月刊サティ!

In this very life

 

            ―今生での悟りを目指してー

                           ウ・パンディダ・サヤドウ

 2012年7月~11月)

5.高揚し過ぎた心を静める
  時には、興奮した心を静める必要もあります。これが集中を開発するための五つ目の要因です。時に修行者は、瞑想中に心奪われるような経験をします。そして興奮し、入れ込み過ぎ、エネルギーが溢れかえってしまいます。
  そのような時、指導者はそれを助長してはいけません。修行者をいわば「正しい場所」に戻すような話をするべきです。前節で説明した方法を用いて、悟りの五番日の要素である「軽安」を活性化させるように手助けすることもできます。
  あるいは修行者に、「力を抜いて、悠然と構え、落ち着いて、ただ観察するように」と指導してもよいでしょう。

6.
痛みで意気消沈した心を元気づける
  もし、心が痛みによって萎縮し、衰弱してしまっていたら、幸せな状態に戻す必要があります。これが六番日の方法です。
  修行者が環境や、古い持病の再発などにより、意気消沈することがあります。そんな時は、心を高揚させ、憂いを払い、明晰さと鋭敏さを取り戻す必要があります。
  修行者自身が様々な方法を使って、心に活を入れるのも良いですし、指導者が修行者を元気づけることもできます。もちろん冗談で笑わせるのではなく、ダンマトークで勇気づけるのです。

7.バランスの取れた継続的な気づき
  定(サマーディ)を生じさせる七番目の方法は、いついかなる時もバランスの取れた気づきを絶やさないことです。
  修行が深まってくると、自分で意識して努力しなくとも、対象の生滅に自動的に気づきが入り続けることがあります。
  そのような時、心地よいスピードがのんびりし過ぎているように感じられ、もっと加速したいと思ったとしても、余計な干渉は控えるべきです。
  ダンマ(法)を早く悟りたいと思うあまり急ごうとすれば、心のバランスが台無しになり、気づきは鋭さを失ってしまうでしょう。
  逆に、すべてがあまりに順調で快適なため、リラックスし過ぎてしまうこともあります。これもまた、修行を後退させてしまいます。
  自動的にサティが入る時は、そこにある勢いに後れを取らないようにしながら、流れにまかせるとよいでしょう。

8~9.心が散乱した人を避け、集中している友を選ぶ
  集中していない人々を避け、集中している人々と付き合うようにすること―これが集中をもたらす八番目と九番目の方法です。
  冷静さも落ち着きもなく、いかなる集中も育んだことがない人は、心の内に多くの動揺を抱えています。そのような親から生まれた子どももまた、心の落ち着きを欠いている可能性があります。
  ビルマ(ミャンマー)には、最近、西洋でよく言われる「良い波動(good vibes)」という考えに近い概念があります。
  瞑想の経験が全く無い人でも、瞑想センターに見学に来ただけで、とても静かで落ち着いた気持ちになることが、しばしばあります。
  真剣に修行をしている瞑想者の波動を受け取るのです。そんな中から、自分も修行しようと決意する人が出てきます。これは自然な成り行きでしょう。
  ブッダの時代、アジャータサットゥという王様がいました。彼は王位を得るために父親を殺しました。この恐ろしい罪を犯して以来、彼は幾晩もの眠れぬ夜を過ごしました。
  そしてついに、ブッダに相談することにしたのです。森の中を進んで行くと、静かに集中してブッダの説法を聴いている比丘たちがいました。その場に居合わせただけで、アジャータサットゥの良心の呵責と動揺は、一切消え去り、長い間感じることのなかった落ち着きと静けさに満たされたと言われています。

10.没入状態の平穏について考える
  十番目の方法は、禅定の没入状態で経験する平穏と静寂に思いを馳せることです。
  これは、サマタ(静寂)瞑想によって禅定の純粋な静寂を経験したことがある修行者にはふさわしい方法です。禅定にいたるために用いた方法を思い出し、それを現在の瞬間に速やかに適用することで、心の集中を得ることができます。
  まだ禅定を経験したことがない修行者は、瞬間的に集中がとても強くなった時や、静けさと一点に集中した感じが生じた時のことを思い起こすと良いかもしれません。
  瞑想を妨げる要因が無くなった時の感覚と、瞬間瞬間に集中し続けた時の心の平穏を思い出すことで、集中を取り戻すことができる可能性があります。

11.心を傾ける
  十一番目、そして最後の集中のための要因は、集中を育むことに根気強く心を向けることです。すべては一瞬ごとに費やされる努力にかかっています。集中しようと努力すれば、それは叶うはずです。

平静さ:第七番目の悟りの要素

  「国連」という名称は、改めたほうがよいかもしれません。例えば「平静機構」という名前にしておけば、各国代表に交渉の場に不可欠な心の状態を思い起こさせてくれるでしょう。難しい問題を扱うときはなおさらです。
  決定を下す立場にある人は誰でも、困難な問題に直面しても公平を保てるようにしなければならないのです。

  パーリ語のウペッカー(upekkhā)は、通常「平静さ(捨)」と訳されますが、実際にはエネルギーのバランスを取るということです。両極端に偏ることなく、心が真ん中にとどまる状態。
  この状態は、瞑想に限らず日常生活においても、日々決断を下す過程で養うことができます。

