月刊サティ!

In this very life

 

                    ―今生での悟りを目指してー

                           ウ・パンディダ・サヤドウ

 2012年12月~2013年4月)

禅定(ジャーナ)
  「さまよわない」ということには、もっと深い様相もあります。さまよわない心とは、今起こっていることを突き通すような気づきのある心です。「突き通す」という言葉は思いつきで使っているわけではありません。それは禅定に入った際に必ず心に生じる要素なのです。
  「ジャーナ(禅定)」は、よく「没入」と訳されます。具体的には、対象にぴったりと張り付き、それを観察することができる心の状態を指しています。

  例えば、泥の中に何かがあるのに気づき、それを拾い上げようと思ったとします。何か鋭い物で突けば、先端がその物を突き通し、泥の中から拾い上げることができます。泥の中にある時は何だか分らなかった物を、近くで観察することができるのです。皿の上の食べ物にたとえることもできます。フォークで食べ物の一切れを突き刺す様子を思い浮かべてもいいでしょう。

サマタ禅定
  禅定には二つのタイプがあります。サマタ禅定とヴィパッサナー禅定です。
  サマタ禅定については書物などで読んで知っている人もいるでしょう。ヴィパッサナー禅定とどんな関係があるのだろうと思われるかもしれません。サマタ禅定とは純粋な集中であり、単一の対象もしくは心的イメージ ― 例えば色のついた円盤や光など ― に固定された気づきです。心はその対象に固定され、揺れ動いたり、他に移動したりしません。やがて心は、とても平穏で、静かで、集中した状態になり、対象に没入します。経典には様々なレベルの没入状態と、それらに特有の性質についての記述があります。

ヴィパッサナー禅定
  一方、ヴィパッサナー禅定では、心は対象から対象へと自由に移動することができます。心はすべての対象に共通する無常・苦・無我という性質に集中し続けます。涅槃の至福にしっかりと焦点を合わせられる心も、ヴィパッサナー禅定に含まれます。
  サマタ禅定が最終的にもたらすものは静寂と没入であるのに対し、ヴィパッサナー禅定の最も重要な成果は洞察と智慧です。
  ヴィパッサナー禅定は、心を“パラマッタダンマ”に集中させることです。“パラマックダンマ”は通常「究極の真理」として語られますが、実は、六門を通して直接、概念化することなしに経験する物事のことです。そのほとんどは、“サンカーラパラマッタグンマ”、すなわち条件づけられた究極の真理であり、常に変化し続ける心と物質の現象です。涅槃もまたパラマッタダンマですが、これはもちろん条件づけられてはいません。
  呼吸は、条件づけられたプロセスの良い例です。腹部に感じる感覚はサンカーラパラマッタダンマ、条件づけられた究極の真理であり、呼吸しようという意志により生じます。腹部に注意を集中する目的は、そこに生じる現象の特質、本質を見抜くことです。腹部の動き、緊張感、張り、熱感、冷感に気づく時、ヴィパッサナー禅定が発達し始めているのです。
  それぞれの感覚の門における気づきも原理は同じです。たゆまぬ精進と本質を見抜く気づきをもって、感覚のプロセスにおいて生じる現象に集中すれば、心は生じた現象の本質を理解することでしょう。それぞれの感覚のプロセスに固有の性質だけでなく、すべてに共通する性質も理解されるはずです。
  禅定に四つの段階を認める四分類法に従えば、初禅には五つの要素があります。これからその五つの要素について詳しく説明します。どれもヴィパッサナー修行において重要です。

禅定の五つの要素
  第一番目は尋(ヴィタッカ)と呼ばれます。これは、心を正確に対象に向かわせ、狙いを定める要素です。心を対象の上にとどめて、そこから動かないようにするという働きもあります。
  第二の要素は伺(ヴィチャーラ)で、一般的には「探求」ないし「熟考」と訳されています。尋(ヴィタッカ)が心を対象に向けてしっかりとそこにとどまらせ、続いて伺(ヴィチャーラ)が心を対象にこすりつけます。このことは腹部の膨らみと縮みを観察している時に、自分で経験することができます。
  まずは、心を正確に膨らみのプロセスに向けようと努力します。心は対象に届き、そこから外れなくなります。心は対象にぶつかり、対象にこすりつけられます。
  一瞬一瞬、直観的かつ正確な気づきが入っていれば、心はどんどんきれいになります。五蓋、すなわち欲、怒り、怠惰、落ち着きのなさ、疑いは弱まり、消え去ります。心は水晶のように澄み渡り、静かになります。この清らかさは、今お話した二つの要素が生じた結果であり、遠離(ヴィヴェーカ)と呼ばれています。隔離という意味です。意識は、五蓋から遠く離れ、隔離されています。遠離(ヴィヴェーカ)は禅定の要素ではありません。この隔離された意識の状態を表すための言葉に過ぎません。
  第三の禅定の要素は喜(ピーティ)です。これは、強い喜びであり、生起してくる物事に対して喜びを持って興味を示すことです。この要素は身体的に現れることもあります。鳥肌が立ったり、まるでエレベーターが急に降下したような無重力感や、地面から浮き上がるように感じられたりするのです。
  この第三の要素のすぐ後に、第四の要素が現れます。楽(スカー)、すなわち幸福感ないし満足感です。修行者は大変な満足を感じるでしょう。この第三と第四の要素は五蓋から離れた結果として生じるため、“ヴィヴェーカヤピーティスカー”すなわち「遠離による喜、楽」と呼ばれます。隔離から生み出される強い喜び、楽しみ、幸福感という意味です。
  この流れを因果の連鎖として考えてみましょう。心の隔離(遠離)は最初の二つの禅定の要素によって生じます。心が対象に正確に向けられ、対象に的中し、こすりつけられれば、やがて心は隔離状態になります。そして、心が五蓋から隔離されることで、幸福で、楽しみにあふれ、心地よい状態になるのです。
  この四つの禅定の要素があると、心は自動的に静かで平穏になり、散乱したり分散したりせずに、生じている現象に集中することができるようになります。
  このような一点に集中した心が、五番目の禅定の要素、定(サマーディ)なすなわち「集中」です。

