月刊サティ!

Wslking the Tightrope

           ぺイマスィリ長老と語る瞑想修行 
                          
  デイヴィッド・ヤング

2012年12月合併号~2013年4月号

 デイヴィッド:瞑想実践を始める前に必要なものは何でしょうか?

ペーマスィリ長老:透明で自由な心、澄みきって何も期待しない心が必要です。人々はたいてい、瞑想に多くのことを期待します。
  集中力を身につけたい、ジャーナ(jāhna:禅)を得たい、あるいは抱えている問題から逃避したいと思います。例えば、離婚はよくある問題です。

デイヴィッド:そうですね!

ペーマスィリ長老:財産、仕事、配偶者、あるいは子どもなど、何かを失います。そして意気消沈し、感情を抑えることが難しくなります。そしてそこから逃げ出したいと思います。誰もが問題を抱えています。
  まずはその人たちの問題に耳を傾ける必要があります。瞑想を教えることが出来るようになるのはその後です。何よりもまず慰めが必要なのです。私は、誰に対しても集中を得るようにと助言することはありません。
  そうではなく、心の準備が出来たところで、この世界の現実、自分の心の現実を見るようにしてはどうかと勧めるだけです。意欲を持って自分自身の心を正直に見るようにすれば、瞑想はとても早く上達するでしょう。
  以前お話ししたように、ヴィパッサナーバーヴァナー(vipassanā-bhāvanā :ヴィパッサナー修習)によって得たサマーディ(samādhi:定:集中)は、サマタバーヴァナー(samatha-bhāvanāサマタ修習)だけで得たサマーディ(samādhii:定)よりも安定しています。
  また、ヴィパッサナー(vipassanā)は無智と妄想を破壊するため、単なるサマタ(samatha)よりも有益です。サティ(sati:気づき)と智慧はヴィパッサナーバーヴァナーの基礎であり、無智や妄想を全く寄せ付けません。
  早朝の澄んだ露のしずくは、太陽の光を捕らえて輝きます。対照的に、泥が混じった露のしずくは、そのようなことはありません。太陽が輝いても、泥混じりの露のしずくは、太陽の光を捕らえることは決してありません。
  ここでは、太陽はニッバーナ(nibbāna:涅槃)、澄んだ露のしずくは無智や妄想から離れた心、そして泥混じりの露のしずくは無智や妄想で汚れた心を指します。心が無智から離れている時、私たちはニッバーナの光を捕らえます。私たちは、ニッバーナのように清らかに光り輝きます。
  しかし、心に無智や妄想が入り込むとそうはなりません。私たちが澄んだ露のしずくのようになるまでは、決してニッバーナを理解することはありません。私たちは煩悩から離れる必要があります。そして無智から離れる必要があります。
  私たちはこの点をはっきりと理解しておかなければなりません。私たちは心の無智を壊したいと望んでいます。そしてこの世界の真理を観察し、完全に理解することで、平穏、静寂、ニッバーナに向けて旅します。
  例えば、旅を始めたばかりの瞑想者は、まず自然の美しさを先入観なしに知覚できるようにしなければなりません。自然の美しさに執着しないようにしなければなりません。
  しかし、多くの瞑想者の心は強く条件付けられていて、偏見と執着から離れることができません。ニッバーナへ向かう道を旅するつもりが、別の道を旅することになります。
  私たちはすべての対象が流れ去っていくのを、あるがままに観察しなければなりません。瞑想者は最初の時点からある程度そのような能力、何事にも執着せずただ観察する能力を備えていなければなりません。
  人生で何をしているのかと人々に尋ねれば、食事をしています、仕事をしています、眠っています、など様々な答えが返ってくるでしょう。
  しかし、私たち誰もがしていることが三つあります。
  一つ目は、呼吸することです。呼吸をするのはごく自然なことです。ああ、私は呼吸したい、と考える必要はありません。呼吸は自動的に起こります。
  二つ目は、考えることです。私たちはいつも何かを考えています。私たちがどこに行こうとも、思考の過程がそこにあります。
  そして、三つ目は老化です。老化についても、考える必要はありません。それは誰にでも起こります。私たちは日々歳をとります。呼吸すること、考えること、年をとること、これらの三つは私たちすべてに共通します。
  私たちがどこに行こうが、何をしようが、これら三つはいつも私たちと共にあり、いつも起こり続けています。私たちが生まれた時からずっと起こり続け、死ぬまで続きます。
  ミャンマーであれタイであれ、あるいはイギリスであれ、どこへ行って瞑想しても、これらの三つは依然私たちと共にあります。国によって対象に僅かな相違があるかもしれませんが、それは外面的な違いに過ぎません。
  これらの国へと旅する時、私たちの心も私たちと共に移動します。国が変わるだけで、私たちの心は変わりません。
  瞑想は、何かが起こった時にそのスイッチを切って止めるというものではありません。瞑想とは、今起こっていることを理解するということです。私たちは呼吸、思考、老化を理解しようと努力します、身体を理解しようと努力します。また心を理解しようと努力します。
  身長が1~2メートルで、体重が50キロそこそこの私たち自身の身体の中で、実際に何が起こっているのかを理解するようになります。
  この2メートルの距離を超えてどこかに行く必要はありません。もちろん瞑想を学び始めたばかりの人にとっては、静かな場所の方が都合が良いかもしれません。
  しかし、たとえ初心者でも、静かな場所が必要なのはせいぜい1~2週間です。
  もし物音や騒音から逃れようと長年を過ごしている人がいるとしたら、心が何か問題を抱えています。物音や騒音から離れても、その後物音や雑音に直面せざるを得なくなった際に怒りや葛藤が生じるだけです。
  ブッダは正覚を得た後、人生の大半を忙しく騒々しい町の近くで過ごしました。経典を読めばブッダが森に入り、誰も来ないようにさせたのはごくたまにしか無かったことが分かります。食べ物を運ぶ人を除き、1カ月ぐらい一人で過ごしましたが、いつも必ず町へ戻りました。
  バーヴァナー(bhāvanā :修習)の実践は、何かのスイッチを切ることではありません。それは理解することであり、心の成長を妨げる要因を減らすことであり、心の能力を高めることです。バーヴァナーに必要なものは自分自身の中にすべて揃っています。
  「燃え盛るような官能的情念によって、私の心は焼かれています。ゴータマ様、どうぞ私を哀れんで、それを消し去る方法をお教えください」ヴァンギーサ(Vangīsa)尊者 ― アーナンダ経(Ānanda Sutta

