月刊サティ!

読んでみました

2018年1月~6月  

住野よる著 『また、同じ夢を見ていた』 (双葉社 2016  
   主人公は、なっちゃんという十歳の女の子です。自分のことを「かしこい」と公言し、もっとかしこくなりたいと思っています。なっちゃんの口ぐせは「人生とは・・・」。漫画の『ピーナッツ』が大好きだからです。スヌーピーの相棒のチャーリーはこう言います。「人生はアイスクリームみたいなものさ、なめてかかることを学ばないとね」。だからなっちゃんは、「人生ってリレーの第一走者みたいなものよ」と言ったりします。「自分が動き出さなきゃ何も始まらない」のです。
   教室でなっちゃんは、桐生くんというクラスメイトとペアになり、「幸せとは何か」という課題に取り組みます。桐生くんは絵を描くのが好きなのですが、級友にばかにされたため絵のことをひた隠しにしています。なっちゃんは、不当な言いがかりをはね返さない桐生くんを歯がゆく思っています。弱いものいじめをする「ばかな男子」もゆるせません。
   ある日、桐生くんのお父さんが万引きをしてつかまり、桐生くんは学校に来なくなりました。正義感に燃える「かしこい」なっちゃんは、いくじなしで「弱っちい」桐生くんのために、クラスで代理戦争をしてしまいます。その結果、桐生くんからは「小柳さん(なっちゃんのこと)が一番きらいだ」といわれ、教室では無視といういじめにあうはめになりました。
  なっちゃんには、変わった友だちが三人います。自傷行為をする高校生の南さん、人間関係がうまくいかず行き詰っている若い女性、人生の山や河を越え今はおだやかに暮らしている「おばあちゃん」です。なっちゃんは三人から人生のヒントをもらい、幸せについて考えを深めていきます。
  自分は敵ではなく味方であると伝えるため、なっちゃんは桐生くんに会いに行きました。息子を傷つける者は入れないぞと物語の門番のように立ちはだかったのは、桐生くんのお母さんです。なっちゃんは、相手に受け容れてもらうにはありのままを正直に言う以外にない、と心に決めます。これは「不妄語」の実践にほかなりませんが、なかなかできることではありません。
   お母さんの信頼を得たなっちゃんは、ドアを挟んで桐生くんと向き合います。話していくうち、最大公約数的な幸せがあるわけではない、その人その人の幸せがあり、相手の考えを認めた上で理解しあい、思いあうことが大切だと気づいていきます。なっちゃんは考えに考えに考えてこうした結論に至りましたが、これが智慧でなくて何でしょう。それまではかしこい自分が正しく、ばかな相手が間違っていると思っていたのです。なっちゃんは粘りづよく考えました。考えるのをやめたり、やけになったり、諦めたりしたら、智慧が現れるはずがありません。ずっといた暗闇(無明)、そこを出た時広がった未体験の風景。おそらく闇の中でさまざまな気づきがあり、それは無意識のヴィパッサナー瞑想になっていて、「認知の書き換え」が起こったのだと思います。
   年上の友だちは「また、同じ夢を見ていた」と言います。それぞれが自分の子ども時代の夢を見ていたのですが、夢の中の子どもはなっちゃんにそっくりです。なっちゃんはやがて、南さんみたいな高校生になり、人間関係に悩む若い女性になり、数々の試練をのりこえて「おばあちゃん」みたいな晩年に至るかもしれません。でも、人生は書き替えられるのです。
   この小説の作者は原始仏教を知っていたのでしょうか。それはわかりませんが、なっちゃんはこう言います、「人生とはダイエットみたいなものね」と。「むちむちじゃ、ちゃんと楽しめないのよ、ファッションもジョークも」。確かに、ムチムチ(肥満)で無知無知では楽しめませんね。(桐葉)


 東城百合子著『家庭でできる自然療法 -誰でもできる食事と手当法-
                               (あなたと健康社 2002)

