月刊サティ!

In this very life

 

             ―今生での悟りを目指してー

                           ウ・パンディダ・サヤドウ

 20121月~6月)

精進を生じさせる11の方法(続き)
⑥ブッダの偉大さを思い出す
  精進を発達させる六番日の方法は、この解脱への道を発見し、それを説かれた、ブッダの偉大さと能力に思いを馳せることです。その偉大さは、生涯において母なる大地が七回も打ち震えたという逸話からもうかがえます。
  まず、未来のブッダである菩薩(サンスクリット語でBodhisattva)が最後の生をうけ、母親の子宮に宿った時に大地が震動したといわれます。
  そして、シッダッタ王子が宮殿を離れ、出家の道を選んだときに再び震動し、次いで至高の悟りを得た時に震動しました。四回目はブッダが最初の説法をした時、そして五回目は彼が敵を打ち負かした時でした。六回目は、三十三天に転生した彼の母にアビダンマの説法をして帰ってきた時でした。ブッダが般涅槃に入り、肉体の死とともに条件付けられた存在から永遠に離れた時、七回目の大地の震動がありました。
  想像してみてください、ブッダの慈悲の深さ、そして智慧の深さを!ブッダの完璧さを物語る逸話は数え切れないほどあります。菩薩時代に、長い間、すべてを捧げて目標に向かって修行し、完璧な悟りを得たこと。その後、深い慈愛をもって人々のために尽くしたこと。あなた方も努力を続ければ、ブッダの崇高な特質を分かち合うことができるのです。
  ブッダが偉大な悟りを得る前は、衆生は妄想と無知の暗闇にのみ込まれていました。解脱への道はまだ発見されておらず、衆生は闇の中でさまよっていたのです。
  解脱を求める人々は自己流で修行するか、真理を見出したと主張する誰かを信じてついていくしかありませんでした。しかし、実のところ真理はまだ見つかっていなかったのです。この世には、幸福を得ることを目的として考え出されたいくつもの方法があります。厳しい苦行を自らに課すやり方から、官能的快楽に際限無しに溺れることまで、実にさまざまです。

すべての衆生を解脱させる誓い
  
ブッダは過去世でスメーダ(Sumedha)という名の仙人だったことがあります。それは、今よりひとつ前の劫(世界システム)でのことでした。
  現在のゴークマブッダのひとつ前のデイーバンカラブッダが存命のころです。スメーダ仙人は、正等覚者、すなわち完全なる悟りを開いたブッタが出現する以前、いかに多くの衆生が暗黒の中で苦しんでいたかという幻影を見ました。衆生が安全に彼岸に渡るためには導きが必要であり、独力ではたどり着けないことを知ったのです。
  このため、スメーダ仙人は、その生で悟りを得る十分な素質があったにもかかわらず、自分が悟ることをあきらめました。その代わり、数え切れないほどの劫を費やし、どれほどの時間がかかろうとも、自分自身を高め、完成させて、正等覚者となることを誓いました。そうすれば自分自身だけでなく、衆生を解脱へと導く力を得ることになるからです。
  その後、たくさんの生存を経て正等覚者への準備を完成し、真に並外れて傑出した人物として、この世界でのゴータマブッダとしての生を得ました。そして、偉大なる悟りを開いた時、三つのことを完成しました。それは因縁、結果、奉仕です。
  彼は悟りへと導く因縁のおかげで完成した人となりました。その因縁とは、幾多の過去世の精進によって培われた波羅蜜(清らかな心から生じる力)です。
  菩薩時代のブッダの驚くべき布施行、慈悲行、徳行についての言い伝えがたくさんあります。生まれ変わるたびに、どの生でも他の人々のために自分を犠牲にしてきたのです。このようにして育まれた心の清らかさが土台となって、菩提樹の下で悟りを開き、一切智を得たのです。これは結果の完成と呼ばれています。因縁の完成、すなわち清らかな心から生じる強い力を開発したことの当然の結果だからです。三つ目は奉仕の完成です。長年、教え導くことで他の人々を助けたのです。
  ブッダは自らが悟るだけでは満足せず、大いなる慈悲と優しさから、教えを受けられるすべての衆生を対象として、般涅槃に入る最後の日まで休むことなく説法をしました。ダンマ(法)を理解できるすべての衆生と、それを分かち合ったのです。
  ブッダの三つの偉大な達成のさまざまな側面について考えることで、あなた自身の修行に対するさらなる精進が生じることでしょう。

慈悲から行動へ
  
自身の悟りを犠牲にし、とてつもない努力を自らに課してまでブッダになろうとしたスメーダ菩薩の唯一の動機は、慈悲でした。いかに多くの衆生が誤った行動によって苦しんでいるか、大いなる慈悲の目でそのことを見て取ったスメーダ菩薩は心を動かされました。そして衆生を可能な限り完璧に導くために必要な智慧を得ることを誓ったのです。
  慈悲には行動が伴わなければなりません。さらに、その行動が実を結ぶには智慧が必要です。智慧により、正しい道と間違った道を見分けることができます。慈悲があっても、智慧がなければ、助けるつもりがむしろ害をなすことになりかねません。逆に、すばらしい智慧を得て悟りを開いたとしても、慈悲の心がなければ、他者を助けるために指一本すら動かさないでしょう。
  ブッダは智慧と慈悲の両方を完璧に備えていました。菩薩として輪廻の中でさまよい続けることを耐え忍ぶことができたのは、苦しむ衆生への大いなる慈悲があったからです。
  彼を侮辱し傷つける者もいましたが、彼は粘り強くそれを耐え忍ぶことができました。
  地球上のすべての母親が子どもに向ける慈悲の心を合わせても、ブッダの偉大な慈悲の心には及ばないといわれています。母親はとてつもなく寛大なものです。子どもを育てるのは簡単な仕事ではありません。
  子どもは時にとても残酷であり、母親を感情的、身体的に傷つけたりすることもあります。ひどく傷ついた時でさえ、母の心にはいつも子どもを許す余地があります。ブッダの心には、人を許す無限の広さがあります。この許しの力は大いなる慈悲の現れの一つです。
  ブッダが過去世で猿に生まれた時の話です。ある日、森の中で枝から枝へ飛びまわっていると、一人のバラモンが岩の裂け目に落ちているのを見つけました。哀れなバラモンがなすすべもなくたたずんでいるのを見た猿は、慈悲の心でいっぱいになりました。猿にこのような気持ちがわき起こったのは、菩薩がそれまで幾多の生涯を費やして慈悲の波羅蜜を積み上げてきたからでした。
  バラモンを救うために飛び降りようと思った猿ですが、果たして自分にバラモンを持ち上げる力があるだろうかと思いました。そこで智慧がひらめきました。近くにあった大きな岩で自分に十分な能力があるかどうか試してみることにしたのです。猿は岩を持ち上げてみてから、また下に置きました。バラモンを救い出すことができそうだと分かりました。
  猿は岩の裂け目に降りて行き、勇敢にもバラモンを安全な場所まで運びました。先に大きな岩を持ち上げ、そのうえバラモンを運んだ猿は、疲れ果てて地面に倒れ込んでしまいました。バラモンは感謝するどころか、石を拾い上げ猿の頭を殴りつけました。猿の肉を持ち帰って夕食にしようとしたのです。猿は気がつくと死にかけていました。何が起こったのか理解しましたが怒ることはしませんでした。菩薩である猿は寛容という資質を完成させていたのです。
  それでも、猿はバラモンにこんなふうに言いました。
  「あなたの命を救ったのに、私を殺すことは適切なことですか?」
  そして猿は、バラモンが森の中で道に迷い、ひとりでは家にたどりつけないのだということを思い出しました。菩薩である猿の慈悲はまさに無限でした。歯を食いしばって、バラモンを森から出してあげるまで死ぬまいと決めたのです。傷口から流れる血で跡を残しながら猿はバラモンを案内しました。
  そして、バラモンが正しい道にたどり着いたとき息絶えました。
  ブッダは猿に生まれた過去世でさえ、これほどの慈悲と智慧を持っていました。悟りを開いた時にどれほどの波羅蜜を完成させていたか想像してみてください。