ヴィパッサナー禅定の初禅にいたるには、心と物質への洞察を必要とする
  この五つの要素すべてがそろったとしても、ヴィパッサナー禅定の初禅に達したとは言えません。これらに加えて、心がダンマ(法)を多少なりとも洞察できるようになる必要があります。
  少なくとも、心と物質の相互関係を観ることができるようにならなければなりません。そうなって初めて、ヴィパッサナー禅定の初禅に達したと言えるのです。
  五つの禅定の要素を心に備えた瞑想者は、今までと異なる気づきの正確さを経験し、これまでにないレベルで対象にとどまることができるようになります。強烈な喜び、幸福感、安楽が身体的に生じることもあります。これは瞑想修行の素晴らしさを実感する機会となるでしょう。
  「ああ、私は本当に厳密に、正確になってきている。そればかりか空中に浮かんでいるような気分だ!」
  このように考えることも、瞬間的な執着であると気づくかもしれません。

内にとどまる
  誰でも喜、幸福感、楽にとらわれてしまう可能性があります。このような私たちの内に生じる現象への執着は、特殊な渇愛であり、ありふれた世俗的な官能的快楽に結びついたものではありません。このような掲愛はむしろ私たちの瞑想修行の直接的な結果なのです。
  この渇愛が生じた時に気づくことができなければ、瞑想修行の妨げとなります。直ちにラベリングすることなく、気づきを欠いたまま心地よい現象に溺れたり、この先、修行で得られるかもしれないさらなる快楽に思いを巡らせたりするでしょう。これこそ、ブッダの謎めいた教えの意味するところでした。
  ブッダが「内にとどまる」という言葉で指し示したのは、瞑想の結果生じるこのような心地よさに対する執着のことだったのです。
  これで「心を外にさまよわせるべきではない。また心を内にとどまらせるべきでもない」と教える、この短い経の意味は分かりました。ここでさらに理解を深めるために話を続けましょう。

三段階の遠離
  この経は、瞑想修行の際に避けるべきことを示しています。それは、欲(カーマ)つまり官能的快楽、そして不善な法(ダンマ)です。そして、三つの遠離を実践することで、これらを確実に避けることができます。
  一番目は身離(カーヤヴィヴェーカ)すなわち身体の遠離、そして二番目は心離(チッタヴィヴェーカ)すなわち心の遠離です。
  三番日の依遠離(ウパディヴィヴェーカ)は最初の二つの結果として生じる、煩悩と障害が遠く離れて弱まった状態です。
  身離(カーヤヴィヴェーカ)とは、正確には肉体から離れることではなく、官能的快楽と結びついた具体的対象から離れることを意味しています。
  これは簡単に言えば、一群の感覚対象 ― 音、視覚対象、匂い、味、触覚対象 ―のことを指しています。
  不善な法(ダンマ)からの遠離は、心離(チッタヴイヴェーカ)によってなされます。
  これは、集中と洞察が向上するのを妨げるさまざまな障害から、心が離れることです。修行に即して言えば、心離(チッタヴィヴェーカ)とは要するに瞬間、瞬間に気づきを入れることを意味します。
  瞬間、瞬間の気づきを維持することができている瞑想者は、心離(チッタヴィヴェーカ)を働かせているのです。
  これら二つの遠離は精進なしには生じません。身離(カーヤヴィヴェーカ)のためには、官能的快楽に満ちた環境から身を引き、心の平穏をもたらすような場所で修行する機会をつくらなければなりません。
  もちろん、身を引くだけでは不十分です。心離(チッタヴイヴェーカ)を得るためには、六つの感覚門に生ずるすべての対象に気づくようにします。
  気づくためには、心を対象に向けなければなりません。気づきを絶やさないように努力することは、心に正確さの意識をもたらします。この狙いを定める意識、心を瞑想対象にぴたりと添わせるための正確さを求める努力こそが、五禅支の一番目、尋(ヴィタッカ)です。
  というわけで、まずは狙いを定めなければなりません。腹部の膨らみ、縮みを観察するようにします。やがて心は標的に命中し、固さや緊張、動きといった腹部の感覚にはっきりと気づけるようになります。心は対象にぶつかりそれをこすりはじめます。
  前述のように、これが伺(ヴィチャーラ)です。心は対象をしばらくこすりつづけた後、対象に没入し一体となります。腹部の膨らみ、縮みにとどまっていれば、思考は少なくなります。
  しばらくの間、全く思考が生じない状態になることさえあるかもしれません。明らかに、心は官能的快楽の対象と、そうした対象から生じる煩悩(キレーサ)から離れています。
  つまり、身離(カーヤヴィヴェーカ:身体からの遠離)と心離(チッタヴィヴェーカ:心からの遠離)が現れているのです。
  さらにたゆまぬ修行、精進を続けると、煩悩(キレーサ)ははるか彼方へと離れ去っていきます。
  そして、ついには第三の遠離、依遠離(ウパディヴィヴェーカ:煩悩からの遠離)を得るのです。

特別な種類の幸福
  依遠離(ウパディヴィヴェーカ)が現れると、心は柔らかく繊細に、軽く朗らかに、そして的確で柔軟になります。
  そして、特別な種類の幸福、遠離から生じる楽(ネッカンマ・スカー)が生じます。これは官能的対象と、それらに反応する不善な煩悩から離れることから生じる幸福と安楽です。
  ありふれた見せかけの幸福に代わって、心を解放するこのような安楽が生じるのです。感覚がもたらす心地よさを手放すという、まさにそのことによって、非常に心地よい状態が得られるというのは、不思議に思われるかもしれません。
  真の意味で感覚的快楽から離れるとはこういうことなのです。
  心が不善な法(ダンマ)から離れるということは、心がすべての煩悩から離れるということです。
  煩悩(キレーサ)の直接の原因である感覚対象を捨て去っているので、煩悩が生じる余地はありません。
  ここで、没入状態を意味する禅(ジャーナ)に全く新しい意味が与えられます。尋(ヴィタッカ:狙うこと)と、伺(ヴィチャーラ:擦ること)という二つの禅支によって官能的快楽は捨て去られ、煩悩は駆逐されます。
  つまり、禅(ジャーナ)は没入状態をもたらすだけでなく、煩悩を取り除くのです。禅(ジャーナ)はあたかも炎のように煩悩(キレーサ)を焼き払います。

