月刊サティ!

In this very life

 

            ―今生での悟りを目指してー

                           ウ・パンディダ・サヤドウ

 2014年8月~2014年12月)

健全なる恥、健全なる恐れ

  良心はヴィパッサナーの二輪馬車の“背もたれ”です。その働きを理解するためには、まず、ここで言う良心とは何かをはっきりさせなければなりません。
  ブッダはパーリ語のヒリ(hiri)という単語を使っています。そして、これと近い性質を持つオッタッパ(ottappa)という言葉があります。経典ではオッタッパに関する特別な説明はありませんが、切り離して考えることはできないので、一緒に論じることにいたします。
  「ヒリ」「オッタッパ」の訳語は、「恥」と「恐れ」です。英語の“shame”“fear”はネガティブな意味を帯びており、残念ながらパーリ語のニュアンスを正確に伝えてはいません。あえて言えば「道徳的良心」が近いでしょう。しかし、これにもさらなる説明が必要です。
  ヒリとオッタッパは怒りや嫌悪と全く関係がないということを憶えておいてください。そこが普通の「恥」や「恐れ」と違うところです。ヒリとオッタッパは不健全な行為を恥ずかしい、怖いと感じる、非常に限定された恥と恐れのことです。この二つが一緒になって、透明な道徳的良心、誠実な人格を形作ります。誠実な男女は何も恥じる必要はなく、道徳的に恐れるべきものもないものです。
  ヒリとはすなわち煩悩に対する嫌悪感です。気づきを持続させようとしているのに、時折集中力が途絶えて煩悩が襲いかかり、あなたを餌食にします。再び我に返った時、あなたは煩悩につけ入る隙を与えてしまったことに対し、一種の嫌悪感ないし恥ずかしさを覚えるでしょう。煩悩に対するこうした態度がヒリなのです。
  オッタッパとは不健全な行為がもたらす結果に対する恐れです。瞑想修行の最中に長時間不健全な思考に耽ってしまったら、修行は遅々として進まなくなります。煩悩にとらわれて不健全な行いをすれば、必ずその結果に苦しむことになります。こうしたことに対する恐れがあれば、あなたはより注意深くなり、隙あらば襲いかかろうと待ちかまえている煩悩に対する警戒を怠らなくなるでしょう。坐る瞑想の際にも中心対象にしっかりと注意を向けるようになります。
  ヒリは自分自身の徳と人格に直接関係しています。一方、オッタッパは親、教師、親戚、友人の徳と評判にも関係してきます。
  ヒリは様々な形で働きます。例えば、まっとうに育てられた人がいるとしましょう。男であれ女であれ、経済的状況がどうであれ、両親から人間としての価値を教わって育った人物です。このような紳士淑女であれば、殺生という不善な行為に及ぶ前に再考するはずです。「私は両親から優しく、愛情のある人になりなさいと教わった。破壊的な思考や感情に屈したら自分自身の尊厳を損ねることになるのではないだろうか?たまたま心が弱くなり、思いやりも思慮も失ってしまった瞬間に他の生命を奪うなんて・・・、自分の徳をみすみす捨てるようなものではないだろうか?」と。このような自問自答の結果、殺生を控えたとしたら、それはヒリのおかげなのです。
  教育と学識もまた、不善行為を防止する徳となる場合があります。正しい学識と教養を身につけた人は、高い道徳心を備えているものです。真の教養人ならば、非道徳的な行為は自分にはそぐわないと考え、おのずとその誘惑を退けます。年齢を重ねることでヒリが生じることもあります。人は成熟と共に分別を身につけ、こう考えるようになるのです。「私は年長者として善悪の判断が出来るし、不適切なことはしない。自分自身の品位を心から大事にしているからだ」と。
  ヒリはまた勇気ある信念によっても生じます。不善行為は臆病で、卑怯で、道義を欠いた人間のやることです。勇気と信念を持った人ならばどんな時でも道義を貫くでしょう。これは自分自身の品位を下げることを決して許さない、英雄的な徳と言えます。
  良心がもたらす恐れであるオッタッパは、非道徳的な行為によって両親や家族、友人などの名誉が傷つけられるのではないかと考えるときに生じます。同時にそれは、人間性の善なる部分を裏切りたくないという願いでもあります。
  やってしまった非道徳的行為を隠し通すことはできません。あなた自身がそれをしてしまったことを知っています。そして、この世には他者の心を読んだり、他者に起こることを見たり聞いたりできる存在もいるのです。そのような存在に気づいた人は、知られてしまうのではないかという恐れから不全な行為をためらうことでしょう。
  ヒリとオッタッパは家族の中でも大きな役割を果たします。これらがあるからこそ、父親、母親、そして兄弟姉妹が一緒に清らかな生活を送ることができるのです。道徳的良心がなければ人間の家族内でも、犬や猫のように近親相姦が起こりかねません。
  現代世界にはこうした良心的資質を欠いている人々が何と多いことでしょう。ヒリとオッタッパは“世界を守るもの”とも呼ばれているのですが、世界がこの二つの資質をありあまるほど持っている人ばかりだったらどんなに素晴らしいことか!
  ヒリとオッタッパはスッカダンマ(sukkadhamma)すなわち「清らかな法」とも呼ばれます。この星に住むあらゆる生命の行いを清らかに保つために不可欠だからです。それは清らかさを象徴する白い色として表現されることもあります。その反対である恥知らず、恐れ知らずは、カンハダンマ(kaṇhadhamma)黒い法と呼ばれます。黒は光を吸収し、白は光を反射します。同じように黒い法、すなわち恥知らずと厚かましさは、煩悩をよく吸収するのです。心に黒い法があれば、確実に煩悩がどんどん吸収されていきます。これに対し白い法がある時には、心は煩悩を反射して跳ね返してしまうのです。
  経典に二つの鉄の玉の話があります。一つの玉には排泄物が擦り付けてあり、もう一つは熱せられて真っ赤になっています。ある人にこの二つの玉を差し出しました。すると嫌悪感から一つ目の玉を受け取ろうとしません。そして火傷を恐れて二つ目の玉も受け取りません。排泄物を塗りたくった玉を受け取らないことは、ヒリ=恥という心の資質に似ています。高潔さを知っている者にとって、非道徳は嫌悪すべきものです。熱い玉を受け取ろうとしないのは、不善行為がつくる業の結果を恐れるオッタッパに似ています。地獄や悪趣に落ちるかもしれないということを知っている者は、十の不善行為をあたかも熱い鉄の玉であるかのように避けるでしょう。

