2020年8/9月合併号 | Monthly sati! Aug./Sep. 2020 |
今月の内容 |
巻頭ダンマトーク『死が輝かせる人生』 (3) |
|
ダンマ写真 |
|
Web会だより:『仏教聖地巡礼 インド・ネパール七大聖地の仏跡巡り』 (2) |
|
ダンマの言葉 | |
今日のひと言:選 | |
読んでみました:森川すいめい著『漂流老人ホームレス社会』 |
『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。 |
第3章 死のラーメン哲学 *本気になる・・・ |
~ 今月のダンマ写真 ~ |
三賢堂遠景@タイ森林僧院 先生より |
『仏教聖地巡礼 インド・ネパール七大聖地の仏跡巡り』(2) H.Y. |
祇園精舎はブッダが雨安居(遊行せず雨期に滞在すること)を過ごされた場所です。日本人には平家物語の冒頭に出てくるので、馴染み深いと思います。経典には祇園精舎にまつわる、以下の有名な話があります。
舎衛城にはスダッタ長者という裕福な商人が暮らしており、預流果に覚っていた居士(在家のブッダの弟子)でした。スダッタ長者は教団に雨安居の場所を寄進したいと考えていたところ、コーサラ国のジェータ王子(漢訳で祇陀王子)が所有している園林を見つけました。王子に購入したいと持ちかけますが、最初は断られます。 交渉していくうちに、土地に金貨を敷きつめない限りは売りませんと王子が言いました。それに対しスダッタ長者が買いましたと言いました。私は、王子が売らないと言ったのにスダッタ長者が買いましたという話のやり取りは少し変だと思いましたが、当時のインドではいかなる状況であっても価値を表現した以上は、それで支払うのであれば売買は成立する慣習だったそうです。売る気のない王子は無効だと主張しますが、裁判の末、スダッタ長者に購入の権利が与えられます。その後、スダッタ長者自身が金貨を土地に貼り詰めていきますが、敷き詰めている金貨が無くなってしまいます。スダッタ長者は後で準備して払います、と王子に釈明します。一連のスダッタ長者の真摯な態度を見て、王子はもう結構ですと言い、全ての土地の売却に合意します。 スダッタ長者は別名をアナータピンディカ居士と呼ばれています。アナータピンディカ(漢訳で給孤独)は、貧しく孤独な者に食を給する善徳者という意味です。経典には、「アナータピンディカ居士の祇園精舎である。持ち主はアナータピンディカ居士である」と記載されています。前所有者である王子の名前を冠した精舎にしたこと、本名のスダッタの名前は出さないところに、スダッタ長者の美徳を感じます。現在の祇園精舎は公園のように整備されており、建物はありません。跡地には建物基礎のレンガが残されており、当時の面影を忍ばせています。そのレンガは当時のものはごくわずかで、大部分は後から積み上げていったものだそうです。 今回の聖地巡りは、ブッダの残した仏跡を肌で感じて、今後の修行の励みにしたいと思って参加しました。聖地の細かい部分を見れば、史実とは異なる、当時の時代のものではない、など多くの相違点が出てきます。そして聖地巡りの間には、聖地への真偽や聖地にいた比丘のモラルなど、疑う心がその都度出てきました。しかしブッダがこの世に生誕されて、ブッダの教えが今も生き続け、それを伝えてきてくれたサンガがあるから、今この聖地に来たのだと実感しました。疑念はできる限り気にしないようにし、聖地で清らかな喜びを感じることに最大限努めました。 以前タイに行った際、一日中お寺巡りを行ったことがあります。ダーナ(布施)を行うのが目的で、現地のガイドさんに原始仏教の作法を教えてもらったことがあります。今回はタイで教えてもらったやり方で行いました。具体的には比丘に財施をする、布施箱に財施を入れる、献花の布施をする、三帰依の礼拝をする、聖地では時計周りに礼拝をすることです。加えて、可能な場合は歩きの瞑想、座りの瞑想も行いました。祇園精舎では東南アジアから来ている比丘がいたので、財施を行いました。