まばゆい智慧の光
  
菩薩として幾多の輪廻を繰り返した後、ブッダは最後の生存で人間として生まれました。すべての波羅蜜を完成した菩薩は解脱への道を探し始めました。
  そして、数多くの修行を試し、それに耐え、ついに聖なる道を発見します。この道を歩むことで、あらゆる現象が無常、苦、無我であると深く観察したのです。
  こうして修行を深め、さまざまな悟りの段階を経て、菩薩はついに阿羅漢となり、欲・怒り・妄想が全く無い清らかな存在となりました。
  そして、一切智と、ブッダとなった者のみが知りうる見識が生じました。一切智とは、ブッダが知りたいと思った事はどんなものでもその問いについて考えただけで自然に答えが心に浮かぶということです。
  智慧の光を得た結果、ブッダは「結果の結実の徳による完成」として知られているものを授かることになりました。この完成は、ブッダが幾多の過去生で培ってきた特定の原因と必要条件が満たされたことで実現したのです。
  完全なる悟りを得てブッダとなった後も、はるか以前の世界でスメーダ仙人として立てた誓いを忘れることはありませんでした。かくも長きにわたり懸命な修行を続けたその目的は、すべての生命が苦しみの荒海を渡る手助けをするためでした。完全なる悟りを開いてブッダとなった今、その大いなる慈悲と智慧は、当然はるかに強力で効果的なものになっていました。
  この二つの資質に基づいてブッダはダンマ(法)を説き始め、般涅槃に入るまでの45年間説き続けたのです。
  一晩に2時間しか眠らず、それ以外の時間はすべてダンマ(法)に捧げました。衆生が健やかさと幸福を享受できるよう、さまざまなやり方で援助しました。
  死の床においてさえ、他の宗派を捨ててやって来たスバッダに、正しい道を示されました。これによりスバッダはブッダの導きで悟りを得た最後の弟子となりました。
  これは「他の生命の幸福を気遣う心の完成」して知られています。これは前述の資質の当然の帰結です。
  悟りを開き、煩悩から完全に解放されたのに、なぜブッダはこの世での生存を続けたのでしょう? そもそも、なぜ人々と交流したのでしょう? ブッダは、生命を苦しみから救い、正しい道へ導きたいと望んだのです。これはブッダが示した最も純粋な慈悲、最も深い智慧です。
  ブッダは、完全なる智慧によって何が有益で何が有害かを識別することができました。この肝心の区別ができなければ、他の生命を救済することなど、どうしてできましょう?
  しかしまた、賢明で、何が幸福をもたらし、何が不幸をもたらすかを知り尽くしていたとしても、慈悲の心がなければ、他の生命の運命に対して無関心でいることもあり得ます。
  ブッダは慈悲の心の実践から、害悪と苦しみをもたらす粗雑な行為を避けるようにと人々を戒めました。そして智慧によって、状況に応じて的確かつ効果的に人々に説法することができました。慈悲と智慧の両輪によって、ブッダは比類なき導師となったのです。
  ブッダには、名誉や名声を得たい、あるいはたくさんの信奉者を得て称賛されたいなどという利己的な考えはありませんでした。社交的な意図から人々と接したわけではありません。正しい道を指し示し、それぞれの器にふさわしい光明を見出せるようにと、それだけを願って衆生に接したのです。
  これこそブッダの大いなる慈悲の心の表れです。その務めを終えると、ブッダは人のいない森の片隅へと退きました。俗人のように聴衆の中にとどまり、気さくに談笑したりなどしませんでした。
  また、弟子同士を紹介することもありませんでした。「彼は裕福な商人の誰それで、彼は偉い学者の誰それである」などという話はしません。
  人との付き合いを離れ、孤独に生きるのは容易なことではありません。並の人間に完全な孤独を楽しむことはできません。ブッダが並外れていたからこそできたのです。

指導者へのアドバイス
  ダンマ、あるいは瞑想を指導したいと考えている人にとって重要なポイントがあります。
  弟子との関係においては、極めて思慮深くあらねばならないということです。
  弟子たちと何らかの人間関係をもつ場合は、ブッダに倣い、必ず大いなる慈悲が動機であらねばなりません。
  指導者が教えを受ける人たちと親密になり過ぎることは危険を伴います。瞑想指尊者が弟子たちと親しくなり過ぎれば、礼節や敬意が失われる可能性があります。
  ダンマを他の人々と分かち合うことについても、ブッダを手本とし、適切な動機をもつべきです。
  指導者として有名になったり、成功したりすることで満足してはなりません。そうではなく、純粋な慈愛が動機でなければならないのです。
  弟子たちが真の平和と幸福を得られるよう、身・口・意の振る舞いを正す技法を教えることに専心しなければなりません。自身の動機がこの点から逸れていないか、常に気をつけている必要があります。
  私は以前、瞑想を指導するにあたって最も効果的な手法は何か、と訊かれたことがあります。こう答えました。
  「何を差し置いても、まず指導者自身が修行に熟達すること。次に経典についての揺ぎ無い理論的知識を得ること。最後に純粋な慈悲と哀れみに基づいて前述の二点を用いること。この三点を踏まえた指導は確実に成果をあげることができる」と。
  俗世間では多くの人々が運命の不思議な巡り合わせ、もしくは業によって名誉や名声、成功を得ています。
  とはいえ、そのような人々はブッダと同じようにその因縁を自ら成就したわけではありません。
  懸命に努力することなく、たまたま成功や財産を手にした人もいます。そんな人たちは、しばしば批判の的になります。
  「あんなにいい加減で怠惰な人が地位を得るなんておかしい。あれは幸運を授かるに値する人間じゃない」などと周囲の人々に言われるかもしれません。
  一方、懸命に努力しているにもかかわらず、知性や才能に恵まれないせいで、目標を達成できなかったり、達成できても時間がかかったりする人たちもいます。
  そのような人たちは結果を成就することができません。
  こうした人たちも批判されることになります。
  「惨めなやつだ。必死に頑張っても能力がないからモノにならない」などと言われるのです。
  懸命に努力して成功したものの、野心を遂げると、手に入れた“栄冠”に満足してしまう人たちもいます。
  輝かしい偉業を人類への奉仕のために役立てたブッダとは異なり、さらに努力を重ねて社会や他の生命の役に立とうとしないのです。このような人々もやはり非難されるでしょう。
  「なんと身勝手なやつだ。あれほどの財産、富、才能がありながら慈悲や寛大さのかけらもかない」と。
  俗世間では、誹謗・中傷を受けないで暮らすのは困難です。人々はいつも陰口を叩き合っています。それは根も葉もない噂話のこともあれば、その人の欠点や過ちを的確に突いている場合もあります。
  因縁、結果、奉仕をすべて完成させたブッダは、真に例外的な存在と言わねばなりません。
  解脱へ至る道の発見者であり指導者であるブッダの偉大さや完璧さを挙げていけば、丸々一冊の本が書けてしまいます。
  ここでは皆さんが修行において精進を高められるよう、ブッダの徳に思いを馳せるための導入としてお話しするにとどめておきます。
  ブッダの偉大さを思えば、畏敬と崇拝の念がわき上がるでしょう。かくも偉大な存在が発見し、教えた道を歩むという、素晴らしい機会を得たことに深い感謝の念を覚えることでしょう。そのような道を歩むためには、だらしなかったり、不精であったり、怠惰であったりしてはならないのだと納得するはずです。
  大いに刺激を受けてください。勇敢に、力強く、忍耐強く、この道を最後まで歩き通すことができますように。

