月刊サティ!

Wslking the Tightrope

           ぺイマスィリ長老と語る瞑想修行 
                          
  デイヴィッド・ヤング

2013年9月~2014年3月

 4.智慧

デイヴィッド:昨日ある人が私に、仏教は馬鹿げている、ブッダが2500年前に教えたことはもはや意味が無いと言いました。


ペーマスィリ長老:
ブッダの言葉は今でも通用します。彼は智慧ある人々とつきあい、愚かな人々を避けるようにと勧めています。

デイヴィッド:瞑想よりも津波の難民キャンプで活動した方が有意義だと思いますが。

ペーマスィリ長老
人を助けることは良いことです。しかし、一人の人間が、他の人間のためにできることには限りがあります。カンマ(kamma:業)は複雑です。金持ちであろうと、貧乏であろうと、あるいはその中間であろうと、幸福や不幸を決定づけるものではありません。全く逆です。豊かでも不幸な人はたくさんいます。また貧乏でも大変幸福な人はたくさんいます。富と幸福は関係ありません。
  あなたがこれから学ぶべき、あるいは他の人が手に入れるのを助けるべき最も大事なもの、それは智慧です。今までに学んだもっとも価値あるもの、また他の人にもそれを教えることのできるものは智慧です。智慧こそ最大の贈り物です。智慧によって苦しみを終わらせることができるからです。

智慧の三つの土台

ペーマスィリ長老:パーリ語でパンニャー(paññā:慧)と呼ばれる智慧には三つの土台があります。
  ・知識:ニャーナ(ñāṇa)
  ・理解:アヴァボーダ(avabodha)
  ・自ら体得すること:パッチャッタンヴェーディタッバ(paccattam veditabba )

  教師と勉強し、本を読み、友と語らうことで多くの物事について理解を得るようになります。実践的な俗世間の知識は日常生の中で自分を向上させることに役立ちます。人々はその知識を活用して、科学者、技術者、医者になります。技術者は建物の構造についての知識があるのでビルの欠陥を評価し改善することができます。  医者は身体についての豊富な知識があるので、患者の病気を診断して薬を処方します。知識はこの世、ローキヤ(lokiya:俗世間)では大変有用です。
  ローキヤとは何を意味するのでしょうか。

デイヴィッド:ローキヤは俗世間を意味すると思います。人々、動物、木々、山々、川、そして命で満たされた場所です。たくさんの物があります。サンサーラ(saṃsāra:輪廻)です。

ペーマスィリ長老
よろしい。良い答えです。サンサーラとは何ですか。

デイヴィッド:生まれて、生きて、歳をとって、病気になり、死んで、再び生まれることを繰り返すことです。サンサーラはまた過ちなどの物事を何度も何度も繰り返すことも意味します。

ペーマスィリ長老:
再び生まれるのは誰ですか。

デイヴィッド:私です。私が再び生まれます。

ペーマスィリ長老:
誰ですか。

デイヴィッド:誰だか、何だか、私にはわかりません。

ペーマスィリ長老:
私と呼ばれる人があらゆるものを作り出し、全てを所有します。欲界(感覚世界)の中の人間界、色界(微細な物質の世界)、無色界(物質の無い世界)を通じて私と呼ばれる人物を見いだすことができます。この三つの世界全てが俗世間の存在領域、ローキヤです。
  知識を開発することはこの三つの生存領域の本質を観察するのに役立ちます。欲界(感覚世界)で生じる現象の性質を探求することにより、科学者は物質、すなわちルーパ(rūpa)の特性を明らかにします。そして、色界(微細な物質の世界)と無色界(物質の無い世界)の現象の性質を調べることにより、瞑想者は心、すなわちナーマ(nāma)の性質を明らかにします。瞑想者は欲界での物質の本質を発見するだけでなく、自分の心を研究します。
  知識は能力を左右します。物質についての知識を使うことで、技術者は世界中に情報を送る電話を設計し、化学者は穀物に栄養を与える肥料を調合します。物質、そして物質とは異なる心についての知識を用いることで、医者は心と身体の病気を治療します。物質と心についての知識はこの世界ではとても有用です。
  瞑想者は心についての知識を用いて精神的な離れ業を行います。心が成長して禅定に達した瞑想者は世界中のどこにでも情報を送る超能力を得ます。電話はいりません。そして心を使うだけで物質を作り出すことができます。この能力はイッディヴィダ(iddhividha)と呼ばれています。
  化学者は、水素と酸素を物質的に組み合わせて水を作りますが、瞑想者は心を用いて水を作ります。キリストにもブッダにも超能力がありました。キリストは強力でした。彼は食べ物を複製し、雨を降らせました。ブッダの時代、多くの人が心の能力を高いレベルにまで発達させました。ガナーナ(
Gvnana)というインドの女性は自分の分身を作りましたし、心で金属を曲げる人たちもいました。
  技術者、化学者、医者や強力な瞑想者は、みな独自の知識を高いレベルに発達させて、正しく使ってきました。しかし、私たちの目的は自分自身の苦しみを克服することですから、世俗の知識よりも、瞑想の知識を発達させることがより重要です。瞑想修行によって得られた知識を用いて、ものごとをありのままに観察し、サンサーラから解放されます。これは根本的なことです。ある科学者たちは、とても高いレベルの知識を持っていますが、奥さんや旦那さんを怖がったりします。
  ブッダや独覚、阿羅漢を除き、全ての人々は八つの世俗的な条件に煩わされます。長部経典のサンギーティ経
(Sangīti Sutta:等誦経)で次のように名付けられています。
  ・利益と損失
  ・名声と汚辱
  ・賛美と非難
  ・歓喜と苦痛
  これらの障害を克服するために、良き瞑想者は現実の本質についての知識を育てます。
  慈愛、そしてカンマ(業)の法則を理解することで、彼らは禅定を得て、善人になります。
  欲界(感覚世界)、色界(微細な物質の世界)、無色界(物質の無い世界)で明瞭に観察することにより、善人は他者を助け、自らを助けます。その気になれば、悪い人々にも善い影響を及ぼすことができます。
  ブッダの若き日の指導者達のような善人は死後、無色界(物質のない世界)の高い領域に再生する可能性が高いとされています。対照的に悪人は欲界(感覚世界)の低い領域に再生しやすいとされています。それでも、善人はまだ俗世間の人であり、悪人の影響を受ける可能性があります。そのため善人も畜生界のような下層世界に生まれる可能性が残っています。善人もまだ極めて善い人ではないため、死後はより高い生存領域に生まれることも、より低い生存領域に生まれることもあります。
  極めて善い人になるためには、出世間的な解放の段階、ロークッタラ(lokuttara)に達する必要があります。出世間の道果を悟った極めて善い人は、欠点が無く、気品があります。
  そして善人も悪人も彼に心引かれますが、彼に対して影響を及ぼしたり、彼を困らせたりすることはできません。極めて善良な人は常に高い生存領域に生まれ、下層世界に生まれることはありません。大まかに言えば、十人に一人は善人で、千人に一人が極めて善い人です。
  欲界(感覚世界)、色界(微細な物質からなる世界)、無色界(物質の無い世界)はまだサンサーラの生死の繰り返しの中に止まっており、それ故満足できるものではありません。サンサーラから脱出し、こうした俗世間の生存領域から逃れるために、私たちは瞑想の知識を用いて、出世間的な解放の段階へ達します。知識はこうした智慧の開発を支えます。
  しかし、知識は智慧とは違います。知識は異なる人々で共有することができますが、智慧は他人と共有することはできません。智慧は経験でしか得ることができず、全てあなただけのものです。それは個人的な悟り、パッチャッタンヴェーディタッバ(paccattam veditabba)によって得るものです。あなた自身の中からやってきます。

