月刊サティ!

読んでみました

2021年7月~12月  

内田樹著『日本辺境論』(新潮社、2009年)
  本書についてはすでに多くの紹介や感想文などが出されているので、屋上屋を重ねるようになってしまうが、「このような見方もあるのか!」と思ったこと、それから、これまで漠然としていたものを改めて理解するのによい事例が出されていることもあり、あえてここに取り上げてみた。
  著者は神戸女学院大学名誉教授(2018年現在)で幾多の著作もあり、ここで改めて紹介するまでもないと思う。本書は、:日本人は辺境人である、:辺境人の「学び」は効率がいい、:「機」の思想、:辺境人は日本語とともに、の4部から構成されている。
  は、辺境とは中華文明に対しての意味であるということから説明される。もそれぞれ興味深いが、私にとって最も印象的であり、「なるほど!」と思わせたのはこのであった。
  ここで語られるのは、中華に対して日本という辺境に住む人々は、新しいもの、すぐれたもの、学ぶべきものを外の世界に求め、「外来の知識の輸入と消化吸収に忙し」く、それを模倣し加工し改良するのは得意とするが、その結果、他国との比較でしか自分たちを語れなくなるという心情を作り出したということについてである。
  ある意味でそれは劣等感覚でもあって、ことさら意識しなくても、「日の本」という国名を名乗ること自体が<中華に対しての東の辺境である>という心情の表れだとする。そしてそれが、著者が言うところの「辺境人」の心の癖、パターンであって、例えば、漢字を「真名」とし、そこから作り出した表音文字を「仮名」と称するのもそのひとつとされる。
  古代における例として、「日出ずる所の天子・・・」云々は、うがった見方とは言いながら、著者は、「辺境」という立場を知らなかったふりをした、いわば逆手に取ったのではないかと推測している。また、中国への皇室の遷座という秀吉の誇大妄想も、まさにこの辺境という思考パターンそのものではないかという点は、なるほど十分あり得るのではないかと思わされる。
  実は本書を読みながら少々思いついたことがある。ここであえてそれらをあげてみたい。
  先ず、信長はどうだったかということが浮かんだ。おそらく辺境思考のパターンからみると異端者ではなかったか。では光秀はどうだったか?あるいは自らを「新皇」と名乗った平将門は・・・?当時の権力から見れば確かに「地方」ではあったが、しかし当時の「板東」の人々がその地を「地方」と考えていたかどうか。
  さらに考えていくと、辺境に位置するという感覚は、自覚の有無にかかわらず、それに対する反動も呼び起こしたのではないかとも思う。そのひとつがいわゆる「国学」で、そしてその感覚が極端に展開すると、日本が世界の文明の中心であったという偽書とか、あげくは漢字渡来以前に日本独自の「古代文字」があったという妄想までをも膨らませたのではないか。こんな連想が次々と浮かんだ。
  また、こんなことも思い出された。
  日清戦争の契機となった1894年に朝鮮半島で起きた農民戦争、いわゆる「東学党の乱」。3040万人が命を失ったと言われている。この「東学」という名称は西洋の学問に対して称えられたものであって、韓国ではこれは、「単なる農民反乱の域を超え、農民が主体となって侵略軍である日本軍と戦ったものなので、現在では甲午農民戦争と言われる」という。井上勝生著『明治日本の植民地支配-北海道から朝鮮へ-』岩波現代全書0112013年より)。
  井上勝生氏は当該書のなかで、「韓国の民主化運動では、東学と東学農民戟争の歴史の生きた記憶が人々を強く励ました」として、次のようなエピソードを紹介している。
  199810月、来日した金大中大統領が、日本の国会演説で、アジアの人権思想として朝鮮の東学をあげたのが、韓国での東学の高い評価をよく示している。金大統領は、アジアには自前の近代民主主義思想が生まれなかったという従来の考え方を真っ向から批判した。
  『アジアにも西欧に劣らない人権思想と国民主権の思想があり、そのような伝統もありました』
  孟子と釈迦の思想には、人間の尊厳性と平等が述べられており、『韓国にもそのような伝統があります』と断って東学を紹介した。
  東学という民族宗教の創始者たちは『人すなわち天なり(人乃天)』『人に仕えるに天の如くせよ(事人如天)』と教えています。こうした人権と国民主権の思想だけにとどまらず、それを裏付ける多くの制度もありました。ただ、近代民主主義
の制度を西欧が先に発見しただけであります』と」


  『日本辺境論』に戻ると、このような辺境思考のパターンは現代にも脈々と流れていると言う。それは他国との比較でしか自国を語れないというところにも現れる。
  たとえば、オバマ大統領の就任演説にはアメリカ建国の意義が見事に語られているのに比べ、その感想を求められた当時の日本の総理大臣は、「世界の一位と二位の経済大国が協力していくことが必要だ」というコメントを出したという。つまり、その時総理の頭に浮かんだのは、世界におけるランキング表だったということになる。この違いはどこから来るのか。それは自ら主体性を自覚しているか否かによると著者は言う。
  また先の敗戦について述べた日本軍の中枢にいた軍人たちの行動も、まさにこの思考パターンに沿ったものであったことを論証する。開戦に自分は反対だったと言葉では言うが、その意見をあくまで主張することはしない。あげく、「お前の気持ちがわかる」というような空気に染め上げられた結果として開戦に至ったのだと。つまりは外部からの干渉によってはじめて自分の行動を起こす。このような行動パターンは、個人レベル社会的レベルを問わず、それによって「被害者意識」から免れなくなってしまうと言うことだ。
  しかし、辺境にあるのはマイナスばかりではなく、プラスの部分も持っている。それはⅡで検討される日本人の「学びたがり屋」という分析、そしてⅣに述べられる日本語の特殊性についてである。

  Ⅱの「辺境人の『学び』は効率がいい」では、司馬遼太郎の小説で現在外国語で読めるのは3点しかないという例をあげ、「自国民を共扼している思考や感情の型から完全に自由な人間などいません」と言う。これは、思想や感覚はなかなかその国民以外には感知されにくいということであって、もちろん日本だけではないのだが。
  ただそのなかでも日本は、「われわれはこういう国だという名乗りから始まった国ではない」し、「日本人とはしかじかのものであるということについての国民的合意」もない。したがって、もちろん国旗も、国歌も、国号もなぜそれが選ばれたのか、それが決定された確固たる理由も意識されていないだけではなく、そもそも語られる必要性からして全く認められていないわけで、「そうなっているからそうなのだ」というほどの既成事実のようなものになっていることを語る。
  何を言いたいかというと、はっきりした目標や理念を柱として自分の意見やものごとを成り立たせているのではなく、何ごとについてもすべては他者との関係如何で自分の立ち位置が決まってくると言うわけだ。だから、「つねに他に規範を求めなければ、おのれの立つべき位置を決めることができない」し、自分が何を欲しているのかについても、他者のそれを「模倣することでしか知ることができない」のだと言い、それを著者は「虎の威を借る狐」に譬えている。
  ここで私が思い出したのは、伊丹十三と佐々木孝次(もと専修大学教授)との対談における次のような言葉だ。
  「佐々木:・・・日本人というのは相手が何もいわない限りどこまでも無秩序になるけれども、一旦相手に、これはどういうことか、と問い詰められると、それはこういう秩序に従ってこうやってると答えられない。しかし、われわれが無秩序だといっても、僕は、根本的に自己肯定的な、快の原則に従っていると思う。
  伊丹:つまりわれわれは自我というものを一貫して変わらぬもの、という方向に鍛えてこなかったわけでしょうね。日本人の唯一の一貫性というのは「相手との関係がすべて」ということでしょうが、相手との関係というものは当然クルクル変わるわけだから、日本人の一貫性はクルクル変わること、という奇妙なことになっちゃう。
  佐々木:すべては相手の出方次第。個人から国家まで、これはもう戦前から戦後まで一貫してるんで・・・」(『伊丹十三選集』第1巻「日本人よ!」岩波書店 2019年、より)
  しかし、実はこうしたことは悪いことばかりではなく、学びの意欲と方法という面ではそのよい面が働くと著者は言う。それが師弟関係であって、その関係は「本源的遅れを前提にしないとうまく機能しない」し、「その欠点は同時に、外来の知見に対する無防備なまでの開放性という形で代償されている」とも言っている。
  さらここでは、大学での講義の要点を記したいわゆるシラバスや研究論文発表の形式などについても、ネガティブな見解を述べる。それは、学ぶと言うことの本来のありかたについてである。もしあるものごとの意味や有用性についてはまだ不明であっても、それを学ぶことがいつかは重要な役割を果たすことがあるだろうと、「先駆的に確信する」ことから始まる、それが学ぶと言うことではないかというふうに。そして、今日のあらかじめ要点を伝える講義のやりかたと、本来の意味での「学ぶ」ということの二つは相容れないのではないかと主張する。このことは、今日の高等教育で「教養」が軽視されつつあることと通底するものがあると思われる。

  の「機」の思想。ここではまず、自分の無知と未熟とを自覚しながら己を超越した外部を構想できるのが宗教的寛容であるとされる。たしかに日本ほど宗教に寛容な文化は思いあたらない。神前結婚というやりかたもキリスト教のそれをまねて明治以降に考え出されたそうだし、神道、仏教、儒教、キリスト教その他の新興宗教等々、ともかくも共存が出来ているのは、一面では「いいかげん」に見えても、言い換えれば「良い加減」であるのかも知れない。しかし著者はこの宗教性を、「絶対的な信」という成立を妨げるものとしても捉えている。
  著者は次に「機」という概念を論じる。「自分のことを考えていると、そこに隙が出る」が、対象に心を止めることなく反応するその「完全な自由を成就した状態」が、澤庵禅師の言うところの「石火之機」なのだと言う。この部分は武道とは縁のなかった私には実感として理解しづらかった。(ちなみに本書の著者は武道家でもある)
  ただ、「天下無敵」という真の意味は「敵を作らないこと」というところはなるほどと思えたし、またこのことから、「老いや病や痛みを私の外部にあって私を攻撃するものととらえず、私の一部であり、つねに私とともに生きるものと考える」というのは、「あるがまま」「受け入れ」を基とするヴィパッサナーの認識の仕方と完全に重なっていると感じられた。
  さらに第Ⅲ部では、例えばある作業に供される専門の用具が身近にない時、手元にあるものを工夫したり加工したりして使用することや、いつか何かの役に立つかもしれないというような知のありかたを、学ぶ力と関連させて論じている。

IVの「辺境人は日本語と共に」で印象に残った論点をあげれば、「ぼく」「私」「おれ」「自分」等々の第一人称を相手との関係性によって使い分けるニュアンスは、外国語(特に英語)には翻訳で出来ないこと。さらに、「代名詞の選択によって書き手と読み手の間の関係が設定され」、それは、「発信者受信者のどちらが上位者か」を決定するという特徴があるということなどである。
  また、難読症は図形の認知にかかわる脳の疾患とし、日本語は図像である表意文字(漢字)と音声である表音文字(かな)を併用しているため、表意か表音の一方を使っている言語圏よりも難読症の割合が少ないのではないかと、データを示しながら述べている。
  かつて漢字を使いながらそれを廃止した国では、難読症はともかく、わずか2~3世代前に書かれた文献さえ特別に学ばない限り読めなくなってきている。もし日本で明治から大正、あるいは昭和初期の名作さえ読めない状態になったらどうなっただろうか。

  本書はこの他にも多くの論点がさまざまな例をあげつつ展開され、そのどれもが悲常に面白い。ただ、著者はつまるところ、「辺境」という所に位置し、その文化環境の中で生きる私たちは、そのネガティブな面も自覚しつつもむしろ積極的にポジティブな面を生かしていくべきではないか、そう主張しているように感じられた。そしてこれは「日本文化論」としての視点と方向性を示すものであって、そのスケールでの「気づき」による積極性を勧めているように思えた。(雅)

柳広司著『太平洋食堂』(小学館、2020年)

