月刊サティ!

読んでみました

2021年1月~6月  

 
  
  ユヴァル・ノア・ハラリ著『Lessons21』(河出書房新社 2019年)
 ユヴァル・ノア・ハラリ著『緊急提言・パンデミック』(同 2020年)
                   を読んで

『Lessons21』
  ハラリの「言葉」から原始仏教を思う。

  ハラリは、私たちの身心は現在、AIによって加速度的にハッキングされているという。たとえば、「美味しい」アイスクリームという時、「世界でとりわけ大きな成功を収めるアイスクリーム供給業者は、最も美味しいアイスクリームの生産者ではなく、グーグルのアルコリズムが上位にランキングした業者だ」(P.060)。
  ハラリが言う通り、私たちは今、対象に対して、自身の感覚(六根)を研ぎ澄まし、直接的に臨むこと(観察)をせず、ググってAIが提示するものを享受しているのが実際だ。その結果か、次第に自分の体や感覚、身体的環境と現実が疎遠になってきてしまっているような気がする。
  そんな身辺に纏う疎外感を埋めるべく、重ねて、私たちは、「美味しい」物語(幻想)を探し求めるようだ。その物語は、私たちに何らかの大義ある役割を与えてくれるようなものであればあるほど、より甘美なものへとなっていく。
  ところが、物語の提供者が、邪な国家や宗教である場合は、いらぬ争いを招いてしまう事も。国家や宗教の本質をハラリの言で引用してみる。たとえば、国家や宗教が、「立派な道徳」や「教条のひとつ」を、仮に「サッカーすること」などと勝手に定めたとする。すると、「サッカーは、個人のアイデンティティを明確に形作るのを助けたり、大規模なコミュニティを結束させたりできるし、暴力を振るう理由を提供することさえできる。
  国家や宗教は、ステロイド剤を使っているサッカークラブのようなものだ」(P.312)。「サッカーをすること」のカギ括弧の中味は、時の国家や宗教で、恣意的にいろいろ入れられる。そして、その恣意的物語は検証されないまま変転していくのがこれまでの通例だ。
  21世紀以降の物語創出においても、AIへの期待は大きい。ところが、絶対的限界がある。すなわち、AIに慈悲喜捨の心をプログラミングすることは不可能だということ。たとえば、あの自動運転「トロッコ問題」、依然未解決。加えて、ハラリが挙げた興味深い例を紹介したい。「2015年のある先駆的な研究では、複数の歩行者を自動運転車が今にも轢こうとしているという、架空の筋書きが参加者に示された。ほとんどの参加者は、そのような場合には自動運転車は所有者の命を奪うという代償を払ってさえ、歩行者を助けるべきだと述べた。
  ところが、より大きな善のためには所有者を犠牲にするようにプログラムされた自動車を、自分なら買うかどうかと尋ねられると、大半の参加者はノーと答えた」。四無量心は決して科学的数値では計れない。遙かな祈りは、絶対に人にしかできない。
  ハラリの重ねての警鐘がある。それは「人間の愚かさを決して過小評価してはならない」(P.225)ということ。人間の愚かさから私たちを守ってくれるような、AIテクノロジー、自然法則、社会システムは、結局のところないという。「有名な話だが、ウィンストン・チャーチルは次のように言っている。『民主主義はこの世で最悪な政治制度だ。ただし、他のすべての政治制度を除けば』、と」(P.081)。人間の愚かさ、それは如何ともし難い、まさに根絶補可能な煩悩に他ならない。
  『Lessons21』の副題には「21世紀のための21の思考」とあり、21番目の思考として「瞑想」を挙げる。ハラリは「瞑想」によって、「虚構の物語をすべて捨て去ったときには、以前と比べものにならないほどはっきりと現実を観察することができ、自分とこの世界についての真実を本当に知ったなら、人は何があっても惨めになることはない」(P.419)と言う。その具体的な方法として、ヴィパサナー瞑想を提示する。彼は、ヴィパサナー瞑想により養い得た視点で、ホモ・サピエンスの全史を、その未来まで俯瞰し、確かなエビデンスを伴って、豊かな智を披露した。圧巻そのものだ。
  そこに印象的な言葉があった。「苦しみは外の世界の客観的な状況ではない。それは、私自身によって生み出された精神的な反応だ」(P.402)。ヴィパサナー瞑想で分析する対象を明確に語っている。ここで、私は思い出す。2017年の6月に、タイで起こったあの事例。真っ暗な洞窟の中に13日間閉じ込められ少年たち。パニックに陥らずに、平静を保ち、最後まで体力を温存した。その理由として、僧侶の経験を持つコーチによる、ヴィパッサナー瞑想があったという。命を救う瞑想。
  ハラリは、現在、毎日2時間、毎年2ヶ月の合宿(リトリート)に入っているという。「瞑想は現実からの逃避ではない。現実と接触する行為だ」(P.403)と語り、「自分という個人の存在や生命の将来に関して、多少の支配権を維持したければ、幻想はすべて置いていくに限る。ひどく重たいから」(P347)と核心を突く。
  次の言葉が、この本編の「はじめに」に記されている。「ことによると私たちはさらに時間をさかのぼり、古代の宗教伝統の泉から希望と叡智を汲み出す必要があるかもしれない」(P.012)。ハラリは、原始仏教ブッディストの道を歩んでいるのかもしれない。

『緊急提言・パンデミック』
  ハラリの「提言」から原始仏教を思う。
  多くの犠牲者を出している新型コロナウイルスに対して、ハラリは、「真の安全確保は、信頼のおける科学情報の世界的共有と、グローバルな団結によって達成されることを、歴史は語っている。」(P.21)と提言する。孤立主義、ミー・ファースト主義を強め、「国同士、人間同士が争えば、それはこのウイルスにとって最大の勝利となるだろう」と。「もしこの大流行からより緊密な国際協力が生じれば、将来現れるあらゆる病原体に対しての勝利ともなることだろう」(P.30)
  確かにこの危機を乗り越えるには、科学の可能性を信じ、国際協力のもと立ち向かっていくほかはない。しかし、今回のハラリの提言は、新型ウイルス対処法に留まってはいない。コロナ危機を乗り越えながらも、より根源的な問題を投げかけている。「私たちが直面している最大の危険は、ウイルスではなく、人類が内に抱えた魔物たち、すなわち、憎悪と強欲と無知だ」(P.9)と。
  新型コロナは、人々を直接的に脅威に向き合わせている。そうでありつつ広く現実は、その後ろに、さらに凄い脅威、人類を確実に滅亡させるパンデミック(世界的大流行)が進行しているではないか。すなわち、地球的な気候変動(温暖化)、世界的な資源の枯渇(食料生産の減少)、各国格差による社会の不安定化(テロ、内戦)。悲しきかな、これらは私たち日本では深く認識されているとは言い難く、しかし実際に世界的同時的に蔓延している。
  引き起こしている本当の根源的原因はなにか。それこそがハラリの言う「人類が内に抱えた魔物たち」(P.9)。新型コロナの最悪のシナリオとして、死亡率を最大2%と仮定、すると死者の合計は1億人(ニュースウイーク2020.12版)となるという。もちろん、実際にはそこまでにはならないだろうが。ところが、「魔物たち」によって進行している、3つのパンデミックは、最悪の段階において、確実に人類を全滅へ導く。
  『サピエンス全史』において、ハラリは、人類の妄想の肥大化によって引き起された数々の出来事を、歴史上に詳らかにしていった。人類の歴史は幻想の楼閣。何百万年流れて、私たちはここ現在にたどり着くことになった。手をじっと見る。手指に残る水かきのようなもの、この部位は人類が海の中にいたことの名残、という話しを思い出す。俯瞰するならば、人類というものは、いかに束の間の存在たるや。
  「高い空 腕を伸ばして どこまでも咲こうとした めぐりあわせの儚さに まだ気づきもせず 幾億年歩き続けて すがた貌は変わっても 幾億年傷を抱えて 明日こそはと願っても」。中島みゆきの歌『進化樹』。「誰か教えて 僕たちは今 ほんとうに進化をしただろうか この進化樹の最初の粒と 僕はたじろがずに向き合えるのか」。
  ハラリにとっての究極の目標。それは「私たちが内なる魔物たちを打ち負かし・・・(略)・・・はるかに統一された種とな」り、そのような「人類にとっての素晴らしい転換点」(P.110)にたどり着くこととある。
  では、そんな「魔物たち」に弄ばれないために、どのようなことができるのか。ハラリは断言する、「思いやりや気前のよさ(※)や叡智を生み出すような対応」「こうした建設的な形で反応すれば・・・(略)・・・ポストコロナの世界は、格段に繁栄し、円満なものになるだろう」(P.10)と。思うに、これは、まさに仏教に言う、慈悲と善行とサティでは。
  Covid-19の被害者を支援するため著者ハラリは本書の印税を放棄する。(序文後書きより)
  続けて、「自分は一時的な存在であり、必ず死ぬという事実に取り組む責務も、担わなくてはならない」(P.70)、「核心の入り口にあるのは、死や自らの脆弱さ、はかなさと向かい合い、生の意義を考えること」だと言う。あたかも三法印を腹に落とし込めと言っているようではないだろうか。ハラリは、歴史学者であると同時にブッディストとなっている。
  今、ハラリの言葉が、ブッダの言葉に裏打ちされ迫ってくる。「何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか。世間はこのように燃え立っているのに。汝らは暗黒に陥っていて、燈明を求めようとしない」(ダンマパダ)。