デイヴィッド:なぜ智慧が必要なのですか。


ぺーマスィリ長老:
私たちは多くのものごとに智慧を必要とします。原因と結果の過程を観察し、理解するために智慧が必要です。原因と結果が正しく観察された時、私たちは原因と結果から解放されます。
  また、無常、苦、無我という存在の三つの性質を観るために智慧が必要です。輪廻を理解し、歩むべき道を知り、この輪廻の世界から自由になって涅槃という幸せを悟るために、智慧を必要とします。涅槃はローキヤ(lokiya:世間)という俗世間の存在領域から独立しています。俗世間の領域を完全に理解して悟りを得るために、智慧が必要です。
  例えば、預流者は私たちが持つ心の潜在能力を普通の科学者よりも上手に使います。存在の本質を見抜き、道の智慧を得て、預流者は俗世間から解脱する最初の段階を悟ります。阿羅漢は心の潜在能力の約40%を使って悟りを得ます。サーリプッタ長老、モッガラーナ長老は心の潜在能力の60%を使いました。そして、ブッダは自分の心を極限まで使われました。

デイヴィッド:存在の三つの本質を観るということは私の智慧が増しているという意味ですか?

ぺーマスィリ長老:
その通りです。修行の初めの頃は、存在の本質についての理解は限られています。無常、苦、無我を観ますが、漠然としています。瞑想によってこの世界についての理解が深まり、同じように智慧も深まります。この三つの性質を極めて明瞭に観察し、世界の本質を悟った人は誰でも、本当の意味での智慧を持っています。
  智慧が無ければ、ブッダが「無常」という言葉で示された意味を誤解します。私たちは車が錆び、建物が壊れ、草花が萎れ、友人が死ぬのを見、そしてそれが、ブッダが意味したことだと思っているのです。確かにそれらは無常が原因で生じてはいますが、肉眼で見える物質がぼろぼろになって壊れていくのは、条件づけられた全てのものごとが被る粗大な変化、ヴィパリナーマ(vipariṇāma:変壊)に過ぎません。粗大な変化は誰でも知っています。私たちは車が錆び、建物が壊れ、人が死ぬことを知っています。
  ブッダは「無常」を説いた時、こうした粗大な変化よりもはるかに深く、微細なものを意味されていたのです。
  「無常」は全ての条件付けられた現象が一瞬一瞬被っている変化であり、微視的な変化です。物質であれ心であれ、あらゆる瞬間に変化してしまうという性質を持っています。絶え間無く生じては滅しています。生を受けたものはいかなる瞬間でも崩壊し、死を迎える運命にさらされています。普通、私たちは無常を観ていません。しかし、もし注意深く観察すれば、無常を観ることは可能です。
  今この白板に赤い線を書きました。私たちは普通、板に書かれた線だけを見て無常を見落とします。線が書かれている間、絶え間なく変化が起きています。その線を私が描き始めた瞬間から描き終えるまで、ずっと観察すべき変化がありました。私が書き始める前は、これは何も書かれていないただの白板でした。線が書かれた途端にボードの一部が赤色に変化しました。それが「無常」です。ペンのインクが減り、私の腕が動き、私は考えます。これらも全てが「無常」です。私たちがこの話し合いを始めてから今に至るまで、私たちが観たのは無常だけなのです。無常の他に観られるものはありません。全てのものは永続せず、常に変化しています。
  しかしながら私たちは、世界を何も変わることがない、安定的なものにしようと頑張ります。例えば、あなたがこうしてこの会話を録音している時に、私はしばしば咳をするのを止められません。そうすると、私はマイクが咳の音を拾うのは良くないと考えてしまいますが、それは私が無常を受け入れていないからです。そしてたった今、誰かがドアをバタンと閉めたり、あるいは別の人が近くでおしゃべりをしたりして、私たちの邪魔になります。それもまた無常です。このような永続しない対象を永続するとみなして、私たちは苦しむのです。
  私たちは不思議に思います。「なぜこの人たちはダンマの学びをサポートすることを忘れているのだろう。なぜひどい振る舞いをするのだろうか」と。これは、私が無常を微細に観ることができず苦しんでいるということです。私は粗大な変
化を見ているだけなのです。
  アリヤコーサッラ(Ariya-kosalla)とは、今の瞬間をいかに生きるかについての理解だけではなく、知識のことを言います。進歩のために諸々の条件を整えようと私たちはアリヤコーサッラを用います。この世で生きるためにはそれが必要です。私たちは人生で実にさまざまなことを学びます。でも、今のこの瞬間をどう生きるかを学んでいなければ、私たちが学ぶことのほとんどは役立てることができません。
   たった今、大きな音をたててバタンとドアを閉めて私たちの会話を邪魔した人は、今の瞬間をどう生きるべきかに気づいていないのです。私たちが何をしているかを知らずに、また理解もなかったので、そんな不適切な振る舞いをしたのです。
  マナー、そしてチャーリッタシーラ(cārittasīla)を
心得ていない人にとっては、存在の三つの性質を理解することは困難です。正しい道を進むためには、私たちは皆、今の瞬間どう生きるかを知る必要があります。修行にアリヤコーサッラを取り入れなければなりません。私たちが道を歩いている時、階段があったほうが便利なのにと思う場所に時々出くわすことがあります。ですが階段はありません。そこでもし先へ進みたければ、私たちはそれに添った行動をしなければなりません。周囲を見渡して梯子を見つけだし、それを上がって先へ進むのです。
  シッダールタ王子が老人を見かけた時、自分自身に問いました。「なぜこの男は老いてしまったのだろうか?なぜ変わってしまったのだろうか?なぜ誰もが皆老いて死んでしまうのだろうか?」
  変化を目の当たりにしたシッダールタ王子は、変化の原因の探求に乗り出しました。その結果、無常、苦、無我という存在の三つの性質を発見されたのです。
  私たちは、俗世間の存在領域(ローキヤ)の人間界に住んでいます。この世界ではものごとを変わらぬまま同じ状態にとどめておくのは不可能です。この世の全てのものごとは無常にさらされています。無常、苦、無我という存在の三つの性質を、私たちはいつも心の奥で意識していなければなりません。
  もし無常とは何かを真に理解したなら、「私」という実在はないのです。各自が体験すべき悟りを得れば、無我であると分かります。私たちが存在の三つの性質について語る時、私たちは智慧(パンニャー)について語っているのです。

