(2011年5月~12月)
第九軍:利得、名声、名誉、偽りの評判を得ること
マーラ(Mara)の第九軍は、利得、名声、名誉、偽りの評判を得ること。修行がある程度進んでくると、態度や振舞いが次第に改善されていきます。
あなたは、尊敬に値する、立派な人物と目されるようになるでしょう。他の人々とダンマ(法)を語り合ったり、自ら経験したダンマを、例えば経典に関する解釈を語るというような形で表現したりするかもしれません。
すると、人々は、あなたを深く信ずるようになり、贈り物や寄付などをするようになります。あなたが悟った人物で、優れた法話をするといった評判が立つかもしれません。
こうなると、マーラの第九の軍隊に屈服するのはいとも簡単です。人々に尊敬され、名誉を与えられることで、のぼせ上がってしまうのです。信奉者からもっと大きな、もっと好ましい寄付を引き出そうと、それとなく、あるいは露骨に働きかけるようになるかもしれません。自分は本当に他の人々よりも優れており、名声を得るのは当然だ、と思い込んでしまうかもしれません。
最初は、他者を助けたいという純粋な願いから法を説き、修行によって得られた智慧を分かち合おうとしていたのが、不誠実な野心に取って代わられてしまうのです。
「私はかなり偉大だ。有名にもなった。私くらい偉大な人間は、他にそういないんじゃないか。信者たちに車を寄付させることはできないだろうか?」などと考えるようになるかもしれません。
この第九軍が仕掛けてくる最初の軍勢は物質的な利得、すなわちあなたを尊敬し、信奉する人々からの贈り物です。そして、そうした人々があなたに捧げる尊敬が、第二の軍勢です。第三の軍勢は名声、評判です。
在家の場合も、マーラの第九軍はたいてい、瞑想修行で良い結果を得た修行者を攻撃します。信奉者の存在は必要ありません。
ごく平均的な修行者でさえ、リトリートでもっと大きな部屋に泊まりたいとか、修行のための新しい服が欲しいなどといった利得への願望に襲われます。修行していることを鼻にかけ、偉大な師として認められたいと思い始めるかもしれません。
修行がそれほど深まっていない人ほど、自分の修行の成果に関する自己欺瞞に陥りがちです。一度か二度、興味深い瞑想体験をしたことはあるが、深みがない、そんな人が自信過剰になってしまうのです。
そして、尊敬と賞賛を得たいあまり、時期尚早にダンマを教える立場になります。このような人々は、経典に則っておらず深い実践的な体験に裏付けられてもいない、偽りのヴィパッサナーを教えることになります。そのような教えは弟子たちに実害をもたらすでしょう。
真摯であること
この第九の軍隊に打ち克つには、精進するための動機が真摯なものでなければなりません。寄付や尊敬、名声を得たいという望みから修行を始めたとしたら、進歩はおぼつかないでしょう。動機が真摯なものであるか、折に触れて何度も再検証することがとても大事です。
純粋で真摯な動機をもって進歩を遂げたとしても、その後に利得への強欲に屈してしまったら、自己陶酔して怠惰になってしまいます。酔って怠惰になった人は、安らぎのない人生を送り、多くの苦しみに呑み込まれると言われています。こうした人は安っぽい利得で満足し、瞑想の目的を忘れ、悪行為をなし、健全さを育むことができなくなります。修行は後戻りしてしまうでしょう。
しかし、私たちは、苦しみには終わりがあり、ダンマの修行によってそこへ到達できると信じているはずです。
これこそが真摯な動機であり、私たちが、世俗的な利得や名声への強い欲望に陥るのを防いでくれます。生命とは絶えず生成し続けることです。
人生は生まれ出ずる苦痛に始まり、死に終わります。誕生と死という二つの出来事の間に、病に倒れ、事故に遭い、老いの苦しみを経験します。感情的な苦しみもあります。望むものが得られないこと、絶望、喪失感、嫌いな人や物事とかかわらざるを得ないこと・・・。
このような苦しみすべてから解放されるために、私たちは坐して瞑想し、ダンマの修行をします。それは出世間的な苦からの解放である涅槃で終わる道のりです。
仕事、学校、社会的な付き合い、快楽の追及などから離れて、リトリートに参加する人たちもいます。苦しみを終わらせることが可能であると信じているからです。
実際、煩悩をなくすべく精進するための場所であれば、どこでもリトリートと見なしてよいのです。たとえリビングの片隅にしつらえた瞑想用の一角であっても。そこに向かうあなたは、pabbajita(パッバジタ:出家者)なのです。パーリ語で「煩悩をなくすために俗世間から出離した者」を意味する言葉です。
なぜ、煩悩をなくしたいと思うのでしょうか?煩悩とはすなわち心の汚れであり、人を苦しめ、抑圧するとてつもない力です。煩悩は、焼きつくし、責めたて、苦しめる炎にたとえることができます。
煩悩が生じると、それは人を焼き焦がします。疲労困憊し、責め立てられ、苦悩を味わうことになります。煩悩に良いことなど何一つとしてないのです。
三種類の煩悩
煩悩には三種類あります。悪行為による煩悩、妄想による煩悩、そして随眠煩悩です。
悪行為による煩悩は、基本的な戒律を守れなくなるときに生じるものです。すなわち、殺生、盗み、邪な性行為、嘘、飲酒などです。
二番目の妄想による煩悩は、もう少し捉えにくいものです。表向きには何も非道徳的な行為をしていなくとも、心の中で、他の生命を殺して破壊したい、傷つけたい、身体的あるいはその他の方法で危害を加えたいという願望に取り憑かれているのです。他人の財産を盗みたい、人々を操りたい、人を騙してでも欲しいものを手に入れたい、などという妄想的願望で心がいっぱいになります。
このような妄想を経験したことがある人なら、それがたいへん苦痛に満ちた状態であることが分かるはずです。妄想という煩悩を制御できなくなると、人は何らかの形で他の生命を傷つけることになるでしょう。
随眠煩悩は、通常は表に現れません。いつもは隠れていて、条件が整うと無力な心を攻撃します。随眠煩悩は眠っている人のようなものです。目が覚めると心が動き始めます。これが妄想の煩悩が生じた状態。そして寝床から起き上がって日常の活動を始める。これが、妄想の煩悩から悪行為の煩悩への移行に相当します。
これら三つの煩悩の様相は、マッチ棒にたとえることもできます。マッチ棒の先端に付いた燐は随眠煩悩。マッチを擦って生じた炎は妄想の煩悩。炎を不注意に扱ったために山火事が起きればこれが悪行為の煩悩です。
煩悩の炎を消し止める
真摯な態度で戒(sīla:シーラ)、定(samādhi:サマーディ)、慧(paññā:パンニャー)を修すれば、三種の煩悩すべてを克服し、消し去り、捨て去ることができます。戒は悪行為の煩悩を退け、定は妄想の煩悩を抑え、智慧は悪行為や妄想の原因となる随眠煩悩を根絶します。このように修行すれば、新たな種類の幸福を得ることができます。
戒を守ることで、官能的快楽に代わって、真摯な行いや徳行がもたらす幸福が得られます。道徳的な人は悪行為の煩悩がないため、他の人に比べて純粋で清潔な、至福に満ちた人生を送ります。
第一章で述べた五つの基本となる戒律を守ることこそ、私たちにとっての戒の修行です。より一般的には、八正道のうちの道徳のグループに属する、正行、正語、正命に従うことです。これらはみな、他者や自己を傷つけないことを基本とします。
現実の世界で真に清らかな行いを貫くことなど可能なのだろうかといぶかる人もいるでしょう。もちろん可能ですとも!
