月刊サティ!

2020年8/9月合併号      Monthly sati!  Aug./Sep. 2020


 今月の内容

 
 
巻頭ダンマトーク『死が輝かせる人生』 (3)

  ダンマ写真
 
Web会だより:『仏教聖地巡礼 インド・ネパール七大聖地の仏跡巡り』 (2)


  ダンマの言葉
  今日のひと言:選
 
読んでみました:森川すいめい著『漂流老人ホームレス社会』
                

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  

  

 

   

  巻頭ダンマトーク『死が輝かせる人生』 (3)
 
                                                             地橋秀雄
  
第3章 死のラーメン哲学

*本気になる・・・
  もし本当に自分の余命宣告がなされたなら、誰でもカメラマンの保山さんと同じように残された人生の一瞬一瞬に命を懸けざるを得なくなるでしょう。死期が宣告されカウントダウンが始まってしまえば、否応がないのです。泣こうが喚こうが何をしようが、残された命に向き合って一日一日を必死で生きるしかなくなります。
  だが、「メメントモリ」をモットーに死を想い、日々命を懸けようとしても、健康時の想定はしょせん想定に過ぎず、実際に死を宣告されたインパクトと同じになることはあり得ないでしょう。「今日が人生最後の日だとしたら・・・」 と自らに問いかけてきたスティーブ・ジョブズも、果たしてどこまで本気になれていたのか。48歳で癌告知をされ56歳で亡くなるまでの6年間の本気と、同じレベルだったでしょうか?。
  火事場の馬鹿力にスイッチを入れるのは、火災が本当に起きてしまった現場の力であり、現実が人を本気にさせるのです。


*ゴールが見えれば
  私たちは本気になりたいのであって、死を宣告されたがっている訳ではありません。ダラダラといたずらに日を送るのではなく、一瞬一瞬、仕事に、生活に、瞑想に、真剣に集中し、全力で取り組み、完全燃焼して人生を輝かせたいのです。
  どうしたらよいのでしょうか。

  死期が定まり、終わりが見えれば、何事にも命懸けにならざるを得ない。それなら、取り組む仕事の余命宣告をして、終わりを定めれば命懸けになれるのではないか、と考えた人がいます。
  余命宣告とは、死期が確定し、終わりが見えることです。ザ・エンドの終焉の日までに残された時間がカウントできる構造があれば、人生全体の死であれ、個々別々の仕事の死であっても同じ力が働くのではないか・・・。

*自ら死を与える
  2018年にアメリカでラーメン店をオープンし、営業は1000日で打ち止め、5年後に店を畳むと決めた日本人がいます。連日1時間待ちの行列ができ、地元のグルメサイトで 「今、最も熱いレストラン」第1位を3ヶ月連続で獲得した「鶴麺(Tsurumen Davis)」の大西益央さんです。ボストン最大の日刊新聞「ボストン・グローブ」の1面を飾ったのは、ラーメンの味もさることながらユニークな経営哲学にもあるようです。
  どれだけ流行っていても1000日しかやらない、と店の余命宣告をした潔さについて、新聞のトップには「Nothing is permanennt(一切のものは、無常に変滅する)」と巨大な見出しになっていました。

  録画されていたTV番組を消去する前に早送りしていたのですが、ラーメン職人として一瞬に命を懸ける姿に思わず目を瞠りました。

  「終わりを決めたら、人間、本気になれる」
  「ずっと続くものには、本気になりにくい」
  「1000日しかこの店やれへんのに、今日、一日でも本気になれなくていいんか・・・」

  40代前半の大西さんの人生はまだ続くでしょうが、手塩にかけた我が子のような店の命が尽きる日は確定しているのです。

  わずか17席の店に入ると、壁板には「Enjoy1000days  (今日は) 198/1000」と表示されています。この店が死ぬ日までに残されたのは802日です。しかも週の半分は、営業時間が一日わずか2時間、18時開店の20時閉店。もっとやりたい、働きたい、と思っても、一日2時間しか働けないのですから、誰もが全力投球にならざるを得ない体制です。

  よくぞこの経営システムを思い至ったものだ・・・と感銘を受けました。人生の余命宣告は自分で決めることができず、まさに死期が不明であるが故に、怠惰と甘えと煩悩が垂れ流しになる。それは、これまで見てきたとおりです。しかるに、命を懸けて本気になるために、お店の仕事そのものに死を与えるという発想・・・。