不要な恥と恐怖
  恥や恐怖の感情の中には役に立たないものもあります。私はそれを“まがいもの”の恥と恐怖と呼んでいます。五戒を守ることや、法話に耳を傾けること、あるいは尊敬すべき人物を敬うことに対して、恥ずかしいとか、かっこ悪いとか思う人がいるかもしれません。人前で話したり、朗読したりすることを恥ずかしがる人もいるでしょう。他人の批判を恐れることは、自分自身が非道徳的な行為をしていないのなら、まがいものの恐怖に過ぎません。
  人が個人的な利益のためにする行為の中で、恥じてはならないことが四つあります。これは経典には載っていない、世俗的で現実的なお話です。
  一つ、生計を立てるために働いたり、事業を営んだりすることを恥じてはなりません。二つ、商売や技能を学ぶために誰かに教えを乞うことも、恥じる必要はありません。こうしたことを恥じていたら、必要な知識を手に入れることができなくなってしまいます。三つ、食べることを恥じてはいけません。食べなければ飢え死にしてしまいますから。四つ、夫と妻の間で性的関係をもつことを恥じるべきではありません。
  まがいものの恐怖もあります。例えば、今後の人生を決定するような、偉い人との面談を前にした恐れなどもそうです。
  田舎の人々はよく電車やバス、フェリーなどに乗る際に、この“まがいものの恐怖”を経験することがあるようです。彼らはふだん公共交通機関を使ったことがないのです。こうした本当に素朴な田舎の人々は、旅の途中の知らない場所でトイレに行くのを怖がることもあります。これもまた不要な恐れです。
  動物、すなわち犬とか蛇とか虫を怖がる人もいれば、初めての場所に行くことを恐れる人もいるでしょう。異性を怖がる人もいますし、両親や教師に対してあまりに大きな畏敬の念を抱いているため、そうした人の前に出ると動きがぎこちなくなり、うまくしゃべれなくなる人もいます。指導者とのインタビュ-を怖がる瞑想者もいます。そうした人がインストラクションを待っている時の顔は、まるで歯医者の順番を待っている患者のようです。
  これらはいずれも真のヒリ(hiri)、オッタッパ(ottappa)ではありません。本当のヒリ、オッタッパは不善行為に関するものです。人は悪業と煩悩をこそ恐れるべきです。それらは人をどこまで不善行為に駆り立てるか分かりません。
  ヒリとオッタッパについて考えることはたいへん善いことです。修行者の中でこの二つの資質が強いほど、マインドフルであるべく精進しやすくなります。気づきの中断を恐れる修行者は、注意力を深めるために奮闘努力するからです。
  良心(ヒリ)が八正道という素晴らしい二輪馬車の背もたれである、とブッダが天人に説かれたのはこのためです。ヒリとオッタッパという背もたれがあれば、あなたは安心してそれらに身をあずけ涅槃の至福へと心地よく旅することができるでしょう。乗り物で旅する人には事故という危険がついて回りますが、八正道をゆく二輪馬車に乗った瞑想者にも修行の中で様々な危険が待ち受けています。ヒリとオッタッパが弱まると気づきが持続しなくなり、その結果さまざまな危険にさらされます。
  あなたがたがヒリとオッタッパに恵まれますように。それによって精進のエネルギーが培われ、絶えることない気づきの実践を続けることができますように。その結果として八正道を速やかにかつ順調に進み、やがては涅槃を悟ることができますように。