もっとも、リトリート中の方が戒を守ることはずっと容易です。シンプルな環境で誘惑が最小限に抑えられているからです。
皆さんが基本的な五戒を守るだけでなく、さらに進んだ修行をしたいと考えている場合は、リトリートが有利です。出家者のようにたくさんの戒律を守らなければならない場合はなおさらです。リトリートでは、困難な修行も達成しやすくなるのです。
行為の清浄は第一段階に過ぎません。より徹底して煩悩を消し去るためには、内的な修行が必要です。妄想の煩悩は定(samādhi:サマーディ)で克服することができます。すなわち、正しい努力(正精進)、正しい気づき(正念)、正しい集中(正定)からなる八正道のうちの集中のグループです。
注意を逸らすことなく、一瞬一瞬に生じる対象にラベリングし、気づきを入れるためには、絶えまなく粘り強い努力が必要です。こうした努力を、俗世間的な環境で維持することは困難です。
瞬間瞬間に絶え間なく続く努力、気づき、そして集中。これによって妄想の煩悩を心に寄せ付けずにいることができます。心が瞑想の対象に入り込み、散乱することなくそこに留まっていれば、妄想の煩悩が生じるチャンスはありません。一瞬でも集中が途切れれば別です。これらの煩悩から解放されると、耐え難い煩悩から解放されたことによる静寂の至福がもたらされます。
これが“寂静の楽”(upasama sukha:ウパサマスカ)として知られる心の状態です。心は、渇望、強欲、怒り、動揺から解放されます。一度この幸福を知ると、官能的快楽に勝るものであることが分かります。そして、この幸福を得るために官能的快楽を捨て去ってもよいと考えるようになるのです。
しかし、これで満足するのはまだ早い。さらに優れた幸福があるのです。
一歩進むと、智慧の修行が可能となります。智慧が生じた瞬間、随眠煩悩は消え去ります。永久に消し去ることもできるでしょう。気づきが、エネルギーや集中などの関連要素と共に十分に発達すると、人は心と物の本質を極めて直観的に理解し始めます。
洞察の連続的段階を自然な形で進むにつれ、八正道のうちの智慧のグループに属する正見と正思惟が達成され始めます。洞察が現れるたびに随眠煩悩が消えていきます。段階的な洞察の発達を経て、煩悩が永久に滅尽した聖なる道の意識を獲得できる可能性があります。
かくして、修行が深まると煩悩による苦痛は減り、ついには永久に消え去ることでしょう。
そうなれば、利得、尊敬、名声などは、ごく自然にあなたのものとなります。しかし、あなたがそれらに捕らわれることはありません。これらは、聖なる目標や修行に身を捧げることに比べたら、つまらぬことに見えるでしょう。
真摯な人は、道徳的基盤の増強を決して止めません。利得と名声を適切な方法で利用して、修行を続けます。
第十軍:自己の賞賛と他者の蔑視
私たちは皆、苦という事実にある程度は気づいています。苦は誕生においても、生きることにおいても、死に際しても存在しています。
人生における苦痛に満ちた経験がきっかけで、苦しみを克服し、自由と平穏の中で生きたいと願うことがよくあります。
おそらく、あなた自身もこのような願い、信念、もしくは確信をもって、瞑想修行に興味を持たれたのではないでしょうか。
しかしながら、修行そのものから生じる産物が、この根本的な目標を土台から崩してしまう可能性があります。利得、尊敬、名声がいかに解脱の障害になり得るかを、これまで見てきました。
マーラの第十の軍隊である自己賞賛と他者の蔑視も、これに密接に関連する問題であり、解脱の障害となり得るものです。これはむしろレベルの高い瞑想者が直面する戦いです。
修行がいくらか進んだときなどに、人はしばしば自己賞賛の罠にはまります。例えば戒律が遵守できるようになったときなど、自信過剰になり、周囲を見回してこんなふうに言うのです。
「何だあの人は。戒律を守れていない。私ほど敬虔ではないし、清らかでもない」
こうなったらもはや、マーラの第十軍にやられたということです。この最後の軍は、おそらく最も恐るべき敵です。
ブッダの時代に、このマーラの第十軍の影響を受けて、ブッダを殺そうとした男さえいました。デーヴァダッタ(Devadatta)です。彼は自分が獲得した神通力、禅定、ブッダの弟子としての地位などを鼻にかけるようになりました。
しかし、破壊的な考えに取り憑かれたときには、気づきもなく、この軍に対して全く無防備だったのです。
敬虔な人生の真髄
他者を蔑視することなく、自我を肥大させることもなく、ただ自分の清らかさに満足することは可能です。
ここでは、比喩を用いて説明すると分かりやすいかと思います。
貴重な木材が一本あって、最も価値が高いのがその芯の部分だったとします。この木を、ブッダが説かれた戒、定、慧という聖なる生き方になぞらえることができます。
断面を見ると、木の幹は、価値ある芯の部分、その周りの木質組織、樹皮の内側の部分、そして薄くて硬い外側の樹皮からできていることが分かります。さらに木には、枝や実などもついています。
聖なる生き方は、戒、定、慧からなります。道果の獲得、涅槃の経験も含まれます。神通力もあります。ヴィパッサナーの洞察によって現実の本質を見抜く力を神通力に含めてもいいかもしれません。そして修行を通じて手に入ってくる利得、尊敬、名声があります。
何か大事な目的のために木の芯の部分が必要で、ある人が森に入りました。大きくて立派なこの木を見つけ、枝をすべて切り落として家に持ち帰ります。しかし、結局、枝葉は役に立ちません。この人は利得と名声に満足する人のようなものです。
別のある人は、木から外側の薄い樹皮だけを剥いで持ち帰るかもしれません。この人は戒を守ることで満足して、それ以上、心を育てようとしない修行者のようなものです。
三番目の、修行者はもう少し知的なタイプです。彼は道徳が修行の道の最終到達点ではなく、さらなる心の開発が必要であることを心得ています。この修行者は何らかの形の瞑想を熱心に修行します。
心を一点に集中できるようになり、最高だと感じます。心は静かに満ち足りて、至福と歓喜でいっぱいになります。ジャーナ(禅定)、すなわち深い集中状態への没入さえマスターするかもしれません。すると、こんな考えが浮かびます。
「おお、最高の気分だ。だが、隣の人は相変わらず落ち着きがない」
この修行者は、自分はヴィパッサナーと聖なる生き方の真髄を獲得したのだと感じています。しかし、実際はマーラの第十軍に攻撃されただけなのです。木の芯に到達することなく、樹皮の内側の部分で満足しているようなものです。
もっと野心的な別の修行者は、神通力を開発しようと心に決めます。神通力を得たこの修行者は鼻高々です。そして、こうした新たな力を操ることが面白くなってきます。そしてこのように考えるかもしれません。
「わあ、これはすごい。ダンマの真髄に違いない。誰にもできるわけではない。あそこにいる女性はすぐ鼻の先に何がいるか見えないだろう。神々と地獄の住人たちがいるのに」
マーラの第十の軍隊から逃れないと、神通力に夢中になり、健全な心を育むことを怠るようになります。こうした修行者の人生は大変な苦しみを伴ったものになってしまうでしょう。
神通力は、人を真の解放へと導くものではありません。現代においても超常的な能力を身につけた一部の人間を多くの人が崇めます。どういうわけか、ほんのちょっとした神通力を見せるだけで人々の信仰を得ることができるようです。
実はブッダの時代も同じでした。実際、ある凡夫がブッダに近づき、神通力を見せて教えを広めてはどうかと提案したことがありました。神通力を持つ弟子全員を動員して、人々に奇跡を見せるように命じたら良かろうと言うのです。
「人々は本当に感銘を受けますよ」とその凡夫は言いました。
「そうすれば、多くの信者を得られるでしょう」
ブッダは断りました。凡夫は三度この提案を繰り返しましたが、三度とも断られました。最後にブッダは言いました。
「凡夫よ、神通力には三つの種類あります。一つは、空を飛んだり、地中に潜ったり、その他の超人的な離れ業を行う力です。二番目は、他者の心を読むカです。誰かを捕まえて『これこれの日に、このようなことを考え、このようなことをしに出かけましたね』などと語りかけるのです。確かに人々は、たいそう感銘を受けることでしょう。
しかし、第三の神通力があります。人を導く神通力です。
この力を使って、こう語りかけるのです。
『あなたはこれこれの行動をしましたがそれは善くありません。不健全で、未熟で、あなたや他の人たちの幸福につながりません。その行いを止めて、健全な行いを育むように修行しなさい。そして今から私が教える通りに瞑想しなさい』
他者を正道に導くこの力こそが、最も重要な神通力です」
「凡夫よ、ヴィパッサナーを信じる人々に最初の二つの神通力を示しても、彼らの信が崩れることはないでしょう。しかし、生まれつき信心深いわけではない人々がいます。彼らはこう言うでしょう。
『特別なことではないね。他にも同じようなことをする宗派や宗教体系を知っている。マントラや別の秘伝の修行で同じような力を得ることができる』
こういう人たちは、私の教えを誤解するでしょう」
「他者を導くことができる三番日の神通力が最も善いのです、凡夫よ。この力を持つ者は、『これは善くないことだから行ってはならない。善き言葉と善き行いを育むようにしなさい。これが、煩悩にまみれた心を浄化する方法です。涅槃の至福に到達し、あらゆる苦しみから人生を解放する方法です』と言えるのです。凡夫よ、これこそが最高の神通力です」