尋(ヴィタッカ)と伺(ヴィチャーラ)の関係
  禅(ジャーナ)を培うためには、尋(ヴィタッカ)と伺(ヴィチャーラ)という二つの禅支、すなわち正確に狙いを定めることと、的をとらえることが極めて大切です。この二つには密接な関係があります。
  多くの経典で論じられていますが、以下はその二つの例です。
  あなたの手の中に汚れてシミだらけの真鍮の杯があるとしましょう。あなたは研磨剤を布に付け、片方の手で杯をしっかりと保持し、もう片方の手に布を持って杯の表面を磨きます。一所懸命、注意深く磨けば、すぐに杯はぴかぴかに磨き上げられるでしょう。
  同じように、瞑想者は心を、中心対象が生じる特定の場所にしっかりと保持しなければなりません。つまり腹部です。
  気づきをその場所に向け続けて、煩悩(キレーサ)というシミや汚れがなくなるまで磨き続けます。そうすることで、その場所で起こっていることの本質を見抜くことができるようになります。
  腹部の膨らみ、縮みのプロセスを正しく理解するのです。もちろん、他の対象が中心対象よりも優勢になった場合は、その対象に尋(ヴィタッカ)と伺(ヴィチャーラ)を向けてラベリングしなければなりません。
  一方の手で杯を持つことが尋(ヴィタッカ)、そして磨く動作が伺(ヴィチャーラ)の喩えです。瞑想者が杯を手に持つだけで磨こうとしなかったらどうなるでしょうか。杯はいつまでも汚れたままです。
  また、杯をしっかりと持っていなければ、うまく磨くことはできません。これは二つの覚支がお互いに支え合っていることを示しています。
  二番目の例には、あの図形を描くのに使われるコンパスが登場します。
  ご存じのように、コンパスには二本の腕があります。一方は先が尖っており、もう-方には鉛筆がついています。瞑想者はコンパスの針を固定するように、心を瞑想対象にしっかりと固定しなければなりません。
  そして、対象のすべてをはっきりと見ることができるようになるまで、心をいわば“回転”させなければなりません。その結果、完全な円ができあがります。ここでは、コンパスの針を固定することが尋(ヴィタッカ)であり、コンパスを回転させることが伺(ヴィチャーラ)に相当します。

直接的かつ直感的な認識
  伺(ヴィチャーラ)を英語で、investigation「探究」あるいはsustained thought「持続的思考」などと翻訳していることがありますが、これは大変な誤解を生む可能性があります。
  西洋人は幼少時から、常に思考を用いて理由や原因を探すように教育されています。
  あいにく、このような「探究」は瞑想にはふさわしくありません。知的な学習や理解は、一面しかとらえられません。
  もう一方に、直接的かつ直観的な学習や理解が存在するのです。瞑想では究極の現実、すなわち究極の法(パラマッタダンマ)を直接検証します。
  私たちは頭で考えるのではなく、真理を実際に体験しなければなりません。これが、物事をあるがまま、自然のままに観察して、洞察と智慧を得る唯一の方法です。
  究極の真理について知的な理解を深めることはできるでしょう。しかし、どれだけたくさんの書物を読んでも、真理を直接経験しなければ、洞察が生じることはないのです。
   止禅(サマタジャーナ)は、心を落ち着かせることはできても、直接智慧につながることはありません。思考を経ずに直接経験できる対象ではなく、概念を瞑想対象としているからです。
  一方、観禅(ヴィパッサナージャーナ)は智慧へとつながります。究極の真理にじかに、かつ持続的に触れ続けることになるからです。
  例えば、目の前にリンゴが一つあって、「ジューシーで甘くておいしいよ」と誰かが言うのを耳にしたとしましょう。
  あるいは、あなた自身がそのリンゴを見て「とてもおいしそうなリンゴだ。きっと甘いに違いない」と考えたかもしれません。
  しかし、いくら考えても、予測しても、実際に一口食べるまでは、その果実の味を経験することはできません。
  瞑想についても同じです。ある境地にいたることがどのようなものかを鮮やかに思い描けたとしても、実際に体験しなければ本物ではありません。
  正しいやり方で修行し、精進を重ねて、初めて自分自身の洞察を得ることができるのです。リンゴの味について議論しても意味がないのです。

瞑想の障害と解毒剤

  真夜中にろうそくの灯がないと部屋が闇に飲み込まれてしまうように、瞑想対象に正しく向いていない心には煩悩や無明という“闇”が生じます。とは言え、これは空っぽで単調な闇ではありません。
  反対に、無明が生じている瞬間瞬間において、心は好ましい視覚的対象・音・思考・香り・味・感覚を探し求め、それに執着し続けています。
  このような状態にある生命は、目覚めている時間のすべてを費やして、好ましい対象を追い求め、それにしがみつき、執着します。がんじがらめになっているため、馴れ親しんだ官能的快楽を超えたところに、別の種類の幸せがある可能性を認めることさえ困難です。
  瞑想という、高いレベルの幸せを達成するための実践的方法について話をしても、そうした人々は理解することができないでしょう。
  ヴィパッサナー瞑想の実践とは、完璧に、かつ絶え間なく対象に注意を向けることです。
  これには集中の二つの側面である尋(ヴィタッカ)と伺(ヴィチャーラ)が関わります。前述のように、対象に狙いを定めることと、対象に心を擦りつけることです。
  これら二つの禅支により、心は気づきの対象に没入し続けます。この二つが欠けていると、心はさまよいます。
  官能的対象や煩悩(キレーサ)、特に官能的対象を渇望する煩悩に打ちのめされて、心は妄想と無智の海に飲み込まれてしまいます。光明が生じることはありません。
  最初の二つの禅支が残り三つの禅支と組み合わさることで生じる、穏やかで、透明で、喜びに満ちた、洞察が花開く土台となる環境も、望むべくもありません。