馬車は気づきという装甲に包まれ・・・
  ダンマの旅を安全に続けるためには、二輪馬車の車体も重要です。ブッダの時代の戦闘用の二輪馬車は、槍や矢による攻撃に備えて硬い木などで装甲を施してありました。その後も各国が競って戦車の装甲に使う様々な素材を開発してきました。
  現代の自動車は金属のボディで覆われていて、安全性が高まっています。そればかりか、風や、暑さ寒さ、日差しからも守られて、まるで部屋にいるかのように快適に乗ることができます。車のボディが気候から完璧に守ってくれれば、外が雨だろうが、雪だろうが、快適に旅をすることができるのです。これは煩悩の仮借ない攻撃から修行者を守る、気づきの働きに似ています。サティ、すなわち気づきは、心を安全に、快適に、そして冷静に保ってくれる装甲だと言えましょう。気づきという防護がある限り煩悩が入り込むことはできません。
  気づきという装甲のない乗り物で八正道を安全に旅することはできません。戦闘馬車の装甲は、乗っている戦士を守る決め手となります。ヴィパッサナーの修行は煩悩相手の戦いなのです。煩悩は記憶のはるか以前から私たちの存在を支配してきました。その残忍な攻撃から身を守るためには、戦闘馬車を装甲で包む必要があります。
  煩悩を打ち負かすために、それがどのように生じるかを知っておくのは意味のあることです。煩悩は六つの感覚対象に関連して生じます。六つの感覚門の一つでも気づきを欠くと、欲、怒り、妄想などの煩悩に簡単にやられてしまいます。
  例えば“見る”というプロセスでは、まず視覚対象が眼識に触れます。気づきがない場合、その対象が心地よければ渇望や欲望に基づいた思考が生じ、対象が好ましくないものであれば嫌悪が襲ってきます。そのどちらでもないニュートラルな対象であれば、妄想の波にさらわれてしまうでしょう。しかし、気づきがあれば、煩悩が意識の流れに入り込むことはできません。見るという過程にラベリングし、サティを入れることで、心は現象の本質を理解するチャンスを与えられます。
  気づきの直接の効果は、心の清らかさ、透明さ、そして幸福感です。これらは気づきが生じた瞬間に経験されます。清らかさとは、煩悩が不在の状態です。そして、清らかさから透明さと喜びが生じます。清らかで透明な心はたいへん役に立ちます。
  気づきが入らない場合、残念ながら健全な心の状態よりも不健全な心の状態の方が多く生じます。欲、怒り、妄想が意識に混入したとたんに私たちは不善な業をつくり始め、それが今生ないし来世で果を結びます。再生自体もこうした結果の一つです。再生すれば、死が避けられないものとなります。そして誕生と死の間で、生命はさらに多くの業をつくり出します。その中には健全な業もあれば不健全な業もあります。こうして誕生と死が繰り返されるのです。かくして不注意な生き方は、死へとつながる道なのです。今生だけでなく、来世においても死をもたらす因となります。
  気づきとは新鮮な空気のようなものでもあり、生命にとって不可欠です。呼吸するすべての生命が、きれいな空気を必要とします。汚染された空気しか吸うことができなければ、じきに病気になり、死んでしまうことさえあるでしょう。気づきもそれくらい大事なものです。気づきという新鮮な空気がないと心は生気を失い、呼吸は浅くなり、煩悩のために窒息してしまうのです。
  汚れた空気を呼吸していると、突然、病気になり、たいへんな苦しみを味わった後に死ぬことになるかもしれません。気づきがない時、私たちは煩悩という有毒な空気を吸って苦しむことになります。好ましい対象を前にすると、渇望でのた打ち回ります。好ましくない対象であれば、怒りが燃え上がります。対象が侮辱的であると感じれば慢に飲み込まれてしまいます。煩悩は様々な形を取りますが、そのもたらすものはいつも同じ苦しみです。純粋な心の安らぎ、平穏、幸福は、心から煩悩を締め出すことができた時にのみ訪れます。
  空気中の有毒物質によってめまいがしたり、ふらふらしたりすることもあれば、毒の種類によっては死ぬこともあるでしょう。煩悩の攻撃も同じで、軽微な場合もあれば致命的な場合もあります。官能的快楽に酩酊する人もいれば、怒りのあまり卒中の発作を起こして死ぬ人もいます。強すぎる性欲によって命を落とすこともあります。長年、強欲に取りつかれていると、致命的な病の原因となることがあります。心臓に問題のある人にとっては、極度の怒りや恐怖も非常に危険です。煩悩はまた神経症や精神病の原因にもなります。
  実のところ煩悩は空気中の有毒物質よりもはるかに危険です。汚染された空気を吸って死んだとしても、毒は死んだ体の中に残されます。しかし、煩悩という汚れは死んでも来世に持ち越されますし、他の生命にも悪影響を及ぼします。心に吸い込まれた煩悩は業をつくり出し、未来に果を結ぶのです。
  瞬間瞬間に気づきがあれば、心は徐々に浄化されていきます。タバコを止めた人の肺にこびりついたタールとニコチンが徐々に除去されていくようなものです。心が清らかになると集中しやすくなります。すると智慧が現れる機会が生じます。この癒しのプロセスは気づきから始まるのです。気づきと深い集中に基づいた修行を続ければ、様々な洞察の段階を経て、次第に智慧が培われていきます。そして最後には涅槃を悟り、煩悩が根絶やしになるでしょう。涅槃にはいかなる汚れもありません。
  気づきの価値は、修行の中でそれを自ら体験した人にしか分かりません。新鮮な空気を吸うために頑張った人だけが、健康という価値ある成果を手にするのです。同様に、深く修行を経験し、場合によっては涅槃をも経験した修行者ならば、気づきの価値を本当に理解することができます。

正見という御者
  どんなに素晴らしい馬車でも、御者がいなければどこへも行くことができません。同様に、正見が修行という旅の方向を定め、弾みをつけるだろうとブッダは説かれました。経典には六種類の正見=サンマー・ディッティ(sammā-diṭṭhi)が記されていますが、 ブッダはここで特に聖なる道の意識を得た瞬間に生じる正見について言及されています。
 聖なる道の意識はヴィパッサナー修行における最も重要な洞察の一つです。それについてこれから論じたいと思います。

業を自分の持ちものと見なす正見
  最初の正見はカンマサッカター サンマー・ディッティ(kammassakatā sammā-diṭṭhi)、業を自分の所有物とみなすことです。もちろん、ここで言う業には健全な行為も不健全な行為もすべて含まれています。物質的対象を所有し、コントロールできるという概念は幻想です。すべての物質は無常であり、いずれ崩壊します。私たちが唯一、この世で確実に所有しているのは業だけです。
  善であれ悪あれ自分の行為は輪廻の中をついて回り、その行為に応じた善い結果あるいは悪い結果をもたらすということを理解しなければなりません。業は心にただちに影響を及ぼします。健全な行いは喜びを、不健全な行いは惨めさをもたらすのです。また業には長期的な影響もあります。不健全な業は苦痛に満ちた悲惨な生存世界への再生を、健全な業は幸福な状態への再生を導きます。中でも最も健全な業は、輪廻からの解脱をもたらすでしょう。
  このような見方によって、私たちはどのような人生を送りたいかを選ぶ力を手に入れます。カンマサッカター サンマー・ディッティが“世界の灯明”と呼ばれるゆえんです。それは私たちが自身の人生における選択の本質を見抜き、意味づけることを可能にします。業の正しい理解は、列車の進む方向を決める鉄道のジャンクション、あるいは世界各地のデスティネーションにつながるハブ空港のようなものです。
  この世のあらゆる生命と同様、私たちもまた幸福になりたいと願っています。業を正しく理解することで、私たちは健全な習慣をどんどん育み、未来において悲惨をもたらすような行為を避けたいと強く思うようになるでしょう。
  布施(ダーナ)、そして戒(シーラ)を実践することで、人は善い世界に再生する方向を
選ぶことができます。徳を積み、善い業をつくることは、涅槃へ向かって歩む助けとなります。

禅定(ジャーナ)に関する正見
  次なる正見へと進むためには、集中の修行が必要です。集中は即座に効果を現します。瞑想者は対象に没入し、静寂のうちに過ごすことができるのです。これが二番目の正見、ジャーナ サンマー・ディッティ(jhāna sammā-diṭṭhi)、禅定と没入に関する正見です。それは八種類の禅定が完成されることで生じる智慧です。
  禅定の正見がもたらす利益は三つあります。死に際しても没入状態を維持する力があれば、梵天界に再生し、功―宇宙系の生滅が何度も繰り返されるとてつもなく長い時間―をそこで生きることができます。二番目の利点は禅定が強力なヴィパッサナーを培う基礎になるということです。さらに禅定は神通力を開発する際の基礎にもなります。