神通力に関心があるなら、ぜひ頑張って手に入れてみてください。神通力は本質ではありませんが、ヴィパッサナー瞑想の修行と矛盾はしません。あなたを止める者はだれもいないし、達成すれば、他の人がそれを嘲笑することはまずできません。
ただ神通力が教えの本質だと誤解することだけはしないでください。神通力を得たことで修行の道の完成に達したと信じる人々は、大きな思い違いをしています。
木の芯を手に入れようとしていたのに、その周囲の木質層に達しただけで満足しているようなものです。家に持ち帰ったら、何の役にも立たないと分かるでしょう。ですから、神通力を得た後も、修行を続けて、様々なヴィパッサナーの洞察とそれに続く道果を開発し、阿羅漢の悟りに達するまで頑張ってください。
気づきと集中が十分に開発されると、物事の本質を様々なレベルで見抜くヴィパッサナーの洞察が芽生えます。これもまた、神通力的な知識の一つと言えますが、道の終わりではありません。
ついには悟りの第一段階である預流道、すなわち聖者の流れに入った者の崇高なる意識を得るかもしれません。道心、すなわち最初の涅槃の経験により、いくつかの煩悩が根こそぎ取り去られます。
修行を続ければ果心も開発されます。この意識が生じると心は涅槃の至福に留まります。この解放の境地は時間に束縛されないと言われています。精進を押し進めていったんその境地に達すると、あとはいつでもそこに戻ることができます。
しかし、ブッダの教えが目指すものに比べれば、これらはまだまだ低いレベルの悟りです。それは完全なる悟り、最終的な解脱の意識を得て、すべての苦しみを根絶することなのです。
材木の比喩を語り終えた後で、ブッダはこう説かれました。
「私の教えの恩恵は、単に利得、尊敬、名声を得ることだけにとどまりません。私の教えの恩恵は、行いの清らかさ、禅定、神通力などを獲得するだけのものでもありません。私の教えの本質は煩悩からの完全なる解脱であり、いつでもそれを得ることができるのです」
あなた方が、力と、エネルギーと、勇気を振り絞ってマーラの十の軍隊に立ち向かい、決然たる慈悲の心ですべての軍勢を打ち負かし、様々なヴィパッサナーの洞察を経験できるように願っています。
あなた方が今生で少なくとも預流者の聖なる意識を獲得することができますように。そしてその後、最終的に苦しみから完全に解放されますように。
4.悟りの七つの要素(七覚支)
聖者になる
空を見つめるだけでは悟りを開くことはできません。経典を読んだり学んだり、あるいは考えたり、心に突然悟りの状態が現れるようにと願ったりしても、悟ることはできません。
悟りを得るためには必要条件があります。パーリ語ではbojjhanga(ボッジャンガ:覚支)、悟りの要素として知られており、七つあります。
bojjhangaは、「悟り」ないし「悟った人」を意味するbodhi(ボーディ)、そして原因となる要素を意味するanga(アンガ)を組み合わせた語です。
ですからbojjhanga とは悟った存在の原因要素、あるいは悟りの要因ということになります。
Bojjhangaの二番目の意味はパーリ語の語幹の別の意味に基づいています。bodhi(ボーディ、菩提)のもう一つの意味は四つの聖なる真理(四聖諦)を理解する智慧のことです。
すべてが苦であり、満たされることがないという真理、渇愛が苦しみと満ち足りなさの原因であるという真理、この苦しみを終わらせることができるという真理、そして苦しみの終焉に至る道、すなわち聖なる八正道という真理です。
anga(アンガ)のもう一つの意味は「一部」、もしくは「部分」です。よって、bojjhanga のもう一つの意味は「(智慧の中で)四聖諦を理解する部分」となります。
ヴィパッサナーを修行する者は皆、四聖諦をある程度理解するようになります。しかし四聖諦を真に理解するには、意識が変容する特別な瞬間が必要です。これは道の意識と呼ばれています。ヴィパッサナー修行の洞察が最高潮に達する瞬間の一つです。涅槃の経験もこれに含まれます。
涅槃を経験した修行者は四聖諦を探く知り、bojjhanga (覚支)を自らのものとしたと見なされます。そのような人は聖者と呼ばれます。このため覚支、すなわち悟りの要素は、聖者の特質の一部なのです。
悟りの要素は、sambojjhanga(サンボッジャンガ)としても知られています。接頭辞のsamは完全な、完璧な、正しい、真実の、という意味です。これは敬意を表し、強調するためのもので、語の意味に大きな違いはありません。
悟りの七つの要素、すなわち聖者の七つの特質とは、気づき、探求、努力、喜び、落ち着き、集中、そして囚われのない心です。
パーリ語ではsati(サティ:念)、dhammavicaya(ダンマヴィチャヤ:択法)、Viriya(ヴィリヤ:精進)、piti(ピーティー:喜)、passaddhi(パッサディー:軽安)、samadhi(サマーディー:定)、upekkha(ウペッカー:捨)となります。
この七つはヴィパッサナー実践のあらゆる段階で見られますが、洞察の発達段階でいえば、瞑想者が現象の生滅を観ることができる段階に達すると、極めて明瞭なものとなってくると言えるでしょう。
どのようにしたら自分の中にこれらの悟りの要素を培うことができるでしょうか。それは念処の瞑想によって可能となります。ブッダは説かれました。
「比丘たちよ、四つの気づきを休む事なく、繰り返し実践すれば、七覚支が自ずと、完全に開発されるだろう」
四つの気づきを実践するというのは、それを学んだり、それについて考えたり、それについての話を聞いたり、それについて議論したりすることではありません。
気づきの確立を可能にする四つの基盤について直接、自分の経験として知っていなければなりません。念処経にその四つが説かれています。
一番目は身体感覚。二番目は感受、すなわちそれぞれの経験に内在する苦、楽、不苦不楽という性質です。三番目は心と思考。四番目はその他すべての意識の対象、すなわち見たり、開いたり、味わったりして得られる感覚です。
ブッダはさらに、気づきの実践は途切れ途切れにではなく、絶え間無く、繰り返し行うべきだと説いています。これこそ私たちがヴィパッサナー瞑想でやろうとしていることです。
マハシ・セヤドーが開発し、指導したヴィパッサナー瞑想の伝統が目指すのは、七覚支を完全に培い、そしてついにはブッダの教えに沿って、聖なる道の意識を経験することです。
気づき:第一番目の悟りの要素
Sati(サティ:念)は第一番目の悟りの宴素です。サティの訳としては“mindfulness(気づき)”という言葉がよく使われています。
しかし、この言葉は受動的な印象があり、誤解を生む可能性があります。気づきはダイナミックに対象と直面するものでなければなりません。気づきは対象に飛びかかり、すべてをカバーし、内部へと分け入り、何一つ見逃してはならないと、私はリトリートで教えています。このような能動的なニュアンスを伝えるため、私はサティの訳語としてmindfulnessではなく、“observing power(観察力)”
を使うことがあります。
しかし、ここでは混乱を避けるため、一貫して「気づき」という言葉を使うことにします。でも皆さんはsatiがダイナミックな性質を持つべきものであることを忘れないでください。
気づきは、「性質」「働き」そして「顕れ」という三つの側面から理解することができます。これらは意識についての仏典であるアビダンマ(abhidhamma:論蔵)の中で心の諸要素を表現する際に用いられる伝統的なカテゴリーです。ここではこの三つの側面からそれぞれの悟りの要素を学んでいきたいと思います。
表面的ではないこと
気づきの「性質」とは表面的ではないことです。気づきは対象の中に深く分け入るものなのです。コルクを川に投げ入れれば、それは水面でひょいひょいと浮き沈みし、流れに従って下流に流れて行くだけです。
代わりに石を投げ入れると、それはすぐに川の床へ沈みます。同じように、気づきがあれば心は確実に対象の中へと深く沈み、表面をなぞるだけで通り過ぎてしまうようなことはありません。
例えば瞑想対象として腹部を観察しているとします。心が対象から離れてしまわないようしっかりと努力を続けるうち、腹部の膨らみ、縮みの過程に没入するようになるでしょう。
心がこの過程に分け入るにつれ、緊張、圧迫、動きなどの本質が理解できるようになるはずです。
対象を意識の中に留める
気づきの「働き」は対象を常に意識の中に留めることです。対象は忘れられたり、意識から消え去ったりすることはありません。気づきがあれば、生起する対象は忘れ去られることなくラベリングされます。
「表面的でないこと」そして「消えることがないこと」。すなわち気づきの「性質」と「働き」の側面が瞑想実践においてはっきりと出てくるためには、気づきの第三の要素に対する理解と実践が必要です。
気づきの「顕れ」の側面です。これが他の二つの側面をもたらし、発展させます。気づきの主要な「顕れ」とは「直面すること」です。心を直接対象に向かい合わせるということです。
対象と向かい合う
これはいわば、道を歩いていて、反対方向からやって来る旅人に出会い、向かい合うようなものです。瞑想している時、心はまさにそのように対象と出会わなければなりません。対象と直接対峙することでのみ、その気づきが生じるのです。
顔はその人の性格を表すといわれます。どんな人か知りたければ、その人の顔を注意深く観察することで、ある程度判断できるでしょう。このとき、顔に注意を払わず、彼もしくは彼女の体の他の部分に注意が逸れてしまったら、正確な判断はできません。
