月刊サティ!

読んでみました

  2016年8月号~12月号   

 
『驚きの介護民俗学』 六車由美著  (医学書院 2012)
『解放老人』 野村進著  (講談社 2015)

前者は大学で民俗学を教えていた著者が老人ホームの介護職員となり、聞き書きによって利用者たちの語る豊かな世界を綴ったもの。
  利用者の半数以上は認知症を患い、その言葉は一見すると意味の無いものと見なされがちだが、実はそうではない。しっかりと向き合えば、「その人の人生や生きてきた歴史や社会を織りなす布が形づくられていくように思う」と言う。「同じ問いの繰り返し」にも、実は予定調和として「同じ答えの繰り返し」が求められ、ある意味で民俗儀礼に似て、「安定が確保され」る。さらには、幻聴幻視のある利用者の話にも、「豊かな物語性に驚かされることが度々ある」と述べている。
  ここには、マニュアル化された「回想法」とは違う利用者との関係のあり方がある。日常的には常に介護「される側」にいる利用者が、知らない世界を教えてくれる師となり、能動的な「してあげる側」になる。たとえそれは一時的な関係ではあっても、そうした「ダイナミズムはターミナル期を迎えた高齢者の生活をより豊かにするきっかけとなるのではないか」と言うのである。

 「認知症の豊かな体験世界」という副題の後者は、著者が山形県南陽市の精神科病院の通称「重度認知症治療病棟」を長期取材したもの。そこには当初予期した「どんよりとした、重苦しい、灰色の世界」とばかりは言えない「ほのかな明るさ」があり、「外部から覗き見ただけでは分からない、別の生の実感」がその明るさに繋がっているのではないか、著者にはそんな仮説が生まれたという。その直感を、連日の訪問、たびたびの泊まり込み、お年寄りとの触れあいによる会話、あるいは患者どおしの関係や振る舞いを通して考えていこうとした。
  この病棟には山形県内から集まってきた50人近くのお年寄りが身を寄せる。シュールな幻想を語り続ける人、酒癖の悪さから入院となった事実を認めず、隙を見て抜け出し畑を見に行こうとする人、かつての職業の動作を繰り返しながら病棟のほぼ決まったコースを一日中歩き回る人、もの取られ妄想で罵詈雑言を叫び続ける人、戦争体験の記憶地獄から逃れられない人、年下の患者を姉と思ってどんなに嫌われてもまとわりついていく人等々、とても尽くせないほど幅の広いお年寄りたちの世界が広がっていた。
  自分を支えてきたものが、無慈悲にも剥ぎ取られていく時、それを乗り越える体力、知力はほとんど残されていない。「最も適応する力が衰えた時期に、最も厳しい適応を要求されている」(竹中星郎『老年精神科の病床』)というのが現実である。
  にもかかわず、著者は、「人生経験」「年の功」という体験の蓄積が病んだ脳にどう働きかけるかにひたすら思いを注ぎながら、「認知症を脳の病とだけ見るこれまでの視点は、認知症が秘めている豊かな可能性を、あたら切り捨ててしまう結果になってはいまいか」と考える。また、認知症患者の多くが癌の痛みに無縁な事実からも、「認知症は、終末期における適応の一様態とも見なすことが可能である」(大井玄『病から詩が生まれる』)とも。
  さらには、重度認知症のお年寄りたちには、「いわゆる悪知恵がまるでない。相手を出し抜いたり陥れたりは決してしないのである。それは単に病気のせいでは無いと思う。それは、俗世の汚れやら対面やらしがらみやらを削ぎ落として純化されつつある魂が、悪智恵を寄せ付けないのだ」として、「われらのいわば成れの果てが彼らではなく、逆に、われらの本来あるべき姿こそ彼らではないか」とまで思うに至る。
  その当否はともあれ、共通して既成のイメージに執らわれることの危うさを再確認させてくれる両書であった。(雅)



『幸せはわたしの中に そしてあなたの中に』 南裕子著 (ぶどう社 2015年)