  さて、当面の現状を乗り切ることに限っての処方として、ハラリが繰り返し強調するのは、冒頭でも触れた「協力」だ。そう、多くの生物の中で、ホモ・サピエンスが生き残り得てきたのは、協力をつくれたから。協力しながら生きていく生物種は、本当に強い。「新型コロナに対する私たちの最大の強みは、ウイルスにはできない形で協力できることです」(P.102)
  あの多くの渡り鳥、命掛けの遙か遠い旅路。ひたすら一羽一羽が全力で羽ばたいているわけではない。互いの羽ばたきの浮力に乗って助け合いながら飛んでいるという。だから飛び続けられる。人間も、この先、歩んでいけるはずだ。誰一人残すことないように、ひたすら助け合えば。
  インタビューアー:「コロナ渦、あなたは恐れをどのようにして克服しているのですか?」
  ハラリ:「この危機の間も毎日二時間瞑想しています。いや、この危機だからこそかもしれません、私はヴィパサナー瞑想をしています」(P.110)(常) 


 読んでみました
 佐藤由美子著『戦争の歌がきこえる』(柏書房 2020年)
  米国認定音楽療法士としてホスピスケアの音楽療法を専門としてきた佐藤由美子氏は、戦争によって心に重大な傷を負ってきた人たちの存在を知った。それはまさに「日本人が知らない『もうひとつの戦争』の記憶」であった。
  著者によれば、音楽療法(Music Therapy)とは、臨床かつエビデンスに基づき、「クライエントの身体的、感情的、認知的、精神的、社会的なニーズに対応するために、音楽を意図的に使用する」療法であり、「終末期の患者さんやご家族の場合は、音楽を通じての精神的サポート(不安、怒り、うつ状態の軽減など)、社会的サポート(孤立や孤独の軽減など)、身体的サポート(痛みや息切れなどの症状の緩和)などが中心」になると言う。
  本書は、著者の祖父について書かれた第7章を除いて、ホスピスでの経験を元にしている。それらの事例は次のようなものだ。
  ・日本兵を殺したことを、日本人の私に告白した退役軍人。
  ・フィリピンで日本兵に親友を殺され、その後、広島で焼け野原を見た男性。
  ・罪悪感に悩まされつづけた原爆開発の関係者。
  ・ドイツ系アメリカ人として、「自由」 のためにナチスと戦った兵士。
  PTSDに悩まされた退役軍人と結婚した女性。
  ・ホロコーストの記憶に悩まされつづけた三人の患者。
  ・日本占領下の中国で生まれ、日本からもアメリカからも忘れられた人・・・。

1章「良い戦争という幻想」はこうして始まる。
  著者はある日、音楽療法士であると同時にグリーフカウンセラーでもあるスーパーバイザーのジムからこう言われて驚く。
  「ひとつだけ心配なことがあるんだ。きみがここで出会う患者さんの中には、第二次世界大戦で戦った人や戦争で大切な人を失った人がいる」「日本人という理由で嫌な思いをすることがあるかもしれない。もしそういうことがあったら、いつでも言ってほしい」
  著者が問題意識を持ったきっかけはこの言葉だった。そしてこう記す。
  「第二次世界大戦を生き抜いたアメリカ人は、人生の最期に何を語ったのか?日本人である私に対して、どのような気持ちを抱いたのだろうか?彼らのほとんどはもう、この世にはいない。私が受け取った言葉を、ひとりでも多くの日本人に届けられたら幸いだ」
  アメリカでは、第2次世界大戦は彼らにとって最も大切な民主主義の理想をかけた戦いであり、“just war”とか“good war”と呼ぶそうである。(対してベトナム戦争は“bad war”)
  帰還した兵士たちはヒーローとして迎えられ、新しい人生を築いていった。少なくともそれが、「この地で繰り返し語られる物語」であり、今日オハイオ州の高校で使用されている歴史の教科書にも、「アメリカの歴史上、最もよく戦った戦争」と書かれているそうである。
  しかし・・・
  働き始めて1年ほど経った夏の日の午後、75歳で末期の肝臓癌を患うロンの病室で演奏が終わると、もともと口数の少ない彼が、「戦争中、中国人の女性に出会ったことがあるんだ。とてもよくしてもらった。もしかすると、きみも中国人?」と言った。
  「『いいえ、日本人です』
  私がそう答えた瞬間、ロンは丸い目を大きく見開き、ハッと息を吸いこんだ。そのまま呼吸が止まってしまうのではないかと思えるほどだった。表情もこわばっている。(略)明らかな緊張が見てとれた。そしで彼は、絞り出すような声で言ったのである。
  I killed Japanese soldiers.
  その言葉は、彼の中にずっとしまわれていたものが、期せずして外に飛び出てしまったような響きをもっていた」
  「『彼らは若かった。僕も若かった・・・。彼らの家族のことを考えると・・・』
  それ以上は言葉が続かない。リクライニングチェアの上で、彼の痩せ細った体が激しく震えはじめている。泣き出しでしまったのだ」
  しばらくしてふたたび口を開いたロンは、
  「『本当に申し訳ない・・・』
  いくら押し殺そうとしでも、感情を抑えきれないようで、涙はとめとなくあふれてきた。(略)奥さんが知っていたのは、彼が『サイパンで戦った』と言うことだけだった。彼は戦争について、それ以外はなにも語らなかったという」
  年齢からすると、彼がサイパンに到着したのは19歳。その戦闘ではアメリカ兵の死者数は3144人、日本兵や民間人は合計55300人。韓国人や島民も犠牲になったがその数は定かではないという。
  この章にはほかに「硫黄島の星条旗」に写された6人の兵士のその後が記されている。アメリカの1945年から47年にかけての離婚率は史上最高、なかでも退役軍人は一般人の2倍だった。また、何らかの心理的問題を抱えた兵士がおよそ230万人、今で言うPTSDの症状を呈した退役軍人は非常に多かったという。そしてその苦しみを忘れるための酒への依存症。つまり「良い戦争」などどこにもない、まして兵士たちにとっては。
  著者はその後、静岡県三島市での野外イベントで、3歳の時に父が徴兵されたという白髪交じりの女性に出会う。
  「たくさんの兵隊さんの中に、何度も後ろを振り返った私をじっと見ている人がいたわ。それがお父さんだったの・・・」
  唯一わかっているのはサイパンで戦死したことだけ。漁港のそばで育った彼女は、よく散歩する浜辺で浜千鳥を見つけた時、自分は「浜千鳥」の歌のように父を探していることに気づいたと言う。
  「愛する人を失った人たちにとって、戦争は終わることのないものである。ロンの戦争が人生の最期まで終わることのなかったように、それは、今も確かに、続いているのだ」
  2章、末期癌の妻アナさんの夫ユージーンは、1943年の秋19歳で入隊し、44年にフィリピン戦線へ送られた。殺すか殺されるかという暗闇のジャングルの接近戦では誰が敵か味方かわからない状況もあった。そうしたなか、意気投合したジョージが戦死、彼も負傷を負って病院で終戦を迎える。
  「『日本人に怒りはないのですか?』
  『ノー』彼は首を振り、少し考えてからこう言った。『いや、もしかすると最初は・・・。でも、日本に行って気持ちが変わった。僕は日本を愛している』」
  戦争が終わって数ヵ月後、彼は広島で信じられない光景を見る。
  「『すべてが焼け焦げていた。焼け死んだ子どもの死体・・・、溶けた電球・・・。そんな光景、信じられる!?』
  『それまで、仲間の死体や怪我した兵士たちをたくさん見た。でも、広島で見た光景はそれとは全然違った・・・』
  『子ともたちの目が忘れられない。ゴミ箱のゴミを食べたりしていた・・・。本当にかわいそうだった』
  彼の目には、先日と同じょうに涙があふれていた。
  『でもある日、幼い男の子と女の子たちが一緒に歌を唄っている光景を見た。子どもらしくはしゃいでいて、それが唯一の希望に感じられたんだ』」
  日本での滞在中に地方を訪れたユージーンは、植物が青々と茂り牧歌的な田園風景が広がる日本の自然とそこで暮らす人々の姿を見た。
  「『日本の人々や文化がとても印象に残った。日本人も僕らも、そんなに変わりはないと知った』
  『戦争に送られる前、日本人はアメリカ人とまったく違うと教えられていたから・・・。でも、実際にはそうではなかった』
  『日本兵は命令されたことをやった。それは僕らだって同じだ。それだけのことなんだ』」
  アナさんの葬儀のあと、いろいろなことを共有してくれたユージーンに簡単にお礼を言うと、彼は手を伸ばして著者に握手を求め、強く手を握ってこう言った。
  Please don’t forget
  3
  「『原爆の開発だよ・・・。でも知らなかった。あんなことになるとは、本当に知らなかったんだ・・・!』
  『ああ、犠牲になった人たち・・・子どもたちのことを考えると・・・』
  彼は首を何度も横に振り、目を閉じた。頬には涙が伝っていた。
  『誇りには思っていない』
  そう言って、サムは静かに泣き出してしまった」
  若い頃マンハッタン計画にかかわったサムは93歳で末期の大腸癌だった。プロジェクトには60万人以上が関与したというが、その目的を知っているのはほんのわずか。彼は事情を知らなかったが、それでも彼は自分を責め続けてきた。
  反応はふたつに分かれた。「これで戦争が終わるかも知れないと歓喜した人々と、多くの命を奪った原爆への恐怖に囚われた人たち。サムは後者だった」。
  著者によると、プロジェクトの引き金になったルーズベルト大統領への手紙にサインしたアインシュタインはのちに後悔して、「もしドイツが原爆開発に成功しないとわかっていたら、サインしなかった」と言ったという。また、かのオッぺンハイマーも、終戦2か月後に初めてトルーマン大統領と面会した際、「私の手は血で汚れているように感じるのです」と言ったそうだ。
  またこの章には18歳で徴兵され、ベトナムで枯れ葉剤を撒いた50代の筋ジストロフィー末期の患者ヘンリーのことが描かれる。