瞑想においても同様の、もしくはさらに鋭い注意力をもって対象を観察しなければなりません。対象をくまなく子細に観察することによってのみ、その本質を知ることができるのです。初めて見る顔であれば、まずすばやく全体的に把握します。
そして、さらに注意深く観察することで、眉毛、眼、唇などの細部をとらえられるようになります。まずは顔全体を観察してから、細部の情報が入ってくるのです。
同様に、腹部の「膨らみ、縮み」を観察している時は、その過程全体を観ることから始めます。まず心を腹部の「膨らみ、縮み」に向き合わせます。これがうまくいくようになると、さらに対象を子細に観ることができるようになります。努力しなくても細部が向こうから現れてくるようです。
「膨らみ、縮み」の中に、緊張感、圧迫感、熱さ、冷たさ、動きなど様々な感覚があることに気づくようになります。
繰り返し対象に直面することで、瞑想者の努力は実を結ぶようになるでしょう。気づきが働き、観察対象にしっかりと据えられます。気づきは逸れることなく、対象から意識が外れることはなくなります。
対象がするりと抜け落ちてしまったり、消えまってしまったり、心ここにあらずで忘れられてしまったりすることはありません。気づきのバリアーが張られてしまえば、煩悩はもはや侵入することができません。
気づきを十分に持続することができれば、瞑想者は煩悩のない、すばらしい心の清浄を見出すことができます。煩悩からの防御は、気づきの「顕れ」のもう一つの側面なのです。
気づきが絶え間なく、繰り返し働くと智慧が生じます。心と身体の本質についての洞察が生じます。腹部の「膨らみ、縮み」というセンセーションの真のありようを経験し、さらには自分の中に生じる様々な身体的/精神的現象の一つ一つについて、その本質を理解するようになるのです。
四聖帝(四つの聖なる真理)を見出す
瞑想者は、すべての身体と心の現象は「苦」という共通の性質を持つことを直接観ることができるかもしれません。それこそが、第一番目の聖なる真理です。
四聖諦の第一番目を見出す時、残りの三つの真理も見出されます。経典にもそう書かれていますし、自分自身で経験することができます。心や身体の現象が生じた瞬間に気づきがあれば、渇愛が生じることはなくなります。
このように渇愛を捨てることで、聖なる真理の第二番目が見出されます。渇愛こそ苦しみの根源であり、渇愛が無ければ、苦しみも消え去ります。
聖なる真理の三番目である苦しみの止滅は、無明や他の煩悩が抜け落ち、止んだ時に達成されます。これらのことは気づきと智慧があれば、その瞬間瞬間に生じていきます。
そして聖なる真理の四番目を見出すことは、すなわち八正道の要素を開発することです。
八正道は瞬間瞬間の気づきと同時進行で開発されていきます。八正道については次章で詳しく説明することにします。
というわけで、あるレベルにおいては、瞑想者に気づきと智慧が生じていれば、いつでも聖なる真理を見出していると言うことができます。先に述べたbojjhanga(ボッジャンガ:覚支)の二つの定義を思い出して下さい。
気づきは、現実の本質に対する洞察を含む意識の一部、すなわち悟りの智慧の一部なのです。それは四聖諦を知る者の心のうちに存在します。それゆえ悟りの要素、「覚支」と呼ばれるのです。
気づきが気づきを呼ぶ
気づきをもたらすのは、何よりも気づきそのものです。もちろん、瞑想を始めたばかりの頃の弱い気づきと、より高い修行段階に到達してからの、悟りをもたらすことになる強い気づきには違いがあります。
しかし実のところ、気づきの開発は単純な「慣性」によるもので、ある瞬間の気づきが次の瞬間の気づきをもたらすのです。
気づきを開発するためのさらなる四つの方法
注釈書には気づきを開発、強化し、「覚支」という名にふさわしいものにするための方法がさらに四つ挙げられています。
①気づきと明瞭な理解
第一番目はsatisampajanna(サティサンバジャンニャ:念正知)。通常、「気づきと明瞭な理解」と訳されます。Sati(サティ:念)は坐して行う正式な瞑想中に中心対象やその他の対象を観察する際に生じる気づきのことです。
Sampajanna(サンバジャンニャ:正知)は「明瞭な理解」。より広い意味での気づきを指した言葉です。歩く、伸ばす、かがむ、向きを変える、片側を見る、など、日常生活で行うすべての活動に対する気づきです。
②気づきの無い人を避ける
悟りの要素としての気づきを育てる二番目の方法は、気づきの無い人から離れることです。あなたが気づきを絶やさないように最善を尽くしているとしても、気づきの無い人とのくどくどとした議論に巻き込まれてしまったら、すぐに気づきが消えてしまうであろうことは想像に難くないでしょう。
③気づきのある友を持つ
気づきを培う三番目の方法は、気づきのある人と付き合うことです。
そのような人はあなたのやる気を呼び覚ましてくれるはずです。気づきが大切にされている環境でそのような人たちとともに過ごせば、あなた自身の気づきを育て、深めることができます。
④気づきを心の習慣にする
四番目の方法は、自然と気づきを働かせるような心の傾向をつくることです。そのためには気づきが最優先事項であることを常に意識し、どのような状況においてもそこに心を戻すよう注意し続けるのです。
これは極めて重要なアプローチです。忘れっぽさや、注意散漫をなくす感覚が身につきます。そして気づきを深めることにつながらない活動を出来る限り避けるようにします。
この世にはそうした活動が無数にあることは、皆さんよくご存じのことと思いますが・・・。
瞑想者として求められる仕事はただ一つ。それは現在の瞬間に起こっていることに気づくことです。
集中リトリートでは、人付き合いや読書、書き物などは脇へ置いておくべきです。経典さえ読んではいけません。食事に関しては、習慣的なパターンに陥らないよう、特に注意する必要があります。食べるときは、時と場所、そして食べ物の量や種類が、本当に必要不可欠か常に考えるようにしましょう。もし必要でなければ、そのパターンを避けるようにします。
探究:第二番目の悟りの要素
心は無明の闇に覆われています。そして洞察や智慧が生じるやいなや闇に光が差します。この先は物理的/心的現象を明らかにし、心はそれをはっきり見ることができるようになります。
暗い部屋の中で懐中電灯を与えられたように、部屋の中に何があるか見ることができるようになります。
悟りの二番目の要素はそのようなイメージにたとえられるでしょう。パーリ語ではdhamma vicaya sambojjhanga(ダンマヴィチャヤサンボッジャンガ:択法覚支)、英語ではinvestigation(探究)と呼ばれています。
“探求”という言葉については説明を加えておかなければなりません。瞑想では、探究は思考によって行われるのではありません。それは現象の特質を見分ける直観的な識別作用であり、洞察の一種です。
Vicaya(ヴイチャヤ)はふつう「探求」と訳されますが、「智慧」や「洞察」も意味しています。したがってヴィパッサナー瞑想においては、何も明らかにしない探究などというものはありません。Vicaya があるということは、探究と洞察が共に生じるということです。それらは同じものなのです。
では、何を探求するのでしょうか?何を見抜くのでしょうか?ダンマ(dhamma:法)を観るのです。ダンマは多くの意味を持つ言葉です。そして、自分自身で体験できるものです。ふつう「ダンマ」という言葉を使うときは、心的/物質的な現象のことを言います。
また、そうした現象のあり樣を決定する法則を意味することもあります。Dhammaと大文字で書く場合はブッダの教えを指します。ブッダはダンマの本質を悟って、人々が自分と同じ道を進む手助けをされました。
注釈書によれば、探究についていう場合、ダンマにはもう一つ具体的な意味があります。それは、それぞれの対象に特有の状態や性質、そして個々の対象が他の対象と共有する性質を意味します。こうした固有の特質や共通の特質が、瞑想修行の中で明らかになってゆくものなのです。
ダンマ(法)の本質を知る
知的理解ではなく、直観的洞察によってダンマの本質を知ること。これが探求の特徴です。
闇を追い払う
探究の働きは闇を追い払うことです。択法(dhamma vicaya:ダンマヴィチャヤ)が生じると、気づきの光によって観察対象が照らし出されるので、心は対象の性質を観察してその本質を見抜くことができるようになります。さらに高次の探求は、闇の覆いを完全に取り去る働きを持ち、涅槃を洞察することを可能にしてくれます。このように、探究は瞑想修行の中で大変重要な要素なのです。これが弱い、あるいは無いとしたら問題です。
混乱を静める
真っ暗な部屋へ入ると、さまざまな疑いが頭をよぎるはずです。
「つまずいて転ぶんじゃないだろうか?向こうずねを打つかもしれない。壁にぶつかるかも・・・」
部屋の中にどのような物があり、それがどこにあるかわからないので心は混乱します。
同じように、択法(dhammavicaya)を欠いた修行者は混乱したカオス状態にあり、無数の疑いでいっぱいになっています。
「人は存在するのか、しないのか?自我はあるのか、ないのか?私は“個”なのか?魂はあるのか?霊は存在するのか?」
あなたもまたこのような疑いに悩まされてきたのではないでしょうか。おそらく無常・苦・無我の教えにも疑いを待ったことでしょう。
