ペーマスィリ長老:
サティ(sati:念)があると怒りをやり過ごすのが容易になります。なぜなら、怒りが生じる時点から観察しているからです。私たちは渇愛、慢、邪見のために何かに執着します。それを自分で観察することができます。サティにより、障害が生じた瞬間にそれを認識して直ちに取り除くことが出来ます。執着を手放して困難を克服するためにサティを使います。障害が生じてそれが過ぎ去ってから気づいたのではほとんど意味がありません。それではあまり役にたちません。でも初心者の場合はそれで十分です。
デイヴィッド:過去の障害を認識するのと、現在の障害を認識するのは何が違うのですか?
ペーマスィリ長老:
過去に生じた障害を振り返ることで、現在の瞬間に生じる障害に気づく能力を改善します。自分の気づき、サティを高めます。でも、最終的には障害が生じたその瞬間にそれを認識して取り除く必要があります。懐中電灯は暗闇で物を見つけるのに役立ちます。光を当てれば、探しているものを見つけることが出来ます。対象に光を当てることと、その対象を見ることは同じ瞬間に起こります。別々の瞬間に起こるのではありません。暗闇に光を当てるその同じ瞬間に対象を見て認識します。光を当てるのは心であり、対象を認識するのは思考であり、それは全て同時に起こります。水が心で、色素が思考であるのと同じように、心を透明にしておけば、どのような色素が加わっても私たちはそれに気づきます。
デイヴィッド:心を透明にしておく、ですか。
ペーマスィリ長老:
そうです。心を透明で純粋にしておけば、どのような色素が加わってもそれを観察できます。時には善が加わり、別の時には不善が加わります。心の対象に対する気づきの瞑想を学び実践すること、それはニッバーナ(nibbāna:涅槃)に達することの障害になる心の要素と、ニッバーナに達する支えとなる心の要素を選別して、障害となる心の要素から距離を置くということを意味します。心を清らかにして心の要素を有益な方向へと向かわせます。
基本的にはこれがサティパッターナ スッタ(Satipaṭṭhānasutta:念処経)の四つの気づきの土台、すなわち身体、感受、心の状態、心の対象の四つに対する気づきの瞑想が目指すところです。サティがある時には、私たちには常にこの四つの土台のいずれかがあります。ある時は、心の状態に対する気づきの瞑想に取り組み、ある時には感受、ある時には身体、そしてある時には心の対象に対する気づきの瞑想に取り組みます。規則正しく瞑想する瞑想者は常に四つの気づきの土台の中にあり、善なる心の状態とともに住し、不善に汚されることがありません。瞑想者は常にサティとともにあります。「全ての善なる心の状態はサティです」とブッダは説かれました。
デイヴィッド:もう一度訊きますが、人生を有益な方向に向かわせるためにはどうしたら良いのでしょうか?
ペーマスィリ長老:
何の期待もせず、行為を行い、感受を経験し、心の状態を経験することで、善なる方向へと向かいます。ブッダが見つけられた苦しみからの解放を信じることにより善へと向かいます。私たちはブッダが特定の道を歩んで特別な状態を生じさせたことを信じます。同じ道を歩めば私たちもその状態を生じさせることが出来ると信じます。その道とは八正道です。私たちはブッダがその道を歩んで苦しみからの解放を成し遂げたことを信じます。
直通の道
八正道はエーカーヤナ・マッガ(ekāyana-magga:一つの道)、直通の道と呼ばれています。八正道に相当するものは他に何もありません。それはゴールへの直通路です。ブッダの道と四つの気づきの土台、それが直通の道を歩む人の修行です。
八正道は一人で歩みます。森に隠遁したり、部屋に閉じこもったり、といった意味ではありません。一人で住する人には町も森も同じです。八正道を歩む人の生活を表現するために、エーコー
ヴーパカッタ アッパマットー アーターピ(Ekovūpakaṭṭhaappamattoātāpi)という文章が良く用いられます。エーコー
ヴーパカッタ アッパマットー アーターピには一人で暮らすことも含まれますが、熱意を持つこと、自分自身のマスターになることも含まれます。人里離れた、一人の生活に習熟することに熱意を燃やします。これは物理的に他の人々から離れるという意味ではありません。そのような意味ではありません。一人で暮らすということは、有害なものを慎み捨て去るように努力すること、有益なものを育て維持するように努力することを意味します。一人というのは不善が伴うことが決して無いということを意味します。八正道を一人歩む人は他人を判断したり批判したりすることはありません。
「この道はドゥッカ(dukkha:苦)を克服するための唯一の道です」とブッダは説かれました。
瞑想センターはこの直通の道を歩む人が共に暮らす場所です。何も期待せずに暮らす訓練をします。食事をする時は、明日の食事について考えることはしません。心を維持するために奮闘努力し、全ての行動を現在の瞬間に行います。現在の瞬間とは今です。次の瞬間も今です。まさにその瞬間に、私たちは有害な状態が生じないように懸命に努力します。今の瞬間に欲が入りこまないようにします。怒りが入りこまないようにします。智慧が無く混乱した状態が入りこまないようにします。これは原因と結果、へートゥ・パラ(hetu-phala:因果)の訓練です。原因とその結果を理解し、信じることは智慧が無く混乱した状態から離れること、アモーハ(amoha:無痴)です。
瞑想と訓練によってサティパッターナ(satipaṭṭhāna:念処)の実践が進みます。一カ月ないし二カ月、途切れることなく、適切に訓練すれば、私たちのサティは自動的に機能するようになります。四つの気づきの土台が確立すると、サティの状態が分かります。
デイヴィッド:気づきの土台を築く際に、ジャーナ(jhāna:禅定)はどのような役割を果たすのですか?
