(2013年9月~2014年1月)
現象の壊滅:安楽の消滅
第三禅定が幸福感の絶頂と呼ばれるのは、その先の禅定には幸福感はないからです。現象に気づきを入れるにつれ、次第に生滅を洞察する段階を通り越して、現象が壊滅する段階へ進んでいきます。ここまでくると、対象の始まりと持続はもはや明確ではありません。代わりに、心は現象が絶えず壊滅していることを知覚します。気づきを入れた途端に現象は消え去ります。往々にして、身体は全く存在しないように感じられ、ありのままの現象が絶えず壊滅し消え去っていくかのようです。
ここに及んで、修行者はうろたえ、取り乱しがちです。もはや安楽は感じられないばかりか、現象の急速な壊滅に心を掻き乱されます。対象は気づきを入れる前に消え去り、後に残るのは空虚だけ。次の対象も同じなのです。
概念は不明瞭になります。これまでは、修行者が現象を明瞭に観ていたとしても、まだ想(認知)という心所(心の要素)が混じっていました。そのため、概念ではない対象の究極の真実を観ていながら、同時に形態の概念―身体、腕、脚、頭、腹部など―も観ることができたのです。壊滅を洞察する段階に至ると、概念は抜け落ちていきます。現象がどこにあるのか分からなくなることもあります。あるのは壊滅だけです。
「何が起こったのだ?順調だったはずの私の修行が、崩壊していく。制御不能で、何一つとして気づきを入れることができない」と、あなたは嘆くでしょう。自らを裁き、不満足があなたの心を満たします。当然、安楽などありません。
最終的には、この新しい場所で安らぎを得ることが可能になります。悠然と落ち着いて、現象の絶え間ない流れを観察することができるようになるのです。この段階は「現象の壊滅についての洞察」と呼ばれます。これには興味深い特質があります。身体や心の幸福感や安楽もない代わりに、身体が直接感じる不快や痛みもなくなってしまうのです。心に生じる感覚も、ニュートラルなものになります。
ヴィパッサナー第四禅定の出現
現象の生滅に対する洞察が成熟していく過程で、第二禅定で生じる喜は、第三禅定の楽に席を譲ります。喜の圧倒的な歓びが、もっと穏やかで微細な、安楽と平穏に移行するのです。そして、壊滅への洞察が生じた段階で安楽は消滅しますが、その結果として不快が生じることはありません。今や第三禅定に代わって第四禅定が生じます。その特徴は捨
(とらわれのない心)と一境性(心の一点集中)です。
すべての形あるものに対する捨(とらわれのない心)の洞察
心は楽でも苦でもなく、快でも不快でもない状態になり、捨(ウペッカー)が生じます。捨には心にバランスをもたらす絶大な力があります。捨のこの特質を、中捨(タトラマッジャッタター)と呼びます。このバランスが取れた状態の中で、気づきは完全に清らかで、鋭く、鮮明になります。現象の微細な相まで、途切れることのない驚くべき明晰さで、粒子あるいは微細な振動として観ることができるようになります。実は、中捨は最初からすべての段階の禅定に存在していたのですが、第一、第二、第三禅定ではもっと顕著な特徴に隠されていたのです。ちょうど、太陽が出ている昼間には月が見えないように。
四つのヴィパッサナー禅定のまとめ
第一禅定では、バランスはまだまだ未熟です。優勢なのは尋(ヴィタッカ)と伺(ヴィチャーラ)、つまり中心対象に狙いを定めることと、対象に心を擦りつけること。言い換えれば、気づきを対象に向けることと、気づきを持続させることです。前述のように、第一禅定における尋(ヴィタッカ)と伺(ヴィチャーラ)には論証的思考がかなり含まれます。
第二禅定では、喜に伴うスリルと興奮が、捨を覆い隠してしまいます。第三禅定になると、甘美な幸福感と安らぎが生じるため、ここでもバランスが前面に現れることはありません。しかし、安楽が消え去り、苦でも楽でもない状態になると、バランスが輝き始めます。まるで夕闇が迫り、そして闇が深くなるにつれ、月が麗しい光で空全体を照らし出すようです。
壊滅に対する洞察に続いて、恐怖、嫌悪、そして解脱したいという思いへの洞察が生じます。捨が強く現れるのは、行捨智(すべての形成されたものに対する捨)という洞察の段階に到達してからです。
修行がこのレベルまで深まると、物事がとてもスムーズに進み始めます。気づきはとても素早く、快、不快によって心が乱される前に対象をとらえることができるようになります。執着や嫌悪が生じる余地はありません。普通なら不快極まりない対象も、スリルと興奮をもたらすような対象も、共に完全に影響力を失います。これが六つの感覚門全てに当てはまるため、ここで現れた捨を「六つの肢を持つ捨」と呼びます。
この段階のもう一つの特徴は、気づきが極めて微細であることです。腹部の膨らみ、縮みのプロセスは、振動になります。そして、どんどん微細になっていき、最終的には消えてしまうこともあります。このようなことが生じたら、座の姿勢全体を見回し、例えば臀部とか膝といった接触点を観察してみるとよいでしょう。しかし、これらもまた消え去り、身体を全く意識することがなくなるかもしれません。
知覚の対象となる身体現象が消滅すれば、痒みはおろか、病気も痛みも消え去ります。ただ、身体現象が無いことを知る意識だけが残されます。そのようなときは、その意識自体を気づきの対象として、「知る意識」としてとらえます。「気づいている、気づいている」とラベリングを続けるうち、そのような意識さえもが明滅するようになるかもしれません。
しかし、同時に心は透明に、極めて鋭くなります。
究極の心のバランスが取れたこの状態は、阿羅漢の心に近いといわれています。意識の領域に現れるいかなる対象に直面しても、動じることがありません。しかし、たとえ修行のこの段階に達したとしても、まだ阿羅漢になったわけではありません。特定の気づきの瞬間において、阿羅漢に近い心を経験しているに過ぎないのです。
四つのタイプの幸福
四つのヴィパッサナー禅定ではそれぞれ、異なるタイプの幸福が体験されます。第一禅定は、遠離の幸福です。五蓋が近寄れなくなりますから、心は煩悩から遠く離れていられます。
第二禅定では、集中の幸福を経験します。集中が良いと、喜と楽という幸福がもたらされます。
第三禅定では喜が無くなり、捨の幸福と呼ばれるものが生じます。
そして、最後の第四禅定では、捨によってもたらされる心の清らかさを経験します。
もちろん、四番目の幸福こそが最高です。しかし、これもまた先行する三つと同様、条件づけられた現象世界での出来事に過ぎません。修行者は、この現象世界を超えたとき初めて、究極の幸せ、真の平穏から生じる幸福を体験します。これは静寂の楽(サンティスカー)と呼ばれています。それは、瞑想対象を始め、心と身体の現象すべてが完全に停止したときに生じます。そのときには、気づきの心そのものも停止するのです。
皆さんがヴィパッサナー禅定の四つの幸福すべてを味わい、さらに修行を進めて、最高の幸福である涅槃の幸福に到達することができますように。
涅槃について
涅槃についての混乱
涅槃の体験についてこれまで様々なことが語られてきました。それだけで本が書けるほどです。ある人は、涅槃の幸福とは特殊な身体と心の状態であると考えます。また別のある人は、それは身体の中にあると信じています。心と物質が共に消滅した後に残るものこそが、永遠の至福の真髄だと言う人もいます。
懐疑的な人もいるでしょう。そういう人は、「心と物質が消滅することが涅槃であるのなら、それを経験することは不可能だ」などと言います。五感によって経験できない幸福を想像するのは難しいことです。そもそも、瞑想をしたことがない人にとっては、こうした議論のすべてがちんぷんかんぷんでしょう。
実のところ、涅槃について確信をもって語ることができるのは、身をもってそれを経験した人だけです。とは言え、涅槃を推論的に説明することはできます。涅槃を体験するほど修行が深まった人であれば、その説明は自然と腑に落ちるはずです。
涅槃を特別な種類の心や物質だと考える人もいますが、そうではありません。前述したパラマッタダンマ(paramatthadhamma)は、パーリ語で「究極の法」、概念や思考を介さずに直接経験する四種類の真理のことです。その四つとは、物質的現象、二種類の心の現象─意識そのもの(心)とそれぞれの瞬間の意識とともに生じる心の要素(心所)─そして涅槃です。このように、涅槃は物質とも心とも異なるものとして定義されています。
心と物質が消滅した後に残るものが涅槃だ、というのも、もう一つの誤った理解に過ぎません。
涅槃は究極の真実の源であり、内的事象ではなく外的事象であるとされます。ですから、心的/身体的プロセスがすべて消滅した後に体内に残るものがあるとしても、それとは一切、関係ありません。
涅槃は、例えば視覚対象や音を経験するように、感覚を通して経験することはできません。涅槃は感覚の対象ではないからです。それゆえ、比類ない体験でありながら、感覚的な(または感覚を基にした)快楽の範疇に含まれることはありません。それは五感に基づくことのない、非・感覚的な幸福なのです。