「すべてが無常であるというのは確かだろうか?満足をあたえてくれるものもあるのではないだろうか?」
「自己の本質は見つかっていないだけで存在するのではないだろうか?」
涅槃などというものは指導者たちが作り上げたおとぎ話でしかないと感じることがあるかもしれません。
探求が生じれば混乱は消散します。択法覚支(dhamma vicaya sambojjhanga)が生じるとすべてが明るく照らしだされ、心は何があるのかを明瞭に観察します。
心と物質の現象の本質をはっきりと観ることができるようになったあなたは、もはや壁にぶつかるのではないかと心配することはありません。無常・不満足性(苦)・無我はあなたにとって明らかなこととなります。ついには、涅槃の本質に到達し、涅槃の実在を疑う必要はなくなるでしょう。
究極の真理
探求によって私たちはparamattha dhamma(パラマッタダンマ)、究極の真理を知ることができます。これはすなわち概念を介さずに直接対象を経験するということです。究極の真理は三つあります。物理的現象、心的現象、そして涅槃です。
物理的現象は、地・水・火・風という四大要素からなります。それぞれの要素は固有の件質を持っています。
今、「性質を持っている」と言いましたが、これはすなわち「そのようなものとして経験される」ということです。私たちはこの四大要素をそれぞれセンセーションとして自分自身の身体で経験するからです。
“地”の要素に固有の特徴は堅さです。“水”の要素は流動性と結合という特性を持ちます。“火”の要素の特徴は温度、すなわち熱さと冷たさです。空気あるいは“風”の要素には引き締まる、張り詰める、緊張する、突き通すなどの特徴と、さらに動きという動的な様相があります。
心の現象もまた独特の特徴を持ちます。たとえば、心あるいは意識には対象を知るという特徴があります。心所の一つであるphassa(パッサ:触〉は、衝突という特徴を持ちます。
今ここで、腹部の膨らみ、縮みに注意を向けてみてください。気づきがあればそれが複数の感覚から成り立っていることが分かると思います。引き締まる感じ、張り詰める感じ、圧迫、動き、これらはすべて風の要素の現れです。熱さ、冷たさという火の要素を感じることもあるでしょう。
こうしたセンセーションは心の対象です。あなたはそのダンマ(法)を探求します。あなたがその経験を直接知覚し、それぞれのセンセーションに対する明確な気づきがあれば、択法(dhammavicaya:ダンマヴィチャヤ)があるといえます。
探求によって、ダンマ(法)のさらに別の側面を洞察することもできます。腹部の膨らみ、縮みを観察することで、そこに二つの独立した過程が生じていることに自ずと気づくでしょう。
一つは身体の現象、すなわち緊張や動きです。もう一つは意識、つまり身体の現象に気づいてラベリングする心です。
これは、物事の本質に対する洞察の一つですが、瞑想を続けていると、さらに別の洞察が生じます。
あらゆる対象におけるダンマ(法)には無常、苦、無我という共通の性質があることが分かります。探求によって、物質的/心的対象のすべてに普遍的な性質があることを理解するようになるのです。
無常、苦、無我に対するこのような洞察が熟すると智慧は涅槃に到達することができるようになります。その場合はダンマ(法)という言葉は涅槃を指すので、択法は涅槃へと向かう識別の洞察という意味にもなります。
涅槃は傑出しており、私たちが知覚できる現象とは共通点が全くありません。涅槃には独自の特別な性質があるのです。涅槃は不変であり、永遠であり、苦しみがなく、至福をもたらします。
涅槃はanatta(アナッタ:無我)、すなわち非自己であると言われます。これは他の対象と同じです。しかし、涅槃が持つ非自己という性質は通常の現象におけるものとは異なり、苦しみや無常に依拠しません。
そうではなく、至福と恒久に基づいているのです。心が涅槃に至ると、択法によってこの区別が明らかになります。
択法はダンマ(法)を探求し識別する洞察であり、私たちを涅槃へと導き、さらに涅槃をはっきりと見ることを可能にしてくれるものなのです。
探求の因となるのは自然に生じる洞察
どうしたらこの探求という悟りの要素を生じさせることができるのでしょうか。ブッダによれば、探求の因となるのはただ一つ、自然に生じる洞察としての直接知覚です。
このような洞察を得るためには気づきを働かせなければなりません。生じたものすべてに、その本質を射抜くような気づきを入れる必要があります。
そうすれば、心は現象の本質に対する洞察を得ることができます。そのためには賢明なる注意力、適切な注意力が必要です。
気づきを持って心を対象に向けると、最初の洞察、すなわち直接知覚が生じます。すると探求という悟りの要素が生じ、それが因となってさらなる洞察が順に生じていきます。まるで幼稚園に入った子どもが、順調に高校や大学へと進み、ついには卒業するようなものです。
探求を育むさらなる七つの方法
注釈書には悟りの要素としての探求を生じさせるために役立つ七つの方法が記されています。
①ダンマ(法)と瞑想修行について質問すること
一つ日は、ダンマ(法)と瞑想修行について質問することです。これはダンマを知っている人と話をすることを意味します。
西洋人はこみ入った質問をすることに慣れているので、この最初の方法を実行するのは容易いでしょう。これは西洋人の長所で、智慧の開発へとつながります。
②清潔
二つ日の方法は、内と外の基盤を清潔に保つ、ということです。内と外の基盤とは、身体と周囲の環境を指しています。内の基盤、つまり身体を清潔に保つというのは定期的に沐浴し、髪や爪の手入れをし、腸内環境を整え便秘にならないようにすること。
外の基盤を清潔に保つというのは、清潔でこざっぱりとした衣服を身につけ、居所を掃き、埃を払い、片付けることを意味します。これは快活で澄んだ心をつくるのに役立ちます。汚れや乱雑なものを見ると心の混乱が生じやすくなります。
しかし環境が清潔であれば心は明るく澄んできます。これは智慧の開発にとって理想的な心の状態です。
③バランスのとれた心
探求を生じさせるための三つ目の方法は、心を制御する五つの能力(五根)のバランスをとることです。すなわち確信(信)、智慧(慧)、気づき(念)、努力(勤)、集中(定)のことで、これらについては以前の章で詳しく取り上げました。
五根のうちの四つ、智慧と確信、努力と集中はそれぞれ対をなします。これらの対のバランスが、根本的な部分で修行を左右します。
確信が智慧よりも強いと、行き過ぎた信仰心に我を忘れるようになり、修行の妨げとなります。反対に知識や知性が過剰になると、心は巧妙で狡猾になり、結果として自分自身をさまざまな方法で欺くようになり、真理を見失います。
努力と集中のバランスは次のようなものです。熱狂的に努力しすぎると、心は興奮してしまい、観察対象に正しく集中することができません。対象から滑り落ちた心はふらふらとさまよい、欲求不満になります。
一方、過度の集中は怠惰と眠気をもたらす可能性があります。心が定まり、対象に容易く集中できるように感じられることで、緊張が解けてくつろいでしまうのです。気づけば居眠りしているかもしれません。
瞑想における根(能力)のバランスは、指導者が弟子を正しく尊くためにしっかり理解しておかなければならないことの一つです。
バランスを保つため、そしてバランスが失われたときにそれを取り戻すための最も基本的な方法は、対になっていない根である「気づき」を強めることです。
④~⑤愚かな人を避け、賢い人と交友すること
四番目と五番目の方法は、愚かな人を避け、賢い人と付き合うことです。賢い人とはどのような人でしょうか。経典について深く学んでいる人もいるでしょうし、物事を明晰に考え抜くことができる人もいるでしょう。
このような人たちと付き合えば、理論的な知識を増やし、哲学的な姿勢を育むことになるでしょう。これは決して悪いことではありません。
しかしながら、書物から学べることを超えた知識と智慧を与えてくれる、別の種類の賢人たちがいます。そのような賢人は最低でも瞑想修行の経験があり、すべての現象の生滅に対する洞察の段階に達していることが必要だと、経典では説かれています。
もしこの段階に達していなければ、瞑想の指導などできないことは言うまでもありません。なぜならそのような人が弟子を持っても、択法を生じさせることはできないからです。
⑥深遠な真理Iこついて深く考えること
探求のための六番目の方法は、ダンマ(法)について深く考えることです。考えることを勧めるのは矛盾しているように思われるかもしれませんが、これはヴィパッサナーの見地から物理的/心的現象について熟考する、ということです。
たとえば五蘊、四大要素、五根、そしですべてが無我であることなどを思惟するのです。
⑦すべてを捧げること
探求を生じさせるための最後の大切な方法。それは、この悟りの要素の開発に全身全霊を捧げることです。いついかなる時も、探求に心を傾け、直接的かつ直観的な洞察を心がけるべきです。
経験を理論化したり知的に理解したりする必要はありません。ただ瞑想を実践してください。そうすればあなた自身の心と身体を直接的に経験することができるでしょう。
勇気ある努力:第三番目の悟りの要素
七覚支(悟りの要素)の第三番目はviriya(ヴィリヤ:精進)です。これは努力、つまり心を粘り強く観察対象に向け続けるためのエネルギーのことです。