五つの障害(五蓋)
  心が対象から離れてさまよいだす五つの具体的な様相は、五つの障害(五蓋)と呼ばれています。五蓋は一見、際限なくたくさんある煩悩(キレーサ)の中の五つの主要なタイプを表します。
  それぞれが特有の力で修行を妨げ、遅らせるため「障害」と呼ばれています。
  心が感覚の誘惑にたぶらかされている間は、落ち着いて瞑想対象を観察することはできません。心は繰り返し対象から引き離されます。これでは、ありきたりの幸せを超えて行く道を歩むことができません。このように、愛欲(カーマチャンダ)、すなわち官能的欲望は、修行を妨げる最初の、そして最大の障害となります。
  不快な対象によって心が乱れることもよくあります。不快な対象に遭遇すると、心は瞋恚(ヴャーパーダ)、すなわち嫌悪や怒りで満たされます。これもまた心を中心対象から引き離し、ひいては真の幸せの方向から逸らせてしまいます。
  機敏さや注意力が消失してしまうこともあります。心は緩慢に、うまく働かなくなり、眠くなります。すると、やはり中心対象にとどまることができなくなります。これは惛沈・睡眠(ティーナ・ミッダ)と呼ばれ、五つの障害の三番目になります。
  心が浮ついて散乱し、ある対象から別の対象へと飛び回ることもあります。これは掉挙(ウッダッチヤ)と後悔(クックッチヤ)と呼ばれます。落ち着きのなさと不安です。心は対象に一点集中することができず、散乱・分散し、過去の行為の記憶や自責の念、後悔、心配や興奮でいっぱいになります。
  五番目にして最後の主要な障害は疑(ヴィチキッチャー)、すなわち疑いと批判です。皆さんもきっと、自分自身や修行方法、あるいは指導者を疑った経験があるでしょう。今、行っている修行と、過去に行ったもの、あるいは他人から聞いた他の修行法とを比べて、立ち往生してしまうかもしれません。まるで、十字路に差し掛かった旅人が、正しい通が分からず、どちらへ進むべきか決められないでいるかのように。
  五蓋が生じているということは、喜(喜び)、楽(安らぎ)、一境性(心の一点集中)、尋(正しく狙いを定めること)、そして伺(気づきを継続すること)を欠いていることを意味します。これら五つの善なる要素は第一禅定の禅支であり、ヴィパッサナー瞑想の修行を成功させるために不可欠な要素です。
  それぞれの禅支は特定の障害の解毒剤であり、逆に言えば、それぞれの障害は特定の禅支の敵となります。

一境性(集中):官能的欲望への解毒剤
  快楽に満ちたこの世では、官能的欲望という障害が私たちを闇にとどめる主要な原因となっています。
   それに対する解毒剤は、一点集中です。心が瞑想対象に集中すると、それ以外の思考へ執着することも、心地よい視覚対象や音を欲することもなくなります。快い対象は、心に作用する力を失います。心が散乱・分散することもありません。

喜(喜び):嫌悪への解毒剤
  集中によって心がより繊細なレベルに達すると、深い興味が生じ、恍惚と喜悦に満たされます。このことにより、心は二番目の障害から解放されます。怒りは喜びと共存できないからです。
  したがって、経典には喜悦と恍惚こそが怒りの解毒剤であると説かれているのです。

楽(幸福、あるいは安楽):落ち書きのなさへの解毒剤
  瞑想が上達すると、とてつもない安堵感が生じ始めます。心は不快な感覚をも、嫌悪することなく穏やかに観察します。たとえ厄介な対象が生じても、心には安楽があります。
  時には、気づきのおかげで痛みさえ消えることがあり、あとには身体的な解放感が残ります。このような心身の安楽により、心は満たされ、対象にとどまり続けます。もはや、あちこち飛びまわることはありません。安楽は落ち着きのなさと不安への解毒剤です。

尋(狙いを定めること):怠惰と睡眠への解毒剤
  尋(ヴィタッカ)、すなわち狙いを定めるという禅支には、心を開きリフレッシュさせる特別な力があります。それは心に活力を与え、心を開かせます。
  それゆえ、心が継続的かつ精力的に、対象に正確に狙いを定めようとしている時は、怠惰や睡眠は生じません。眠気に襲われた心は締めつけられ、萎縮します。尋(ヴイクッカ)は惛沈・睡眠(ティーナ・ミッダ)に対する解毒剤です。

伺(絶え間ない注意あるいは擦りつけること):疑いへの解毒剤
  正しく狙いが定まっていれば、心は観察しようとしている標的にぶつかります。この対象に心をぶつける、ないし擦りつけるということが、伺(ヴィチャーラ)という禅支です。これには持続させるという働きがあり、心が観察対象に張り付いた状態を維持します。
  絶え間ない注意は疑いの対極にあります。なぜなら疑いとは優柔不断だからです。疑いを持った心は、どのような特定の対象の上にもとどまることができません。逆に、可能性を求めてあちこち駆け巡ります。伺(ヴィチャーラ)があれば、心が対象からすべり落ちることはないので、当然このような振舞いをすることは不可能です。
  未熟な智慧は、疑いが蔓延するのを助長します。修行がある程度深まり、熟さなければ、深淵なる法(ダンマ)を明瞭に観ることはできません。修行を始めたばかりの瞑想者は、聞いたことはあるけれども一度も経験したことがないことについて思いを巡らします。
  しかし、そうやって考えれば考えるはど、分からないことは増えていきます。欲求不満のまま考え続けると、それはやがて批判へとつながっていきます。
  このような悪循環に対しても、絶え間ない注意が解毒剤となります。対象にしっかり定まった心は観察に全精力を注ぎます。批判的な思考が生じることはありません。