涅槃とは何かという議論は、ブッダの時代からありました。ある僧院長が、涅槃の至福について比丘たちに話をしていました。すると、比丘の一人がこう尋ねました。
「もし涅槃に感覚が無いのであれば、いったいどうやって至福を感じられるのでしょうか?」
僧院長は答えました。
「まさに涅槃には感覚が無いからこそ、それは至福に満ちているのだ」と。
まるで謎かけのようですね。皆さんはどうお考えになるでしょうか。答えが分からない?ならば、私が喜んで一つの答えをお教えしましょう。
五感の不利益
まず、感覚的な快楽について考える必要があります。それは束の間のものです。ある瞬間に幸福を感じても、次の瞬間には消えてしまいます。このように常に変わりゆくはかないものを追求するのが、本当にそれほど楽しいことなのでしょうか。
幸福をもたらしてくれるはずの様々な新しい経験を得るために、あなたの身に降りかかる面倒は大変なものです。快楽に対する欲望が強いあまり、法律を破る人さえいます。感覚に基づいた束の間の快楽を経験するためだけに、犯罪に手を染め他人を苦しめるのです。
自分が犯した不善な行為の結果として、自分自身が将来いかに多くの苦しみを味わうことになるか、分かっていないのでしょう。犯罪者ではなく善男善女であっても、短い幸福を感じるために、不釣り合いなほど多くの苦しみが必要なことに気づくでしょう。はっきり言って、割に合いません。
瞑想修行を始めると、単なる感覚的快楽よりも洗練された喜びをもたらしてくれる幸福の源を手に入れることができます。これまで見てきたように、ヴィパッサナー禅定の各段階はそれぞれ固有の喜びをもたらします。
第一禅定は遠離の幸福。第二禅定は強い喜びを伴う集中の幸福。第三禅定は洗練された安楽をもたらし、それまでの強い喜びによる幸福感は実は粗大なものだったことが納得されます。そして最後、最も深い第四禅定では、静寂と平穏を特徴とする「捨」の幸福を見出します。これら四つの禅定はすべて遠離の楽(ネッカンマスカー)と呼ばれています。
しかし、涅槃で見出す平穏と幸福は、感覚的快楽はもちろん、遠離による幸福よりも優れています。それらとは全く質の違うものなのです。涅槃の幸福は心と物質が止滅することで生じます。それは、苦の消滅による平穏です。六門からの感覚対象に依存せず、そうした感覚対象との接触が全く無いことで生じます。
幸福といえば休暇を取ってピクニックをして湖で泳いだりすることだと考え、自由な時間があればパーティに行ったり、バーベキューをしたりするような人々。そのような人たちにとって、感覚的な経験が全く無いことで幸福が生じるなどというのは、理解しがたいことでしょう。
彼らにとって、例えば美とは、目があって、美しい視覚対象があって、見たという意識があるときにのみ存在し得るものです。他の感覚についても同様です。
彼らは言うでしょう、「良い香りが漂っていたとしても、鼻が無く、嗅覚も無いとしたら、どうやって楽しみを見出せると言うのだ?」
彼らにしてみれば、なぜ涅槃などというとんでもないことを考えつくのか想像もできないでしょう。そして、涅槃とはつまるところ隠微な死であり、恐ろしいものだと考えて納得しようとするかもしれません。人はすべてが消滅するという考えにひどく怯えるものです。
涅槃の実在を疑う人もいます。彼らは「そんなものは詩人の夢に過ぎない」などと言うでしょう。あるいは「涅槃が“無”であると言うなら、なぜそれが美しい経験より優れていると言えるのか」などと言います。
表現することができない至福:眠っている億万長者
考え得るありとあらゆる感覚的快楽を手に入れることができる億万長者がいたとしましょう。この人がぐっすりと眠っている間に、料理人は仕事をして、ご馳走を作り、ずらりとテーブルに並べます。この大金持ちの立派な邸宅では、すべてが順調に進んでいます。
しかし、料理人はいらいらし始めます。料理が冷めてしまうので、主人に早く寝室から降りてきて、食べてほしいのです。料理人が主人を起こすよう執事に頼んだとします。どうなるでしょう?億万長者は喜んでベッドから跳び起きて食べに降りてくるでしょうか?それとも執事は殴られることになるでしょうか?
熟睡している時、億万長者は満ち足りて、周囲のことを全く感知していません。どんなに寝室が美しかろうが、見えません。どんなに美しい音楽が家じゅうに流れていようが、聴こえません。心地よい香りが漂よっていようが、気づきません。眠っているので当然ご馳走を味わうこともできません。そして、ベッドがどんなに豪華で心地よいものであっても、その上に横たわっている感覚を意識することはありません。
深い眠りには、感覚的対象とは無関係な、ある種の幸福が存在することが分かるでしょう。金持ちだろうが貧乏だろうが、ぐっすり眠ったあとは気分が良いものです。このことからも、深い眠りにはある種の幸福が存在すると推察できるはずです。それを言葉で表現するのは難しいのですが、否定することはできません。
同じように、ダンマ(法)を成就した聖者たちは、説明することはできないが否定することもできない幸福が存在することを知っているのです。そして、私たちは実在を演繹的に論証することができます。
幸福な深い眠りを永久に続けることができるとしたら、あなたはそれを望みますか?深い眠りがもたらすようなタイプの幸福を好まない人が、涅槃に興味を持つのは難しいかもしれません。感覚的経験の無い幸福を望まない人には、まだ感覚的快楽に対する執着があります。この執着の原因は渇愛です。そして、実は渇愛こそが感覚的な対象を生じさせる因であると言われているのです。
すべての苦しみの根源
渇愛には常に苦しみがつきまといます。注意深く観察すれば、地球上のすべての問題が、感覚に基づく快楽への欲望に根ざしていることが分かります。こうした快楽を味わい続けたいという衝動から、人は家族をつくります。
家族を支えるには、お金を稼ぐため、外に出て朝から晩までせっせと働かなければなりません。家庭内で喧嘩になるのも、隣近所ととうまくいかなくなるのも、村や町の間で諍いが起きるのも、国同士が対立し戦争が起こるのも、快楽への欲求が原因です。あまたの問題が疫病のように世界中に蔓延し、人々が人間性さえ失い、非情で残酷になってしまうのは、感覚に基づく快楽のせいなのです。
感覚的経験が無いことを讃える
「私たちは人間だ。そして、感覚的快楽こそ、私たちが生まれ持った財産だ。なぜその楽しみをすべて捨て、涅槃を目指して修行する必要があるのだ?」などと言う人がいるかもしれません。
そのような人には、こう問うてみると良いでしょう。
「一日中、同じ映画を何度も何度も繰り返し観続けることができますか?愛する人の甘い声であれば、一度も遮ることなく、ずっと耳を傾け続けることができるのですか?最初にその甘い声から感じられた喜びはどこへ消えてしまうのですか?」
感覚的快楽は、永遠に浸り続けられるほど素晴らしいものではありません。
感覚的経験の無い幸福は、感覚的快楽による幸福をはるかに超えます。より洗練され、より微細で、ずっと望ましいものです。
実際には、深い眠りと涅槃は同じものではありません。睡眠の中で起きていることは、生命活動の持続の一環です。極めてかすかな意識状態で、極めてかすかな対象をとらえています。対象がかすかなものであるため、睡眠には感覚的経験が無いように見えるのです。涅槃がもたらす非-感覚的な幸福は、最も深い眠りの千倍も素晴らしいものです。
不還者や阿羅漢は、感覚的経験が無いことの意義を大いに理解しているがゆえに、持続的に滅尽定に入ることができます。それはすべてが止滅する境地であり、物質も、心も、心所(心の要素)も無く、心がつくり出す最も微細な物質さえも生じません。不還者や阿羅漢はこの禅定から出ると、感覚的経験が無いことを讃え歌います。以下はその歌の一部です。
「涅槃において心と物質の苦しみを滅尽するのは何と素晴らしいことだろう。心と物質に関係するすべての種類の苦しみが滅尽したときに苦しみの対極、すなわち幸福が生じるのは道理である。われら聖者は苦しみが無いことを喜ぶ。この上無き至福は涅槃なり。苦しみが無い涅槃こそ幸福なり」
諸仏の涅槃
この偉大な幸福への道を私たちに指し示したのは誰でしょう。ゴータマ・ブッダです。そして、覚りを開いた諸仏は皆、涅槃を称賛しています。パーリ経典ではゴータマ・ブッダはsammāsambuddha(サンマーサンブッダ:正等覚者)と呼ばれています。sammā(サンマー)は「完全に」「正確に」「正しく」という意味です。ゴータマ・ブッダはものごとの本質をありのままに理解したことにおいて、並ぶものがありません。真実に到達したとしても、それに関する知識が不正確だったり、誤っていたりすることはあり得ます。ゴータマ・ブッダはそのような過ちを犯しませんでした。