パーリ語で、viriyaはviranam bhavo(ヴィラーナン・バヴォー)、すなわち「英雄的な人々の状態」を意味します。この言葉から、修行する上で努力というものが、どのような質を持ち、どのように体験されるかが分かります。それは勇気を伴ったものであるべきなのです。
熱心に刻苦勉励する人は、どんな分野でも英雄的な達成を果たす可能性を持っています。そのような人に英雄的な資質を与えているのは、“努力”そのものです。
そのような人は、勇気ある努力によって恐れることなく前に進んで行きます。なすべきことを行う上で出遭う困難にひるむことはありません。
注釈書では、努力とは、苦しみや困難に直面したときに不屈の忍耐を持つことだとされています。努力とは、何が起ころうと歯を食いしばって最後までやり遂げる能力のことなのです。
瞑想修行が始まった瞬間から忍耐と受容が必要です。リトリートに参加したら、日常生活の快適な習慣や趣味などのことは忘れなければなりません。小さな部屋の中、間に合わせの布団の上で短い睡眠を取ることになります。
目覚めれば、何時間もじっと動かずに足を組んで坐る日々です。修行そのものの厳しさに加え、普段の快適な生活を恋しく思う、心の不満にも忍耐強く向き合わなければなりません。
そのうえ、実際に瞑想修行をする際は、必ず痛みなどある程度の身体的な拒否反応があります。例えば一時間、脚を組んでじっと坐ろうと試みたとします。
15分経ったところで、いまいましい蚊がやって来てあなたを刺し、痒みを感じます。さらに首は少し強張り、足がじわじわと痺れてきます。
あなたはイライラし始めます。贅沢な生活に慣れているからです。あなたは普段、あまりにも身体を甘やかし、過保護に扱っています。ほんのわずかな不快を感じただけで、姿勢を変えることが当たり前になっているのです。
しかし今やあなたの身体は苦しみと直面しています。そして身体が苦しむがゆえに、あなたは苦しむのです。
不快な感覚は驚くほど心を疲弊させ、衰えさせます。大きな誘惑に駆られることになるでしょう。
「足をほんの少しだけ動かせば、もっと集中できるはずだ」
心はこんな言い訳でいっぱいになります。降参するのは時間の問題です。
辛抱強く耐えること
困難に直面した時には、それにじっと耐えるという勇気ある努力が必要となります。精進のエネルギーを高めることで、心は力を得て、辛抱強く痛みに耐えることができるようになります。精進には、困難な状況に陥った時に、心を一新して強靭に保つ力があります。
エネルギーを高めるには、自分を勇気づけたり、法友や瞑想指導者の励ましを得るのも良いでしょう。エネルギーが補充されれば、心は再び張り詰め、強さを取り戻します。
疲れ切った心の支え
注釈書によれば、精進には“支える”働きがあります。痛みにさらされて萎れてしまった心を支えるのです。
今にも崩れそうな、古いあばら家を想像してみてください。ちょっと風が吹いただけで倒れてしまいそうです。でも、角材で補強すれば、倒れずに立ち続けられます。
同じように、痛みで弱ってしまった心を勇気ある努力で支えれば、新鮮な気持ちで、注意力を維持して修行を続けることができます。すでにこのような経験をした人もいるのではないでしょうか。
持病がある修行者は健康な人のように修行を続けるのが難しいかもしれません。何度も何度も病気の症状に向き合うことで、心と身体のエネルギーを消耗してしまいます。これは重荷であり、意欲を殺がれます。
ですから、持病のある修行者がインタビューで絶望と落胆を訴えることも珍しくありません。修行が進んでいないと感じるのです。何度も何度も同じ壁にぶつかるのですから、すべてが無駄であると感じられます。もうあきらめてしまいたい、下山したい、瞑想をやめてしまいたい、といった考えが浮かびます。
法話や励ましの言葉でこのような苦境から救いだせることもあります。修行者の顔に生気が戻り、また一日二日の間は修行を続けられるようになります。
勇気づけ、励ますことはとても大切です。自分自身でそうするのはもちろん、修行が行き詰った時は、再び軌道に乗るように誰かに背中を押してもらうのです。
勇気ある心:チッター比丘尼の物語
精進は恐れを知らず、大胆で、勇気に満ちた心として現れます。この特質を説明する実例として、ブッダの時代に生きたチッターという名の比丘尼の話があります。
ある日、チッターは心と身体についてまわる苦しみについて思い巡らせ、魂を駆り立てられる思いにとらわれました。
そして苦しみから解放されることを願って、俗世間を捨て、比丘尼の衣をまといました。不幸にもチッターは持病を患っており、何の前触れもなく発作が起こることがありました。元気だったかと思うと、突然具合が悪くなってしまうのです。
しかし、彼女は意志の強い女性でした。苦しみからの解放を求め、決してあきらめようとはしませんでした。調子の良いときは常に熱心に修行に励み、具合が悪くなればペースを落として修行を続けました。
時には大きく修行が進むこともありましたが、持病の発作が起こると、また後退してしまうという繰り返しでした。
他の比丘尼たちはチッターが無理し過ぎているのではないかと心配しました。健康に気遣って少し修行のペースを落としてはどうかと忠告しましたが、チッターは耳を貸しませんでした。来る日も来る日もずっと瞑想し続けました。
やがて年を取り、杖に頼らなければ歩き回れなくなりました。身体は衰え、骨と皮ばかりとなりましたが、心はまだ屈強で、強靭でした。
ある日、チッターはこうした身体の障害を我慢し続けることにうんざりし、修行のためにすべてを捧げようと決心しました。
「今日、私は身体のことは忘れて全力を尽くす。私が死ぬか、煩悩が滅ぼされるか、どちらかだ」と、心に決めたのです。
チッターは杖をついて丘を登り始めました。しっかりと気づきを入れながら一歩一歩、登って行きました。
年老いて、痩せこけ、身体も衰えていたので、時には這って登らなければなりませんでした。しかし、心は勇敢で不屈でした。チッターは断固として法(ダンマ)にすべてを捧げる覚悟でいたのです。丘の頂上に向かう一歩一歩、あるいはじりじりと這い進む間じゅう、気づきを入れ続けました。
頂上に着いた時は、疲労困憊していましたが、それでも気づきを絶やすことはありませんでした。
チッターは再び決意を固めました。一切の煩悩を断ち切るか、死ぬかだ、と。彼女はあらん限りの力で修行を続け、まさにその日、目標に到達したのです。
大いなる喜びに満たされ、丘を降りる時には力強い足取りで、心は澄み切っていました。丘を這い上がって行ったときのチッターとはまったく別人です。
生気を取り戻し、壮健で、曇りのない穏やかな表情を湛えていました。
他の比丘尼たちはチッターを見てとても驚きました。こんなにも変わるなんてどんな奇跡が起きたのかと尋ねました。チッターが事の次第を告げると、比丘尼たちは畏敬と賞賛の念に打たれました。
「修行せずだらだらと百年生きながらえるよりも、瞑想修行に励んで一日を過ごす方がはるかに優れている」とブッダは説いています。ビジネスであれ、政治であれ、社会的活動であれ、教育であれ、リーダーとなるのは常に骨身を惜しまず働く人たちです。
熱心に働けばどんな分野でもその頂点に立てるでしょう。これは人生の真実です。瞑想における精進の役割もまた然り。瞑想修行にはとてつもないエネルギーが必要です。
連続した気づきを確立し、一瞬たりとも切らさないようにするのは、並大抵のことではありません。そこには、怠惰が入り込む余地などないのです。
心の汚れを蒸発させる熱
ブッダは心のエネルギーを熱の一種、ātāpa(アー夕ーパ、熱)として語りました。エネルギーで満たされた心は熱くなります。この熱が心の汚れを蒸発させるのです。
煩悩は湿気のようなものです。エネルギーのない心はすぐにじっとりと湿って重くなります。しかし強い精進があれば、その熱で煩悩は心に触れる前に蒸発してしまいます。
心に精進のエネルギーが満ちると、精神的な汚れは心に触れるどころか近づくことさえできません。不善なものは攻撃することができなくなるのです。
熱とはすなわち分子レベルでの振動です。赤く熱した鉄の棒の中の分子は激しく振動しています。そして柔軟性が増して加工することができるようになります。瞑想もこれと同じです。精進が強ければ、心は振動し、機敏になります。
エネルギーに満ちた心は対象から対象へと素早く軽やかにジャンプしていきます。
そして、現象に触れた心は、熱によってそれらが固定したものであるという幻想を溶かしてしまいます。その結果、現象が生滅するものであることが明らかになります。
修行が軌道に乗ると、精進が自ずと持続するようになるでしょう。鉄の棒を火から出しても長い間、赤く熱を持ったままなのと同じです。
煩悩が遠ざかるとともに、透明さと明るさが心に生じます。心は起こっている事を純粋かつ明瞭に知覚します。心は鋭敏になり、生じている現象の細部まで強い興味をもって把握するようになります。
このエネルギーに満ちた気づきにより、心は観察対象に深く入り込み、散乱したり分散したりすることなくそこに止まることができます。
気づきと集中が確立されると、明晰な直観的知覚、すなわち智慧が現れる下地ができます。
たゆまぬ精進を重ねていくと、気づき、集中、智慧という健全な要素が生じ、強さを増し、それに伴って他の健全で幸福な状態も生じてきます。
明噺さと鋭敏さを増した心は、真理の本質へより深く入り込み始めます。
怠惰がもたらす損失、そして解放の喜び
精進する代わりにだらだらと怠けてしまうと、注意力が鈍り有害な心の状態が忍び込みます。