  「『ベトナム戦のことをずっと考えているんだ・・・』
  『僕はベトナムで枯葉剤を撒いたんだ! 当時は枯葉剤がなんなのか知らなかった』
  『あなたはまだ18歳だった。戦争がどんなもので、何をさせられるかさえ知らなかったでしょう』
  『司祭にも同じことを言われた。でも僕は、自分のしたことが許せないんだ』」
  ヘンリーは死が近づくにつれ自分を責め続け、同じストーリーを何度も繰り返し、ますます動揺するようになった。著者は、「ヘンリーとサムが抱いた強い罪悪感は、本人たちにしかわからないものだ。感情とは、必ずしも道理にかなうものではないのだ」と知る。
  そしてこの章をこう結ぶ。
  「サムは、最期に自分を許すことができたのだろうか、と私は今でも考えるときがある。博物館でエノラ・ゲイを見たときもそのことが頭に浮かんだ。
  もちろん答えは本人にしかわからない。ひとつ言えるのは、サムは、過去を変えることはできないのだと、受け入れたということだ。過去が違ってさえいれは、あるいは、違っていてくれたならば――そんな希望を、手放したのだ。もしかすると、自分を許すとは、そういうことなのかもしれない」
  4章、欧州戦線に派遣されたウォルターとの出会ったのは2006年の秋、テレビからはイラク戦争のニュースが流れていた。
  「『テレビを消してくれる? これはひどい・・・。もう見たくない』『こんな戦争を始めてしまうなんて・・・。戦地に送られた若者たちのことを思うと・・・』」
  1945年のある日、仲間たちと乗ることになっていた搭乗機に、直前になって彼の代わりに別の人が搭乗することになった。ところがその機は離陸してすぐ墜落、激しい炎に包まれて親友たちが亡くなってしまう。その光景は今も忘れられず、仲間と一緒に整備した航空機の模型を見ながら、「これを見ていると、親友たちのことが目に浮かぶ。彼らは僕の心の中に今もいるんだよ・・・。どういうわけか、僕は九死に一生を得た。なぜかはわからないが・・・。でもあの日、心に誓ったことがある。もしこの戟争から生きて帰ることができたら、シンプルで幸せな人生を送ろう、ってね」。
  1945年、約3年ぶりに戦争から故郷のシンシナティに帰った日の出来事を彼は話してくれた。
  「帰還した僕を見て、母が言ったんだ。『大変だったわね。でも、私たちも大変だったのよ。お砂糖がなかなか手に入らなかったんだから!』って。そのとき、自分たちが経験したことは、一般市民には理解できないことなんだと思った。だからその後、戦争の話はしないことにしたんだ」
  5章は退役軍人の夫を支え続けてきた女性キャサリンの話。子ども時代に両親を失い、叔母さん夫婦に育てられた彼女には、長い間心を許せる人がいなかったという。そして、背が高く、運動が出来、社交的で彼女とは正反対の大切な人ボビーと出会い結婚した。
  しかし、戦争で彼はまさに「別人」になってしまった。キャサリンは、彼がバルジの戦いでドイツ軍の捕虜となって戦争終結まで収容所に入っていたことだけしか知らない。
  生涯その記憶に苦しみ、「お酒を飲んでいるときだけ、悪夢を忘れられる」と言った彼は、まだ戦場で戦っているような行動をとった。キャサリンがつぶやいた。「彼にとって戦争が終わることはなかった。私たち家族にとっても・・・」「喪失やグリーフ、・・・こういうことは、経験するまでわからないことだと思うの」と。
  もういないのにどこかで生きているような気がするのとは逆に、彼女の場合はボビーが目の前にいるのに精神的にはもういない人という感覚だったのではないかと著者は考えている。
  「『離婚を考えたことは?』『ええ、あるわよ。でも、できなかったの。私のボビーは戦争に行って、戻ってこなかった・・・。でも、彼に起こったことは、彼のせいじゃない』彼女は涙をぬぐうと、顔をそむけた」
  6章は、アウシュビッツで家族を殺されて一人生き残り、解放された時に17歳くらいだったマリー、強制収容所を解放したアメリカ軍のジェリー、ドイツ軍兵士として戦ったレイモンドである。
  マリーは解放後アメリカに移民してシンシナティ郊外で農業を営む。彼女の部屋には、子どもや孫、彼女自身の笑顔の写真がたくさん飾られていたが、精神状態が日に日に悪化、音や光や触れられることなど、あらゆる刺激が彼女に恐怖をもたらした。カーテンを閉めた暗い部屋で過ごすマリーは、目を覚ますと、「ナチスが来る!」「助けて!」と泣き叫んで震え出す。彼女は死の直前まで、ホロコーストがふたたび起こっていると信じ込んでいるようで、「彼女の最期は私が見た死の中で、最も悲惨なもののひとつだった」。
  出会ったときにアルツハイマー型認知症の末期だったドイツ系アメリカ人ジェリーは、自分の名前以外はほとんどわからない状態だったが、いつでも機嫌がよく愉快な人だった。ある日、突然今までに見たことのない表情で何かを指差した。それは第2次世界大戦の写真集。開かれたページにはブーヘンヴァルト強制収容所の光景。有刺鉄線の向こうからこちらをじっと見ているストライブのパジャマを着た骨と皮だけのユダヤ人の男性たち。隣には死体が山積みされたトラック。それを目の前にしたアメリカ兵たち。ジェリーはそこに居合わせた兵士の一人だった。「あー、あー」と必死に何かを言おうとしている彼の「瞳には恐怖と驚きが宿っていた」。
  娘のハナは一度だけ父から聞いたと言う。
  「・・・45歳ぐらいの小さな男の子が地面にうずくまっていたらしいの。その子を抱きかかえたとき、とても軽かった。痩せていて、皮だけで、もう死んでいるのかと思ったら、目を開いて父のことを見たらしいの・・・。でも、次の瞬間にうめき声を出して、父の腕の中で亡くなったそうよ。そのことがずっと忘れられなかったみたい。そのことを泣きながら話してくれことがあったわ・・・」「人間になんでこんなことができるのかわからない、って父がよく言っていたわ」
  「あの日、彼の目が私に訴えかけていたのは、この悲劇から目を背けないように、ということだったのかもしれない」と著者は感じている。
  「きみ、日本人!?」と訊いたレイに「そうです」と答えると、彼は両手を伸ばして著者の左手を強く握ってきた。
  「『僕はドイツ兵士として戦争を戦ったんだ・・・。僕たちの国は味方同士だった・・・』
  彼は急に泣き出した。泣き止むことができない子とものように声をあげている。今までずっとこらえていたものがこらえられなくなった、そんな泣き方だった」
  母は反対したが、彼は10歳のころヒトラーユーゲントに入る。同年代の子どもたちの多くが参加しており、ごく普通のことだと思った。仲間とともに歌を唄うと一体感が強まり、陶酔感さえ味わう。「ドイツは素晴らしい国」「ドイツ人はほかの民族より優れる」と教えられるままに信じ込んでいた。
  10代の終わりころにロシアの前線に送られる。そこで目にしたのが「暗い森」の光景、あたりには死体が転がっていた。
  「『気づくと僕の顔に雪が降りかかってきていて、それで急に穏やかな気持ちになったのを覚えている。周りは静かで、物音ひとつ聞こえない。そのとき、母さんは正しかった、自分は間違っていた、と気づいたんだ』」
  自らの過去を語った日、彼は最期にこうも言った。
  「『ホロコーストみたいなことは、また起こる可能性があると思う。人間はそんなに変わってはいないから』」
  2020127日の「国際ホロコースト記念日」の2日前、ワルシャワで暮らす96歳の生存者の言葉。がニューヨークタイムズ紙に掲載されたと言う。
  「私は(ホロコーストが)二度と起こらない、とは言えない。今日の指導者たちは、危険な野心、誇り、そしで他人よりも優れているという感覚をいまだにもっている。それがどんな結果を生む可能性があるか、私たちは知っているのだ」
  7章は、戦争の終わりころに南方に送られそうになった著者の祖父の話である。もし送られていたら生還する確率はかなり低かったに違いない。
  著者が12歳のころ、祖父母の家の近くの寺で軍服を着た若者の写真が並んでいるのを見た。戦死した人たちに違いない。母に尋ねると祖父の2歳下の弟が戦死しているという。当時29歳、硫黄島だった。その戦いの数か月前に彼の第一子が誕生していた。
  祖父が亡くなる3年前、帰国して祖父母の家に立ち寄った時、急に思いがけないことを話しはじめた。
  「『近所の娘さんがドイツ人と結婚したんだ。ドイツ人と聞いて驚いたが、その人はいい人らしい。・・・もしも由美子がそのうち結婚したいと思う人に出会ったら、その人の国籍は関係ないんだよ。・・・大切なことはそういうことじゃない』そう言って、祖父はにっこりと笑った」
  「それから数年後、今の夫と出会ったとき、まっさきに思い出したのはこのときの祖父の言葉だった」
  8章は「集合的記憶」の考察から始まる。これは、ある事柄についてそれぞれが持っているイメージ、記憶、意味、ストーリーの違いを集団に拡大した考え方である。
  例えば、第二次世界大戦と聞いた時、私たちが浮かべる具体的な出来事のイメージと、アメリカ人とのそれとはかなり違っているだろう。これを「集合的記憶」と言うが、そこには避けがたい問題があると著者は言う。それは、「その記憶が、その記憶を形成した社会においてのみ役に立つ」という点であり、加えて、相手との結びつきを強めるには「役に立たない場合が多い。むしろ障壁になることさえある」からである。
  そこから著者は、「自分とは異なる記憶を持つ人たちと出会ったとき、私たちはその相手と、どのように関係性を築いていけるのだろうか?」という問題に至る。そしてそれについて、リーさんという中国からの移民がそのヒントを与えてくれたと言う。