究極の洞察を目指して障害を取り除く:ヴィパッサナー正見を培う
  私たちは第三の正見を育てるために最も多くの時間と努力を捧げます。それはヴィパッサナー洞察の結果得られる正見、ヴィパッサナー・サンマーディッティ(vipassanā sammā-diṭṭhi)です。この正見は、精進、気づき、そして道徳的良心があれば自然に生じます。正見とは単なる意見のことではありません。よく覚えておいてください。それは存在の本質を直接、観察することにより生じる深く直観的な智慧のことです。
  例えば、国のリーダーが公館から出かけるとなれば、あらかじめ念入りな準備をするでしょう。車の隊列が出発する前に、警護官が予定のルートをチェックし、障害がなく安全であることを確認するはずです。爆弾が仕掛けられていないか調べ、観衆を整理・誘導するための防護柵を設け、必要な場所に警官を配置し、道をふさいでしまいそうな乗り物を撤去します。こうして初めて大統領は運転手付きの公用車に乗り込み、公館を後にするのです。
  聖なる八正道において、ヴィパッサナー正見はこのシークレット・サービスのような役割を果たします。無常、苦、無我の洞察は、あらゆる執着を道から取り除き、間違った考えや持論に対するこだわりを一掃してくれるのです。道が準備されるプロセスには、いくつかの連続的な段階があります。事前の準備が完全に整うと、聖なる道の正見が生じて煩悩を根絶やしにします。

削減のプロセス
  聖なる八正道においては、それぞれの洞察の段階において、存在の本質についての邪見や誤解が取り除かれます。最初のヴィパッサナー洞察によって分かるのは、精神と物質、心と身体は別のものであり、生命とはこの二種類の現象が絶え間無く生起しているだけだということです。ここで私たちは余計なものを捨てることができます。現実の中にありもしないものを見出そうとする見解 ― 例えば、実体のある、永続する自我が存在するという考え― が取り除かれます。
  二番目の洞察、因果についての理解は、物事が偶然に生じることもあり得るのではないかという疑いを一掃します。そんなことはあり得ないのです。さらに、物事は何らかの外部の力によって生じることがないということも、直接的にかつ明瞭に観ることができます。
  瞑想が深まると、私たちは対象が無常であることを観察し、過去に経験したことも、未来に経験するであろうことも、同様にすべて無常であるということを直観的に理解します。すべてが短命で移ろいゆくものだということを知り、次に私たちは、どこにも逃げ場はなく、頼れるものもないのだということを実感します。この世の事物に平穏と安定を見出せると考えることは虚偽です。このように現象に抑圧されて在ることは、紛れもない苦に他なりません。洞察のこの段階に至れば、そのことが心の底から分かるはずです。
  そして、この深い恐怖と抑圧の感覚から、物事の生滅を制御したり止めたりすることは誰にもできないのだ、という実感が生じます。さらに、どこにも自我などないという直観が訪れます。ここにあげた三つはヴィパッサナー正見の端緒であり、それぞれ無常、苦、無我に関連する洞察です。

ヴィパッサナー正見の出現
  ヴィパッサナー正見の出現によって、戦闘馬車の出発の準備は整いました。涅槃に至る正しい道を前にして、馬車は微かに震え、動いています。さあ、ついに車輪を回転させ、馬車を発進させる時が来たのです。装甲は万全、背もたれは堅牢、そして御者はどっしりと席に着いています。一押しして車輪を回してやりさえすれば、馬車は勢いよく走り出すでしょう。
  一旦無常、苦、無我に対する洞察を得ると、物事が生滅する様子をより素早く、明瞭に観察することができるようになります。それは瞬間から瞬間へ、マイクロ秒、ナノ秒の速さです。瞑想が深まるほど観る速度は増していきます。そして、ついには現象の生起は見えなくなります。どこを見ても瞬く間に壊滅する様だけが見えるのです。あなたは、誰かが足下のカーペットを引き抜いているかのような感覚を味わうはずです。この消滅は抽象概念ではありません。それこそがその瞬間のあなたの生のすべてを形作っているのです。
  修行が深まるほど、あなたは目標に近づいて行きます。こうしたヴィパッサナー洞察のすべての段階が成就されると、道の意識の正見が生じ、あなたを涅槃という安全な避難所へと運んでくれます。
  ヴィパッサナー洞察が生じている間は煩悩はつけ入る隙がありませんが、これは煩悩が根絶やしになったことを意味するわけではありません。今は抑えられていても、またあなたを支配するチャンスを狙っているのです。

