月刊サティ!

読んでみました

2017年1月号~6月号  

映画『奇跡がくれた数式』を観て

  この映画を観るまで、天才数学者ラマヌジャンの存在を知りませんでした。
  ラマヌジャンは、南インドに生まれ、高校卒業後、マドラス港湾局の事務員として働き、独学で数学を勉強し、ノートに数多くの定理や数式を書き留めました。ヒンドゥー教のナマギーリ女神を深く信仰しており、「ナマギーリが自分の舌に方程式を書いてくれるのだ」と言っていたそうです。
  周囲に彼の研究を理解できる者はいなく、当時宗主国であったイギリスの著名な数学者に手紙を送ります。その中で、ケンブリッジ大学(トリニティ・カレッジ)のハーディー教授が唯一彼の才能を認め、大学に招聘してくれます。
  映画では、ラマヌジャンを軸として二種類の人間模様が描かれています。
  一つは、インドを舞台として、ラマヌジャン、母親、妻の三人が繰り広げる世俗的な世界。ラマヌジャンは、嫁姑問題に苦しめられます。息子の妻も渡英してしまったら、二人とも、二度とインドに戻ってこないのではないかと危惧した母親は、ラマヌジャンが妻に送った手紙を渡さず、妻が夫宛てに書いた手紙も投函せずに隠してしまいます。
  『心は孤独な数学者』(藤原正彦、新潮文庫)には、母親がいかに愛情深く彼を育てたのかが描かれています。おそらく、母親から深い愛情を受けとったからこそ、彼の才能は開花したのだと思います。一途な母の思いは、嫁の出現によって一転し、疑心暗鬼にまみれた嫉妬心に変わってしまったのです。トレードオフだと思いました。ラマヌジャンは、死ぬ間際まで嫁姑の争いに苦しめられたそうです。
  二つ目は、イギリスのトリニティ・カレッジ(トリニティは3という意味だそうです)で、ラマヌジャン、ハーディー、リトルウッドが追い求める「真理」の世界。
  ハーディーは、論理的に証明できないものは信じない無神論者。かたや、毎日神にお祈りするラマヌジャン。この正反対の二人の緩衝材的な役割をリトルウッドが担います。
  ラマヌジャンがひらめいた数式を、ハーディーは証明すべきであると説得します。ラマヌジャンが直観的な右脳ならば、ハーディーは論理的な左脳で、リトルウッドは両者を橋渡しする脳梁。また、3人の関係を清浄道に見立てると、ラマヌジャンが瞑想、ハーディーがダンマの教え、リトルウッドが慈悲の心を表しているように思えました。
  世俗的な世界と異なるのは、「自我」を超えて「真理」を追い求める世界では、「偏見」や「差別」もありません。ハーディーは、高校を卒業した一介の事務員の才能を認め、彼をケンブリッジに招聘することを決意します。ハーディーの高潔さに感激しました。
  私は、『奇跡がくれた数式』の映画を二度観たのですが、二度とも感動して涙してしまいました。でも、なぜ涙が出てくるのか、理由がわかりませんでしたが・・・・しばらくしてからその理由が思い浮かびました。ひとつは父との関連でした。ラマヌジャンが殴られて顔にあざができていても気づかずひたすら数学の証明に専念するハーディーに、「優しくない父」の姿を重ねて観ていたのです。でも、映画の終盤では、病に侵されて弱ってしまったラマヌジャンの為にハーディーが必死になって奔走する姿に、一種の癒しを感じていました。
  映画の最後にラマヌジャンの論理がブラックホールの解明に役立っているというコメントが流れます。彼の人生そのものが、この世の本質を表しているように感じました。(穂)



『外来種は本当に悪者か?』フレッド・ピアス著(草思社2016年)