比丘の方からマネーと要求されたのには面食らいましたが、ここでイライラして疑念を大きくするよりも、聖地で比丘に布施したことは良いことだと割り切りました。 また祇園精舎にはアーナンダ・ボーディというアーナンダ菩提樹があります。雨安居が終わると、ブッダは覚る可能性のある人を導くために、祇園精舎を離れて遊行に出ていきます。人々は、ブッダが祇園精舎を不在にしているときもブッダの代わりになるものがないか、とアーナンダ尊者に相談しました。アーナンダ尊者はブッダの秘書役で、ブッダの十大弟子の一人です。アーナンダ尊者は菩提樹を植えておけばいいのではと提案します。植える菩提樹は、ブッダが覚りをひらいたガヤーの森の菩提樹を採用することになりました。 今の樹木は植樹した当時の樹木ではなく、第5世代の樹木だそうです。現地ではこの樹木の周りを3周しました。通常タイだと3周ですが、現地のガイドさんに聞いたらインドでは7周とのことでした。7周はヒンドゥー教の教えだと思いますが、宗教や文化が違えば変わるのかと思いました。ここでは3周できましたが、時間の関係で1周しかできない場合がほとんどでした。その為、1周や半周しかできなかったときは、ブッダへの思いが確かであれば回数は大きな問題にはならない、と自分を納得させることにしました。 次にマヘートに行きました。マヘートは舎衛城と呼ばれ、コーサラ国の首都だったところです。ブッダの時代には祇園精舎の比丘たちが約15分歩いて、舎衛城にあるスダッタ長者の邸宅に托鉢に行っていました。 現在、舎衛城にはスダッタ長者の遺構と、阿羅漢になった後にアングリマーラ長老が住んでいた遺構が残されています。遺構はストゥーパと呼ばれます。ストゥーパは、その場所が巡礼者の足跡で踏み消されないようにレンガなどで積み上げられたもので、記念碑のようなものです。ストゥーパには記念碑以外にも仏舎利や阿羅漢を祀ったものもあります。大商人だったスダッタ長者のストゥーパが大きいのは分かるのですが、アングリマーラ長老のストゥーパがスダッタ長者に劣らず大きいのは意外でした。 アングリマーラ長老のような聖者であれば当時、清貧な家屋に住んでいたと思いますが、後世にレンガがどんどん積まれて、今のストゥーパが大きくなったと勝手に想像しました。昔の人々がレンガを積んだのは、本来はブッダの聖地を守る為ですが、人々は徳を積みたいからとも思いました。経典ではアングリマーラは学友や師匠にそそのかされて、999人の人殺しを犯してしまいます。そして母親殺しの重業を犯す直前に、ブッダが救いの手を差し伸べた人物です。999人という大量殺人は、理由はともあれ大罪です。アングリマーラ長老が覚りをひらくことができたということは大きな意味を持ちます。どんな過去の過ちであっても重業を犯さない限り、今世で諦めることはないことを実証しました。アングリマーラ長老の生い立ちが人々を勇気づけて、ストゥーパが大きくなったと想像しました。 サヘート・マヘート近郊には日本人が設置した祇園精舎の鐘があります。昔は日本から、多くのお寺の檀家が団体でインド巡礼にやってきました。巡礼者達が祇園精舎に鐘がないことにがっかりした反動かどうかは不明ですが、近年に設置されたものです。せっかく来たので、鐘を大きくつきました。またサヘート・マヘート周辺には各国の寺院等も建立されています。中にはヴィパッサナー瞑想のメディテーションセンターもありました。他の聖地でも周辺には数多くの寺院や瞑想センターがあり、世界の人々の仏教に対する信仰の篤さを感じました。 聖地巡りの後は、サヘート・マヘート近くのシュラバスティーという町のホテルに宿泊しました。(つづく) |
地図:アイコンをクリックすると、写真を見ることができます
"https://www.google.com/maps/d/embed?mid=1sEkGHJAawn8PYy-C7-KdzdtT6ClfNNwG" |
☆お知らせ:<スポットライト>は今月号はお休みです。 |
|
森川すいめい著『漂流老人ホームレス社会』 (朝日新聞出版 2015年) |