瞑想における心の中の競い合い
  瞑想中は、さまざまな心の要素が競い合います。「信」はその対極の要素である「慧(知性、知識)」を打ち負かそうとしますし、その逆の場合もあります。「努力(精進)」と「集中(定)」についても同じことが言えます。
  対になった、相反する心の要素をバランス良く保つことが、修行を進ませ、正しい方向を見失わないために必要不可欠であることは、瞑想を行う者にとっての常識です。
  リトリートに入った直後は、意欲と熱意で満ち満ちていることでしょう。座を組むやいなや、腹部の膨らみと縮みなどの気づきの対象に飛びつきます。
  しかし、「精進」が過剰なため、気づきが瞑想対象を飛び越してしまったり、表面を滑り落ちてしまったりしがちです。的を外したあなたは、いら立つかもしれません。あなたは最善を尽くしているつもりなのに、うまくいかないからです。
  あなたはそのうち自分が愚かなことをしているのに気づいて、その瞬間に生じている現象のリズムに滑り込むことができるかもしれません。腹部の膨らみ、縮みを観察するうちに、心はその過程にぴたりと寄り添うようになります。
  しばらくすると苦もなく気づきを持続できるようになり、あなたは少しリラックスしてきます。もはや努力は要らないように思われますが、注意していないと惛沈睡眠が忍び込み、あなたを呑み込んでしまうでしょう。
  瞑想者が心と物質を識別し、その関係を観ることに成功したとしましょう。彼(または彼女)は、ダンマ(法)を味わい、興奮します。「信」に満たされ、たった今、発見した素晴らしい真実を、親や友人などに話したいと思い始めます。「信」が原因で、想像や期待が頭の中を駆け巡ります。すると、思考や感情でいっぱいになり、修行は音を立てて止まってしまいます。こうした出来事の流れは、「信」が過剰になった時の症状です。
  同じく直観的洞察を得ても、法(ダンマ)を人に伝えたいと思うかわりに、その経験を解釈し始める瞑想者もいます。このタイプは、小さなことを大げさに受け取る傾向があります。
  知覚したどんな些細なことも、自分が以前に読んだ瞑想に関する文献の内容に当てはめて解釈するのです。回想や思考が次から次へと生じて、やはり修行の妨げとなります。これらは、「慧(知性)」が過剰になった時の症状です。瞑想者の多くは、自分が聞いた内容を受け入れる前に、理性に照らして判断したり、その信憑性を確かめたりしようとする傾向があります。自らの識別能力にプライドを持っているのです。
  瞑想を始めても、常に自分のしていることの妥当性を知的に検証し、修行内容を自分の理解している知識に照らして確認しています。このパターンに捕らわれたままであれば、瞑想者はいつまでも疑いにつきまとわれることになるでしょう。「疑」のメリーゴーランドに乗って果てしなく回り続けるばかりで、決して前に進むことができません。
  瞑想修行の方法について数えを受けたら、またはある瞑想法を実践してそれが基本的に有効であると分かったら、瞑想者は与えられた指示に全面的に従うべきです。そうすることで初めて速やかに修行が進みます。
  瞑想者は戦場にいる兵士のようなものです。最前線では、命令に対して疑問を訴えたり、異議を申し立てたりする暇はありません。上からの命令には無条件で従わなければなりません。そのようにしなければ戦いに勝利することはできないのです。もちろん、盲信して全面的に従えと言っているわけではありません。
  現象の生滅がはっきりと明確に観られるようになるまでは、瞑想修行は安定せず揺れ動くものです。なぜなら、「信」と「慧」、「勤」と「定」の均衡が、まだうまく取れていないからです。
  しかしながら、そうしたハードルが克服されれば、修行者は現象の矢継ぎ早の生滅をただ観察することができるようになります。「勤」と「定」、「信」と「慧」の不均衡は是正されるでしょう。このとき、修行者はこれら4つの要素のバランスが取れた「捨」の境地を得たと言えるのです。
  努力しなくても、ラベリングや気づきが自動的に続くように感じられます。
  バランスの取れた心は、同等の力とスタミナを備えた2頭の馬に引かれる馬車のようなもの。2頭が同じように走っているとき、馬車を運転するのは簡単です。御者は、ただ馬たちが仕事をするのに任せればいいのですから。
  しかし、1頭の馬が速く、もう1頭が老馬だったりした場合、御者は苦労することになります。常に速い馬のスピードを抑えつつ、遅い馬の尻を叩いていなければ、路肩の溝に落ちてしまうでしょう。瞑想修行においても似たようなもので、最初のうちは心の諸要素のバランスが取れていません。
  瞑想者は、熱意と疑い、精進過剰と怠惰の間を揺れ動くことになります。しかしながら、瞑想が進むにしたがって「捨」という悟りの要素が生じ、気づきが自ずと持続するようになります。この段階に達すると大変な安楽を感じることができます。
  あえて現代風に例えると、高級車に乗って、交通量の少ない高速道路を、クルーズ・コントロール・モードで走っているような感じです。

「信」と「慧」のバランス、「勤」と「定」のバランス
  「捨」の特徴は、対応関係にある心の状態の間のバランスを取ることにあります。一つの心の状態が、もう一方を圧倒してしまわないようにするのです。それは「信」と「慧」、「勤」と「定」のバランスを生み出します。

過剰も欠乏もなく
  悟りの要素としての「捨」は、足りなければ補い、過剰ならば減らすように働きます。「捨」は、過剰あるいは欠乏という両極端に落ち込む前に、心を引き止めます。「捨」が強ければ、心はいかなる方向にも過剰にならず、完璧な均衡状態が生じます。
  修行者は努力することなく気づきを保つことができるようになります。

腕のいい御者は、馬が引くに任せる
  ゆったりと坐ってただ馬が馬車を引くのに任せる御者のように、まるで気づきがすべてを処理しているかのようです。
  このような安らぎと均衡の境地が「捨」の現れなのです。
  ビルマ(ミャンマー)の人々はよく、竹竿の両端に寵を吊り下げて物を運びます。私は子ともの頃、この方法について人々が話していたことを思い出します。竹竿は荷を入れた籠が前後に来るように、片方の肩にかついで運びます。かつぎ始める時はかなり力が必要で、荷は重く感じられます。
  しかし、十歩か十五歩くらい進むと、竹竿はかつぎ手の歩くリズムに合わせて上下にしなり始めます。かつぎ手、竹竿、籠が一体となり、力が抜け、かつぎ手はほとんど荷の重さを感じないほどだそうです。当時の私には信じられませんでしたが、瞑想をするようになって、実際にそのようなことが起こり得るのだと納得しました。

「捨」をもたらす持続的な気づき
  ブッダによると、「捨」をもたらすのは賢明な注意であるとされています。「捨」を育もうという意志に基づいて、途切れることなく瞬間、瞬間に気づき続けることです。
  一瞬、「捨」が生じれば、それが次の瞬間の「捨」を生み出します。いったん「捨」が生じれば、それが困となって「捨」が持続し、深まります。
  これによって、現象の生滅への洞察の先にある深い修行段階へと進むことができるのです。
  「捨」は、瞑想の初心者には容易に現れません。彼らが瞬間、瞬間に気づいていようと懸命に努力したとしても、「捨」は現れてはまたすぐに消えてしまいます。
  つかの間、心に均衡が訪れても、すぐに過ぎ去ります。「捨」は段階を経て少しずつ強化されていくのです。「捨」が生じている時間が少しずつ長くなり、頻度が増していきます。
  そして、ついには悟りの要素と呼ぶに相応しい、力強いものになります。