⑦私たちの偉大な“血統”を思い出す
  エネルギーを喚起する七番目の方法は、私たちが受け継いでいる“血統”の偉大さを思うことです。私たちはサティバッターナスッタ(念処経)、すなわち気づきの四つの成り立ちについてのブッダの教えに従って瞑想しています。
  つまり、私たちは過去仏たちの聖なる“血統”に属しているといえるのです。胸を張ってブッダの娘、息子を名乗ってよいわけです。
  ヴィパッサナー瞑想の修行をするということは、ダンマ(法)という“血”の“輸血”を受けるようなもの。ブッダが生まれた地から遠く離れた場所にいようと、人種、信条、習慣がどれだけ異なっていようと、関係ありません。こうした違いは重要ではないのです。
  シーラ(戒)、サマーディ(定)、パンニャー(慧)という三つの修行に身を捧げている限り、私たちは皆、同じダンマの家族の一員です。ダンマは私たちの血です。ブッダの時代に同じ修行をした聖者たちの体の中を流れたのと同じ血です。素直に、敬意を持ち、熱心に修行することで、私たちはその偉大な血統にふさわしい者になれるのです。

⑧仲間の偉大さを思い出す
  エネルギーを創り出す8番目の方法は、ダンマの道を歩む仲間の偉大さを思うことです。パーリ語ではブラフマチャリヤ(梵行者)で、聖なる生活を送る人々のことです。
  かつては比丘(僧)と比丘尼(尼僧)、サーマネーリー(沙弥尼)、サーマネーラ(沙弥)がいました。歴史の経過とともに、テーラワーダ比丘尼の僧団は途絶えてしまいました。
  厳密に言うと、現代においては正式なサンガは比丘と男性の沙弥だけで構成されており、ブッダが定めた行動の規範に従って修行します。
  また男女のアナガーリカ(出家者)とシーラシン(受戒者)尼もいます。こちらは守る戒の数は少ないのですが、やはり聖なる生活を送る人々であると考えられています。
  こうした区分は重要ではありません。正式に出家していようがいまいが、すべての修行者は清浄、道徳、集中、智慧という徳を共有しています。あなたもまた修行者の一人である以上、ブッダの側近であったサーリプッタ尊者、モッガラーナ尊者、そしてマハーカッサパ尊者などの偉大な弟子たちと同じ徳を分かち合っているのです。
  比丘尼のサンガにはマハーパジャパティ・ゴータミーと彼女の弟子たちをはじめ、ダンマを追及する偉大な勇気ある女性たちがいました。こうした特筆すべき人々は、聖なる生活における私たちの同志なのです。
  彼らについての書物を読み、その偉大さ、勇気、献身に思いを馳せるとよいでしょう。そして、自分が尊者たちと同じ高い基準に従って生きているかどうか省みてみましょう。そしてまた、毎日の修行においてこうした偉大な仲間たちに支えられていると思えば、俄然やる気が出るはずです。

望まれず、愛されず:ソーナ長老尼の物語
  かつて比丘尼サンガにソーナという名の長老尼がいました。僧籍に入る前、彼女は結婚し十人の子をもうけました。今日の基準からすれば大家族です。子どもたちは成長し、一人、また一人と家を出て、伴侶を得て家庭を築きました。
  最後の子どもが結婚すると、ソーナの夫は出家して比丘となり、彼女の元を去りました。残されたソーナは結婚生活で夫と貯めた財産をかき集め、子どもたちに分け与えました。そして、子どもたち一人一人に順番に自分の面倒を見てくれるよう頼みました。
  最初のうちはとても幸せな気分で、代わるがわる子どもの所を尋ねて回りました。ソーナはすでに六十代か七十代、かなりの老齢だったはずです。
  しかし、次第に子どもたちは母親を疎んじるようになりました。自分たちの家族のことで手一杯だったからです。「ああ、またお義母さんが来たわ」などと言われるようになりました。
  ソーナは自分が歓迎されていないことに気づき、落ち込みました。望まれることも愛されることも無く、厄介者扱いされるのは貴い生き方ではないとソーナは思いました。
  現代でもこのような感情を抱いている親はいるのではないでしょうか。
  ソーナはどうすべきか考えました。自殺は正しくありません。そこで彼女は尼寺へ行き、比丘尼になることを願い出て、受け入れられました。しかし、彼女はもう歳を取りすぎていて、托鉢に出ることも、比丘尼の作務をこなすこともできませんでした。できることといえば、湯を沸かすことだけ。
  しかし、ソーナはとても賢い女性でした。自分の置かれた状況を鑑みて、こう考えました。
  「私には時間がない。この機会を無駄にせず、存分に修行に励まなければ。一瞬たりとも無駄にはできない」と。
  ソーナは高齢のため体力が落ちてしまっており、歩行瞑想は僧院の壁伝いに行うしかありませんでした。壁につかまってぐるぐると同じ場所を回ったのです。森の中で歩行瞑想をするときは、つかまって歩けるように、木と木の間隔が狭い場所を選びました。深い決意を胸に、忍耐強く修行に精を出した結果、彼女はほどなく阿羅漢になりました。
  ソーナの子どもたちの恩知らずな仕打ちは、結果的に祝福であったといえます。
  悟りを開いた後、ソーナ長老尼はよくこんなふうに歌ったそうです。
  「ああ、この世を見てごらん。人々は家族との生活にとらわれ、世俗的な幸福を楽しんでいる。私はといえば、子どもたちに邪険に扱われ、家族を捨て、出家の生活を送っている。そして今、私は真実を手に入れた」
  ソーナ長老尼が生きていたころは、尼寺へ行って比丘尼となることを願い出るのは難しいことではありませんでした。
  しかし、残念ながら今は女性が僧として完全に出家することはできません。前に述べたように比丘尼の制度は途絶えてしまったからです。
  でも、絶望しないでください、女性が出家したくなったら、今でも僧院に入ることは可能です。厳密には、ヴィナヤという戒律の原典に記されたサンガの規律に則って出家することはできません。ですが、ブッダの教えを記した経典に従って比丘尼となることは可能です。
  そのためには、聖なる八聖道に従って心を浄化する修行を誠実に行えばよいのです。このような出家の仕方も全く遜色のないものです。それどころか、現代にはこのほうが適しているともいえます。いったん比丘になってしまえば、問題はなく、不平等もありません。

⑨怠惰な人を避けること

  精進を喚起する方法の九番目は、怠惰な人とは付き合わないようにすることです。
  世の中には、心を育てることに全く興味を示さず、決して自分を清らかにしようとしない人々がいます。
  ただ食べて、寝て、気の向くままに面白おかしく生活している人々です。彼らは獲物を丸呑みすると何時間も動けなくなるニシキへビに似ています。
  そんな人たちと一緒にいたら、精進を起こそうという気になるはずがありません。彼らの徒党に加わらないようにするべきです。そうした人たちと一緒にいないようにすることは、精進を生じさせるための積極的な一歩になります。

⑩精進する法友を見つけること
  このことをさらに一歩進めて、十分に修行の進んだ、持続的な精進を身につけた修行者と付き合うようにしましょう。これが精進を生じさせる十番目の方法です。
  これは特にリトリートで出会う修行者を指していますが、誰であれ、法に完全に身を捧げ、忍耐と強固な意志を持ち、一瞬一瞬に気づきを働かせ、持続的に、あるいは漸進的に高いレベルで精進している人と共に過ごすことは有意義なことです。
  健全な心を保つことを最優先する人こそ、最高の友なのです。リトリート中はお手本となるような修行者から学ぶことができるでしょう。そうした人たちの振る舞いや修行の仕方を見習えば、自分自身の成長につながります。
  彼らの勤勉さに“感染”してみましょう。良いエネルギーを取り込み、大いにその影響を受けてください。