ペーマスィリ長老:
私たちは何かを考えるとき心の中に物体、カーヤ(kāya:身)を作り出します。これは精神的な物体、心により作られたものです。ジャーナの修行をする時にはジャーナの兆候、ニミッタ(nimitta:相)が心に現われます。これもまた精神的な物体です。よく訓練されたニミッタは超能力の訓練に使うことが出来ます。例えばある人を探そうとした場合、その人のイメージがニミッタに現われるように欲します。ある種の光が作り出され、それを使ってその人を探します。サティパッターナヴィパッサナー(satipaṭṭhānavipassanā:念処ヴィパッサナー)の一部として、こうした外部の物体に気づくことはダンマーヌパッサナーです。
デイヴィッド:夢についてはどうですか?
ペーマスィリ長老:
優れた瞑想者は滅多に夢をみません。しかしもし夢を見た場合は、心が作り上げた夢の中のイメージに対し、サティパッターナ(satipaṭṭhāna:念処)の一部として気づきを入れます。他の現象に気づきを入れるのと同じように気づきを入れます。歩いている状態と夢を見ている状態の間には違いはありません。この世における私たちの存在も夢のようなものです。精神的な物体は実在しません。それは心が作り上げたものであり、私たちは心でそれを認識します。
ジャーナニミッタ(jhānanimitta:禅定相)のような心が作り上げたものは、この世で普通に出会う物質的なものよりも手放すのが難しいです。なぜなら、ジャーナニミッタのようなものは障害が抑えられた時に生じて、心に静寂と満足をもたらすからです。そして瞑想者はニッバーナへ心を向けることに興味を失ってしまいます。
「地のカシナ(kasiṇa:遍)を究極の目標としてそれを成就する瞑想者がいます。他の瞑想者は水のカシナ、火のカシナなどを究極の目標としてそれぞれの瞑想状態に達します。しかしブッダはカシナの限界を直接理解され、カシナがもともとどのようなものであるか、カシナの危険性、カシナによる真理からの逃避をご覧になられました。そして何が正しい道で何が誤った道かについての知識を得て洞察されました。これら全てを観察されたブッダは真の目標、心の平穏を成就することについて理解されました」(マハー・カッチャーナ尊者:カリ経)
18 正しい集中
ペーマスィリ長老:
八正道の八番目は正しい集中、サンマーサマーディ(sammā-samādhi:正定、正しい集中)です。これはただの集中ではありません。
サンマーサマーディには理解と智慧が必要です。仏弟子としての戒律を守り、感覚器官を慎み、瞑想の障害を捨て去るという段階的な訓練が必要です。サンマーサマーディを生じさせるためには、私たちは念を保ち、全てに気づく必要があります。
四つの気づきの土台を実践します。身体、感受、心の状態、心の対象について瞑想します。このように実践してジャーナを得た時のサマーディ(samādhi:定、集中)はサンマーサマーディと呼ばれます。
私たちの心は球形の鍋のようなものです。支えが無ければ不安定ですぐに倒れてしまいます。鍋を支えてバランスをとるために、私たちは鍋の下に石を三つ置きます。球形の鍋の下に石を二つだけ置いても意味がありません。鍋を適切に支えるためにはその下に石を三つ置かなければなりません。鍋を適切に支えて初めて火を起こし、調理することが出来ます。
同様に、心のバランスをとるためには八正道の最初の七つ、正しい理解、正しい思考、正しい言葉、正しい行動、正しい生計、正しい努力、正しい気づきを確立します。七つの道のそれぞれが大切です。適切な支えにより心は安定し正しい集中が生じます。私たちは覚醒し、対象をありのままに知ります。
サンマーサマーディは八正道の最初の七つが集まったものです、とブッダは説かれました。
集中を育てる
私たち二人がサマーディとジャーナについて正しく議論するためには、サマーディとジャーナを自ら経験しなければなりません。修行の中で経験したことがなければ、指導者は弟子にサマーディとジャーナを指導することはできません。弟子もサマーディとジャーナについて真に理解することは不可能です。
私たちは経典の内容を議論しているのではありません。私は最近ジャーナを実践していません。ですから若い比丘だった時に森林に住んで行った修行を思いださなければなりません。これは難しいです。