三種類の智慧


ペーマスィリ長老:
智慧には三つのタイプがあります。

  ・知識に基づいた智慧(*情報系):スタマヤパンニ
ャー(sutamaya-paññā)
  ・考察に基づいた智慧(*思索・哲学系):チンターマヤパンニャー(cintāmaya-paññā)
  ・洞察に基づいた智慧(*瞑想系):バーヴァナーマヤパンニャー(bhāvanāmaya-paññā)
                                          注:()内は編集部

  この三つを智慧と呼ぶのは私たちが涅槃を悟るのを助けてくれるからです。これらは、最もレベルが高い究極の条件、パラマッタパッチャヤ(paramattha-paccaya)と呼ばれます。
  知識に基づいた智慧、スタマヤパンニャー(sutamaya-paññā)は他者から聞く過程を通して獲得する智慧です。私たちは聞き、学び、何らかの智慧を得ます。知識に基づいた智慧は理論的な土台を持ちます。パーリ語のスタ(suta:聞)は「聞いた」という意味ですが、スタマヤパンニャーの場合のスタは、特にブッダのような宗教的権威の言葉を聞くことを意味します。人々はブッダの話を聞き、学習しました。ブッダは人々を啓発しました。このため経典はエーヴァンメースタン(evaṃmesutaṃ)というパーリ語表現で始まります。「私はこのように聞いた」という意味です。ブッダの時代は今と異なり、多くの人々は数少ない言葉を聞いて学習しました。
  二つ目のパンニャーは考察に基づいた智慧、チンターマヤパンニャー(cintāmaya-paññā)です。これは人から学ぶのではなく、自分自身の考察を通して得る智慧です。考察に基づいた智慧とは、ある課題について深く考えるという意味です。これは正しいだろうか、あれは間違っているだろうかと考えをめぐらします。本質は何だろうかと自分自身に問います。ものごとを徹底的に考究します。例えば、ダンマ(dhamma:法)に関する会話のなかで聞いたことを深く考えることを通して、私たちはそれらから学びます。あなたは私が言っていることが正しいかどうか疑問をもつかもしれません。あなたは私の言葉についての考察を極めることで、最後は何らかの個人的な理解に到達するのです。
  私たちは考察に基づいた智慧により触(接触)、受(感受)、想(認知)、行(意思)の本質を知ります。これらの心所(心の要素)について深く考えることで、私たちはそれらを明瞭に理解するようになります。これらの心所についての絶えざる考察が、私たちのそれらに対する知識と理解を増進させるのです。深く考え、そして徹底的に考究することによって、私たちは考察に基づいた智慧、パンニャーを育てています。小さな流れが集まって大きな流れとなり、川となるのです。
  三つ目のパンニャーは洞察に基づいた智慧、バーヴァナーマヤパンニャー(bhāvanāmaya-paññā)で
す。バーヴァナーには二つの意味があります。五蓋(五つの障害、蓋はニーヴァラナ(nīvaraṇa))を減らすこと、そして五根(五つの心の能力、根はインドリヤ(indriya))を育てることです。
  官能的快楽による興奮(欲)、悪意(怒り)、怠惰・無気力(惛沈睡眠)、疑い(疑)、落ち着きの無さ・不安(掉挙(じょうこ)、後悔)、私たちはそれを減らさなければなりません。確信(信)、心の頑張り(勤)、気づき(念)、集中(定)、智慧(慧)、これら全てを育てなければなりません。
  五蓋は五つの心の能力(五根)を邪魔するので、私たちは五蓋を減らすことで五根の働き(五力)を育てます。一番目の障害である官能的快楽による興奮を減らせば、心は落ち着き透明で静かになり、それが私たちの確信を育みます。悪意を減らすことでも心は穏やかで透明になり、それが私たちの心の頑張り、エネルギーを育てます。怠惰と無気力を減らすことは気づきを育みます。五蓋のリストの四番目は通常落ち着きの無さと不安となっていますが、集中は疑いを減らすことで強化することが出来ます。実際には疑いが四番目の障害です。そして、最後に落ち着きの無さと不安を減らすことで智慧、パンニャーを育てます。五つの心の能力を育てるため私たちは五蓋を減らし、一時的に抑制しなければなりません。これがバーヴァナーです。洞察に基づいた智慧、バーヴァナーマヤパンニャーは、五蓋を減らし五根を育てる過程を通して得る理解と悟りです。

デイヴィッド:大切なのは良き指導者なのですね?