 日本には古来おびただしい数の動植物が持ち込まれてきた。近ごろテレビでよく取り上げられるのは、飼育目的で持ち込まれた動物が野生化し、それが元々の生態系を乱すばかりではなく、在来種を絶滅の危機にさらしたり、農産物にまで被害をもたらしたりという情報である。本書は、そうした次元を越えて、はたして「生態系は安定が基本で、変化は異常」という思い込みは誤りであると、島という閉じた空間から、湾や湖、都市の荒廃地に至るまで、じつにさまざまな事例を駆使して考察し主張する。
  知る限りではあるけれども、カスタマーレビューの多くは「☆」の数の分布(AMAZONによる)がどちらかに偏っているけれど、本書は現時点で21件が「☆」五つ(10件)と一つ(6件)とに分かれ、二~四つは計5件しかない。そのような意味から、紹介するかどうか少々迷ったが、評価が分かれた「悪者か?」どうか、の部分には触れずに、これまで疑問も持たずにいたことを再認識させてくれ、なるほど「無常」とはこういうことでもあるのだと気づかせてくれた部分についてのみ記してみたい。

  これまで学校で極相林と言うことを教わった時、それはもうこれ以上変化しない安定したものとして覚え、理解したように思う。しかし少し考えてみれば、それでも気候や自然災害によって影響を受け、変化していくであろうことは容易に推測できる。したがって、現在では極相と言えども、より適切には動的な平衡状態にあるという視点から森林の姿を理解するようになってきている。
  本書ではもう一歩進んで、生き物同士の接触、侵入とそれが及ぼす影響について検討していく。そしてそれは、「他種類の生き物がいる成熟した生態系は『飽和』していて、もう入る余地がない」のではなく、「外来種がたくさんいる環境には、在来種も多」く、「自然を乱すという概念がそもそもない」ので、「生き物の出入りも激し」く、「『在来』『外来』の区別もほとんど意味がなくなりつつある」という結論に至る。つまり、「ダイナミズムと変化こそ自然本来の姿なのだ」との主張、これが本書のバックボーンとなっている。
  「無常」のことわりはこの世のすべてに当てはまる。絶滅していくもの、絶滅を食い止めようとするもの、どちらも包含したまま濁流のように変滅していくのが残酷な無常の真理ではないか、と「無常=苦」の理解に思いを新たにした。このことを忘れずに、本書をきっかけにして自己の「ダイナミズムと変化」にも期待しよう。(雅)