  よい瞑想をするために、みなさん体調には気を付けていらっしゃることでしょう。特に食事は、その内容、量、摂取する時間などでさまざまに意識の透明度に影響します。たとえ瞑想者でなくても、現代を生きる私たちにとって、何を、どのくらい、どのように食べればよいのかは、非常に大きな関心事です。多種多様の健康情報と次々に流行る食材。情報の海の中で何をどう選べばよいのか、はっきりと分かるためには時間が足りなさ過ぎるようです。
  この著者は戦後の若い頃、重度の結核にかかり死の床にありました。化学療法と栄養をつけよとの医師の指示で肉や魚、卵など努めて摂った結果、容体は悪くなる一方でした。そんな時、食養法を学んだ兄の友人である医師に教えられ、玄米菜食の自然の食物と自然の手当法を施すことで、みるみるうちに回復しました。
  何が起きたのでしょう。著者は言います。自然がもたらす生命力豊かな食物を、感謝の気持ちで頂いたこと。料理も手当ても自ら手を動かし工夫することで少しずつ元気になり、希望に繋がっていったこと。それが病から立ち直らせ、自然の偉大さへのとめどもない感謝の思いから、以来70年近くを病に悩める人々のために草の根の健康運動に捧げ、90歳を超えた今も自然の教えを伝え続けています。
  私もこの瞑想に出会う以前、一年近く著者の料理教室に通い、教えられた自然食を実践しました。実感として分かったことは、今までは食べ物を〝物として見ていたんだな、ということでした。栄養素がどうのとか、あれがいい、これがいいなどと、自分の都合でしか見ていませんでした。この世がエネルギーの出し入れの世界だとしたら、当然私たちは自分の身体の血肉となる食べもののエネルギーを取り込んでいるのです。瞑想の境地を言葉を尽くして説明したところで実際に体験しないと分からないように、ここはやってみないと分からない部分です。ですから著者は、実践と工夫を強く訴えます。
  しかしそうすると、食生活に〝こだわりが生じがちです。肉はだめ、野菜は無農薬じゃないと、子どもにそんな添加物まみれのお菓子なんてとんでもないわと言って差し出されたものを邪険に断る・・・。そのような自己中心的態度が神経を詰まらせ、病気や人間関係の崩壊などの不幸を招くと著者は言います。そんなときも手本にするのは自然です。自然は完全に〝調和のとれた世界です。その姿から、自分の身勝手さを省み、気づくことで取るべき道が見えてくるのだと。
  それを聞いて私が思い浮かべたのは、セイタカアワダチソウという外来の多年草です。背丈が高く、秋に黄色い鮮やかな花をつけて勢いよく群生する姿を見かける方も多いと思います。この草は根から周囲の植物の成長を抑制する化学物質を出しているそうです。ですから在来の植物を駆逐して、大繁殖するのです。
  しかし数年経つと、その毒が自分たち自身を衰退させ、背丈は低くなり、そこに在来の植物が再び育ち出します。周囲に混じり合い存在し続けるセイタカアワダチソウの姿に、自然の調和を見出すことができるのです。
  (ちなみにセイタカアワダチソウを乾燥させ入浴剤にすると、アトピーのかゆみに効果があります。長男は軽度でしたので、これでほとんど治りました。この本に詳しく載っています)
  この瞑想を始めた当初、先生がありとあらゆる修行の末にこれが唯一最高の道と確信されたというお話を聞いて、おかげで私は回り道をしなくて済むんだという有難い気持ちでいました。しかし、仏教の実践の究極は、慈しみの精神を養うことだと知りました。エゴを乗り越えるためには誤った認知を変えて反応系を整え、優しい心を育てていかなければならない。そのために色々な観点が必要だと感じています。
  寒い冬に地中に向かって伸びる根菜類に、夏の暑い日差しを受けて色づき、成長する野菜たち。アスファルトの片隅にあってさえその根をしっかりと大地に根差して伸びてゆくタンポポやヨモギなどの野草。その力を頂いて生きていくことができるありがたさを思って涙するという著者に、深い慈しみの心を学ぶことができると思うのです。(M.N.)