ぺーマスィリ長老:
指導者は基本です。弟子は指導者が自分の生活に関連したことについて話すとき、知識に基づいた智慧を得ます。これは弟子が指導者に尋ねる質問とは関係ありません。違います。知識に基づいた智慧とは、弟子の心に生じる理解を意味します。そして弟子は指導者の言葉を身近に感じます。
  知識に基づいた智慧の極端な例として、指導者から適切な言葉を聞いた途端に道の智慧に至ることがあります。指導が最大の機能を果たしたのです。ブッダの時代には、多くの人がブッダの啓発的な言葉をいくつか聞いただけで道の智慧に至りました。現在ではそのような人は希です。
  「スナータ・マナシカロータ・バーシッサーミ」(suṇāthamanasikarothabhāsissāmi)。法話の始めに唱えられたこのパーリ語の言葉の意味は次のようになります。
  「よく聞いて、考えてください。これから話します。(私が話していることを注意深く聞いて、私が何を言っているのか考えてください)」
  たった今あなたは私に尋ねました。私は「スナータ・マナシカロータ・バーシッサーミ」と言うこともできたでしょう。私が話さなければならないことに注意を向けてください。注意深く聞いてください。良く聞いてください。それでは私はあなたの質問に答えます。
  スナータ(suṇātha:聞く)とは、あなたが私の言葉に耳を傾ける、という意味です。マナシカロータ(manasikarotha:作意する)とは、私が話していることにあなたがしっかりと付いて来るという意味です。あなたの心は私の話に納得し、その言葉を聞くことであなたの心は変わります。あなたはただそこに座って、右から左に聞き流しているだけではありません。違います。あなたの心は常に導かれるままに道を歩んでいるのです。
  ブッダは法を聞くことには五つの利点があると説かれました。

  (1)新たな考えを聞く。
  (2)古い考えを明確にする。
  (3)心を高める。
  (4)疑いを減らし打ち砕く。
  (5)自分の見解を正す。

  知識に基づいた智慧を通して私たちはこうした恩恵を受けます。知識に基づいた智慧は大切です。それは考察に基づいた智慧の発達を支え、また洞察に基づいた智慧を支えます。
  ブッダの時代に道果を得た人々のほとんどは知識に基づいた智慧を通してそれを獲得しました。ダンマを聞いたあとで道果を得たのです。ブッダと独覚は考察に基づいた智慧を通して自分一人で道果を得ました。ものごとを考え抜いて、道果を得たのです(注)。そして最後に、洞察、バーヴァナーを元にした智慧で道果を目指すのが私たちです。
  注:ここでの“考察”は一般的な思考や考えごとではなく、真理の発見に昇華していくような深い思索を意味すると思われるが、原文に忠実に訳した。(編集部)

デイヴィッド:私にはわかりません。


ぺーマスィリ長老:
人々も私たちと同じような状態にあります。学ぶことによって得た智慧は、私たちが考察や洞察を通して得る智慧の支えとなります。学ぶことにより私たちは真理の性質について考究することができます。そしてそれが実際に真理を体験する支えとなります。このようにして三種類のパンニャーが育ちます。
 理解がパンニャーの二番目の土台であることを思い出してください。そして私たちは考察に基づいた智慧、チンターマヤパンニャーの開発を通して理解を生じさせます。チンターとは考えること、思いを巡らすことという意味です。そしてそのためには知識の五つの要素、ニャーナが必要です。

  (1)対象に向けられる心の働き:ヴィタッカ(vitakka:尋)
  (2)対象に止まる心の働き:ヴィチャーラ(vicāra:伺)
  (3)心の頑張り、エネルギー:ヴィリヤ(viriya:精進)
  (4)心の注意力:マナシカーラ(manasikarotha:作意)
  (5)心の一点集中:チッテーカッガタ(citt'ekaggata:心一境性)

  この五つの要素がよく開発され、正しく向けられた時に理解が生じます。ダンマについての理解を得るためには知識のこの五つの要素が働いている必要があります。アインシュタインのような偉大な科学者たちはこの五つの要素を高いレベルまで開発しています。
  考察に基づいた智慧とは私たちが自分自身と論争するという意味でしょうか?考察に基づいた智慧を育てるのに論争という言葉はふさわしくありません。高いレベルに到達するまで各ポイントについて思索します。生存とは絶えず生じ続ける心と身体の現象であると分かるまでです。私たちは知識と理解を育てて、最終的に悟りに至るのです。
  長老:最初のパンニャーは知識に基づいた智慧です。それは他人から聞いた理論的な知識です。二番目のパンニャーは考察に基づいた智慧です。自分で考えることによって得る知的な智慧です。そして三番目のパンニャーは洞察に基づいた智慧、それは純粋な理解、悟りであり、瞑想によって獲得します。
  三つのパンニャーの中で知識に基づいた智慧と考察に基づいた智慧は、世俗的な問題については、洞察に基づいた智慧以上に役立ちます。もちろん、洞察に基づいた智慧も、いくらかは俗世間で役立ちます。サマタ瞑想の実践は実のところ俗世間的な修行です。それは、この俗世間で活動する際に、冷静で忍耐強くありつづけることに役立ちます。しかし今話しあっているダンマは俗世間で生きることとは別です。
  存在の性質についての私たちの普通の理解、たとえば科学者としての理解はバナナの木のようなものです。バナナの木は一房のバナナを作ると死に絶えます。地下の茎、元のバナナの木の根から新しい茎が伸びて成長します。新しい茎は同じバナナの木が再生されたものです。同じように、存在に対する私たちの普通の理解は、終わりのない誕生の繰り返し、輪廻へと向かってしまいます。パンニャーは私たちの普通の理解と異なった働きをします。どちらかというとパルミラヤシの木に似ています。パルミラヤシは花をつける木で、子孫を作るのに種を使います。木が枯れてもその根から新たな茎が伸びることはありません。元のパルミラヤシは枯れると完全に消え去り、再び芽を出すことはありません。パンニャーがあれば、私たちは生存の三つの性質が分かり、輪廻から解脱して涅槃へ直接向かうことができます。パルミラヤシのように私たちは再び生まれることはありません。
  菩提樹の近くで樟脳の小片を燃やしている人を見たことがあるかと思います。細かく裁断した蝋のように見えます。油を燃やすとカスが残ります。しかし樟脳を燃やした場合はカスが残ることはありません。樟脳の固まりは全て燃え尽きて後には何も残りません。私たちも同じことができる可能性があります。私たちはパンニャーを使って全ての対象に無常、苦、無我という三つの性質を見いだし、輪廻を焼き尽くして涅槃を悟ります。
  パンニャーを通して全てを理解する時、私たちの貯蔵庫には何も残りません。樟脳の一部だけでも燃やせば、そこは完全に破壊されて後には何も残りません。同様に、なんとか頑張って輪廻のごく一部だけでも燃やせば、言い換えればパンニャーを通して輪廻の性質を少し悟れば、その分だけ輪廻は破壊され、破壊された部分がまた生じることはありません。
  預流果の悟りを得れば地獄などの下層世界に生まれ変わることはありません。それは確実です。パンニャーが下層世界に落ちる可能性を完全に破壊してしまったのです。不還果の悟りを得れば感覚世界の領域に戻ることは決してありません。この世界に戻る可能性が完全に破壊されています。阿羅漢になれば全てが破壊されます。どのような所であろうと戻る所はありません。再生するものは何もありません。これらがパンニャーの働きです。

