アーナンダ尊者がブッダに「尊師よ、善友に出会うことができたら、それは仏道の半分を完成したと同じことです」と言ったところ、「そのように言ってはなりません、アーナンダ」ブッダはこう返答されました。
「そのように言ってはなりません。善友に出会えたら、それは実際のところ、仏道のすべてを完成したということなのです」(Upaddha Sutta:ウパッダ経)
1.はじめに
ペーマスィリ長老:こんにちは。お茶でもいかがですか?
デイヴィッド:はい、いただきます。
ペーマスィリ長老:どのようなことについてお話ししましょうか?
デイヴィッド:瞑想修行を進めるために、書物はどのくらい有用なのでしょうか?
ペーマスィリ長老:もちろん、たくさんの書物の中にブッダの教えが書かれています。それを読み、使いこなせば何らかの進歩を得ることはできるでしょう。しかし、瞑想修行の第一段階を超えて先へ進みたいと思うなら、師の存在は必要不可欠です。書物から得られた知識は、瞑想修行を補助するだけです。良き師の指導を受ければ、瞑想修行は日々、着実に進歩するでしょう。
デイヴィッド:先生は、弟子を取らないのに、なぜ私に教えてくださるのでしょうか?
ペーマスィリ長老:あなたが私からの教えを必要とし、また、それを望んでいるからです。多くの人が私のところに教えを請いに来ます。しかし、純粋な興味を持って来るわけではありません。そうした人々は、多くの場合ブッダの教えを大変よく知っています。
しかし、自分の感覚器官に対象が触れた時、その知識を応用することを忘れています。
私は、あなたが純粋にブッダの教えを学び、それを応用することに興味を持っていると感じたのです。あなたの場合は(ブッダの教えを正しく理解する)可能性を秘めており、それがまた、私にやる気を起こさせてくれるのです。
私デイヴィッド:私が師に救えて頂くようになってから半年が経ちました。もし、よろしければ、師の指導方法を少し説明して頂けないでしょうか?
ペーマスィリ長老:私たちが初めて出会った時、あなたはブッダの教えについて、知らないも同然でした。私たちは、日常の会話を通して、お互いを知るようになりました。
お元気ですか、何をしていますか、なぜこちらにいらしたのですか、と私はあなたに尋ねました。あなたの生活に関連した事柄について話し合いました。あなたが、初めてここを訪れた時、私はダンマについての重苦しい講義をまったくしませんでした。
また、あなたを坐らせて、瞑想の基本原則や方法についての説法をすることはしませんでした。
もし、私がそのようなことをしていたならば、あなたはすぐに飽きて、ここを立ち去っていたでしょう。代わりに、じっと我慢するようにしました。主に話を開くことで、あなたの態度、考え方の一部、そしてあなたにダンマを本気で学ぶ気持ちがあるかどうかを見定めようとしました。
また、あなたにダンマを伝えるための最適な方法を決めるようにしました。そして、少しずつ、より複雑で難しい話題へと、議論を展開させてきました。ダンマを学ぶ際にはこのようにしなければなりません。
経典の中に、サラニーヤカター(saraṇīyakathā:憶持すべき話)という言葉があります。それは、一般的な会話を忘れないようにする、という意味です。
新しい人がやって来ると、ブッダはまず、一般的な質問から会話を始められました。
「お腹は空いていませんか?」「どこから来たのですか?」「何が欲しいですか?」それがブッダのやり方でした。
来訪者と一般的な会話を交わした後、ブッダは、ダンマカター(dhammakathā)、すなわちダンマの話に話題を変えていかれました。ブッダは、ほんの少しずつダンマを会話に持ち込み、いきなり説教するようなことはしませんでした。
例えば、牛飼いが訪ずれたら、ブッダはこう尋ねられることでしょう。
「お元気ですか?」「あなたの牛はどうですか?」「牛の世話はどのようにするのですか?」