『介護のススメ』三好春樹著(ちくまプリマー新書2016年)
  「希望と創造の老人ケア入門」という副題のこの本の著者は、1950年生まれ。1年以上働いて失業保険で生活しながら職業を転々としたあげく、その時の仕事に飽き飽きしていた時に舞い込んできた「介護現場で人を探している」という話、何も知らないまま飛び込んだという。それが今では、介護という仕事にこそこれからの若者が働く希望があると話す。「私は思う。うつやノイローゼになる前に介護の世界を覗いてみないか。『命より金』という現在の価値観を覆したアナザーワールドが見つかるだろう」。(PR誌『ちくま』2017年1月号より)
  今、日本のあちこちで著者の考えに共鳴した若者が小規模ではあれどもデイサービスを起業している。そこはなんと老人たちが元気になっていく、「生活復帰」「人間復帰」の現場なのだ。それは「老人の置かれた状況と気持ちを考え」て「老人が嫌がることはしない」結果、自然と優しくなったことが老人を元気にしているのだ。
  介護というのは地獄のようなもの、そしてもし認知症になったらもう人生は終わりだと思っている人が多い。しかし、「でもそれは大変な間違いです。だって私はこれまでの40年以上の介護経験で、深い認知症がありながら、ちゃんと落ち着いて暮らしている人を何百人も見てきたんですから。さらに、いつも人に気を遣って笑顔を見せて、周りから尊敬されている人もいっばいいました」と著者は言う。
  息子が孫を連れて訪ねてきたある人は、嬉しそうな笑顔を見せながらも誰なのかははっきりわかってない様子。帰って15分くらい後に職員が「今日はお孫さん来てよかったね」と声をかけても「えっ来たか?」というくらいの物忘れだったという。ところがある日、主任生活指導員が会話の中で、「吾郎さんは歳いくつになったの?」と尋ねたところ、「うーん、ナンボになるかのお」としばらく考え、こう言ったという。「あんた、どうしても知りたけりや、役場へ行って聞いてみてくれ」。
  「私は感心しましたね。あっ、彼は、自分が歳もわからなくなっているということをちゃんと認識しているんだと。そしてここからです。そんな自分を隠そうとしません。そして、自分はよくわからないから、わかっている人に聞いてくれ、と言うんですよ。すごいじゃないですか。考えてみると私たちはみんなこうして生きてました」。
  分からない自分を恥ずかしいと思わずに、ちゃんと訊いて、「あ、そうか」と受け取れるなら問題は起こらない。それは認知症の問題と言うよりも、周りの人を信じられるかどうかということに帰するのだという。本書では、このエピソードを始めとして、老いるということが人間の基本に返っていくことを、介護の現場でのさまざまな場面を通して語られている。
  最後に著者は、若い人が少しでも自己肯定感を得られるために二つのことをアドバイスしている。一つは、人生はいくらでもやり直しができるということ。たとえ幼少時に母子関係で心的外傷を負ったとしても、成長につれての人との出会いの中で修復は十分できるはずだし、高齢で要介護になっても、今度は介護職との関係でもそれはあり得ることだと言う。
  そして二つめは、毎日の生活の中で身体感覚を賦活させることで自己肯定感を取り戻そうということ。例えば、「おいしいと感じて三度の食事をし、快適な排泄を喜び、風呂に入ってホッと」すること、そしてそれを共有して人へとつながっていくことだと言う。
  「考えてみると、介護がやっている仕事って、老人の、世界への信頼感と自己肯定感を作り出すことなんです。だって、おいしく楽しく食べてもらって、気持ちよく出してもらって、風呂に入って、『ああ生きてて良かった』なんて言ってもらう。これを毎日やってるんだからね。そんな普通の、日常的な、なんでもなさそうなことの中に、どうやらいちばん大切なものがあるらしい」
  「きつい」「汚い」「危険」にならって、介護は「危険」に替わり「給料が安い」が入る職場と呼ばれている。しかし筆者は介護の3Kを「感動」「健康」「工夫」と言い直し、若者に「過労なんかで死んじゃだめだ」と呼びかける。介護には「『命より金』という現在の価値観を覆したアナザーワールドが見つかるだろう」「老人介護をする若者は、老人から元気と希望を受け取るのだ」と。
  本書は本来の介護のあり方を示すとともに、若者への応援のメッセージであった。(雅)


映画『シン・ゴジラ』のメッセージ
  映画『シン・ゴジラ』を観ました。今まで多くのゴジラ映画が製作されましたが、今回のシン・ゴジラは、完全に大人受けをしたようです。日本アカデミー賞においても、最優秀作品賞含め7冠の栄誉に輝きました。これほどの動員は映画業界関係者や当の制作者も予想していなかったそうです。何が大人に受けた要因だったのか、私なりに考えてみました。
  シン・ゴジラは、今まで映画化されたゴジラと比べてリアリティが格段に違い、迫力もいっそう増しています。東京の街の映像にしても、普段目にしている現実の風景が精巧に見事なまでに複製されています。これを、踏みつぶして壊していく、自衛隊の火器もバッタバッタとなぎ倒す、この快感が何とも言えないのだと思います。
  観ていてスカッとした気持ちになります。そこに人間の破壊願望の大きさを感じます。破壊願望は本能として組み込まれているのでしょうが、このような映画を観ることでそうしたエネルギーを中和できるのであれば、こういった映画も世の中に役立っているのではないかと思います。
  ゴジラは、1954年以降何回も映画化がなされてきました。日本人はなぜゴジラにあこがれるのか、何ともいえないものを感じているのでしょうか。ゴジラと同類のウルトラQやウルトラマンで現れた怪獣、また、かなり古い映画なので、若い方は知らないかもしれませんが、巨大な蛾であるモスラの映画など、大変人気がありました。
  実はこのような現象は日本だけかというと、そうでもなく、アメリカではキグコングが何回も映画化され、非常に人気のあるキャラクターでした。キングコングがエンパイヤステートビルに美女を抱えて登った場面を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。
  ゴジラもキングコングも何回も映画化された人気のキャラクターであり、それがいつも同じような結末になるというのも、そこに何か本質的なもの普遍的なものを感じます。中生代に栄えていった恐竜も然りです。恐竜展にも観客は押し寄せ、今も昔も絶大な人気を博しています。
  これほどの人気の秘密の一つは、先ず大きくて強いというところにあるのは確かでしょう。しかし、私はそれ以上に、その大きくて強いものが、最後には滅んでいくところに人に悲哀を感じさせるのではないか、これがより以上に日本人に愛される理由になっているのではないかと思っています。
  大きくて強いものに憧れながらも、やがては滅びゆくものへの悲哀、そこに人は人生における無情を重ね合わせ、知らず知らずに心の底の琴線を震わせているのではないでしょうか。これが、ゴジラが私たちにこれほどまで受けている理由のひとつなのだと思いました。(NN.)