接頭辞のsam-(サンー)は「個人的」「自分自身で」という意味であり、Buddha(ブッダ)は悟った人という意味です。ゴータマ・ブッダは自分自身の努力で覚りを開かれたのです。超越的な存在から覚りを授かったわけでも、人間の師に頼ったわけでもありません。ここでお話ししている涅槃とは、自ら完全な悟りを得たサンマーサンブッダ=正等覚者のブッダが説かれたものなのです。
悲しみからの解放
涅槃のもう一つの特徴は、悲しみから解放されていることです。皆さんも深い悲しみを味わったことがあるはずです。悲しみから解放されたらどんなにか素晴らしいことか。涅槃はパーリ語でviraga(ヴィラーガ:離貪)と呼ばれています。これは塵や汚れから解放されているという意味です。塵は物を汚し、不快をもたらします。服が台無しになったり、場合によっては健康を損ねたりもします。
煩悩による汚れは、これよりはるかに危険なものです。私たちの心は強欲・憎悪・妄想・慢・うぬぼれ・嫉妬・物惜しみの絶え間無い流れにさらされています。そんな状態では、清潔で、純粋で、明晰な心を保つことなど望むべくもありません。これに対して、涅槃には全く煩悩はありません。
完璧な安全
涅槃のもう一つの特徴はkhema(ケーマ:安穏)です。この世界では、私たちは常に危険にさらされています。事故、敵からの攻撃、毒物・・・。現代では科学の発達によって次々と開発される兵器の脅威に怯えながら生きていかなければなりません。もし戦争が起こって核兵器が使用されたら、私たちにはどうすることもできません。
こうした危険から逃れる術はありません。涅槃に入るしかないのです。涅槃はすべての危険から完全に解放されており、完璧な安全をもたらします。
経典によれば、涅槃の非感覚的な幸福とは、煩悩が混じらない幸福です。感覚的な幸福を経験する場合、多かれ少なかれ必ず貪欲が入り込んでいます。料理のようなものです。何も調味料を加えなければ、食べ物は味気なく、美味しいとは感じられないでしょう。調味料を加えることで、楽しめるようになります。
感覚的な幸福も同じです。貪欲、熱望、欲求などがなければ、対象を楽しむことはできません。そして、涅槃はまさにこうした不純物が混じっていないため、parisuddhisukha(清浄楽:パーリスッディスカー)と呼ばれています。汚れがなく清らかであるという意味です。
この汚れの無い幸福を経験するためには、まず戒律・禅定・智慧を養わなければなりません。
心・言葉・行為を清らかにする絶え間ない努力によってのみ、涅槃を享受できるところまで心を成長させられるのです。皆さんがそのように修行を進めて、やがて汚れの無い幸福を手に入れることができますように。
6.涅槃へと突き進む二輪馬車
はじめに
かつて、ブッダはインドの古都サーヴァッティの近くのジェータ林に滞在しておられました。ある夜半過ぎ、天界から一人の天人が、千人もの従者を引き連れて降臨し、ブッダのもとを訪れました。
林全体が天人の放つ光に満たされました。しかし、天人は見るからに取り乱している様子でした。彼はブッダに敬意のこもった礼をすると、嘆き始めました。
「偉大なるブッダよ、天界はあまりにも騒々しい所です。天人たちの喧騒で溢れています。まるでペータ(餓鬼)どもが騒ぐ餓鬼界のようです。そのような場所にいると心が乱れます。なにとぞ、抜け出す道をお教えください」
天人がこのようなことを口にするとはおかしな話でした。天界は喜びに満ちた世界です。天界の住人たちは優美で音楽を好み、悲惨と苦痛の極致を生きる餓鬼とは似ても似つかない存在であるはずです。餓鬼の中には巨大な腹と不釣り合いに小さな口のために、決して満たされることのない飢えに永久に苛まれ続ける者もいると言われます。
ブッダは神通力を使って、天人の過去を調べました。そして彼が近い過去生において、人間界でダンマの修行をしていたことを知りました。彼はブッダの教えに強い信を抱き、若くして出家し比丘になったのです。五年間、指導者に師事し、共同生活を送りながら行動規範を身につけ、独りで瞑想修行を進められるまでに至りました。そして彼は、森に入り独りで修行を始めました。阿羅漢になりたいという思いは非常に強く、その修行は大変激しいものでした。できるだけ多くの時間を瞑想に費やすために、一睡もせず、食事もほとんど摂りませんでした。
そして、ついに彼は健康を損ねてしまったのでした。腹にガスが溜まり、膨れ上がって、刺すような痛みが生じました。にもかかわらず、彼は一心不乱にそれまでどおりの修行を続けました。痛みはどんどん強まり、ある日、歩行瞑想中についに息絶えました。
比丘は直ちに天界の一つである三十三天に生まれ変わりました。突然、まるで夢から覚めたかのように、気づくと彼は黄金の衣服を身につけ、光り輝く宮殿の門前に佇んでいたのです。その天界の宮殿の中では着飾った千人の天人たちが、彼の到着を待っていました。彼は、その天人たちの主人になるべくして来たのでした。門前に現れた彼を見て、天人たちは大喜びし、歓声を上げ、音楽を奏でて彼を迎えました
渦中に巻き込まれた我らが主人公は、自分が死んで生まれ変わったことをまだ知らずにいました。周囲で騒いでいる天界の住人たちを、礼拝に来た在家信者だろうと思っていたのです。天人となったばかりの彼は、視線を下に向けると、金色の服の裾を静かにたくし上げ、肩に掛けようとしました。その仕草を目にした天人たちは、状況を察して、あわてて叫びました。
「あなたは今、天界にいるのです。今はもう瞑想する時ではありません。陽気に騒いで、楽しめばよいのです。さあ、踊りましょう!」
天人たちの言葉はほとんど我らが主人公の耳に入りませんでした。感覚器官を外界の刺激から守る修行をしていたからです。すると何人かの天人たちが宮殿の中から姿見を持ってきました。それを見て彼は驚きました。彼はもはや比丘ではありませんでした。そして天界には修行できるような静かな場所はどこにもありませんでした。そして彼はそこから出られません。
落胆に襲われながら、彼は思いました。
「出家して僧衣を纏った時、私が望んだのは最高の至福である阿羅漢果だけだった。これではまるで金メダルを勝ち取るために試合に臨んだのに、代わりにキャベツを手にした拳闘家のようではないか」
かつて比丘であった彼は、宮殿の門をくぐることを躊躇しました。人間界をはるかに超える天界の強烈な快楽を前にしたら、彼の心の力をもってしても抗えないことを知っていたからです。と、そこで彼は、天人となった今なら、人間界でブッダが説法している場所に自由に行ける力があることに気づきました。彼の心はにわかに明るくなりました。
「天界の富などいつでも手に入る」と彼は思いました。「しかし、ブッダに会う機会ほど、真に得難いものはない」彼は迷うことなく人間界へと飛び立ち、千人の従者が後に従いました
ブッダがジェータ林におられることを知った天人は、そこへ行き、助言を求めました。彼の修行に対する熱意に感銘を受けたブッダは以下のように教え示しました。
「天人よ、あなたが歩んでいる道は真っ直ぐです。その道は、あなたが求める、恐怖のない聖なる場所へと続いています。完璧な静寂の中を進む二輪馬車で、その道を行きなさい。心の精進と体の精進が、その馬車の両輪であり、良心が背もたれです。馬車は気づきという装甲に包まれ、正見という御者によって駆られます。男であれ女であれ、そのような馬車を持ち、巧みに走らせるならば、間違いなく涅槃に到達することができるでしょう」
“終わらないパーティー”のどこが悪いのか
この天人になった比丘の物語は、相応部経典と呼ばれるパーリ経典に書かれています。瞑想修行についての多くの含意がありますので、一つずつ見ていきましょう。
おそらく皆さんの心に浮かぶ最初の疑問は、「天界に生まれ変わったというのに、いったい何が不満なのだ?」ということではないでしょうか。天界とは言うなれば、終わらないパーティーが開催されている場所です。そこでは皆が美しい身体を持ち、長生きで、官能的快楽に取り囲まれています。
わざわざ死んで生まれ変わってみなくても、天人となった主人公の気持ちを理解することはできるでしょう。この地上にも天国のような場所はありますが、そうした場所で真実の、変わることのない幸福を得られるでしょうか。例えば、アメリカ合衆国は物質的に豊かな先進国です。そこでは、ありとあらゆる快楽を手にすることができます。人々は贅沢と快楽に溺れ、陶酔しています。考えてみてください。そのような人たちが、物事をより深く観察し、存在の真実を求めて努力するでしょうか。彼らは本当に幸せなのでしょうか。
人間だった頃、我らが天人は、ダンマの修行により得られる解脱こそが無上の幸福であるというブッダの教えに、揺るぎ無い信を抱いていました。その感覚を超越した至福を求め、彼は世俗的な楽しみから離れ、比丘としての生活に身を捧げたのです。彼は阿羅漢となるべく奮闘努力しました。実に彼は、その熱心すぎた努力ゆえに若くして命を落とすことにさえなったのです。そして突然、気づくと彼は振り出しに戻っていました。捨て去ったはずの享楽に囲まれていたのです。彼が味わった落胆が想像できますか?