  「『目の前で苦しんでいる人から目を背けることは、どうしてもできん』
  山と川と海に囲まれた紀州・新宮。この地に誰からも愛された男がいた――。大石誠之助(享年43)
  (略)1904(明治37)、紀州・新宮に西洋の王様がかぶる王冠のような看板を掲げた一軒の食堂が開店した。『太平洋食堂』と名付けられたその食堂の主人は、『ドクトル(毒取る)さん』と呼ばれ、地元の人たちから慕われていた医師・大石誠之助。アメリカやシンガポール、インドなどに留学した経験を持つ誠之助は、戦争と差別を嫌い、常に貧しき人の側に立って行動する人だった。やがて幸徳秋水、堺利彦、森近運平らと交流を深めた誠之助は、主義者として国家から監視されるようになっていく――
  このように主人公が紹介されている本書は小説にはちがいない。むろん登場人物の会話には作者の創作もあるだろう。しかし、徹底して読み込まれた膨大な資料が縦横に駆使されていて、その台詞に違和感を感じさせない。
  主人公の理想とする社会主義とは。権力とは。日露戦争とは。足尾鉱毒事件とは。そして大逆事件。本書は学校の教科書で扱われてきた事柄の根っこを掘り下げていく。中学時代に「60年安保」に遭遇した世代として、読み始めてすぐに中江兆民、幸徳秋水、堺利彦、管野須賀子、大杉栄らが実名で出てきたことに「オッ!」となった。また、与謝野鉄幹が主人公と接点があったとか、北原白秋、吉井勇、茅野蕭々、若山牧水、木下杢太郎、佐藤春夫、あるいは新聞で消息を伝える記事を見たことのある荒畑寒村など、一世紀以上前の歴史がとても身近に感じられた。
  ネットのレビューにも概要がかなり書かれているので、ここでは特に印象深かった点について紹介していきたいと思う。
  著者は最後に、「20181月、大石誠之助を名誉市民とすることを決議した新宮市議会に敬意を表します」と結んでいる。ちなみに、202012月、高円寺にある「座・高円寺」で、主人公をモデルにした創作劇「太平洋食堂」が上演されるとあった。(122日「毎日新聞朝刊」による)
  余計なことかも知れないが、著者は人名を中心として難読の語にルビを振っている。なかでも「他人事」に(ひとごと)と振られていて大変好感を持てた。おそらく日常でも、「ガッツリ」などとは決して言わないものと勝手に想像している。
  先ず日露戦争について。著者は「日露戦争はもともと、日本国民の多くが望んで始めた戦争であった。日本政府は懸命に国民をなだめようとしたが、結局押し切られて戦争に突入した――少なくとも当時日本に滞在していた外国人たちはそう見ていたようだ」として、ドイツの医学者、エルウイン・フォン・ベルツの日記を紹介している。本稿では「岩波文庫版」から引用する。
  <新聞紙や政論家の主張に任せていたら、日本はとくの昔に宣戦を布告せざるをえなかったはずだ。だが幸い、傑出した桂内閣の下にあってすこぶる冷静である。政府は日本が海陸共に勝った場合ですら、得るところはほとんど失うところに等しいことを見抜いているようだ>(明治36915日)
  <日本の新聞の態度もまた厳罰に値するものといわねばならない。(略)交渉の時期は過ぎ去った、すべからく武器に物を言わすべし――と。しかしながら、勝ち戦であってさえその半面に、いかに困難な結果を伴うことがあるかの点には、一言も触れようとしない>(明治36925日)
  桂内閣が傑出していたかどうかは別として、やむなく戦いに踏み切ったというのは事実らしい。当時、国内で戦争反対を唱え続けたのは、一部のキリスト教徒と社会主義者だけだった。著者は誠之助が、「戦争が嫌いであったから社会主義者を名乗るようになった」のではないかと推測しているが、おそらくその背景には、アメリカに5年半、インドに医学のための1年有余の留学経験があるのではないかと思う。なにせ、日露戦争のまっただ中に“平和の海”を冠した「太平洋食堂」を開いたのだから。
  本書にはないが、日本の戦力が尽きかけていることを知る児玉源太郎が、奉天会戦ののちに内地へ帰り、伊藤博文や山本権兵衛らとともに政府を早期の講和へと導いたことは有名である。
  次は江戸時代のイメージについて。著者は徳川政権下の「封建的身分制度」を徹底的に批判する。
  著者は秀吉を例に上げ、「史書を播けば、室町末から江戸初期にかけて、この国の人々はむしろきわめて自由に職業や居留地を選んで生活していたことがわかる」としつつ、「武士階級などというものは、かつてこの国に存在しなかった」と言う。しかし、世が乱れて、「一部の農民が武装し、もしくは武装した他所者を雇うという事態」となったが、「戦国の世が終わり、世が平らかになると、武士(用心棒)の存在意義は失われ」、「『封建的身分制度』という、それまでありもしなかった物語をでっちあげた」としている。「『農民より武士の方が身分が上』などというのはそれまで誰も聞いたことがない話だった」と。
  たしかに、著者の述べるような現実はあったと思う。しかし、「『士』が一番、『農』が二番というような単純な話では」なく、江戸時代も後期になると「金上侍(かねあげざむらい)」という言葉が登場するように、武士の身分をお金で売る藩まで登場した」し、「困窮して身分を売った武士」や、「先祖代々の武家を廃業して越後屋を創業することで成功した人物もいる」。また、移動の自由は制限されていながらも、「中期以降は庶民の旅ブームが起こ」っていて、中でもお伊勢参りは人気で、「『伊勢講』という旅費の積み立て組織には1777年で440万人が加盟していた」という。
  だが一方で、18世紀の天明の大飢饉では全国的に100万人以上の人口減少を招いたとされ、「1783年秋から翌年春までに、弘前藩だけで10万人以上、八戸藩でも約3万人が飢饉の影響で命を落としたという」。
  また、「1721年に3128万人だった人口は、1822年になっても3191万人」と人口増加はストップし、その原因を「歴史人口学者の鬼頭宏は、都市が『人口調整装置』の『蟻地獄』であったと説明」しているが、それは、土地を増やせず長男にしか家を継がせられない農村から若者が出てきた都市が危険な場所であったことを意味しているという。つまり治安の面でもそうだし、定期的に流行した感染症によって身体を壊して命を落としたり、「都市へ方向に出た若者のうち、実に4割が方向の終わる前に死んでいたというデータもある」そうだ。(注)

  注:「『士』が一番」から「データもある」までは古市憲寿『絶対に挫折しない日本史』(新潮社)を参考にした。
  享保元年(1716)夏には江戸で熱病が大流行し1か月で8万人を超える死者、安政5年(1858)のコロリ(コレラのこと)の流行では江戸だけで3万人以上(人口比3%以上)が亡くなった。(以上今井秀和他『安政コロリ流行記』現代書館より)
  また他にも、
安政2年(1855)の大地震では70001万人(圧死者10万との説も)が、さらに明暦3年(1657)の大火では10万人以上、明和9年(1772)では15000人、文化3年(1806)の大火では1200人の死者が出たとされている。

  明治政府がことさら前の時代を暗黒の時代と貶めるような政策(廃仏毀釈など)を採ったこともあり、現在では二百数十年という長期にわたる平和、そして文化の成熟を評価する見解も多く出されている。しかしものごとには幾多の側面があるのが現実であり、いずれもたしかな裏付けが必要だろう。その点、戦後にある人物によって思いつかれた「江戸しぐさ」なる事実無根のフィクションが数年前にまことしやかに喧伝され、今でも一部によって信奉されているのは実に無責任な話と言わざるを得ない。
   たしかに宗教に関しても、一向一揆に代表される民衆の反乱を未然に防ぐため、新宗派の設立を認めないかわりに「寺請制度」を設けるという、アメとムチの政策によって安定がはかられた。身分だけではなく、住む場所も移動や移住を許されなかったし、それは武士であっても同様であった。平賀源内も他の藩には仕えないという条件で浪人を許されたそうだ。(なだいなだ『江戸狂歌』岩波書店より)
  つまり、「生まれた土地で死ぬこと」を義務づけられた人々が、その閉塞性を当たり前と思い込まされた時に統治体制は完成し、そのシステムは「相互監視」と「差別意識」の二つをもととし、人間存在への軽蔑を基礎とした唾棄すべき統治概念であったと著者は言う。