  中国福州(1938年から46年まで日本軍に占領されていた)で生まれたリーさんは、1946年、14歳のとき両親と妹とアメリカに来たが、政治的な理由で中国には帰れなくなってしまう。
  また息子のケビンによれば、リーさんが幼いころ暮らした香港で、叔母が1941128日の「香港の戦い」に巻き込まれて亡くなったという。イギリス軍が降伏して日本軍の占領が始まったクリスマスの日に「患者、医療者、イギリス人の負傷兵などが殺され」、香港ではこの日を「ブラック・クリスマス」と呼んでいるそうである。日本では真珠湾攻撃は知られていても、この戦いはあまり知られていない。
  こうしたことから、著者が中国における戦争に関連する情報を検索した。
  「私が驚いたのは、このような出来事についで、自分がほとんど何も『知らない』ということだった。中学・高校の歴史の授業で、私は何を学んだのだろう?」
  著者はその後「社会的忘却」という言葉を知る。
  それは、その名のとおり「集団で忘れる」ことを指すが、何かを「思い出せない」だけではなく、「意図的に無視(度外視)する」というニュアンスも含まれる。なぜなら、「社会や集団にとって恥ずべき出来事や都合の悪い記憶ほど心理的な抑圧が働きやすい」からであって、「記憶の穴」と表現されることもあるという。
  ただ、「社会的忘却」は「個人の記憶」と共存することがある。それは、社会のほとんどの人は忘れても、ある人たちは覚えているという場合だ。そして、その個人の記憶は社会的に共有され認識されることもあれば、抑圧され隠されてしまうこともある。
  そして著者はこう危惧する。「私たちが『あったこと』を忘れているのだとしたら、そこに事実と異なる過去を植えつけることは、想像以上に容易なことに思われる」。それに関連して、2016年にオバマ大統領(当時)が広島を訪問した際のスピーチの一部を紹介している。
  「国家は、犠牲と協力において人々を団結させるストーリーを語り、優れた功績を可能にしてきました。しかし、その同じストーリーが、自分とは違う人々を抑圧し、非人間化するためにも頻繁に利用されてきたのです」
  ある機会にリーさんに、「ホスピスの患者さんになってから6ヵ月が経ちますね。そのことについてどう思いますか?」と聞いてみたところ、彼はしばらく宙を見つめ、“It’s something I have to get through.”(通り抜けなければいけない道だ)と言ったそうである。
  エピローグで著者は本書の意図を次のように語る。
  「この本では、日本で生まれ育った私が抱いてきた『集合的記憶』とはかなり異なる記憶をもった人たちのストーリーを紹介してきた。この本を執筆しようと思ったのは、日本の読者にも、日本の外からの視点で、あの戦争を見つめ直しでみてほしいと思ったからだ。
  国籍も置かれた境遇もまったく異なる人たちがもつ記憶をたどることは、自分たちの過去を知ることはもちろん、それをよりよい未来につなげていくことにもつながるはずだ。
  そのためにも、私たちは、ときに『忘れられた記憶』を発掘し、保存していかなければならないし、『向き合いたくない記憶』と向き合い、語り継がなければならない。そして、それこそが大切なのだと、もうここにはいない彼らが言っている気がするのである」
  知識、知見を広く客観的に求めつつ、目を背けずに事実を直視することのみが本当の理解、平安に繫がるということを肝に銘ずることがなにより大切なのだと思う。(雅)

   読んでみました
 ナオミ・オレスケス、エリック・M.コンウエイ著
『世界を騙しつづける科学者たち』上・下(楽工社、2021年)
  緻密かつ膨大な研究と事例が網羅されている本書の著者ナオミ・オレスケス氏は、カリフォルニア大学サンディエゴ校教授で専門は科学史、エリック・M.コンウェイ氏はNASAジェット推進研究所(JPL)研究員である。著者は本書の主旨をこう述べる。
  「自然界の真実を明らかにすることに身を捧げた科学者がなぜ、仲間の科学者の研究について間違ったことを故意に伝えたりするのだろうか。何の根拠もない非難をなぜ広めようとするのだろうか。正しくないことが明らかにされてもなお、自説を訂正しようとしないのだろうか。そしてマスコミはなぜ、何年経っても彼らの言葉を引用し続けるのだろうか。彼らの主張が間違っていることは次々と明らかになっているのに」・・・「私たちがこの本で取り上げるのは、そういう物語だ。科学的な証拠と戦い、われわれの時代が抱える最も重要な問題の多くについて混乱をまき散らした、科学者のグループについての物語。それは現在も続くパターンについての物語でもある。事実と戦い、疑念を売りつけることについての物語だ」
  本書はタバコの害から始まり、スター・ウォーズ計画、酸性雨、オゾンホール、二次喫煙、地球温暖化、そして『沈黙の春』への恣意的な非難など、かつては高名で権威をまとった科学者であった人々がいかに誤った主張を声高に繰り返してきたかを明らかにしている。これは日本も例外ではないだろう。本稿では詳細を記す余裕はないので、機会があればぜひ読まれると良いと思う。なお冒頭には全体を通じてのキーワード、人物が掲載されている。
  通読した感想では、本書は下巻の「結論」と「エピローグ」から読むのが良いかも知れない。なぜなら、そこに著者の主張がまとめられているからだ。著者はそこでこう述べている。
  「本書を書くために、われわれは何十万ページにも及ぶ文書を調べた。歴史の研究を続ける中で、さらに数百万ページの資料に目を通して」きた。しかし結局、「当事者だった人たちに語ってもらうのが一番だと思うことが多い」と。
  そして、ブリティッシュ・アメリカン・タバコのリサーチ・ディレクター、S・J・グリーンの言葉を引用する。彼は、タバコ業界が倫理面だけでなく知的な意味でも間違っていたことを最終的に認めた人物である。それは、「科学的証明を要求するというのは、常に何もせず対策を遅らせるための方便だ。またたいていの場合、罪悪感からくる最初の反応でもある。もちろん、こうした判断をするための正しい基盤は、ごく当たり前ながら、その状況において合理的なものかどうかということだ」というものだ。
  本稿の告発対象は次の二つにまとめられよう。
  第一に、かつて権威ある地位に就いていた本書の主人公(と著者は言う)の科学者たちが、「疑念の売り込み(懐疑論)」によっていかに人々を欺いてきたか。そして第二に、型に嵌まったバランス意識と、また、こうあってほしいという安全バイアスに囚われて人々を誤った認識に導いてきたジャーナリズムである。
  科学を装った政治的な主張に対して、なぜ、真っ当な科学者たちは異議を唱えてこなかったのか。その理由は、現代科学の成果はチームワークによるものであり、また、政治的な論争に関わると客観性をないがしろにしたという非難を受けかねないからであるという。しかし最もよく理解し得るのは、彼らが、「科学を愛しており、最後には真実が勝つと信じているから」ではないかと。
  懐疑論に沿った報告書についてある指導的な科学者はこう言ったそうだ。
  「ゴミだと分かっていたから単に無視したんだ」
  本書の主人公に擬された人々はすでに科学研究から離れており、また、彼らが主張した分野の専門家だったことも、一度もない。それら分野の、「すべてについて本当の専門家であろうとすれば、疫学者、生態学者、大気化学者、気候モデルの専門家のすべてになる必要がある。しかし、現代の世界でこうしたすべての分野の専門家になれる人などいない」のだ。

  ということは、たとえ権威ある人物が言ったとしても、決して客観的な事実を無視してはならないということを意味している。まして、「その人物がすでに現役を引退していて、不満を抱いていたり、何にでも反対する性癖の持ち主だったり、明らかにイデオロギーに基づく目標を掲げたグループや、経済的利益を追求するグループから資金を提供されている場合」には特にそうである。盲目的な信頼は、全く信頼しないのと同じくらい有害なのだから。
  タバコの害に対して初めのうちは懐疑的だった指導的な疫学者の一人が、証拠の重みを受け容れて意見を翻したことがある。タバコの害についてはさらに多くのデータが必要だとの声高な主張に対して、その疫学者はこう答えたという。
  「観察に基づくものであれ、実験に基づくものであれ、あらゆる科学研究は不完全だ。すべての科学研究は、知識の発展によってひっくり返されたり、修正されたりすることが避けられない。だからといってわれわれに、すでに持っている知識を無視し、特定の時点で要求されているように見える行動を先延ばしにする自由が与えられるわけではない」
  では、ジャーナリズムはどうだっただろうか。著者は、建国の父が合衆国憲法修正第一条に報道の自由を入れたことから、その結果「公正の原則」が確立され、「同等の時間」という考え方を大切にする傾向が残ったのだと言う。つまり、意見の異なる人がいれば、「その人の言い分にも十分耳を傾けるべき」ということで、実にまっとうな考え方だと思う。
  しかし、こと科学においては、異なる意見の取り扱いには慎重でなくてはならないケースがある。それは、検討がすでにし尽くされ明白な結論が出ている場合であり、今ひとつは、異なる主張をする人物が特定の業界とつながりを持っている場合があるからだ。
  例えば、「タバコ業界の見解も同等に考慮すべき」という主張がまかり通ったた時、多くのメディアは、その見解に引用されている「専門家」が「実はタバコ業界とつながっていたり、イデオロギーに動機づけられ、タバコ業界から資金を提供されているシンクタンクと提携していたり、あるいは単に何でも反対する人種で、普通でない見解を提示して注目を浴びるのを楽しんでいたりする」事実を、読者や視聴者に知らせていなかったという現実がある。