2.戒律
ペーマスィリ長老:戒律は瞑想上達の基本です。サンガ(僧団)が始まった時、ブッダの最初の弟子達は、バラモンや王族であり、高い道徳規範を持ち合わせていました。
  これらの人々は、適切に行動する術を自ら心得ており、ブッダが行動規範を定める必要はありませんでした。しかし、背景が大きく異なる様々な人々がサンガに加わり、その多くは何が適切で、何が適切でないかを知りませんでした。
  その結果、ブッダは戒律条項を定め、比丘や見習い僧、在家信者を導き、統制するようになりました。ブッダは、これらの人々に、どのようにして業務を分担し、他人と調和して生活するかを教えなければなりませんでした。
  在家仏教徒は毎日、自分を戒める五戒を守るように努力をします。(1)殺さない、(2)盗まない、(3)不貞を行わない、(4)嘘をつかない、(5)酒や麻薬などを使用しない、の五つです。
  布薩日に在家信者が精舎へ瞑想に行く時は、さらに多くの戒律を守ります。6)正午を過ぎたら食事をしない、(7)歌舞音曲を避け、花飾り、香水、化粧品、そして宝石を身につけない、(8)豪華なベッドで寝ない、の三つです。比丘は十戒を守ります。在家信者の五戒に加えて、さらに五つの戒律を守ります。(6)正午を過ぎたら食事をしない、(7)歌舞音曲を避ける、(8)花飾り、香水、化粧品、宝石を身につけない、(9)豪華なベッドで寝ない、(10)金銀を受け取らない、の五つです。
  比丘の七番目と八番目の戒律を合わせると、在家信者の七番目の戒律になります。比丘の九番目の戒律は在家信者の八番目に相当します。
  ブッダの時代より前にも、インドの人々は同じ五戒、八戒、そして十戒を実践していました。ですから、ブッダが歴史上初めてこれらの戒律を推奨した訳ではありません。五戒はもちろん、八戒、十戒さえもインド文化の中に既に存在していました。ブッダが世界で最初に定めたのは、比丘の為227の戒律です。
  マッジマニカーヤ(Majjhima Nikāya:中部経典)のセーカスッタ(Sekha Sutta:有学経)には、アーナンダ尊者がカピラヴァットゥに住むサキャ族の人々に対し、より高いレベルの修行における戒律について話をしたことが書かれています。自己規律であるシーラ(sīla :戒)には二つの側面があります。