デイヴィッド:長老が今おっしゃっていることは他の一部の仏教学校で言われていることと異なります。高いレベルの解脱を得た人が下層世界に落ちて戻ることがあると言う人もいます。

ぺーマスィリ長老
:世界のほとんどの伝統的な宗教は、私たちはどこかに戻らなければならないと言っています。だから私たちはパンニャーを通して物事を観なければなりません。全てを明瞭に観察しなければなりません。そしてそのような邪見を捨て去らなければなりません。
  心でラベリングする時は、パンニャーを通して行う必要があります。物事を追いやっているわけではありません。スイッチを切るのでもありません。存在の本質、真理を明瞭に観察すべく努力しているだけです。パンニャーを通して世界を観る時は、煩悩は生じません。全ての物事を、パンニャーを通して観る時、苦しみの滅尽、ニローダ(nirodha)を得ます。
  ニローダは何かを失うことではありません。もし何かを失うのであれば、私たちは再びそれを見つけることになります。失ったものはまた現れる可能性があります。ニローダはそれとは異なります。ニローダからは何も生じません。ニローダには何かを生み出すものはありませんし、手に入れることができる物は何も見つかりません。ニローダは純粋に苦しみが滅尽した状態です。ニローダに達するためには心を訓練し、しがみつくのを止め、そして執着を止めなければなりません。しかしながら、私たちはいつも全ての物事を、パンニャーを通して観ているわけではありません。煩悩が生じるのはこのためです。


第2部 四つの真理


  「この世で満足しているのは誰でしょうか。心の動揺が無いのは誰でしょうか。両極端を知り、その間で固執せずにいる思想家は誰でしょうか。偉大な人と呼べるのは誰でしょうか。生存を紡ぐもの(渇愛)を乗り越えたのは誰でしょうか」(ティッサメッテッヤ長老のブッダへの質問)

1.はじめに
ペーマスィリ長老:真理は四つあります。

  ・苦という真理、ドゥッカサッチャ(dukkha-sacca:苦諦)
  ・苦の生起という真理、ドゥッカサムダヤサッチャ(dukkha-samudaya-sacca:集諦):これは渇愛、タンハー(taṇhā)のことです。
  ・苦の滅尽という真理、ドゥッカニローダサッチャ(dukkha-nirodha-sacca:滅諦)
  ・苦の滅尽に至る道という真理、マッガサッチャ(maggasacca):これは八正道、アッタンギカマッガ(aṭṭhaṅgika-magga)のことです。

  四つの聖なる真理は原因と結果の流れです。二番目の真理は一番目の真理、苦が生起する原因です。渇愛が苦の原因です。私たちの苦しみは全て官能的快楽へのこだわり、行為(努力)の結果へのこだわり、行為(努力)の結果が得られないことへのこだわりから生じます。執着が無ければ苦しみもありません。同様に、四番目の真理は三番目の真理が生じる原因です。聖なる道を歩むことで苦しみを終わらせることが出来ます。この聖なる道とは八正道です。八正道を歩めば智慧が生じ、無知が破壊され、苦しみが終わります。
  四つの聖なる真理は真実、サッチャーニ(saccāni)です。「この世に苦しみは無い」ということは不可能です。「渇愛から苦しみが生じることは無い」ということも不可能です。「苦しみを滅することは出来ない」ということも不可能です。「八正道を歩んでも苦しみは終わらない」ということも不可能です。タターニアヴィタターニアナンニャターニ(tathāniavitathānianaññathāni)というブッダが語られたパーリ表現の意味は「真実であり、虚偽ではなく、それ以外の何物でもありません、あるがままです」という意味です。四つの聖なる真理は真実であり、虚偽ではなく、それ以外の何物でもありません。正しく、正確です。世界中の誰もこの四つの真理が事実と異なると、反論することは出来ません。この四つの真理を誰も変えることは出来ません。四つの聖なる真理は真実です。
  四つの聖なる真理はまたアリヤ(ariya:聖)です。この聖なる道により人々は存在の本質を観て道果を得ます。現象の本質、アニッチャ(anicca:無常)、ドゥッカ(dukkha:苦)、アナッタ(anatta:無我)を高いレベルで理解し、苦しみからの解放の段階に至ります。預流果を悟ると、人は聖者になります。世俗の人間ではなくなります。阿羅漢、独覚、ブッダは全て聖者です。
  阿羅漢はブッダが示された道をたどって存在の真実を悟ります。独覚は自分一人で悟りますが法を説くことが出来ません。独覚は夢を実現しながらそれを黙っている人のようなものです。自分の悟りを表現することが出来ないのです。ブッダは独力で存在の真実を再発見し完全に悟り、そして真理を世界に伝えます。
  シッダールタ・ゴータマはこの存在の真実を再発見し、それを悟り、苦しみからの完全な解放を得ました。彼がブッダと呼ばれるのはこのためです。彼は悟りを得ました。人間が到達できる最高の悟りに達したのです。四つの聖なる真理は、完全なる悟りを得たブッダが説かれたものであり、それ故、聖なる真理なのです。
  四つの聖なる真理は世俗の真理ではありません。俗世間の人たちは男も女も俗世間のレベルから四つの聖なる真理を見ます。彼らは世俗的な存在の四つの真理、ヴォーハーラサッチャ(vohāra-sacca:世俗諦)を見ているだけです。例えば四つの聖なる真理の一番目、苦しみという真理を、俗世間の人々は自分たちの世俗的な経験に照らして理解します。苦しみの本質に対する洞察が無いため、第一番目の真理を聖なる真理ではなく世俗的な真理として理解するだけです。同様に第二番目、第三番目、第四番目の真理も世俗的な観点から理解しているだけです。彼らはまだ道果を得ていません。四つの真理に対する洞察がまだありません。だから聖なる真理としてではなく俗世間的な真理としてしか理解しません。俗世間の人々にとって四つの聖なる真理は人から聞いたものに過ぎません。
  それに対して、聖者たちは四つの聖なる真理を聖なる真理として理解しています。彼らは既に道果を得ており、四つの聖なる真理を究極の真理、パラマッタサッチャ(paramattha-sacca)と見なしているからです。例えば預流果に悟った人は苦しみという真理を聖なる苦しみの真理として理解します。なぜなら苦しみという真理を真に洞察したからです。人から聞く段階、一般的な苦しみの理解を越えて、究極の理解へと到達しています。預流果に悟った人は残りの三つの聖なる真理も同様に理解します。苦しみの生起、苦しみの根絶、苦しみの根絶に至る道を真に洞察します。四つの聖なる真理についての悟りを得た預流果、そして他の段階の聖者たちは、聖なる真理を語ります。
  時々子供たちが寺にやってきます。何か食べる物が欲しくて食堂や倉庫やいろいろなところについてきます。私は子供たちにチョコレートをあげて、一緒に何が善いことか、何が悪いことかについて話し合います。子供たちが理解できるごく簡単なことだけ説明します。子供たちに四つの聖なる真理を説明しようとはしません。子供たちはこのダンマを理解できません。私たちも同じです。
  私たちは、四つの真理、存在の一般的な四つの真理だけを話し合います。四つの聖なる真理そのものを話し合うことはしません。その代わりに世俗的な苦しみ、世俗的な苦しみの生起、世俗的な苦しみの根絶、世俗的な苦しみを根絶する方法について話し合います。
  私たちは日常的な観点から四つの聖なる真理について話します。修行の最初の段階ではただの四つの真理しか分からないからです。
  ブッダは一般的な真理と究極の真理の両方を教えられました。俗世間での生活で苦しみを減らしたいと願っている俗世間の人々に一般的な真理を教えて、人間界、天界で良い境遇に生まれ変われるようにしました。そうした人々は涅槃を悟ることに関心がありません。ですから、無常という性質と、無我で実体がないという性質を間接的にしか説明されませんでした。この世界で苦しみを減らすには、この世界でどのように行動すべきかを説明されたのです。
  「心の汚れを少なくしなさい」とブッダは教えられました。「善くない行為をやめて、善い行為を行い、心を清らかにしなさい。それが必要なことです」と説かれました。俗世間の人たちには四つの聖なる真理に説かれた究極の真理を教えることはしませんでした。
  ブッダは常に相手の立場からものを見て、その人の目標や能力に応じて教えを説かれました。全ての苦しみを無くして涅槃を悟ることを目標にし、その能力を持ち合わせた人にだけ究極の真理を説かれました。ブッダは教えを説く相手に合わせて、教える内容を選びました。
  そのため、ある時は良い境遇へ生まれ変わらせるために、ある時は預流果を悟らせるために、ある時は不還果を悟らせるために、またある時は阿羅漢果を悟らせるためにダンマを説かれました。心が清らかであれば私たちもダンマを知り、一般的な真理だけでなく究極の真理を理解して目標を達成することでしょう。瞑想修行は涅槃へ向かう道なのです。