 「心のなかの独り言  内言の科学」(日経サイエンス、20181月号)を読んで
  私は日経サイエンスという雑誌をほとんど毎月買って読んでいるのだが、最新号(20181月号)に掲載されている「心のなかの独り言  内言の科学」を読んで驚いた。なぜならその論文は、地橋先生の指導されている瞑想法の有効性を科学的に裏付ける内容であったからだ。
  先生の瞑想法では、初心者はまず歩く瞑想のやり方をマスターするように促される。
  歩く瞑想のやり方は、中心対象を足の裏に定め、その一点の感覚に意識を集中させる。感覚を十分に感じたら、次に間をしっかり取ってから「離れた」「進んだ」「着」「圧」などというようにラベリングをする。そしてそのラベリングは、過去形であること、または漢字などを使用する圧縮型であることが特徴だ。
  私はこの瞑想法が、先生が体得されたブッダの教えであるヴィパッサナー瞑想の真髄を凝縮した暗号のようなものであるという直感があった。そして、その暗号を理論的な観点から読み解くには、科学の力を借りる必要があるのではないかとも考えていた。
  本来は理系音痴の私が、日経サイエンスを購読しているのもそのためであり、今までにも先生の瞑想法の理解につながる数多くの論文に出会うことができている。それらの論文は、物理学や数学、化学や生物学、そして脳科学や心理学など多岐にわたるもので、その数が増えるにつれて仏教の本質がこの世のあらゆる現象に投影されていることを次第に確信するようになっていた。
  今回の論文「内言の科学」もその一つであり、内言のメカニズムを科学的に追求することで、サティの瞑想にはなぜラベリング(内言)が必要なのかの理由の解明につながる画期的な内容のものである。
  私は、内言を扱った科学が存在すること自体知らなかったのだが、1920年代から1930年代にかけてピアジェやヴィゴツキーという心理学の大家が内言についての説を打ち立てており、この論文の著者である英ダラム大学のファニーハフ教授は、特にヴィゴツキーの考え方に強く影響を受けたそうだ。
  この論文によると、ヴィゴツキーの内言についての説は、「他者の行動を調整するために用いた言葉を、他者ではなく自分の行動を制御するために用いる」手段であること、また「大人が行っている声にならない独り言は、子供として発達していたころに他者と交わした会話を内面化したバージョン」という特徴がある。
  私はこの部分を読んで、ヴィゴツキーの説は、自分の外側にあると見なしている世界と自分の内側の世界すなわち脳内は、実は同時かつ時系列的にまったく同じ構造のものであると言いたいのではないかと直感した。
  ファニーハフ教授も、人間が他者に対して発話している時と自分自身の頭の中でダイアローグを行っている時では、脳の使い方に共通点があるだろうという推定に基づいて機能的磁気共鳴画像装置(fMRI)を使って実験を試みている。
  そしてその実験結果は、ファニーハフ教授らの仮説を見事に裏付けるものとなった。
  日経サイエンスの論文には、ファニーハフ教授らが行った複数の実験結果を脳の図でまとめてあるのだが、この図が実にわかりやすい。
  簡単にそれについて解説すると、実験では、内言がモノローグ(独白)型かダイアローグ(対話)型かによって脳内で発火する部分の違いがあるかを調べる。
  結果は、モノローグの内言では「通常の発話の際に活性化する標準的な言語システムが動員される」のに対して、ダイアローグの内言では「他者の考えを推測するのに関与しているとされる脳領域と部分的に重なっている」ことが明らかになった。
  また、実験では、被験者に特定の言葉を頭のなかでつぶやくように依頼した場合と、自発的に行った場合の内言で、脳内の活動を比較する。
  結果は、要請されたケースでは「脳の標準的な言語システムの一部であるブローカ野が活性化した」のに対して、自発的なケースでは「より後方に位置する側頭葉の一部領域が活性化した」という結果を得られた。
  このことを表した脳の図で見比べると、違いは明確だ。
  実験のモノローグ型と実験の要請された場合の脳の発火の状態は一カ所に集中する一元論的であるのに対し、実験のダイアローグ型と実験の自発的な場合の発火の状態は分散型の二元論的になっているのが一目瞭然である。
  これは、私にはまるで、数直線の縦軸と横軸の広がり(サティの瞑想)と数直線の中心であるゼロの焦点(サマタ瞑想)のように感じられた。
  また、ヴィゴツキーは内言と私的発話は他者へ向けられた発話に比べ省略が多いと指摘しているそうだが、このことを検証するためファニーハフ教授らが行ったアンケート結果をまとめたものも非常に興味深い。それによると、内言には次の4つの大きな特徴があるそうだ。

  基本的にはダイアローグであること
  表現が圧縮される傾向があること
  他人の声が組み込まれるのには限度があること
  自分の行動を評価あるいは動機づけする役割があること