  1.不適切な行為をしない。ヴァーリッタシーラ(vāritta- sīla:止持戒)
  2.適切な行為を行う。チャーリッタシーラ(cāritta-sīla:作持戒)

  不適切な行為をしないというのは、戒律と社会の基本的ルールを守るという意味です。不適切な行為をしないことで、私たちはお互いを支えあい、そして対立を回避します。
  しかし、それだけでは不十分です。私たちはまた、積極的に適切な行いを為すように努めなければなりません。それは道徳的な健全さを誓うことです。
  共感と慈悲の心で行動することにより、他人と自分自身を支えます。仏教用語では、これは八正道に従って生きるという意味になります。理性的な生き方である八正道は、私たちの責任と適切な行動について詳しく説明しています。私たちが責任を持って適切に行動する時、八正道そのものになります。
  人生は簡単で、単純で、それほど難しくありません。どんな社会で生きようと、どのような人であろうと、比丘であろうが在家信者であろうが、適切な行為は極めて大切です。
  適切な行為はまた、瞑想において心の集中を得るための必要条件となります。それは必須です。適切に行動する人々にとっては、集中、サマーディ(samādhi:定)を得ることはたやすいことです。大多数でないにしろ、多くの瞑想者は、適切な行為がサマーディを培うために、いかに重要かということにすら気づいていません。
  瞑想着たちはしばしば、行動をないがしろにして、もっぱら統制や抑圧により集中を得ようとします。
  このような瞑想者たちは、瞑想における集中とは瞑想堂の中で同じ姿勢で何時間もただ坐り続けることである、そう思っています。こうした瞑想者の多くは、食事とトイレの時だけしか座から立ち上がらず、それ以外は何もしようとしません。彼らはただ坐り続けます。時には自分の体を洗うことすら怠り、瞑想ホールに留まって、何時間も同じ姿勢で坐り続けます。それは本当のサマーディではありません。愚かなだけです。
  この種の行いは智慧を欠いており、こうした瞑想者はサマーディを得ることはできません。なぜなら、彼らは自ら不適切な行為を為しているからです。彼らはサマーディに不可欠な土台を欠いています。
  ブッダはアーヤティサンヴァラシーラ(āyati savara sīla)の実践を教えられました。それは人々が適切な行為を為すべく修練し、不適切な行為に耽溺することから離れるための一助となります。
  アーヤティ(āyati)とは近づくこと、サンヴァラ(savara)は防護、そしてシーラ(sīla)は戒を意味します。
  この実践の意図は、戒律、シーラの修行を支援するところにあります。戒律を守り続けるには、智慧と努力が必要です。
  人々は、いつもと違う環境に置かれたり、事故に見舞われたりすると、時に不適切な行いを為す可能性があります。
  ブッダはそのことを理解しておられました。戒を破ってしまった時、アーヤティサンヴァラシーラの実践、すなわち、直ちにシーラを守る決意を立て直すことで自らを清めることができます。
  事故その他の理由で再び戒を破ってしまったら、残りの人生でずっと戒を守るべく決意を新たにします。これにより戒を保つことができます。
  このようにして適切な行いの訓練を続けるのです。アーヤティサンヴァラシーラの意図は、残りの人生でずっと戒を守ることにあります。
  戒を守ってください。
  しかしながら、現代社会では多くの人々がアーヤティサンヴァラシーラの教えを、不適切な行為の言い訳にしています。例外的な環境におかれたり、事故に見舞われたりしたわけでも無いのに、多く人々が意図的に不適切な行為を為します。
  例えば、泥酔したり、悪い行いを為したり、悪い言葉を吐きます。悪いと知っていながら不適切な行為に耽り、その後アーヤティサンヴァラシーラの見方を用いて、自分自身を名目上清め、言い訳します。
  このようにして清めた後、日常生活において不適切な行為を少し控えますが、そのうちまた意図的に不適切な行為に耽ります。このような振る舞いが習慣になってしまっています。不適切な行いに耽り、清めを行い、再び一時的に不適切な行為から離れ、そしてまた不適切な行為に耽ります。
  このような人々は、残りの人生でずっとシーラを守り続けようとは思っていません。結果として、心の質が高まることも、瞑想が進むことも決してありません。
  節制に相当するパーリ語はヴィラティ(virati:離)です。節制は、私たちの瞑想を上達させる上で、一時的な自制よりもはるかに重要かつ有益です。節制は、不善な行いを止めるべく最大限の努力を払うことを意味します。私たちは不適切な行為に耽るのを止めるため、できる限り努力します。戒律を破るのを止めます。身体と口の不善な行為を為す前に、「ノー」と言います。不適切な行為に耽ることを拒否すると、自分自身に言い聞かせます。不適切な行為をしない、ただそれだけです。