牛飼いの答えを注意深く聞きながら、ブッダはその牛飼いの生活に関する有用な情報を手に入れました。ブッダなら牛飼いにこうおっしゃることでしょう。
「そうですね。あなたが牛の世話をするやり方はとても良いですね。私もサンガ(僧団)の世話をする時は、あなたと似たようなやり方で行います」
指導者として、私たちはブッダと同じアプローチをとるように努めます。一旦立ち止まり、その人の話の内容に注意深く耳を傾けます。
そして、一般的な会話の後、徐々にダンマを取り入れていきます。初対面の人と、ダンマの深い側面について語り合うのは困難です。ダンマの話題のみで、人に働きかけるのは、適切ではありません。
アングッタラニカーヤ(Anguttara Nikāya:増支部経典)のシーハ経(Sīha Sutta)を読んでみると良いと思います。
指導者が弟子たちと話す時には、質問に即して答えます。
もし、ある人がブッダに、「どのように?」と尋ねたら、ブッダは「これとあれはこのように起こります」と、答えられました。
「なぜですか?」と質問したら「これとあれはこのような理由で起こります」と、お答えになりました。
もし、あなたが、あなたの眼鏡についての質問をしたら、ブッダは、その質問に答えるためにあなたの眼鏡を話題にして話をされることでしょう。
ブッダはいつも、ごく身近なことから会話を始められたのです。
デイヴィッド:話し相手にとって身近なことという意味ですか?
ペーマスィリ長老:その通りです。経典の中に、ブッダがダンマについてどのように教え諭したかを示した多くの話を見いだすことができます。
例えば、ブッダは、ある男の家を何度も尋ねました。なぜなら、ブッダは自分の教えがその人の役にたつだろうと考えられたからです。ブッダがその男に会いに行かれたのは、ブツダの深い哀れみのお心からなのです。
しかし、はじめの内は、その男はブッダがやって来ることをあまり快く思っていませんでした。
「おい」と男は不満を漏らしました。
「なぜ、お前は毎日うちに来るんだ?俺には分かっているぞ。何度も何度もうちに来るのは、うちの食べ物が凄く美味しくて、お前がそれを気に入っているからだ。貪欲な奴。来る日も来る日もうちにやって来ては、俺の美味しい食事を持っていっちまうんだからなあ。何度も何度も来やがって」
「その通りです」とブッダは言いました。
そして、その男の言い方を真似て答えられました。
「私は、あなたに会いに、何度も何度も来ます」
日が経つに連れて、その男はブッダに気を許し、「お前が、何度も何度もうちを訪ねてくれるのが、今では嬉しくなっちまった」
その男が、「何度も何度も」という言い回しを繰り返して使ったため、ブッダも同じように「何度も何度も」という言い回しを使われたのです。
「あなたは何度も何度も繰り返さているものを、他に知っていますか?」とブッダは尋ねられました。
「教えて下さい」と、その男は言いました。
「何度も何度も、雨が降ります」とブッダは言いました。
「農夫は何度も何度も土地を耕し、何度も何度も種をまき、何度も何度も穀物を収穫します。乞食は何度も何度も物乞いをし、人々は何度も何度も分け与え、子牛は何度も何度も母牛に乳を求め、私たちは何度も何度も生まれ、何度も何度も老い、そして、何度も何度も死んでいきます。この世では、全てのことが、何度も何度も繰り返し起きているのです」
その男は言いました。
「そんなことは、私も分かっています」「そんなことは、当たり前のことじゃないですか」
「しかし、あなたは知っていますか?」ブッダは言いました。
「何度も何度も繰り返すことを、どのようにしたら食い止められるのかを?」
「わかりません」その男は答えました。
その男は今、ダンマを受けいれられる状態になったのです。ブッダは言いました。
「こうした全ての現象は、苦しみであり、永続せず、実態がないことをあなたが理解したら、あなたは存在の本質を理解したことになります。何度も何度も繰り返されることは無くなります。何度も何度も生まれることも、何度も何度も歳老いることも、何度も何度も死ぬこともなくなります」