最後の地ならし:煩悩を弱め、駆逐する
  煩悩が真に根絶やしになるのは、聖なる道の正見が生じた時です。
  煩悩の根絶とは具体的に何を意味しているのだろうと思われるかもしれません。既に生じてしまった煩悩を取り去ることはできません。それは過去のものだからです。同様に、まだ生じていない煩悩を取り除くこともできません。それはまだ存在していないからです。そして、今この瞬間においても、煩悩は生じては滅しています。いったい、どうやったら根絶できるのでしょうか?これから生じる可能性のある潜在的な煩悩を取り除くのです。
  煩悩には二種類あります。一つ目は対象と結びついた煩悩、そして二つ目は存在が持続することに結びついた煩悩です。
  一つ目のタイプは条件がそろったときに生じます。すなわち、心や身体の対象が生じ、それに対する気づきが無いときです。ある対象が優勢になったのに気づきが無ければ、対象との接触を明瞭で汚れの無いものに保つことができず、潜在していた煩悩が動き出し、姿を現します。しかし、気づきがあればこの条件は崩れ、煩悩を遠ざけられます。
  二つ目のタイプの煩悩は、意識の流れに埋めこまれたまま、輪廻を通じて潜伏し続けます。この種の煩悩を根絶やしにできるのは道の意識だけです。
  昔はマラリアにかかると二種類の治療が施されました。マラリア患者の体温は周期的に上昇と下降を繰り返します。おおよそ二日ごとに高熱に襲われ、その後、急激に体温が下がるのです。最初の治療ではまず極度の体温変化を抑え、安定させます。すると患者は体力を取り戻し、マラリア原虫は勢力を弱めます。そして、発熱と体温低下の繰り返しがある程度おさまったのを見計らって、マラリアの駆除薬を処方します。患者が体力を取り戻し、マラリアの力がかなり弱まっているので、完全に駆除することができます。
  マラリア治療の最初の部分は、煩悩の力を弱めるヴィパッサナー洞察に似ています。そして駆除薬が道の意識です。煩悩を根絶やしにして金輪際生じないようにします。
  もう一つたとえを挙げましょう。役所に行って法的な証明書を手に入れる時のことを考えてください。丸一日かかることさえあります。まず、一階の受付に行って要件を話します。受付係は、二階に上がって書類を作成し、担当者のサインをもらうようにと言います。あなたは書類を作成するために、あちらの部署へ、こちらの部署へとたらい回しにされることになります。書類を作成し終わると、今度は申請用紙を何枚も渡され、記入するように言われます。それが終わったら、担当者のサインをもらうために待たなければなりません。一日中、ある階から別の階へと様々な窓口を渡り歩いて、申請書に記入したり、サインをもらったりして過ごさなければなりません。すべての要件を満たすためには、えらく時間がかかります。やっとのことでトップの所へ行って最後のサインをしてもらうわけですが、署名自体は一秒とかかりません。こうしてあなたは証明書を手にします。しかし、そのためにはまず、面倒な事務手続きをすべてこなさなくてはならなかったわけです。
  ヴィパッサナー瞑想の場合も同じです。踏まなければならない手順がたくさんあります。道の意識は瞬時に生じます。担当官のサインどころの速さではありません。しかし、そこまでいくのが大変なのです。すべてが整えば、道の正見が生じ、すべての煩悩が根絶されたことを保証してくれます。
  ヴィパッサナー洞察の最初の部分は“職員の仕事”と呼べるかもしれません。手を抜かずしっかり仕事して正しく完成させなければならないのです。聖なる道の意識は、仕事を命じる上司のようなものです。上司は、きちんと作成されていない書類にサインすることはできません。

聖なる道果という正
:煩悩の火を消し、燃えさしに水をかける
  ヴィパッサナーの洞察が完成すると、自動的に道の意識が生じ、次いで果の意識が生じます。パーリ語ではこれらの意識はマッガ(magga)、パラ(phala)と呼ばれています。聖なる道という正見、聖なる果という正見。これらが六つの正見のうちの四番目と五番目にあたります。
  聖なる道の意識が生じると、聖なる道の正見により、悲惨で恐ろしい下層世界への転生を引き起こす煩悩が根絶やしになります。下層世界とはすなわち、地獄界、動物界、餓鬼界(peta:ぺータ)を指します。そして、その直後に聖なる果の意識が生じます。聖なる果の正見はその一部です。聖なる果の正見の働きは何でしょう。潜伏していた煩悩は既に根絶やしにされていますが、果の正見はさらにそれを冷却します。火は消えた後でも燃えかすと熱い灰が残ります。聖なる果の正見はそれらに水をかけるのです。


 2015年1月~2015年6月)

省察という正見

  六つの正見のうち最後は省察という正見です。省察の正見は、果の意識と涅槃の経験に続いて生じます。省察するのは五項目。道の意識と果の意識、意識の対象としての涅槃そのもの、根絶された煩悩とまだ残っている煩悩です。それ以外には重要な働きはありません。
  一番目の正見カンマッサカタ-・サンマーディッティ(kammassakatāsammā-diṭṭhi)は絶えることがないと言われています。つまり、存在しなくなることがないということです。たとえこの世界が崩壊し滅び去っても、どこか別の世界に業(kamma:カンマ)に対する正見を持った存在が生き延び続けるでしょう。
  善業と不善業の違いを理解しようとしない人々は、いかなる光明からも程遠いところにいます。生まれつき目が見えない赤ん坊のようなものです。子宮の中にいた時から盲目で、生まれてからも目が見えません。成長してからも自分自身を導けるほど、周りを見ることができません。目が見えず導く人もいなければ、多くの事故に巻き込まれるでしょう。
  禅定の正見は、瞑想修行によって禅定に入る人がいる限り存在し続けます。ブッダの教えが花開くことのない世の中でも、集中と没入の修行に勤しむ人々は存在するでしょう。
  しかし、上記以外の正見はブッダの教えが生き続けているところにしか存在しません。ゴータマ・ブッダの時代から現代に至るまで、その教えは花開き続けています。現在では世界中に広がっており、仏教国ではない国でも、ブッダの教えに基づいた修行を行う団体や施設があります。業や禅定の正見だけで満足してしまう人は、ダンマの光明に触れることができません。この世の光に照らされることはあっても、ブッダの智慧の光に照らされることはないのです。残りの四つの正見、ヴィパッサナー正見から省察の正見までは、ブッダの教えの光を放っています。
  瞑想者が心と物質を分けて観ることができるようになると、自我という妄想から解放され、暗闇のベールが一枚、取り払われます。意識に法(ダンマ)の光が射したのです。しかし、暗闇のベールはまだ何枚も残っています。二つ目は無知、すなわち物事が無秩序かつ偶発的に生じるという見解です。
  このベールは因果に対する洞察によって取り払われます。因果を観ることで瞑想者の心の光は少し輝きを増すでしょう。しかし、ここで満足してしまってはいけません。無常、苦、無我についての無知という闇が、いまだに心を覆っているからです。この闇を払うために、瞑想者はよりいっそう精進し、物事が生じる様子をありのままに観察し、気づきを鋭くし、集中を深めなければなりません。そうすれば智慧は自然に生じます。
  今や瞑想者は、無常である現象の中に避難所を見いだすことはできないことを観て取ります。これは深い失望をもたらすかもしれませんが、内なる光は輝きを増します。瞑想者は現象が苦であり、無我であることをはっきりと理解します。ここまで来れば、残るベールは一枚だけです。涅槃を悟ることを邪魔しているそのベールは、聖なる道の意識で取り除かれます。そしてブッダの教えの光はまばゆいばかりに輝き始めます。
  六つのタイプの正見をすべて培うことができれば、あなたは智慧の光で輝くことでしょう。今後、輪廻の中でさ迷っても、智慧の光から引き離されることはありません。それどころか、残された輪廻の旅の中で、輝きを増しながら光り続けるのです。そして、ついに悟りの最終段階に至り、阿羅漢の道果、道と果の意識が生じると、盛大な花火となることでしょう。