デイヴィッド:不善な思考も控えるのですか?

ペーマスィリ長老:初めのうちは、戒は不適切な身体の行為、口の行為だけを強調します。ブッダの戒律条項であるヴィナヤ(vinaya:律蔵)全体を通して見ても、心についての規則は二つしかありません。この二つの規則は比丘だけを対象としており、在家信者には適用されません。在家信者に対しては、思考を抑えることを間接的にしか教えていません。ブッダは、身体と口の行為を抑えるという基本的なレベルから、修行を始めさせたのです。
  「この世には四種類の人々がいます。四つとは何でしょうか。暗闇の中にあって暗闇へと向かう人、暗闇の中にあって光明へと向かう人、光明の中にあって暗闇へと向かう人、そして光明の中にあって光明へと向かう人です」(ブッダータモーナタ経:Tamonata Sutta

3.集中
ペーマスィリ長老:これがサマーディだ、あれがサマーディだ、と言い争っている人がいたら、彼らがサマーディを経験していない事は明らかです。これについてどう思いますか?

デイヴィッド:サマーディは集中して座っている状態です。心は穏やかで、あちこちさまようことはありません。
生徒2:心のバランスがとれて、探求が生じることをつけ加えたいと思います。
生徒3:教わった事を思い出します。心は清らかで、五蓋が抑えられています。