「生まれることは苦しみです。歳を取ることは苦しみです。病は苦しみです。死は苦しみです。悲しみ、苦悩、苦痛、悲泣、絶望は苦しみです。厭な人と会わなければならないのは苦しみです。愛する人と別れなければならないのは苦しみです。欲しい物が手に入らないのも苦しみです。簡単に言えば、五蘊に執着することが苦しみです」(ブッダ:初転法輪経)

2.苦しみ
ペーマスィリ長老:第一番目の真理は苦しみ、ドゥッカサッチャ(dukkha-sacca:苦諦)です。苦しみは存在します。苦しみの存在を否定することは誰にも出来ません。この言葉は真実であり、虚偽ではなく、それ以外の何ものでもありません。例え逆立ちしてもこの言葉を変えることは出来ません。苦しみが存在するという事実をだれ一人として変えることは出来ません。これは動かしがたい事実であり、だからこそ苦しみの存在は真理と呼ばれているのです。苦しみは第一番目の真理です。それは四つの性質を持ちます。

  ①抑圧:ピーラナ(pīḷana:圧迫)
  ②条件付けられていること:サンカタ(saṇkhata:有意)
  ③熱と火:サンターパ(santāpa:熱)
  ④変化:ヴィパリナーマ(vipariṇāma:変化)

  この四つの性質を持つものはどんなものでも苦しみと呼ばれます。心が清らかであれば存在の本質を明瞭に観察して、私たちが抱えた挫折、抑圧、重荷が分かるようになります。この抑圧が苦しみの主な性質です。抑圧は原因があって生じます。何もないところからいきなり生じるのではありません。私たちが経験する苦しみは原因があって生じます。原因がなければ苦しみも生じません。苦しみを生じさせる原因が必ず必要です。苦しみは結果です。私たちは抑圧と熱を感じます。苦しみは燃え盛ります。火のそばに立つと私たちは熱を感じます。火のそばに立っているのに熱を全く感じないと言うことは出来ません。火のそばでは確かに熱を感じます。
  最後になりますが、私たちの苦しみは時に極端に強くなり、時には十分耐えられるぐらい弱くなります。苦しみは変化します。条件付けられた全ての現象は崩壊します。これは苦しみにもあてはまり、それも変化という性質を持っています。こうした苦しみの四つの性質、抑圧、条件付け、熱、変化は真実であり、虚偽ではなく、それ以外の何ものでもありません。タターニアヴィタターニアナンニャターニ(tathāniavitathānianaññathāni)

「では比丘たちよ、苦の原因という聖なる真理とは何でしょうか。それは出生をもたらす渇愛であり、快楽と情欲に結びつき、此処彼処に新たな歓喜を求めます。すなわち官能的快楽を渇望すること、行為の結果を渇望すること、行為に結果が無いことを渇望することです。この渇愛はどこから生じ、地歩を固めるのでしょうか。どのような世界であれ、好ましく心地良いものが有るところに渇愛が生じ地歩を固めます」
ブッダ-大念処経(MahāsatipatthānaSutta)


3.苦の原因
ペーマスィリ長老:第二の真理は苦の原因、ドゥッカサムダヤサッチャ(dukkha-samudaya-sacca:苦集諦)です。私たちはなぜ苦しむのでしょうか。人生に満足できないのはなぜでしょうか。苦しみは何から生じるのでしょうか。
 苦しみを生じさせる原因には四つの特徴があります。

  1.カンマ(kamma:業)を積み上げる;アーユーハナ(āyūhana:存続)
  2.サンサーラ(saṃsāra:輪廻)の中で因果の連鎖を結び付ける;ニダーナ(nidāna:因縁)
  3.生命を苦しみに縛り付ける;サンヨーガ(saṃyoga:結縛)
  4.苦しみからの解放を妨げる;パリボーダ(palibodha:障碍)