「捨」を育むためのさらなる五つの方法
  注釈書には、「捨」をもたらす5つの方法が述べられています。

1.すべての生命に対するバランスの取れた感情
  何よりもまず、すべての生命に対して落ち着いた態度で接することです。これは、あなたが愛情を抱いている対象のことで、動物を含みます。私たちは、愛する人やペットについては、少なからぬ執着や欲望を抱いてしまいがちです。時には誰かに対して、いわゆる「熱を上げる」状態になることさえあります。
  このような経験は、バランスの取れた心の境地である「捨」を育むのには役立ちません。

  「捨」が生じる土台を築くためには、愛する人々や動物に対して、執着のない、平静な接し方を養わなければなりません。俗世間に暮らす在家者の場合、人間関係にはある程度の執着が必要となることでしょう。
  しかし、過度の執着は、自分にとっても、愛する者たちにとっても、破滅的です。私たちは、愛する看たちの幸せを必要以上に気にかけるようになります。
  特に、リトリート中は、親しい者たちに対する過度の気遣いや心配は、脇に置いておくようにしましょう。
  執着をなくすための方法の一つは、すべての生命は自身のカルマ(業)を受け取っているのだ、と考えることです。人々は善いカルマの果報を楽しみ、悪しき行為の結果に苦しみます。カルマはその人自身の意志の下につくられ、その結果を免れることは誰にもできません。突き詰めれば、あなたにも他の誰にも、彼らを救う手立てはありません。

  このように考えれば、愛する看たちを心配する気持ちは薄らぐでしょう。
  究極の真理について考えることも、生命に対する平静な心を得るのに役立ちます。突き詰めてしまえば、存在するのは心と物質だけである、と自分に言い聞かせるのもいいでしょう。あなたが心を千々に乱して愛するその人は、どこに存在するのでしょうか?あるのは瞬間、瞬間に生滅するナーマ(心)とルーパ(肉体)だけです。その中のどの瞬間を愛しているのでしょう?
  このように自問すれば、多少は心に分別が戻ってくるのではないでしょうか。
  このような考え方は無感動や無関心につながり、配偶者や親しい人を失うことになるのではないかと心配になるかもしれません。しかし、そんなことはありません。
  「捨」は、無神経、無関心、無感動とは全く異なります。それは単に、「選り好みしない」ということなのです。「捨」の影響下では、嫌いなものを脇に押しやったり、好みのものをつかんで離さなかったりということがなくなります。
  心はバランスが取れた落ち着いた状態となり、物事をありのままに受け入れるようになります。「捨」という悟りの要素が生じると、人は生命に対する執着と嫌悪の両方を捨て去ります。
  経典によれば、「捨」は、その対極にある熱望や欲望へ向かう傾向が強い人の心を、浄化し清める因縁になるとされています。

2.無生物に対するバランスの取れた感情
  この悟りの要素を育むための二番目の方法は無生物 ― 資産、衣服、市場における最新の流行など ― に対するバランスの取れた態度を身につけることです。
  例えば服は、いつかは破れ、染みだらけとなります。他のあらゆるものと同様、永続しません。だから、やがては朽ち果て、消え去ります。さらに言えば、究極的な意味において、私たちはそれを所有することさえできません。
  すべてにおいて「自己」は存在しませんから、物を所有する主体も存在しないのです。バランスを培い、執着を減らすためには、物質的な存在はすべて移ろいゆくものだという見方も役に立ちます。
   「これは永久には続かないものだが、少しの間だけ利用させてもらおう」と、自分に言いきかせるのです。
  流行にとらわれている人々は、次々と市場に出回る新製品を買わずにはいられません。目新しい商品を買ったとしても、すぐにもっと洗練された別のモデルが登場します。すると、そうした人々は古い物を捨て、また新しい物を買います。
  このような振る舞いの中に、「捨」は見られません。

3.熱しやすい人々との付き合いを避ける
  悟りの要素としての「捨」を培う三番目の方法は、人や物に夢中になりやすい人々との付き合いを避けることです。
  こうした人々は、所有欲が非常に強く、自分のものだと考えている人や物に執着します。自分の「所有物」を、他の人が楽しんだり、使用したりするのさえ見ていられないと思う人もいます。
  ペットに対して強い愛着を持った年配の僧がいました。彼の僧院には、たくさんの犬や猫がいるようでした。ある日、この年配の僧がヤンゴンの瞑想センターにやって来て、リトリートに参加しました。恵まれた状況で修行に取り組んでいたにもかかわらず、彼の瞑想は、あまり深まりませんでした。
  それで、私はピンときて、ひょっとして彼が僧院でペットを飼ってはいないかと尋ねてみたのです。
  すると彼は顔を輝かせて、こう言いました。
  「ええ、そうなんです。たくさんの犬や猫を飼っていますよ。ここに来て以来ずっと私は、あの子たちがお腹をすかせてはいないだろうか、元気でやっているだろうかと気になっているのです」

  私は、動物たちのことは忘れて、瞑想に専念するようにと彼を諭しました。すると、程なく彼の修行は順調に進み始めました。
  愛する人、そしてペットに対しても過度の執着は禁物です。瞑想リトートに参加し、修行を深めて、悟りの要素である「捨」を育む際の妨げとなります。

4.沈着冷静な友人を選ぶ
  「捨」を生じさせる四番目の方法として、人や物に対する執着が少ない友人を選ぶようにするとよいでしょう。これは単純に三番日の方法の逆を行うということです。
  つまり、友人をつくるにあたって、先ほど挙げた年配の僧のような人を選んでいるとしたら、ちょっと問題だということです。