この世界の本質を理解する

  腹部の膨らみ、縮みに最初から最後まで注意を向け続け、ある瞬間から次の瞬間へと途切れることなく、深く正確な気づきを持続できるようになった時、あなたはそのプロセス全体をはっきりと心の眼で観ることができるようになっているはずです。
  始まりから、中盤、そして終わりまで、まったく欠けるところなく、明確に体験するでしょう。
  そしていよいよ、ヴィパッサナー瞑想によってしか得られない、洞察の深まりを経験することになります。それは心と身体を直接観ることで得られます。まず、膨らみ、縮みのプロセスを構成する、心と身体の要素の間の、微細な区別ができるようになります。感覚は物質的対象であり、それを知覚する意識とは区別されます。
  さらに注意深く観察していくと、心と物質とが相互に関連し、因果によって結びついている様子が分かってきます。心に生じた意思が困となって、動きを生じさせる一連の物質的現象が現れます。あなたの心は、心と物質が生じては消え去っていく様子を認識し始めます。生じては滅する、という事実をはっきりと観て取れるようになるのです。あなたの意識の領域にあるすべての対象が、現れては消えるという性質を持っていることが明らかになります。音は鳴り始め、そして止みます。身体に生じた感覚は、いずれ消えます。永続するものは何もありません。
  瞑想修行がここまで進むと、前述の第一禅定の五つの禅支がしっかりと現れ始めます。対象に狙いを定め、心をぶつけること、すなわち尋(狙いを定めること)と伺(絶え間ない注意)が強くなります。そして、一境性(集中)、喜(喜び)、楽(幸福/安楽)が加わります。
  これがいわゆる、第一のヴィパッサナー禅定(ヴィパッサナージャーナ)が完成した状態で、ここからヴィパッサナーの洞察智(ヴィパッサナーニャーナ)を得る可能性が生じます。
  ヴィパッサナーの洞察智(ヴィパッサナーニャーナ)は、端的に言えば、条件付けられた現象の三つの普遍的な特徴、すなわち、無常(アニッチャ)、苦(ドゥッカ)、無我(アナッタ)に関連しています。


無常(アニッチャ:anicca
  対象が生じては滅する様子を観察していくと、それが瞬間的にしか存在しないという性質、無常性が分かり始めます。 この無常(アニッチャ)という智慧は、自分自身の直接体験として得られます。どこに注意を向けても、それが真理であることを感じることができるでしょう。
  あなたの心が対象に触れている間に、その対象が消滅していく様子がはっきりと分かるはずです。そして、大きな満足感が生じます。瞑想に対する関心が深まり、宇宙の真理を見出したことに喜びを感じるでしょう。
  大まかで単純な観察をするだけで、身体全体が無常、すなわち永続しないことが分かります。無常は、身体全体に当てはまる訳です。仔細に観察すると、六つの感覚門に生じるすべての現象が無常であり、永続しないことが分かります。
  さらに、心と物質を構成するすべて、心の現象と身体の現象のすべてが永続するものではなく、無常であると理解することができます。この条件付けられた世界には、無常でないものなどないのです。
  生じては滅することを無常相(アニッチャラッカナ)と言い、これは無常であることの特徴、あるいは表れです。この生滅の中にこそ無常を観ることができるのです。無常をとらえる直観的な理解のことを「無常随観による智慧(アニッチャーヌパッサナーニャーナ)」と言います。
  これは、特定の対象をラベリングし、その対象が消え去るのを観る、まさにその瞬間に生じるものです。これは大事な点です。無常随観による智慧は、現象の消滅を観る、まさにその瞬間にしか起こりません。消滅を遅れることなく観察できなければ、無常を理解することは不可能です。
  無常について書かれた書物を読むことで、無常に対する洞察を得たと言えるでしょうか?
  「あらゆる物事は滅するものである」と、師が語るのを聞いただけで、洞察が生じるでしょうか?
  あるいは、演繹的であれ帰納的であれ、論理的な推論によって無常の深い理解にいたることができるでしょうか?
  これらの質問に対する答えは、はっきり「否」です。
  本物の洞察は、今この瞬間における現象の消滅に対する、思考を介さない、あるがままの気づきがなければ生じません。
  例えば、腹部の膨らみ、縮みを観察しているとします。膨らむ時に、張り、こわばり、膨らみ、動きに気づくでしょう。膨らむ過程を最初から最後まで追いかけることができ、こうした感覚の終わりをはっきりと観て取れれば、無常随観による智慧が生じる可能性があります。
  腹部のみならず、身体のどの箇所で感じられる感覚も、すべて無常であり、永続しません。膨らみのプロセスが始まると出現し、終わると消滅するこうした感覚の特徴が、無常相(アニッチャカッラナ)を構成します。
  そして、感覚が消え去るのを観察している瞬間においてのみ、その非永続性を悟ることができます。
  永続しないのは腹部の感覚だけではありません。見る、聞く、嗅ぐ、味わう、考える、そして触れることによって生じる、熱い、冷たい、硬い、痛いなどといった身体感覚。そして、屈む、向きを変える、手を伸ばす、歩くといった様々な動作の感覚。これらすべてが無常です。
  こうした対象のいずれかの消滅を観ることができれば、無常随観による智慧を得られ、永続性という幻想が失われます。
  慢(マーナ)すなわち自惚れもなくなります。心が無常に気づいていれば、全体としての慢のレベルはどんどん弱まっていくものなのです。