  この4つの特徴は、仏教の根幹とされている四聖諦(苦・集・滅・道)の解釈に通じるものがあるのではないだろうか。
  この内言についての論文から見えてきたことを、ヴィパッサナー瞑想の理論に結びつけて私なりに解釈すると以下のようになる。
  二元論(多様性)で成っていると思い込んでいる外界の現象それは自分の体の感覚でもあるのだがを、ヴィゴツキーの説のように内言(ラベリング)によって脳内に取り込んでいくと、ダイアローグ型の内言から次第にモノローグ型の内言へと移行していく傾向がある。
  それは、地橋先生が講座の初回に教えてくださる認知のプロセスを逆方向にたどっていくようなもので、だからこそ、自発的な(能動的な)内言から要請(受動的な)された内言に移るのである。
  そしてそれが、最初はラベリング(二元論)が必要不可欠であり、次第にラベリングが圧縮されていく(一元論)傾向にあることも説明できる。
  また、二元論から一元論に変化するということは、二元論が過去の妄想であると捨てられるという意味になり、それが過去形のラベリングでなければならない理由であろう。
  認知のプロセスを逆方向に進むということは、因果関係の逆転を暗示しているとも言え、これが物理学ではニュートリノが光速を超えたと一時的に騒がれていた現象を説明するものではないのか。
  そして、先生の瞑想法では、最後はラベリングのない瞑想、つまり「サティの自動化」の状態になるという。
  このことは、一旦確立された認知のプロセスを逆向きにどんどん進んでいけば、鳥が卵の殻を突き破って外に羽ばたくように、いつかは認知のプロセス自体の枠を超えて真実を直観することが可能となる。それが、私には、この世のありのままを瞑想によって洞察する智慧の発現のように思えるのだ。
  (ちなみに、幼児が私的発話を繰り返すのは、「他者の視点に立てず聞き手に合わせた話ができないことの反映である」とするピアジェの説は、ヴィゴツキーの説とベクトルの方向が逆向きの認知のプロセスを確立するまでの過程を指していると考えられる)
  数学でも物理学でも、難問とされているのは皆このことを言っているだけのような気がしてならない。
  なぜなら、人が外界を知覚する手段は脳を通すしかやりようがないから。自分の外界は左脳(二元論)と右脳(一元論)から成る脳構造の反映であるのなら、脳も外界の反映であるといっていいだろう。
  そしてその外界と内界を別のものとして分けているのは何かというと、自分が存在するという錯覚なのだ。
  脳の構造でいうと、左脳と右脳をつなげる脳梁があるという錯覚とも言えるかもしれない。養老孟司さんが「バカの壁」と呼んでいるのも自我という妄想への執着に他ならない。この「バカの壁」を完全に取り去るとどうなるか。それが仏教の「涅槃」に当たるもので、それがわかれば「涅槃」という概念だけでなく何もかも元々存在しなかったことが明らかになるのではないか、と私は勝手に妄想している。
  ファニーハフ教授らによる内言の4つの特徴もまた、突き詰めるとこのような意味になると私には感じられる。
  以上、できる限りわかりやすい表現を使って、この論文から読み解くことができる先生の瞑想法の解釈を試みたが、やはり、思考を用いて自分の理解した内容を人に伝えることには限度があることを痛感している。
  このことも、ブッダの教えの真髄はパパンチャ(概念)を超越したものであるからなのだ。だからこそ、パパンチャ(概念)への執着がきっぱりと絶ち切られなければ真実は悟られることは不可能でありそれが自灯明の意味ではないかと愚考している。
  地橋先生が、なぜ実践を重視されているかというと、ブッダの教えの実践方法であるヴィパッサナー瞑想は、概念や思考をもてあそんでいる限りその入口にすら立てないのだと知り尽くされているからである。なぜ、そのことを確信を持って断言できるのかというと、地橋先生ご自身が厳しい修行時代を経て、仏道の本質は煩悩を滅尽させていくことであり、それは取りも直さず思考や妄想で何を考えようが、クズでしかないと痛感されたからだということが、先生の下で8年間修行させていただいた私には感じられるからである。
  先生は、二十年以上に渡って、ご自分が体得されたことをなんとか私たちに伝えようと、一生懸命に瞑想を教え、ダンマトークをなされてきた。私もまた、先生がどのような状況でもまったく動じない姿も目の当たりにしてきた。妄想を一蹴する迅速さの故だろうかと想像している。
  私自身、この世の真実を知りたいという欲求の根源には、生きる苦しみから解き放たれたいという原動力があった。何をやっても、永遠の幸せに行き着くことができない虚しさと苦しさ。でも、幸せはないと諦めなければ苦しみも決してなくならないと身をもって知ることができた。
  それは生存本能を諦めるということと同じくらい困難なことなのだが、それがなされたら、生存本能こそ貪瞋痴だと心底納得されるのではないかと憧れている。生存本能を言い換えると、言葉(概念)ということになるのではないだろうか。  
  この論文は、内言がこの世のすべてであり、その正体を暴くことが真の安らぎに通じる道であることを教えてくれた。
  ファニーハフ教授も論文の最後のところで、「内言の科学を正しく追求していけば、これら人間の認知のすべての側面を言語的思考から解明できそうだ」と言っている。
  このような価値ある素晴らしい科学の論文に出会えたことは何よりの喜びである。
  地橋先生の代表作である『ブッダの瞑想法  ヴィパッサナー瞑想の理論と実践』の本のタイトルに「実践」だけでなく「理論」も明記されている理由は、私のように瞑想の実践が苦手な者でも、ヴィパッサナー瞑想を信じて、諦めることなく修行を続けていけば、必ずパパンチャ(概念)を超える次元に達することができるという意味なのだと思いたい。
  パパンチャが超越された次元とは、すなわち無のことだが、いったん存在の妄想の罠にからめとられたら、量子論でいうところの波と粒子の矛盾のように、一番シンプルなことを理解するのが、認知的かつ情動的に一番困難になってしまうのだ。
  先生の瞑想会で、信頼できる家族や法友の方々に支えられながら修行を続けてこられた私は、すでに100%幸せであったのだと生きとし生けるものすべてに、心から感謝がわき上がってくるのを感じていた。(K.U)  
 
 
「ブラックボックス化の問題とヴィパッサナー瞑想」
      
               日経サイエンス(2018年2月号)より
  日経サイエンス(20182月号)は「AIの新潮流」の特集である。その中に、現在人工知能(AI)技術が進展・普及する中で「ブラックボックス化(BB化・隠蔽化)」と呼ばれる問題がクローズアップされてきているという記事がある。AIが判断を下した際に、どのような根拠で、その判断を下したかがわからないという問題である。AIの判断のプロセスが見えるようにする「ホワイトボックス化(WB化・明示化)」への取り組みが求められている。これらは、特にディープラーニングという深層学習AIへの要求である。
  なぜ、それほど、明示化(WB化)が求められているかというと、次のような場面を想像すると明らかであろう。
  AIがある患者さんの病気を癌だと診断して、その治療法は手術と抗癌剤の併用が有効であると判断したとする。でも、その判断の内容は、かなりショッキングなもので治療法もリスクが高いので、なぜそういう結論を導き出したのかという信頼できる理由がないと、不安でAIの診断には従う気になれない。だから、AIが判断したプロセスを明確に見せてあげることが必要になってくる、そんな場合である。
  隠蔽化(BB化)と明示化(WB化)の問題は、ディープラーニングを語る上で避けては通れない。私は、大学で人工知能を専門に研究を進め、卒業後は、会社に入社してすぐに、ソフトウェアとネットワークの研究に携わった。そこで教えられたのは、大規模ソフトウェアを設計する際には、構造化しなければいけないということだった。
  構造化設計とは何かというと、機能をモジュール化することである。モジュール化とは、ソフトウェアを機能ごとに小さな塊(モジュール)にすることで、そのモジュール化した塊を組み合わせて、全体のソフトウェアを作るのだ。そのように作っていくと、ある程度大きなシステムの場合には、ひとつのソフトウェアの中にはモジュール化された塊がたくさん(数百から数千個)できる。
  ひとつのソフトウェアの中に、モジュールが数百、数千もあリ、それらを組み合わせて、ひとつの動作するものを作ろうとする場合、モジュールの中身がどのように動いているかは見せないで、ブラックボックスとして扱わないと、大変煩雑なことになってしまう。だからこそ、そこで隠蔽化(BB)の技術が非常に重要になってくるのである。