  これらの四つの特徴を持つ物はあらゆる苦しみを生み出します。タンハー(taṇhā:渇愛)はこれらの四つを持ちあわせているため、苦しみの原因となります。繰り返しますがこれは真理です。間違いはありません。真理以外の何物でもありません。
  カンマ(業)を積み上げる(アーユーハナ)のが、渇愛の一番目の特徴です。「積み上げる」という言葉は、築く、ないし組み立てるという意味で用いられています。たとえば、レンガ、コンクリート、垂木、屋根瓦を一定の方法で組み立てることで、この瞑想センターの職人たちは瞑想小屋を築きます。同じように、私たちは執着することで人生を築きます。
  サンサーラ(輪廻)は、一般的にある生から次の生へと続いて行く生存全体として捉えられています。出生、老化、衰弱、死、再生という周期が何度も何度も終わりなく繰り返されます。
生存の繰り返しに甘んじてはいますが、賢者は生存が瞬間の連続であることを知っています。この瞬間に、ある行為を為すと、次の瞬間、(まだ今生に生存していれば今生において)良いものであれ悪いものであれその行為の結果が生じます。しかし、賢者は、だからと言って、ある行為が不確定の未来の生存にそのまま持ち越されるのではなく、生存におけるそれぞれの瞬間は、全く新しく独自の心と物質から成りたっていることも分かっています。
  自我は心と身体から構成され、五つの執着の塊、すなわちパンチュパーダーナッカンダ(pañc'upādānakkhandha:五取蘊)にまとめられます。受(感受)、想(認知)、行(意志形成)、識(意識)、色(物質としての身体)の五つです。
  ある瞬間に五蘊を生起させる原因をまとめ上げることで、次の瞬間に五蘊が自我として経験されます。私たちは、五蘊を生起させる原因を絶えずまとめ上げています。朝起きてから夜寝るまで、心地良い眺め、音、におい、味、身体的接触、思考を渇望します。心地良い感覚対象との接触を楽しみますが、それを抑制することはまずありません。実際は全く逆で、対象に新たな喜びを求めようとします。
  アラハット(arahat:阿羅漢)は、五蘊が生起する原因を作らないため、再び生を受けることは決してありません。

デイヴィッド:アラハットが、五蘊が生起する原因を作らないのだとしたら、なぜ五蘊が生起し続けるのでしょうか。アラハットはなぜ消え去ってしまわないのでしょうか。

ペーマスィリ長老:
生存を持続させる業、すなわちジャナカカンマ(janaka-kamma:令生業)は強力で、アラハットが生きている間、五蘊を作り続けます。アラハットは五蘊に執着することがないだけです。アラハットにはもはや執着はありません。それだけです。執着がないため、アラハットには自分という感覚がありません。気づきを絶やすことなく、死ぬのを待つだけです。生を渇望することも死を渇望することもありません。
  アナーガーミー(anāgāmī:不還者)は感覚世界、すなわちカーマローカ(kāma-loka:欲界)で五蘊が生起する原因を作らないため、欲界に再び生を受けることは決してありません。ソーターパンナ(sotāpanna:預流者)は下層世界、すなわちアパーヤ(apāya:悪趣)で五蘊が生起する原因を作らないため、アパーヤに生を受けることは決してありません。彼らはより高い生存世界にのみ生を受けます。
  苦しみの原因、すなわち渇愛の二番目の特徴は、サンサーラ(輪廻)の中で因果の連鎖を結び付けること、ニダーナ(因縁)です。十二の主要な因果(十二因縁)により私たちはサンサーラの中での生存を永久に続けます。
  十二因縁は、(1)無知(無明)、(2)意志形成(行)、(3)意識(識)、(4)心と物質(名色)、(5)六つの感覚器官(六処)、(6)接触(触)、(7)感受(受)、(8)渇望(渇愛)、(9)執着(取)、(10)新たな生存(有)、(11)出生(生)、(12)衰弱と死(死)からなります。
  心と物質の因果を結び付けるのは渇愛であり、渇愛が苦しみの原因を絶えず供給し続けます。私たちは心地良い対象との接触を渇望する時、同時に苦しみへの結び付きを作ります。私たちには心地良いものを渇望する傾向があります。絶えず好ましいものを追い続け、渇愛を増強することによって因果の連鎖が強固に結び付き、それが私たちをサンサーラ(輪廻)に縛り付けます。私たちの渇愛が苦しみを養います。私たちは自分で自分の苦しみの種を作り出しているのです。渇愛の三番目の特徴は、苦しみと結び付くことです。渇愛は、生命を苦しみに縛り付けるサンヨーガ(結縛)です。生きている間、私たちは皆、多くの善行為を為し、また多くの不善な行為を為します。私たちの行為の多くが苦しみを永続させ、ニッバーナ(nibbāna:涅槃)の成就へ向けた私たちの歩みを妨げます。

デイヴィッド:善行為が私の進歩を妨げるのですか?

ペーマスィリ長老:
善行為を為すことに執着すると、苦しみを完全に消し去り、ニッバーナへ到達することが難しくなります。執着は解脱の妨げとなります。善行為を多く為せば、天(欲界)、梵天(色界、無色界)、あるいは再び人間として生まれる可能性があります。劣った行為や不善な行為を多く為せば、蛇か他の動物の姿で生まれるかもしれません。
  ソーターパンナ(sotāpanna:預流者)にとっての結縛は、世俗的な人々にとっての束縛とは質的に異なります。預流者は結縛を減らし、下位の世界で生を受ける可能性を無くしています。ソーターパンナがサカダーガーミー(sakadāgāmī:一来者)の段階に到達すると、束縛はさらに変化し減少します。アナーガーミー(不還者)になると、束縛はよりいっそう変化し、少なくなります。アラハット(阿羅漢)は束縛を全て断ち切っています。私たちは、心地良い対象との接触を渇望し、善行為を為すことに執着しているため、いまだ結縛の中にいます。私たちは善行為と不善行為を誤解し、苦しみから離れることができず、ニッバーナへ到達できません。
  渇愛の四番目の特徴は、苦しみからの解放を妨げること、すなわちパリボーダ(palibodha:障碍)です。渇愛はニッバーナ(nibbāna:涅槃)への障害となります。私たちは生きている間中ずっと、五蘊を渇望します。五蘊に執着するのです。こうして心と物質を貯めこんでも、私たちは死に到ります。五蘊は私たちと一体であり、そのため私たちは死んで、再び生まれなければならないのです。私たちは死に向かって努め励んでいます。