先日の毎日新聞に、『ホームレス 遠い10万円』と題して次のような記事が載った。
「新型コロナウイルス対策として国民に一律10万円を支給する『特別定額給付金』が、各自治体で申請期限を迎えつつある」が「多くのホームレスは受給できていない。二重支給を防ぐなどの理由から、住民登録が要件となっているためだ。『私たちは国民ではないのか』。当事者からは、諦めや怒りの声が上がる」と。そこで、「支援団体などは再三、総務省に支給を求め、8月4日には約100団体が共同して5000人分超の署名を提出した」が、総務省は受付期間の延長も検討していないし、住民登録を求める姿勢を貫いているそうだ。ホームレスの支援活動に取り組む上智大の下川雅嗣教授(経済学)は、「給付金が最も必要としている人に配られないのは、ある種の『切り捨て』だ」とし、10万円は路上で暮らす人にとって3~4カ月分の生活費にあたると言う。(毎日新聞2020年8月19日朝刊の記事より) 本書は、精神科医としての医療をはじめ、ホームレスの支援など多岐にわたる活動を行っている著者が、現今の日本の社会における深刻な問題の一つを鋭く描写する一冊である。1973年生まれで、プロフィールやこれまでの歩みについては、本書の終章をはじめネットにも記載されている。 ※:https://www.j-n.co.jp/kyouiku/link/michi/new_12/new_01.html:あの人に聞きたい「私の選んだ道」第12回 「本書の内容は、個人の実話に基づいていますが、実在する人物とは異なります」との断り書きがあって、著者のフィルターを通しての記述であると述べている。しかし、描かれた人々は今隣にいるかのようであり、いつどうなるかわからない話は本当に重い。またタイトルには「老人」とあるが、老人だけではない。ホームレスとなった背景にほぼ沿いながら、各章は次のように分けられている。 1章:死ななくてもよかった、2章:家族の形、3章:派遣切りの未に、4章:認知症者の行く先、5章:アルコール依存症、6章:知的障がい、7章:統合失調症、8章:希望、終章:私が野宿の人とともにいる理由。 ※「障がい」は本来「障碍」との表記が妥当と考えるが、本書に合わせて「障がい」とする(編集部) 著者は2012年、国によるホームレスの実態に関する全国調査(生活実態調査)に委員として参加した。その結果、「問題の解決を国に期待していた気持ちは、このとき消えた。人が悪いのではない、構造が悪いのだとわかった」。そして、行政には行政にしか出来ない部分があって、それは今後も期待したいが、期待してはいけない部分は民間でやらなければならないと決めたと言う。 例えば、このようなことである。 日本国憲法は、国民は最低限度の生活をする権利を定めている。にもかかわらず、国の機能が止まる年末年始に、「ボランティアが集まって炊き出しをすると、一部の行政はその炊き出しの活動を公園から追い出す」のだ。その論理の一つに、「炊き出しがあるから“ホームレス”が来る」と言うのがある。「来るから困ると考えるのか、来るから助けられると考えるのか」、心のもちかたひとつで見える景色が違うのだ。 著者は言う。もし見える景色が違っていたなら、「答えはいつも、現場にある。現場から離れた場所で課題を設定し答えを出すことは、本当に危険だ」し、現場に行かなければ、「その間違えたことに気付くことさえできない」と。 膨大な事例とそれへの対応のうち、いくつかを取り上げて紹介していこう。 第1章は、勤続30年の会社が突然倒産し、年齢のため再就職もかなわず、兄を頼ったが鬱病になって結局そこにもいられず、野宿を重ねたあげく低体温症でようやく入院、その一週間目に亡くなったSさんの話だ。大量のアルコールが肝臓を痛めるのと同じように、過度のストレスによって脳という臓器が傷められた鬱病は、その深刻さや回復については周囲の状況が大きく影響する。このことを社会がどの程度理解し受け入れているかが問われているのだ。