『脳が壊れた』鈴木大介著(新潮社、2016年)
  著者は、家出少女、貧困層の若者、詐欺集団など、社会からこぼれ落ちた人々を主な取材対象とするルポライター。2015年の初夏、41歳で右脳に脳梗塞を発症、身体機能への後遺症は軽かったもののいくつかの高次脳機能障害(高次脳)が残った。外からは「見えずらい障害」でありながら、それまで出来ていたことが出来なくなる苦しみを、患者であり記者である視点をもって苦闘しながらも客観的に観ていく過程で、それが、かつて取材した人々のありようの内側と非常によく似ていることを発見していく。
  挙動不審のヒサ君の行動の背景には何があったのか。挙動不審に見えると分かっていてもそれが止められないのは「本当に苦しくて、非常にフラストレーションのたまること」で、「彼もまた子供の頃からこんな苦しさをずっと抱え続けて生きてきたのだろうか」と。自分がこうなってみて初めて実感したと言う。
  生活保護受給レベルにある「女性の貧困」の取材で、福祉事務所への同行支援を試みた中に現れる彼女たちの症状は、「漫画が読めなくなって」しまい、病院内の売店で小銭が数えられなくなってしまった筆者と同じだという。『最貧困のシングルマザー』取材中に「おつりが数えられなくなった自分に絶望した」というエピソードは何人にも共通していた。「貧困とは、多大なストレスと不安の中で神経的疲労を蓄積させ、・・・認知能力や集中力などが極単位落ちた状態」なのではないか。
  その他、構音障害、半側空間無視、注意欠陥、メンチ病、感情失禁(感情の抑制が外れる)、等々、暴流のような症状に襲われる。そして、「不自由なのに、やりたくてもやれないのに、分かってもらえない。それを言葉にすることもできない」苛立ちの中に、認知症やイジメの被害者、「言葉と感情の暴走」に翻弄される子どもたちの内面と通底するものを見いだしていく。
  退院後、筆者は41歳という若さでなぜ脳梗塞を発症したのかを徹底的に考える。生活上の自己管理と節制には自信を持ち、規律的に生きてきたつもりだったのに、「なのにこれだ。どうしてだ」。そして、「原因のすべては、僕自身の中にあった」ことに愕然とする。奥さんも2011年に脳腫瘍の手術も受けている。後遺症はほとんどないのだが、奥さん自身も自覚している手際の悪さや注意欠陥にイライラしっ放し。家事のほとんどを奥さんがする前にすべて自分でしてしまうという生活。いつ脳梗塞が再発してもおかしくない数字を示す血圧計を手に、「僕は呆然としてしまった。これだ、これこそが、わが「病因」だ」と気づく。そして、出てきた結論は「性格習慣病」であり「自業自得」だった。「この性格を改善しないかぎり、いずれまた同じ生活に戻り、そして再発する」。
  筆者は自身の問題性格を、「背負い込み体質」「妥協下手」「マイルール狂」「ワーカーホリック」「吝嗇」、そして「善意の押しつけ」と列挙する。最大の欠点とする「善意の押しつけ」では、「妻のため、○○のため、そうやって自分を追い込んできた結果として脳梗塞にまでなった気がするが、よくよく考えてみるとそのほとんどが『相手が望んでいること』ではなく、『僕がそうしたほうが良いと思っていること』に過ぎない」ということに気づく。
  病気全般にわたることではあるけれど、筆者は、妻、病院、リハビリも含む先生方や友人等々、こうした支えがあって文字通り衝撃を和らげるネット上への「軟着陸感」を持てたという。そのネットとは、文字通り「人の縁」なのだ。そして、「病後7カ月にやったことは徹底的な自分への取材であり、それは内観法に似たようなものだったように思う」と結論づけている。
  最後に、自身もメンタルを病んでいた奥さんからの一文を紹介したい。「心の痛みというものは、今日は本当につらくて死にたくて、明日もつらいかもしれない。でも明後日になったら一気に楽になっているかもしれないという部分があって、それの繰り返しです」「子どものころから母だけでなくいろいろな人に、夫にも、何かをやる前に先にやられてしまう。うまくやれないという理由で自分でやろうとしていることを奪われてしまうということの繰り返しできているから、結局本当にやれることが少ない」。
  そして、「もし読者のお連れ合いが脳梗塞になったら? この私が支えられるんだから、普通のしっかりした方なら何とかなる。それまで会話が少ない夫婦だったら、たくさん会話してあげてください。病気になった時は人生の谷かもしれないけれど、また山は来ます。私はというと、30年後から頑張るぉ」。(雅)