苦(ドゥツカ:Dukkha):苦しみまたは不満足
  条件づけられた真理の第二の特徴は、苦(ドゥッカ)すなわち苦しみ、不満足です。苦もまた、三つの観点からとらえることができます。苦(ドゥツカ)、苦相(ドゥツカラッカナ)、苦随観による智慧(ドゥツカーヌバッサナーニャーナ)です。
  無常の観察を通じて、苦しみという要素は自然と明らかになります。現象の生滅の中に頼れるものや、執着することのできる確実なものは何もないことを、あなたは悟るでしょう。あらゆるものは流れの中にあり、満足というものはありません。現象の世界に慰めはないのです。苦とはいわば無常の別の名であり、無常であるものすべてに当てはまります。無常であるものすべてが、苦しんでいるのです。
  瞑想修行がここまで進んでくると、痛みの感覚は興味の対象となるでしょう。痛みに反射的に反応することなく、しばし観察することができるようになります。すると、痛みというものが決して強固な実体ではないことが分かります。実際には、ほんの一瞬も持続することがありません。痛みが持続しているという錯覚は崩れていきます。例えば腰の痛み。焼けつくような痛みは圧迫感へ、さらに脈打つような感覚へと変化していきます。この拍動の質感、形、そして強さは刻一刻と変化しています。そして、クライマックスが訪れます。心は、痛みがバラバラに分解されていくのを観るでしょう。そして痛みは意識の領域から消えるのです。
  痛みを克服すると、喜びと高揚感に満たされます。身体は静かに落ち着き、心地よさを感じます。しかし、苦しみが根絶されたと錯覚することはありません。感覚というものが本質的に満たされないものであるということが、これ以上ないほどはっきりと分かります。身体とは苦痛と満たされなさの寄せ集めであり、それが無常の調べに合わせて、休みなく躍っているのだということが見えてくるでしょう。
  苦相(ドゥツカラッカナ)とは苦の特徴のことであり、具体的には無常による抑圧のことです。すべての対象が瞬間瞬間に生じては滅しています。そのために、私たちはとてつもない抑圧の中で生きていると言えます。いったん生起してしまったものは、消滅を逃れる術を持ちません。
  苦随観による智慧(ドゥツカーヌバッサナーニャーナ)とは苦を理解する洞察のことです。無常随観による智慧(アニッチャーヌパッサナーニャーナ)と同じく、現象の消滅を観る瞬間に生じますが、異なる趣をもちます。突然、あらゆる現象が拠り所にはならないのだという理解が生じ、圧倒されます。現象の世界に慰めはない、そこは恐ろしい場所なのだ、と。
  ここでも、書物や思索によって苦を理解した気になっても本物とは言えないことを理解しておく必要があるでしょう。苦随観による智慧は、心があるがままに現象の生滅を観ることによってしか生じません。
  現象とは無常であり、恐ろしく、好ましくなく、悪いものであるという悟りと共にしか生じないものなのです。

  すべての現象に苦が内在しているという理解は、強力なものです。現象が快楽をもたらすという妄想が根絶されれば、渇愛が生じる余地はなくなります。

無我(アナッタ:anatta):我は実在しない
  ここまで来ると修行者は自ずと無我(アナッタ)を知ることになります。つまり、こうした生滅のプロセスの背後には誰もいないことを認識するのです。瞬間から瞬間へと現象が生起することは自然のプロセスであり、何者とも同一化することはできません。無我随観による智慧(アナッターヌパッサナーニャーナ)とは、物事には自我はないという智慧のことです。これには無我(アナッタ)そのものと、無我相(アナッタラッカナ)という二つの先行する要素が土台となります。
  無我は、無常で自我を持たないすべての現象を指します。つまるところ、精神と物質におけるあらゆる現象がこれにあたります。無常と苦との違いは、異なる側面が強調されているという点だけです。
  無我(アナッタ)、無我相(アナッタラッカナ)の特徴は、対象が誰かの望みどおりに生じたり滅したりすることはない、ということを観ることにあります。私たちの心と身体のうちに生じる現象はすべて、それ自体の法則に従って勝手に生じては消えます。私たちはその生起をコントロールすることができません。
  このことを理解するためには、天候について考えてみるとよいかもしれません。とんでもなく暑い日もあれば、凍えるように寒い時もあります。雨が降る時もあれば、乾燥した日もあります。天候は変わりやすいものであり、先のことは正確には分かりません。どんな天候であろうと、自分の心地よい気温に調節することなどできません。天候は自然の法則に従うだけです。
  私たちの心と身体を構成する要素も、これと全く同じなのです。私たちは病気になり、苦しみ、ついには死を迎えます。このプロセスは、私たちの望みに反するものではありませんか。
   心と身体のあらゆる現象が生じては滅していく様子を入念に観察していると、ある時点で、その生滅の過程を制御する者は誰もいないという事実に気づくでしょう。このような洞察はごく自然に生じます。何かから影響を受けた訳でも、操作された訳でもありません。そして、思考により生じた訳でもありません。ただ、この瞬間において現象が滅する様子を観察し続けることによって生じるのです。
  これが、無我随観による智慧と呼ばれるものです。
  現象が瞬間的に生滅する様子を観ることができなければ、自我、すなわち心と身体のプロセスの背後に変わらない個別の実体があるという、誤った見方に簡単に陥ってしまいます。明晰な気づきさえあれば、このような邪見は一時的に取り除かれます。

最初のヴィパッサナー禅定(ヴィパッサナージャーナ:vipassanājhanā)
  明晰な気づきがあり、特に事物の消滅に気づくことができていれば、すべての現象は無常、苦、無我であるということを直観的に理解できます。これら三つの特徴のすべてを直観的に理解することは、洞察の段階の一つである思惟智(サンマサナニャーナ:samasanañāņa)に含まれます。これは「理解により検証された智慧」と訳されます。瞑想者は現象の消滅を観るという個人的な経験によって、この三つの特徴を理解し、真実と知るのです。
  一般に「insight(洞察)」と訳されることが多いのですが、これはパーリ語のヴィパッサナー(vipassanā)の訳としては適切ではないかもしれません。ヴィパッサナー(vipassanā)という語は、Vipassanāの二つの部分から成り立っています。Viは「様々な様相」を、passanā は「観ること」を意味しています。ですから、ヴィパッサナーの意味の一つは、「様々な様相において観ること」です。
  