「自死率が最も少ない地域は、鬱病の受診率が高い」という研究もある。隠さなくても良いからである。 第2章は家族との問題によるケース。 見た目は70歳代か80歳代(実は50歳代だった)の女性Kさん。かつてスナックを開いていたが、不況で店をたたみ、脳梗塞の後遺症の夫と娘夫婦と一緒に住むようになった。するとすぐに娘の夫が金の無心を始め、貯金をすべて渡した途端に暴力が始まった。当初は娘も殴られていたが、そのうち娘も彼女を攻撃し始めた。Kさんは、「私が悪いんです。ごめんなさい」を繰り返していたが、ついにある日、夫が「このままじゃおまえが死んでしまう。これで逃げろ」と1000円札一枚を渡した。1000札は2人分一日の食費だった。 「ちゃんと説明すれば家族なのだからわかるはず、公的な目も入ったから暴力は無くなるはず」と思った職員が自宅に連絡したため、娘夫婦がすぐに役所に乗り込んできた。 「暴力などない、連れ帰る」と娘の夫は怒りをあらわにし、Kさんに向かっては、「無駄な金を使わせやがって、医療費をどうすんだ」と激しい剣幕でまくし立てた。身体が大きく声は太くて恐ろしい。「このまま帰れば激しい暴力が待っていることが容易に想像され、Kさんはじっと一点を見つめて震えていた」。 その時、福祉に精通するベテランの雅俊さんという方がこの件を見事に収めた。 雅俊さんが、「母親の面倒を見るのは大変でしょう。あなた方が『Kさんの生活の支援をしない』と言えば、母親は生活保護を受給し、面倒は行政が見ていくことになる。医療費も掛からないがどうか。もし、それでいいなら、あとは私が責任を持って行政と話を付ける。任せてほしい」と伝えると、娘夫婦は、「それならばいい」と言って、そのまま逃げるように姿を消した。娘夫婦は、「こいつの言うことを聞いておけば、親とも縁を切れるし、自分たちの金銭的な負担もない。損はない、うまい話だ」と頭の中で素早く計算したようだ、とはのちの推測である。 著者には「刑事事件にしてでも」という憤りもあったが、「あの当時は、家庭内の問題だからと、事件になる可能性は少ないと誰もがわかっていた。雅俊さんは理想よりも実を、淡々と取った」のだ。そして「『若い君たちの情熱は大事だ。それはずっと持っていてほしい。あなたたちができない部分は私がやるよ。忘れないでほしいのは、その情熱と、大事なことは実際に人が助かることだ』」と、いつも教えてくれていたそうである。 経営した会社が倒産し、借金取りから逃げるように家族を捨てた72歳のTさんは、息子が会社の社長のため生活保護は受けられないと言う。息子は、「生活保護など恥ずかしい。おまえには受けさせない」と口にし、生活は自分でやれと家にも入れてくれず、電話も掛けてくるなと言ったそうだ。 血圧が180/110と高く、倒産してからは降圧剤を飲むこともなく、治療も断った。Tさんはそれからまもなく倒れ、救急車で運ばれた時にはすでに心臓が止まっていたと、周囲の人が語っている。 第3章は、派遣先を解雇され、車いすの母親の介護をしながらの住み込みでは仕事も見つからず、ホームレス生活を続けるTさん親子。生活保護法には、申請を受ければ無条件に受理して審査を開始しなければならない原則がある。今はずいぶん改善されたと言うが、かつては、そもそも申請をしないように説得する「水際作戦」とも比喩される方法が取られていたと言う。 それまで必死で努力してきたにもかかわらず、「まだ働ける若さだろう」とか、「働けるのに働かない気持ちがある」と捉えられ、努力不足や自己責任に着せられるうえに、相談窓口では、自分たちが如何に無力であるかを証明しなければならない。「もう傷つけられたくない」と思うのが当然の心理だろう。 第4章は会話がスムーズには進まない認知症の人の例。 野宿状態の人の中には、禁煙場所でタバコを吸ったり、酒を飲んで宴会を開いている人たちがいる。治安を守る地域の警察官が目を向け声掛けするのはそのような人たちだ。話しかけられた側もそれに対する態度をとる。 一方、著者たちのような立場では弱っている人に視線が偏る。