 子どもたちが生まれた時、「私は『なるべく試練の少ない、平穏な人生でありますように』と願った。今はそうは思わない。なぜなら自分の人生をふり返った時、両親との軋轢、借金苦、翔の障害、難病、癌と、様々な試練に見舞われたけれど、そのたびぶざまにもがき苦しみ、時間はかかっても、こんな私でさえ乗り越えることができた。そしてひとつの試練を越えるたび、成長していく自分を感じることができたからだ」
  28カ月で自閉症と診断された長男、翌日伝えた夫の「それがどうした。翔は、翔だろう。万が一その通りで、翔に障害があるとしても、俺たちふたりの子に変わりはないだろう。そんなことで人を差別するのか」の言葉に救われる。しかし、心の奥の「差別意識」には、なかなか決別することができなかった。
  3歳から地域養育センター、4歳の春には保育園、アトピーのある次男の誕生。小学校から高校卒業後「とまと」での弁当作りと配達に通うまでの、母親としての悩み、苦しみそして奮闘が、エピソードを交えながら、家族の成長の話とともに抑えた筆致で語られる。
  その間「潰瘍性大腸炎」という難病に罹患、51歳の誕生日には乳がんと告げられる。術後2年目の検診で再発が認められ、すでに手術は難しく、否応でも死後のことを思わざるを得なくなった。「私は長生きをして、子どもを見守ることはできない。けれども自分の病を受け入れ、自暴自棄になることなく最後を迎えてみせる。それが最後に、君たちに残せる『伝えるべきこと』だと思うから」との心境に至る。
  自閉症の長男は、「わずかなことばしか持たないのに、具合が悪くなった家族がいれば、自分の食事を中断しても布団を敷いてあげる。キッチンのシンクに汚れたコップがあれば、通りすがりにサッと洗って片付ける。翔に、『この話は内緒ね』は通じない。翔は嘘をつくことができないので。持ち帰ったお給料を、『それを全部ちょうだい』と言ったら、きっと差し出してくれる。翔の価値観は、お金を中心に回っていない。来客がたとえ王様だとしても、『こんにちは~』で終わり。反対に飼い犬の足を踏んだときは、犬に土下座をして謝っていた」
  エゴに振り回されながら生きる人々とどちらが人間らしいのか。健常というものとの境目が見えなくなる。
  「いいお母さんだった」などと思われなくていい。「なあんだ、お母さんがいなくなっても、なにも困らないじゃない」と思われたいと言う。
  慈悲の瞑想に通じる逸話もあり、柔らかな感じの文章が続くが、しなやかな強さが全体から滲み出てくるような印象の一冊であった。(雅)


『日本人はなぜ存在するのか』 与那覇潤著 (集英社インターナショナル 2013年)
  日本人のルーツを探る本かと思って読んでみたら、良い意味で期待は裏切られた。著者は歴史文化を専門とする大学の先生。「日本人とは?」を出発点として、これまで意識してもいなかったものが、実は「?」をつけるに値することを改めて知った。
  例えば、「赤い夕焼け」というものが先に存在するのではなく、「人間がそれを認識するから『赤い夕焼け』という現象が現れる。・・・人間の認識が現実に働きかけることで『赤い夕焼け』なるものがはじめて出現し、それがふたたび人間の意識にフィードバックされる」。この、現実認識現実認識・・・というループ現象を再帰性と呼ぶ。
  これは、別の角度から私たちも学んでいることだ。そして著者は、「そもそも社会学的に考えれば、この世界の事象のほとんどは再帰的なのですから、存在の根拠はあやふや」と述べ、親子、国籍から始まって、歴史、文化、伝統、そして人類とは、人間とはまで、再帰性がなければ人間社会にならないと主張する。なぜなら、私たちはもともと再帰的にものごとを作り上げて生きる存在だからだ。だが、「子ども」という概念が再帰的だからと言って、「子ども」を区別することに価値がないとは言えないように、たとえ再帰的であっても、それには価値がないということでもないと言う。
 そして、「私たちが、私たち自身の意識を媒介しない『あるがままの自然』にしたがって生きることをやめ、みずからの周囲にある環境を再帰的に認識し、再構成し、同じ社会のメンバーのあいだでだけ通用する現実に作り上げることを始めたときから、動植物とは異なる『人間』の歩みが始まった」とし、「それを自覚することが、この世界でよりよく生きるための基礎なのだ」と訴える。
  しかし私たちは、再帰性に合わせて現実を作り上げながら生きていることに気がつかない。作り上げられた現実が確固としたものだと思い込む錯覚、仏教の視点からはここに苦が生まれるということになる。
  このように社会学的に理解される概念と社会との関係は、仏教の無常観、無我観を別の面からバックアップするものとして意味があるのではないかと思う。あげられている具体例をみれば、改めて概念とその用語の意味の曖昧さに驚く。たぶん私たちは、世の中で言われていることを簡単に鵜呑みにしすぎているのではないだろうか。
 瞑想で概念というとどちらかと言えばマイナスに位置づけされているが、なぜ概念とは曖昧なのかをしっかり認識しておくことは知的な理解につながるのではないかと思う。あたまを整理するのに適する一冊だと思った。(雅)