「素晴らしい」と、その男は言いました。彼に洞察が生じ、彼は道の智慧を得ました。これが、ブッダがダンマを教えたやり方です。
デイヴィッド:良いお話ですね。
ペーマスィリ長老:もう一つの逸話では、ブッダは一人の農夫のもとを訪れます。彼もまたブッダの教えを開くことで、福徳を得る可能性がありました。その農夫は、とても頭が良く、有能でしたが、大変自尊心が強い人でもありました。ブッダは大悲から、その農夫に会いに行きました。
最初の朝、その農夫は小作人たちをまとめて彼の田んぼを耕す準備をしていました。その農夫は、ブッダを見ると悪態をつきました。
「くそ坊主、消え失せろ。ここから出て行け」
ブッダは落ち着いたままでした。
「お前のせいで一日が台無しだ。なんで、ここに来たんだ?」と、農夫は言いました。
「あなたが何をしているのか見に来ただけです」と、ブッダは答えました。
農夫は、イライラして言いました。「俺は、自分の田んぼを耕す準備をしているんだ」
「なるほど、それは良いことですね」と言うと、ブッダは精舎(vihāra)に戻っていきました。
その翌日ブッダは再び農夫のもとを訪れました。
「何をしているのですか?」と、またもやブッダは尋ねました。
「今日は、田んぼを耕しているんだ」と、農夫は言いました。
三日目、ブッダは、またまた田んぼに行きました。
「何をしているのですか?」と、ブッダは尋ねました。
「今日は、田んぼをならして水を張っているんだ」
「良いですね。大変素晴らしい」と、ブッダは言いました。
その次の日、農夫は田植えをしていました。
そして、それまでの日々と同じように二人の会話が続きました。3カ月間、毎朝ブッダは田んぼに行き、農夫と会うのが日課となりました。農夫が田んぼに行く時は、ブッダも田んぼに行きました。
時が経つにつれ、農夫はブッダを毛嫌いするのをやめ、むしろ好意を抱くようになりました。頭が切れ、聡明なブッダは、農夫の話し相手にはもってこいの人物だったからです。
ブッダが来ると、農夫は仕事や小作人の管理を中断し、喜んで休憩を取りました。そして、ブッダと農夫は親しい友人になりました。
とうとう稲が実り、美しい眺めとなりした。黄金色の稲穂がたわわに実をつけていました。
米が育ち、熟した様子を見て、二人は幸せな気分になりました。いまや栽培の季節は終わり、いつでも収穫できる状態となりました。
「ほぼ3カ月間、お前は私のところへやって来た。お前はすばらしい相棒だ。お前は俺に、何一つくれなかったが、俺は豊作の収穫をお前に分け与えたいと思っている。収穫の半分を受け取って欲しい」
「大変良いことです」とブッダは言いました。そして農夫の申し出を受け入れ、精舎に帰って行きました。まさにその夜のこと、激しい暴風雨が襲い、農夫が作った米を水浸しにし、台無しにしてしまいました。次の日、ブッダはいつも通り、農夫を尋ねました。しかし、この3カ月間で初めて、農夫は田んぼに姿を見せませんでした。
ブッダが農夫の家に歩いて行くと、農夫は悲しみに打ちひしがれて寝込んでいました。
「なぜ、そんなに悲しいのですか?」とブッダは尋ねました。
「俺は、収穫物を失ってしまったから悲しいのではない。昨日、お前に収穫の半分をあげると約束したのに、今はもうそれができない。だから悲しいのだ」
「Taṇhāya jāyantī soko」とブッダは農夫に語りかけました。
「Taṇhāya jāyantī bhayaṃ, taṇhāya vippamuttassa, n’atthi soko, kuto bhayaṃ.」
この偈(gāthā)を訳すと、次のようになります。
「渇愛があるところに、悲しみや恐れが生じます。渇愛から解き放たれた者には、悲しみや恐れは生じません」
この偈を唱えることは、あなたにとっても良いことでしょう。
農夫は知的な男だったのですが、最初にブッダに会った時には、ブッダが渇愛やダンマについて語っても聞く耳を持ちませんでした。