ペーマスィリ長老:そうですね、サマーディは、一般的に心の集中と訳されています。そして、サマーディには静けさがあります。一日の仕事が終わった時の深い安堵感やくつろぎの感覚に似ています。
  しかし、仕事の後に私たちの身体を満たす静けさと、本当のサマーディの静けさとは違います。心があちこちさまよわないこと、清らかであることは、もちろんその通りですが、サマーディの状態にある人は、ただ静かに坐っているのではありません。何もせず、終了時間まで何時間も座っていることが、サマーディではありません。
  そうではなく、サマーディは、それとは別物です。サマーディの内側には、鋭い気づきがあるからです。サマーディ状態にある人は、心に生起するあらゆる対象に鋭く気づいています。それがほんのわずかなものであっても、サマーディ状態にある人は、その対象が生起することに気づいています。
  心の一点集中、チッテーカッガタ(cittekaggata:心一境性)は、この鋭い気づきを表現するための言葉です。
  本のページには文字が書かれています。Aがあり、Mがあり、Dがあり、そしてその他の文字が続きます。一ページに何百もの文字があり、あなたは読みながらそれらの文字をたちどころに理解します。文字を理解するということは、ページに書かれたその文字に対して一点集中し、それと一体になっていることを意味します。
  心とその文字は一つになっています。その文字に集中し、心の中には文字だけが存在し、その文字を理解します。その文字をあっと言う間に理解します。
  まさにその時、その瞬間に文字という一つの対象だけが心に存在します。一点集中した心は様々な認知対象を認識します。チッテーカッガタと呼ばれるこの心の性質がなければ、いかなる対象をも理解することができません。
  心の一点集中、チッテーカッガタは対象を把握しますが、それは中立的な要素であり、全ての生命の精神的プロセスに存在します。人間なら誰にでもあります。動物でさえも心の一点集中を持ち合わせています。正しい訳でも間違っている訳でもありません。善でも不善でもありません。上手でも下手でもありません。適切でも不適切でもありません。一点に集中した心は、単に認知対象を取り替えているにすぎません。
  一つの対象を理解すると、次の対象へと移動してそれを理解し、また次の対象へと移動して、それを理解するといった具合です。
  一点集中は心にとってみればいつも入れ替わっています。心の一点集中は、サマーディにおける鋭い気づきを表現するために使われることがよくありますが、実際は出発点にすぎません。サマーディではなく、サマーディの出発点です。
  それでも、一点集中がサマーディへと展開することは間違いありません。
  サマーディ、集中には多くの種類があります。正しい場合も正しくない場合もあります。間違ったサマーディ、ミッチャーサマーディ(micchā-samādhi:邪定)は、心地よい音楽、美しい芸術、美味しい食べ物など、好ましいと感じる対象に執着することで得られます。確かにこれはサマーディの一つの形です。
  しかし、正しいサマーディではありません。何故なら、そうした官能的快楽に愛着、執着するからです。対照的に、正しいサマーディ、サンマーサマーディ(sammā-samādhi:正定)は執着が無いことを意味します。
  正しいサマーディは、五つの障害(五蓋)が抑えられて、観察対象の本質を観ることを意味します。
  対象の本質とは、永続せず、満足できず、実体が無いこと、すなわちアニッチャ(anicca:無常)、ドゥッカ(dukha:苦)、アナッタ(anatta:無我)です。サマーディが正しく開発されると、感覚器官に接するあらゆる対象のそれぞれに、これらの三つの性質を明瞭に観察することができます。私たちは音を聞きます。正しいサマーディで音に接する時、私たちはその本質を感じ取ります。音は永続しません。音は満足できません。