  これらについて著者は、ジャーナリストも、「真実であってほしくないと願う情報を受け容れたくないのだと考える以外に、うまく説明がつかない」と言う。そして、「酸性雨がたいしたことでなく、オゾンホールが存在せず、地球温暖化が問題にならない世界を望まない人間がどこにいるだろうか。このような世界は、われわれが現実に暮らしている世界よりもずっと安心できる。われわれは困難な状況に直面したとき、何もかもうまくいくと安心させてくれるものを歓迎するのだ。われわれは酔いが覚めてしまうような事実より、むしろ安心できる嘘を好む。しかし、この本に登場した人々によって否定された事実は、酔いを覚ます程度のものではない。それは掛け値なしに恐ろしい事実だった」のだと述べる。
  特にタバコの害については前々から結論が出ており、業界もすでにどういう危険があるかを知っていた。にもかかわらずメディアは、「1992年から1994年までに掲載された全記事のうち62%が、研究は『論議を呼んでいる』」と締めくくり、相変わらず論争は決着していないと報じ続けたのだ。
  酸性雨についても同様、10年以上も前に明らかだったにもかかわらず、「まだ原因がはっきりしていない」とか、証拠のない「酸性雨を抑制するコストの方が得られるメリットより大きいという」主張に肩入れした。また、1990年代に入っても、オゾンホールの要因は「たぶん火山だろう」と報じていたし、地球温暖化についても大きな論争の的として最近まで提示していたのである。
  つまり、本書に出てくる懐疑論者たちは、「意見を述べる権利」を常に要求し、「大衆は両陣営に意見を聞く権利」があるから、メディアには、「バランスをとってそれを提示する義務がある」と主張し、「それこそが公正で民主主義的な方法」だと訴え続けた。しかし彼らはそれで何をしたかったのだろうか。著者はこう述べる。「彼らは民主主義を守ろうとしたのだろうか。そうではない。問題は自由な言論ではなく、自由市場だった」と。
  科学における主張は、ピアレビュー(査読)を通過するまでは単なる主張でしかない。それを通過してはじめて科学の「知識」として受け入れられる。その点からも、彼らの主張は科学的だとは言えないのだが、「ジャーナリストは彼らの名声に欺かれてしまった」のだ。
  「われわれは誰でも、頭のいい人間はどんな問題でもこなせるとつい思い込む。物理学着たちはミツバチのコロニー崩壊から、綴り字改革、世界平和の見通しに至るまで、ありとあらゆる問題について意見を求められた。そして、もちろん喫煙とガンについても。しかし、喫煙とガンについて物理学者の意見を求めるのは、空軍大尉に潜水艦の設計について意見を聞くようなものだ。多少のことは知っているかもしれない。しかし、知らないかもしれない。どちらにしても専門家ではない」
  では、そのような状況で私たちに出来ることは何だろう。それは、あくまでも客観的な視点に立って確かな情報源を吟味し、できる限り正しい情報に接すること以外にないのでは、と思う。
  以下各章に沿って、本書に盛られた情報の一部を紹介する。

  序章は「地球温暖化」についてなので、第6章でまとめて取り上げる。
  第1章はタバコの害についてである。
  ドイツの科学者たちはすでに1930年代に、タバコの煙が肺ガンを引き起こすことを明らかにしていた(ナチスは喫煙を禁止した)。1953年にはマウスの皮膚にタバコのタールを塗るとガンが発生することが実証され、1970年代後半までに喫煙による健康被害の訴訟が個人によって何件も起こされていた。
  それに対し業界が採ったのは、「『タバコのせいとされている慢性変性疾患(肺ガン、肺気腫、心血管障害など)の原因や進行の機序(メカニズム)』について、タバコ以外のものに焦点を合わせた研究を取り上げて論じる」ことであった。
  こうした目くらまし的なやり方は他にも応用された。日本でも公害事件で企業側の主張に使われたことを私たちは知っている。
  1954年当時、業界は次のような疑問点を並べた。
  実験ではタバコのタールを塗ったマウスに皮膚ガンができたが、タバコの煙の充満した部屋に入れたマウスは肺ガンにならなかったのはなぜか?
  喫煙率に大きな差がない都市の間で、ガンの発生率に大きな違いがあるのはなぜか?
  近年、女性の喫煙が増えたのに、肺ガンの増加が男性に多いのはなぜか?
  喫煙が肺ガンを引き起こすのなら、唇、舌、咽頭のガンが増えていないのはなぜか?
  英国の肺ガン発生率が米国の4倍も高いのはなぜか?
  米国の紙巻きタバコには(英国では使われていない)被覆材料が使われているが、これがタバコの有害な効果を防いでいるか?
  ガンの増加のうち、単に平均寿命が伸びたことと、診断が正確になったことによる割合はどれだけあるのか?等々。
  筆者は、「これらの疑問そのものはどれも間違っていないが、いずれも不誠実な問いだった。なぜなら、答えは分かっていたから」として概略次のように述べる。
  都市や国によってガンの発生率が異なるのは、ガンの原因は喫煙だけではないから。
  ガンには潜伏期間があって、喫煙を始めてから10年、20年、30年も経って発生するらしい。なので、女性の喫煙量が増えたのは最近なのでガンが増えるのもこれからだ(実際にそうなった)。
  正確な診断が下せるようになったこともガンが増加した理由の一部だが、全部ではない。
  紙巻きタバコが大量に販売されるようになる前には肺ガンは非常に珍しい病気だった、等々。
  しかし、一般にはまだ論争があるかのような印象を与えられていた。その理由の一つは、私たちが原因と結果とを単純に結びつけやすいことによる。「タバコはガンの原因」ではあるが、生命はもっと複雑だからガンにならない人もいるのは事実である。しかし科学的には「統計的に原因」と言える場合があり、それは、「タバコを吸うとずっとガンに罹りやすくなる」ということだ。例えば、「けんかの原因は嫉妬」と言っても、嫉妬が必ずけんかの原因になるわけではない。しかしそうなることは多いということ。つまり、「喫煙者のすべてが死ぬわけではないが、半数くらいは喫煙のせいで死亡する」のも事実なのだ。
  もう一つの理由は、科学というのは明確なものだと考えられていることだ。つまり、「これは確実ではない」と言われれば、それだけで疑問視してしまう。しかし、研究途上の科学には常に不確実さが含まれているのは当然なのだ。なぜなら、科学は「発見のプロセス」だからである。喫煙がガンを引き起こすことを知ってはいても、その仕組はまだ十分わかっていないし、喫煙者の寿命が短いことはわかっていても、特定の喫煙者の死に喫煙がどれだけ寄与したかについて確信をもって述べることは難しい。
  科学にとって懐疑は重要だが、不確実な部分をあえて取り出してすべてが未解決だという印象を作り出すのは詐術である。タバコ業界のある幹部が1969年に、「疑念がわれわれの売る商品だ」と書いた悪名高いメモがあるという。
  第2章の戦略防衛構想(SDI)と言うのは、当時のソ連に対するためのものであった。それは、「ソ連は・・・・かもしれない」「ソ連は・・・・らしい」というのではなく、「ソ連は・・・・である」とされた。
  冷戦の最中、ソ連が対潜戦システムに膨大な金額を費やした証拠が見つかり、それは音響に頼らないシステムの開発と考えられたが、それを配備した形跡はなかった。とすると、論理的には未だ開発途上か、あるいは開発したシステムがうまく機能しなかった可能性が高いと考えられるけれども、当時の対ソ連検討部会はどのような結論を出したか。それは、ソ連は「機能する非音響システムを実際に(秘匿)配備しており、今後数年間でさらに多くを配備するということかもしれない」というものだった。自らの都合に合わせたまさに結論ありきの解釈、「特定の能力を達成していない徴候を、実は達成した証拠である」とみなしたのだ。これほど極端ではなくても、こうしたことはうっかりすると私たちの日常でも見られないとは言えない。十分気をつけなければならないと思う。
  第3章の酸性雨。すでに19世紀から人間活動によるものと知られていたのを、あえて自然活動、それも火山の噴火に原因があると主張した。しかし、この主張は、硫黄の同位体が地元で採掘されるニッケル鉱石の中の硫黄と同一のものであることが明らかにされ、誤りであることが証明される。
  「スウェーデンでの研究は、降水の酸性化によって森林の生長が減少していることを示唆していた」し、「米国でもほかの場所の研究でも、植物の生長、葉組織の発育、花粉発芽が酸性化によって損なわれていることが記録され」、「スウェーデン、カナダ、ノルウェーでは、湖と河川の酸性化と魚の大量死増加との間に相関があった」。
  酸性雨と同様、地球温暖化、オゾンホールの研究などについて著者は次のように言う。これらの研究は、「被害が察知される前に予測することが含まれる。人々が被害をチェックする動機づけになるのは予測だ。研究目的の一部は予測を検証することであり、また一部は、手遅れにならないうちに行動を起こすきっかけを作ることだ」と。
  第4章はオゾンホール。大気中にただようクロロフルオロカーボン(CFC、フロン)が大気循環によって成層圏に移動し、そこで紫外線によって分解して最終的にフッ素化合物と塩素化合物となり、それらの化合物のいくつかはオゾンの除去物資であることが知られてきた。問題は大量のフロンが、スプレー缶、エアコン、冷蔵庫などに使われていることだった。