  政権が明治政府に交替した時点でこうした虚構は一掃すべきものとなり、天皇を戴いての「四民平等」が謳われた・・・はずだった。しかし、長く人々の意識下に刷り込まれた感覚は一朝一夕に拭い去られるものではない。庶民にとっては「殿様」が「陛下」に変わっただけで、「お上が存在しない社会」や「差別の廃止」など思いもよらなかった。私は明治11年生まれの祖母が「お上」という言葉を普通に使っていたことを思い出す。
  明治6年に起きた新政反対一揆の美作東北条郡32箇村の要求の中には、「五ヵ年貢米免除」「断髪従前通り」「徴兵廃止」「穢多従前通り」「屠牛の廃止」「田畑への桑草木の植え付け廃止」、そして「御政治向き、旧幕府に立ち戻り」があったという。(藤野裕子『民衆暴力』中公新書より)
  しかし、明治初期にアメリカに渡った者たちは、そこに<王が存在しない社会>があることを目のあたりにする。アメリカに滞在していたころ誠之助が携えていた手帳には、「・・・このくにには日本の旦那衆の如く横柄な者はなく、また日本の奉公人の如く不自由な者はいない」「王(支配者)なしでもこの社会はやっていける。それも、結構楽しくやっていける」といった覚え書きが残されているそうだ。
  次は社会主義について。
  著者はここで、明治40年の日刊『平民新聞』の「予は如何にして社会主義者となりし乎」という題に寄せられた回答のいくつかを紹介する。そして、「当時の人々の社会主義への理解がかいま見られて興味ぶかい」としているが、「かれらの文章を読み、話を聞くかぎりでは、何をもって社会主義とするのか、いよいよもってわからなくなる感じである」とも言っている。
  ただ注意すべきは、この時代、「民主主義」という言葉は国民主権を意味し、それは君主主権を否定する危険思想として取り締まりの対象だったことだ。吉野作造が「デモクラシー」の訳語として提唱した「民本主義」でさえ言葉狩りの対象となっていたという。つまり、当時は「社会主義」の方が「民主主義」より許容されていたので、著者は、「現在なら民主主義に含まれるべき概念も社会主義の名の下に表明されていて、混乱を招いたのは否めない」としている。
  ちなみに、中江兆民は発布された明治憲法全文に目を通した後、「ただ苦笑するのみ」であったという。社会契約論の紹介者である彼の目には、「国民を『天皇の臣民』と位置づけ、人権は天賦ではなく君主(天皇)から下賜されたもので、君主の意向で自由に制限することができる、と定めた憲法など、“失笑もの”以外の何物でもなかったのだろう」と著者は付言している。
  大石誠之助の場合は、幸徳秋水らと同様に、極端な貧富と格差の問題を少数の資本家(金持ち)と多数の労働者(貧乏人)の利益対立の構図で捉え、その上で階級闘争を支持している。なぜなら、目の前の飢えたる母子を救うにはそれが唯一の方法だと考えたからである。
  その結果誠之助は、「我々が社会改革のために階級闘争の手段を採るのは、やむを得ぬ次第である。我々はこの目的を達するまでは、博愛とか公共の利益とかいうようなことを、しばらく言葉の上に預けておき、貧乏人の利益のために金持ちの利益を犠牲にする民主政治というものを要求するものである」と宣言する。
  さらに彼は、「闘争などと言えばたちまちにして眉を寄せ、社会改良の方策としてそんな乱暴な策を用いる必要が本当にあるのか?温和な手段を用いて富者の義務心に呼びかけ、彼らを説得する方がよいのではないか、と言い出す人が必ず出てくる」と冷静に現状を分析し、その上でなお、「――けれども、それは駄目である」「――到底不可能である」と断言、「もし金持ちの心に爪の垢ほどの義務心でも起こり得るものとせば、彼らがまず自分から金持ちであることを辞めるのが第一の義務であろう。それができるならひとしおのお慰みであるが、我々の方ではそんなことを望むのは、あたかも盗まれた人が泥棒に対してお情けを願うようなものである。宗教的説教としてはやってみるのもよいが、政治的運動としては全然無意味な話で、まず当てにせずに待っているより外はない」と、明快に主張している。
  さらには、「――我々社会主義者が(無政府主義者の如き)暴力的手段を採らぬは、畢竟現社会の状況に照らし見て、それが得策と思うがゆえのみ。場合によっては実力行使も辞さない。少なくとも、その覚悟を示さなければ金持ち連中が既得権益を手放すはずがない。社会改革などできるわけがない」と。
  著者はこれを、「当時の社会を鑑みたリアリストとしての認識」であると評価している。
  また当時世間で、元帝国大学総長加藤弘之が学士院に提出した『吾国体と基督教』なる論文をきっかけに、国体をめぐる問題がとりざたされていたと言う。加藤弘之はこの論文で、日本の国体は「全く世界万国に絶えてない所の無比のものである」と主張したが、それに対して誠之助はあっさりと、「我が国体は世界中ほかに類がないから貴いとか、一番長く続いているから有り難いというような説を立てる者があるが、(略)そもそも過去や歴史を鼻にかける、広告するというのは、自信がない者がすることだ」と一蹴している。自国の文化に誇りを持つのは良いが、そもそもそれはお互い様だろう。日本礼賛の本やテレビが近頃やたらに目につくのは、むしろこちら側の問題を明らかにしているようにさえ感じられる。
  また本書では足尾銅山事件に一章をあてている。しかしここでは、後世に「亡国演鋭」として名を留める明治33217日の田中正造の帝国議会での演説の要点のみを紹介する。
  「民を殺すは、即ち国家を殺すことである。法を蔑ろにするのは、即ち国家を蔑ろにすることである。これらは皆、国を毀つ所業である。然るにいま、政府は財用を濫り、民を殺し、法を乱して事件に当たる。而して国の亡びざるなし。政府、これを如何とするかお答え頂き度く。右質問に及び候」
  「政府回答は、『質問の趣旨、その要領を得ず。以て答弁せず。 内閣総理大臣 山県有朋』と、文字どおり“木で鼻をくくった”ものであった」ため、田中正造は議員を辞職、天皇への直訴を試みることになった。
  さらに本書は幸徳秋水が訳したクロポトキンの『麺麹(パン)の略取』(発刊同時に発禁となった)を扱い、それをもとに、アナーキズムを次のように纏めている。
  「アナーキズムは日本語では一般に『無政府主義』と訳され、これが誤解のもととなっているが、本来は、国家という中央集権的な権力の枠組みにとらわれることなく、労働運動や婦人運動などの自律的な活動を通じて“世界市民相互の連帯可能性”を模索する政治思想だ。アナーキズムにおいて、暴力革命は必然ではない。アナーキストが暴力革命を支持するのは、あくまで暴力装置(軍や警察)を独占する強大な国家に対抗する手段としてだ。より有効な手段が他にある場合は、それを用いるべきである――」
  この『麺麹の略取』に関して著者は、幸徳秋水に次のように言わしめる。
  「政府の迫害を恐れて、有益な知識を世に広めることができない。そんな社会が、はたして文明国といえるでしょうか?私は、この国がだんだん野蛮に帰っていくようで、ときどき怖い気がします」
  当時は演説会での「弁士中止!」がまかり通る時代であったのだ。
  また、明治41年に発生した赤旗事件について、著者は原敬の日記から、「赤旗事件発生直後、山県有朋が『社会主義者取り締まりの不完全な旨』を天皇に上奏した」と記され、(略)「『山県の陰険は実に甚だしと云うべし』と、日記中、他に類を見ない激しい表現で山県有朋を非難して」おり、「さらに、『徳大寺(侍従長)も山県の処置を非難するの語気あり』と、山県の動きを不快かつ不自然に感じているのは自分だけではない、とわざわざ証言している」ことから、「原が、――この事件は何かいやな感じがする。と後世に伝えようとしたのは明らかである」と記している。
  ところで、山県は大正112183歳で亡くなり、9日には国葬が営まれたが、弔意を示す国民はほとんどいなかったという。東京日日新聞は、110日に亡くなった大隈重信の葬儀(国民葬)と比べ、「大隈候は国民葬。きのうふは〈民〉抜きの〈国葬〉で幄舎の中はガランドウの寂しさ」と報じている。
  また、当時東洋経済新報社の記者だった石橋湛山は、「先日大隈侯逝去の場合にも述べた如く世の中は新陳代謝だ。急激にはあらず、しかも絶えざる、停滞せざる新陳代謝があって、初めて社会は健全な発展をする。人は適当の時期に去り行くのも、また一の意義ある社会奉仕でなければならぬ」とし、山県が政治的に最後まで大きな力を振るったのは、「国家を憂うる至誠の結果」であり、「宮中某重大事件と称せらるるものの如きも、公は全く皇室を思い、国を思いてしたことと確信する」としつつも、「しかしいかに至誠から出で、いかに考えは正しくも、一人の者が、久しきにわたって絶大の権力を占むれは、弊害が起こる」と記している。(大正11211日『小評論』のコラム、『石橋湛山評論集』岩波文庫)
  ただ、嫌われ方にも信念が感じられるとの評価も最近ではあるようだ(筆者)。

  そして最後は捏造された「大逆事件」。
  明治の刑法には、本来誰にもわかるはずのない「未来」についての条文があった。それは次の文言である。
  第七十三条:天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子、又は皇太孫に対し危害を加え又は加えんとしたる者は死刑に処す。
  刑法とは本来過去形のはず。本憲法でも他の条には、「人を殺したる者は死刑または無期、もしくは三年以上の懲役に処す」とあり、また、「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子、又は皇太孫に対し不敬の行為ありたる者は三月以上五年以下の懲役に処す」となっており、もちろん過去形である。
  著者は言う。「片言隻句をとらえて『あの時お前はこう思っただろう。そうにちがいない』と決めつけるのは、小説家の仕事であって、法律家のなすところではない」し、「歴史を振り返ればわかるように、不完全であいまいな法律(言葉)はしばしば恐るべき厄災を人類にもたらし」「その厄災が誠之助の身に」降りかかったのだと。
  そしてこう述べる。「この事件における主人公は人ではなく、条文そのものであった。どんな危険な言葉(条文)も発動されるまでは何でもない。白い紙に印刷された単なる黒い染みだ。だが、恣意的窓意的な運用が可能な法律条文刑法第七十三条という“怪物”がひとたび目を覚ますと、事件関係者の理性を食らい、暴れまわり、世界をなぎ払い、打ち壊して別のものに変えてしまうまで決して静めることができない。
  すべてが終わった後、事件に関係した者たちは、なぜこんなことになったのかと呆然とすることになる。 曖昧な法律条文(言葉)がもつ恐ろしさを、私たちは正確に知るべきだ」と。
  本書をはじめ、その時代を描写するさまざまな著作物を読むと、近代化を目指した明治政府の功罪や以降の歴史にはいろいろな見方、受け止め方が出来ることが知られる。ただ少なくとも、なにごとによらず広い視野を持つことが肝要であり、「衆人皆酔へり」(平賀源内)というような状況、歴史観に染め上げられる社会になってはならないと思わされた。(雅)


マシュー・サイド著『失敗の科学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2016年)(前)
  普通に生きている限り、私たちは誰だって失敗はしたくないだろう。でもこれまで一度も失敗した経験のない人というのも、おそらく誰もいない。ああしておけばこうしておけば、どうしてあんなことになったのか・・・!
  本書はそれに応えようとする。人は組織はなぜ失敗するのか?その要因はどこになるのか?では対処法は?本書の核心は<失敗に学べ>と言うことだ。どんな事情、どんな心の働きが失敗を引き起こすのか。それらを頭の隅にでも入れておけば、気づきの訓練を重ねる上でもかなり役立つのではないかと思う。
  ただ、本書にはおびただしいエピソードが含まれ、また分野的にもかなり広範に及んでいる。そこでエピソードを絞りつつ2回に分けて紹介することにしようと思う。
  著者はイギリス『タイムズ』紙のジャーナリスト。卓球の元オリンピック選手で、巻末の謝辞には次のようにある。
  「私は人生で何度も失敗をした。卓球をしていた頃はとくにそうだった。だから本書の主題は私自身にとっても大事な問題だ。執筆のきっかけは、成功を収めた人々や組織が持つある共通点に気づいたことだった」
  はじめに各章を簡単に紹介する。
  1章は、失敗を未然に防ぐためのシステムの重要性と、それに対するクローズド・ループ現象という心の抵抗。
  2章は、失敗を認めようとしない認知的不協和という心の働き。
  3章は、データによるフィードバックの重要性と、データを取り方、正しい検証の仕方について。
  4章は、失敗から学ぶやり方一つとしての小さな改善の積み重ねについて。この章はむしろ第5章、第6章のあとの方が良いのではないかと思った。
  5章は、失敗に対する心の傾向としての単純化と犯人捜しのバイアスについて。
  6章は、失敗したときに現れる脳波の測定から、私たちには二つの傾向があることについて。
  終章は、失敗を克服するための私たちが心得、対処すべき諸々の方策について。

  1章では、まず航空業界と医療業界の例をあげ、二つの業界の失敗に対する姿勢の違いを際立たせる。
  航空業界では事故が起きると徹底的な原因の究明と対策に取り組み、その結果は圧倒的な安全記録の達成として現れてきた。例えば、2014年のジェット旅客機の事故率は100万フライトに0.23回にとどまり、「失敗から学ぶプロセスを最も重視していると言われるIATA加盟の航空会社に絞れば、830万フライトに1回」となっている。
  しかし、医療業界では事情は大きく異なる。2013年に“Journal of Patient Safety”に掲載された論文によると、回避可能な医療過誤による死亡者数は年間40万人以上と算出されていると言う。このような事態に至った原因はどこにあるのか。先ずは医療プロセスの複雑さによるミスの可能性の大きさ、次に資金や人手の不足、そして医師は常にとっさの判断が迫られていること、これらが思い至るが、それより根本的な原因は組織文化そのものにあると著者は主張する。
  それは、ミスの多くには一定のパターンが見られることから窺えるという。つまり、ミスすることはそもそも不名誉な事柄であり、そのため個人的にも社会的にも隠されやすいと言うことだ。そのため、ヒトや社会はあらかじめ言い訳や逃げ場を無意識のうちにも用意するとされる。その典型として著者があげるのはかつて行われていた瀉血法だ。それで患者が回復すれば「瀉血で治った」とし、もし死んでしまったならそれは「よほど重病だったに違いない」と。医者もそう信じ込んでいたために、当然ながら治療法についての検証もされなかった。
  このような、失敗がそのままにされ進歩につながらない状態を「クローズド・ループ現象」と呼び(その反対は「オープン・ループ」と呼ばれる)、医療業界ではこれが起きやすいと言うのだ。医療には「完璧でないことは無能に等しい」という考え方があって、ミスはあくまで「偶発的な事故」「不測の事態」とされてきたからだ。それでも、この章で取り上げられた医療機関では次第に改善が見られるようになっているという。
  一方、航空業界はどうか。事情は全く違う。先ずミスの報告は処罰されない。そして、調査のための強い権限を持つ独立の調査機関があり、失敗は「データの山」となって関係者すべてにとって「貴重な学習のチャンス」とも意識されている。しかも、調査結果を民事訴訟で証拠として採用することも法的に禁じられていることから、当事者もありのままを語りやすくなり、それも情報の開示性を高めている一因となっている。
  ところで、ここで示された二つの事例の調査から、注目される共通性が浮き彫りになったと言う。それは第一に、機長と医師が極度の集中によって時間感覚を失ったため副操縦士や看護師長から発せられた情報を把握できなかったこと。第二に、再度の声かけをためらった副操縦士も看護師長も、有無を言わせぬ上下関係があるためにチームワークを働かせられなかった点である。ここで注目すべきとされるのは、調査によって判明したこれらの事実への対応である。なぜなら、それがユナイテッド航空173便の事故は航空業界の分岐点だと言われている理由だからだ。
  ボイスレコーダーによると、「航空機関士は燃料不足の危険を察知して、何度も機長に問題を示唆し、状況が悪化するにつれて、燃料が切れ始めていることを直接的に言及している。(略)航空機関士の声のトーンが次第に緊張感を帯びていくのがわかった。状況が逼迫する中、機長に危険を気づかせようと切羽詰まっていく様が伝わってくる。しかし航空機関士は結局、上司である機長に対して強く出ることはできなかった」という。
  つまり、問題は当事者の熱意や熟練度などではなく、人間の心理を考慮しないシステムにあったのだ。そのため航空業界は、慎重に検証しつつ、クルー間の効果的なコミュニケーションのためにただちに新たな訓練法を取り入れた。「最も効果を上げたアイデアは、さっそく世界中の航空機に導入された。こうした改革により、173便の事故をはじめとする1970年代の一連の惨事のあと、航空事故率は下がり始めた」のである。
  さらにこの章には、失敗から学ぶことは最も「費用対効果」が良いことと、目の前に見えていないデータも含めたすべてのデータを考慮に入れなければならないことが強調される。また091月の有名なハドソン川着水の顛末についても、「失敗があったからこそ、成功が生まれたのである」と述べ、最後に、失敗を公にし、ミスの報告を一気に増やすことに成功したバージニア・メイソン病院の例をあげている。この病院は2013年には世界で最も安全な病院のひとつにあげられ、同年には、「優秀臨床安全賞」「優秀患者経験賞」を受賞している。