実は、死はなんら特別なものではありません。ただ意識が変容するだけです。死の瞬間の意識は、媒介なしに、再生の瞬間の意識につながっています。さらに天人の誕生は自然に生ずるがごとくで、人間と違って痛みを伴いません。
そのため、比丘の修行への情熱は、転生によって影響を受けずに引き継がれました。このことからも、彼が天界の喧噪に苦言を呈したのは驚くにあたらないことが理解できます。一度でも深く修行したことがあれば、音がどれだけ破壊的な苦痛をもたらし得るか分かるはずです。突発的なものだろうが、持続的なものだろうが、事情は同じです。
座禅中に静寂と平穏が訪れた、まさにその時、電話が鳴ったと想像してみてください。時間をかけて完成したサマーディが瞬時に粉々に砕け散ってしまうかもしれません。一度でもこのような体験をしたことがあれば、この比丘が怒りのあまり天人たちを餓鬼になぞらえたことも理解できるでしょう。電話が鳴った瞬間、あなたの心中には思わず呪詛が浮かぶのではないでしょうか。たとえそれが友からの電話であっても!
パーリ語の原典では、この経典には言葉遊びが含まれています。主人公が天人として目覚めたのは、美しいことで知られるナンダナヴァナという天界の楽園でした。しかし、彼はブッダにこの場所の話をする時、モーハナという別の名前で呼びました。“モーハ”は迷いを意味します。モーハナとは、心に混沌と混乱をもたらす場所という意味の名前です。
断念という道
あなたがたも瞑想者ですから、強烈な快楽により心が乱されてしまうということは理解できるはずです。この主人公は阿羅漢になるべく決意していました。あなたがたの目標も同じかもしれませんし、そうではないかもしれません。しかし、あなたが瞑想修行から得たいと思っているものが何であれ、瞑想がもたらす集中と静けさの価値は当然、認めているはずです。そうしたものを得るためには、相応の自制が必要となります。
たとえ一時間であれ、坐して瞑想するということは、その間、快楽や気晴らしを追い求めることを断念することを意味します。しかし、これは解放でもあります。快い気分を追い求めることそのものが心を乱し、苦しみをもたらすからです。長期間の瞑想リトリートに入る時は、我が家、愛する人々、日々の楽しみなどから離れることになります。にもかかわらず、多くの参加者が、そうした犠牲に見合う価値を見出します。
比丘から天人に転生した我らが主人公は、天界への不満を訴えましたが、天人たちの生き方を見下していたわけではありません。そうではなくて、目的を達することができなかった自分自身に落胆していたのです。
例えば、1000ドル稼ぐつもりである仕事を始めたとします。あなたは一生懸命働き、意欲的に、かつ丁寧に仕事に取り組みました。しかし、結局、仕事を完成させることができず、50ドルしかもらえませんでした。あなたは落ち込むでしょう。でも、それは手にした50ドルを蔑んでいるのではなく、自分自身で定めた目標を達成できなかったことに失望したからです。
この話の主人公も、同じように自分に腹を立て、金メダルを勝ち取ろうとしたのにキャベツしかもらえなかった拳闘家に自分をなぞらえました。従者の天人たちにもそれが分かったので、少しも侮辱されたとは感じませんでした。実際、好奇心を大いにそそられた天人たちは、主人公にお伴して人間界へ赴きブッダの教えを聞くという恩恵に与ったのです。
ダンマの修行が確立していれば、どこにいても瞑想に対する興味を失うことはないでしょう。たとえ天界であろうと。もし、そうでなければ、どこにいようとその場にある快楽にいずれ絡め取られてしまい、ダンマの巡礼者としての道は閉ざされます。
自身の修行を確立する
我らが主人公がどのようにして自身の修行を確立したか見てみましょう。独りで森に入る前、彼は五年間、ある指導者に師事し、比丘サンガの中で生活しました。大きなことから細々したことまで、様々な方法で指導者に仕え、瞑想指導を受け、戒すなわち道徳規範を完成させました。毎年、三カ月間の雨安居に入った後、比丘たちが慈悲の心をもって互いの過ちを指摘し合い、自身の欠点を克服する伝統的な儀式に参加しました。
彼の修行歴は修行者として非常に立派なものです。私たち修行者の誰もが、彼のように戒を守ることの意味を理解し、精進努力し、生活のすべてが自然と清らかな行いで満ちるまでにならなければなりません。また、この世界で共に生きていくためには、互いに対する責任を自覚しなければなりません。相手を思い、慈愛をもって互いに意志を伝える方法を学ばなければなりません。そして瞑想については、十分に上達し、ヴィパッサナーの洞察の数々を完成するまでは、信頼できる有能な指導者に導いてもらう必要があります。
大事なことと、どうでもよいことを区別する
彼はすばらしい徳を備えた比丘だったのです。ダンマに、真理を悟ることに身を捧げ切っており、それ以外のことはすべて二の次でした。大事なことと、どうでもよいことを慎重に区別し、余計な活動を避け、できるだけ多くの時間を気づきを絶やさないでいることに費やしました。
瞑想する時間を増やすために、雑務を増やさないようにするのは良いことです。それが難しい場合は、次の母牛の話を思い出すといいかもしれません。ご存じのとおり、牛は絶えず草を食んでいます。一日中食べ続けなければならないのです。
ここに、やんちゃでいたずら好きな子牛の母親がいます。もし、母牛が子牛のことを気にせず草を食べ続けたら、子牛はどこかに走り去って面倒を巻き起こすでしょう。しかし、母牛が子牛の世話ばかりしていたら、日中に必要な量の草を食べられず、夜通し食べ続けなければならなくなるでしょう。では、どうすれば良いかというと、母牛は子牛に目を配りながら、同時に草を食べます。仕事や、しなければならないことがある修行者は、この母牛を真似ると良いのです。仕事をしながらも、常にダンマを意識しましょう。心があまり遠くへさまよい出さないよう気をつけて!