最初、その農夫はブッダにこのように言ったのです。
「くそ坊主、消え失せろ。俺の邪魔をするな。俺は、ものすごく忙しいんだ。やるべきことが山ほどあるんだ。俺は、家族を食べさせて養わなくてはならないし、田んぼを見張らなければならないし、小作人たちを監督しなくてはならない。俺には、お前の言うことやお前のダンマに耳を傾けている畷はない」
デイヴィッド:それが普通の答えです。
ペーマスィリ長老:その通りです。ブッダは、その農夫がダンマについて聞く耳を持つようになるまで、足しげく田んぼに通い続けなければならなかったのです。ブッダは、3カ月を費やして、この農夫一人を訪ね続けました。
ブッダは、そのぐらいの時間と労力が必要であることを知っていたのです。ブッダは智慧により、農夫にどのように働きかければよいか知っていました。そして智慧により、最適な方法でダンマを説かれました。
学びの方法は人それぞれです。良き指導者は、常にたくさんの異なるやり方で、ダンマにアプローチします。学習は、個々人に合わせて行わなければなりません。
ダンマを説くためには、ある特定の方法や、標準的な手法だけでは不十分です。
ある時には、ブッダはとても優しく穏やかに人々に働きかけました。収穫が台無しになって、悲嘆にくれていたこの農夫の場合には、ブッダはただの友人として接しました。
デイヴィッド:その農夫は少しでも(苦しみから)解放されたのでしょうか?
ペーマスィリ長老:そうです。ブッダがその偈の意味を説明した後、その農夫は道の智慧を得ました。
だからこそブッダは3カ月にわたって、この農夫を訪れたのです。ブッダは世間を見渡し、その農夫が自分の教えにより、福徳を得る可能性があることを見出されたのです。
デイヴィッド:ダンマとは何なのでしょうか?
ペーマスィリ長老:厳密に言うと、ブッダが説かれたことは、哲学でも、宗教でもなく、また、決して抽象的でも儀式的でもありません。
ブッダの教えは、実践的な生き方であり、苦しみからの解放へと私たちを導きます。
存在していられる時間が短い私たちが、ブッダの教えがある時代に人間に生まれるのは、極めて稀な出来事です。
私たちは、この機会を逃さず、対象をありのままに観察し、また善と不善の双方に目を向けなければなりません。
ブッダの教えは、巧みに生きるための方法なのです。
昔々、宿屋を営んでいた貧しい老女がいました。生活の糧の一つとして、その老女は何頭もの馬を所有していました。その中の一頭は、とても巧みな馬でした。
最高の馬たちに最高の世話をしてあげようと、出来る限りのことをしたものの、お金が無いため良質の餌を買うことができず、質の悪い餌しか与えることができませんでした。
ある日、普通の馬をたくさん引き連れた裕福な商人が、一晩過ごすために、その宿屋に立ち寄りました。
商人が彼の普通の馬たちを馬小屋に入れて、例の巧みな馬の脇に繋ごうとしたところ、彼の普通の馬たちは、その巧みな馬に恐れをなしてたじろぎました。その馬たちは尻込みしてしまいました。
「あなたの馬の中の一頭がとても気になります。あの中の一頭は何か特別な馬なのですか?」
「ええ」と貧しい老女は答えました。
「一頭だけ特別に優れた馬がいます」
「その馬を、買うことはできますか?」
「ええ、まあ」
値段の折り合いをつけると、老女は商人に、その巧みな馬を売りました。
しかし、商人が馬小屋からその巧みな馬を連れ出そうとしても、そこから離れようとしませんでした。
「私を買うなら、商人はもっとたくさんお金を払うべきだ」と馬は考えたのです。
「商人がもっとお金を払うまでは動かないでおこう」
老女と商人は、その巧みな馬が動こうとしない理由を何とか考えつきました。商人は老女に、さらにお金を支払うことにし、やっと、その馬は、商人とともに去っていきました。
商人は自分の馬小屋で、老女がその馬に与えたのと同じような粗末な餌を与えようとしました。
しかし、巧みなその馬は、その餌を食べるのを拒みました。