『ヒトはイヌのおかげで人間になった』 ジェフリー・M・マッソン著
                                     (飛鳥新社 2012年)
  猫とならんでぺットの双璧をなしている犬は、人類が最初に順化(家畜化)した動物であるといわれています。その始まりは、人の集落に残飯をあさりに来た多少警戒心の薄かったオオカミの縄張りを守る本能が、そのまま集落周辺の夜警につながった、つまり番犬として役に立ったという持ちつ持たれつの関係から、次第にパートナーとして認められていったという推論もあるようです。
  この本の著者は、そんな犬と人との関係がどのように築かれ、それが両者にとってどんな意味があったのかを考察した結果、「愛情、親しみ、友情を感じる私たちの能力は、イヌのおかげで発達したのではないだろうか」と、つまり犬との交流の産物ではないかと考えるに至りました。
  題名からは少し大げさな印象も受けますが、納得するかどうかはともかく、「なるほど!」という話も多く展開されており、利他や慈悲の心が人間に共通して存在することの一つの見方、そしてその心を育てることがごく自然であることが説得力を持って述べられています。
  さらに著者は、飼い犬ベンジーとの交流をきっかけに犬には「異種の動物と心を通わせる、生得的な性質」が備わっており、ほかの動物を区別しないばかりか、人間に対してもまったく偏見がないので、犬は、「平等な世界に生きている。私たちよりもよほど進歩的な考えのもち主ではないか」とまで考え、その背景として、犬の先祖とされる狼の一種ハイイロオオカミの習性、そして、犬と人とは究極のネオテニー(neoteny:幼形成熟)であることに注目して説明していきます。
  アシュレィ・モンタギュー(アメリカの人類学者)は次のように述べているそうです。

「幼い子供が愛清を求めるのは非常に重要なことで、その欲求が満たされてこそ健全な人間に成長する。愛されたいという欲求だけでなく、愛したいという欲求は、健全さをひどくゆがめようとする力が社会にいかに多くとも、ともに人間の最も強い欲求として人生の終わりまで失われない。これは明らかにネオテニーの特徴である」(本書より引用)

そうであれば、犬と人とが互いに惹かれあうのも不思議ではないですし、その結果として、「人が犬に思いやりを伝え、犬は伝え返す。自然界ではまれに見る博愛の循環」が実現されたということでしょう。そして、返される保証が一つもなくても、「見返りを求めることなく愛せるのは犬のほうだ。それが犬の愛の本質」なのだと述べ、人が種の壁を越えて愛情を広げるという画期的な一歩は、人の力のみで踏み出されたのでなない、と結んでいます。

いずれにしても、人間は傲慢であってはいけないし、すべての生命に対して謙虚でなくてはならないと思います。また犬のみならず、他の生物と人間との関係への思いがけない視点を開かせてくれる好例として紹介する次第です。(雅)


『たったひとつの「真実」なんてない』森達也著(筑摩書房 2014年)

かなり衝撃的なタイトルの、特にメディアによる情報に対する受け手の意識を喚起する著作ということが出来ます。著者はドキュメンタリー映画監督、ノンフィクション作家で、ご存じの方も多いと思われます。このコーナーの主旨の一つには柔軟な思考を養いましょうというものがありますが、この本もその範疇に入ると思われますので紹介いたします。
  私たちは、幅広く知識を得ることもヴィパッサナー瞑想を進めるためには大切な一面であることを学んでいますが、メディアもそれを得る大きな手立ての一つです。しかし、それが客観的で公平中立なことはあり得ないと著者は言います。メディアによるものはあくまでもひとつの視点であって、どうしても偏りが避けられないというわけです。
  ところで、ブッダの教えを学び始めたころ、それまで馴染んできた価値観との違いにたいへん驚きました。もちろん次元は違いますが、この本でも、なんとなくこれまで素通りしていた視点に次々に気づかされていきます。例えば、「『とても』という言葉から9割をイメージする人もいれば、控えめに7割くらいをイメージする人もいるはずだ。つまり言葉とは、とても主観的な存在だ。人によって意味が違う」「カメラで『何かを撮る』という行為は、『何かを消してしまう』行為と同じことなのだ」等々。
  そして、次のような言い換えも人の目を曇らせていると言う主張には、日ごろ感じていたこともあり納得できました。曰く、「事故」を「事象」、「老朽化」を「髙経年化」、「危険」を「要注意」等々。たしかに、言い換えによって不安感を和らげようという意図は感じますが、行きすぎればかえって現実から目を逸らす弊害に至るのではないでしょうか。
  「たった一つの真実を追究します。こんな台詞を口にするメディア関係者がもしいたら、あまりその人の言うことは信用しないほうがいい。確かに台詞としてはとても格好いい。でもこの人は決定的な間違いをおかしている。そして自分がその間違いをおかしていることに気づいていない」。けっこうありそうな話しに聞こえます。
  メディアによって伝えられる情報の中身には当然取捨選択が行われるわけですが、その際、やはり多くの場合興味ある方向へ向かうことは避けられず、その結果、受け手の見方もそちらに誘導されることになります。しかしながら、「ある事件や現象に対して、メディアの論調は横並びにとても似てしまう」のですが、それは、「その視点が、最も視聴者や読者に支持されるから」というわけです。では私たちにはどういう態度が望まれるのでしょうか。
  著者は結論として、「受け手にとっても、得た情報は一つの視点であることを認識し、自ら推理や想像力を働かせることが重要になる。事実は限りなく多面体であり、視点によって全く違って見えるからである」と主張しています。
  このように、私たちも単に情報を鵜呑みにするのではなく、自分で考え、あるいは可能なら自ら体験し「検証する」ことが重要だということ、そしてそれはブッダの教えの立脚点にも通じるものであることを改めて認識しました。(雅)

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