⑪エネルギーの開発に意欲的であること
  精進を喚起するための最後の、そして最良の方法は、どんな時もエネルギーを開発することに意欲的であり続けることです。これを実践するには強固な意志を持つことがカギとなります。
  「坐っている時も、立っている時も、歩いている時も、移動する時も、可能な限り一瞬一瞬に気づいているようにしよう。心に隙ができないようにしよう。一瞬たりとも気づきを欠かさないようにしよう」と。
  逆に、簡単に自分に負けてしまうようないい加減な態度で臨めば、修行は最初からうまくいかないに決まっています。
  すべての瞬間をこの勇気ある精進、持続力と耐久力のあるエネルギーで満たすことができます。
  一瞬でも怠惰が忍び込んでこようものなら、すぐさまつかまえて叩き出してください。コーサッジャ(怠惰)は瞑想修行の土台を蝕む最も破壊的な要素の一つです。それを根絶するには、勇気ある、忍耐強い、持続的な精進あるのみです。

  どうぞ、ここで紹介した十一の方法の一つ、あるいはすべてを使って精進を高め、聖なる道を順調に進んで、煩悩を永久に根絶する意識に到達してください。

喜:第四番目の悟りの要素

  Pīti(ピーティ)すなわち「喜」には、幸せ・喜び・満足という特徴があります。「喜」とはそれ自体、こうした心の状態をそなえています。
  さらに「喜」は関連する様々な心の状態に波及し、それらを明るく喜びに満ちたものにし、深く満ち足りた感覚をもたらす働きをします。

軽さと機敏さ
  「喜」は心と身体を軽さと機敏さで満たします。古典的な分析によれば、これが「喜」の働きです。心は軽やかになり、元気づけられます。身体も機敏に、軽やかに、活発になる感じがします。「喜」は実際に身体が軽やかになる感覚として現れます。身体感覚を通じてはっきりと現れるものなのです。
  「喜」が生じると、粗く不快な感覚が、柔らかで優しく、ビロードのようになめらかで軽やかなものになります。身体が軽くなり、まるで宙に浮いているかのように感じられることもあります。
  それは静的ではなく、動的な感覚であることもあります。押したり引いたりされているような、あるいは揺さぶられているような感覚です。海の上で波にもまれているように感じるかもしれません。不安定でありながら、とても心地よい感覚です。

五種類の「喜」
  「喜」には五つの種類があります。
  第一番目は「(しょう)()」と呼ばれます。修行の初期において、瞑想を妨げる要因を十分な時間抑えておくことができると、修行者はゾクゾクするような喜びを感じ始めます。鳥肌が立つこともあります。これが「喜」の感覚の始まりです。
  二番目は「(せつ)那喜(なき)」と呼ばれるタイプです。稲妻のように突然やって来ます。一番目の「小喜」よりも強烈です。
  三番目は「(だん)起喜(きき)」です。海辺に腰掛けている人が、突然自分を飲み込もうとする巨大な波に遭遇する様子に喩えられます。修行者は、まさしく波にさらわれたような感覚を経験するのです。胸が高鳴り、圧倒されて、何が起きているのか分からなくなります。
  第四番日の「喜」は「()(やく)()」です。「陽気にさせる喜」とも言います。これが生じると、身体があまりに軽やかに感じられるので、坐っている身体が数十センチ地面から浮き上がっているように思えることさえあります。歩いているときも、宙を漂っているか、飛んでいるかのように感じられます。
  第五番日の「喜」である「遍満(へんまん)()」は最も強力なものです。全身の毛穴の一つ一つまで「喜」で満たされます。坐っている時であれば、この上なく心地よく感じて、立ち上がりたいと全く思わなくなります。それどころか、そのまま動かずに坐り続けることに強い関心が芽生えます。
  最初の三種類の「喜」は、Pāmojja(パーモッジヤ:喜悦)と呼ばれます。「弱い喜」という意味です。残りの二つこそ、Pīti(ピーテイ)という名に相応しい強い「喜」です。
  最初の三つは、この二つの「喜」へ至るための足掛かりであり、要因となるものです。

智意のある注意力が「喜」をもたらす
  「精進」の場合と同じく、喜をもたらす要因はただ一つであるとブッダは説かれました。それは智慧のある注意力です。具体的には、智恵のある注意力を絶やさず、仏法僧に関連した健全で喜ばしい感情が現れるように努力を怠るな、ということです。

「喜」を育てるための11の方法
  註釈書にはさらに、「喜」を喚起させるための11の方法が書かれています。

①ブッダの徳を思い起こす
  最初の方法は「仏随念」、すなわちブッダの徳を思い出すことです。伝えられているブッダの徳は実にたくさんあります。それらすべてを思い起こす前に「喜」の最初の徴候が現れることでしょう。
  例えば、ブッダの徳目の最初に挙げられる阿羅漢という特質があります。
  これは、「すべての煩悩を根絶することによって達成した清らかさ故に、ブッダはすべての人間・神々・梵天たちからの尊敬を受けるに値する」ということを意味しています。
  このようなブッダの清らかさを思い起こすだけで、何がしかの喜びが生じるのではないでしょうか。
  「勇気ある努力」のところで述べた、ブッダが成し遂げた三つの偉業を思い起こすのもよいでしょう。
  しかし、「ブッダの徳を思い起こす」ということは、意識的に思い出したり、決まった文言を唱えたりすることだけではありません。実を言うと、そのような方法は、修行者自身の直観的な洞察に比べれば心もとないものです。
  修行によって生滅を洞察する智慧を獲得すると、自然に「喜」が生じ、ブッダの徳について深く理解するようになります。
  ブッダ自身が説かれています。「ダンマ(法)を見る者は、私を見る」と。
  洞察を得た修行者は、われらが開祖の偉大さを真に理解することができるのです。
  「私がこれほどの心の清らかさを経験できるのなら、ブッダの清らかさは、どんなにか偉大だったに違いない」と思うことでしょう。

②ダンマ(法)を喜ぶ
  「喜」を喚起させる二番目の方法は、ダンマ(法)とその徳を思い出すことです。伝統的な最初の徳目は「善く説かれしはブッダのダンマ(法)、善く示されしはブッダのダンマ(法)」という偈として表現されています。
  ブッダは、最も効果的な方法でダンマ(法)を教えました。そして、あなた方の現在の指導者たちも、それを確実に伝えています。このことが喜びをもたらしてくれるのです。
  ブッダは、戒・定・慧という三役階の修行法を詳細に説かれました。
  修行においては、まず戒律を守り自分の行ないを清らかに保ちます。言葉と行いを正すことで、高いレベルの道徳性を育む努力をするのです。これは多くの利益をもたらします。まず自分を裁いたり、自責の念に悩まされたりすることがなくなります。賢者から非難されることも、法律で罰せられることもなくなります。
  ブッダの教えに従えば、次は集中力を開発することになります。誠実に、忍耐強く、持続的に修行すれば、明るく穏やかに澄み切った幸福な心を経験することができるでしょう。これが「寂静の楽」、すなわち集中と心の静けさから生じる幸せです。
  さらに、様々なレベルの禅定(没入状態)に達することもできます。それらは煩悩が一時的に抑制された心の状態であり、とてつもない平穏をもたらしてくれます。
  その後、ヴィパッサナーの修行をすれば、三番目の幸せを経験する機会が訪れます。より深くダンマ(法)に精通し、現象の生滅を洞察する段階に達すると、浮き立つような大きな喜びを感じるようになります。この幸せは「ゾクゾクする幸せ」です。
  続いて「明瞭さによる幸せ」がやって来ます。そして、最終的に行捨智と呼ばれる、形作られたすべての物に執着しない心の平穏(捨)を洞察する段階に達します。そうなれば「静寂な幸せ」を経験するでしょう。
  これはとても深い喜びです。興奮やスリルはありませんが、とても繊細で調和のとれた幸せを感じるのです。
  このように、正しい修行の道筋に従う人たちは、ブッダが約束し、保証した通りに、ここで述べた三つの幸せをすべて経験できるでしょう。
  こうした幸せをすべて、自ら経験することに成功すれば、ブッダの言葉が真実であることを心の底から実感できます。
  そして、あなたもまた、こう口にすることでしょう。「善く説かれしはブッダのダンマ(法)、善く示されしはブッダのダンマ(法)」と。
  そしてさらに、この三つの幸せを超越する究極の幸せが、「寂滅の幸福」です。「静寂な幸せ」を超えてさらに先に進むと、修行者は涅槃の洞察を瞬間的に経験します。
  これは「聖なる道の意識(道心)」を得ると同時に生じます。すると、修行者はそれまで経験したことのない深さでダンマ(法)を理解するようになります。
  ブッダはまさに、「このように瞑想すれば、苦しみの止滅に至ることができる」と説かれました。そのとおりのことが起きるのです。すでに多くの人々が経験しています。そして、あなた自身がついにそれを知るとき、心は喜びと感謝で高鳴ることでしょう。