  ここでも業界は抵抗をし、オゾン層の破壊を、ほとんど科学的証拠のない「脅し」であって「人間の活動はわずかなものだから大気に影響を与えることはない」という証言を学者から引き出した。それが効力を失うと、今度は、火山が原因だという説を唱えるようになった。それは、大規模な噴火によってマグマに含まれる塩素は成層圏にまで吹き上げられたはずなのに、オゾン層がまだ破壊されていないとすれば、塩素は重大な問題ではあり得ないというものだった。この主張はアラスカの火山の観察によって退けられた。
  さらに抵抗は続く。業界は、「フルオロカーボンが成層圏に到達する証拠はない」「分解して塩素ができる証拠はない」「たとえ塩素ができても、オゾンを破壊する証拠はない」と言ったが、一酸化塩素(CIO)の存在が証明されたことで、オゾン層が破壊されていることが明らかとなった。(→本書にはその仕組みが書かれている)
  第5章は二次喫煙、いわゆる副流煙の問題である。アメリカの保健社会福祉省は、「リスクがない二次喫煙のレベルというものは存在しない。わずかな量であっても・・・人々の健康を損なうおそれがある」と述べている。くすぶっているタバコの方が燃焼温度が低く、有害成分がよけいに生じるためだ。タバコ業界は1970年代にはすでにそのことを知っていた。そこでなにをしたか。
  「彼らはフィルターを改良し、紙巻きタバコの紙を変え、もっと高い温度で燃えるような成分を加えて、副流煙を比較的害の少ないものにしようとした。彼らはまた、危険の少ない副流煙というより単に見えにくい副流煙を出すタバコを作ろうと試みた」のである。
  この章では、業界寄りの人物や組織を通じて「環境保護庁(EPA)」を貶め、副流煙に関する規制を止めさせようとしたこと、自然の危険に関する議論に使われるべき閾値の考え方を人為的な危険の擁護に使うなど、あらゆる手段を使って副流煙の擁護を行ってきたことが明らかにされる。
  手段を選ばずの擁護にもかかわらず副流煙の排除が社会的に受け入れられたのは、それによって子どもたちの気管支炎、肺炎、ぜんそくのリスクが高まり、またそれが自然によるリスクではない上に同意なしに他人に押しつけるものであると言う事実だった。
  第6章および序章は地球温暖化である。
  本書で述べられている地球温暖化の原因が人為にあるという主張は、201912月号でとりあげた『環境問題のウソ』(池田清彦氏著)での太陽活動による自然起因説とは真っ向から対立する。2005年に出版された当著における池田氏の主張には説得力が感じられたが、それから15年を経た現在、さまざまな現象を検証する科学の知識を踏まえると、人間活動によって温暖化が進み、地球環境が一層深刻化し、近未来に想定される危機的状況は否定できないと思う。
  本書ではまず20年以上にわたる調査の結果から、自然の気候変動によるものと温室効果ガス[二酸化炭素、メタン、フロン等]によるものとでは温暖化のパターンが異なることが示される。調査の結果は温室効果ガスが原因の場合に予想されるパターンと一致していた。
  重要なのは対流圏と成層圏という大気の分布である。物理学の知識によれば、「もし温暖化の原因が太陽にあるのなら、熱は地球の外からくるため、対流圏と成層圏の両方とも温かくなるはず」であり、一方、「大部分が大気の低いところに留まる温室効果ガスに温暖化の原因がある場合は、対流圏は温かくなるが、成層圏は冷たいはず」なのだ。
  事実は、対流圏は温かくなり成層圏は冷えている。これは言い換えれば、大気全体としての構造が変化していると言うことだ。「このような結果は、太陽が原因だと考えるとうまく説明できない。これは大気に生じている変化の原因が自然なものではないことを示している」。
  この温暖化を論ずる時に注意すべき点がある。それは「ヒート・シンク(吸収源)」と言って自然から要素を奪うプロセスを表す。海洋と大気との関係で言えば、大気の熱が海洋に吸収されるため、「海水が大気の温暖化を数十年遅らせるのに十分なだけ混ぜ合わされている」ことが入手可能なデータからわかっている。
  ということは、温暖化の影響が目に見え、感じられるほどになるには数十年かかることになり、それによってきわめて深刻な結果がもたらされる。なぜなら、「実際には温暖化が進んでいるにもかかわらず、そのことを証明できないかもしれない」し、証明可能になった時にはすでに手遅れだからだ。
  1988年には、ゴダード宇宙科学研究所(GISS)の所長で気候モデルの研究者でもあるジェイムス・E・ハンセンが、データを示して、「人間活動に由来する地球温暖化はもう始まっている」と発表した。ところが懐疑論者たちは、そのデータの一部を恣意的に使って原因は太陽だと主張した。
  それは、太陽の黒点と木の年輪から得られた炭素14を引き合いに出して、「太陽は19世紀にエネルギーを多く放出する時期に入っており、この太陽エネルギーの増加(約03%増加)が現在の温暖化の原因になっている」「データ200年の周期を示しているため、温暖化の傾向はほぼ終わりにさしかかっており、まもなく寒冷化に向かうだろう」というものだった。
  1940年から1975年にかけては寒冷化したのは事実だが、それは、データの一部と6つのグラフのうち1つだけを使い、あたかも太陽だけが影響しているように見せかけたものだった。20世紀半ばには太陽の放出エネルギーは増加していないので、1970年代半ばからの温暖化を説明できるのは二酸化炭素だけなのだ。
  もし、「化石燃料を何の規制もなく使い続ければ「21世紀中の地球の平均気温の上昇率は10年あたり約0.3℃になる。これは過去1万年の上昇率よりも大きい」のである。これはこれまで人類が経験したことのない変化を生み出すことになる。
  第7章。ここで取り上げられたレイチェル・カーソンに対する否定の数々は、「いちゃもん」そのものに聞こえる。タバコを擁護し地球温暖化の要因を疑った人物が、今度は、「レイチェルは間違っていた」「世界中で何百万もの人々がマラリアで苦しみ、しばしば命を落としている」と主張する。のみならず、「これまでに病気予防のために合成された中で、おそらく最も貴重な化学物質であるDDT」が、「カーソンに影響されたヒステリーによって、その必要もないのに禁止された」とまで言っている。
  DDTを始めとする殺虫剤の危険性についてはすでに広く知られていることなのでここでは省略するが、マラリアの根絶が部分的にしか成功しなかった最も大きな理由は耐性の獲得であって、その原因の一部は農業での過剰使用によるものであった。また、DDTの禁止が何百万人ものマラリアによる死をもたらしたという主張には十分な証拠はなく、それに反して、DDTの禁止によって、「人間に対する、そしてこの惑星をわれわれと共有しているさまざまな種に対する多大な被害が回避されたことを示す科学的証拠はたくさんある」のである。
  本章ではこのあと、自由市場資本主義の弱点を認めること、負の外部性、市場の失敗を論じている。そして最後にこう述べる。「最近になって科学は、現代の産業文明が持続可能でないことを明らかにした」と。
  繰り返すが、興味を覚えられたらぜひ通読されることをお勧めしたい。私たちが抱える課題に対する見方を深める糧になると思う。本書を読んで、いかにある主張を正確に見ることが難しいか、そして重要なことかを痛感させられた。(雅)
   読んでみました
 頭木弘樹、NHK<ラジオ深夜便>取材班著
『絶望名言』(飛鳥新社、2018年)
   本書は「NHK<ラジオ深夜便>」の中の「絶望名言」を収録したもので、頭木弘樹氏と番組を担当した川野一宇氏との対談に捕捉を加えたものである。
   頭木氏は20歳の時に潰瘍性大腸炎という難病を発症し、13年間に及ぶ療養生活を送ったが、その時に救いとなったのは、明るい言葉ではなく絶望の言葉だったと言う。氏はその時の経験をもとに、それらの言葉を「絶望名言」と名づけ、のちに、『絶望名人カフカの人生論』や『絶望読書』(ともに飛鳥新社、後に新潮文庫および河出文庫)を著した。そしてそれらを契機にしてNHKの<ラジオ深夜便>に「絶望名言」コーナーが生まれ、書籍化されたものが本書である。
   頭木氏は療養中に、人を励ます「名言」もたしかに必要だが、悲しい時に悲しい曲を聴きたくなるように、辛い時には絶望的な言葉の方が「自分と一緒にいてくれて、気持ちをわかってくれて、それが救いに」なることもあるのではないかと感じたと言う。そして、希望を抱かせ前向きに生きるように促す本も「もちろん素晴らしい」のだけれども、絶望的な言葉が胸に入ることでかえって救いになるような本も、「あってもいいし、あってほしいと」思ったそうである。
   対談の相手である川野氏もまた脳梗塞による闘病の経験を経ている。その際、ある先生からいただいた「あわてず、あせらず、あきらめず」という言葉の3つの「あ」を肝に銘じて日頃から暗唱していると言う。
   <ラジオ深夜便>のディレクターである根田知世己氏によれば、絶望名言とは簡単に言うと「絶望した時の気持ちをぴたりと言い表した言葉」とされる。それは、「言葉にしたところで目の前の現実が変わるわけでもなく、即座に解決策が見つかるわけでもない」けれど、「言葉にすると少し距離ができ」「その間にかすかに風がそよぐ、ちょっとやわらぐ」ものでもあると言う。
   たしかに、困難を乗り越えた体験談も感動的だ。しかしそれが自分にとって救いとなるかどうかは人それぞれだろう。反対に、赤裸々に苦しさや絶望が綴られたものに対しては、自分が絶望している時には共感も生まれやすいのではないか。頭木氏の場合はそれが悲常に救いになったと語っている。
   頭木氏の取り上げている文学にはそのような文章が綴られている。もちろん、同じ境遇、同じ状況とは限らない。しかしそれを読むことで苦しいのは自分だけではないという思いが生まれ、「みんながそれぞれいろいろな苦労をしているので、自分もその中の一人になれる」し、それによって、「一人で苦悩している孤独とはずいぶん違う」ことが実感されたと言う。