  2章はよく知られている認知的不協和が取り上げられる。この心理から離れない限り私たちが失敗から学ぶことは難しい。
  最初に取りあげられているのが、検察がいかに自らの誤りを認めないかの実例である。レーガン政権下で司法長官を務めたエドウイン・ミースは、「実際問題として、無実の容疑者はいない。矛盾しているじゃないか。無実なら、そもそも容疑者にはならないのだから」と言ったというのだ。
  “異なる2人のDNAが一致する確率はおよそ10億分の1”というDNA鑑定法が80年代後半に実用化された結果、2005年までに300人を超す受刑者の無罪が確定した。しかしこれは犯人の体液が保管されていたケースであり、DNAがない場合の冤罪はカウントされていない。それどころか、ここで例にあげられた容疑者は13年の服役を経た後にDNA鑑定で無実が証明されたが、その後釈放されるまでにはその後6年間も刑務所で過ごすようになったという。それはなぜか。
  ここで著者は研究者による観察および実験例を三つ示す。
  一つは、終末予言が外れた時のカルト信者集団の反応の観察だ。信者たちは教祖を詐欺師と認めず、「自分たちが預言を流布したからこそ神が世界を救ってくれた」と考え、「歓喜に酔いしれ」、集団を抜けるどころかさらに布教に出る者もいたという。人は多くの場合、自分の信念に反する事実を突き付けられると、信念を貫くために都合のいい解釈を紡ぎ出したり、忘れたふりをしたり無視したりする。
  二つ目は、AB二つのグループに分けた学生に、あるテーマについて客観的にはかなり退屈な討論会のテープ録音を聴かせる実験。
  学生がその実験に参加する資格を得るためには一つの課題をクリアーする必要があり、Aグループにはストレスのかかるかなりハードな課題、Bグループには簡単なものが与えられる。そのあと討論会のテープを聞いての感想を聞くと、Bグループの学生は「つまらなかった」と「正直に」答え、Aグループの学生は刺激的で興味深かったと答えたという。ハードな課題を乗り越えてまでして聞いたテープが「つまらなかった」と言うのでは、自尊心が脅かされてしまうからだ。
  三つ目は、どちらも筋金入りの死刑賛成派と反対派のグループに二つの研究報告書を読ませた実験。一つは死刑制度を支持するデータを集めたもので、もう一つは死刑反対の意見を裏付ける主張である。先入観を持たずに読むとどちらも説得力が感じられ、最後まで読めば両派は多少歩み寄るのではないかと思わせるものだったが、結果は正反対となった。双方とも自分の信念に当てはまるレポートを説得力があると賞賛し、反対側のレポートを穴だらけでお粗末と否定した。同じものを読んだのに両派の溝はますます深まり、どちらも自分の信念に都合のいい解釈を続けたという。
  つまり、「人は自分の信念にしがみつけばつくほど、相反する事実を歪めてしまう」ということだ。先の実験に参加したAグループの学生は、種明かしをされて認知的不協和について詳しい説明を受けた後でも、討論会テープを気に入ったことと課題のハードさとは何の関係もないと懸命に訴えたという。
  さらに始末が悪いのは無意識にする欺瞞である。ミスの隠蔽を一番うまくやり遂げるのは、意図的に隠そうとしている人たちではなく、むしろ「隠すものなど何もない」と信じている人たちで、無意識に自分自身をも欺いているうえにそれを自覚していない。
  この例は、アメリカ国内の金融・経済分野の専門家23名が公開書簡でFRBの経済政策についての予測が大外れした時にとった反応である。もちろん予測の公開は勇気ある行動に違いない。しかし外れたとしても、それは本来なら自分たちの理論や仮説をより正していく良い機会であったはずなのだが、そうはならなかった。
  取材に対して複数の専門家は、「公開書簡の内容はあの通り正しかった」「それらはすべて現実のものとなっている」と答え、「まだ現実化していないだけで、間もなくそうなる」というのもあった。つまり、当否にかかわらず信念は変わっておらず、予測は正しかったと思いたいのだ。これを称して<保身の罠>と言う。
  さらにこの章では、認知的不協和は「外発的な動機付け(評価や賞罰などの外部要因)」によって起こるだけではなく、「内発的な動機づけ(バイアスなどの内部要因)」にもあること、またルイセンコの行動からイデオロギーが科学を殺すこと、記憶は「編集可能な」思い込みであることも述べている。
  そしてこう言う。「認知的不協和は足跡を残さない。(略)決して誰かに無理強いされるわけではなく、すべては心の中で起こる。まさに、自分で自分を欺くプロセスだ。その欺瞞はときに悲劇的な結果をもたらす」と。

  3章には大きく二つのテーマがある。いずれも失敗に学ぶためのシステムで、一つは「累積淘汰(累積的選択)」と呼ばれる適応の積み重ね、二つ目は「ランダム化比較試験」である。
  一つ目は「考えるな、間違えろ」として洗剤などを生産するユニリーバの例から始まる。噴射ノズルに目詰まりが起こり、粒子の大きさが一定に揃わないという問題を抱えていたこのメーカーは、当初、流体力学や高圧システムに詳しい一流の数学者チームに依頼して新たなノズルの開発を目指した。しかしそれは成功しなかった。
  そこで今度は、著者に言わせると「ほとんど破れかぶれ」で自社の生物学チームに助けを求めたという。彼らは流体力学も「相転移」(例えば液体から固体や気体などに物質が変わること)も知らなかったけれど、ただ「成功と失敗の関係性」については深く理解していた。
  彼らは先ず、ひとつずつわずかな変更を加えた目詰まりするノズルの複製を10個準備してテストした。つまりあえて「失敗」をしてみたのだ。すると、そのうちのひとつが小さな結果を出したという。今度はそれをモデルに少しずつ違う変更を加えた型を10種類作ってテスト。同じことを繰り返し、「45世代のモデルと、449回の失敗を経て、チームは『これだ!』というノズルにたどり着いた」が、それは、「どんな数学者も予測し得ない形をしていた」という。
  これはまさに進化のプロセスに符合すると著者は言う。また自由市場にもこれが当てはまることを述べ、計画経済がなぜ破綻したか、そして、現実の複雑さを踏まえた上での経験的知識や発明は理論に先立つこと、また、そのためには質より量が重要であり、そこにおけるフィードバックがなにより大切なことを強調している。つまり、頭で考えたアイデアがどれほど秀逸でも、成功のためには実際の試行錯誤が欠かせないということだ。
  二つ目のテーマ、「『物語』が人を欺く」では有名なティーンエイジャーによる犯罪防止のための「スケアード・ストレート」という刑務所訪問のプログラムが語られる。日本でもその様子が放映されているので紹介は省くが、その効果について世間における賞賛とは相容れない結果が出されている。つまり、「のちの厳密な検証によって、刑務所を訪問した子どもたちの再犯率は高くなることが明らかになった」と言うのだ。
  なぜそのような結果が示されたのだろうか。
  19793月には、「このドキュメンタリー番組は全米200都市で劇場公開され、(略)翌月にはアカデミー賞の長編ドキュメンタリー映画賞を受賞。スケアード・ストレート・プログラムはアメリカ全土で実施され、カナダ、イギリス、オーストラリア、ノルウェーもそれに続き」、そして、「プログラムの効果を示す統計データには目を見張るものがあった」し、世間には賞賛の嵐が吹き荒れたというのに。
  実はこのプログラムには重要な検証法である「ランダム化比較試験」(注)が行われていなかったのだ。
  
  ※注:ランダム化比較試験Randomized Controlled TrialRTC」とは、対象を、「介入群(治療群)」と「対照群」など、複数のグループにランダム分けて比較することで結果に及ぶ影響が少なくなると考えられている研究手法(編集部)