中には、助けがほしくて大げさに苦しさを訴える人や、知られたら不利益になる事実を隠す人もいる。ある福祉事務所の職員が、「また、あなたたちはだまされたのです」とか、「あなたたちの善意を利用する人たちがいるのです」と言ったことも印象に残ったそうである。 本章のケースでは、著者は先ず、「私は医学生です。脈拍が触れません。血圧が下がっていると考えられます。救急車を呼ぶべきだと思います」と話し掛ける。これは、認知症ばかりではなく、命の現場においては弱っている人に意思の確認をしてはいけない場合もあるということだ。なぜなら、「意思を持つためのエネルギーが弱っていて、たいていのことはNOと言ってしまう。拒否した方が相手との関わりが減って楽」なのだから。 さらに認知症の場合には、医師や施設によってケアの質に違いがある。上手な施設では精神薬は極力使わないので易怒性など副作用の心配も少ない。「ある医師は、『こんなものは本人のせいだ』と言って何年も大量の薬を飲ませ、説教までしていたが、薬を減らしたら、もとの穏やかな本人に戻った」そうである。 第5章はアルコール依存症。依存症になる薬物のうち酒は最も身近なものだ。薬物は一度脳が侵される二度と完治しないと言う。コントロールが出来なくなり、耐性がついて量が増え、切れると身体離脱症状が起こる。苦しさを紛らわせるために飲むことを止められず、ますます苦しくなる。 ここに記されているのは、もともと不安障害から酒に頼り、ついには仕事を失い癌になって余命幾ばくもなくなったIさんの場合だ。酒、無断離脱、暴力的な態度、パニック発作、ホームレス状態、痩せ衰え、ほとんど寝たきりというありさまだった。 もてあましていた病院から怯えた様子でホスピスに着いたIさんは、玄関で迎えたスタッフ数名に、「よく、いらっしゃいましたね」と言葉を掛けられると突然涙し、「こんな自分のために」と思ったと言う。「無価値な自分だと思っていたところを、何人ものスタッフがやさしく迎えてくれたことに、Iさんは、ふと力が抜けたようだった」。その後Iさんは食欲を回復し、薬が増えたわけでもないのになぜか痛みもほとんど無くなっていった。 アルコール依存症には薬や手術となどの治療法はない。唯一の方法は断酒を続けることのみだ。説教や強制入院ではなく、「環境と人が変わったことで、食事をたくさん食べて元気になったIさんは、酒の話をすることなく、穏やかに、数か月後に亡くなった」そうである。 第6章、Tさんは皮膚にある多数の先天性の腫瘍に対する偏見のために仕事も得られず、10代の頃から野宿生活になり、会話からも知的障がいを合併していることも覗えた。 かつては同行者が福祉事務所の相談室には同席が許されなかったため、相談者がボックスから数分程度で出てくることも少なくなく、たいていは、「生活保護は受けないということですね」と言われてお終いだったと言う。時には、「生活保護は受けません」と書かされてもいた。明らかに誘導されたにもかかわらず、福祉事務所側は本人の意思だと主張する。しかしそれでも、著者は職員に悪気があるのではなく、そういう仕組みになっていることが問題だと本書で何度も述べている。 Tさんの担当職員は特にやさしい人だったそうだ。Tさんが入院してすぐに病院に見舞いに行って、「退院したら、○○区の福祉事務所に来てくださいね」と伝えていたし、場所はわかるかと聞くと、わかるとTさんは答えたと言う。それなのにTさんは来なかった。そのことが心に引っかかっていて、「あの後どうしてここに来なかったのですか?」と訊いた。そこで、「覚えていないみたいなんですよね」と著者が言うと、いつも人をどう助けるのかを考えている担当者は一瞬でわかったようだった。 著者から見ると、Tさんが知的障がいを持つことは明らかだった。「記憶のしかた、場面の認識のしかた、声のトーン、過去の生きてきた歴史、身体の症状などからである。加えて、日付の記憶がずれていた。平成何年か?という質問には、昭和54年と答え・・・認知症を合併していることが予測された」。