5.「バランス」に心を向ける
  「捨」を生じさせる五番目にして最後の要因は、この悟りの要素を培うことに絶えず心を向けるということです。このような心構えでいれば、家にいる犬や猫や、愛する人たちへの思慕がさまよい出ることはありません。心はどんどんバランスと調和に満たされていきます。
  「捨」は瞑想修行だけでなく日常生活においても大変重要です。
  一般的に言って私たちは、好ましく魅力的な対象に心を奪われているか、不快で望ましくない対象に直面して心を乱されているかのどちらかです。
  ほとんどすべての人の心が、正反対の状態が激しく入れ替わる状況に翻弄されています。バランスの取れた揺るぎない心の状態を保つ能力がなければ、人は渇愛と嫌悪という両極端に簡単に流されてしまいます。
  経典には、心は官能的な対象への快楽に耽る時、激しくかき乱されるとあります。これは俗世間の営みにおいては普通に見られることです。
  幸せを探し求める中で、人は心の興奮状態を本物の幸福と勘違いします。平穏と静寂がもたらす、より大きな喜びを経験する機会がないのです。

完成した悟りの諸要素:不死への癒し

  悟りの諸要素は、どれも特別な利益をもたらしてくれます。それらが完全に開発されれば、輪廻の苦しみを終わらせる力となります。そのように経典に記されているのです。これは心と物質からなる存在の、永久に続く生と死のサイクルを完全に止めることができることを意味します。
  さらに悟りの諸要素は、マーラの十の軍隊 ― 昔しみと再生の輪に私たちをつなぎ留める破壊的な内なるカ ― を粉々にすることもできます。それゆえ、諸仏や悟りを開いた人達はこれら諸要素を育み、そうすることによって、この官能的快楽の世界(欲界)、微細な形態からなる世界(色界)、そして形の無い世界(無色界)を超越することができるのです。
  この三種類の世界から解脱した人はどこに行くのでしょう。涅槃に入ると誕生と死は停止するため、いかなる意味でも再び生まれることはありません。誕生は必然的に生・老・病、そして最終的に死をもたらします。すなわち、苦しみの諸相のすべてをもたらすのです。
  すべての苦しみから自由になるためには、誕生から逃れることです。そうすれば死もまた起こり得ません。涅槃には誕生も、死も無いのです。
  悟りの諸要素が十分に開発されると、修行者を涅槃へと運んでくれます。それらは強力で効果の高い薬のようなものです。人生の浮き沈みに耐えるために必要な、心の強さを与えてくれます。
  さらには、心や体の病を治してくれることさえあります。
  瞑想をすればすべての病を治せる、という保証はありません。
  しかしながら、悟りの要素を育むことで、不治と思われる難病さえ治すことができる可能性はあるのです。

心の病を清める
  食欲、憎悪、妄想、嫉妬、物惜しみ、うぬぼれ、など・・・これらが心の病です。これらが生じると、心は曇り、明晰さを失います。
  心が曇っていると、その状態を反映した身体的現象が生じます。心が良くない働きで曇っていると、すっきりとした明るい表情は消え、どんよりとした、不幸そうな、不健康な顔になるでしょう。まるで、ずっと汚れた空気を呼吸してきたかのようです。
  しかし、瞬間瞬間、懸命に観察対象に深い気づきを入れる努力をしていれば、心はごく自然にその対象にとどまり、散乱したり、さまよったりすることはなくなります。
  このとき、禅定、すなわち集中が生じています。機が熟すると、瞑想の障害となる要因や、不善な傾向が浄化されます。そうなれば、智慧が現れ始めます。
  洞察が生じると、心はよりいっそう清らかになります。まるで都会の喧噪を離れて、清浄な空気を吸ったかのようです。
  気づき・エネルギー・探求から集中が生じ、さまざまな段階の洞察が生じてきます。新しい洞察を得るたびに、心はまるで新鮮な空気を吸い込んだようになります。
  現象の生滅を洞察する段階に達すれば、しっかりとした深い修行に入ったと言えるでしょう。悟りの要素である「捨」が心を安定させ、気づきはどんどん深まります。
  対象の生滅が完璧に認識されるようになり、直接経験できるものの本質を疑いようもなく理解するようになります。
  ここまでくると、急にエネルギーがわき上がり、努力せずとも修行を進められるように感じられることがあります。努力する主体さえも存在しないのだ、という理解にいたることもあるでしょう。
  自分の心の清浄さ、そして瞬間瞬間に生起する現実の本質を直接知覚するにつれ、喜びと恍惚が生じます。
  非常に強い喜びの後には、静寂と平穏、そして疑いや心配から解放された心がもたらされます。
  この静かな空間の中では、対象をもっともっと明確に観察することが可能になっていき、邪魔するもののなくなった心は、さらに集中力を深めていきます。

  修行がこのような深いレベルにいたると、真にバランスの取れた心を体験することができます。強い歓喜と恍惚があっても、そうした好ましい感覚に流されることはありませんし、不快な対象が心をかき乱すこともありません。
  修行者は、不快に対する嫌悪や苦痛も、楽しみに対する執着も感じなくなります。

身体的な効果
  悟りの七つの要素は心だけでなく、体にもおのずと影響を与えます。心と身体は複雑につながり合っているものだからです。心が真に純粋で、悟りの要素で満たされていると、循環系に大きな影響が現れます。
  新しくつくられる極めて清浄な血が、諸々の器官や感覚器に行き渡り、それらを浄化します。体は輝きを放ち、知覚力が高められます。目に映る物がみな、極めて鮮やかではっきりと見えるようになります。
  自分の体から発する光で、夜でも部屋全体が照明されているように感じる修行者さえいます。心もまた光で満たされます。生起する事象を直接に経験することで実証された信に加え、輝くような信が生じます。心と同様、身体も軽く機敏になります。時には宙に浮いているかのように感じられるほどです。
  多くの場合、修行者は身体の存在をほとんど意識しなくなり、全く痛みを感じないまま何時間でも坐り続けることができるようになります。

奇跡の治癒
  修行が深いレベルに進むと、悟りの要素の力が、古くからの持病や治療不能な疾病などに影響を与えるようになります。
  ヤンゴンの瞑想センターでは、いわゆる「奇跡の治癒」が起こることも珍しくありません。そうした事例を集めただけで、本が何冊も書けるほどです。ここでは、特に劇的な例を二つだけご解介しましょう。