   本書は第1回から第6回までの放送で取り上げられた、カフカ、ドストエフスキー、ゲーテ、太宰治、芥川龍之介、シェークスピアの作品によっている。ここでは一部であるがそれらを紹介し、あわせて頭木氏がそれらの言葉をどう受け取ったかを見てゆくことにする。なお、「」内はことわらない限り頭木氏による。
   まず、頭木氏が病院のベッドで寝たままなっている時に読んだカフカから。
   「将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。将来にむかってつまずくこと、これはできます。いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです」(『フェリーツェへの手紙』)
   これには、「絶望的すぎるというか、もう突き抜けてしまっているので、一緒に落ち込むというよりは、むしろ救いに」なったそうだ。
   過酷な経験をしたことで成長する人もたしかにいる。しかし、「これはもう笑うしかないですよね」で、「倒れたまま生きていく、あるいは半分倒れたままに生きていく人生もあり」ではないかと悟ったと言う。
   ところで、カフカには特段の不幸があったわけではない。それどころか、裕福な家庭に生まれ、何不自由なく育ち、大卒で、役所勤め、恋愛もし、親友もあり、亡くなる前に病気になるまでは健康で、まさに、平穏無事なごく普通な人生だったそうである。
   しかしそれでも絶望している。そこがいいと言う。平凡で日常的な人生から出てきた言葉だからこそ誰でも共感できるのではないか、と頭木氏は考える。さらに、だいたい作家の日記や手紙は作品ほどには面白くないけれど、カフカの書いたものは、「作品はもちろんですけれど、手紙や日記も、作品と言っていいぐらい」だと言う。
   「僕には誰もいません。ここには誰もいないのです、不安のほかには。不安とぼくは互いにしがみついて、夜通し転げ回っているのです」(『ミレナへの手紙』)
   頭木「これは、じつは恋人への手紙の中の言葉なんです。普通、恋人にはなかなかこんなことを書かないと思うんですけど、カフカは恋人への手紙にも、こういう絶望的望口葉ばっかりなんです」
   川野「受け取る側の恋人としては、ちょっと待ってよと言いたくなるような内容じゃないですか」
   頭木「そうですね。だから付き合っていた女性のほうもたいしたものだと思うんです」
   絶望というのはきわめて個人的なもので、たとえば病気になると、たとえ親身な家族であっても病人の気持ちはなかなかわかるものではないし、また、同じ病気を抱えていても症状や状況が違うから、なかなか本当には共感し合えないのではないだろうか。それは災害に遭った場合も同じだと思われる。そうなると、ひどく落ち込んだ時には、「自分の気持ちは誰にもわからない」という心境になり、「絶望するだけでも辛い」のに、おまけに「孤独がもれなくついてくる」ことになる。
   川野「そうすると、絶望している人には、どう接したらいいんでしょうか?」
   頭木「普通、皆さんが思うのは、励まして立ち直らせようということではないでしょうか」
   しかしなかなか立ち直れない。時には何年ということもざらにある。そうすると、最初は励ましていても、「いつまで経っても立ち直らないので、だんだんイライラ」してきて、「そんなふうに、いつまでも落ち込んでいるから、いけないんだ」などと責め始め、ついには、「もう知らない」などと見捨てるような展開になってしまうのではないだろうか。
   でも、「誰しもが右肩上がりに真っ直ぐ立ち直れるわけじゃない」から、「できれば、もっとあせらないようにしてほしいですね。当人も周囲も、なるべくあせらずに」、「それでも時々は連絡を取って、『立ち直れそうになったら、いつでも力を貸すよ』という形でそばにいてあげるのが、一番いいと思いますね」。
   ドストエフスキーの回では、「われわれは、自分が不幸なときには、他人の不幸をより強く感じるものなのだ」(『白夜』)を紹介したあと、次に正反対のような表現を取り上げる。
   「僕がどの程度に苦しんでいるものやら、他人には決してわかるもんじゃありゃしない。なぜならば、それはあくまでも他人であって、僕ではないからだ。おまけに人間ってやつは、他人を苦悩者と認めることをあまり喜ばないものだからね」(『カラマーゾフの兄弟』)
   この言葉は人の心のありようが単純ではないことを示している。
   頭木氏は、辛い体験をした人ほど他の人の辛い気持ちもわかるからそれだけ優しくなるのは、「辛い体験をしたからこその、いいことのひとつかもしれない」としながらも、「じつはそうとは限らないんです。自分が苦労をしたせいで、よけいに人に厳しくなって、冷たい人間になってしまうということも、けっこう多いんです」とも述べている。これはその人の傷の深さと辿ってきた人生とに色濃く関係するのではないだろうか。
   これは『絶望読書』によるが、長期入院していた時にドストエフスキーを読んでいたときにこんなこともあったそうだ。
   はじめのうち、「よくそんなものを読むねー」と言っていたあまり本を読む習慣のないような同室の人たち。ところがまず一人が、「ちょっと貸してくれる?」と言いだしたら、次々に、「オレにも貸してみて」となって、それがどんどんハマっていき、ついには6人部屋の全員が読みふけることになったという。その様子を病室に入ってきた看護師が見てビックリ、なにしろ、「ぐるっと見回すと、みんながそろって『カラマーゾフの兄弟』や『罪と罰』を読んでいるのですから」。
    ゲーテの回からは次の言葉。
   「わたしはいつもみんなから、幸運に恵まれた人間だとほめそやされてきた。わたしは愚痴などこぼしたくないし、自身のこれまでの人生にけちをつけるつもりもない。しかし実際には、苦労と仕事以外の何ものでもなかった。75年の生涯で、本当に幸福だったときは、1カ月もなかったと言っていい。石を上に押し上げようと、くり返し永遠に転がしているようなものだった」(『ゲーテとの対話』)
   頭木氏は、ゲーテの伝記映画がほとんどないのを、あまりに人生がうまくいっているのでドラマにならないという理由から、らしいと言う。若い時に書いた『若きウェルテルの悩み』がヨーロッパ中で有名になり、「あのナポレオンまで本を持って、わざわざ訪ねてきたくらいです。いい友達もたくさんいましたし、たくさんの女性から愛されましたし、ヴァイマルという、当時、国だったんですが、そこの大臣になって、貴族の称号をもらうんです。82歳の誕生日の前に、生涯をかけて書いた大作の『ファウスト』を完成させて、数カ月後に亡くなるという、もう大往生ですよね」と。しかし、それはあらすじからの見方であって、細かく見ていくと違った面も見えてくると言う。
   「ゲーテの周りでは、大切な人が次々亡くなっていくんです」。4人の妹や弟を亡くし、1人残ったとても可愛がっていた1歳下の妹も26歳の若さで亡くなってしまう。10歳年下のシラーという親友も亡くなって、ゲーテはその時、「自分の半身を失った」と言った。その後母も亡くなり、妻も亡くなり、そして晩年の81歳の時にはたった1人の子供である息子のアウグストが、まだ40歳だったのにイタリア旅行の途中で急に亡くなってしまう。ゲーテはショックのあまり大量の血を吐いて倒れたという。
   常に日の当たる場所にいたゲーテだったが、自身が、「『光の強いところでは、影も濃い』と言っているように、多くの喜びの一方で、多くの悲しみも経験しているんです」。
   人生を「あらすじ」で生きている時には気づかずにいても、大きな挫折を経験したりするとこれまで気づかなかったことに否応なく気づかされる。「そういう細やかな部分にだんだん目が向くようになると、人生に対する感じ方も、ずいぶん大きく変わってくるなあと思います」。このようなことは私たちも数多く経験しているに違いない。
   では、細やかな部分にだんだん目が向くようになるというのはどういうことなのか。頭木氏によれば、それは、元気な頃にはあまり関心を払わなかった味噌汁の味がとても沁みたとか温かかったとか、あるいは、普段はことさら気にすることなく越える段差も、足が弱くなると越えようとするたびに気づくとか、「そんなことが結構人生の大きな部分を占めたりする」ということだ。
   太宰治の回には次の言葉。
   「駄目な男というものは、幸福を受け取るに当たってさえ、下手くそを極めるものである」(『貧の意地』)
   「弱虫は、幸福をさえおそれるものです。綿で怪我をするんです。幸福に傷つけられる事もあるんです」(『人間失格』)
   「『綿で怪我をする』っていうんですから、もうどうしていいかわからないですよね。もう他にくるむものがないですよね、綿で怪我をされちゃあ」
   この「弱さ」ということから敷衍して、世間で言われるような「弱さの強さ」という一見褒め言葉の背景には、「弱いより強い方がいい」という価値観があるのではないかと頭木氏は指摘する。さらに、「気弱い内省の窮極からでなければ、真に崇厳な光明は発し得ないと私は頑固に信じている」(『服装に就いて』)で太宰は、「弱さには、弱いからこそ価値があり、魅力がある、そう言っているんじゃないでしょうか」と推し測っている。
   そしてこうも言う。
   「思春期は、誰でも多かれ少なかれ、生きづらさを感じていると思うんです。(略)そういう生きづらい時は、やっぱり何か自分に問題があるんじゃないかなという心配も出てきます。あと、こんなに辛さを感じてるのは、自分だけなんじゃないかなという不安もあると思うんですよね。