  そして、音には実体がありません(無我)。正しいサマーディにより、音の中にこれらの三つの性質を認識することができます。音の本質を明確に理解すれば、音に対して悲しさや恐怖や怒りを覚えることはありません。音が消え去るままにしようという意思が少し生じるだけです。音を楽しむことを選ばず、代わりに音を調べることを始めます。
  この世で接する対象は、永続せず、満足できず、実体が無いとただ繰り返し唱え続けても智慧は生じません。無常・苦・無我という現象の三つの性質が、私たちが接する全ての対象の真実である、とただ繰り返してもそこには智慧は全くありません。無常・苦・無我は、ただの言葉であり、哲学や宗教に関係なく、誰でもそれを繰り返し唱えることができます。私たちは、適切に培われたサマーディと、正しい集中の経験の両者を通じて、現象の三つの性質を理解しなければなりません。
  適切に培われたサマーディとは、四つの微細な物質に対する心の没入、四つのルーパジャーナ(rūpa -jāhna:色界禅定)のことです。

  ・一番目の微細な物質に対する心の没入、パタマッジャーナ(pawhamajjāhna:第一禅定)
  ・二番目の微細な物質に対する心の没入、ドゥティヤッジャーナ(dutiyajjāhna:第二禅定)
  ・三番日の微細な物質に対する心の没入、タティヤッジャーナ(tatiyajjāhna:第三禅定)
  ・四番目の微細な物質に対する心の没入、チャトゥッタッジャーナ(catutthajjāhna:第四禅定)

  禅定とは機敏で、透明で、汚れの無い意識状態です。サマーティが適切に培われると、私たちは、自分の感覚に接する対象の本質を感じ取ります。どこへ行っても、どのような対象に触れても、その対象が永続せず、満足できず、自我や実体を持たないことを知ります。
  結果として、問題が生じることは少なくなります。サマーディが正しく培われなければ、現象のこれらの三つの性質を観ることは決してありません。対象の本質を感じ取ることができず、その結果として私たちは多くの問題をかかえることになります。
  シーラは八正道の最初の分かれ目であり、サマーディを培うための基礎となります。自分自身を正しく管理しながら、全ての言葉、行動に注意します。真実の言葉、優しい言葉、有益な言葉を話します。
  ごく単純な行為から始めて、全ての行為を善意と寛大さをもって行います。私たちは、他人が幸せに暮らすことを許容するのです。これはとても基本的なことです。戒の実践によって、私たちは精神的環境を浄化し、内面を清め、心を静めます。
  多くの人々は、正しい行いを実践しているように見えます。たしかに彼らは戒に従って生きているようです。しかし、官能的快楽、カーマッチャンダ(kāma-cchanda:愛欲)に過度に耽っているため、彼らの心は乱れています。彼らは官能的快楽への渇望を絶えず満たそうとします。
   そうした人々がこのような生き方を続けても、サマーディを正しく育むことは決しできません。私は、厳しい自己規制の実践だけで、サマーディが得られるとは言っていません。なぜ戒律を守るのか理解せず、盲目的に多くの戒律を守ろうとする瞑想者は、ただ自分自身を虐げている、すなわちアッタキラマタ(atta-kilamatha:苦行)を行っているだけです。
  このような意図的で、自分本位に得られたサマーディは、本当のサマーディではありません。彼らは自分自身にむち打っているだけです。多くの規律を盲目的に厳守しても、あるいは過度に自己規制してもサマーディは得られません。
  サマーテリは智慧から生じます。自分が何をしているのか、なぜ戒律を実践するのかを少しでも理解した瞑想者たちは、分別を持って、過度に官能的快楽に耽ることと、自分自身を苦しめることを避けます。
  この両者に偏らず自分の心を落ち着かせれば、集中を得ることはそれほど難しくありません。都会の瞑想センターでさえ、サマーディを正しく培い、禅定を得ることができるのです。