焦点がぼやけると、修行者は心が健全な状態にあるかどうか気にしなくなります。自分が努力しなくても、惰性で修行が進むかのように思い始めるかもしれません。
この類いの大胆さ、怠けからくる図々しさは徐々に修行者を蝕んで、修行を遅らせてしまいます。
心は濡れそぼって重くなり、ネガティブで不健全な傾向でいっぱいになります。雨にさらされてカビが生えてしまった毛布のように・・・。
煩悩は心を官能的快楽の世界に引きずり込むのが常です。このことは特に欲望の一つの形であるrāga(ラーガ:貪欲)について当てはまります。
勇気ある努力を欠いた人々は為すすべもなくrāgaの虜になり、何度も何度も官能的快楽の世界に浸ってしまいます。
しかし精進を心に注入することで、この有害なエネルギーの場から逃れることができます。心は無重力の宇宙空間へ脱出することに成功したロケットのように軽くなります。
欲望や嫌悪という重力から解放された心は、歓喜と落ち着きに満ち、好ましい自由な心の状態で一杯になります。この喜びは自らの精進の炎を通してしか得ることができないものです。
皆さんはすでにこのような解放感を体験されたかもしれません。例えば、瞑想をしている最中に、誰かが近くでクッキーを焼いていたとします。おいしそうな香りが漂ってきて、あなたの鼻に届きます。
真の気づきがあれば、この匂いを一つの対象としてただラベリングするだけです。心地よいものであることは分かっていますが、愛着や執着は生じません。
もちろん、坐を解いて立ち上がり、クッキーを一つもらおうとなどという衝動も生じません。不快な対象が生じた場合も同じことです。嫌悪は生じず、混乱や妄想も立ち上がってきません。
このように、心と物質の性質をはっきりと観察すれば、不善な要素にコントロールされてしまうことはありません。
瞑想者にとって、食事は非常に厄介な領域です。特にリトリート中はそうです。食に対する貪欲はもちろん、それとは別に、瞑想者は時に食べ物に対して強い嫌悪感を抱くことがあります。真に気づきのある状態になると、舌に触れる食べ物は全く味気ないものだという、衝撃的な発見をすることがあります。
さらに修行が深まると、一部の瞑想者は食べ物をひどく不快なものと感じ始め、一口かニ口食べるのがやっとという状態になります。あるいは、瞑想で強い喜びを感じると、それが心の栄養となって、食欲が全くなくなってしまうこともあります。
どちらのタイプの瞑想者も、こうした初期の反応を克服して、エネルギーを維持するのに十分な食物を食べるように努めなければなりません。
体に栄養分が欠乏すれば、体力もスタミナもなくなり、最終的には瞑想修行を行う基盤そのものが崩れてしまいます。
ヴィリヤ(精進)によって得られるものを夢見ても、実際に修行に励まない人は、嫌悪の中でのたうちまわることになると言われています。そのような人をパーリ語では
kusīta(クシータ:怠惰)と呼びます。
俗世間でも、働きもせず、自分や家族を養おうとしない人は他人から軽蔑されます。怠け者と呼ばれたり、様々な形で侮辱されたりすることになるでしょう。
kusīta は特に、言葉で虐げられる人のことを指します。修行でも同じです。エネルギーは不可欠なものです。勇気を奮い起こして困難な経験に立ち向かおうとせず、すくみあがっているようでは、「怖気づいている」と言われてしまうでしょう。そのような人には勇気も、いかなる意味での大胆さもありません。
怠け者は惨めで苦しみに満ちた生活を送ることになります。他人から見下されるだけでなく、精進が弱いために煩悩が簡単に立ち上がってしまうのです。
そして三種類の誤った考えに襲われることになります。渇愛、破壊、そして残酷さです。こうした心の状態はそれだけで重苦しく、悲痛で、不快です。怠惰な人は惛沈・睡眠にも簡単にやられてしまいます。これもまた不快な状態の一つです。それだけでなく、精進のエネルギーがなければ、基本的な戒律さえ守ることが難しくなるでしょう。
戒を破れば、戒清浄から得られるものや喜びを失うという代償を払うことになります。
怠惰は瞑想修行に深刻な痛手を与えます。物事の本質を見抜き、心をより高い段階へと成長させる機会を奪ってしまうのです。このためブッダは、怠惰な人は多くの有益なものを失う、と説きました。
持続性
精進が高まって悟りの要素となるためには、持続性がなければなりません。
つまり、精進が中断したり滞ったりしない、という意味です。逆に、どんどん増え続けるのです。持続的な精進により、心は良くない思考から守られます。
あふれるエネルギーにより、惛沈・睡眠が生じることはできません。持戒は強固なものとなり、集中と洞察が永続するような感じを受けます。精進によって心は明るく澄みわたり、活発でエネルギーに満ちています。
瞑想修行において大きな達成を経験すれば、良い精進についてはっきりと理解できるでしょう。例えば激しい痛みに襲われたのに、反応したり打ちのめされたりすることなく観察し、その本質を見抜くことができたら、心は大きな満足を得て、自らの英雄的達成を実感するでしょう。
心が困難に屈することなく、それを乗り越えて勝利できたのは、精進のおかげだと気づくはずです。
智慧のある注意力が精進を生む
精進、あるいはエネルギーがどのように生じるかについて、ブッダは簡潔に説いています。
それによれば、智慧のある注意力をもって考察することで、精進の三つの要素を喚起することができるとされています。
エネルギーの段階:煩悩の世界を離れる
ブッダが説いた三つの精進の要素とは、立ち上げの精進、解放の精進、持続の精進です。
立ち上げの精進は、リトリートなどで修行を開始する時に必要になります。最初、心は新しい環境に圧倒され、俗世間に残してきたあらゆるものに強い未練を感じるでしょう。瞑想修行の道に一歩踏み出すためには、まず瞑想がもたらす恩恵に思いを馳せます。
そして実際に気づきを入れるための努力を始めます。修行を始めたばかりであれば、ごく基本的な瞑想対象を指定されます。中心対象だけを観察し、注意が逸れてしまったときだけ他の対象に気づきを入れるように、と指導されます。
この単純ですが根本的な取り組みが、第一番目の精進、立ち上げの精進を構成します。これは、いわばロケットの発射時、地面から離れる段階です。
中心対象に一定時間気づいていられるようになったとしても、まだ必ずしも順風満帆とは言えません。痛みや眠気などの障害が生じてきます。気がつけば痛み、焦り、食欲、眠気、疑いの餌食になっています。中心対象に止まることができるようになり、ある程度の落ち着きと安らぎを味わうことができたと思ったところへ、困難な対象が突然襲って来るのです。こうなると、心は落胆し、怠惰になりがちです。
立ち上げの精進だけではもはや十分ではありません。痛みと眠気に立ち向かい、障害を乗り越えるためには新たなエネルギーが必要です。
この第二段階のエネルギーは、解放のエネルギーです。ロケットが地球の大気圏から飛び出すために一段目を切り離し、二段目に点火するのに似ています。そのためには指導者からの激励が役立つかもしれません。
あるいは自分で、解放のエネルギーを呼び覚ますべき理由についてよく考えてみるのもいいでしょう。こうした外からと内からの励ましを武器として、断固として痛みを観察する努力をするのです。困難な状況を克服することができれば、心は奮い立ち、エネルギーが沸き上がります。意識に飛び込んでくるあらゆるものと向き合う気構えができるでしょう。
例えば、背中の痛みを克服したり、襲ってくる眠気をよく観察して、それが小さな雲のように消えてしまうのを体験したりすれば、心は生気を取り戻し、明るく澄みわたります。エネルギーが高揚するのを感じるかもしれません。
これが解放のエネルギーを直接経験するということです。
その後、修行はスムーズに進み、心は満足を感じるかもしれません。ここで指導者が突然、課題を追加しても驚かないでください。
例えば身体の複数の接触点に対して注意を払うことなどです。これは第三段階のエネルギーである持続のエネルギーを促すための指導です。持続のエネルギーは修行を深め、目標に近づくために必要です。
ロケットが三段目に点火することによって、地球の重力場から脱出するのに似ています。持続のエネルギーが培われることによって、修行者は洞察の段階を進み始めます。
忘れてはならないのは、たとえ修行中に一時的な幸福感を味わったとしても、俗世間に戻ればすぐに消えてしまう、ということです。
もっと深いレベルの平穏に到達しなければならないのです。この点を自分自身に照らして考えてみてください。あなたはなんのために修行するのですか?
少なくとも悟りの第一段階である預流果、すなわち聖者の道に入った者となり、危険で苦痛を伴う悪趣へ転生しないようにすることを目標とすべきだと思います。
そして、目標が何であれ、達成するまでは決して途中で満足すべきではありません。そのためには、弱まったり滞ったりすることのない、持続する精進を培う必要があります。
持続する精進はどんどん強さを増し、ついにはあなたを目的地へと運んでくれます。このように十分に発達した精進のことをパーリ語でpaggahitaviriya(パッガヒタヴィリヤ:策励精進)と呼びます。
そして、修行が完成するとき、“達成の精進”と呼ばれる第四の段階が現れます。
これによって修行者は感覚的快楽の世界の重力を完全に振り切って、涅槃という自由の境地へ至ります。
それがどのようなものなのか興味がありませんか?