  ランダム化比較試験が行われなければ、客観的な評価は望めないし、一度間違った判断を下すとそのままいつまでも主観的な評価を続けることになってしまう。ただ、この試験は万能の解決策ではない。なぜなら、「状況によっては実施が困難だったり、試験を行うこと自体が倫理に反するとみなされる場合もある」からである。このような注意点を念頭に置いた上で行われれば、ランダム化比較試験は綿密な検証を行う強力なツールとなる。
  しかし残念なことに、検証を意識的にまた無意識的に拒んでいるクローズド・ループ現象は、この社会のどこでも起きている。「スケアード・ストレート・プログラムも、適切な検証がなければ、あと何十年、もしかすると何世紀も持てはやされ続けていたかもしれない」と言うのだ。
  では、スケアード・プログラムの成果に対する評価にはどのような問題点があったのか。
  1999年、このプログラムの20年後を捉えたドッキュメンタリーがアメリカ国内で放送され、そこには期待通りに見える大人になった17人の姿があった。「彼らのほとんどが、20年前にローウェイ州立刑務所で過ごした3時間が自分の人生を変えたと話して」いたし、参加した青少年の8090%が更生したという統計も示されて、「これは従来の更生方法では成し得なかった、すばらしいサクセス・ストーリー」というナレーションもあった。
  しかし、プログラムに本当に効果があるかどうかを知りたいと思ったラトガース大学法科大学院のジェームズ・フィンケナウア一教授は、19784月(オリジナル版放送の1か月後)に、統計データに誤認がないかどうかを明らかにするためにRCTによる検証に乗り出した。
  まずプログラムに関わる既存データを徹底的に調査したところ、「8090%の更生率」という数字プログラムに参加した子どもたちの親や後見人へのアンケートから得たものだったことがわかる。
  アンケートの質問は次の4間。すべて「はい」か「いいえ」で答える形式で、コメント欄もあった。
   ・刑務所を訪問したあと、お子さんの行動に目立った変化はありましたか?
   ・刑務所を訪問したあと、お子さんの行動に小さな変化はありましたか?
   ・お子さんにとって再訪問は必要だと思いますか?
   ・ご自身、またはお子さんのことで、私たちが援助できる点は何かありますか?
  「目立った変化」「小さな変化」ではどのようにも解釈が可能だろう。
  また、彼の調査によれば、ローウェイ州立刑務所を訪問した子どもたちの多くは非行少年でも非行予備軍でさえもなく、アンケートは訪問から数週間以内のケースが多く、行動の変化の判断に十分な期間があったとは言えなかった。加えて、統計はアンケートに回答のあった家の子どもたちだけのもので、答えのなかった家のものは含まれていない。これではとても正確な結果は把握出来ない。
  なかで最も深刻なのは、プログラムを実施していなかった場合にどうだったかという反事実の検証がなかったことである。あるいは地域経済や学校の動向、その他別の要因という可能性が全く無いとは言えないということもある。
  フィンケナウアーは、非行歴のある若者をランダムに介入群(プログラムに参加)と対照群(未参加)との二つのグループに分けて検証を行った。その結果は劇的だったという。プログラムに参加した子どもたちの再犯率は、参加しなかった子どもに比べて高いことが判明したのだ。
  彼は、世間がプログラムの成功を確信したのは、厳しい現実を知った子どもたちが更生するという内容が感情に訴えるものだったからだろうと言う。しかし、非行や犯罪の要因はさまざまで、実態をとらえるのは簡単なことではないし、落ち着いて考えれば、「たった3時間の刑務所訪問でそんな問題を解決するのは無理な相談だとわかるはず」だとも。また、もちろん囚人たちは善意で参加したのだろうけれど、「しかしあの番組は彼らが思いもしない結果をもたらしました。子どもたちにとって、ああやって怒鳴り散らされた経験は、心に傷を残したようです。『怖くなんかなかった』と仲間や自分自身に証明するため、わざわざまた罪を犯した子どもも少なくありませんでした」と言っている。
  しかしこの検証結果に対して、プログラム支持者たちは猛然と抗議を始め、さらには認知的不協和の典型で、以前にも増してプログラムの有効性に確信を持つようになったとまで反論した人もいる。1980年代に入ってもアメリカ各州で実施され、またイギリス、オーストラリア、ノルウェーへと広がっていった。
  その一方で、アメリカ全土でのRCTによる検証で、「効果なし」「子どもたちの心を傷つけるケースが多い」という反証データも次々と提出されてきた。ただそれにもかかわらず、司法省が発行する公報で推賞されたり、1996年には、ローウェイ州立刑務所を訪問するオリジナル・プログラムの参加者が過去最高を記録したという記事がニューヨーク・タイムズに出たりした。
  しかし2002年に、「キャンベル共同計画」が行った分析によってスケアード・プログラムには効果がなかったばかりか、逆に犯罪を助長した結果が出たという。これは、「検証実験に関する啓蒙活動を行う世界的な非営利組織で、RCTによるあらゆる検証データを収集し、メタ解析を含む系統的な分析を行って、その情報を公開している」もので、「物事の有効性を評価する上で、科学的な根拠に基づく決定的な判断基準と」なっている。この結果では、非行青少年の再犯率が28%も上昇したというデータも複数見られたそうである。そしてこれによる報告は次のように締めくくられる。
  「この種のプログラムは、有害な影響を及ぼして再犯率を上昇させる可能性が高い。(中略)青少年をプログラムに参加させるより、何も実施しないほうが状況の改善につながったと思われる」
  この章ではこの後、20年後のドキュメンタリー番組に出演して37歳で家庭的な父親と紹介されていたアンジエロが、刑務所訪問の4年後の1982年に19歳の女性を殺害していた事実を記している。また、すでに圧倒的な反証データが揃っていたにもかかわらず、スケアード・ストレート・プログラムを擁護し続けたドキュメンタリー制作者に厳しい批判を寄せている。(つづく)

マシュー・サイド著『失敗の科学』
(ディスカヴァー・トゥエンティワン 2016年)(後)
(承前)
  第4章では、何らかの結果を得るには小さな改善(マージナル・ゲイン)の積み重ねが重要であることが述べられる。

  最初に取り上げられるのは、イギリス人初のツール・ド・フランス総合優勝を成し遂げた自転車競技のチームの例。
  A地点からB地点までいかに早く到達するかという単純な目標。しかしその前には、専用マットレスや枕の導入で同じ質の睡眠をとること、新しいホテルに滞在する時には事前にスタッフが選手の部屋に掃除機をかけて感染症予防、もちろん自転車のデザインごとのテスト、トレーニング方法等々・・・。こうした小さくとも数多くの要素が積み重ねられた結果、詳細なデータベースが作成され、それが成果につながることになった。
  またF1を勝ち抜いたメルセデスでは、マシンに取り付けたセンサーから集められるデータは16000チャンネル、そしてさらにそこから5万におよぶチャンネルが派生して取り出せるという。
  このことが意味するのは、「大きな目立つ要素より、何百、何千という小さな要素を極限まで最適化すること」、つまり小さな改善がとても大切だと言うことだ。
  それでは、このやりかたは別の分野にはどのように応用できるだろうか。
  本書ではアフリカへの開発援助の例が取り上げられる。開発援助に関しては、「さらに援助すれば貧困を解消できる」という研究もあるし、「援助しない方がアフリカの状況は向上する」とする説もある。相反する議論に決着をつけるのにはランダム化比較試験が有効だけれど、アフリカは一つしか無いからそれは無理。ではどうするか。
  開発援助は、例えばマラリア予防、識字率や学力の向上、インフラ整備等々さまざまな分野に分かれている。なので、その一つを対象として人や地域を介入群と対照群に分ければプログラムの効果を比較検証できる。つまり、アフリカ全体をまとめての比較は難しくとも、小さなプログラムに分けて検証すれば明確な裏付けが取れるので、そこから一つずつ改善を重ねていけばいいということになり、まず経済学者による小さな教育プログラムで行うことになった。
  そこで教科書の無償配布を行ったが、予想に反する結果となった。配布したグループとしなかったグループに成績の差異は出なかったのである。原因は英語(当地の第3言語)で書かれた教科書では内容が把握しづらかったためだった。もし検証をしなかったなら依然として効果の無い教科書を配布し続けていたかもしれない。そこで、今度は理解しやすいように図表にしてイーゼルに立てたり壁につるしたりする視覚教材を使ったが、やはり結果は同じだった。
  しかし経済学者たちはあきらめなかった。対象地方の子どもたちに寄生虫感染が多いことに気づいていた彼らは、今度は「駆虫薬の配布」を思いついた。それは子どもたちの発育不良や無気力、そして学校を欠席する原因ともなっていたからだ。そしてそれは予想よりもはるかにすばらしい結果を出した。スタッフの一人は次のように記している。
  「駆虫薬配布プログラムは大成功だった。子どもたちの身長が伸び、再感染率が下がり、学校の欠席率は25%も下がった。しかも、コストはほとんどかからなかった」
  このことは、「わかったつもり」になることなく、「小さなレベルで、何が有効で何が有効でないかを見極めること」が必要であり、たとえ「それぞれのステップは小さくても、積み重なれば驚くほど大きく」なるということを示している。
  この章では他に、Googleが選んだ「最高の青色」と、大食いコンテストに「伝説」を残した日本人のエピソードが出ている。いずれも小さな改善を重ねて大きな結果を得た例となっている。

  5章は、ものごとを単純化し、責任者を捜し出して非難の矛先を向けて懲罰を加えるという、人の心のバイアスに関して述べる。
  航空業界では通常ではミスを罰しないにもかかわらず、1989年、「ノベンバー・オスカー事件」と呼ばれるニアミスによって非難を一身に浴びて裁判にかけられた機長が、のちに自殺に追い込まれた事件を取り上げている。機長が直面したきびしい現実を検証すれば、機長の判断は「完璧ではなかったかも知れないが、犯罪に値する行動ではなかった」し、「機長を非難するのは間違いだ」という点では大勢の関係者はみな意見が一致していたという。これは「ミスに対して前向きな態度をとる航空業界でさえ、非難の衝動と完全に無縁ではなかった」例として示される。
  認知的不協和の心理を内的な要素とすれば、非難は外からの要因として個人や組織にプレッシャーをかけ、失敗から学ぶ機会を奪ってしまう。なぜなら、非難や懲罰には規律をただすような効果は認められないから、ということだ。
  その一例としてあげているのは、2004年にハーバード・ビジネス・スクールのエイミー・エドモンドソン教授が行った調査である。それは、厳しい規律が一部にある病院の8つの看護チームに対する調査だ。その結果は、「懲罰志向のチームでは、たしかに看護師からのミスの報告は少なかったが、実際にはほかのチームより多くのミスを犯していた」。それに対して、「非難傾向が低いチームでは、逆の結果が出た」と言うことだ。
  人間工学の専門家シドニー・デッカーは、「責任を課すことと(不当に)非難することはまったく別だ」とし、「非難すると、相手はかえって責任を果たさなくなる可能性がある。ミスの報告を避け、状況の改善のために進んで意見を出すこともしなくなる」と言っている。
  著者はこのような非難行動を「脊髄反射的な犯人探し」と名づけ、それは「原因を性格的な要因に求めて状況的な要因を軽視」し、「一番単純で一番直感的な結論を出す傾向」が脳にあるためだとする。ただし、この傾向は「自分のミスになると出てこないらしい」。そしてこれは個人レベルでも集団レベルでも見られるという。
  なるほど・・・人の脳は自分に都合良く出来ているわけだ・・・と納得がいった。ところで、ここで、併行して読んでいた、毎日新聞取材班による『SNS暴力-なぜ人は匿名の刃をふるうのか-』にあった内容を紹介したい。

  好き嫌いなどの感情を抑制する理性の回路は前頭前野にあって、書くか書くまいかという「判断保留」の際に働くが、それは脳に高い負荷をかけるという。これについて脳科学者の茂木健一郎氏は、「脳はストレスを感じでいる時、負荷の高い行為はしたくなくなる」し、また非難することが「報酬系」を強化し、そのため繰り返してしまうのではないかとも言っている。さらに脳のミラーシステムからみても、「誰かを中傷することは、実は自分の脳も傷つける自傷行為」であること、またマイケル・サンデル教授による人気講義「JUSTICE(正義)」をあげて、「正義」は人の数だけ存在していることを考えようと勧めている。
  同じく脳科学者の中野信子氏も、こうした状態のことを著書『人は、なぜ他人を許せないのか?』(アスコム)の中で「正義中毒」と名付けている。「正義中毒の状態になると、自分と異なるものをすべて悪と考え」るが、特に相手が「『わかりやすい失態』をさらしている場合、そして、いくら攻撃しても自分の立場が脅かされる心配がない状況などが重なれば、正義を振りかざす格好の機会となる」などと解説しているという。(以上『SNS暴力-なぜ人は匿名の刃をふるうのか-』毎日新聞出版 2020年より)