『君の名は。』を観てきました
  二軒隣に住む80代のYさんとたまたま道で会い、駅まで一緒に歩きました。そこから映画の話題で盛りあがりました。私が「最近、心に残った映画ありますか?」と尋ねたところ、「そうだね。『君の名は。』が一番良かったね。でもね、若い人にはあの映画は理解できないと思うよ。人生の酸いも甘いも経験した大人の人でないと本当の良さがわからないと思う」と即座に答えが返ってきました。
  私もその少し前に、『君の名は。』を映画館で観て心底感動していて、Yさんの感想に深く同感しました。
  Yさんは三年前に最愛の奥様を病気で喪くされました。私もつい最近、大切な家族を喪いました。私たちは、人生がいかに自分の思い通りにならないのかということを痛感していた二人でした。
  まず『君の名は。』を語る上で外すことができないのは、圧倒的な映像美です。雨粒一粒でさえ輝いて見えます。見慣れた景色に「美しさ」という魔法のベールがかけられているようです。
  また、「君の前前前世から僕は 君を探し続けたよ♪」と映画の主題歌で歌われているように、前世からずっと変わらない「私」が存在し、主人公は運命の人を探し続けます。電車の中にたくさんの人が乗っていても、「迷うことなく」強い確信をもって相手を探しだすことができます。時々、自分自身が何を求めて生きているのか分からなくなりなったり、人生の選択肢に思い悩んだりする我々と全く違うのです。
  さらに、主人公は、時間をさかのぼり死すべき人の運命を変えることができました。人生を思い通りにコントロールしたのです。日々、思い通りにならないことに心を煩わせ、時に、過酷な運命に翻弄され、四苦八苦している我々とは大きく異なります。
  そして、映画で表現されていた男女の入れ替わりは、相手の自我とぶつかりあうことなく、相手と一つになる「究極の合一」経験です。100%相手の立場に立つという経験によって、これ以上ないほど相手に対する理解を得ることができます。
  映画を観終わった直後、深い満足感に包まれましたが、その興奮も家に帰ると徐々に落ち着きました。そして、ずっと輪廻を続けている主人公も、結局、「渇愛」という不満足に支配されているのだという思いに至りました。「ずっと運命の人を探し続けている」というロマンチックな設定も、突き詰めて考えると、「渇愛」に支配されていた構造だったのです。
  永い輪廻の中、ずっと思い続けている「二人」のどちらかの思いが少しでもねじれてしまったら、今回描かれた「純愛」の物語は、「サスペンスホラー」や「呪い」の映画に変化しうるのです。N
 
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