「様々な様相」とは無常、苦、無我のことです。ですから、ヴィパッサナーのより十全な訳は、「無常、苦、無我の諸相を通じて観ること」となります。
  ヴィパッサナーの智慧=ヴィパッサナーニャーナ(vipassanā- ñāņa)とよく似た言葉に、パッチャッカニャーナ(paccakkha- ñāņa)があります。
  パッチャッカ(paccakkha)は、直接経験による知覚という意味です。ヴィパッサナーの智慧は、気づきがなければ生じません。それは思考ではなく、直観によって生じるものです。そのため、直接経験による洞察、パッチャッカニャーナとも呼ばれます。
  修行の中で、ヴィパッサナーの智慧が繰り返し生じると、心は自ずと、無常、苦、無我が現れているのは、現在だけではないという推論に導かれます。
  これら三つの性質は、過去においても常に現れていたし、未来においても現れ続けるであろう、そして自分以外の生命やその他の対象も、やはり同じ要素から成り立っており、すべてが永続せず、満足をもたらさず、自我を持たないのだと悟るのです。
  これは「推論による智慧」と呼ばれ、尋(ヴィタッカ)、伺(ヴィチャーラ)の禅支が思考のレベルで現われたものです。
  この段階で、最初のヴィパッサナー禅定(ヴィパッサナージャーナ)が完成したと考えられます。そして「理解により検証された智慧」、すなわち思惟智(サンマサナニャーナ)と呼ばれる修行の段階が完成します。

  条件づけられた現象の三つの性質 ― 無常、苦、無我 ― が、深く明瞭に理解されます。
  この世にこの三つの様相が当てはまらない状況はこれまでなかったし、これからもないだろうという結論に、推論によって達するのです。
  最初のヴィパッサナー禅定には、推論と省察がつきものです。推論と省察は、それに心を奪われない限り、害はありません。
  しかし、過剰になると、個人的で直接的な経験を妨げてしまう可能性があります。特に、知的能力の高い人、想像力が豊かな人、哲学に傾倒している人の場合はその傾向が大きく、実際に洞察を妨げてしまうことさえあります。
  あなたがそういうタイプの人で、そのせいで修行が何やら滞っていると感じるならば、考えること自体は悪いことではないということを思い出してください。この場合の省察は欲や嫌悪ではなく、法(ダンマ)と結びついているからです。
  しかし、それでもやはり、ありのままに観察し、現象を直接経験する修行に立ち戻る努力をすべきなのは、言うまでもありません。

善なる尋(ヴィタッカ:vitakka)と不善なる尋
  尋(ヴィタッカ)は、正確に狙いを定めるという禅支を指しますが、特定の考えに心を向けるという、このような思考レベルでの省察も含まれます。尋には、善なるものと不善なるものがあります。
  注意を感覚的な快楽に向けることは、不善な尋であると言われています。これに対して、善なる尋は、遠離と結びつきます。嫌悪や攻撃性と結びついた尋は、不善です。対して、悪や暴力から離れることに結びついた尋は、善です。
  前述の無常(アニッチャ)、昔(ドゥッカ)、無我(アナッタ)の認識を生じさせる推論の場合には、官能的快楽と結びついた尋はありません。その場合の思考は、自身による直接的な洞察の中から生じます。ある種の欲望はあるでしょうが、現世的快楽(名声、セックス、富、財産)とは無縁なもののはずです。出家したい、寛容でありたい、ダンマを広めたいなど、善なる欲望を感じているでしょう。そうした思考、あるいは尋は、離貪、遠離と結びついています。
  怒りと結びついた尋は、他人が傷ついたり、不幸に見舞われたりすることを望む攻撃的な心の状態です。
  それは怒りに根ざしており、破壊性を隠し持っています。嫌悪ないし怒りから離れた状態とは、すなわち慈悲(メツター:mettā)という麗しい性質であります。怒りが攻撃的で破壊的であるのとは対照的に、慈悲は他者の安楽や幸せを願います。
  上述のように、自らダンマを知った人は、しばしばそれを愛すべき人たちと分かち合いたいと思うものです。他の人にも同じ経験をしてもらいたいと欲するのです。他の人々の幸せを願うこうした思考は、慈悲と結びついています。
  いま一つの尋は、他者に害を及ぼすことと結びついています。ここにも二つ通があります。冷酷な思考と、冷酷ではない思考です。冷酷な思考は、他の生命を傷つけ、虐げ、苦しめ、殺したいという欲望を含んでいます。これもまた非常に破壊的な心の性質であり、怒りに根ざしています。
  これに対し、冷酷さから離れるのは、悲(カルナー:karuņā)という性質です。他者を助け、悩み苦しみから救いたいと願う憐みの心です。これが強ければ、ただ憐れみを感じるだけでなく、他者を苦しみから救うための具体的な方法を探すことでしょう。

省察による智慧としての伺(ヴィチャーラ:vicāra
  このような省察的思考が繰り返し生じる場合、そのプロセスを伺(ヴィチャーラ)と呼びます。対象に持続的に集中し、心を擦りつける強い注意を指すのと同じ言葉ですが、ここでは思考レベルで繰り返し省察することを意味します。
  最初に直接的で直観的な洞察を経験した後、推論によって、この洞察についての知識が生じます。この知的な推論は刺激的で楽しいものですが、行き過ぎると思考が延々と連鎖することになり、直接観るというプロセスを中断させてしまいます。たとえ遠離、慈悲などと結びついた貴い思考であったとしても、思考にとらわれて夢中になってしまうと、洞察が生じることはなくなってしまいます。
  皆さんが修行において、これら二つのとても大切な心の要素、尋(ヴィタッカ)と伺(ヴィチャーラ)を力強く生じさせることができますように。心を注意深く対象に向け、擦りつけることで、対象をはっきりと観、本質を見抜くことができるようになりますように。たとえ素晴らしいものであっても、思考によって道を逸れることがありませんように。
  そうすれば、皆さんは種々の洞察の段階を進み、ついには、涅槃(ニッバーナ:nibbāna)を悟ることができるでしょう。