精進すれば自分で確かめることができるでしょう。
精進を生じさせる11の方法
①悲惨な状態を思い起こす
まず、怠惰であれば陥る可能性があるapāya(アパーヤ:苦界)の悲惨さ、恐ろしさを思い起こしてみることです。apa(アパ)は「欠落している」という意味です。
一方、aya(アヤ)とは幸福をもたらす善業のことです。ここでいう幸福とは、人間、神々、梵天が経験することのできる幸福、涅槃で味わう幸福を指しています。
修行を怠ると、不善業を重ねるしかない世界に転生するかもしれません。不幸な転生の結果として行くことになる世界はいくつかあります。
その中で、畜生道は最も容易に観察することができるので、その存在を受け入れやすいでしょう。陸海空に生息する動物たちのことを考えみてください。彼らに善業が、どんな咎もない行いが可能でしょうか。
動物は妄想の靄の中で生きています。とてつもなく厚い無明と無知に覆われているのです。
例えば昆虫は、どちらかといえば機械に近い。遺伝子のプログラムに従って、決められた行動を実行していくだけです。そこには選択、学習、判別などはほとんど見られません。ほとんどの動物の精神の働きは、繁殖と生存にかかわることに限定されます。
動物の世界の役割分担は、信じられないくらい単純です。食う側か食われる側か、もしくはその両方かです。強い者のみが生き残る過酷な世界。そのような無慈悲な条件下で生きていかなければならない存在の心に生じる恐怖とパラノイア(疑心暗鬼、妄想)を想像してみてください。
他の動物の歯牙にかかって死んでいく生命の苦悩と苦痛を想像してみてください。大きな苦痛を伴う死を迎えるしかない動物が、どうして善き生への再生を得られるでしょうか。死ぬ時の心の状態が、どのような転生をするかを決定します。動物が、恐怖に満ちた生から自由になることなどできるでしょうか。
動物が寛容になることは可能でしょうか。道徳的になれるでしょうか。戒律を守ることができるでしょうか。瞑想という崇高で厳しい仕事については言うに及ばないでしょう。動物が自分の心を律し、成長させていくことなど、どうやったらできるのでしょうか?不善な行いをするしか選択肢のない世界に生きることは、考えるだけでも恐ろしいことです。
このことを考えれば、あなたは奮起することでしょう。
「私は今、修行者だ。これはチャンスなのだ。だらだらと怠けて時間を無駄にできようか。来生で畜生になってしまったら、精進という悟りの要素を開発することなどできないだろう。今こそ奮闘努力する時なのだ!」と。
②精進によって得られるものを思い起こす
精進を生じさせる二番目の方法は、そのエネルギーによって得られるものを思い起こすことです。そのいくつかはすでに述べたとおりです。あなたはダンマ、すなわちブッダの教えに触れるという貴重なチャンスを得ました。
そして比類ないダンマの世界に入ったからには、ブッダの教えの真髄に通じる道を歩く機会を無駄にすべきではないのです。俗世を超越した精神状態を手に入れ、聖者の四つの段階の道果を得、涅槃に達することができるのです。あなた自身の修行によって、苦を克服することができるのです。
たとえ、今生において苦から完全に解脱することができなくても、最低限、預流者(聖者の道に入った者)にならなければ、大変な損失です。預流者になれば、悲惨な世界に再生することはなくなるのですから。
しかしながら、この道を歩むことは、誰にでもできることではありません。修行者には、大変な勇気と努力が必要です。並外れた人間でなければなりません。不断の努力によってのみ、この偉大な目標に到達できるのです。ブッダの教えの真髄へと導くこの道を歩くチャンスを無駄にしてはなりません。このことに思い至れば、力とやる気がわき起こり、さらに熱心に修行に打ち込むことができるでしょう。
③聖者たちを思い起こす
三番日に、この聖なる道を歩んだ崇高な先達たちに思いを馳せてみましょう。
この道は寂れた横道などではありません。いにしえの過去仏たち、独覚たち、偉大な仏弟子たち、阿羅漢たち・・・すべての聖者たちがこの道を歩いたのです。
この気高き道を共に歩みたいのなら、尊厳をもって自己を高め、精進しなければなりません。臆病者や怠け者の居場所はありません。この道は英雄的な人々のためにあるのです。
この道を歩んだ先達たちは、負債や心の問題から逃げ出すためにこの世を捨てた不適応者の集まりではありません。
ブッダたち、聖者たちは、裕福で愛情豊かな家の出身である場合も多かったのです。もし在家の生活を続けたならば、間違いなく楽しい人生を送れたことでしょう。彼らはあえてそれを選ばず、俗世間的な生活の空しさを見て、一般的な官能的快楽を超えた、より大きな幸福と満足を求めたのです。
また、低い身分の出身で、社会システムや支配者による抑圧や、病気などと闘ってきた結果、根本的な解決を求めるようになった人々もいます。俗世間的な方法で苦しみを和らげたり、自分たちが受けた不正に対して復讐したりするのではなく、苦しみそのものを根こそぎなくしてしまいたい、と考えたのです。彼らは上流階級出身の修行者たちに加わり、共に解脱の道を目指しました。
ブッダは、真の崇高さとは内なる清浄さによるものであり、社会階級によるものではないとおっしゃいました。すべての過去仏たち、そして気高き仏弟子たちは、神聖な探求心と、より高くより偉大な幸福への願望を持っていました。それゆえに彼らは家を捨て、涅槃へと導くこの道を歩んだのです。
これは聖なる道であり、落伍者が気まぐれに歩く道ではないのです。
自分自身にこう言い聞かせましょう。
「卓越した人々がこの道を歩んできた。私も彼らに恥じない存在であるように努力をしなければならない。ここで自堕落になることはできない。細心の注意をもって、臆することなく、歩んでいこう。この聖なる道を歩む傑出した人々、偉大なる家族の一員となるチャンスを得たのだ。自分が修行する機会を得られたことを祝福すべきだ。私と同じような人々がこの道を歩んで、さまざまな段階の悟りを得た。私もまた、同じように悟りを得ることができるのだ」
このように思うことで、精進がわき起こり、あなたを涅槃という目標に導いてくれることでしょう。
④サポートに対する感謝
精進を生じさせるための四番目の方法は、食事や出家生活の必需品を布施していただいたことに対する敬意と感謝です。
出家者ならば、在家信者の布施に対する敬意を意味します。施しを受け取った時はもちろんですが、それ以外の時でも、修行を続けることができるのは他の人々の寛大さのおかげである、と常に自覚し敬意を払うのです。
在家の修行者も、さまざまな形で他人からの援助に依存しています。両親や友人は、あなたが集中リトリートに参加できるように経済的に援助したり、仕事の面倒をみてくれたりしているでしょう。たとえ、リトリートの費用を自分で払ったのであっても、修行を支えるためにたくさんの物が提供されています。
あなたには雨風をしのぐ建物が用意されており、水や電気も備わっています。ボランティアの人たちが食事をつくり、身の回りの世話をしてくれます。あなたに何の負い目もない人々が、善意と深い慈愛の心から与えてくれたサービスに、深い敬意と感謝を持つべきです。
自分自身にこう言い聞かせましょう。
「私を支えてくれている人々の善意に応えるためにできる限り一生懸命修行をしなければいけない。そうすることが、誠実な支援者たちが示してくれた善意に応え、恩返しをすることになる。彼らの努力が無駄になりませんように。私は、与えられたものを気づきをもって使い、煩悩を少しずつ刈り取り、やがては根絶やしにしよう。そうすれば、施しをしてくれた人たちの徳行は、それにふさわしい徳のある結果をもたらすことになるだろう」
ブッダは、比丘(僧)や比丘尼(尼僧)の秩序を保つための規律を定めました。その中の一つとして、善意ある在家信者からの施しは受け取ってもよいことになっています。これは賛沢な生活をするためではありません。
比丘や比丘尼が自身の体を適切に管理し、煩悩を取り除く努力を続けるために必要な基本的条件を整えることができるよう、生活必需品を受け取り使用することを許したのです。援助を受けることで修行者はすべての時間を戒、定、慧の実践に捧げることができます。
そして、最終的にすべての苦しみからの解脱を達成することができるのです。
支援してくれる人々の善意に応える方法は、熱心に修行に励むことしかないのだということを思い起こしましょう。こう考えると、あなたの力強い気づきは、瞑想修行中に受けた援助に対する感謝の気持ちの表現でもあるのです。
⑤聖なる遺産を受け継ぐ
精進を生じさせる五番目の方法は、聖なる遺産を受け継いだことを思い起こすことです。聖者の遺産は、七つの非物質的な特質からなります。
すなわち、信心(saddhā :サッダー、信)、道徳(sīla :シーラ、戒)。そして、道徳的な恥(hiri:ヒリ、慚)と恐れ(ottapa:オッタッパ、愧) ― 慚愧については、この本の最後の章で詳述しています。
法(ダンマ)の知識。寛容 ― 煩悩を諦めることは大いなる寛容さですし、他人に施すことも寛容さです。
そして最後は智慧 ― これはヴィパッサナー瞑想で得られる一連の洞察力、最終的に涅槃へと突き進む智慧のことです。
この遺産のすばらしいところは、七つとも物質ではないため、不滅であるという点です。この点が、例えばあなたが両親の死に際して受け取る遺産と対照的です。
その場合の遺産は、物質であるがゆえに、失われたり、壊れたり、朽ちたりします。さらに、物質的な遺産はさまざまな意味で満足を与えてくれないものです。手に入れた遺産をすぐに浪費する人もいます。手に入れたものが何の役にも立たない場合もあります。聖者の遺産は必ず利益をもたらしてくれます。受け継いだ者を守り、高めてくれます。死の門を越えて、その後の輪廻転生においても失われることはないのです。
俗世間では、手に負えない放蕩息子などは勘当されて、遺産を受け継ぐことができないことがありますね。ダンマ(法)の世界も同じです。
ブッダの教えに出会う機会を得ても、その後の修行において自堕落で怠慢であったなら、その人はこの七つの聖なる遺産を受け継ぐことができないでしょう。何があっても変わらぬ不屈の精進の力をそなえた人だけがこの崇高なる遺産を引き継ぐ資格があるのです。
すべての洞察の段階をクリアし、聖者の道の意識が絶頂に達したときになって、初めて精進の力を完全に発展させることができます。こうして発展した精進の力、涅槃を成就させる精進の力こそが、この聖なる遺産の恩恵をあますことなく受け取ることを可能にするのです。
皆さんの修行においても精進を完成きせるべく努力を続けることで、七つの特質は永久にあなたのものになるのです。このように思い起こせば、よりいっそう情熱を傾けて修行しようという気持ちがわき起こってくることでしょう。
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