二輪馬車を自分のものにする
  「男であれ女であれ、そのような馬車を持ち、巧みに走らせるならば、間違いなく涅槃に到達するでしょう」
  言い伝えでは、元比丘であった天人は、ブッダの二輪馬車の説法を聞いてその真意を受け止め、即座に預流者―聖者の流れに入った者―になったそうです。彼は、聖なる八正道というこの素晴らしい二輪馬車を自分のものにしたのです。ブッダは、究極の目標である阿羅漢を目指すようにと説法をしたのですが、かの天人には一気に最後の悟りにいたる力は無かったようです。彼の波羅密では預流者の悟りを得るところまででした。

預流果の利益:輪廻という大海が干上がる
  この第一段階の悟りを得ると、悲惨な生存世界に墜ちる危険がなくなります。経典によれば邪見、疑い、誤った修行法への執着という三つの煩悩が根絶やしになるとされています。注釈書ではこれに嫉妬と物惜しみも加えられています。
  物語の天人は、前世で比丘であった頃に心と物質についての洞察を得ていたと考えてよいでしょう。彼は、洞察を得たその瞬間は「自分の中に変わらぬ実体がある」すなわち「自我というものがある」という邪見から離れていました。しかし、邪見から離れることができたのは束の間でした。涅槃を垣間見て初めて、永久に邪見から離れることができたのです。預流果の悟りを体験すると、もはや変わらぬ実体があるという幻想をいだくことはありません。
  根絶される二番目の煩悩「疑い」は、「邪見」に密接に関連しています。物事の本質を正しく理解できていなければ、善悪について確固とした判断を下すことは難しいでしょう。分かれ道に立ち尽くす人のように、あるいは気がついたら道に迷ってしまった人のように、進むべき方向についての疑いが生じます。こうした迷いは人を弱らせ、蝕みます。
  因果のメカニズムを観ることができれば、一時的に疑いを捨てることができます。ダンマの真実、すなわち心も身体も条件に依存しており、この世界には条件づけられていないものは何も無いということを理解します。
  しかしながら、疑いが消え去るのは気づきと洞察が持続している間だけです。ダンマの正しさとその効用に対する揺るぎない確信は、八正道の最終的な目的地、すなわち涅槃に達した時に初めてやってきます。ブッダの歩んだ同じ道を最後まで歩き続けようとする修行者なら、ブッダはもちろん、同じ道を歩んで目的地に達した他の聖者たちに対しても信を持つことでしょう。
  預流果の悟りにより根絶される三番目の煩悩は「誤った修行法を正しいと思いこみ執着すること」です。これは普通に考えても当然のことですが、聖なる四つの真理の観点から検証してみると、さらに深く理解することができます。
  修行者の心に聖なる八正道が芽生え始めると、「物事は決して満足をもたらさない」という聖なる四つの真理の第一番目を理解するようになります。心と身体は苦しみです。瞑想修行の第一歩はこの苦しみを観察できるようになることに他なりません。この第一番目の聖なる真理を余すところなく観察することがでできれば、残りの三つの真理におのずと達し、理解することができるようになります。
  つまり、苦の起因である渇愛を捨て去り(二番目の聖なる真理)、苦の止滅を知り(三番目の聖なる真理)、苦の止滅への道(四番目の聖なる真理)である八正道を歩むことを意味します。
  八正道を歩み始めた者は、まずあらゆる瞬間に気づきを入れるという現世的な実践から入ります。そしてある地点を越えると、修行が熟して俗世を越えた智慧が現れます。物語の天人も、涅槃を悟ることで、この道が涅槃へ達するための唯一の道であると確信したのです。彼は条件に左右されない苦の止滅を体験し、それが涅槃でしか得られないことを覚りました。この段階に至った修行者は誰もが同じように感じます。
  聖なる八正道は涅槃に至る唯一の道です。これは修行を通じてのみ得られる、極めて深い洞察です。預流果の悟りを得た修行者はこのことを理解し、八正道以外の他の修行法に対する執着や思いこみから解放されます。
  注釈書にはさらに二つの煩悩が根絶されると書かれています。嫉妬(issā)、すなわち他人の幸せや成功を見たくないと願うこと、そして物惜しみ(macchariya)、すなわち他人が自分と同じように幸せになることを嫌うことです。私は個人的にはこの記述には首肯しかねます。この二つの心の状態はドーサ(dosa)、つまり怒り、嫌悪に含まれます。そして、ブッダ自身のことばを記した経典では、預流果の悟りを得た者はドーサに関係ない煩悩だけが根絶されると書かれているかです。とはいえ、預流果を得た修行者は悪趣(下層世界)へ転生する可能性が根絶さるわけですから、嫉妬も物惜しみも相応に弱まっていることは確かでしょう。
  経典ではありませんが高く評価されている文献、清浄道論(VisuddhiMagga)に興味深い記述があります。
  経典のとおり、預流果の悟りを得た者でも、貪欲、憎悪、妄想にとらわれることがあるし、自惚れやプライドとも無縁ではない。しかし聖なる道の意識により悪趣へ転生させるような煩悩は根絶されており、下層世界への再生をもたらすような強い煩悩はもはや存在しないと言ってよい、と清浄道論では論じられているのです。
  清浄道論によれば、預流果の悟りを得た者は、すでに輪廻という大海の水を干上がらせることに成功しているのです。この悟りの第一段階に達するまでは、途切れることのない輪廻の中で転生を繰り返し、存在し続けていかなければなりません。輪廻は果てしなく、無限に繰り返されるばかりです。しかし、預流果の悟りを得た者は、その後多くとも七回の生のうちに阿羅漢となり、完全なる悟りに至るとされています。無数の生を際限なく繰り返すことに比べたら、七回の生など数のうちに入りません。事実上、輪廻の大海は干上がったと言ってよいでしょう。
  不善業は無知と渇愛の影響の下でしか生じません。無知と渇愛がある程度消えると、良くない結果、とくに悪趣への再生の可能性がなくなります。自我という邪見と、聖なる道と業に対する疑い ― そうした煩悩の無慈悲な攻撃にさらされ続けている人々は、際限なく悪行為をなし続けることでしょう。その非道の数々は間違いなく彼らを下層世界へと導きます。
  預流果の悟りを得た者はこうした煩悩が無くなっているため、もはや下層世界への再生の因となるような悪行をなすことはありません。加えて、聖なる道の意識が現れた瞬間に、好ましくない再生へと導く過去の業も断ち切られます。預流者はもはや、とてつもない苦しみに見舞われることを恐れる必要はないのです。