より高いレベルのヴィパッサナー禅定への到達

  最初のヴィパッサナー禅定(第一禅定)によって、修行者は現象の急速な生滅を洞察するところまで到達します。この洞察を体験し、さらに先へと進むことで、修行者は文字どおり成長していきます。

ヴィパッサナー第二禅定

  瞑想者は、省察的思考という幼年期を抜け出し、ありのままの気づきという成熟した段階に入ります。
  瞑想者の心は明晰で鋭くなります。瞬間から瞬間へと現れては消える現象を高速で追いかけることができるようになるのです。間断無い鋭い気づきにより、ダンマを推論する思考はほとんど生じません。心と物質の無常、束の間しか存在しないその性質についての疑いもありません。
  ここまで来ると、修行に努力が要らなくなったように感じられます。努力と省察的思考がなくなった代わりに、喜びが生じる余地が生じます。この思考を伴わないありのままの気づきが、ヴィパッサナー第二禅定と呼ばれます。

  ヴィパッサナー第一禅定の段階では、心に努力とダンマを推論する思考が混入しています。ヴィパッサナー第二禅定が生じ、現象の生滅に対する洞察を得て初めて、透明さ、喜び、信、大いなる安楽が優勢になってくるのです。

信、平静、喜び、幸福感の危険性
  心はさらなる正確さを獲得し、集中が深まります。この深まった集中は、自身による体験に基づく、明確で確固たる信へとつながっていきます。それはまた、この修行を続けることでブッダが説き、瞑想の指導者が約束する利益を得られるのだという、疑いようのない確信をもたらします。
  また、喜び、そして心と身体の安楽も強くなります。ヴィパッサナー第二禅定に達した修行者は、このとてつもない心の安楽に執着してしまう可能性が大きいのです。
  これまでの人生で最も深い喜びを経験し、悟りを得たのだと信じ込む者さえいます。こうなると、この先、修行が進む可能性は危うくなります。修行者は前述の、ブッダが「内にとどまる」と呼んだ過ちを犯してしまうのです。
  とてつもなく素晴らしい体験をしたら、それに気づきを入れ、ラベリングするようにしてください。喜び、信、静寂などは単なる心の状態にすぎないことに明確に気づいてください。その際、自分が執着していると分かったら、ただちにその執着を断ち切って、腹部の中心対象に戻ってください。
  そのようにして初めて、修行をさらに先へと進め、さらに価値ある果実を得ることが可能になるのです。
  この段階にある修行者を指導する瞑想指導者は、気を付ける必要があります。修行者は自分の経験に興奮しているので、指導者に水を差すようなことを言われると、反発することがあります。ですから、穏やかにこう言うのが良いでしょう。
  「修行は順調なようですね。あなたの経験したことは瞑想によって自然に生じるものです。そして、今の体験よりもっと素晴らしい体験が、まだたくさんあります。今、体験していることすべてに気づきを入れ、さらに素晴らしい体験を目指しましょう」と。
  指導を真摯に受け止めた修行者は座に戻り、光明、信、喜、幸福感、静寂、安楽に注意深く気づきを入れるでしょう。このシンプルな気づきこそが、実は正しい修行の道なのだと腑に落ちてきます。このような指導を受ければ、修行者は大きな自信をもって修行を進めることができます。

ヴィパッサナー第三禅定の生起
  喜びは徐々に弱まりますが、気づきと集中は深まり続けます。そして、今起こっていることの本質に対する洞察は極めて強力になります。この時点で、捨(ウペッカー)という悟りの要素(覚支)が優勢になります。心は快い対象にも不快な対象にも動じなくなり、心身に深い安楽の感覚が生じます。修行者は痛みを感じることなく、長時間坐り続けることができるようになり、身体は清らかで、軽く、頑健になります。
  これがヴィパッサナー第三禅定であり、その禅支は楽(安楽)と一境性(一点集中)の二つです。第三禅定は、生滅に対する洞察がより成熟した段階に入ると生じます。
  第二禅定から第三禅定への移行は、修行における重大な転機となります。人間は心を掻き立てるスリルや興奮に執着するのが自然です。
  喜(喜び)もまた、こうした刺激的な快楽の一つで、心にさざ波を起こします。そこにはある種の未成熟さがあるのです。
  だから、喜を体験したら警戒を強めて、できるだけ緻密にラベリングするように肝に銘じてください。喜に執着し続けている限り、平穏と安楽をもたらす、より成熟した繊細な幸福へと進んでいくことができなくなります。

幸福感の絶頂

  経典では、第二禅定から第三禅定への推移を、子牛に授乳する母牛の話に喩えています。
  子牛を早く乳離れさせることができれば、人間が牛乳を飲むことができます。子牛が乳離れしなければ、いつまで経っても母牛の乳を全部飲み尽くしてしまうでしょう。  この子牛は、喜(ピーティ)を餌にして育つ、第二禅定のようなものです。母牛は第三禅定でしょう。
  そして、甘く新鮮な牛乳を飲むことができる人間は、喜への執着をうまく乗り切った修行者を表しているというわけです。
  経典によれば、ヴィパッサナー第三禅定で味わうことのできる幸福感と安楽は、ヴィパッサナー瞑想で体験することができる幸福感の中で最高のものだとされています。
  心地良さの頂点です。それでも、修行者は執着することなく、捨の心でそこに留まることもできます。
  心と身体の安楽や、洞察の鋭さと明晰さに対する微妙な執着が生じてしまわないようにするためには、とにかく正確に気づきを入れ続けることが重要です。自身の洞察が素晴らしく、鋭く、透明だと感じたら、それに気づきを入れなければなりません。
  とはいえ、すでに対象に確実に、楽々とサティを入れられる、包括的で俯瞰的な気づきが生じていますから、執着が生じる可能性は高くありません。

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