*一瞬に生きる
  店の寿命を1000日と宣言した大西さんの哲学に一貫性が感じられるのは、大人気のメニューにも200日限定の余命を定めていることです。201日目にはメニューを一新するというのです。最低気温マイナス10℃以下、極寒のボストンで1時間待ちの行列ができるラーメンです。美味求真に心血を注いで作り上げた鶏ガラスープの醤油ラーメン15ドル(1660)。もう一品はスパイシー白湯ラーメン(17ドル、約1880)です。この日が198日目ですから、あと2日でボストン「鶴麺」のこのラーメンは二度と食べられなくなるのです。傑作ラーメンの死が定まっている・・・。
  映像で観る限り、全員の客が箸を使って食べながら、心底から『美味い!』と呟いているのが聞こえてくるような様子です。

  週に3回通ってくる客が言います、「いつ来ても満足して帰るよ。食べ終わると、いつも幸せいっぱいの気分なんだ」

  「こんな美味しいラーメンはないと皆に言ってるの」という女性客。

  一人で3杯のドンブリをスープまで飲み切った若い男性客・・・。

  だが、そのラーメンもあと2日で永久に食べられなくなる・・・。作る方も命懸けだが、余命が定まっているが故に、食べる方も人生最後のラーメンのように、本気の真剣勝負になっていく・・・。

  「一期一会」「一瞬に生きる」とウンザリするほど言い古されてきましたが、その奥義に参入できる人がどれほどいるでしょうか。しかるに日常的なものの代表のようなラーメン。そのドンブリ1杯のラーメンを介して、作る方も食べる方も、これほど全力で今の一瞬一瞬に向き合うことができるのです。見事なまでに美しいシステムの力だと思いました・・・。


*一事が万事
  開店は18時なのに、大西さんは朝の6時半に店にやって来ます。それから何をするかというと、店の床の雑巾がけです。アメリカ人が普通に靴でやってくるフロアーなのですが、彼は四つんばいになって一人で床面の雑巾がけをするのです。禅僧が寺の廊下を雑巾がけする姿が連想されました。

  その日の営業が終了すると、スタッフ全員でまたキッチンの雑巾がけをします。「モップよりもきれいになる掃除の仕方だ」とスタッフに説明し、大西さんが自ら率先して行なっているのです。

  ここにも大西さんの哲学が一貫しています。「雑巾がけが好きなのは、床との距離が近くなり、小さい汚れやホコリにも気づけるからです。徹底的にきれいにすることによって、他の仕事も細部にこだわる妥協のない仕事ができる習慣が身につきます」と明確な理由があったのです。

  当たり前のことだからと、習慣的に掃除をする人も多いでしょう。顧客に気持ちよく来店してもらうためというモチベーションもあるでしょう。だが大西さんの掃除哲学は、よりクオリティの高い美味しいラーメンの追求に絞り込まれています。


*美味求真の行者
  肝心のラーメンの味は、平飼いされている鶏ガラのスープがベースです。アメリカの鶏ガラにはモモ肉がかなり残っているので、スープがいちだんと濃厚になるのですが、圧倒されるのは鶏ガラの分量です。利尻昆布の出汁の入った大鍋に山のような鶏ガラを縁まで投入し、2時間煮込むと隙間ができるので、さらに大量の鶏ガラを投入して6時間煮込むのです。添加物を使わないので、このくらい贅沢に鶏ガラを入れないと極上のコクが出ないらしいのです。
  スープが完成するまでの時間、大西さんはヨガマットを広げて倒立やアサナで体を整えます。体調が万全でないと、いい仕事はできないと言うのです。瞑想にとって体調がどれほど重要かを熟知する私には、最高のラーメンのために心身を絶好調に整える大西さんの、美味追求に命を懸けている本気度が伝わってきました。
  食材の麺もチャーシューもメンマも自家製、注文が入ってからチャーシューをスライスするのは切断面の鮮度を重視しているからでしょうか。腕や肩の負担が大きくても平ざるを使って麺を泳がせムラなく湯切りする姿にも、最高の味に全力投球しているのが感じられました。