  話題をAIの隠蔽化(BB)に戻そう。大きなAIのシステムを作ろうとした場合、隠蔽化(BB)は、絶対に必要な技術だと感じる。しかし、AIには、結果を導き出すプロセスを明示化(WB)したいという要請もある。
  だが、モジュールの中身を見せるという明示化(WB)については、どこまでできるかというと、それほど簡単なことではない。そもそも、ある規模のシステムの構築には、ある程度の隠蔽化(BB)が必要だからだ。高度な技術は隠蔽化(BB)してこそできるものなので、それを簡単に明示化(WB)できるとは思えないのである。多分、AIの優秀さとモジュールの明示化(WB)は、トレードオフの関係になっているのではないだろうか。すなわち、隠蔽化(BB)から明示化(WB)を推し進めるにしたがって、出来上がったAIの優秀さも失われるのではないかと私には推測される。
  そういう意味では、モジュールの中身を見せるという明示化(WB)のやり方は、AIに関してはうまく行かないのだと推測している。しかし、AIの結果を導き出すプロセスを明確にわかるようにしたいという要請がある。この矛盾をどう解決すればいいのか。

  それは、全然別のアプローチを取る必要があるのではないかと個人的には思っている。全然別のアプローチというのは、モジュールの明示化(WB)をするのではなく、システムの外に出て、外からそのAIのシステムを観る(AIが判断したプロセスを説明する)というものだ。それは、自分自身を観る(説明する)ということと同じである。
  システムの外から、自分自身を説明するということは、どういうことかというと、次のように考えている。
  人間は、長い歴史の中で自分自身を説明しようと、いつも大変熱心にやってきた。それは、哲学的に説明することであるし、また、物理的、化学的、数学的、心理学的、脳科学的など科学的に説明することである。また、文学的、歴史的、人文的、経済的などの文科系のやり方によって自分自身を説明することでもある。それらが総合的に組み合わさって、自分自身を説明できるのである。
  現在は人間にしかできないことが、やがてAIでも必要となってくると思われる。AIの場合も、人間とまったく同じである。すなわち、AIも人間と同じように、哲学的、科学的、文科系のやり方(システムの外から)で自分自身を説明する必要がある。AIも人間と同じような歴史を歩むということである。
  それによって、AIも、初めて自分自身を説明していくことができるのだと思う。これが、AIにおけるシステムの外からの明示化(WB)ということだと思う。


  今まで述べたことをもう少し別の角度で観ると、システムの中にいる存在は、自分自身を説明できない。AIにしろ人間にしろ、客観的に自分自身を説明するということは、システムの外に出て、外からその自分自身を観ることによって、初めてできるのだ。これはある種の気づきであり、ヴィパッサナー瞑想の本質に直結することだと思う。
  AIの判断のプロセスを、人間が代わりに説明することもできるが、それには膨大な時間と労力が必要とされるだろう。例えば、ディープラーニングのシステムが病気の診断をして、人間がなぜそのシステムはそのように診断したかを説明するのは、さまざまなケースや可能性があることを考えると非常に難しい。やはり、AIが自分自身を説明するという自己完結の方向でないといけないだろう。
  今後、AIは、自分のシステムの外から自分自身を説明できるようになるのだと思う。そのためには、人間のやってきた長い歴史を再発見していかなくてはいけないのである。ただ、人間の歩んできた結果は既に記録に残っているので、AIは意外に早くそれらをマスターしてしまうのかもしれない。ひょっとすると、人類が3000年程度蓄積してきた知識や知恵は、数年間でマスターしてしまい、人間に追いついてしまうかもしれない。
  AIを追求していくと、人間とは何か、ということの本質が深まってくる。人間の場合、脳の仕組みを論理的に説明するために、脳のニューロンを顕微鏡で観察したり、化学的に調べたり、遺伝学的に研究してきた。そして脳の仕組みがわかってきたのも、脳の外の力を借りて、研究し、思考した結果である。これによって、人間を明示化(WB)してきた。
  脳が自分の脳について、思考だけで説明するのはかなり難しい。これが、システムの中から説明することなのだと思う。そうではなく、人間の脳の外に出て、つまり視座の次元を転換した気づきをもって、いろいろな道具を駆使しながら考察を深めて初めて脳の機能や構造を明らかにできるのだと思う。