かの比丘が、勤勉で熱心な修行者であったことは既に述べたとおりです。彼は、すべての修行者が心がけるべきであるように、目覚めている間は気づきを絶やさないように最善を尽くしました。ブッダは比丘が深夜に四時間、睡眠を取ることを認めていました。しかし、この比丘はいっときも無駄にしたくないと考え、寝床を片づけてしまい、眠ろうとしませんでした。さらに、食事もほとんど摂りませんでした。自らの精進のエネルギーだけで十分だと考えたのです。
私は食事や睡眠を絶って修行することを勧めているのではありません。ただ彼の献身的な修行ぶりを実感してほしいだけです。集中的な瞑想リトリートでは、ブッダの教えに従い、可能なら四時間の睡眠を推奨します。普段はもっと長い睡眠時間が必要でしょうが、寝過ぎは心を鈍らせるので良くありません。
食事に関しては、日常生活と瞑想修行の双方に必要な体力を維持できるよう、十分に摂るべきです。しかし、満腹し過ぎて眠くなるようではいけません。この比丘の物語は、少なくとも健康を保つために必要十分な食事を摂ることの大切さを教えてくれます。
瞑想修行や説法をしている最中に命を落とした人は、いわば戦場で倒れた英雄です。かの比丘は歩行瞑想していた時、腹部にたまったガスのため、刃物に刺されたかのごとき痛みに襲われ息絶えたのです。目覚めると彼は天界にいました。たとえまだ悟っていなくとも、万一あなたが瞑想中に命を落としたとしたら、同じように天界に再生するかもしれません
幸運この上ない転生であっても、真の自由と安全を求めるがゆえに、その生から脱出する道を願うことがあるのです。天人となった比丘は、自分に欲が生じる余地がまだ残っていることを恐れました。天界の宮殿に足を踏み入れたら最後、戒が徐々に蝕まれていくかもしれないと感じたのです。彼にとっては依然、悟りを得ることが最優先であり、そのためには徳を汚すわけにはいきません。そこで彼はジェータ林へと逃げて行き、ブッダに教えを乞うたのです。
ブッダの対機説法
それに対するブッダの答えはいつになく簡潔でした。普通なら、ブッダは人々を一歩一歩、導きました。道徳から始まり、業に基づく正しい見方、そして集中へと順を追って指導したのち、初めて洞察の修行を教えるのです。
ブッダはこうした教え方の順序について、画家とその弟子を例に説明されたことがあります。師匠は初心者にいきなり絵筆を持たせたりしません。まずはカンバスを張ることを教えるのです。画家は何もないところに絵を描くことはできません。
同様に、道徳的な基盤と、業の法則についての理解がないままヴィパッサナーの修行を始めても意味が無いのです。例えて言えばこの二つこそが、集中と智慧を受け入れるためのカンバスなのです。道徳と業について教えない瞑想センターもあるようですが、そのような状態で瞑想してもあまり実りは無いでしょう。
ブッダはまた聞き手の能力や素質に合わせて指導されました。ブッダは、かの天人がかつては一人前の比丘であり瞑想修行者であったこと、そして三十三天での短い滞在の間も戒を破らなかったことを見て取りました。
パーリ語に忠実で勤勉な人を意味する“カーラカkāraka”という言葉があります。この比丘は、まさにカーラカでした。彼は名ばかりの修行者ではありませんでした。知識に溺れる哲学者でも、空想に耽る夢想家でも、生じる事象をぼんやりと眺めるだけの怠け者でもありませんでした。
その反対に、彼は実に熱心で誠実で、すべてを捧げて修行の道を歩んでいました。修行への深い信頼と自信が、たゆまぬ精進の支えとなっていました。一瞬一瞬において、彼はそれまでに授かった教えを実践すべく励んでいました。彼はいわば“ベテラン”だったのです。
自由への真っ直ぐな道
ブッダはこの献身的な修行者に、ベテラン向けの指導をしたのです。「あなたが歩んでいる道は真っ直ぐです」とブッダはおっしゃいました。「その道は、あなたが求める、恐怖のない聖なる場所へと続いています」と。
ここで言う“道”とは、もちろん八正道のことです。かの天人は、すでにその道を歩き始めており、ブッダはそのまま進み続けなさいと励ましたのです。彼が今生で阿羅漢になりたいと願っていることを知っていたので、そこへ至る真っ直ぐな道、真っ直ぐなヴィパッサナーを示されたのです。
聖なる八正道はまさに真っ直ぐな道です。脇道はありません。カーブや曲がり角やうねりもありません。それは涅槃へとひたすら真っ直ぐ続いているのです。
十種類の“曲がった”行い
真っ直ぐであることの徳は、その反対を見てみることでさらにはっきりします。不善な“曲がった”行いは十種類あるとされています。この十種類の身、口、意の行為を抑制できない者を、賢者は道を逸れた者と見なします。そのような者は不正直で、真っ直ぐではなく、道徳を欠いています。
曲がった身の行為には三種類あります。
一つめは対象を嫌い、攻撃しようとする感情に結びついています。メッターとカルナー、すなわち慈悲を欠いた人は、そうした感情に屈し、実際に行動に移しがちです。他の生命を殺したり、傷つけたり、虐げたりするのです。
また曲がった行為は貪欲からも生じます。欲を抑えることができないために盗みを働いたり、他人の所有物を騙し取ったりするのです。
三つめの曲がった行為は性に関わるものです。性欲に駆られた人は自分の喜びしか目に入らず、他人の気持ちに配慮することなく姦通などに走ることがあります。
曲がった口の行為(言葉)には四種類あります。
一つめは嘘です。
二つめは調和を乱す言葉、友好的な関係や共同体を破壊する発言です。
三つめは人を傷つける言葉、粗野で乱暴な言葉、卑猥な言葉です。
そして曲がった口の行為の四つめは、意味のない無駄話です。
意、すなわち心のレベルでの曲がった行為は三つ挙げられています。他人を傷つけようと考えること、他人の持ち物を欲しがること、そして業の法則について誤った見解を持つことです。業の法則を理解していない人は、自身や他者の苦しみを生じさせるような無責任な行動を取りがちです。
他にも、ここでは挙がっていない不善な心の行為があります。惛沈睡眠(怠惰と無気力)、掉挙(ジョウコ:落ち着きの無さ)など、無数に細分化した煩悩が存在するのです。こうした力に屈した人は、曲がった心を持っていると見なされます。
曲がった道を歩むことの危険
こうした不善な内的・外的行為から離れていない人は、曲がった道を歩いていると言われます。安全な場所にたどり着くことは期待できません。常に様々な危険にさらされることになります。
まずは自分を裁き、自責の念に駆られ、後悔するという危険があります。特定の不善な身口意の行為に対して、当初は正当化できるかもしれません。あるいは、それが不善行為であることに気づかなかったということもあり得ます。
しかし、後になって思い返し、山のような自責の念にかられます。「何てバカなことをしてしまったんだ」と自分を責めるのです。悔恨というものは大きな痛みを伴うもので、しかもその感情は誰かに押しつけられたものではありません。曲がった道を歩くことで、苦しみを自ら背負い込んでいるのです。
ただでさえ恐ろしいものですが、それが死の床で襲ってきたら悲惨です。死の直前には制御不能の意識の奔流の中で、自分の人生における行いを思い出します。もし、あなたが高潔で寛大な行いを数多くしていれば、それらを思い出すことで心は温かさと落ち着きで満たされ、安らかに死を迎えることができます。しかし、あなたが道徳を軽んじた生き方をしてきたなら、後悔と自責の念に圧倒されてしまうでしょう。
「人生はあまりにも短い。私はそれを無駄にしてしまった。人間として最高の生き方をするチャンスがあったのに」と思っても、時すでに遅し。もはや人生をやり直すことはできません。死は苦痛に満ちたものになるでしょう。死の床で、苦悶のあまりすすり泣いたり、泣きわめいたりする人もいます。
曲がった道を選んでいる人にとっての危険は、自分を裁くことによる苦悩だけではありません。賢者からの批判と非難に耐えなければならないのです。善なる心を持った人々は、信頼に値しない人や暴力的な人を友と見なすことはありませんし、評価することもありません。不善な人々は社会に適応することができず、結局は、はぐれ者となります。
曲がった道を歩いていると、そのうち法に抵触することになるかもしれません。法を破れば、その報いを受けます。警察に捕まり、不正の代償を払わされることになります。犯した罪の重さにより、罰金や禁固刑、あるいは死刑になることさえあり得ます。