「なぜ、自分はこんな粗末な餌を食べなければならないのだろうか?豊かなこの商人なら、もっと質の良い餌を用意するのは簡単なはずだ」
その商人は頭のいい男でしたので、馬が何を欲しているか勘づき、もっと上等の餌を馬に与えました。
貧しい老女、商人、普通の馬、巧みな馬それぞれが、自分自身の心の健全さに基づいて行動しています。
巧みな馬が高額を要求したのは、ただ老女を喜ばせるためではありません。彼は単に巧みに行動しただけなのです。
自分の置かれた世界を明確に見定め、何も期待することなく行動したのです。
老女は貧乏で、良質の餌を与えられなかったので、馬は老女からは上等な餌を期待しませんでした。老女が買える餌で満足していました。善と不善を見分けるのは常に大切です。
巧みなこの馬のように、不善を見たら、私たちは拒絶します。
そして、人が不善行為に関与したならば、私たちはそれに加わりません。善友と付き合うことが大変重要です。
デイヴィッド:善友を得るのはとても難しいです。
ペーマスィリ長老:いいえ、難しくはありません。明晰な理解が善友です。
デイヴィッド:しかし、不親切な人があまりにも多いのです。
ペーマスィリ長老:他人が言うこと、為すことをあまり気にかける必要はありません。
私たちは心を外に向けて、私たちの外で起こっていることに目をむける癖があります。これは良くない習慣です。実際、他人を気にする必要はありません。
ブッダは説かれました。
「常に自分自身を観察して過ごすようにしてください」
自分自身を観察すればするほど、私たちはより良い状態になります。
瞑想により自分を高めること、パーリ語ではバーヴァナー(bhāvanā)と呼ばれますが、それを実践することで、私たちは自分自身の強さと弱さが分かるようになります。
瞑想修行の基本を知ることはとても重要なことですが、このテーマは、一般的に時間をかけて詳細に議論すべきことです。
基本を学ぶのに6カ月かかることもありま
デイヴィッド:興味深いですね。
ペーマスィリ長老:瞑想が進むということは以下の五つの障害、ニーヴァラナ(nīvaraṇa:蓋)を減らすということです。それを最初から理解しておくことが大切です。
1.官能的快楽による興奮、カーマチャンダ(kāma-cchanda:肉欲)
2.悪意、ヴャーパーダ(vyāpāda:怒り)
3.怠惰と無気力、ティーナミッダ(thīna-middha:惛沈、睡眠)
4.疑い、ヴィチキッチャー(vicikicchā:疑)
5.落ち着きのなさと不安、ウッダッチヤクックッチヤ(uddhacca-kukkucca:掉挙、後悔)
瞑想が進むということはまた、以下の五つの心の力、インドリヤ(indriya:根)を育むということです。
1.信、サッダー(saddhā:信)
2.活力、ヴィリヤ(viriya:勤)
3.気づき、サティ(sati:念)
4.集中、サマーディ(samādhi:定)
5.智慧、パンニャー(paññā:慧)
それぞれの障害は、ある特定の心の力を妨げます。つまり、官能的快楽は信を妨げ、悪意は努力を妨げ、怠惰と無気力は気づきを妨げ、疑いは集中を妨げ、落ち着きのなさと不安は智慧を妨げます。一般的には、落ち着きのなさと不安が集中を妨げる障害と考えられますが、実際は集中を妨げるのは疑いです。
五つの心の力を強化し育てるためには、五つの障害を弱め抑えなければなりません。つまり、官能的快楽による興奮を抑えると、心が静まり、信が深まります。悪意を抑えると、やはり心が静まり、精神的努力と活力が増します。怠惰と無気力を抑えると、気づきが増します。疑いを抑えると、集中が増します。
そして最後に、落ち着きのなさと不安を抑えると智慧が増します。五つの障害を抑えることで、私たちは心の能力を高め育てます。この過程がバーヴァナー(bhāvanā)です。
デイヴィッド:落ち着きの無さと不安では無く、疑いによって集中が妨げられるのは何故でしょうか?