デイヴィッド:死に向かって努め励むとは奇妙に聞こえます。

ペーマスィリ長老:
ブッダの世界の見方は私たちが通常見るやり方とは正反対です。ブッダは不死に向かって努め励みました。死に向かって努め励むことはありませんでした。いかに生きるかではなく、いかに死ぬかが問題です。それこそが問題なのです。私たちの倉庫に(渇愛が)何も残っていなければ、死ぬことも、また生まれる必要もありません。ブッダが出生から解放されたのは、まさに倉庫に(渇愛が)何も残っていなかったためです。ブッダは渇愛を完全に止滅させることで、死から逃れました。渇愛がなければ、死はありません。私たちは常に死に向かって努め励んでおり、ブッダのように不死に向かって努め励むことができません。私たちが不死に向かって努め励むことを嫌うのは、それが清浄道、瞑想による心の向上だからです。しかし、正しく瞑想することで、私たちは死から解放されます。
  坐って目の前の空間を見ても、何も見えません。しかし、私たちはその空間には物質的に空気が存在していることを知っているため、そこが空虚であるとは言いません。同様に、私たちには心の中の渇愛は見えません。とりわけ心地良い、あるいは心地良くない対象が感覚器官に接触した時初めて、普段は気がつかないけれども癖になっているそうした対象への渇愛に気づきます。対象が実際に心に入り込んだ時のみ、渇愛が連続して生じる様子に気づきます。渇愛と渇愛がもたらす結果に対する無知は大きな障害になります。
  この障害に打ち克つために、瞑想者たちは渇愛の本質と欠点について探究します。瞑想者たちはこの探究により渇愛が苦しみの原因であると理解します。苦しみは渇愛から生じます。苦しみを終わらせ、ニッバーナ(涅槃)へ達することを望んで、瞑想者たちは渇愛に気づきを入れます。そして、(苦しみを生む)この過程への執着を断ち切ります。

「瞑想にいそしみ、屈することなく精進を続ける賢者だけが涅槃、束縛からの比類なき解放を経験します」ブッダ:ダンマパダ(Dhammapada)

4.苦の滅尽
ペーマスィリ長老:
第三の真理は、苦の滅尽、滅諦(ドゥッカ・ニローダ・サッチャ:dukkha-nirodha-sacca)です。ニローダ(nirodha)とは、滅尽を意味します。それは生起、サムダヤ(samudaya)の反対です。滅尽は、終わりを指します。原因が完全に破壊されます。滅尽からはどのような結果や効果も生じません。滅尽したものは、完全に破壊され、再び現れたり、存在したりすることは決してありません。例えば、何かを無くしたとしてもそれは滅尽ではありません。なぜなら、無くした物は、見つけることが出来るからです。
  無くなることと、完全に破壊されることは全く異なります。私たちは死んでも、再び生まれ変わります。もし苦しみを滅尽し、死ぬことが無くなったら、再び生まれ変わることはありません。物質としての身体が死んでも魂が生き続けると信じている人たちがいます。彼らは、苦の滅尽とは魂が平穏のうちに永遠に生き続けることができる天国に違いないと信じています。これは、苦の滅尽が意味するものとは全く異なります。条件付けられた現象は全て崩壊と死を迎える運命にあり、そのため苦しみをもたらします。安らぎに満ちた天国に住む魂は、たとえそれが目に見えないようなたぐいのものであったとしても、やはり条件付けられた現象の一つの形です。ですから天国で生きることもやはり苦をもたらします。ニローダは、苦しみが完全に根絶やしになることを意味します。崩壊、死、そして誕生が二度と起こらない、それがニローダの意味です。タタ、アヴィタターニ、アナンニャターニ(tathaavitathānianaññathāni)。
  苦の滅尽は、以下の四つの特徴を持っています。

  1.苦から逃れること、ニッサラナ(nissaraṇa:出離)
  2.障害が無くなること、ヴィヴェーカ(viveka:遠離)
  3.条件に左右されないこと、アサンカタ(asaṇkhata:無為)
  4.不死、アマタ(amata:不死)

  ニッバーナ(nibbāna:涅槃)だけが、この四つの特徴を全て兼ね備えています。
  滅尽の第一の特徴は、苦から逃れること、ニッサラナです。逃れるというのは、心が清らかで、煩悩から離れているということです。煩悩とは何ですか。

デイビッド:煩悩とは心のゴミであると先生は前におっしゃいました。

ペーマスィリ長老:
キレーサ(kilesa:煩悩)とは、心を汚す不健全な性質のことです。心が汚れるためには、サッタ(satta:生命、有情)が必要です。生命は執着があるから存在します。執着が無くなれば生命が存在を続けることは無くなります。ですから、生命がいなければ煩悩も存在しません。煩悩が存在しなければ心は清らかです。
  ここに私の湯飲み茶碗があります。それを渇望するのは誰ですか。それに執着するのは誰ですか。茶碗に執着するのは持ち主ですか、それとも別の人ですか。

デイビッド:茶碗の持ち主です。

ペーマスィリ長老:
煩悩へとつながる過程は茶碗が目に入った途端に始まります。その茶碗が私に与えられると、それを渇望しそれに執着する余地が生じます。何かが自分のものになったと知ると、誰でもそれに執着してしまう可能性があります。そしてそのため私たちは不幸になりかねません。この茶碗が存在していなかった時のことを思い描いてください。茶碗はまだ作られておらず、だれからもこの茶碗を貰っていません。その時の私の心の中はどうでしょうか。茶碗をまだもらっていないのに、それを渇望するでしょうか。それに執着するでしょうか。

デイビッド:しません。


ペーマスィリ長老:
茶碗が存在する以前には、それに対する執着はありません。茶碗という概念が心に入る前は、その茶碗を渇望することも、それに執着することもありません。渇望することもしがみつくことも全くありません。ここにあるこの茶碗に関して心に何かが生じることはありません。苦から逃れること、ニッサラナ、そして滅尽という心の状態、ニローダという性質とはこのようなものです。苦しみから逃れること、ニローダについて説明してほしいと言われたらどのように話しますか。

デイビッド:その人の車について話をします。その人がまだ子供で車を持っていなかった時のことを覚えているかどうか尋ねます。その当時は、車に執着することもなく、車に関わる問題をかかえることも無かっただろうと思います。

2012年12月~2013年4月へ←                       →2014年4/5月合併号~2014年12月へ

前ページへ
『月刊サティ!』トップへ
Greenhill Web会トップへ