現代社会は暴力に満ちています。あまりに多くの人々が、欲、怒り、妄想が原因で法を犯します。そして一度ならず、何度も何度も繰り返すのです。人間はどこまでも堕落することができます。凶悪な殺人のニュースは絶えません。犯罪者に法の裁きが下れば、死をもって償わなければならないこともあります。このように、曲がった道を歩く者は、処罰される危険も負っているのです。
もちろん、罪を犯して逃げ切ってしまう知能犯もいるかもしれません。法の裏をかいて罪を犯す者もいるでしょう。しかし、たとえ法や権力など外部からの処罰を免れることができても、前述したように自分自身の内なる罪の意識から逃れることはできません。自分自身に対しては、過ちを犯した事実はごまかせません。それは苦痛に満ちた認識です。あなたは常にあなた自身の生き方の証人なのです。自分自身から隠れることは決してできません。
さらに、畜生道、地獄道、餓鬼道といった悲惨な世界に再生することからも逃れられません。行為がなされれば業がつくられ、いつかその結果が現れます。今生では業が熟さなかったとしても、それはあなたについて回り、未来のどこかで果を結びます。曲がった道はこうした危険のすべてに通じているのです。
八正道
八正道は道徳、集中、智慧という三つのグループからなり、人生のあらゆる面を統合し、真っ直ぐに整えてくれます。そこには曲がったものは一切ありません。
八正道の道徳グループ
八正道の道徳グループの第一番目は、正語(サンマー・ヴァーチャー:sammā-vācā)です。接頭辞サンマーは「完全で、申し分のない」ことを意味します。これは嘘の無い言葉を意味するのはもちろんですが、さらに満たすべき基準があります。それは他の存在の調和をもたらすような言葉であるべきです。他人を傷つけることのない、親切で、感じが良く、耳に心地良い言葉。浮ついておらず、他人のためになる言葉です。
正語を実践することで、前章で述べた言葉による四種類の不善行為から離れることができます。
道徳グループの第二番目の要素は、正業、すなわち正しい行動です。パーリ語でサンマー・カンマンタ(sammā-kammanta)と呼ばれます。正しい行動は自制を伴います。私たちは、身体による三種類の非道徳的行為、すなわち殺生・盗み・不貞を止めなければなりません。
道徳グループの最後の項目は、正命(サンマー・アージーヴァ:sammā-ājīva)、すなわち正しい生業です。堅実で、合法的で、汚れた点の無い仕事により生計を立てるべきです。“曲がった”職業に従事するべきではありません。
以上の三つの領域を真っ直ぐに整えるだけで、最悪の煩悩を遠ざけておくことができます。煩悩
は私たちの敵であることを、しっかり認識すべきです。敵がいなくなれば、危険から解放されます。
八正道の集中グループ
次なる八正道のグループは集中、すなわちサマーディに関するものです。正しい努力(正精進)・正しい気づき(正念)・正しい集中(正定)という三つの要素があります。
これらについては、瞑想指導を受けていればすでに馴染みがあるはずです。腹部に注意を向けようとすることが、正しい努力=正精進となります。正精進には煩悩を押し退ける力があります。正精進があれば気づきが効果的にはたらき、対象を観察できるようになります。
正しい気づき=正念もまた、私たちを守ってくれるものです。正精進が煩悩を押し退け、正念はそれを締め出してしまいます。そして集中は深まります。心は平静さと落ち着きの中で瞬間から瞬間へと対象にとどまり続け、乱れることがなくなります。これが正しい集中=正定です。
以上の三つの要素があれば、八正道におけるサマーディ(集中)のグループがよく発達していると言えます。精神的な汚れや歪みが無い状態です。サマーディの三要素は曲がった心を正してくれるのです。
八正道の智慧グループ
一瞬一瞬、自らの努力によって心を清浄で穏やかにすることができます。一秒に一回だとしたら一分間に六十回、心は不善から解放されるわけです。二分間なら百二十回です。一時間、あるいは丸一日だったら、どれだけのすばらしい瞬間を生じさせることができるか、考えてみてください。毎秒、毎秒に価値があるのです!
そうした瞬間には、心が標的である瞑想対象にぴたりと落とし込まれているはずです。これは、八正道の智慧のグループの一つ、正しく狙いを定めることです。心が正確に対象に向けられていれば、それをはっきりと観ることができ、智慧が生じます。智慧をもって明瞭に観ること、すなわち現象をあるがままに知ること、それが八正道のもう一つの要素、正しい見解(正見)です。
心が正確に対象に乗ると智慧が生じます。そして、物事が条件づけられる仕組み、心の現象と物質の現象を結びつける因果に気づきます。心が無常に向けられると、無常をはっきりと感じ取り、ありのままに知ることになります。このように、正しく狙いを定めることにより正見が生じます。
正しく狙いを定め、正しく見ることによって、曲がった心の種が根絶やしにされます。曲がった心の種とは、非常に微細で潜在的な煩悩のことです。それらは智慧によってのみ、根絶やしにすることができます。これは非常に特別な体験です。智慧が生じた瞬間に、具体的な現実としてそれは起こります。想像によるものではありません。
これで、ブッダが真っ直ぐな道を説いた理由がより深く理解できたのではないでしょうか。身口意による曲がった行為は、八正道における戒(シーラ:sīla)・定(サマーディ:samādhi)・慧(パンニャー:paññā)という三つが一体になった修行によって克服することができます。この道を真っ直ぐに歩むことで不善を克服し、数多くの危険から解放されるのです。
聖域としての涅槃、聖域としての道
前述の物語の中で天人に転生した比丘に対し、ブッダは「真っ直ぐな道を行くことで安全な場所に至ることができる」と約束しました。この場合の安全な場所=聖域について、経典には詳しい注釈が付けられています。これは端的に言って涅槃(ニッバーナ:nibbāna)のことです。そこに至れば危険は何一つなく、恐れるべきものは何も残っていません。老いと死は克服され、苦の重荷から解放されます。涅槃に達した人は完璧に守られており、何ものにも脅かされることがないため、「恐れなき者」と呼ばれます。
この涅槃という安全な聖域に到達するためには、八正道の世俗的な段階を歩まねばなりません。世俗的というのはこの世を超越していないという意味です。涅槃に達するには、この道を行く以外にありません。涅槃は、道の頂上にあるのです。
八正道の中に三つのグループ、戒・定・慧があることはお話ししました。戒、すなわち行為が清らかな者は、自責、賢者からの咎め、法による裁き、そして悲惨な世界への再生を免れます。二番目のグループ、定(サマーディ)を修めれば、煩悩―心の裡に生じ、内側から私たちを虐げる否定性―に取りつかれる危険から解放されます。気づきと集中がもたらす洞察智には、潜在的で微細な煩悩を克服する力があります。つまり、完璧に安全な涅槃に到達する前でも、八正道を歩んでいる間は恐ろしい危険から守られています。つまり、この道自体も聖域なのです。
煩悩、業、そして結果:輪廻の悪循環
この世の危難の原因は、煩悩です。無知、渇愛、執着は煩悩です。人は根底的に無知で渇愛に支配されているため、業(カンマ:kamma)をつくりその結果とともに生きなければなりません。私たちは過去世の感覚世界でつくった業の結果として、今のような心と体を持つ存在として地上に再生してきました。つまり、現在の生は過去の因から生じた結果なのです。そして、今度はこの体と心が渇愛と執着の対象になります。この渇愛と執着が、またしても業―すなわち再生の条件をつくり出し、その結果、新たな体と心に対する渇愛と執着が生まれます。煩悩、業、そして結果による悪循環です。輪廻(サムサーラ:saṃsāra)と呼ばれるこのサイクルには始まりはありません。そして、瞑想修行なしには、終わりも無いのです。
輪廻は無明(アヴィジャー:avijjā)から生じます。まず知らないということ、はっきり観ることができないということから、苦が生じます。そこへさらに妄想が加わります。無常、苦、無我という現実の真の姿は、深い瞑想修行によってしか感じ取ることができません。身体も心もはかなく、瞬間瞬間に現れては消えていく現象に過ぎないということ。現象の生滅によって常にとてつもない苦が生じていること。そして、このプロセスをコントロールしている存在などいないということ。心と体のこの三つの性質は隠され、はっきりと見えなくなっています。このことを深く理解したら、渇愛も執着も消えるはずです。
さらに妄想はそこに現実にありもしない要素を付け加えてしまいます。私たちは心と物質が永続して不変であるという誤った認識を持ち、この体と心を持っていることに喜びを見いだします。