  そしてまた、責任者の追求と非難は往々にして逆効果をもたらすことになる。その悲劇的な例として著者は2007年、ロンドン北部のハリンゲイで17か月のピーターという男の子が亡くなった事件をあげる。
  虐待と育児放棄の未に亡くなった15か月後に、実の母親、彼女の恋人、恋人の兄の3人が実刑判決を受けた。しかし翌日の新聞は、当時ピーターを直接担当していたソーシャルワーカーのマリア・ウォードと、地区児童安全保障委員会(LSCB)委員長のシャロン・シュースミスに非難の矛先を向けた。
  その結果、2人の解雇を求める嘆願書には16万人が署名。彼女らの写真や電話番号も紙面に掲載されると、殺害の脅迫状が送られたりして自宅を離れなければならなくなった。ただ人々は、この大騒ぎでソーシャルワーカーの仕事振りが改善されるだろうと思ったし、ある識者は、「これで彼らは仕事に専念するようになる」と言ったという。
  その結果どうなったか・・・。
  ソーシャルワーカーの辞職急増、新規ソーシャルワーカーの激減、児童保護件数の大幅な増加、ある地域では常勤人数不足で代理業者への委託金約2億円、等々。そして、残ったソーシャルワーカーの負担は増え、一人ひとりにかけられる時間は減ったため、自分の管理する子どもに何かがないように強引に介入し始めた。「危険な信号を見逃して『魔女狩り』に遭うわけにはいかないと考えた」からだ。
  そうすると、家族から引き離される子どもの数が飛躍的に増え、その結果、裁判所による保護命令が次々と出され、急増した需要に合わせるためにより質の低い家庭にも里親としての承認が与えられるようになり、本来の家庭から引き離された子どもたちの多くは心身にダメージを受けることになった。
  するとメディアは、それまでとは逆に、「子どもをあやしただけで虐待疑惑!引き離されるのを恐れて逃避行を続ける母娘」といった見出しとともに、「愛する子どもを無理やり奪われる親たち」のストーリーを報道し始めたと言う。
  おまけに、過剰な自己防衛が社会福祉事業のあらゆる面で見られるようになり、問題視される可能性を恐れて貴重な情報は隠蔽され、自己防衛にばかり時間が割かれ、実際の社会福祉活動はないがしろにされるに至った。そして、「こうした非難騒ぎの翌年、虐待によって死亡した児童の数は25%以上増加し、その後3年間上昇し続けた」のである。
  この事件で激しい非難の的となったシャロン・シュースミスは、当時は自分だけでなく家族全員の命を絶つことまで考えたという。「家族3人とも本当に苦しんでいました。私の苦痛が娘たちの苦痛であり、娘たちの苦痛が私の苦痛でした。みんなのためにもう終わりにしたいという思いが頭をよぎりました」と。
  シドニー・デッカーは名著『Just Culture(公正な文化)』でこう書いているという。
  「問趨は、非難したり訴えたり裁判にかけたりすれば、相手は責任感を強く持つようになると思い込んだままでいいのか、ということだ。今のところそれで説明責任が強化されたという証拠はひとつも出ていない」

  6章は、もし私たちが「失敗から学ばない」傾向にあるなら、それをどう乗り越えるかをテーマとする。
  最初にあげるのはベッカムの少年時代のエピソード。6歳のころにはごく平均的なサッカー少年だったベッカムは、毎日の練習で9歳のころには2003回というリフティングの新記録を出した。また父といっしょの公園でのフリーキックの練習は5万回を超えていただろうと言う(彼の父による)。
  「私のフリーキックというと、みんなゴールが決まったところばかりイメージするようです。でも私の頭には、数え切れないほどの失敗したシュートが浮かびます」
  バスケットボールのマイケル・ジョーダンもCMで、「私は9000本以上シュートを外し、ほぼ300試合で負けた。ウイニングショットを任されて外したことは26回ある」と言っているそうだ。
  著者は言う。「もちろん誰でも成功に向けて努力はするが、そのプロセスに『失敗が欠かせない』と強く認識しているのは、こうした成功者であることが多い」と。
  ミシガン州立大学の心理学者ジュイソン・モーザーらによって、失敗した時に脳内に起きる二つの信号の現れ方に関する実験が行われた。一つは「エラー関連陰性電位(ERN)」と言って、自分の失敗に気づいたあと50ミリ秒ほどで自動的に現れる単純な気づきの反応、もう一つは失敗の200500ミリ秒後に生じる「エラー陽性電位(Pe)」と言う信号で、それは自分が犯した間違いに意識的に着目する反応であって、そこから学ぼうとすることを示している。
  これまで、どちらの反応も強い人ほど失敗からより素早く学ぶ傾向があるという結果が知られていた。
  そこでモーザーは、事前のアンケートに基づいて被験者のマインドセット(思考傾向)を「固定型」と「成長型」のふたつに識別し、グループ分けした。
  「固定型」傾向の人は、「自分の知性や才能は生まれ持ったもので、ほぼ変えることはできない」ととらえる一方、「成長型」傾向の人は、「先天的なものがどうであれ、根気強く努力を続ければ、自分の資質をさらに高めて成長できる」と信じているとされる。
  退屈と言っていいほどシンプルな実験を行った結果、失敗に対するグループ間の脳波の反応に劇的な違いが現れた。ERNについては、どちらのグループも同じように簡単に「間違えた」ことに気づき、同じ強さの反応が示された。しかしPeは違った。成長型のグループでは、固定型の傾向が最も強い被験者と比べれば3倍も強い反応を示したという。これは、成長型の被験者は間違いにしっかりと注意を向けていたということを表している。また、「この実験ではほかにも、Peの反応が強い被験者ほど、失敗後の正解率が上昇するという結果も出た。失敗への着目度と学習効果との密接な相関関係が窺える」と言う。
  つまり、「個人でも組織でも、失敗に真正面から取り組めば成長できるが、逃げれば何も学べない。考え方の違いは脳波に如実に表れる」し、失敗から学べるかどうかの違いは、「突き詰めて言えば、失敗の受け止め方の違い」ということになる。失敗を「自分の力を伸ばす上で欠かせないもの」としてごく自然に受け止めるか、人の成功は生まれつき才能や知性によると考え、失敗を「自分に才能がない証拠」と受け止めるかと言うことだ。このことは、子どもを対象にした学習や企業組織にもあてはめて示される。
  ところで逆説的だが、「成長型の人ほどあきらめる判断を合理的に下す」という。心理学者のキャロル・ドゥエックは、「成長型マインドセットの人にとって、『自分にはこの問題の解決に必要なスキルが足りない』という判断を阻むものは何もない。彼らは自分の“欠陥”を晒すことを恐れたり恥じたりすることなく、自由にあきらめることができる」と言う。成長型の人にとって、引き際を見極めてほかのことに挑戦するのも、その反対にやり抜くのもどちらも“成長”なのだ。
  この章ではこの他、アメリカのウエストポイントにおける訓練における「やり抜く力」、さらに、なぜ日本に起業家が少ないのか、また数学の習熟度についての国際比較が述べられる。いずれにしても、リスクを負うことへの姿勢の違いが現れている。

  終章はこれまでのまとめとして、失敗から学ぶ力を具体的に発揮する方法を考えているが、その前に人類の進化について簡潔に触れている。
  歴史的に見れば、ほぼどんな社会にも、初期には神話・宗教・迷信などの形で独自の世界観が存在し、それらそのまま不可侵的に継承されてきた。これは固定型のマインドである。西洋においては、古代ギリシア時代に検証、批判を是とする理性的なものに変わった。ソクラテス、プラトン、アリストテレス、ピタゴラス、ユークリッドなどがその例である。しかし、そうした時代はキリスト教の浸透とともに終わり、長い迷信の時代に入る。1543年に解剖学者アンドレアス・ヴュサリウスが否定するまで、男性の肋骨は女性より1本少ないと信じられていた。
  このような「神コンプレックス」と呼ばれる固定された世界観は現在でも見られる。全能の神のようにベテラン医師を扱う医療業界でも、無謬主義に固執する刑事司法においても、である。
  一方、科学の世界では基本的に未知の真実があることを前提としているが、そのなかでは、社会科学の分野ではなお革新が促されるべきだと言う。著者は、失敗することは恥ずかしいものでも汚らわしいものでもないことを認めて、「実験や検証をする者、根気強くやり遂げようとする者、勇敢に批判を受け止めようとする者、自分の仮説を過信せず真実を見つけ出そうとする者を我々は賞賛するべき」と主張する。それは「もちろん簡単なことではないし、抵抗も受けるだろう。しかしその壁を乗り越えていくだけの価値はある」のである。問題は、モチベーションや熱意ではなく「やり方」にあるからだ。
  データと有意義なフィードバックが行われることが重要なのであり、そうした「間違いを警告してくれる『信号』をシステムの中に取り入れることが肝心」であって、そのためには、「先行テスト」もひとつの手段になり得るし、本書で取り上げているRCTも強力なツールのひとつとされる。
  さらにいえば、心理学者ゲイリー・クラインが提唱した「事前検死(pre-mortem)」という手法も効果的である。これは、あらかじめ「プロジェクトは失敗した」「目標は達成できなかった」という状態を想定し、「なぜうまくいかなかったのか?」を事前検証するもので、「失敗するかもしれない」と考えるのとはまったく違う。
  否定的だと受け止められることを恐れず懸念事項をオープンに話し合うことによって、失敗という抽象的な概念を具体化させる。そうすると問題に対する意識の持ち方が変わると言うことだ。
  これら本書に示されたまざまな手法を活用しながら「成長型マインドセットを持ち続ければ、どこまでも可能性が広がる進化のプロセスを力強く歩んでいけるだろう」と本書は結ばれているが、よりピュアーに言うなら、エゴに気づいて抑えると同時に問題に正面から向き合う覚悟を決める、それが次へのステップにつながるのだとあらためて自覚させられた。 (雅)

森川すいめい著『その島の人たちは、ひとの話をきかない』
                             (青土社 2016年)

『漂流老人ホームレス社会』(「月刊サティ!」20208/9月合併号で紹介)の著者は、「自殺希少地域」とされる5カ所を6回訪ね、そのわけを知ろうとそれぞれ一週間前後滞在した。本書はその記録である。面白いことに、その背景は地域によって異なるものや共通するものがあった。(著者のプロフィールその他については上記を参照されたい)
  きっかけは、精神科医として自殺について考え、悩み続けてきた時に、岡壇(まゆみ)さんの「自殺希少地域の研究(1)」と出会って衝撃を受けたことによる。さらにはピーター・F・ドラッカー(2)の考え方にも影響を受けた。それまでも著者は精神科クリニックの院長として診療を行う傍ら、生きやすさの答えのヒントは常に医学の外にあるのではないかと感じていたと言う。

  ※注1:詳細は『生き心地の良い町――この自殺率の低さには理由(わけ)がある』(講談社2013年)を読んでほしい(著者)。
  ※注2:ひとを大切にするためのマネジメントというものを発見したとされる(著者)。

  著者は「はじめに」で、「結論だけを読みたい方は最後の章だけ読んでほしい」と言っているが、ここでは、なぜそういった結論が導かれたのかに興味をおぼえたため、やはりそれぞれの章を紹介していきたいと思う。

  序章の「支援の現場で」は、徳島県旧海部町訪問の記録だ。著者が抱いていた自殺の少ない地域には“ゆっくり休めて癒やされる”空間があるのではないかとのイメージは、旅館の職員によって早々に裏切られる。
  著者はそれまで、「すごくひととひととが助け合う地域こそが自殺希少地域」ではないかと思っていたと言う。しかし、岡さんによる当地の調査に基づく研究発表、「人間関係は、疎で多。緊密だと人間関係は少なくなる」「人間関係は、ゆるやかな紐帯」に目を開かされた結果、著者も当地に足を運んでみることになった。
  序章ではまた、自殺は「防止」と「予防」とに分けて考えるように述べる。防止というのは、例えばホームドアなどの主としてハード面での方策であって比較的わかりやすい。しかし、予防にはわかりにくいものもある。
  例えば、アルコールの摂取と自殺率との関係など分析研究から導かれるものもあるけれど、貧困からの自殺についての議論はなかなか難しい。さらには岡さんによると、予防も二つに分けて考えてられると言う。それは、自殺の原因を調べて予防するものと、自殺に至らない地域に存在するであろう予防因子を調べることの二つである。著者はこの考え方によって、原因研究と支援だけでは十分な成果を得られなかった現場の閉塞感を「ずいぶん吹き飛ばすことになった」と述べている。
  第1章「助かるまで助ける」には序章にあげた町での出来事が紹介されている。敷居も低く鍵も掛けない家、ひとりひとりの距離が近くコミュニケーションの量が多い、にもかかわらず互いに緊密ではない。あちこちにベンチがあって老人が坐っていると通りすがりの人が挨拶をし、老人もそれを返すがただそれだけ。寺で老人との世間話に1時間、その後は特別なことではなかったかのようなあっさりと分かれる。
  コミュニケーションの多さに関連するように、この地域では「病、市に出せ」という言葉が昔から大事にされてきたと言う。これは、「内にためず、どんどん市、自分の住む空間に出しなさいという教訓」ということだ。
  著者ははからずも当地で、「親知らず」を抜いたあとの痛みがひどくなる。近くの医院が休診だったため少し離れたところの大きな病院に電話したところ、当直の内科医しかいないと断られ、やむなく旅館の親父さんに相談した。ところが、「私の歯の痛みを解決するためにあらゆる情報を短時間で得ていた」親父さんは、なんと、82キロ先の歯医者へ送ると言ったそうである。さらに歯痛の情報はあっという間に近所まで伝わっていたという。この情報量の多さと速さは自殺希少地域の特徴なのだ。
  突然の雨に洗濯物が外に干してあったら家人に無断でそれを取り込む。緊密さはなくコミュニケーションは軽いが、困っている人がいたら自然にその部分を助けるのは、互いによく出会っているからではないか。当地出身の人が都会に住んだ時、雨が降り出したので近所の洗濯ものを取り込んだらひどく怒られたそうだ。でもその人はそれで落ち込んだりはしていない。こう言ったそうだ。「都会にはいろんなひとがいるんやね」と。人が多様であることをわかっている、それは生きやすさに関係しているのではないか、著者はそう思っている。