ペーマスィリ長老:集中を意味するパーリ語は、サマーデイです。一定の方法で瞑想対象に注意を向けることで、ある程度サマーデイを得ることが出来ます。
これがサマタバーヴァナー(samathaa-bhāvanā)、集中を育てる訓練です。
しかし、このようにして得られたサマーデイは不安定で、疑いが生じるとすぐに壊れてしまいます。
サマーデイを安定させ深めるためには、集中の訓練、サマタバーヴァナー(サマタ修習)と気づきの訓練、ヴィパッサナーバーヴァナー(vipassanā-bhāvanā:ヴィパッサナー修習)を組み合わせて実践します。
ヴィパッサナーは洞察という意味で、物事をありのままに観察することです。物事の本質に対する理解が深まると、疑いが減り、瞑想修行に対する信頼が心に生じます。
自分自身の経験に基づく信頼は単なる見解を越えて確信へと変わっていきます。
瞑想修行に対するサッダー(信)が不十分であると、物事をいつも渇愛の命じるままに考え、あるがままに観察しようとはしません。例えば、修行を始めたばかりの段階では、伝統的な儀式儀礼に固執し、あれこれと貢ぎ物をします。
サッダーはまだ初期段階にあり、単なる見解の域を越えません。ソー夕ーパンナ(sotāpanna:預流果)の悟りを得ると、修行方法についての疑いは破壊され、サマーデイは深まり続ける可能性があります。
しかし落ち着きのなさと不安から完全に解放されるためには、アラハット(arahat:阿羅漢)の悟りを得なければなりません。疑いがサマーディの妨げになると言われているのはこのためです。
この世には、緊張を和らげるための数多くの方法があります。音楽を聞いたり、精神安定剤や麻薬を使ったり、お酒を飲んだり、催眠術にかかったりするなど、人は緊張をほぐして心を静めるため、数え切れない方法を用います。
しかしバーヴァナーの主な目的は心を静めることではなく、心を理解することにあります。
黒板に文字を書くためにはチョークを使います。チョークが横向きに床に落ちるとチョークは割れてしまいます。
同様に、静かで平穏な感覚を得るために世俗的な方法を用いると、その静けさは脆く、いつでも壊れてしまう可能性があります。
朝、起きたばかりの時は落ち着いていても、午後にはかき乱されてしまうことが良くあります。心は大変脆いのです。
一方、チョークがその端から床に落ちた場合は割れません。同様に、バーヴァナーを適切に実践すれば心が壊れることはありません。
ある人がいつものように道を歩いていると、腐ったゴミに出くわします。そのゴミは彼が歩いている道のど真ん中にあり、見てくれも悪く、ひどい臭いがします。
当然ですが、彼はそのゴミを隠そうとします。シャベルを手にし、土でゴミを覆い隠します。道はきれいになり、いやな思いをせずに歩くことが出来るようになります。
数日後、雷雨となり、水があふれて、その道の泥を押し流してしまいます。そしてゴミが再び顔を出します。
その人は悟ります。
「ああ、ゴミを隠すだけでは十分ではない」
その人は再びシャベルを手にします。今度はゴミの山を掘り起こし、道から片付けようとします。それはたいへんな仕事です。割れたガラス、有刺鉄線、腐った食べ物、その他の危険でうんざりする数多くのゴミを掘り起こします。むかつくようなゴミの山を目の前にしても、それを掘り起こし、片付けることを止めません。
やがて通がすっかりきれいになり、自由に歩くことができるようになります。
世俗的な方法で心を静めようとしても、それは通り道に置かれたゴミをごく一時的に覆い隠すだけです。ゴミは、その下に依然として残っています。
サマタバーヴァナーによりサマーディを得たとしても、ただゴミを隠しているだけです。
私たちはゴミを掘り出し、片付けなければなりません。これがヴィパッサナーバーヴァナーにより得られるサマーディです。
落ち着いた静かな感覚を得るよりも、物事をあるがままに見ることの方がより大切です。落ち着きと静けさは人生でいちばん大切なものではありません。物事をありのままに見て、智慧により真理を理解すれば、自らやっかいな問題を作り出すことはありません。
人生は平穏なものとなり、自然にサマーディが生じます。物事をあるがままに見ることが、瞑想修行の目的です。
デイヴィッド:瞑想はどのようにすれば良いのですか?