修行によって得られる大いなる可能性
  ブッダの数えにダンマ(法)がよく示されていることのありがたさを知るには三つの方法があります。
  一番目は瞑想修行が持つ大いなる可能性について深く考えることです。あなたの心はダンマ(法)への賞賛で満たされると同時に、強い喜びを感じるはずです。
  おそらく、もともと確固たる信を持っている人であれば、ダンマ(法)について聞いたり読んだりするたびに、強い喜びと興味で心が満たされるはずです。これが、ダンマ(法)を正しく理解するための三つの方法の第一番目です。
  二番目は自分で実際に修行に着手することです。それによりブッダが約束され、保証されたことが確実に実現し始めます。戒と禅定により人生は善い方向へ向かいます。
  こうしてあなたは、ダンマ(法)がいかによく示されているかを身をもって理解するようになります。修行により、あなた自身に澄んだ心と深く繊細な幸せが得られるからです。
  そして三番日にして最後の方法は、智慧の修行によってダンマ(法)の素晴らしさを見出すことです。この智慧こそが涅槃の幸せに通じています。
  ここまで来ると人生に大きな変化が生じることでしょう。まるで生まれ変わるようなものです。そのとき生じる「喜」や感謝の念がどれほどのものか想像してみてください。

③サンガの徳を喜ぶ
  注釈書に記された「喜」を育てるための主要な方法の三番目は、サンガの徳を思い出すことです。
  サンガはダンマ(法)に身を委ね切って、熱心かつ忍耐強く努力する聖者たちの集まりです。彼らは正しい方法で真っすぐに道を歩み、それぞれの目標に達します。
  修行の中で心の清らかさを経験したことがある人なら、他の人も同じように感じているだろうと想像できるはずです。あるいはより深いレベルで、自分の経験をはるかに超えた清らかさに達しているかもしれません。
  そしてある程度の悟りを経験したならば、自分と同じ道を踏破した聖者たちの存在に対する揺るぎない信が生じるでしょう。
  このような人々は、真に清らかで汚れなき人々なのです。

④あなた自身の徳を思う
  「喜」を呼び起こす四番日の方法は、自分の行いの清らかさについてよく考えることです。非のうちどころのない行動は強力な徳となり、その人に大いなる満足感と喜びをもたらします。清らかさを保つには大変な忍耐が必要です。
  この点についての自分の努力を振り返ることで、深い達成感と高揚感を感じることができるでしょう。
  もし、行いの清らかさを保てなければ、自責の念や自己批判に苛まれるでしょう。自分がしていることに集中ができなくなり、修行も進みません。
  徳は集中と智慧の基礎となるものです。自分自身が清らかに戒を守ることで生じた「喜」に気づくことで悟りを得た例は、数多くあります。
  このように自分自身の徳行を思い起こすことは、非常時にとりわけ役に立ちます。

非常時の「喜」 ― ティッサの物語
  ティッサと呼ばれる若者がいました。彼はブッダの説法を耳にして、強い焦燥感を覚えました。彼は志の高い若者でしたが、この世に深い虚無感を感じて、その大志を阿羅漢になることに向けたのです。
  ほどなく彼は世俗的な生活を棄てて僧衣をまといました。
  出家する前に、彼は財産の一部を弟のチューラティッサに譲りました。弟はとても裕福になりました。しかし残念なことに、チューラティッサの妻は豹変し、強欲にとらわれました。
  彼女は、ティッサが心変わりして還俗し、財産を取り返しに来るかもしれない、そうなったら自分の生活が危うくなる、と心配になりました。
  そして新しく手に入れた財産を守る方法を考えたあげく、殺し屋を雇うことを思いつきました。彼女は、「ティッサを殺してくれたら大金を払う」と、殺し屋たちに約束しました。依頼を引き受けた殺し屋たちは、ティッサを探しに森へ向かいました。
  そして修行に没頭している比丘を見つけ、取り囲みました。今にも殺そうと迫る殺し屋たちにティッサは言いました。「どうか少しの間待ってください。まだ仕事が終わっていないのです」
  「待てるものか!」殺し屋の一人が答えました。
  「俺たちにも“仕事”があるんだ」
  「ほんの一晩か二晩でよいのです」比丘は嘆願しました。
  「そうしたら戻ってきて、私を殺しても構いません」
  「その手には乗らないぞ!逃げるつもりだろう!逃げないという保証はあるか?」
  比丘となったティッサは、鉢と袈裟以外何も持っていませんでした。殺し屋たちに何の保証も差し出すことができません。代わりに彼は大きな石を手に取り、自ら両方の太腿の骨を砕きました。逃げられないことを納得した殺し屋たちはいったん立ち去り、ティッサは修行を続けました。
  この若者がどれほど煩悩を根絶やしにすることを熱望していたかが分かるでしょう。
  彼は、死や、痛みを恐れてはいませんでした。彼が恐れていたのは、依然として自分の中に根強くはびこっている煩悩でした。彼は人間として生を受けましたが、なすべき仕事はまだ終わっていません。彼は心の汚れを根絶しないうちに死ぬことを何よりも恐れたのでした。
  このような深い信念を持って出家したティッサでしたから、気づきを育てることにも極めて熱心でした。彼は力強い修行により、砕けた太腿骨の耐えがたい痛みに正面から向き合うことができたのです。
  彼は屈することなく、その強烈な痛みを観察し続けました。と同時に、彼は自分自身の徳について振り返りました。「出家した日から比丘戒を破ったことがあっただろうか」と自問しました。彼は一つの罪も犯したことはなく、まったく清らかでした。
  このことが分かり、彼の心は満足感と「喜」で一杯になりました。
  砕けた脚の痛みは鎮まり、ティッサの心の中では強烈な「喜」が最も優勢な対象となりました。彼はそこへ意識を向け、「喜」「幸せ」「喜び」と気づきを入れました。
  こうして気づきを入れる間に、彼の洞察は熟し、速度を増しました。そして突然、彼は壁を突き破りました。短時間で、四聖諦を経験して阿羅漢となったのです。
  この物語の教訓は、人は戒を守ることでしっかりとした土台を築くべきだということです。戒を守らなければ、坐りの瞑想はただ痛みや苦しみをもたらすだけです。どうか自分の土台を築き上げてください。戒の力が強ければ、瞑想における努力は多くの実を結ぶことでしょう。

⑤自分が行った布施を思い起こす
  「喜」を呼び起こす五番目の方法は、自分が行なった布施を思い出すことです。利己的な動機が少しもなく、他者の繁栄と幸せ、苦しみからの解放を願って慈善を行うならば、それは功徳に満ちたものとなるでしょう。
  そればかりか、あなたの心に大いなる幸せと喜びが生じます。布施が有益かどうかを判断する決め手は動機です。布施の裏に身勝手な動機があってはなりません。