そして、心と体の主である「私」が存在すると思うようになるのです。
この二種類の無明によって、渇愛と執着が生じます。執着は、渇愛が凝固したものと言えます。私は好ましい光景、音、香り、味、触感、思考を欲し、常に新たな対象が現れることを
渇望します。そして望みのものを手に入れると、それをつかんで手放そうとしなくなります。こうして業が生じ、私たちは輪廻から抜けられなくなるのです。
輪廻の循環を断つ
もちろん、業にも様々な種類があります。不善業は不善な結果をもたらし、私たちを輪廻の中に永遠に縛り付けることになります。一方、八正道を歩き始めた者は、行いが悪い結果をもたらすことを心配する必要はありません。不善な行為を避けているからです。戒(シーラ:sīla)が修行者を将来の苦しみから守ります。善業は幸福な結果をもたらしますが、私たちを再生の繰り返しへと駆り立てる点は変わりません。しかし、瞑想の最中は、輪廻を永続させる業は一切つくられません。
ものごとが現れては消え去っていくのをただ観察することは、単に善であるばかりではありません。それは、輪廻の中で生存し続ける原因を生じさせません。瞑想は厳密な意味で、異熟(ヴィパーカ:vipāka)と呼ばれる(業の)結果をつくらないのです。気づきが十分に厳密であれば渇愛が生じることはなくなり、そこから連鎖的に有、業、誕生、老い、死が生じることもなくなります。
ヴィパッサナーの実践は瞬間瞬間において、煩悩、業、結果の三要素からなる悪循環を断ち切ります。精進、気づき、そして安定した集中が起ち上がると、意識は正確な狙いによって存在の真の性質を見抜くことができるようになります。ものごとをありのままに観るようになるのです。智慧の光が、無明の闇を払います。無明のないところに渇愛が生じることはできません。無常、苦、無我をはっきりと観ることができれば、渇愛は生じず、執着として凝固することもありません。知らないがゆえに執着する、知れば執着から解放されると言われる所以です。執着から離れれば業をつくることはないので結果も生じません。
存在および自己という邪見に対する渇愛と執着は、無明から生じます。八正道を歩むことで、無明の原因を葬り去ることができます。たとえ一瞬でもそれがなくなれば、解放が訪れます。悪循環が打ち砕かれたのです。これこそが、ブッダが説かれた聖域です。そこには無明からの解放、煩悩の危険からの解放、将来に苦をもたらす恐ろしい業からの解放があります。気づきがある限りあなたは守られ、安全なのです。
この体と心を忌み嫌うあまり、捨て去ってしまいたいと考えている人もいるかもしれません。しかし、自殺して良いことは何もありません。真に解放されたいと思うなら、賢明に振る舞わねばならないのです。結果が正しく観察されたときにのみ、原因を絶つことができると言われています。原因を消し去るのではありません。因果を永続させる力がなくなるのです。
気づきは、未来において今と似かよった心と体を生じさせる原因を絶ちます。心が正しい狙いと集中による正しい気づきによって、一つ一つの対象が六門のそれぞれに生起する瞬間を観察していれば、煩悩が入り込む余地はありません。煩悩こそ業と再生の原因ですから、そのとき輪廻の中での存在の連鎖が断ち切られます。今この瞬間に原因がつくられなければ、未来において結果が生じることはあり得ません。
八正道を歩み、ヴィパッサナーによる洞察の諸々の段階を経て、修行者ついには涅槃に到達し、あらゆる危険から解放されます。涅槃への到達には四つの段階があり、それぞれの段階で特定の煩悩が永久に根絶されます。最終段階の阿羅漢果こそが究極の聖域であり、そこでは心は完全に清らかになります。
聖者の流れに入る:初めて経験する涅槃
初めて涅槃を経験した瞬間、修行者は預流果の悟りを得て、三悪趣(三つの悲惨な生存世界)に生まれ変わることがなくなります。もはや畜生道、餓鬼道、地獄道に再生することは決してありません。この三つの世界に再生させる因となる煩悩が根絶やしになるからです。悪趣へ再生させるような業はもはやつくられず、過去世でそのような業をつくっていたとしても効力を失います。悟りのレベルが上がるにつれて、さらに多くの煩悩が根絶されていきます。
悟りの最終段階である阿羅漢果を得ると、煩悩、業、そしてそれらの結果が完全に消滅します。阿羅漢は二度とこうした汚れに染まることはありません。そして、死に際して般涅槃に入り、もはや輪廻に戻ることはありません。
最も低いレベルの悟りである預流果においても、正しくないスピリチュアルな修行にはまったり、曲がった道を歩んだりすることはなくなります。皆さんにとってはおおいに励まされる話でしょう。五世紀にブッダゴーサにより書かれたヴィシュディマッガ(清浄道論)にそのように書かれています。当然ながら、自責の念、智慧ある人からの批判、処罰、その他の悲惨な状況からも無縁となります。
完璧な静寂の中を進む二輪馬車
預流果に至っていない俗人というものは、危険な土地を行く旅人に似ています。砂漠、ジャングル、森などには多くの危険が待ち受けています。旅人は十分な装備を整える必要があります。とくに信頼できる乗り物は必須と言えるでしょう。ブッダは天人に転生した比丘に対し、素晴らしい道を示されました。「完璧な静寂の中を進む二輪馬車で、その道を行きなさい」と。
比丘から天人に転生し、天界の音楽に悩まされた主人公が、静寂をありがたく思ったことは想像に難くありません。しかし、ここには別の含意もあります。
乗り物というのは、たいていうるさい物です。ブッダの時代の素朴な荷車や馬車はガタガタと大きな音を立てたことでしょう。油を差していなかったり、作りが悪かったり、たくさんの乗客を乗せたりしていればなおさらです。現代の自動車やトラックなども、やはりひどい騒音を立てます。しかし、ブッダが提供したのは、そんな普通の乗り物ではありません。それは実に見事なもので、何千人、何百万人、何十億人が乗っても全く音を立てずに動くのです。そして大海だろうが砂漠だろうがものともせず、輪廻というジャングルを越えて乗客を安全に運ぶことができます。これこそがヴィパッサナー瞑想、八正道を行く二輪馬車です。
ブッダのご在世当時、何百万という衆生が、その説法を聞いただけで悟りを得たと言われています。同じ説法を耳にした何千、何万、何百万という生命たちは、同じ馬車に乗り合わせた乗客だったと言えるでしょう。
この馬車自体は全く音を立てませんが、乗客が声を上げることはあります。とくに、はるかなる終着駅、涅槃に到達した人々が、高揚した賞賛の叫びを上げることは少なくありません。「なんと素晴らしい馬車であろうか!私はこれに乗って目的地に着くことができた。私を悟りへと運んでくれたのだ」と。
悟りの段階に応じて、預流者、一来者、不還者そして阿羅漢の四種類の聖者がいます。彼らがこの馬車を賛美した様々な“歌”があります。「私は完全に変わってしまった。心は信に満たされ、水晶のように澄み、広々としている。私の内にたくさんの智慧が生じる。私の気持ちは、強く、安定しており、人生の浮き沈みにへこたれることなく向き合うことができる」と。
禅定に入れるようになったばかりの聖者だけでなく、すべてが止滅した状態に没入することのできる一来者、阿羅漢も、共にこの馬車を讃えます。彼らは心、心所、そして心から生じるすべての現象が止滅する境地にいたります。そして、そこから出ると、喜びに満ち、この「乗り物」への惜しみない賛辞を口にします。
普通、誰かが死ぬと人々は嘆き悲しみ、泣き叫びます。人がこの世から旅立つ光景は、悲嘆と涙を誘わずにはいません。しかし、考えうるすべての煩悩を根絶した阿羅漢にとって、死は待ち望んでいたものです。彼もしくは彼女は、死に際してこう言うでしょう。「ついにこの苦しみの塊を捨て去る時が来た。これが私の最後の生存だ。もはや苦しみに見舞われることはなく、涅槃の至福だけがある」と。
今はまだ阿羅漢果の尊さを完全に理解することはできないかもしれません。しかし、阿羅漢がどのように感じるか、自分自身の修行に照らして想像してみることはできます。あなたはすでに修行によって基本的な煩悩である欲、怒り、惛沈睡眠、掉挙、疑いを克服し、対象の真の性質をはっきりと観ることができるようになっているかもしれません。心と物質が別々のものであることを観察し、一瞬にして消え去る現象の生滅を洞察できているかもしれません。生滅を観察する段階では自由と高揚を感じることでしょう。この喜び、そして澄み渡った心こそ修行の成果なのです。
ブッダは説かれました。「世間から身を引き修行の道に入り、禅定に達した人の内には喜びが生ずる。その喜びは、人間界はおろか天界におけるいかなる官能的な歓びから生じる幸福をも超えている」と。