結核症の男性の事例
  長年、結核を患っている男性がいました。何人もの医師にかかり、薬草を使ったビルマ(ミャンマー)の民間療法を試し、ヤンゴン総合病院の結核病棟に入院したこともありましたが、どうしても治りませんでした。
  落胆し、絶望した彼は、残されたのは死に至る道だけだと思いました。最後の拠り所として、センターでの瞑想に申込みましたが、病気のことは隠していました。他の修行者に感染する危険があるという理由で、参加を断られるかもしれないと思ったのです。
  修行を始めて二週間も経たないうちに、慢性症状がぶり返しました。
  ダンマの修行によって一時期、苦痛の感覚に悩まされることは普通ですが、彼の場合、それに病気の苦しみが加わったのです。痛みはあまりにも激しく、苦しく、彼を衰弱させました。彼は夜になっても一睡もできず、一晩中横になって、咳をし続けていました。
  ある夜、私は、彼の部屋の方からひどい咳が聞こえるのに気づきました。私はビルマの薬草療法の咳止め薬を持って彼の部屋に行きました。インフルエンザか風邪だろうと思い、薬で少しは症状が和らぐだろうと考えたのです。
  ところが、彼は部屋の中でぐったりと横たわったまま、話もできないほど衰弱していました。痰壷は、彼が吐き出した血でいっぱいでした。私は、薬が欲しいか訊ねました。
  しばらくして、どうにかしゃべれるようになった彼は、自分の病気について告白しました。私が最初に思ったのは、病原菌を吸ってしまったのではないかということでした。
  男性は話を続けました。彼は瞑想センターに感染症を持ち込んだことを詫びました。でも修行は続けさせてほしい、と懇願しました。
  「もしここを去ったら、私にはたった一つの道しか残されていません。死ぬしかないのです」と彼は言いました。
  私は胸を打たれました。すぐに、修行を続けるように彼を勇気づけ、励ましました。そして、結核がセンター全体に広がるのを防ぐための措置を取った上で、彼の指導を続けました。
  ひと月も経たないうちに、男性の瞑想修行はすばらしい進歩を遂げ、そのことによって彼は結核を克服しました。下山する時、彼は完治していたのです。
  三年後に再会した時、彼は強壮で健康な僧侶となっていました。私は彼に、今どんな気分か尋ねてみました。その後、結核や咳の発作は再発していないのか、と。「いいえ」と彼は答えました。
  「結核は一度も再発しませんでした。咳については、時々、喉がいがらっぽくなることはあります。でも、その感覚にすぐに気づけば、咳き込むことはありません。ダンマはすばらしい奇跡です。ダンマという薬を飲むことで、私は完治したのです」

高血圧症の女性の事例
  もう-つは、二十年程前にあったケースです。瞑想センターの敷地内に住む女性で、スタッフの一人の縁者でした。
  長年、高血圧で苦しんでおり、治療と薬を求めて複数の医師にかかっていました。時折、私に会いに来ることがあったので、私は彼女に瞑想を勧めました。たとえ修行の途中で死んだとしても、来世で幸福に恵まれることができるから、と。
  しかし、彼女はいつも何かしら理由をつけて従わず、医者に頼り続けました。
  ついに私は彼女を叱りました。
  「ここにはたくさんの人が遠方からやって来る。外国から来る人さえいる。この瞑想センターでダンマに触れるためだ。彼らは修行を深め、数々のすばらしい経験をしている。あなたはここに住んでいながら、満足に瞑想をしたことすらないではないか。あなたを見ていると、仏舎利塔の下に配された、怖い顔をした獅子の石像を想い出す。獅子たちはずっと仏舎利塔に背を向けているので、礼拝することさえできない」
  これはかなり効いたようで、女性は言うことを聞いて瞑想をすることにしました。
  ほどなく彼女は大きな苦痛を伴う段階にいたりました。病気の苦痛に、ダンマの修行の苦痛が加わって、かなりの苦しみようでした。食べることも眠ることもままなりませんでした。
  しまいには、センターに住む彼女の家族が心配し始めました。家族で世話をするので、帰って来てほしいと懇願したのです。私はこれに反対し、家族の言うことを聞くより、修行を続けるように彼女を強く説得しました。
  家族は彼女に何度も会いに来ましたが、私は私で、断固として修行を続けるようにと主張しました。
  女性にとっては闘いそのものでしたが、粘り強く瞑想を続けました。彼女はタフでした。新たに奮起した心で、修行を最後までやり遂げようと決意していたのです。
  女性の苦痛は、途方もないものでした。脳みそがバラバラになるかと思ったそうです。頭の血管がズキズキと脈打ち、金槌で殴られているようでした。
  彼女はすべてを辛抱強く耐えぬき、痛みをただ観察しつづけました。まもなく彼女の身体は強い熟を発し始めました。彼女は大きな炎を発し、熱を放射したと言います。
  そして、ついに彼女はこうしたセンセーションのすべてを乗り越え、静けさと平穏が訪れました。闘いに勝ったのです。
   高血圧は完全に治り、二度と薬を必要とすることはありませんでした。

編集部注:瞑想の効果として、前述のような顕著な事例もありますが、瞑想によりすべての人に同様の効果が現れると保証するものではありません。

他の病気の事例 ― そして、もちろん解脱
  私はこれまで、腸閉塞、子宮筋腫、心臓病、ガン、その他さまざまな病気が治るのを目の当たりにしてきました。
  いつもこのような結果が出る保証はありませんが、こうした話を開いて皆さんが奮起してくれれば良いと思います。
  ただ言えることは、修行者が熱心に、忍耐強く、果敢に、勇気を持って、病気や古傷からくる苦痛に満ちた感覚に気づきを入れ続ければ、奇跡的に回復する可能性があるということです。
  粘り強い努力が大きな可能性をもたらすのです。
  特にガン患者には気づきの瞑想が役に立つかもしれません。ガンは恐ろしい病気です。心身両面で大きな苦しみを味わいます。
  気づきの瞑想の修行を積んでいれば、どんなに深刻な状況でも、苦痛に気づきを入れることで、重圧を軽くすることができるでしょう。
  苦痛そのものに、非の打ち所のない、完璧な気づきを入れ続けることができれば、心安らかな死を迎えることができます。
  崇高な、立派な死に方です。
  皆さんが、この悟りの七つの要素についての説法から得た知識を充分に活かされることを願っています。
  「気づき」に始まり「捨」にいたる悟りの諸要素を培い、すべてから解放された存在となることができますように。