*なぜ飽きるのか
  料理人に限らず一流の職人であれば誰でも、自分の技を果てしなく磨き上げていこうとするでしょう。そんな職人気質の88歳のラーメン店主を、大西さんは自著「ドンブリ1杯の小宇宙を」で紹介しています。創業60年余のその店には醤油味の「中華麺」一種類のみ、メンマとチャーシューの増量があるだけです。しかし味覚に頂点はない、と老店主は味に改良を重ね、時代に合わせて食材を探し、常にお客の期待を上回る「味変え」をしてきたといいます。

  お店を長く続ける秘訣がここにある、と大西さんは自身のラーメン哲学から共感を示します。「最初は美味しいと思っても、だんだん飽きてくる。そのうちお客さんから味が落ちたのでは?と言われるようになります。そこで店は味を良くする努力を怠ったらお客さんは離れてしまうのです」と書いています。
  どれほど完成度の高い美もパフォーマンスも美味しい味も、永遠に人の心を満足させることはできません。寸分たがわぬ同じ美や快感が提供されても、人の心は飽きるのです。なぜ飽きるのか。理由は2つあります。

  ①どんな対象も、常に同じ状態で受け止めきれないのが人の心です。快感や驚きや感動が強烈であればあるほど、その快感ホルモンの受容体は数を減らして強い刺激に防衛反応を取ることが知られています。初回と同じ感動や快感を得るには、さらに刺激を強烈にするしかないというメカニズムが、なぜ人は飽きるかの生理学的説明です。

  ②もう一つは、人の心は常に妄想しているからです。音楽を聴きながら、絵や彫刻を眺めながら、ラーメンを食べながら、いかなる妄想も排除した無の心で、一瞬一瞬の対象認知ができるでしょうか。できないのです。必ず何かを想いながら、連想しながら、思考モードが働いて視覚や聴覚や味覚の情報を受け取っているのが私たちです。

  作品についての背景やエピソードを思い出し、前回食べた時の印象と比べ、他の客の美しい横顔が気になったり、連れの者の冗談に笑ったり、法として知覚される六門の情報と脳内情報がミックスされた自分だけの認知ワールドに浸りながらラーメンのスープを飲み干しているのです。
  法として直接知覚されたあるがままの事実よりも、記憶や脳内のイメージは必ず誇張され、美化され、ネガティブな印象が付着し、歪むのが人の心の常です。前回の美しい感動が過ぎったりチラついたりすれば、目の前の事実に正しく向き合えません。期待値が高いほど感動は薄らぎ、思ったより大したことないな・・・と感じてしまうのです。
  瞑想合宿の食事のサティのように、厳密に妄想を排除して味覚や嗅覚の直接知覚に徹すれば、あるがままのラーメンを体験することができるかもしれません。セオリー上そうなのですが、普段はまあ無理でしょうね。そもそも本気でサティを入れたら、芸術鑑賞は成り立たなくなるし、美味しいラーメンも不味いラーメンも、ただの味覚として等価に見送られてしまうでしょう。
  心の中を激しく駆けまわる妄想を使って楽しむのがこの世です。エゴワールドの中に形成される仮想現実の印象に対して貪ったり、怒ったりしながら苦の種を撒き散らしていることに気づかず、輪廻を繰り返しているのです。

*無常の構造
  さて、なぜ大西さんは、絶えずラーメンの味を変えていくかです。どんな快感も美も、存在するものは全て劣化していきます。無常に変滅し、必ず崩れ去っていく宿命です。その無常に逆らって、同じクオリティを維持するためには、「変わらないために、絶えず変わり続けなくてはならない」。老化した細胞は新生細胞と入れ替わり、壊れていくものと作られていくものが平衡を保っているので見かけ上の同一性が維持されるのです。これは存在を固定したものとは見ず、現象の流れとして捉える仏教の無常観に通じています。