ここで言う禅定は、一つの対象に集中した状態と、瞬間瞬間に対する深い集中の両方を指しています。後者は洞察の修行の過程で生じ、ヴィパッサナー禅定と呼ばれることはすでにお話したとおりです。
比類なき味わい
絶え間ない気づきを維持できれば、瞑想修行によって深い喜びを経験することができます。そこにはこれまで味わったことのないダンマの味わいがあります。まさに比類なき体験です。初めて味わった者は、その素晴らしさに圧倒されます。「ダンマとはなんと素晴らしいものだろうか。信じられないほどの静けさと喜びが私の中に生じてくる」と。
あなたの信は強まり、揺るぎない自信と、満足感・達成感に満たされます。あなたはこの経験を他の人と分かち合いたいと考えるようになります。あるいは、もっと大々的に、自分で教えを広めたいと考え始めるかもしれません。これはあなたの心の中で湧き起こる雑音です。完璧な静寂の中を走る馬車を讃える、あなた自身の歌です。
逆に、全く熱狂的でない雑音もあります。馬車に乗ってはいるけれども、喜びも恩恵も感じていない瞑想者のうめき声です。彼らは熱心に修行に取り組んでいないため、馬車から振り落されないようにしがみついているだけで精一杯です。ヴィパッサナー瞑想では、修行に費やした努力に応じた成果しか得られません。たるんだ修行者はダンマを味わうことはできないのです。彼らは他の修行者の成果を話に聞くだけです。微動だにせず真っ直ぐに坐り続ける他の修行者を見て、その深い集中と洞察を想像するだけです。自分自身の心は乱れ、煩悩の泥沼にはまり切っています。
こうした修行者の心には疑いが忍び込みます。指導者に対する疑い、修行法に対する疑い、そして馬車そのものに対する疑いです。「こんな馬車じゃダメだ。どこへも行けない。乗り心地は悪いし、音もうるさいではないか」と。
また、これとは違う絶望的な泣き声が馬車から聞こえてくることもあります。修行を信じて懸命に努力しているものの、何らかの理由で望むほどの進歩が得られない瞑想者の叫びです。彼らは自信を失い、目標に到達できないのではないかと疑い始めます。
道に迷うほど米がたくさん手に入る
ミャンマーでは、そのような修行者を励ますための格言があります。「道に迷ったアナガーリカほどたくさん米をもらう」というものです。アナガーリカは、仏教国における出家者の一種です。八戒ないし十戒を守り、白い衣を身につけ、頭は剃髪しています。俗世間から離れて僧院に住み、寺の作務を行うなど様々な形で比丘を支えます。彼らの仕事の一つは、何日かに一度、町に托鉢に出かけることです。ミャンマーでは米の布施が多いので、アナガーリカは竹の棒の両端に籠を吊るし肩に担いで行きます。
しかし、中には村の細い裏道などに迷い込んで、僧院に戻る道が分からなくなってしまうアナガーリカもいます。袋小路に突き当たり、狭い路地でなんとか方向転換して引き返しますが、ますます道に迷ってしまいます。その間、周囲の人々はアナガーリカが托鉢を続けているのだと思い、どんどん布施を持って来ます。そして、やっとのことで帰り道を見つけた頃には、籠は米であふれんばかりになっているのです。
たとえ時折、修行に迷い横道に逸れてしまったとしても、最後にはダンマをたっぷりと手にすることができるのだと考えてみてください。
心の精進と体の精進が馬車の両輪
ブッダが言われたように、この聖なる馬車には二つの車輪があります。当時は二輪馬車が一般的でしたので、これは分かりやすい比喩でした。一方の車輪は体の精進、もう一方は心の精進であるとブッダは説かれたのです。
何事においても目的を達するには努力が不可欠であり、それは瞑想においても同じです。成功するためには刻苦勉励しなければなりません。不断の努力を続けることで、私たちもまた勇気ある英雄となれます。勇気ある精進こそ瞑想に必要なものです。
体の精進とは、坐る、立つ、歩く、横になるという所作において姿勢をしっかりと保つということです。また心の精進が無ければ瞑想は成り立ちません。それは、気づきと集中のためのエネルギーであり、煩悩を寄せつけないためにも必要です。
これら二つの精進という車輪が瞑想修行という乗り物を前へ進めます。歩行瞑想では、足を上げ、前へ進め、地面に下ろします。歩行という所作は、これを何度も繰り返すことによって成り立ちます。歩行瞑想においては、体の精進によって身体を動かし、心の精進によって途切れることなく動きに気づき続けます。適度に調節された身体の動きが、心を目覚めさせ、エネルギーを与えます。
ブッダの“馬車”にとっては精進が不可欠な要素であることは明らかです。普通の馬車に二つの車輪がしっかりと取り付けられていなければならないように、八正道を行くこの二輪馬車を動かすためには心の精進と体の精進が共にはたらかなければなりません。坐りの瞑想のためには、実際に身体を使って坐るということをしなければ始まりません。と同時に、心を研ぎすまし、間断無く正確にラベリングしなければなりません。二つの精進の車輪が回り続ければ、馬車は真っ直ぐに前進を続けます。
身体的な所作を続けるだけでもかなりの努力を要します。坐っている時は姿勢が崩れないようにしなければなりません。歩いている時には足を動かさなければなりません。坐る、立つ、歩く、横になるという四つの主要な所作のバランスを取ることでエネルギーのバランスを取り、身体を健康な状態に保つようにします。特にリトリート中は坐る、歩くに十分な時間を取り、合間に立ったり、横になったりを組み入れるようにします。睡眠時間は少な目にしたほうがよいでしょう。
正しい姿勢を保てないと怠けが生じます。例えば坐る瞑想の際にもたれかかるものが欲しくなるかもしれません。歩く瞑想は疲れるから嫌だと思ったり、何かリラックスできる楽しいことで瞑想したほうがいいと思ったりするかもしれません。言うまでもなく、こうした考えはどれもお勧めできません。
同様に心の精進を緩めるのも良くありません。瞑想には持続的で粘り強い精進が必要であることを、最初から肝に銘じておきましょう。気づきが途絶えることを決して自分に許さず、可能な限り持続するよう自分に言い聞かせてください。これは大事なことです。そのような態度で臨んでこそ、実際に目標を達成できる可能性に心が開かれるというものです。
どういうわけか歩行瞑想を好まない瞑想者もいます。指導者に言われたから仕方なくやってはいますが、疲れるし、時間の無駄だと思っているのです。しかし、心と体の両面における強力な精進が必要とされる歩行瞑想は、修行を進めるのに不可欠です。歩行に適切な注意を注ぐことによって、より容易かつ快適に目標に達することができるようになるのです。
瞬間瞬間に心の精進が持続していれば、煩悩が入り込む隙はありません。煩悩は動きを封じられ、脇へ退けられ、心から締め出されます。
精進にムラのある瞑想者もいます。彼らは散発的に集中します。このアプローチは混乱を招きます。ある瞬間に築きあげた気づきのエネルギーが全く無駄になってしまいます。気づきが途絶えた瞬間に煩悩が幅を利かせてしまうからです。そして、改めて気づきを入れるために、また一から始めなければなりません。努力しては休み、努力しては休みの繰り返しで、修行に勢いがつかないため、進歩もないのです。
皆さんも胸に手を当てて良く考えてください。あなたは本当に気づいていると言えますか。目覚めている間ずっと、瞬間瞬間に気づくための誠実でたゆまぬ精進を続けているでしょうか。
精進することの美徳
心の精進という車輪を継続的に回し続ける人は精進のエネルギーを持っていると言われています。ブッダはそのような人を讃え、「精進のエネルギーを手にした者は、安楽である」と説かれました。なぜでしょうか。精進努力によって煩悩を寄せ付けないため、心は冷静で、静かで、喜びに満ちた状態になります。苦痛の原因となる強欲で、残酷で、破壊的な思考は生じません。
精進努力の美徳は尽きることがありません。ブッダは、「精進無く百年生きるより、精進をもって一日を過ごす方が尊い」と説かれました。私は皆さんがこの話を聞いて奮い立ち、車輪を回し始めることを望んでいます。
良心:二輪馬車の背もたれ
ブッダは次に、馬車の背もたれを良心になぞらえています。当時の二輪馬車には、急停止や急発進の際に御者や乗客が振り落されないよう、体を支える背もたれが付いていました。背もたれは快適さをもたらしてもくれます。目的地に向かって進む間、安楽椅子のようにもたれかかってくつろいで過ごせます。私たちの場合、目指すのは涅槃という聖なる目的地です。
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