乏しい中での布施
  布施は金銭的なものに限りません。助けを必要としている友人を励ますだけでも布施になります。窮乏時こそ惜しみなく与えることが大事です。少ないものを分かち合うことは、大きな満足をもたらしてくれるものです。
  昔のスリランカの王についてのこんな話があります。
  ある日、王様が急いで戦いから退却する途中のことでした。最低限の食料しか携えていません。森を抜ける途中で、王様は托鉢をしている比丘に出遭いました。その比丘は阿羅漢であったようです。王様は、自分と馬と従者の分しか食料を持っていなかったにもかかわらず、比丘に食べ物を布施しました。
  後年、王は自分が生涯で贈った様々な贈り物を思い返しました。豪華で貴重な品もありましたが、あの時、比丘に与えた布施が、王にとって最も心に残るものだったということです。
  もう一つ別の逸話があります。マハーシ・サーサナー・イェイクタというヤンゴンにある瞑想センターでの話です。
  数年前、センターがまだゆっくりと軌道に乗り始めたばかりの頃、食事や宿泊の費用を払う余裕がない修行者たちがいました。その当時、人々はとても貧しかったのです。
  しかし、その人たちは修行が順調に進んでいて、費用が払えないというだけでセンターを去ってしまうのはとても残念なことでした。そこで瞑想指導者たちは協力して、大きな可能性を秘めたその修行者たちを支援しました。
  そして修行者たちは驚くべき進歩を遂げました。修行者たちが目標を達成することができた時、指導者たちは大きな満足と「喜」を感じたということです。

⑥神々の徳を思う
  「喜」を生じさせる六番目の方法は、人間よりも高次の世界に住む神々や梵天たちの徳について考えることです。神々や梵天はかつて人間界にいた時、カルマ(業)を心から信じていました。
  善い行いは善い結果を、不善な行いは有害な結果をもたらすと信じていたのです。そのため、善い行いを為すように努め、心ない行いは控えるようにしていました。瞑想を実践していた者もいます。
  こうした行為の善なるエネルギーにより、人間界よりも楽が多い高次の世界に再生したのです。禅定を達成した者は梵天界に再生し、幾劫にもわたる長寿を得ました。つまり、こうした人間を超えた存在が持つ徳のことを考えることは、彼らが人間界で育んだ信・布施・精進・忍耐に思いを馳せることに他なりません。彼らと自分を比較することもできます。
  もし、自分が神々や梵天たちに引けを取らないと分かったら、満足感と「喜」で心が一杯になるでしょう。

⑦完全なる安らぎについて熟考する
  「喜」を呼び起こす七番目の方法は、煩悩が止滅した時の安らぎについて熟考することです。突き詰めるとこれは、涅槃について熟考することを意味します。
  すでにこの深い安らぎを経験した人なら、それを思い起こすことで多くの「喜」を生じさせることができます。
  まだ涅槃を経験したことがなければ、深い集中、すなわち禅定の静寂について考えるとよいでしょう。深い集中から得られる安らぎは、世俗の楽しみよりずっと優れています。没入状態に入ることに熟達し、集中瞑想をしていない時も心が決して煩悩に侵されない人もいます。
  そうして彼らは六十~七十年の人生を平穏のうちに過ごすのです。このレベルの落ち着きと明断さを思い起こすことで、非常に大きな「喜」を生じさせることができるでしょう。
  禅定を経験したことがなければ、修行中に心が純粋で清らかに感じられた時のことを思い出してみましょう。
  煩悩がしばらくの間鎮まると、静けさと落ち着きが自然に心を満たします。俗世間で享受できる幸福と比較してみたくなるかもしれません。
  修行で得られる幸せに比べると、世俗的な幸せがひどく粗野で大雑把なものであることが分かると思います。心の清らかさから生じる冷静な「喜」と違って、世俗の楽しみには燃えるような何かがあります。
  こうした比較によって、心が「喜」で満たされることもあるでしょう。

⑧-⑨粗野な人々を避けて、洗練された友を探す
  「喜」を呼び起こす八番目と九番目の方法は関連し合っています。
  それは、粗野で下品な人、怒りに染まって慈悲(mettā:メッター)を欠いた人を避けること。
  そして、慈悲の心を持つ洗練された人を探し出すということです。世間には、あまりに怒りが強くて、健全な行いと不健全な行ないを区別できない人が大勢います。彼らは、尊敬に値する人に敬意を払うことの大切さを知らず、ダンマ(法)を学ぶことも、瞑想を実践することもありません。彼らは短気で、簡単に怒りや嫌悪にとらわれてしまいます。彼らの人生は、粗野で不快な行動で満ちたものになりかねません。
  そのような人と暮らしても、あまり喜ばしい経験にはならないということは容易に想像がつくでしょう。
  その一方で、思慮深く、愛情を込めて他者を気遣う人々もいます。そうした人々の心にあるあたたかさや愛情は行動や言葉に現れます。
  このような洗練された人たちは、繊細かつ思いやりのある方法で他者と関わります。彼らと交流することはとても実りあることです。
  人は愛のオーラとあたたかさに包まれ、それが「喜」を呼び起こすことになるのです。

⑩経典について熟考する
  「喜」を生じさせる十番目の方法は、経典について熟考することです。経典にはブッダの徳についても善かれてあります。
  信の篤い人なら、これらの経典の一つについて深く考えることで、大いなる喜びと幸せが得られるでしょう。中でも大念処経は、ダンマ(法)の修行がどのような利益を人にもたらすかについて語っています。
  その他、聖者の集いであるサンガについての啓発的な物語を含んでいる経典もあります。
  これらの経典を読んだり、熟考したりすることで、心が奮起すれば、それが「喜」と幸せをもたらします。

⑪心を向ける
  最後に、しっかりと持続的に「喜」を育むことに心を向けるようにすれば、その目標は実現します。「喜」が生じるのは心が比較的、煩悩で汚れていない時であることを知っておいてください。
  だから「喜」を生じさせるためには、瞬間、瞬間の気づきを絶やさないようにエネルギーを注ぐ必要があります。これにより集中が生じ、煩悩を寄せ付けません。坐っていても、横になっていても、歩いていても、立っていても、その他の動作をしていても、それぞれの瞬間に揺るぎない気づきを喚起させる作業に徹してください。

軽安(きょうあん):第五番目の悟りの要素

  大多数の人の心は、常に興奮状態にあります。心はあちこちさまよい、強風の中の旗のようにはためき、灰の山の中に石を投げ込んだように散乱しています。

  そこには、冷静さや落ち着き、静けさ、平安は存在しません。このような心の落着きの無さ、散乱は、風が吹きつける水面を思い出させます。いわば「心の波」です。落ち着きが無くなると、大小の心の波が目立ってきます。
  散乱した心で集中したとしても、その集中はまだ落着きの無さと隣り合わせです。家族の誰かが病気になると、その不安や焦燥が他の家族にも影響を及ぼすのに似ています。落着きの無さは、その時の心の状態に強い影響を及ぼします。落着きの無さがあるかぎり、真の幸福に達することはできません。
  心が千々に乱れていると、自分の行動をコントロールすることが難しくなります。気まぐれな思いつきのままに行動し始め、自分のやっていることが健全かどうかを適切に判断できなくなります。思慮を欠いた心によって、気がつけば分別の無い言動をしていることになりかねません。
  そうした言動は、後悔や自責の念や、さらなる興奮につながります。
  「私は間違っていた。あんなことは言うべきではなかった。あんなことをする前によく考えておけばよかったのに・・・」
  心が良心の呵責や後悔にさいなまれていては、幸福になることはできません。
  軽安という悟りの要素は、落ち着きの無さや自責の念が無いところに生じます。
  パーリ語ではパッサッデイ(passadhi)と呼ばれ、冷静で落ち着いた状態を表します。冷静さと落着きは心の活動、もしくは興奮が鎮まらないと生じません。
  現代社会では、人々は多大な精神的苦悩を感じています。多くの人が、心の平静と喜びを得るために精神安定剤や睡眠薬などの薬物に頼っています。
  特に若者たちは、人生の中で最も興奮と不安に振り回される時期にあり、しばしば麻薬の力でそれを乗り切ろうとします。そして不幸にも、その一部は麻薬の快楽にとりつかれ、依存症になります。実に残念なことです。
  瞑想で得られる静かな平穏は、薬物のような外部から摂取する物質がもたらすものよりはるかに素晴らしいものです。
  もちろん、瞑想は単に落ち着きを得ることより高い目的を目指すものですが、心の平穏はダンマの道をまっすぐに歩くことで得られる利益の一つなのです。