ペーマスィリ長老:瞑想の方法を言葉で簡単に説明するのは難しいのですが、少しやってみましょう。
綱渡りをする人は網を渡る間、心と身体の動きに細心の注意を払わなければなりません。
右を見るわけでも、左を見るわけでも、前を見るわけでも、後ろを見るわけでもありません。
網を渡った後に何が起こるか、あるいは綱を渡る前に何が起こったかを考えることもありません。歩くのが早すぎてもゆっくり過ぎてもだめです。ちょうど良い早さで歩かなければなりません。綱を渡ることが良いとか悪いとか考えません。将来に多くの願望を抱くこともありません。
綱渡りをする人は足が綱に接している部分にだけ注意を払い、まっすぐ前に歩きます。
正しい方向に向かって修行を進めるためには、善なる状態から私たちを引き離し、物事をあるがままに見ることを妨げる心と身体の動きを避けるように努めなければなりません。
二つずつ組になって現れる以下の八つの行為が、私たちを正しい道から引き離します。
*貪欲:アビッジャー(abhijjhā)、および憂い:ドーマナッサ(domanassa)
*渇望:イッチャー(icchā)、および固執:カッパナ(kappana)
*未来:アナーガタ(anāgata)についての思考、および過去:アティータ(atīta)についての思考
*物事をあまりにも早く:シーガン(sīgam)行うこと、およびあまりにもゆっくり:マンダ(manda)行うこと
これらの八つのいずれかを行っている時、私たちは今実際に起こっていることに注意を払っていません。瞑想しているのではなく、道を踏み外しています。
一方、これら八つの心と身体の行為からうまく離れられれば、私たちの注意は善であり、物事をあるがままに見ることができます。私たちは道の中央に踏みとどまります。右を見ることも左を見ることもありません。歩くのが遅すぎることも早すぎることもありません。
これらの八つの行為から離れれば、善なる注意力だけが残ります。バランスを保ちながら、渡り綱の上の人のようにまっすぐに道を歩くことができます。
ブッダはマッジマニカーヤ(Majjima Nikāya:中部経典)のセーウイタッバーセーウイタッバ経(Sevitabbāsevitabba Sutta)において、育てるべきものと育てるべきでは無いものを、おおまかに示されています。
苗木が強く健康な成木になるには、光、水、良い土壌、そして長い年月が必要です。揺るぎなく健全な瞑想修行もまた、適切な条件と時間を必要とします。
しかし多くの人は時間を掛けようとしません。我慢出来ず、集中を渇望します。我慢出来ず、智慧を得ることを希望します。我慢出来ず、何かを得たいと願います。
人々はしばしば瞑想に多くのことを期待します。その期待がすぐに実現しないと、うんざりして瞑想をやめ、他のことを始めます。
どのように瞑想するのかと開かれても、答えるのは難しいのです。たくさんの方法があるからです。一般的な考え方をお話しすることしかできません。適切な瞑想方法は瞑想者の性格により異なります。誰にでもうまくいく普遍的な方法はありません。
指導者がその瞑想者に合った正しい方法を教えるためには、最初に瞑想者の性格の特徴を理解しなければなりません。
そのようにして初めて特定の方法を取り入れ、それに上達することが可能になります。
すべての生徒に、決まり切った同じ方法を用いる指導者もいます。その方法で恩恵を得る瞑想者もいますが、他の瞑想者も同じようにうまく行くとは限りません。
それにも関わらず、依然として瞑想者たちに特定の方法を強いる指導者がいます。
これは、瞑想を教えるのに適切な方法ではありません。指導者の勧める方法がうまく行かなければ、その瞑想者は瞑想に対する興味を失い、止めてしまうことでしょう。
デイヴィッド:瞑想することの利点はなんでしょうか?