そして、「もしもここで、覚えていないという事実が確認されていなかったとしたら、Tさんは再びどこかに入ってどこかへ失踪したに違いなかった」と。 第7章は統合失調症の人々。見えない誰かと会話していたり、陰謀に巻き込まれて逃げていたり、ひたすら何かの儀式を続けていたりと、何か別の世界を感じながら生きている。 50歳のHさん。「いやよお、この街は俺のものなんだ」「おお。あのビルも。そのビルも。○×不動産」「ああ、おお。モデルをやっている」「おお。東大の・・・学長だったから」・・・。 会話。「『身体の具合が悪そうですけど?』『うう、おお、おお、うう、ううん、大丈夫』『足、引きずっていますけど、けがでも?』『ああ、ああ、これ、ううん、うん、うん』『病院とか、一緒に行きましょうか?』『・・・・・。いや、いい、いい。地主だから』『足は?』『あ、もう大丈夫。けっこう、けっこう。ごくろう、ごくろう』」。 「幻覚」や「妄想」のために、時として現実との区別が曖昧になる。誰にでも起こりえる病気の一つとされるが、抗精神病薬の服用で幻覚や妄想は落ち着いていくと言う。 こうした人たちとどうコミュニケーションをとればよいのか。筆者は、統合失調症だからと言って特別な方法ではなく、原則は不変なのでそれを守ればよいと言う。つまり、「コミュニケーションの原則は、聴き手の、相手を理解しょうとする行動によって成立する」のだから、自分をコントロールして先ずは自分を聴き手にするしかなく、その上で、相手に聴き手になってもらえるようにこちらの話し方や内容を考えるしかない、と言うことである。 Hさんは池袋の街の大地主としてこの土地で生きているし、また70歳女性のIさんは、「○○会」から脱会したために命を狙われ、テレビその他で監視されているように感じている。それがその人たちの現実であり世界なのだ。 そこでどうするか。それは、本人が解釈しているのとは違うものがある、その事実を具体的に明確に説明して、現実の整理を手伝うことだと言う。Hさんの場合、幻覚妄想状態のままではあるものの、必要なだけの現状の事実の理解(例えば検査を受ける必要性、たばこは病院なので吸わない規則など)のうえで入院となり、生き延びることが出来た。 これがなぜ出来たのか。それは「自分の人生の主人公は自分である」という視点を著者たちが大切にし、自身で選択したいという意思を満たすための手伝いに徹しているからだ。「どこで生きて何をして過ごしたいかは本人が決める。それができるかどうかを周囲は裁断しない」と言うことなのだ。 この考え方は統合失調症を持った人たちへのことだけではない。著者を含むグループが常に最も大切にしたいと考えている理念だと言う。著者がそれに至ったのは、社会福祉法人「浦河べてるの家」が、池袋に来てくれ、「べてぶくろ」を立ち上げてからだと言う。 「『べてぶくろ』の活動は、援助がないと生活できないのではないのかという援助側の思い込みをやめよと教えてくれた。なぜ周囲の人が、本人がどのように生きたいのかを裁断してしまうのか?と問いただされたのである。私の中の思い込みは、『べてぶくろ』によって断たれた。『べてぶくろ』の実践は、野宿の現場を見て絶望のふちにいた私の心に希望を宿してくれた」。 第8章ではまず全員がボランティアのNPO法人TENOHASI(てのはし)の経緯が語られる。 TENOHASIはThe Earth and Neighbor Of Happy space Ikebukuro(地球と隣のはっぴい空間池袋)の略。ボランティアには、路上生活を経験した人、会社員、専業主婦、年金生活者、大学生、子ども、障がいを持つ人、そういったいろいろな人々が参加し、またお互いに楽しく出会う場にもなっていて、「生きやすい国に!」を目指している。他区の職員から、池袋に行って相談するようにと促された人も来るそうだ。 本人も周囲もどうにもならないと思っていたことでも、TENOHASIと出会って、ともかくなんとかなる方法があったことが証されたと著者は言う。それは特別な技や知識で奇跡を起こしているのではなく、「誰にでもできることを実践しているだけだった」と。 