心と身体を鎮める
  軽安の特徴は、心と身体を落ち着かせ、興奮を鎮めて、安定させることです。

心の熱を冷ます
  軽安は、落ち着きの無さ、心の散乱、そして後悔が原因となって生じる心の熱を冷まし、抑える働きをします。こうした有害な心の状態に蝕まれた心は、燃えるように熱くなります。
  心の軽安はその火を消し、冷静さと安らぎに置き換えます。

興奮がない状態
  軽安が現れると、心と身体の興奮が無くなります。修行者であれば、このような心の状態が心身に大きな平穏と静寂をもたらすことが容易に見て取れるでしょう。
  逆に、軽安の無い状態のことは、誰もがよく知っています。いついかなる時も、動きたい、起き上がりたい、何かしたいという衝動があります。体はせわしなく動き、心はあちこち飛び回ります。
  そうしたすべてが止むと、心の波は消え去り、静かで平穏な状態が現れます。動きは優しく、滑らかで、優美になります。さらに、身動き一つせずに坐っていられるようになるのです。
  軽安は例外なく、一つ前の悟りの要素である喜の後に訪れます。特に、最も強烈な喜である「遍満喜」は、強い軽安と結びついています。「遍満喜」が全身を満たすと、修行者は全く体を動かしたいと思わなくなります。不動の心を乱すこともありません。
  ブッダは解脱してから最初の49日間を、悟りの果を楽しんで過ごしたと伝えられています。7日間不動で同じ姿勢を保ち、それが終わると別の場所へ移動して、また7日間別の姿勢を保つということを繰り返しました。
  そうやって、果定に入ったり出たりしながら、悟りの果を楽しんだのです。
  その間ずっと、遍満する法悦により身体全体に満足感があふれ、動きたいと欲することはありませんでした。目を完全に閉じることはできず、半眼か完全に目を開いた状態でした。強い喜が生ずると目がパッと開いてしまうという体験を皆さんも経験することになるかもしれません。
  そんな時は目を閉じようとしても、またパッと開いてしまいます。しまいには、目を開けたまま修行を続けることになるかもしれません。そのような経験をすれば、ブッダの幸福と法悦がどれほど強烈なものであったか、理解できることでしょう。

軽安をもたらす智慧のある気づき
  ブッダの教えによれば、軽安は智慧のある気づきを通じて生じます。具体的には、健全な思考や精神状態、さらに重要なのは、瞑想時の精神状態に向けられた智慧のある気づきです。その結果、喜と軽安が生じます。

軽安を育む七つの方法
  註釈書にはさらに、軽安を生じさせるための7つの方法が示されています。

①適切な食事
  最初の方法は、栄養のある適切な食事を摂ることです。つまり、必要性と適合性という二つの原則に叶った食事です。ご存じの通り、栄養は大変重要です。手の込んだ料理は必要ありませんが、身体が必要とするものを摂取する必要があります。栄養が充分でないと、瞑想修行を進めるのに必要な体力を維持することができません。
  また、食べ物の適合性とは、あなた自身に合ったものを食べるということです。消化不良を起こすものや、大嫌いなものを食べていては、修行に差し障ります。気分が悪くなり、あれを食べたい、これを食べたいと常に思い悩むことになります。
  ブッダの時代に良い例があります。当時、ブッダが説法を行っていた地域では、ある裕福な商人と在家の女性が、宗教的行事の大半を取り仕切っていました。
  そして、どういうわけか、リトリートであろうがその他の行事であろうが、この二人が運営に携わっていないとうまくいかないのです。彼らの秘訣は、必要性と適合性の原則にのっとることでした。食事を布施する際、招待した比丘や比丘尼、修行者たちが何を必要とし何が合っているかに常に気を配っていました。
  あなた自身も、身体が必要とし、ずっと食べたいと願っていた物を食べた後、心が鎮まり集中できたという経験があるのではないでしょうか。

②快適な気候
  軽安を生じさせる第二の方法は、良い天候に恵まれ、居心地がよく、快適な環境で瞑想を行うことです。誰しも好みがあります。
  しかし、好みがどのようなものであっても、扇風機や暖房器具を使ったり、着る物で調節したりすることで、様々な気候に対応することができます。

③快適な体勢
  軽安を育む第三の方法は、快適な体勢をとることです。ヴィパッサナー瞑想の修行では、一般的に坐りの瞑想と歩きの瞑想を行います。
  この二つは初心者に最も適した体勢です。快適とは贅沢という意味ではありません。身体に不具合があってやむを得ない場合は別として、横になったり、背もたれのある椅子に坐ったりするのは、贅沢な姿勢と考えられます。支えなしで坐ったり歩いたりする場合、ある程度の身体的努力を続けなければひっくり返ってしまいます。
  贅沢な体勢はこうした努力が必要ないため、簡単に眠り込んでしまいます。心はあまりにもリラックスし、気持ち良くなり、あっという間にいびきをかき始めてしまうでしょう。

④入れ込み過ぎず、怠惰にもならず
  軽安を生じさせる第四の方法は、修行における精進のバランスを維持することです。
  「入れ込み過ぎず、怠惰にもならず」が良いのです。自分に無理強いをすると目的を見失い、疲れてしまいます。
  一方、怠惰であれば、修行は一向に進みません。入れ込み過ぎる人は、一刻も早く山頂に着こうと大急ぎで山に登る登山者のようなものです。焦って登るのですが、山は急勾配で険しいので、何度も止まって休まなければなりません。
  そして結局は、山頂まで登るのに長い時間がかかってしまいます。一方、怠惰でだらしないタイプの修行者は、はるか後ろを進むカタツムリのようなものです。

⑤-⑥粗野な人を避け、落ち着きがあり親切な友人を選ぶ
  怒りっぽく、粗野で冷酷な人を避けることも、軽安を得る助けとなります。共にいる人が短気で、いつもあなたに腹を立て、あなたを責め立てるならば、心の平穏を得ることなどできないことは明らかです。心身共に静かで落ち着いた人々と一緒にいると、あなたも当然、より平静になれるでしょう。

⑦軽安に心を向ける
  最後に、軽安と平穏を得ることを願い、絶えず修行に心を向け続ければ、目的を達することができます。気づきを絶やさないようにいつも気をつけていれば、軽安という悟りの要素はごく自然に生じてきます。

定:第六番目の悟りの要素

  「定(集中)」という心の要素は、観察対象に据えられ、そこに穴を穿ち、その深奥に到達し、そこに留まります。パーリ語ではサマーディと呼ばれます。

動じないこと
  定(サマーディ)の特徴は、動じないこと、散乱しないこと、千々に乱れないことです。すなわち、心は観察対象に密着し、その中に入り込み、静かに落ち着いてそこに留まるということです。