  皆さんが今日も元気で瞑想したりダンマトークを聞いたり、昨日と同じように歩いたり笑ったり、見かけ上ほとんど変わらないように見えるのは、体の中で常に「恒常性維持(ホメオスタシス)」が働いているからです。暑くなれば発汗して体温を下げ、寒ければ鳥肌が立って毛穴を閉ざし、常に体温を36度くらいに保とうとします。
  カルシウムが食物から摂取されなければ骨から血中に放出し、多過ぎると骨に貯蔵して平衡状態を保っています。骨の世界も端的に存在の仕組みを説明しているように思われます。破骨細胞という骨を壊す細胞と骨を作る骨芽細胞が、分解と合成、破壊と生成を繰り返しながら、見かけ上の同一状態を保とうとしているのです。
  宇宙の根本原理である無常性は、「同一の状態を保つことの不可能性」と定義されます。素粒子の生滅に象徴されるように、たとえ1億分の1秒のレベルであっても、存在は「生・住・異・滅」のプロセスを経ながら変滅しています。しかも「秩序のあるものは、秩序のない方向にしか動かない」というエントロピー増大の基本法則に貫かれています。台所も机の上も必ず散らかっていくし、整っていた髪の毛も乱れていきます。
  乱雑さに向かって崩壊していく流れに逆らい、クリーンな状態を保とうとすればエネルギーを費やして絶えず掃除をしなければならず、髪に櫛を入れなければなりません。生命現象を維持しようとすれば、間断なく外界エネルギーを取り込み、細胞を作り替え、老廃物を排泄しながら新陳代謝を繰り返していかなければならないのです。
  静止する独楽が高速回転に支えられているように、安定している人体も組織も情況も、その内部では必ず動的な変化が進行して平衡状態が保たれています。そのように、美味求真の果てに完成したラーメンも、微妙に味を進化させていかなければ徐々に飽きられ廃れていくということです。

*なぜ命を懸けられるのか・・・
  200日毎のメニュー更新で、自作ラーメンに死の宣告をする大西さんがインタビューに答えています。
  「今日食べて頂いたラーメンは出し始めて35日目の味です。つまり、あと165日もの間成長し続けるラーメンなんですよ」
  「めちゃくちゃ美味しかったやつが、さらに美味くなる・・・と」
  「約束します。そのめちゃくちゃを超えますから。本気で毎日改良を重ねると、『次はどんな味なんだろう』とか『また食べたい』って思ってもらえるはずなんです」
  大西さんがリスペクトする88歳のラーメン職人のように、一日一日さらに「味変え」をしない限り人気店としての命脈が保てない・・・。ラーメンの動的平衡と言ってよいでしょう。
  なぜ、大西さんは今の瞬間に命を懸けるような人生が送れるのか。その要因を分析してみました。

  ①〆切の力
  終わりを定めた力、〆切の力、余命宣告の力が、強力に背中を押しているからだと思われます。
  店の余命は1000日、メニューの寿命は200日、そして今日のラーメンの味も明日は微妙に変化し、似て非なるラーメンに生まれ変わっていく構造・・・。
  この三重に仕掛けられたシステムの力で、一日一日、一回一回、これが最後の覚悟を更新せざるを得ない背水の陣に自分を追い込んで一瞬に命を懸けようとしている・・・。

  ②好きになる力
  好きになれば意欲が出るし、もっと知りたい、研究したい、深めたい、と絶えざる進化が自ずから推し進められていきます。
  好きになると、情報の集め方が変わります。人に言われなくても、好きなことはもっと知りたくなり、知れば知るほど面白くなり、楽しくなり、深みにハマっていくのを止められません。

  好きになると決めれば、対象のネガティブな側面には注目しなくなります。好きなところ、おいしい部分、楽しい個所、美点や価値あるポジティブな側面に自然に目が行くようになります。こうなると滑り出したスキーのように「ヤメラレナイ、止まらない」の勢いがついて日々進化を遂げる流れが形成されるでしょう。

  変化が向上心とセットになるのです。大西さんも、最初はただ好きだったラーメンが、やがて美味しいラーメンを作る→美味しいものは人を幸せにする→美味しさを限りなく進化させる、向上する→その一回のラーメンに全てを懸ける→それが生きる意味であり、誇りであるという人生哲学・・・。


  ③新奇探索性
  一時停止のテレビ画面を何時間も見続けられるでしょうか。「この電話は現在使われておりません」のメッセージを延々と聞き続けられるでしょうか。できないのです。更新されることのない同じ情報はすぐに色褪せ、飽きられ、無意味に思われ、耐えがたく感じるのです。
  人の脳は、レーダーのように危険を察知したり、新しい、珍しい、面白い情報を得ることに飢えています。これを新奇探索性と言います。新しい情報や珍しいもの、面白いもの、価値あるものを探し求める傾向です。おそらくこれは人類が生き延びるのに、危険回避と食料&生活物資の調達に全神経を使ってきたことによるのでしょう。

  この新奇探索性が強い遺伝子と、それほどではない弱い遺伝子が特定されているようです。ドーパミンのD4レセプター、DRD4の遺伝的なタイプによって決まるらしい。