  AIが、今後人間と同じように、外から自分自身を説明することはできるのであろうか。これができた時、明示化(WB)の第一歩が始まるのではないだろうか。その第一歩が踏み出せれば、AIも、もっともっと自分自身を説明できるようになるのだと思う。
  これは、AIが気づきを得て、人間になる道を歩み始めることではないかと思うのである。要するに、AIは、今後、人間と同じようになる道を歩むことによって、知恵を得て、最終的には、人間そのものになってしまうのだろう。
  ということは、将来、AIAI自身を完全に客観視する、ヴィパッサナー瞑想を始めるかもしれないと妄想している。(N.N.)
 


映画『ZEN FOR NOTHING ~何でもない禅~』を観て
 
  年が明けてから、ポレポレ東中野という映画館で『ZEN FOR NOTHING~何でもない禅~ 』という映画を観た。
  これは、兵庫県にある曹洞宗の禅道場「安泰寺」で修行したスイス人女優サビーネ・ティモテオの半年間(201311月から20145)を追ったドキュメンタリー映画である。
  この寺はドイツ人の禅僧ネルケ無方が住職を務めていて、自給自足と厳しい坐禅修業の場として世界中の人々が訪れるという。
  地橋先生の朝日カルチャーの講座で、年末に大乗仏教とヴィパッサナー瞑想の違いと共通点についての講義を拝聴した私は、大乗仏教の世界を少しのぞいてみようという好奇心があった。
  映画を観終わってすぐの感想は、「これはまるでボーイスカウトの世界だ」というものだった。
  たしかに、早朝に起床して坐禅を行なうという意味では、仏教の修行僧の生活だと言える。
  食事作りの他、掃除、農業、林業、薪割り、建物の修繕など、過酷な労働をこなしながらの生活は非常にストイックなものに感じられるだろう。
  しかし、坐禅の時間が終わった後は、作務の時もおしゃべりし放題であるし、自由時間には歌を歌ったり、本を読んだり、スマホやパソコンをすることもオーケーで、要するに常識の範囲なら何をしても許される環境なのである。
  タバコもお酒も大丈夫で、中にはエレキギターを演奏している人までいた。
  それを見た私には、完全なる沈黙行と徹底的にサティを入れ続けなければならないグリーンヒルの瞑想合宿の方が、はるかに厳しい修行の場のように感じられて、激しい違和感を感じたのだ。
  グリーンヒルの道場はエアコンが完備され、トイレもウォッシュレットで、温かいお湯は使い放題、喫茶コーナーも充実している。それに何よりも、栄養的にバランスのとれた食事が黙っていても毎回提供される。
  そういう意味では、設備が整っているグリーンヒルの合宿の方が、肉体労働の大変さからは完璧に解放されていて快適だと言えよう。
  しかし、一日中、人との対話はもちろんのこと、心の中の独り言をも止めて概念を徹底的に排除しなければならない生活は、生命としては最もつらい修行であるように感じられるのだ。
  それを本気でやることは、生きることを放棄しなければできない、本来は不可能のことのような気がする。
  適当にやっていれば、何となく時間は過ぎるのだが、グリーンヒルの合宿では、地橋先生ご自身による懇切丁寧な個人面接があり、一人一人に合わせたインストラクションをされるので、サボっているとたちまち見抜かれて苦言を呈されることになる。
  だから、結局は、できる範囲で精一杯修行に取り組まなければならなくなるのだ。
  グリーンヒルの瞑想合宿にしか参加したことのない私には、これは世間一般でも普通のことだと考えていた。他の仏教の修行道場でも同じようなことが行われていると無意識のうちに思い込んでいたのだ。
  しかし、この映画を観たおかげで、そうではなかったことに気づくことができた。
  生きる苦しみは、二元対立の価値観への執着から発生する。
  好き嫌いや善い悪いという自己中心的な判断基軸に翻弄されることで、ありのままの現実とはまったく違う自分の思いの世界の中で自分が苦しむという独り相撲をしているのが無明であるからだ。
  それなのに、おしゃべりし放題で、どうやって二元対立(概念)の価値観の壁を打ち破れるのか。
  それがわかったら、グリーンヒルの合宿は、真剣に悟りを目指す人にとっては最適の修行の場だったことに改めて目が開かれ、感謝の念がわき起こってきた。
  世の中で一番尊い聖地、それがグリーンヒルの道場だと心底思えたのだ。