   そんな時に、太宰治が辛い辛いとさんざん言ってくれるわけです。これはやっぱり、ありがたいことだと思うんですよね」
   で、太宰を「好きな人は、『本当に気持ちをわかってもらえる』『同じ気持ちだ』というふうになるんだと思うんですけど、一方、嫌いな人とか読まなくなった人は、そういう太宰を、『ナルシスト』だとか、『甘ったれ』だとか、『駄目な自分に酔っている』とか、そんなふうな言い方をして、けなしたりするわけです」。
  この章には面白いエピソードが語られている。それは、太宰治を嫌いな人の代表として三島由紀夫をあげていることで、三島は、「最初からこれほど私に生理的反発を感じさせた作家もめずらしい」(『私の遍歴時代』)とか、「弱いライオンの方が強いライオンよりも美しく見えるなどということがあるだろうか」(『小説家の休暇』)と言ったそうだ。これについて頭木氏は、ライオンだからそうなるので、「ウサギやカピバラだったら弱々しい方がいいですよね。獰猛なカピバラとか嫌ですよね」と、少々冗談めかした言い方をしている。
   また、三島が大学生の時に太宰を訪ねて行ったことがあって、「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです」と言うと、太宰は、「そんなこと言ったって、こうして来るんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」(『私の遍歴時代』)と答えたので、三島はすごく怒ったそうである。
   芥川龍之介の回には次の言葉が取り上げられる。
   「どうせ生きているからには、苦しいのは、あたり前だと思え」(『仙人』)
   若い頃、まだ名を成す前に芥川はすでにこんなことを言っていた。頭木氏は、「ちょっと偉そうな感じにも聞こえるかもしれません。上からお説教しているような。でも、じつはこれ、短編の中では、非常に貧しい男が、ねずみに向かって、こういうふうに言ってるんですね。もちろん、本当にねずみに説教しているわけではなくて、ようするに、自分に言い聞かせている言葉なんです」。
   芥川は、生まれて8カ月後には母が精神病院に入ってしまい、母親の実家に預けられ伯母に育てられる。そして10歳の時に母親が亡くなる。その後、12歳の時から伯父の養子になり、芥川という名字になったのはその時からだという。
   そういう生い立ちのせいもあって、この『仙人』を書く前に親友に手紙でこのように書いている。「『周囲は醜い。自己も醜い。そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい』(井川恭・宛 大正41915)年39日付)」と。つまり、小さい頃から「生きるのは苦しい」ということを実感していたと言うことだ。
   川野「なるほど。『生きるのは苦しい』が、ひっくり返って、『生きているからには、苦しいのはあたり前だと思え』というふうになったんですね」
   頭木「そうなんです。これ、同じようですけれど、じつはけっこう大きなちがいだと思うんです。
   というのは、『生きるのは苦しい』っていうのは、本当に辛いじゃないですか。だけど、『生きているからには、苦しいのはあたり前だと思え』と言われると、そうか、生きているんだから、もう苦しいのはあたり前なのかというふうに思えて、ちょっとね、救われるところもあるというか……」
   また芥川は友人に残した遺書の中で次のように書いた。
   「僕の場合はただぼんやりとした不安である。何か僕の将来に対するただぼんやりとした不安である」
   たしかに、病気にもよるが、病名がついて対策がはっきりすれば、心を落ち着かせる効果も期待できるかも知れない。しかし人生そのものは本来的に曖昧さに満ちているのが現実だろう。自身でも、「誰かを好きなのか嫌いなのかさえ、本当はよくわからなかったり。そういうことはいくらでもあるわけですよね」。だから、「恋愛とかでも、『本当に好きなの?』とか、はっきりさせようと問いつめたりするわけじゃないですか」。でも、「『曖昧さは、人間にとって非常に苦しいものである』というのは納得できる人が多いんじゃないでしょうか」。
   名言の宝庫であるシェークスピア、多くの作品あるなかからの次の言葉。
   「あとで一週間嘆くことになるとわかっていて、誰が一分間の快楽を求めるだろうか?
   これから先の人生の喜びのすべてと引き替えに、今ほしい物を手に入れる人がいるだろうか?
   甘い葡萄一粒のために、葡萄の木を切り倒してしまう人がいるだろうか?」(ルークリース)
   頭木「あとで大変なことになるとわかっているのに、目の前のしたいことをしてしまう人、そんな人がいるのかということを3回繰り返し聞いているんですけど、いるか、いないかっていうと、いるっていうことなわけですよね(笑)」
   川野「そうですよね(笑)。いるから、そういうふうに言うんでしょう」
   頭木「そうですね。実際には、ほとんどの人がそうだと思うんです。私自身もそうですし」
   余談だが、植木等が「スーダラ節」を歌う前にかなり悩んだと言う。彼の実家は浄土真宗の寺で、父は僧侶、反対されると思ったらしい。ところが父は、「わかっちゃいるけどやめられない」は親鸞の教えに通じると言って賛成してくれ、息子を励ましたという。
   しかし出来ないからと言って、しなくて良いということにはもちろんならない。そうではなく、「出来ないのが人間」ではないか、そのことを先ず認めることから始めなければならないのではないか、そう頭木氏は言う。
   「明けない夜もある」(『マクベス』)
   絶望している人をなぐさめる時によく聞かれるのが、「明けない夜はない」という言葉だ。これは『マクベス』に出てくると言う。それは、マクベスに妻子を殺されて嘆いている男に、別の男が「明けない夜はないよ」と言葉を投げかける場面で、実はその男もマクベスに父親を殺されている。つまり、マクベスに身内を殺された者同士だ。
   頭木氏はこれにずっと違和感を覚えていたという。それは、妻や子どもをマクベスに殺されたことを、今聞かされて嘆き始めたところなのに、「明けない夜はないよ」と励ますのは早すぎるのではないかと言うことだ。
   原文は“The night is long that never finds the day”。直訳すると「夜明けが来ない夜は長い」となる。でも、自然現象としての夜明けはいずれは来るわけで、「明けない夜はない」と言うのは意訳として間違いではなく、たいていはこう訳される。ただ、頭木氏は、「泣きだしたばかりの人に、『涙はいずれ乾くよ』って、いきなり言うのはおかしくないですか?」という思いがあった。
   翻訳家の松岡和子氏は、ここはそんな楽観的な言葉ではなく、「覚悟をうながす言葉」ではないかと言う。その覚悟というのはつまり、「マクベスを倒さない限り、夜明けは釆ないと。悲しい夜がずっと長く続くぞ」ということだ。そして松岡氏は、「『朝が来なければ、夜は永遠に続くからな』(『シェイクスピア全集(3)マクベス』ちくま文庫)というふうに」訳しており、その訳に感激した頭木氏は、「こういう解釈もあり得るのか」と思ったそうである。
   悲しみというのは、あたかも自然現象のように時間とともに消えていくと捉えてしまうのではなく、「大切な人を失ったというような深い悲しみは、いつまでも続くこともあるよと。そういう言葉としてとらえることもいいんじゃないか」。そして、「明けない夜もある」というふうに訳したいとも言っている。
   時間では癒やされないような悲しみをいつまでもひきずっていると、「周囲も『これだけ時間が経つのに、いつまで悲しんでいるんだ』というふうになってきますし、自分自身も『いつまでも悲しんでいる自分はいけないんじゃないか』と、そんなふうに思いがち」になる。そうすると、悲しみが癒えない上に、自分で自分を責め周囲からも責められ、より辛いことになってしまう。
   だからこそ、「現実にそういう悲しみがある以上、そういうこともあるんだよって知って」おくこと、「『明けない夜もある』『明ける夜もある』。両方知っておくほうが大事」なのではないかと言う。
   頭木氏によると、最近のアメリカの心理科学会誌に発表された研究で、「時間の経過だけでは人は癒やされるとは限らない」ということが確認されたと言う。さらにこの研究チームは、「『時間が解決してくれる』と、当人や周囲が思ってしまうことで、かえって回復をさまたげたり、こじらせてしまう原因となっている」と指摘しているそうである。そして氏は、「それにしても、こうした研究のない時代に、時間が経っても癒やされない悲しみがあるということを描いたシェイクスピアは、やはりたいしたものだと思います」と結んでいる。
  本書にはそのほかにもさまざまな言葉と体験が綴られている。そこでは、「死が救いに思われるほどの絶望をすくいとって言葉にしていく」ことを軸として、文豪たちが遺した名言と体験を重ね合わせられている。そして、「文豪たちの絶望名言がそうであるように、一人の苦しみをつきつめていくと普遍性を持つものです。この番組はそのプロセスの実践」であると結んでいるおもえt。本書は本当の共感とはなにかについて深く問いかけているように思える。
  繰り返すが、興味を覚えられたらぜひ通読されることをお勧めしたい。私たちが抱える課題に対する見方を深める糧になると思う。本書は本当の共感とは何かについて深く問いかけているように思えたが、また私たちにとって他の意見や主張を偏りなく理解することの難しくまた重要なことかを痛感させられた。
(雅)



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