5.ヴィバッサナー禅定

硬い心を柔かくする
  ブッダは「実に瞑想は、大地のように揺るぎなく、広大な智慧を育むことを可能にする」と説きました。
  そのような智慧は心に浸透し、心を広々と押し広げます。反対に瞑想を行わなければ、心は常に煩悩の攻撃にさらされ、狭苦しく、硬直したものになります。
  気づきを欠いた瞬間には、すべからく煩悩が心に侵入し、心は硬く、緊張し、昂ぶった状態になります。
  感覚の六門にぶつかってくる対象は、時に善いものであり、時に悪いものであり、時には快く、時には不快です。快い視覚対象が生じると、無防備な心はおのずと渇愛と執着でいっぱいになり、その対象をぴったり取り囲んで離しません。
  こうして緊張と昂ぶりの虜になった心は、その好ましい対象を手にいれようと企て始めます。対象をつかもうと目論み、それを言葉や行動に移すのです。
  不快な対象が現れると、無防備な状態の心にはおのずと嫌悪が生じ、またしても心はかき乱されます。明るい表情が歪んで、しかめっ面に変わったり、ひどい悪態をついたり、場合によっては、暴力を振るうなど、変化が表に現れることもあります。
  無防備な心が、快でも不快でもない対象に直面した場合は、妄想が心を曇らせ、対象の本質が見えなくなります。この時にも、心には緊張と動揺が生じます。
  快い対象、不快な対象、そしで快でも不快でもない対象を、すべて人生から取り除けると考えるのは愚かなことです。
  重要なのは、それらと健全な関係を維持することなのです。その気になれば耳の穴に綿を詰め、目隠しして手探りで歩き回りながら、心を瞑想状態に保つこともできるでしょう。
  しかし、鼻の穴を塞いだり、舌の感覚を麻痺させたりすることはできませんし、暑さ寒さや、その他の身体感覚を遮断することは不可能です。坐って瞑想する際、中心対象に集中しようと努力する間もやはり音は聞こえますし、身体の他の部分に何かしらの強い感覚が生じることもあります。
  どんなに努力しても、修行がわずかの間途切れ、思考する心が完全に暴走することもあり得ます。

抑止のカ
  このような煩悩の攻撃から身を守るには、抑止の修行が効果的です。抑止とは死んだように無感覚になることではありません。感覚の門を見張り、心がそこからさまよい出るのを防ぐのです。
  そうすることで、空想や思考、計画や企てが生じることがなくなります。抑止を生じさせる因となるのは、気づきです。
  一瞬一瞬に気づきがあれば、心は引き戻され、食欲、嫌悪、妄想が噴出するような状態に陥ることはなくなります。油断せずに見張り続ければ、最終的に心は満ち足りて言うことを聞くようになり、逃げ出して煩悩に襲われる危険はなくなるのです。
  常に気を張っていなければなりません。対象に触れるやいなや、即座にそれをあるがままにラベリングします。
  何かを見たらただ「見た」、何かを聞いたらただ「開いた」、何かに触れたらただ「触れた」、何かを味わったらただ「味わった」、何かを考えたらただ「思考」と確認するように心を向けます。
  こうした確認のプロセスは明瞭で単純でなければなりません。余計な思考が付け加わったり、煩悩で固まったりしないようにします。真に気づいていることができれば、対象は生じては過ぎ去り、それ以上の思考や反応は生じません。
  ただ、その過程が認識されるだけです。どのような対象に出会っても欲望や嫌悪からは自由でいられます。
  ブッダの時代、ある大王が、修行僧がどのように戒律を守るのかについて強い興味を持ちました。
  彼が見たところ、若く精力旺盛で、性欲が生じやすい年頃の修行僧でさえも梵行を守っていました。大王はこのことについて年長の僧に尋ねました。
  僧は答えました。
  「若い僧が自分よりも若い女性に出会った時は、自分の妹と考えます。同じ年頃か少し年上の女性に会ったら、自分の姉と考えます。それより年上の女性に会ったら、自分の母親と考えます。出会った女性が高齢であれば、自分の祖母と考えます」
  王は納得せず言いました。
  「しかし心の反応は素早い。たとえそのように考えたとしても、すでに性欲が生じてしまっているのではないか」
  年長の僧は再び説明を試みました。
  「修行僧が女性に出会ったとして、もし気づきを欠き、彼女の容姿、つまり肉体を賞賛し始めたとしたら、当然ながら性欲が生じることでしょう。しかし、その女性を小さな部分に分けて見たとしたらどうでしょう。髪の毛、歯、爪などの32の部分に分けて見るのです。各部分だけを取り出してみれば、どれも気持ちの悪いものであることに思い至れば、嫌悪に満たされ、女性に欲望を抱くことは全くないでしょう」
  この身体に関する瞑想法はブッダが説かれたものです。
  さらに王はこうも尋ねました。
  「もし修行僧の想像力が、集中力に勝っていたとしたらどうだろうか」と。
  想像力については、ここで別の話を紹介しましょう。
  ある瞑想センターの構内には小さな戸棚があって、骸骨が吊るされています。これは、死が差し迫ったものであること、そして人体の一部である人骨が、おおかたの人にとって気持ちの悪い物であることを見る人に思い起こさせるために置かれています。
  骨だけの足の下には「十六歳の少女」と書かれた小さなサインがあります。
  賢明な注意力を持つ人なら、骸骨を見てこう言うかもしれません。
  「ああ、かわいそうな女の子だ。十六歳の若さで死ななければならなかったなんて。私もいつの日か死ぬのだ」
  その人の心には切迫感が生じ、もっと善行を行おう、あるいはもっと熱心に瞑想修行しようと考えるかもしれません。
  別の人は、骨は嫌悪を催させるものであり、身体には何もなく、ただ骨が、骨格があるだけだということに思い至るかもしれません。
  ここに若くて想像力豊かな男性がやって来ます。骸骨の前に立ち、視線を落とすと、その由来が書かれたサインが目に入ります。彼は思います。
  「かわいそうに。死ぬ前にはどんなにか美しかっただろうに」
  彼は想像の中で頭蓋骨に美しい顔を肉付けし始め、すてきな髪ときれいな首を付け加えます。視線はゆっくりと下に移り、一つ一つの体の部分を想像で埋めていきます。
  彼は自分がつくり上げたイメージに対する渇愛でいっぱいになります。それは彼の想像力がつくり出した剥製のようなものです。
  王の話に戻りましょう。
  年長の僧は答えました。
  「若い修行僧は皆、気づきを実践しています。感覚の抑止を働かせて、それぞれの感覚門を防護しています。彼らの心は乱れていません。見たものについて想像をめぐらすことはありません」
  王は感銘を受け、こう言いました。
  「そうだな、それは真実に違いない。私自身の経験からも証明できる。気づきを欠いたままハーレムへ行くと、やたらと厄介事が起きるが、気づきがあれば問題は生じない」
  こうした物語から抑止の大切さを感じ取ってもらえればと思います。