誰も奪うことができない聖者の特質
  預流果の悟りを得た者はさらに、聖者の七つの特質を自らのものとします。聖者とは、清められた心と気高い人格を持ち、悟りの四段階の一つに到達した者を言います。そして、「信」、「持戒」、「慚(hiri)」、「愧(ottappa)」、「習熟」、「布施」、「智慧」という七つの特質を持ちます。
  「信」とはブッダ、ダンマ、サンガに対する変わらぬ揺るぎない確信です。揺らぐことがないのは、直接の経験と理解に基づいているためです。聖者に金を積んでも、ブッダ、ダンマ、サンガを捨てさせることはできません。甘いことばで巧妙に惑わそうとしても、凄んで脅してみせても、聖者が智慧を捨て去るように仕向けることはできません。
  「持戒」とは、五戒に照らしてその行動に汚れがないということです。預流果を得ると意図的に五戒を破ることができなくなると言います。悲惨な生存世界への転生につながるような誤った行動が不可能になるのです。三つの誤った身体の行為を犯すことはありませんし、誤った口の行為(ことば)からもほぼ離れており、誤った生業にも就きません。そして、誤った修行の道を歩むという、誤った努力からも離れています。
  三番目と四番目、「慚(ヒリ)」と「愧(オッタッパ)」という特質については既に説明しました。預流果の悟りを得た者は、この二つの意識が非常に強くなっているため、悪行為をなすことができないのです。
  五番目の「習熟」とは、瞑想の理論および実際の瞑想修行の方法についての理解を指しています。預流者とはまさに、聖なる八正道を涅槃に向かって歩く方法に習熟している者のことだと言えるでしょう。
  パーリ語のチャーガ(cāga)は通常「布施」と訳されますが、実際には放棄することを意味しています。預流果の聖者は下層世界への再生という結果をもたらす煩悩をきれいさっぱり放棄しています。また惜しむことなく布施(dāna:ダーナ)をします。それは本物の、持続的な寛大さのあらわれです
  最後は「智慧」です。これはヴィパッサナーの洞察と智慧を指しています。預流者の修行には誤った気づき(邪念)や誤った集中(邪定)はありません。抑え切れずわき上がり、身口意を通じて現れる爆発的な煩悩からも、悪趣への転生に対する恐怖からも離れています。
  各々の心の平穏こそが何よりも重要です。それは恐怖から解放されることで達成されます。たくさんの人々がそのような平穏の存在に気づき ― それを自分自身の内に持つことができるようになったら ― 世界平和に対してどれだけ貢献することでしょうか。世界の平和は、一人一人の心に平和がなければ始まらないのです。

ブッダの真の子
  預流果の利益はまだあります。それは真の意味でブッダの“子”になれることです。“信者”はたくさんいます。しかし、ブッダ、ダンマ、サンガの三宝を深く信じて毎日お供えをしている人でも、様々な事情で信を捨ててしまう可能性は常にあります。あるいは転生の際に信を失うかもしれません。今生では気高く善意にあふれていても、来世ではならず者になることだってあります。悟りの第一段階に到達して、真の意味でのブッダの“娘”“息子”にならない限り保証はないのです。
  清浄道論の中ではオラサ・プッタ(orasaputta)というパーリ語が使われています。「本当の、一人前の、血を分けた子」という意味です。puttaはしばしば「息子」と訳されますが、本来は「子ども、子孫」を表すことばであり「娘」も含まれます。
  清浄道論には、預流果の利益は他にもまだまだたくさんある、と書かれています。 実に数え切れないほどの利益があるのです。預流者はダンマに本気ですべてを捧げ、真のダンマを語ることばに強烈な関心を示し、余人にはたやすく到達し得ない深さでダンマを理解することができます。預流者は善い説法を聞くと歓喜に満たされます。
  預流果とは聖者の流れに入ること。だから心は常にダンマと共にあります。俗世間の務めを果たすときは、か弱い子牛に目を配りながら草を食む母牛のようです。預流者の心は常にダンマの方を向いていますが、俗世間での責任を怠ることはありません。瞑想においても、さらに聖者の道を進みたいと願って適切に努力すれば極めて容易に集中することができます。