  第2章の「組織で助ける」も同じ旧海部町の朋輩組についての話である。
  400年前に生まれたこの組織は、問題が起こらないように監視するのではなく、問題は起こるものということを織り込んだ上で、「起こった問題をいっしょに考えて解決する」ための組織だという。同世代の8人から18人で、構成も町内会ごとではない。外から来る人が多かったことから入会も脱会も自由で、人を助けるための知識や技術が蓄積され伝承されるが強制力はない。著者が面白いと思ったのはメンバーによる知識や考え方の豊かさだったそうだ。
  組織には、問題を起こさないように見守るものと、問題があることを前提としてそれに対処して動くものがある。多くは前者に傾きやすくルールも増えるが、社会が変化するとともに次第に合わなくなっていくのはやむをえない。やはりそうした変化に対応しやすいのは後者である。当地の朋輩組という組織には、問題が「起こったときの機動力と柔軟性、そして即時性が備わっていた」と述べている。

  第3章「違う意見、同じ方向」は青森県風間浦村でのこと。寒いところはアルコールの消費量が多く、それが増えることと自殺者の割合が増えることとは関係がありそうだとする研究もある。そんな東北地方で自殺者の少ない地域があり、風間浦村はそのひとつだ。
  生きづらさの大きな原因のひとつに悪口や陰口があると思い込んでいた著者は、ここで意外な発見をする。ストレスを発散でもするようにここでも悪口や陰口はあった。しかしそのあとに解決策が話し合われていたのだ。「嫌い」や「違い」があっても対話が出来ている。それは、「そこにいていいと言うことが前提になって」いるからである。その結果、「自分のつらい気持ちの解決方法も、他者を傷つけてしまうこともぐっと減る」ことになる。
  著者はあとで気づいたそうだが、自殺希少地域似住む人は相対的に自分の考えを持っていると言う。自分の考えを持つから他人の考えを尊重するし、他人がその人なりの考えを持っていることを知っているのだ。しかも旧海部町と同様、近所との深いつながりはさほどではないが、知り合いは多いので孤立することはない。
  また、「組織内の人間関係が良い組織は、メンバーが共通のゴールを目指しているという研究成果がある」と言う。風間浦村には村民憲章という5つの理念があり、目に見える何カ所にも置いてある。つまり、やり方や速さでは意見が違っても、方向は同じと言うことだ。そうであれば、仲が悪くなることは減るに違いない。自殺希少地域には、かたちは違っても共通の意識というものがあると著者は考えている。
  第4章「生きやすさのさまざまな工夫」では青森県旧平舘村が取り上げられ、ここで著者は工夫の力に気づく。
  認知症患者の診療に関わる著者の経験では、周囲の人々の工夫が足りず、また相手を変えようとする人が多いそうだ。そうなると患者は、周囲からイライラがぶつけられてもその理由がわからずに理不尽だと感じてしまい、嫌な感情だけが残される。そうでないケースではたいてい周囲がよく工夫していると言う。自殺希少地域では、中身は違っても地域の特性に合わせた工夫が見られた。
  ヒッチハイクに応じてくれた男性との対話。
  「『この地域のひとは、困っているひとを放っておけないかもしれないね。因っているひとがいたら、できることはするか』と言った。私はそこで、できないことだったら?と聞いた。男性は少し間を置いて、『ほかのひとに相談するかな』と言った。『できることは助ける。できないことは相談する』。こうありさえできれば、困ったことがあったひとは孤立しないと感じた」。
  もし自分には任が重いと感じれば、言い訳を考えてそこから立ち去るのではなく、ほかの人に助けを求める。それが出来れば負担意識も軽減され、また状況も変わると言うことだ。
  ここのバスは手を挙げたらバス停でなくても止まってくれる。運転手は、「としよりが乗ることが多いから。としよりはバス停まで来られない」「だから、ゆっくり動くのですね!」「そう」。老人の家にリハビリを持ち込むかバスを届けるかは課題のとらえ方による。答えは常に現場にあると言う。
  また、トイレを借りやすいこと、食堂でごみを捨ててくれたこと、「貴重品だけどあげる」と言いつつカイロをくれたこと、これらの体験から著者は次のように言う。
  「いつも感じるのは、ひとを助けるのにおいて相手の気持ちをあまり気にせずに助けようとする態度である。(略)自分が助けられることがあったならばいっきに助けてくれる。しかも見返りなしだ。人助け慣れしているから助け方も上手だ。とても心地がよい。こんなことが各所で起こっていたとしたら、悩み事が大きくなる前にたくさんのことが解決してしまうだろうと思う。小さなうちに解決したほうがよいことは多い。抱え込まなくていい」。
  「自分がどうしたいのかと。自分が助けたいと思うから助けるのだ。相手にとってはよけいなお世話になることもあるのかもしれないが、それでも貫くのである。(略)人助け慣れしていくと、その加減も絶妙になっていく。そして助けられ慣れていく。このことは、自殺希少地域での核心のひとつと感じている」。

  第5章「助けっぱなし、助けられっぱなし」は広島県にある瀬戸内海の下蒲刈島でのこと。著者は生活困窮者のための活動で、良い対応と同時に酷薄な行政に接した経験を多く持っているが、この島の役場では、「ひとの困りごとを解決するための存在」という本来の役割が働いていることを知る。それは、トイレを借りたり宿を聞いたりした時にとことんつきあってくれた職員のごく自然な行動からだった。
  その宿でも、商売と関係なく現場の人たちが臨機応変に意思決定できる柔軟さをもっていた。コテージの宿だったため、夕方コンビニに食料を買いに行ったらすでに閉まっており、途方に暮れていたところ小さな会社から出てきた二人連れの男性に車でお好み焼き屋まで乗せてもらったと言う。
  その男性たちは、「乗っていく?」とは聞かず、「お好み焼き屋でよかったら乗ってきな」と言った。これは、上手な支援者とあまり上手でない支援者との違いでもあると言う。上手な支援者は、相手に返事をゆだねるようには聞かない。「こういうのがいいと思うんだけど、どう?」と聞き、相手がNOと言えばその気持ちを感じて別の提案を考えるそうだ。二人の男性は、当たり前のことをしたようにあっさりと去って行った。帰りには、営業中なのにお店のお父さんが、「そしたら、足がないね、送ってやろう」と、さも当たり前のように車に乗せてもらったそうだ。
  自転車で島を廻っていた時に会った70代ぐらいの女性は、うどんを作って近所の足腰が弱っている老人に届けて、著者たちにも分けてくれたという。一度大きな事故に遭って助けられたことへの感謝の気持ちをずっと持っているらしい。商店でパンを買ったら、それが夕食と言うことを知った店主が、「カレーがあるからもっていきな」と。これも「食べる?」とは聞かない。あくまで当たり前に、助けっぱなし、助けられっぱなしなのだ。自分がどうしたいのかがメインで、相手の意向は関係ない。

  第6章「ありのままを受け入れる」は神津島。この島の特徴を著者はこう言っている。
  「その地域のひとたちは基本的には自分をもっている。自分の考えをもち、自分がどうしたいかで物事を選択する。長い者には巻かれることはない。島のひとたちに言うことを聞かせようとするのはとても難しそうだった。権力で押し切ろうとしても理不尽であったならば言うことは聞かないそうである。納得いかないことにはNOと言う。みんな同じ考えというものを嫌う」と。
  著者が精神科医だと言うことを知った宿の職員(女性)は、気分の不調の治療を受けていると言った。ここではそれを隠すことはなく、周囲みんなが知っていて、不調だとわかるとよってたかって助けに来る。孤立することがない。その職員は、「あとで相談に乗って、聞きたいことがあるから」と幾度も言っていたのに、結局一度も来なかった。言いたいことを言い、忙しそうに働いていて、著者の話を聞くということはなかったそうだ。
  別の島からここに来て、じきに地元に帰る若者はこの島に来て鍛えられ逞しくなったという。
  「『この島のひとたちは強い。自分をもっている』
  私は、さぞ、優しいひとがたくさんいるとか、陰口などがほとんどないとか、そういう話を期待していたわけだが、彼の評価はそうではなかった。
  『この島のひとたちは、ひとの話をきかない(・・・・)』というのである。島が好きかと言うとそう言い切れないようだった。もちろん感謝もしているのだという。しかしとても苦労も多かったのだと。
  『たとえば、自分が歌手でこういうひとが好きでと話をしたとします。その場では相手もいいねと言う。しかし興味がなければその音楽は絶対にきかない。これまでの人間関係だったら、いいねと言ったら少しは聴いてみようかみたいなことになるんだと思うんですよ。でも島のひとは興味がなければ絶対にきかない』
  相手に同調することはない。自分は自分であり他人は他人である。その境界がとても明瞭であるというのである」。
  「私は彼の話を聞きながらひとつの答えに達しようとしていた。
  自殺で亡くなるひとが少ない地域というのは、『自分をしっかりともっていて、それを周りもしっかりと受け止めている地域である』」のだ。
  旧海部町とは違い、この島では地縁血縁の関係が強い。そこで著者が思ったのは、「よい組織とは、構成メンバーの種類が関係するのではなく、メンバーが何に向かっているのか、共通の目標は何かによって生まれる」ということであった。
  この島の特養では、抗精神病薬を飲む高齢者はゼロ、睡眠薬を飲んでいるのも数人だけ。その理由は看護師さんたちとご飯を食べた夜に聞いた話からわかってきたという。それは、「全員、誰がどこに住んでいてどういう人生を過ごしてきたかがよく把握されていた」ことだ。つまり、人間関係は以前と変わらず、「自分らしく生きられる」からそのような薬は必要ないわけである。
  この特養の見学のあとに行った障碍をもつひとの働く場所や居場所になっている施設でも同じだった。そこでも、「ひとりひとりのことを職員はよく知っていた。どこに住んでいて、どういう背景でいて、どういう気持ちでいるのかをよく知っていた。背景を知っていることでいろいろと寛容になれるのかもしれない。寛容さは利用者の表情をみているとわかる。うれしそうに仕事をしている」。
  そのままを認めているから偏見もない。人は多様であることを知っていれば違うものへの偏見は生まれないのだ。
  「ありのままでいいのである。そのように認められると、ひとは穏やかに生きられるようになる。(略)偏見のなさは多様性を受け入れていること、ありのままを受け入れていることでもある。(略)みんな、違っていいのである」。
  またこの地域で、「なるようになる。なるようにしかならない」という言葉をよく聞いたと言う。著者はこう考える。「自然がとても厳しいこと。とても苦しいこともあるということ。何をしても自然にはかなわないということ。その歴史があり続けるということ。それゆえに、『なるようにしかならない』ということばが、生まれた」のだと。
  そしてこう言う。
  「相手は変えられない、自然は変えられない。変えられるのは自分。だから、工夫をしよう。受け入れよう。ありのままを認めよう。そして、自分はどうしたいのかを大事にしていく。人生は、短いのである。生きてそして必ず生を終えるときがある。さまざまなことがある。それを間近でみている。生きていく時間をどう過ごしたらいいのかは、ひとがどこからきてどこへ向かうのかを知っていれば、落ち着いて考えることができる。この島ではそれがはっきりと見える」と。