固定的な集中と瞬間瞬間における集中
  定(サマーディ)には二種類あります。一つは、連続した「定」、対象を一つに絞って瞑想する際に得られる集中です。
  このような集中は、一つの対象に心を止め他の対象はすべて排除する、純粋なサマタ(静寂)瞑想によって獲得されます。
  この瞑想を修行する者は、とくに禅定(没入状態)に入ったときに連続的な集中を体験することができます。
  一方、ヴィパッサナー瞑想が目指すのは智慧の開発と、様々な洞察の段階を完成することです。ここで言う洞察とはもちろん、基本的な直観的理解のことです。
  すなわち、心と物質の区別と、その二つが因果によって相互に連関していることの直観的把握。
  そして、すべての精神的・身体的現象が、永続せず、満足をもたらさず、自我を持たないことの直接的知覚・・・すべての苦しみの止滅である涅槃を対象とする道果の意識を獲得するまでには、これらの基本的な洞察に加え、さらにいくつもの洞察を経なければなりません。
  ヴィパッサナー瞑想では、対象への気づきが極めて重要です。その対象とは、心と物質(身体)の現象であり、これらは思考のプロセスに訴えることなく直接知覚できます。
  言い換えれば、ヴィパッサナー瞑想では様々な対象を、その本質についての洞察を得ることを目的に観察するのです。第二の集中のタイプ、すなわち瞬間的な「定」がヴィパッサナーの修行にとっては重要になってきます。
  瞑想対象は絶えず生滅し、その瞬間瞬間に対象に対する集中が生まれます。こうしたタイプの定(サマーディ)は瞬間的でありながら、全く切れ目なしに次々と生じることができます。そうなれば、瞬間的な集中は連続的な集中と同じように心を静め、煩悩を寄せ付けない力を発揮します。

心を集める
  坐って、腹部の膨らみと縮みを観察しているとしましょう。膨らみと縮みのプロセスに気づこうと努力している時、あなたはその瞬間に留まっています。気づきを育てるためにエネルギーと努力を費やしている瞬間瞬間に、それに応じて対象を貫き通す心の動きが生まれているのです。まるで心が観察対象にしっかりと貼り付いてしまったかのようです。あなたは対象の中へ落ちていき、一体化します。
  一点に集中した心が対象を貫き通し、瞬間瞬間、対象のうちに静止して留まるだけではありません。「定(集中)」は、気づきの瞬間に同時に生じる様々な心の要素をまとめ上げる力を持っています。集中という心の要素の働きは、心をまとめ上げることなのです。様々な心の要素を一つにまとめて、散乱したり分散したりしないようにします。
  こうして、心はしっかりと対象に深く留まり続けるのです。

平穏と静寂
  これは親と子の関係に例えられます。良い親は、子どもたちが礼儀正しく、道徳的な責任感のある大人に育ってほしいと考えます。この目的のために親は子どもたちを多少なりともコントロールしなければなりません。
  子どもたちは未熟で、まだ思慮分別が備わっていません。だから、親は子どもたちが外で近所の悪童と付き合わないよう気を付けなければなりません。
  この点で、心の要素は子どもに似ています。親の監督が不行き届きな子どもが自分自身や他人を傷つけるような振る舞いをするように、コントロールされていない心は悪い影響を受けて苦しむことになります。
  煩悩は、いつも近くをうろついています。自制していなければ、心は簡単に欲、嫌悪、怒り、妄想などといった「不良」と交わってしまいます。
  そして、粗暴で無作法になった心は、言葉や態度にも現れます。心は子どもと同じように、最初は「しつけ」を拒むかもしれません。
  しかし、徐々に言うことを開くようになり、礼儀正しく穏やかになります。煩悩の攻撃からどんどん離れていくのです。集中した心は、どんどん動じなくなり、どんどん静かに、穏やかになります。動じることのない平穏の感覚は、集中の現れです。
  子どもたちも、適切に心を配ってあげれば聞き分けるようになります。最初は手に負えなかった子どもも、成長するに従って、なぜ悪い人々を避けなければならないのかを理解するようになります。親のしつけに感謝するようにさえなるでしょう。親の監督が不十分だった幼友達が、成長して犯罪者になるのを目の当たりにすることもあるかもしれません。
  大人になって社会に出る頃には、友人に選ぶべき人々と、避けるべき人々を自分で区別できるようになるのです。年を重ね、成熟していく中でも、このような生い立ちのおかげで、さらに向上し、成功し続けることでしょう。

集中がもたらす智慧
  集中は智慧がもたらされるための直接的な要因です。これは大変重要なことです。
  心が静まり、動かなくなると、智慧が生じる余地が生じます。心と物質の本質を理解できるようになるのです。心と物質がどのように区別され、因果によって相互に関係しているかについて直観的な洞察を得るかもしれません。
  一つ一つ段階を追って、智慧はより深いレベルの真理へと到達していきます。無常、苦、無我の特質をはっきりと観てとれるようになり、ついには、苦しみの止滅へと導く洞察を得るのです。
  こうした智慧の光明が訪れた人は、たとえどのような状況においても、粗野で邪悪な人間に戻ることは二度とありません。

親と子ども
  現在、子どもの親である人、そしてこれから親となる人は、これからお話しすることをよく聞いていただきたいと思います。
  親が集中によって自分自身の心をコントロールすることはとても重要です。
  そして、最終的には様々なレベルの洞察を完成させるべきです。そのような親は善行為と不善な行為をはっきり区別することができるので、子どもを育てるのもとても上手です。
  自ら良い手本となることで、子どもを善行為へと導くことができるでしょう。心をコントロールせず、無作法な行為を繰り返す親は、子どもが善い心や知性を伸ばす力になることができません。
  ビルマ(ミャンマー)で私が指導した人の中には子どもを持つ親もいました。ある夫婦は瞑想を始めたばかりの頃、子どもの世俗的な幸せばかり考えていました。つまり、子どもの教育とか生業の心配ばかりしていたのです。二人は私の瞑想センターで深い瞑想修行をしました。
  その後、子どものもとへ戻ると、態度を改め新しい計画を立てました。心をコントロールし、善い心を育てる方法を学ぶほうが、ただ俗世間で成功を収めるよりも子どもにとってずっと大事なことだと感じるようになったからです。
  子どもが成長すると、瞑想修行をするように強く勧めました。私は彼らに、瞑想をするようになる前に生まれた子どもと、後で生まれた子どもに違いがあるか尋ねてみました。
  すると、「ええ、明らかに違います。瞑想修行を完成した後で生まれた子どもは、素直で思いやりがあります。他の子どもたちと比べて善い心を持っています」という答えが返ってきたのです。

しっかりとした注意が集中を生じさせる
  ブッダは、集中を育むことを目指し、賢明な注意を絶やさないことが「定」をもたらす、と説かれました。先行する集中が因となって次の集中が生じるのです。

集中を喚起する、さらなる11の方法
  注釈書には、集中を呼び起こすためのさらなる11の方法が述べられています。

①清潔さ
  第一番目は内的・外的基盤、すなわち身体と環境を清潔に保つことです。このことが及ぼす影響は悟りの要素の第二番目、「探求」の項で取り上げています。

②バランスの取れた心
  集中のための第二の要因は、コントロール能力(五根)のバランスを取ることです。一方に智慧と信、もう一方には精進と集中があります。五根のバランスを取ることについては、すでに一つの章を割いて説明しています。

③明瞭な心のイメージ
  三つ目の要因は、厳密にはヴィパッサナーよりも、禅定の修行に関連の深いものです。
  よって、簡単に述べるにとどめておきます。これは対象への集中に熟達すること、すなわちサマタ(静寂)瞑想の修行と同じように、心の中に鮮明なイメージを保つということです。

④沈んだ心を回復させる
  四番目は、心が重くなり、落ち込み、自信を失った時に、心を高揚させることです。
  あなた方も当然、修行において壁に突き当たったり、つまずいたりした経験が多々あるでしょう。
  そのような時は、心を高揚させるように努めるべきです。精進、喜、洞察を喚起させる技術を活用することができるはずです。
  落ち込んだ心を高揚させることは、指導者の仕事でもあります。修行者が不機嫌で陰気な顔をしてインタビューに来たら、指導者は自分の知識を生かして修行者にやる気を出させます。

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