すべての人のための乗り物:決して壊れることのない乗り物
  ブッダは瞑想の上達に性別の差はないとはっきり言い切っておられます。女であろうが男であろうが、この二輪馬車が涅槃へと運んでくれることを信じなさい、と。当時も今も、二輪馬車には誰でも乗ることができるのです。
  現代社会には実に多彩な乗り物が存在します。交通分野の技術革新はとどまるところを知りません。今や人間は陸や海だけでなく、空を旅することもできます。普通の人が大した苦労もなしに世界中を飛び回ることができるのです。それどころか、人類は月面をも歩きました。宇宙探査機は他の惑星へ到達し、さらに彼方にまで向かおうとしています。
  しかしながら、たとえ宇宙の果てまで進む乗り物でも、涅槃に到達するためには何の役にも立たないでしょう。涅槃に連れて行ってくれるこの世の乗り物があるのなら、是非とも手に入れたいと私だって思います。しかし、いまだかつて涅槃という安全な聖域まで確実に連れて行ってくれるという乗り物の話など聞いたことがありません。
  どんなに科学技術が進歩したとしても、最先端の乗り物でさえ、事故が絶対に起きないということはあり得ません。陸、海、空、宇宙空間のいずれにおいても、致命的な事故は起きます。実にたくさんの人々が乗り物の事故で命を落としています。私は乗り物というものに価値が無いと言っているのではありません。ただ、いかなる乗り物であっても安全が完全に保証されることはないということです。100%の保証があるのは、聖なる八正道を行く乗り物だけです。
  現代の自動車は高水準の性能と安全性を誇ります。裕福な人なら、極めて快適でスピードが出る高級車を買って、好きな時に乗ることができます。裕福でなくとも、ローンを組んで車を買ったり、お気に入りのリムジンやスポーツカーをレンタルしたりできますし、公共の交通機関なら安く乗ることができます。全くお金が無くても、道ばたに立ってヒッチハイクすることはできるでしょう。
  しかし自分が乗った乗り物に問題が起きないという保証はどこにもありません。たとえ自分の車であってもです。ガソリンが切れないようにするのはもちろんのこと、常に各種のメンテナンスが必要ですし、故障すれば修理しなければなりません。いろいろと手がかかるのです。また、どんな車も最後は壊れます。乗れば乗るほどスクラップに近づいているのです。
  同じように高性能でスタイリッシュな乗り物を求めるなら、決して壊れたり古くなったりしない車はいかがでしょうか。この乗り物は涅槃へと運んでくれます。しかも、素晴らしいことに誰にでも手にすることが可能なのです!この乗り物が与えてくれるものは、まさにプライスレス。しかしながら、どんなに金を積んでも、買ったり、レンタルしたりすることはできません。あなた自身が精進してそれを自分のものにしなければなりません。自分自身がオーナーになって初めて役に立つのです。
  世間の車はほとんど既製品です。工場から出荷されてきます。しかし涅槃へと導くこの車は自分で作らなければなりません。いわばDIYキットです。まず必要なのは、涅槃は手の届くところにあるという信、そして涅槃へと導く道に対する信です。そして、モチベーション。本気でゴールに到達しようと誠実に努力する覚悟が必要です。しかし覚悟だけで実際に行動しなければ、どこにも到達できません。修業するのです。 気づきを絶やさぬよう努力を続け、瞬間瞬間を忍耐強く受け切ります。そうすれば集中が養われ、智慧が花開いて実を結ぶことでしょう。
  八正道という乗り物が、完成した既製品の状態で手に入ったら、どんなにいいでしょう。しかし、残念ながらそうはいきません。あなたがたひとりひとりが苦労して自分で作り上げなければならないのです。そのためには、信と目標を達成しようという強い意志が必要です。良い時も悪い時も変わらず修行を続けることを決意しなければなりません。自分自身で乗り物を作らなければならないことの困難、疲労、飽き、重圧を引き受けなければなりません。
  あなたは馬車の「車輪」を回し続けるべくエネルギーを注ぎ込みます。馬車を気づきという「装甲」で守り、安心して寄りかかれるように、慚(ヒリ)と愧(オッタッパ)という「背もたれ」をしっかり据え付け、横道に逸れずに進むよう正見という「御者」を鍛えます。そして様々な洞察の段階を経てついに、sotāpatti magga「聖者の流れに入った者の道の意識」を手に入れます。いったん、この預流果の乗り物を手に入れれば、涅槃に到達することはたやすくなります。
  この預流果の乗り物は一度、完成すると、その価値が下がったり、消耗したりすることはありません。今、この地上にある他の乗り物とは全く異なります。オイルを交換したり、修理したり、買い変えたりする必要はありません。使えば使うほど強固になり、洗練されていきます。事故も絶対に起きません。この乗り物で旅をするときは、100%安全が保証されます。
  この地上に生きる限り、私たちは人生の浮き沈みを経験せざるを得ません。すべてが順調に進む時もあれば、落胆と失意、苦しみと悲しみに支配される時もあります。しかしながら「預流果の道の意識」という乗り物を手にした人は、困難な時期も淡々とやり過ごし、好調な時も足をすくわれることはありません。悲惨な生存世界への門は閉ざされ、いつでも涅槃という安全な聖域にアクセスできます。
  この乗り物の偉大さはいくら讃えても足りないほどです。あなたが本当にこの乗り物を完成させ、自分のものとしたら、満ち足りた人生を手に入れることができます。それは間違いありません。
  どうか、あきらめようなどと思わないでください。そんなことを考えるくらいなら、持てる限りのエネルギーと努力を注ぎ込むのです。この乗り物を是が非でも完成し、無事に自分のものとしてください。

悪趣(悲惨な生存世界)への門は閉ざされた
  “ダンマの乗り物”であるこの二輪馬車の原型が初めて世界に示されたのは2,525年以上前、ブッダが悟りを得た後に初めて行った説法である初転法輪経においてでした。
  ブッダが現れる前、世界は八正道を知らず、完全な闇の中にありました。隠遁者や出家者、賢者や哲学者と呼ばれる者たちはそれぞれ別個に、真理について独自の見方や意見、推測や持論をかかげていました。
  今もそうですが、官能的快楽からくる歓びこそ至上のものであると信じて、快楽に耽る者もいました。他方で、こうした行動に軽蔑のまなざしを向け、反発して、禁欲と苦行に走る者もいました。彼らは自らの肉体が快楽と歓びを味わうことを拒絶することが、気高い試みであると考えました。ほとんどの衆生は妄想の中で生きていました。真理を知る手だても無い彼らの信仰も行為も恣意的なものに過ぎませんでした。それぞれが自分なりの見方や意見を持ち、それに基づいて勝手気ままに行動していたのです。
  ブッダは官能的快楽も、苦行も共に認めませんでした。ブッダは両極端を否定し、中間の道を示したのです。ブッダが八正道を示された時、初めて存在の真実に基づいた「信」が生じる礎ができました 単なる観念ではなく、真理に基づいた信が可能となったのです。
  信は意識に大きな影響を及ぼします。それは他の要素をコントロールするのです。信があれば精進することができます。信は修業へのモチベーションを生み、集中や智慧など他のすべてのダンマの土台となります。ブッダが初めて聖なる八正道を示された時、修行の基礎能力(五力)が活動を始めました。ダンマに基づいた見方が生命の心の中で息づき始め、それによって真の自由と幸せに手が届くようになったのです。
  皆様が誠実で深い信に基づいて修行されますように。そして、それが苦しみからの究極の解放の基礎となりますように。(完)

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