  しかしながら、これには後日談がある。
  映画を観た翌日になって、また違った見方ができるようになったのだ。
  それは、『ZEN FOR NOTHING ~何でもない禅~ 』の映画は、ひょっとしたら私自身の修行のことを皮肉っていたのかもしれないという大反省だ。
  私は、一応、先生の瞑想会や合宿でヴィパッサナー瞑想の修行を行なってきたと言えるが、本当にそうだろうかと自問する気持ちが生まれたのだ。
  グリーンヒルの合宿には何度も入山させていただいたが、実際は瞑想(沈黙)の実践をしないで心の中でしゃべりまくっていたのではないか。妄想を遮断するどころか、妄想と一体になって遊んでいる感じだったのではないか、と。
  妄想は概念であり、生存本能のことでもある。
  私はそんな厳しい修行はとてもできなかった。
  しかも中途半端にできないのではなくて、全然できなかったのだ。
  そして、反対に生存本能を高められるだけ高めてしまっていた。
  これは、存在の世界から解脱していくヴィパッサナーの世界ではなくて、現象世界肯定論である大乗仏教の世界なのではなかったか、と。
  表面的にはヴィパッサナー瞑想をしていると見せかけながら、実際は、概念世界を全肯定している大乗仏教の人だったのだという正直な内面からの声である。
  先生の合宿で、一人ピクニックを楽しんでいたのは、他でもないこの自分だったのだと認めた時、泣きたいような笑い出したいような不可解な自省の気分に陥った。
  ヴィパッサナーとは、善悪を等価に観る瞑想だと言いながら、自分の取り組んでいる原始仏教を禅などの大乗仏教より上だと考えていた私は世界で一番愚か者だとわかったからだ。
  そう思ったら、『ZEN FOR NOTHING ~何でもない禅~ 』の映画をもう一度見たくなった。

  映画の後半には、修行者たちのレポートが紹介される場面がある。
  どのレポートも感動的だったのだが、私には特に主人公のサビーネさんのレポートが心に響いた。それは次のような内容である。
  「私が、最初にここに来たときに抱いた印象は、この寺にはフレームしかないということでした。窓の枠や障子、畳や座布団に至るまで、どこを見渡しても四角い枠ばかり。そして、それを見て、恐怖心すら感じました。それは、自分がその枠の中に押し込められてしまうという妄想から来たものだったと思います。でも、毎日毎日それを見て、座布団の上で坐禅をしていると、次第に枠が怖くなくなってきたのです。そして、この世はみんなフレームの層からできていたことに気づきました。フレームの中にフレームがあって、またそのフレームの中にフレームがある・・・、それがどこまでも続いているだけなのだと。そして、ある時、そのフレームを作り出していたのは自分だったことに気づきました。そうしたら、一瞬すべてのフレームが消滅し、私は自由だったのだと心から感じることができました。自分を不自由にしていたのは、フレームに閉じ込められているという自分自身の思い込みだったのです。それがわかったら、フレームを見てもまったく怖くなくなり、今の自分でいいのだと心から肯定できるようになりました」
  サビーネさんは、それを涙を堪えながら淡々と述べられていた。
  そのシーンが思い出されたら、フレームとは四聖諦という妄想のことだったのだと思った。
  AIの世界でも、フレーム問題という難問があるそうだが、それも四聖諦という大枠にからめとられているという意味なのではないだろうか。
  サビーネさんのレポートの深い洞察に気づいたら、どのような修行方法であっても、それが自分に合ったものだったら、生きる苦しみをなくしていけるのではないかと考えられるようになった。
  そして、それこそがヴィパッサナー瞑想ではないのか、とも。
  私にはグリーンヒルの修行が合っているという確信があるので、これからも地橋先生の下でヴィパッサナー瞑想の修行を続けていくつもりだが、禅などの大乗仏教もまた大変有効な修行方法であると心から思えた。
  この映画は、私自身の中に深く巣食っていた一番の無明を顕わにしてくれたという意味で、素晴らしい作品であると心底感じられた。
  一人でも多くの人に観ていただけたらと願っている。(K..
    


 