ペーマスィリ長老:いくつかあります。私たちが住む世界には、様々な人がいます。大変忙しくしている人がたくさんいますが、堕落した生活を送る人も数多くいます。
多忙な人々と付き合う時、瞑想することで落ち着きと忍耐を得ることが出来ます。また、堕落した人々と付き合う時には、瞑想することで自分が堕落しないようにすることが出来ます。
簡単に言えば、瞑想することで自分自身の道を歩むことが出来るのです。衝突やいさかいを起こすことなく、誰とでも交流することが出来ます。矛盾や障害なしに、誰とでも響き合えます。世間は落ちつきが無く、複雑で、暴力に満ちています。
このような落ち着きの無い世の中にあっても、瞑想することで穏やかに過ごすことが出来ます。複雑な世の中にあっても、瞑想することで簡素に、困難無く生きることが出来ます。暴力に満ちた世の中にあっても瞑想することで優しさと慈愛に満ちた生活を送ることが出来ます。
ただゆっくり歩くことだけが瞑想ではありません。瞑想は私たちの心の状態です。瞑想により複雑さと落ち着きの無さから離れて、簡素な生活を送ることが出来ます。どこへ行っても穏やかです。
瞑想することで死への恐怖から離れることも出来ます。ブッダの親戚であるマハーナーマ王は、死を恐れていました。彼はブッダのもとを訪れて助けを求めました。
マハーナーマ王は言いました。
「今日、王宮を出た時、私は自信にあふれていました。しかし町中で猛り狂った野生の象に出くわしたのです。私は王です。その象をなんとかするのは私の役目です。しかしその象は私を殺そうと近づいてきました。私が死んだら、どうなるのでしょう?」
「死を恐れる必要はありません」とブッダは言いました。
「あなたは三宝を強く信じておられるからです。長い間あなたは寛大さと、シーラ(sīla:戒)、すなわち自己規制を実践してこられました。これからも戒律を守り続ければ良い死を迎えることでしょう」
将来は不確実であり、また世界中の宗教が何らかの形で地獄が存在すると主張しているため、多くの人々が死ぬことを恐れます。
しかし、彼らが素直な気持ちで瞑想すれば、地獄に生まれることへの恐れは消え去るでしょう。
真理に対する無知が原因で、私たちは数え切れないほどの恐怖に見舞われます。そしてその恐怖を和らげるため、何らかの説明を求めて宗教や哲学にしがみつきます。体系的な見解を受け入れることで、少し気分が楽になります。
瞑想は体系的な見解でも、定説でも、哲学でもなく、また宗教でもありません。自由な意識の流れが続いているだけです。瞑想している時は、いかなる哲学や宗教にもしがみつくことはありません。
もちろん瞑想者は宗教心を持っています。しかし、特定の一つの宗教にしがみつくことはありません。瞑想者は見解から離れています。「私はこれです」とか「私はそれです」とは考えません。
代わりに、瞑想者は優しさ、哀れみ、智慧を持っています。心は自由です。
これらが、瞑想することによる利益です。
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