  終章の「対話する力」では先ず旅を通じて著者の感じ得たことを述べる。それは、自殺希少地域では、人は、「相手のことばをよく聞き、それに対して自分はどう思うかを話し、そしてまた相手がそれに対して反応する。ことばが一方通行にならないように対話を」よくすること。そしてまた、「相手の反応に合わせて自分がどう感じてどう動くかに慣れている」ことだった。
  さらに加えて、生きることを回復させるための本当のニーズとは何か、そしてそのニーズに適合したアプローチをすることが必要だと強調する。その方法として著者は次のような七つの原則を示す。
  (1)即時に助ける・・・囲っているひとがいたら、今、即、助けなさい
    
(2)ソーシャルネットワークの見方・・・ひととひとの関係は疎で多
    
(3)柔軟かつ機動的に・・・意思決定は現場で行う
    
(4)責任の所在の明確化・・・この地域のひとたちは、見て見ぬふりができないひとたちなんですよ

  (5)心理的なつながりの連続性・・・解決するまでかかわり続ける
    (6)不確かさに耐える/寛容・・・なるようになる。なるようにしかならない
    (7)対話主義・・・相手は変えられない。変えられるのは自分

  本書の最後に著者はこう記している。
  「自殺希少地域が幸せに満ちた場所かどうかはわからない。うつ病になるひともいるし、その地域を嫌って出ていくひともいる。ただ確かなのは、ひとが自殺に至るまでに追い詰めたり孤立させたりするようなことはとてもとても少ないということである。完璧なことはないのだとしても」。
  そして、「私がここで記録したのは、私の解釈にすぎないから、これが正しいなどと言うことはできない。ただ、追い詰めたり孤立させたりしないことはできるということは確かだと思う。(略)本書は、その方法の、ひとつの側面を、私が体験したことを通して紹介したものであり、それだけのものに過ぎない。願うのは、本書が何かを考えるきっかけになってもらえたらということである。誰かが少しでも生きやすくなることを願っていたい」。
  表面に見える対話や交流だけではなく、その自然環境や文化的な背景を知ることの大切さを改めて知らされる一冊であった。(雅) 


清水将大著『二宮金次郎の言葉 ―その一生に学ぶ人の道―
                           (コアラブックス 2010年)
  コロナ以前、私の町の図書館では月に一度、「図書館+講談」として、五代目一龍斎貞花師による口演が行われていた。そのひとつに、あるとき『財政再建・農村復興 二宮尊徳』が予定され、予告とともに演題に関連する数冊の書籍が小さなテーブルにあらかじめ展示されていた。何気なく手にとって借りて読んでみたところはじめて知るとことも多く、これは紹介してみたいと思った。
  最近は坐って本を読んでいる姿もあるというが、小学校の入り口に薪を背負いながら歩く二宮金次郎の像を覚えておられる方もおおぜいおられるだろう。一般的には金次郎は勤勉さの手本(注1)として、長じては篤農家、農村の指導者、そして道徳家というイメージだと思う。
  注1:明治44年に刊行された「尋常小学唱歌」(第二学年用)には一番から三番まで、「手本は二宮金次郎」という歌詞が繰り返されている。
  戦前の修身の教科書には、幼年から青年までの金次郎の姿だけが載せられているし(注2)、かつて読んだ伝記でも、憶えているのは農村で農民を指導する話しだけだった。本書の「まえがき」によると、金次郎はそればかりではなく、「有能な商人、銀行家、スケールの大きい実業家、藩主顔負けの政治家という顔を持っていた」と言う。しかもその上、占領軍のある少佐が、「日本が生んだ最大の民主主義者」と語ったエピソードも本書によって知ることができた。
  注2:小池松次編『修身の教科書』(4期尋常小学校修身書巻三、サンマーク出版による。
  序章、終章を含めて12章からなる本書は、金次郎70年の一生を描きつつ、現代的に置きかえた抄訳や再構築した語録に解説を附して紹介している。ただここでは、その中でも基本的なところに焦点をあてて取り上げてみたい。
  本書によると、実践から生まれた金次郎の考えは以下の9点である。

  ①勤労、②分度(ぶんど:自分の収入に見合った水準の中での生活)、③推譲(すいじょう:分度を守って余財を捻出して家族や子孫のために蓄えたり【自譲】、広く社会や国のために譲る【他譲】、④至誠(真心)、⑤積小為大(小さな努力の積み重ね)、⑥心田開発(各人のやる気を起こさせる)、⑦一円融合(全てのものの相互の関係の尊重)、⑧仕法(農村復興や財政立て直しのやり方)、⑨報徳(金次郎の思想全般。すべてのものの特性を活かし、至誠の心をもって勤労、推譲、分度を実行すること)。
  この上で、金次郎の最も強調するところは何であったか言うと、それは勤勉をともなう「実践」とされる。例えば報徳を水にたとえてこのように言っている。
  「大道は水のようなもので、よく世の中を潤沢にして滞らない」。しかし神儒仏の学者が書物には通じていても世の中の役に立たないのは、それが凍ったようなものだからで、「もとは水には違いないが、潤いづらく水の用をなさない」からだと言う。つまり単なる知識は氷にすぎず、「それゆえ、報徳では実行を尊ぶ」のだと。
  さらに、善行が幸福につながり悪行が禍につながることを米と稗にたとえて言う。
  「米を蒔けば米が生え、稗を蒔けば稗を得るのと同じことだ。米を蒔いて米の札を立て、稗を蒔いて稗の札を立て、その生え方を調べれば、米と稗は決して入れ違っていないことがわかる」と。この説明は農民にはよくわかるものだったろう。
  また推譲ということでは、「人の人たるゆえんは『推譲』にある。ここに一粒の米がある。これを食べてしまえばただの一粒だが、もし推し譲ってこれを蒔き、秋の実りを待ってから食べれば、百粒食ってもまだ余りがある。これこそ万世変わらぬ人道なのだ」。これはイエスが語ったという「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」を彷彿とさせるが、これもまた農に携わる人々には身近に理解されるものだったと思う。
  そればかりではない。この推譲の道は、「富者ばかりではなく、道も譲らねばならぬ、言葉も譲らねばならぬ、功績も譲らねばならぬ。よく勤めるがよい」と言っている。これは仏教で説かれる実践の一面にそのままあてはまっていると思われる。
  ここで思い出したのは、何十年も前に読んだ本にあった、後の金次郎の生き方につながるような逸話。それは、金次郎がまだ若い時に、とあるお堂で旅の僧が当時珍しかった日本語の発音で観音経を読むのを傍で聞いて感激し、200文を布施した(これは本書にもある)と言う話。正確な文言は思い出せないが、その時金次郎は、「この経は(観音にすがれと教えているのではなく)、自ら観音の行いをするように教えているのですね」と言って旅の僧を驚かせたという。
  しかし施すと言ってもむやみで無原則ではない。正直で勤勉な者へは大いに援助したが、怠け者にすぐ情けをかけてはかえって滅びのもととなることを金次郎は知っていたからである。次のように言っている。
  「衰えた村を復興させるには、篤実精励の良民を選んで大いにこれを表彰し、一村の模範とし、それによって放逸無頼の貧民がついに変化して、篤実精励の良民となるように導くのである。
  ひとまず放逸無頼の貧民を差し置いて、離散滅亡するにまかせるのが、わが法の秘訣なのだ。なぜかといえば、彼らが改悟改心して、善良に帰するのを待ち受けて、これに地を与え屋敷を与えるのだから、恨みをいだくことはできず、また善良に帰しないわけにいかないのだ」
  そして次には、分度こそが「四海の困窮を救って、あまねく苦民に施して、なお余りがあるという方法」であって、その真髄は「ただ分度を定めるという一事にある」と言う。
  こうした一連の考え方を一文でまとめると、つまりは怠惰から離れて「仕法」に基づいた「勤労」をし、「分度」を定めることで「一円融合」を成し遂げる、これが「報徳」の生き方ということになる。
  今日、税の無駄遣いが言われているような時、その舵取りをしている立場にある人々にぜひ通じてほしい言葉。
  「国や家が貧窮に陥るのはなぜかといえば、これは分内の財を散らしてしまうからである。これを散らさないようにさえすれば、国も国家も必ず繁栄を保つことができる。
  人が寒さに苦しむのは、全身の温かさを散らしてしまうからで、着物を重ねて体を覆えば、すぐに温かくなる。
  これは着物が温かいのではなく、全身の温かさを散らさないからだ。もし衣類そのものが温かいのなら、質屋の蔵からは火事がでるはずだ。けれども一度でもそれで火事になったためしがないから、衣類が温かいものでないことが知れる。
  分度と、国や家との関係は、ちょうどこの着物のようなものだ。
  それだから国や家の衰えを興そうとするには、何よりもまず分度を立てるがよい。
  分度が立ちさえすれば、分内の財が散らないから、衰えた国も起こすことができ、つぶれかけた家も立て直すことができる」
  ここまで、「勤勉」「推譲」「分度」という面を紹介してきたが、本書にはそのほか「有能な商人、銀行家、スケールの大きい実業家、藩主顔負けの政治家」であった実績も数々披瀝されていて、それぞれの立場から読んでみれば、大いに参考になると思われる。
  最後に、それらすべてが鋭い観察眼から来ること示すエピソードを二つあげたいと思う。(本書の著者による)
  畑の草取りでは、はびこってしまった時は誰もが最も茂ったところから手を付けようとするが、金次郎の考えはまさに逆であったと言う。
  「良く茂ったところを除草するには手間がかかり、日数をとられているうちに、あまり茂っていなかったところの草も伸びてしまうので、今度はそちらの草を取るのも大変になる。それよりは、繁茂したところは目をつぶって後回しにし、草の少ないところから除草していった方が効率が上がり、全体として作業がはかどるという、『観察』からくる合理的な考え方だった」
  これはとくに除草に手を焼いている方々には大変良くわかる話ではないだろうか。
  もう一つは農民としての面目が示されたもの。
  金次郎が47歳になった天保41833)年は、初夏になっても気温が高くならず、稲の育ちも遅れ気味であったと言う。
  「ある日金次郎は宇都宮(栃木県)の町へ出かけた途中に、ある農家で出された茄子を食べた。そして、『おやっ、今の時期の茄子にしては、種になるところが多く秋茄子の味がする。ということは、気温の上がる日が少なく、気候はすでに秋と同じなのだ。これは冷害の前ぶれだぞ』と、気づいたという。(略)
  冷害にあえば、飢饉は避けることができない。二宮金次郎は急いで桜町へ帰り、『綿花の畑などを潰して、どの家も一反はすぐにヒエを植えつけよ。また、荒地や空き地、寺の境内など、耕せるところはすべて耕して、豆を蒔くのじゃ。そして、その収穫は必ず蓄えておくのだ。どの家にも一反分の年貢を免除するので、心配するな』
  名主たちを集めて、こう伝えた。
  『天明の大飢饉から五十年。もう、飢饉が来る頃なのだ。私はこの地方の皆を、飢えから救うために言っているのだ。一日のためらいは、3年、5年の悔いになるのだぞ。さあ、急ぐのだ』
  金次郎は、昔の資料を調べて統計を取っていて、だいたい50年おきに大きな飢饉が来ることを知っていたのである。さらに、知識だけではなく、実際に、作物の育て方や、農作業をよく知っていたから、的確な判断と、正しい指導ができたのであろう」
  客観的で鋭い観察眼を養うことの大切さ、そのことを肝に銘じたい。(雅)



前ページへ
『月刊サティ!』トップページへ
 ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)トップページへ