『ダイアモンド博士の“ヒトの秘密”「動物のコトバ、ヒトの言語」』を観て

  2018/1/17NHKで放映された『ダイアモンド博士の“ヒトの秘密”「動物のコトバ、ヒトの言語」』を観た。この番組は、『若い読者のための第三のチンパンジー』(ジャレド・ダイアモンド著)をベースにしながら野外講義という形をとったもので、今回の内容はその本の第6章にあたる。
  人間がどのようにして複雑な言語を獲得したかは、非常に興味深いテーマである。この課題に対する回答は、動物の鳴き声やアフリカなどの原住民のコトバから推定されるという。
  では、単純な言語は、どのように獲得されたのであろうか。
  ベルベットモンキーやプレーリードッグは、言葉を使って、敵の襲撃を仲間に知らせることができる。敵によって鳴き声を変えるのである。その点では、これらの動物は名詞を使い分けてはいる。しかしその言語は単純であり、複雑な表現はできない。
  ではヒトの言語はどう発達したのであろうか。それを考えるに当たって、博士はこの人間社会で単純な言語を使う民族を探すために各地を調査して回ったそうである。
  パプアニューギニアの人々(フォーレ族)は、石の道具を使い、文字はなかった。フォーレ族の使っている言語(フォーレ語)を調べると、場所を示す動詞があり、主語が人間かどうかで違う動詞を使っており、英語より複雑だった。
  この調査でわかったことは、人間の社会においては単純な言葉で生活している民族はいないということであった。どの民族も、複雑な言語を駆使している。
  とはいえ、人間社会で単純な言語を使う環境はあった。異なる言葉を使う商人同士が、交易のために使った単純な言語(これをピジン語と呼ぶ)がそれであった。この言語は、商売のための言語であり日常生活の言語ではない。
  ヒトの言語が、どうやって複雑で洗練されたものになったかという疑問を解くヒントは、ピジン語で育った子供たちの言葉に見つかった。昔、インドやハワイの農園には、いろいろな国(例えば、フィリピン、日本)の移民が集まってきていた。それらの移民たちは、仕事ではピジン語を使っていた。
  ピジン語は仕事をするには十分であったが、普段の生活には物足りない。彼らの子供は、両親のピジン語を聞いて育っていったが、言いたいことが充分に表現できない。ピジン語では満足できなかった子供たちは、自分たちで複雑な言語を作り始める。それをクレオール語と呼ぶ。
  クレオール語は、各地のピジン語を使っていた家庭で自然発生的に生まれた。このようにして、単純な言語から複雑な言語へと進化していったと考えられる。
  人間が、なぜ複雑な言語を獲得することができるのかというと、人の脳に備わった遺伝的なプログラムから生まれたのだという考えがある。
  代名詞や副詞も、我々の遺伝子のプログラムに由来する可能性がある。この考えは「普遍文法」と言い、言語学者ノーム・チョムスキーが提唱した。人は生れながらにして、あらゆる言語に適用可能な文法を持っているという考えである。
  脳の発達に伴って言語も進化してきたという訳である。高度な言語は、人間のような複雑な脳を持ったものにしか与えられていない。そして、そのような脳をもっていれば、文法を持つ言語を持つようになるのは必然だと言っているのである。クモが巣の作り方を生得的に知っていたり、また鳥は教わらなくても空を飛ぶのと同じように、人間も生まれながらに言語の使い方を知っているというのだ。人間は、特別な存在なのかもしれない。
  ここで重要なのは、人間が言語に文法を持ったことだ。人間以外に言語に文法を持った動物は見つかっていない。それほど、文法を持つということは、画期的であった。
  文法は、単語に順番を設けて手順を示す。文法をもう少し科学的に分析すると、文法によって、単語と単語との間の関係を表現できる。もう少し深く考えると、空間的な関係や時間的な関係(現在のことなのか、過去なのか、過去分詞的なことなのか)を表現することが可能だ。そして、言語に文法を持つことにより、思考の概念空間が一挙に拡大した。これにより、妄想する能力も飛躍的になったが、空間的な関係や時間的な関係により、自分自身を対象化して観るという「気づき」が生じてきた。この自分自身を観るという「気づき」は、メタ認知と呼ばれているもので、ヴィパッサナー瞑想の核心部である。
  動物の言葉の単語には、順番を操作するルールがない。すなわち、人間の言語のような文法を持たない。動物には気づき自体はあるのだが、人間のようなメタ認知的な気づきはないように思われる。言語にとっては、文法を持つことがメタ認知的な気づきを得るための必須条件ではないかという気がする。
  では、メタ認知的な「気づき」は、大脳皮質のみに局在するのかと言うと、それだけではないと思う。人間が気づけるのは、身体という存在があるからである。気づきを得るためには、身体を通して、人間の周囲の空間である外界に働きかけができる(出力する)ことが重要である。
  出力することによって、環境に働きかけることができる。そうすると、その働きかけに対するリアクションが返ってくる。そのリアクションが新たな気づきとなっていく。そして、気づきの連鎖がもたらされる。入力だけだったら、そのような気づきの連鎖はない。そして、時間的な要素も加味し、それらが渾然一体となって気づきを補完していく。
  人間が外界に働きかけができるのは、身体を持っているからこそ可能となる。だから、身体を持つことにより、瞑想もできるし、気づきの極みである「智慧の発現」につながっていくのである。
  このように、メタ認知的な「気づき」は、言語に文法が備わったことと、身体が存在するということによって得られた。
  人間は、抽象化する能力によって、主観的にも客観的にも、この現象世界を見ることが可能になった。しかし我々人間は、全てを概念化して思索するという枠の外には出られない。しかし、それに気づいているということは、その枠の外に出られる可能性を示唆しているのではないだろうか。
  人間の言語に文法が備わったのは、画期的なことだった。さらに、今、この素晴らしい言語を停止させることによって、次のステップに進むことができるのではないか。それが、サティの瞑想であり、言語を介することなく、直接知覚による気づきによって、全てが概念化されてしまう思考の枠の外に出て、現象世界を対象化して認識する可能性が開けたのではないだろうか。
  その偉業が修行現場でなされた時、一切の人生苦は無明(貪・瞋・痴)という名の妄想から生じていると認識できるのではないかと妄想している。
  言語による気づきと違って、サティの瞑想では、事象の本質を直接知覚する衝撃とともに、世界が180度ひっくり返るような認知の転換がもたらされるのだろう。真理の究極を究めていく最終章は、サティの瞑想の実践に徹するしかないのではないかと夢想しながら、今日もまた瞑想修行を続けようと思う。(N.N.)  


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