やはり摩擦が生じ、良好な関係にひびが入ることになるでしょう。
  私たちは毎日のように瞑想堂の床を拭きます。その行動は適切であり、善行為となります。瞑想センターを訪れた瞑想者はきれいな瞑想堂を見て気分が良くなります。瞑想堂が気にいって、集中を得るのがずっと簡単になります。瞑想堂の掃除を怠れば汚れて埃だらけになり、瞑想者は居心地が悪くなります。瞑想者はその瞑想堂が嫌になり、集中を得るのが難しくなります。瞑想環境を整えるのは大事なことです。
  ラビンドラナート・タゴール(Rabindranath Tagore)というノーベル賞受賞者はカルカッタに住んでいました。ある時、彼は何万人という聴衆の前で祝賀を受けることになっていました。カルカッタから離れた所に住んでいたため、タゴールは汽車に乗って祝賀会場へ向かいました。ホームで汽車の出発を待っていると、飲み物を汽車に積み込んでいる人たちがいました。その人たちもタゴールの祝賀会に出席することになっていました。しかし誰もタゴールに会ったことがないため、目の前に立っている人物がタゴールだとはわかりませんでした。そしてタゴールに声をかけました。
  「おい、こっちに来て手伝ってくれ」
  タゴールはすぐに駆け寄って飲み物のケースを汽車に積み込むのを手伝いました。タゴールにとっては何でもないことでした。荷物を積み終えるとその一団はタゴールとともに汽車に乗り込み祝賀会へと向かいました。そして祝賀会の席でタゴールが壇上に上がるのを見て仰天しました。タゴールは仏教徒ではありませんし、仏教を勉強したこともありませんでしたが、大変謙虚で、自分の心のことを良く知っていました。
  正しい行為とは、身体を不善な目的で不適切に使うことを避けるという意味でもあります。誰でも自由に生きる権利があります。誰でも平穏に生きる権利があります。他者の自由と平穏を損なわないようにするため、私たちは他者を害する次の三つの身体の行為を慎みます。

  1.殺生:パーナーティパータ(pāṇātipāta)
  2.盗み:アディンナダーナ(adinnādāna)
  3.不適切に感覚的な楽しみを貪ること:カーメース ミッチャー・チャーラ(kāmesu micchā-cāra)

  殺生をしないという項目は全ての生命を対象にします。ほんの数秒しか生きられない生命もたくさんいますが、そのような生命であっても意図的に命を奪えばそれは殺生になります。どのような生命であれ私たちには命を奪う権利はありません。全ての生命にはこの世に生きる権利があり、私たちには殺生する権利はありません。小さな蟻でさえも生きる権利があります。蟻の命を奪う権利は私たちにはありません。時々蚊が腕にとまって血を吸います。しかしそれは彼らの生きる術であり、それを理由に蚊を殺す権利は私たちにはありません。私たちは殺生から離れるべきですが、実際には殺生し続けています。

デイヴィッド:中絶は殺生になりますか。

ペーマスィリ長老:
妊娠した時には女性の体に宿る命を奪うことは第一番目の戒律を破ることになる、とブッダは説かれています。妊娠は、子宮に生命体が現れると同時に、過去のカンマ(kamma:業)と新しい生存のカンマを結びつけるパティサンディ・ヴィンニャーナ(paṭisandhi-viññāṇa:結生心)が現れることを意味します。それが妊娠するということです。男女が性交渉を行ってから2週間ほどで結生心が生じます。

デイヴィッド:ブッダの時代にも中絶はあったのですか?

ペーマスィリ長老:
経典に中絶についての記述がみられます。コーサラ国のデヴィ(Devi)王妃がビンビサーラ(Bimbisāra)王の子供を身ごもった時に、その子供が成長するとやがて父親を殺すだろうという予言がありました。妃はすぐにお腹の子供を中絶しようとしました。しかしビンビサーラ王は妃を引き留めました。王はソーターパンナ(sotāpanna:預流果の悟り)を得ていたため、誰に対しても、どのような状況であっても殺生を勧めたり促したりすることはありませんでした。王は、自分の子供が自分の命を狙う敵になるかもしれないということを気に留めませんでした。妃は王の意向を組んで中絶を思いとどまりました。中絶は歴史を通じて頻繁に行われてきました。ただ、その方法が変わっただけです。
  私たちが避けるべき行為の二番目は盗みです。誰でも自分の所有物を守りたいと願い、また守る権利を持っています。他者の所有物を盗む権利は私たちにはありません。誰かがあなたの車を盗んだとします。車が必要なので盗まれた車を探します。やむなくもう一台車を買わなければならないかもしれません。物を失い、それを探し、代わりになる物を手に入れる、そうした出来事は人が自由に生きることの邪魔となります。
  人間である私たちはこの世界のどこにでも住むことが出来ます。文明の初期には人々はある国から別の国へと自由に行き来することが出来ました。当時はビザもなければ、ビザを発行する役所もありませんでした。人々は気兼ねなく旅をして旅先に住み着きました。私も好きな国に行ってそこに住むことが出来ます。しかしその国の人々は私を追い出すでしょう。
   「お前はここに住む資格がない、お前の住む処はスリランカだ」
  彼らはそんなふうに言うだろうと思います。現実的に無理ですが、基本的に私たちは人間として世界のどこでも、どの国でも住む権利があります。私たちは自由に動き回り、生活する権利があります。私たちは平和に暮らす権利があります。
  ある国に居を定めて生活することは何の問題もありません。住み着いたあとに「ここは私の国だ、ここは私の土地だ」と宣言することが問題なのです。所有という形をとることが問題なのです。こうして、カナダ人はカナダを所有し、ドイツ人はドイツを所有し、アメリカ人はアメリカを所有し、イギリス人はイギリスを所有します。皆が自分の国を所有します。誰もかれもが自分の国を所有します。スリランカでも事情は同じで、そのために争ったりします。所有は不要です。所有は邪魔になります。所有は様々な問題を引き起こします。全ての問題は所有から生じます。
  私たちが避けるべき行為の三番目は、不適切に感覚的な楽しみをむさぼること、カーメース ミッチャー・チャーラ(kāmesu micchā-cāra)です。カーメース(kāmesu)の意味は快楽の対象を渇望することです。カーメース(kāmesu)は単数形ではなく複数形となっています。従って、「不適切に感覚的な楽しみをむさぼること」は単一の種類の行為に限定されているわけではありません。また身体による行為に限定されるわけでもありません。そうではありません。「不適切に感覚的な楽しみをむさぼること」から離れるというのは五感の濫用から離れるという意味でもあります。例えば、何か不適切な音を聞くために録音機を使ったとしたら、それは耳という感覚門を濫用することになり、「不適切に感覚的な楽しみをむさぼること」に含まれます。あるいは酔っ払おうと心に決めたら、それはもう一つの感覚門である舌を濫用することになります。どの感覚門であれ濫用したらそれは「不適切に感覚的な楽しみをむさぼること」となります。


2013年9月~2014年3月へ←                             →2015年1月~2015年10月へ

前ページへ
 『月刊サティ!』トップへ
 Greenhill Web会トップへ