デイヴィッド:禅定を得るためには、森で隠遁生活する必要があると思っていたのですが。


ペーマスィリ長老:いいえ。サマーディを発展させて、禅定を得るために森に入る必要はありません。私たちは、禅定を得た後で、サマーディを強化し、より長い時間、その禅定にとどまれるように、心を修練する目的で森に入ります。

  効果的に修行を進めるためには、四つの支援が必要です。

  1.人々:プッガラ(puggala
  2.食べ物:アーハーラ(āhāra
  3.住まい:セーナーサナ(senāasana
  4.天候:ウトゥ(utu

  周囲の人は協力的でなければなりません。食べ物は栄養価の高い物が必要です。宿舎は基本的な必需品を備えていなければなりません。そして、天候は瞑想者の好みに合っていなければなりません。涼しい気候を好む人もいれば、暖かい気候を好む人もいます。サマーディに入って心を修練するためには、これらの四つの支援が必要です。
  人は最も大事な支えとなります。協調性があり、共同生活で問題を起こすことが少なく、戒律を実践し、同じ目標を待った人と付き合うようにしなければなりません。良き友人とともに日々を過ごせば、それは修行を維持し、前進させていくことになります。
  今現在、私たちの瞑想グループは6人です。それぞれが独自の態度、考え、意見を持っています。私たちそれぞれが独自のやり方を持っています。お互いに支え合うために、時には自分のやり方を放棄して、他の人のやり方に従うこともあります。そうですよね?いつも自分がしたいことばかりすることは、慎まなければなりません。
  この原則は、「マッジマニカーヤ(Majjhima Nikāya:中部経典)」の「チューラゴーシンガスッタ(Cūlagosixga Sutta:小牛角経)」に措かれています。三人の阿羅藻が、ゴーシンガというサーラ樹林に住んでいました。ある晩、ブッダが彼らを訪れると、「私たちは、身体は別々ですが、心は一つです」と言いました。
  人々は時にこのような重要なこと、つまり協調して文化的に過ごすことを忘れます。その結果、サマーディを得ることが出来ません。
  そういう人たちは、非協力的で、妨害的な話に熱中します。
  「これをしろ、あれをしろ。君には無理だ。そんな音をたててはいけない」と言います。
  静かにしていると、今度は別の人が、「そんなに静かにしている必要はない、もっとリラックスしなさい」と言います。
  そして、また音をたて始めます。彼らは、お互いに支え合うことを忘れているのです。
  そのような人たちと一緒に住むよりは、一人で過ごした方が良いでしょう。一人でいれば、自分のやり方で修行を進め、本当にサマーディが必要なら、サマーディを培って、それを用いることができます。たしかに、理解があり、協力的な友人が二、三人いる方が、一人で住むよりも好都合です。
  しかし、支えてくれる友が見つからない場合は、一人で住むのが最良の策でしょう。
  比丘も在家信者も含め、瞑想センターの全員が、同じ努力と気づきで協力すれば、その瞑想センターは、本来の役割を果たし、自然に静寂が生じます。
  皆で力を合わせて修行に励めば、実際にバーヴァナー(bhāvanā:修習)を修得し、修行を高いレベルへと引き上げ、正しくそこに到達することさえできます。
  朝、鐘がなれば一日が始まります。ただ始めたくなったから一日が始まるのではなく、全員が適切な時間に一日を始めます。
  それでも、いくつかの理由で平均的な都市の瞑想センターでは、瞑想者がサマーディの最初のレベルを通り越して、禅定を高めていくのは困難です。
  まず、瞑想センターのすべての比丘や在家信者が、瞑想者の修行を支えてくれる訳ではありません。都市の瞑想センターの比丘が戒を守っていないというわけではありません。
  ほとんどの比丘は戒を守っています。
  しかし、比丘や在家信者は説法、相談、著述、地域社会へのサービスといった、禅定以外の様々な活動に従事する方を選び、瞑想修行は中断してしまいます。
  初歩的なサマーディのレベルを越えていくためには、瞑想者は長期間中断することなく、修行を継続することが必要です。
  次に、指導者や瞑想者にはプライバシーが必要です。指導者が瞑想者と個人的な瞑想修行の様子について話し合っている時は、思いがけず誰かが近づいてきたら、その話し合いをただちにやめます。
  私が瞑想者と話す時には、外国人に指導をしていて通訳が必要な場合は別として、第三者が一緒にいることは通常ありません。相手が老人であろうと、若者であろうと、中年であろうと、シンハラ語で話す時は誰も同席しません。
  忙しい瞑想センターでは、いつも誰かが瞑想の議論に分け入ってきます。だから、瞑想者の修行について初歩的なレベルしか教えられません。
  古代のスリランカの隠遁場所では、比丘はダムサバマンダパヤ(dham sabha mandapaya)という個室で、修行の話し合いをしたそうです。
  長時間、心をサマーディ状態に保つためには、瞑想者は森の隠遁場所に行く必要があります。
  私は若い頃、スリランカ中を巡り、隠遁場所を何カ所か訪れました。よき隠遁場所では、一日は一人の比丘が食堂を掃除することから始まります。それが終わると、その比丘は他の比丘全員とともに托鉢に出かけます。最初に帰ってきた比丘が食堂の準備をして、他の比丘のために飲み水、洗い水を用意します。
  他の比丘が托鉢から帰ってくると、食堂で食事をとり、自分たちで後始末をして、クティー(kuwī)に帰っていきます。比丘は皆こうします。最後に托鉢から帰ってきた比丘が食堂の最後の掃除をします。比丘たちは他の人が仕事をするのを待つことなく、必要な仕事を淡々とこなします。全員が共同で作業します。
  12年間にわたり、私はアランケレ(Arankele)などさまざまな場所に移り住みました。
  象の棲息地であるポトゥヴィル(Potuvil)地区に近い森に住んだこともあります。その地域は、今はLTTE(タミル・イーラム解放のトラ)の支配下にあります。
  瞑想修行の一環として、家族に会うため帰宅したことは一度もありません。
  私の先生と母だけが私の消息を知っていました。幸いにも、時々ケラニア(Kelaniya)のバンテー ヴィマロー(Bhante Vimalo)と一緒に過ごすことができました。彼は30代、私は20代で、彼は大いに私を支えてくれました。
  私が森に入ったのは、苦行を経験するためではありません。そうではなく、こうした修行を実践するために森に行ったのです。

デイヴィッド:先生はまだこうした修行を続けておられるのですか。

ペーマスィリ長老:いいえ。長いことこの類の修行をしていません。もはやこうした禅定に浸ることがないので、森に住んで修行をしていた頃の心の状態がどんなであったか思い出すのは困難です。当時の人生を思い出すには、平穏な心の状態が必要です。
  本を読んだり、本で勉強したりして、サマーディや禅定について多くの知識を得ることができます。
  しかし、このトピックについて適切に議論するには、本の知識だけでは不十分です。私たちは、具体的な瞑想修行の実践について話し合っています。
  そこには経験がなければなりません。指導者は、自分自身でサマーディを経験して初めて、それを教えることができます。生徒も自分自身で経験をして初めて、サマーディについて議論することができます。
  「気づきが適切でないと、思考の餌食になります。適切でないものを捨て去り、正しく瞑想してください」(アヨニソマナシカーラ経:Ayoniso-manasikara Sutta


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