相談してもどうにもならないと思えば、誰も相談には行かないだろう。ならば、支援を「届ける」しかない。「相談室」や「相談員」だけでは、本当に出会わなければならない人とはなかなか出会えないからだ。 「生活保護を申請するかと言われれば、『しない』と言う人は少なくない。・・・申し訳ないと思っているのである。それが病的になることがある。それが鬱病である」。ホームレスになった人の多くは、楽をしたいわけではなく、迷惑をかけたくないという気持ちがあると同時に、申請や集団生活などで、「もう傷つけられたくない」のである。 「自分の人生は自分で選んでいいのだという、当たり前のことを確認」し、もしそれが叶わない理由が強い落ち込みや酒であるなら、「その次の課題として一緒に考え」る。そして「私たち支援者は、本人が主人公である本人の物語の中では、主人公を支える脇役であるのだ。ボランティアスタッフだけがそうだということであってはいけない。この後出会うであろう、福祉事務所職員も、クリニックのスタッフも、地域の支援者も、本人の人生の主人公性を奪ってはいけない」のだ。 例えば、本人が住みたいところを言っても、それが出来るかどうかを周囲が勝手に判断し、施設だったり入院だったりを決めることがある。「その希望は無理だから、まずは更生施設へ」とか、「グループホームからやっていきましょう」と説得するのだ。「本人がどこに住みたいかについて、周囲は、本人の能力をジャッジ(裁断)」することは越権行為と言うべきだろう。 良い環境の施設もあるが、一部屋をベニヤ板のような薄い壁で仕切って3畳程度の広さにし、それを個室と言い張るひどいところもたくさんある。これでは集団生活を強いられているのと何ら変わりがないばかりではなく、そうした施設に入ると手元に入るお金はほとんどなくなる。「施設に食事代と称して奪われる。門限も決まっている。時間も金もプライバシーも奪われたまま管理されているのだ。しかも、それが本人のためだと確信されてしまう」。だから失踪する人が絶えないのだ。 私たちが知っていなければならないのは、今は自分は周囲の人だったとしても、「将来は、周囲によって自分の生きたい方法が制御されて施設に隔離されるかも知れない」と言うことだ。 終章では著者のこれまでの歩みを詳細に語る。そして、著者のフィルターを通しての記述であるから、「私が見た現場は現実ではあるが、事実ではないかもしれない。人を欺くために書くのではない。私が真実だと思っていることを記してはいるけれども、その中身は読む人それぞれが解釈してほしい」と述べている。 そして、総括的に次のように言う。 「『平等だということが、差別になることもある』と言った人もいた。『平等でなくてはならないのだ』、という言葉には、マジョリティにいる側の人間による、無言の圧力が含まれている。・・・マジョリティでないことは努力不足が原因なのだと感じさせられる。 ・・・平等を否定しているのではない。『みんな同じ(平等)であるべきだ』という考えを否定しているのだ。平等の名のもとに、不当に排斥されることに抗うのである。 ホームレスとは、単に家(ハウス)がない状態をいうのではない。安心して生きていく場(ホーム)がない状態をいう。みんなが平等であることを前提とする社会は、人間を、ホームレス状態に押しやる。本書には、その記録を記した」と。 「経済競争力の糧にならない人間は、ホームレスか精神科病院か刑務所に、社会は押しやっていないか。家族だけに責任を押しつけていないか。どこかの施設に入れることで安心していないか。人がなぜ生きるのかを、考える時間を失っていないか。私は単に、ただ、社会が生きやすくなったらいいと思う」。 本書はまさに、今の日本社会が隠そうとしながら抱えている問題提起の書であった。(雅) |
このページの先頭へ |
『月刊サティ!』トップページへ |
ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)トップページへ |