リトリートのための集中的な抑止
  集中瞑想のリトリートの最中は、抑止は極めて重要になります。
  集中的な修行における抑止に関する四つの実践的指針が経典に示されています。
  第一に、修行者は視力に問題がなくても視覚障害者のように振る舞わなければなりません。
  まぶたを半分閉じた状態で、何物にも視線を留めず、心が散乱しないように保たなければなりません。
  第二に、修行者は聴覚障害者のように振る舞わなければなりません。聞いた音について考えたり、意見を述べたり、判断してはいけません。
  修行者は音をよく理解できないかのように振る舞い、聞き耳を立ててはなりません。
  第三に、たとえたくさんの事を学び、瞑想について多くの書物を読み、十五もの瞑想法を試したことがあったとしても、修行者は実際の修行に際しては、こうしたことはすべて忘れなければなりません。
  鍵をかけ、ベッドの下にでも隠しておいてください。あたかも無知な人間であるかのように振る舞い、自分が知っていることについて話すことも控えるべきです。
  第四に、修行者は病院に入院した病人のように振る舞わなければなりません。ゆっくりした動作で、念入りに気づきを入れて動くようにします。
  これに五番日の原則も付け加えておきましょう。
  修行者は生きていますが、痛みの感覚に対しては、死人のように振る舞わなければなりません。死体は丸太のように切り刻んでも、何も感じません。
  瞑想中に痛みが生じたら、あらん限りの勇気とエネルギーをかき集めて、痛みを正面から観察するべきです。英雄的な勇気をもって痛みに踏み込み、その本質を理解するのです。姿勢を変えたり、嫌悪で心を満たしたりしてはいけません。
  瞬間瞬間に気づきを入れ、何が起こってもその現象から離れないように努力します。
  何かを見た瞬間、「見ている、見ている」とラベリングし、何かを聞いた瞬間、「聞いている、聞いている」とラベリングします。
  他の場合も同様です。
  ラベリングのための努力こそ真の努力です。さらに観察対象を確実に狙ってとらえるには、心の正確さも必要になります。対象の深部まで貫く気づきも生じます。
  そして、気づきとともに正しい集中が生まれます。心はまとまった状態に保たれ、緊張したり散乱したりすることはありません。

智慧が心を柔軟にする仕組み
  正しい努力、正しい目標、正しい気づき、正しい集中:これらはどれも聖なる八正道の要素です。これらが心にある時、煩悩が生じる余地はありません。煩悩は心を固く硬直させ、昂ぶらせます。
  しかし、瞬間瞬間に寄り添うことで煩悩は一掃され、心が柔らかくなる余裕ができます。
  ラベリングを継続することで、心は事象の本質に到達する能力をどんどん増していきます。
  そして、すべてはただ心と物質からなっているという洞察が生じ、心は大きな安堵を感じます。そこには誰もいません。ただ心と物質があるだけです。創造主はいないのです。
  さらに進んで、こうした現象を規定する条件を理解するようになると、心は疑いから解放されます。
  疑い深い修行者は、頑固で、強情で、緊張しており、扱いづらいものです。指導者が、修行に有益な事柄についてどれだけ教えようとしても、徒労に終わるだけです。
  しかしながら、そのような修行者でもうまく説得して、少なくとも因果の法則についての洞察を得るまで修行させることができれば、大丈夫です。因果についての洞察によって、心から疑いが消え去り、柔らかくなります。
  心と物質の現象が、外部の力や、目に見えない至高の存在によって創られるのではないか、と思い惑うことがなくなります。
  瞬間瞬間に深く没入するほど、煩悩からくる緊張は弱まり、心は一層、柔軟でリラックスした状態になります。
  あらゆる心と物質の現象が過ぎ去っていくことを観察することで、無常についての洞察が得られます。

  この過程の副産物として、自尊心やうぬぼれから解放されます。
  現象がもたらすとてつもない苦悩をはっきり観察すれば、その本質が苦であるという洞察を得て、渇愛から解放されます。
  どんな現象の中にも自己は存在しておらず、心と物質のプロセスは空虚であり、自らの意志とは全く関係ないことに気づけば、自己という変わらない実体があるという誤った考えから解放されます。
  これはほんの始まりにすぎません。現実の本質に深く入り込むほど、心は柔軟に、扱いやすく、融通が利くようになります。聖者の第一段階の意識を得て涅槃を体験すると、心を緊張させ固くする、ある種の煩悩は二度と生じなくなります。
  皆さんが継続的に、かつ活発に気づきを働かせることで、この惑星に存在するすべてを支える母なる大地のような、広大でどっしりとした智慧を育むことができますように。

苦しみを吹き消す

  さまようのでもなく、立ち止まるのでもない:ブッダからの謎かけです。
  指導者として観察すると、多くの修行者の心はさまよいがちであり、今ここにある物事に気づいていないように思えます。
  あなたがたに、さまよい続ける心の性質を理解してもらうために、この謎かけを考えてもらいたいのです。
  ブッダは言いました。
  「心を外にさまよわせるべきではない。また心を内にとどまらせるべきでもない。そのようにして気づきを持続させられる比丘は、ついにはすべての苦を消滅させることができるであろう」
  まず、あなたが真撃に修行しているのなら、自分を比丘であると見なしてよいでしょう。
  苦しみから逃れたいと思っている人なら、是非ともこのブッダのアドバイスに従いたいと望むはずです。
  しかしながら、どの方向に跳躍すればよいのかは、簡単には分かりません。「外にさまよい出る」とは何を意味しているのでしょうか。
  どうしたら、そうならないようにできるのでしょうか。もしかしたら、さほど難しいことではないと思われるかも知れません。
  私たちは誰しも、心がさまよい出る状態を経験したことがあるはずですし、強引にそれを押しとどめることもできるでしょう。
  しかしながら、心を「外にさまよわせない」とすれば、内側にとどまっていることになります。
  それは、先のブッダの言葉によれば、してはならないことではありませんか!
  皆さんは、心が自分の内側に生じるものであると認識していると思われます。注意を現在の瞬間に集中させた時、心はどこにあるのでしょうか?
  外側にないとするならば、内側にあるはずです。どうしたらよいのでしょう?
  精神安定剤でも飲んで、こんな厄介な問題のことは忘れてしまったほうがよいのでしょうか?
  そうすることさえも、「心を内側にとどまらせない」というブッダの言葉に反することになるのでしょうか?
  ああ、しかしブッダは、私たちがこの指導に従うならば、再びこの世に生まれ、老病死という望まざる出来事に見舞われることを免れることができると約束されたのでした。
  ブッダはこの意味深長な言葉を残し、ガンダクーティ(芳香房)に引き上げました。その場にいたほとんどの者は、当惑するばかりでした。
  人々は助けを求めて辺りを見回し、カッチャーヤナ長老にブッダの言葉についての解説を求めました。
  阿羅漢であるカッチャーヤナ長老は、時に非常に短い言葉で示されるブッダの教えを、分かりやすく解説することで有名でした。

ブッダの“謎かけ”を解く
  ブッダのこの言葉の意味を解き明かすのは、難しくも取り組み甲斐のある知的課題です。
  手始めとして、制御されていない心がどうなるかを、自身に問うてみるとよいでしょう。心は対象に対してどのように反応するでしょうか。
  心地よく、望ましく、魅力的な対象と接触すると、心は自然と欲望で満たされます。これが「心がさまよい出た」瞬間です。
  不快で苦痛を伴う対象に触れると、心は嫌悪で満たされます。これもまた「さまよう心」です。
  妄想に覆われ、今生じていることを観ることができない場合もまた、心が逃げ出してしまった状態です。
  つまり、実はブッダの言葉は、食欲、嫌悪、妄想という心の要素を生じさせないよう、弟子たちを指導するものだったのです。
  では、見る、開く、味わう、触れる、喚ぐといった経験もさまよう心の一部と考えるべきでしょうか?

感覚のプロセスと気づきの有
  すべての感覚のプロセスは、健全でも不健全でもない一連の意識作用を通して生じます。
  しかしながら、この一連の意識作用の直後に気づきを入れることができなければ、第二、第三、第四、さらにそれに続く意識の流れが生じることになり、そうした意識は食欲、憎悪、妄想などを伴います。
  ヴィパッサナー瞑想の修行のポイントは、精神を研ぎ澄ますことで、まだ善悪と無関係な一連の意識作用の終わりで気づきを入れられるようになることです。
  ありのままの感覚のプロセスをとらえ、続いて生じる貪欲、嫌悪、妄想を伴った意識の流れを未然に阻止するのです。
  このように介入することができる心は、さまよわない心であると言えます。さまよう心とは煩悩に汚染された心のことであり、すでに生じたことや生じつつあることについての思考が生じることによってそうなるのです。
  具体的に言うと、「なんてすばらしい色なんだ」などと、対象の特徴について考え始めたら、心がさまよい出たとわかります。
  一方、その色のついた対象を見た時に、正確で鋭敏な気づきとたゆまぬ精進があれば、見るというプロセスをありのままに理解する機会が得られます。
  このことは智慧を発展させる機会となります。心と物質との関係、それらを関係づけている因果性、そしてそれらが共に無常・苦・無我の性質を有することを理解することができるのです。
  このことは今すぐ実験して確かめることができます。注意を腹部の膨らみ、縮みに向けてください。腹部の動きに正確に気づくための努力をし、実際に腹部の動きを始めから終わりまで感じ取っていれば、心は食欲、嫌悪、妄想から解放されています。
  そこには心地よい対象という考えもなければ、不快な対象に対する嫌悪もありません。今起こっていることについての妄想にまみれた混乱もありません。
  “ガチャーン!”
  突然、音が聞こえてその感覚が優勢となります。その瞬間、腹部の膨らみ、縮みを忘れてしまいます。
  それでも、これが音であると速やかに認識して「聞いている、聞いている」とラベリングし、音の原因などについて考えて我を忘れたりしなければ、心がさまよい出たとは見なしません。心には食欲、嫌悪、妄想はありません。
  これに対し、よく知っている曲に心を奪われ、最後にその曲を聞いた時のことや、歌手の名前を回想し始めたら問題です。坐りの瞑想の最中に、過去に聞いた歌を思い出して、身体をもぞもぞと動かしたり、指でリズムを取ったりする瞑想者がいます。彼らの心は間違いなくさまよい出し、苦しみをもたらしています。
  ある時、一人の修行者が坐りの瞑想中に、非常に興味深く、強力な体験をしました。彼女が満ち足りて静かに坐っていると、突然、隣の修行者が大きな音を立てて座布から立ち上がりました。骨が立てる音や、衣擦れが聞こえました。すぐに彼女の思考が立ち上がりました。
  「思いやりがないわね。私が瞑想している最中に、あんな風に立ち上がるなんて」気づくと彼女は激怒していました。
  このような状態は「大いなる心のさまよい」と呼んでもよいでしょう。
  もちろん、ほとんどの修行者は、このような事態を避けるために真剣に努力しています。対象が生じた瞬間にそれに気づくことで、さまよう心に捕まらないようにすることができます。これこそ、カッチャーヤナ長老の解説で語られたことでした。

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