心の一点集中、チッテーカッガター(citt'ekaggatā:心一境性)は集中、サマーディを育てるための出発点の一つであると言われています。一点集中とは、私たちの心と、それを刺激する対象が一つになるということを意味します。一つの対象に集中し没入すると、その瞬間私たちの心にあるのはその対象だけとなります。私たちの心のプロセスの中で中立的な要素である一点集中は様々な対象を認識し把握します。
認知対象を一つ選び、繰り返し心をその対象に向けることにより、選んだその対象を完全に把握する瞬間の数が増えていきます。同じ対象を通常よりも高い率で繰り返し把握するようにすると、一点集中はサマーディへと高まっていきます。限られた短い時間に一点集中が生じる回数が大幅に増加します。
テーブルの上の茶碗を見ると、その茶碗に関連した一点集中が生じ、直ちにその茶碗を認識します。その茶碗に集中力の全てを傾けそれを繰り返すと、その茶碗に関連した一点集中が生じる頻度が高まり、他の対象に関連した一点集中が生じる数が減ります。そして茶碗に関連したサマーディが生じてきます。
茶碗を対象としてサマーディを15分間維持することが出来たとすると、茶碗に関連した一点集中は10~15回生じます。茶碗・・・茶碗・・・茶碗・・・茶碗・・・といった具合に、茶碗のイメージは15分途切れることなく維持されるわけではありません。
デイヴィッド:どうしてそんなに頻度が低いのですか?
ペーマスィリ長老:
ここで示した頻度は一つの例に過ぎません。選んだ対象に関連して生じる一点集中の数は、個々の瞑想者の修行の程度により異なります。サマーディが成立した初期の段階では、瞑想者の一点集中は強くありません。一つの対象を用いて一年も修行すると瞑想者の一点集中は極めて強くなる可能性があります。
集中の初期段階
集中力を強化するというのは、以下に示す五つのジャーナの要素を強化するという意味です。
1.ヴィタッカ(vitakka:尋)、対象に注意を向ける働き
2.ヴィチャーラ(vicāra:伺)、対象に向かった注意を持続させる働き
3.ピーティ(pīti:喜)、集中の高まりにより生じる喜び
4.スカ(sukha:楽)、集中が深まったことにより生じる安楽
5.チッテーカッガター(citt'ekaggatā:心一境性)、心が一つの対象に向かい続ける状態
五つのジャーナの要素全てを育てなければなりません。善なる心の状態とともに、私たちはふさわしい瞑想対象に注意を向けます。
次いで対象を調べ、対象に向かった注意を持続させます。対象に注意を向ける働きヴィタッカと、対象に向かった注意を持続させる働きヴィチャーラが高まると、ついには集中の高まりにより生じる喜びピーティと集中が深まったことにより生じる安楽スカが生じます。
そして心が一つの対象に向かい続ける状態チッテーカッガターは何らかの対象に心をとどめ続けさせる働きであり、常に他の四つのジャーナの要素を伴います。
例えば、慈しみを送る実践をする場合、まず自分自身に向かって慈しみの念を送りそれを持続させます。
デイヴィッド:慈しみは他者に送るものだと思っていました。
ペーマスィリ長老:
他者に対して慈しみを感じる前に、まず自分自身に慈しみを感じることが出来るようにしなければなりません。自分が不幸なのに他者を幸せにすることができるでしょうか。持っていない物を他者に与えることは出来ません。
慈しみについてよく理解出来たら、私たちは慈しみの瞑想、メッタバーヴァナー(mettā-bhāvanā:慈の習修)を実践します。悪意は無くなり、心は共感と平穏で満たされます。慈しみの心を周囲に放ちます。全ての生命の幸せを願います。これはヴィタッカ、対象に注意を向ける働きです。まず慈しみの心を全ての生命に向ける、ただそれだけです。
慈しみの心を繰り返し送ることで、慈しみに関連する心の一点集中が生じ、その頻度が高まります。そして他の思考に関連した心の一点集中が生じる回数が減ります。
ヴィタッカ、すなわち対象に注意を向ける働きというジャーナの要素とともに、チッテーカッガター、心が一つの対象に向かい続ける状態というジャーナの要素が生じます。
ヴィチャーラ、すなわち対象に向かった注意を持続させる働きがこの過程をさらに進めます。生命に対する慈しみを実際に調べます。
ヴィチャーラ、すなわち対象に向かった注意を持続させる働きが、生命に向けられた慈しみという一点に集中する心を支えます。慈しみの対象に心がとどまる時間が、ヴィタッカ、すなわち対象に注意を向ける働きの場合よりも長くなります。
デイヴィッド:ついていけません。
ペーマスィリ長老:
私たちは今ジャーナの要素がどのようなものか学んでいます。鐘を叩くのがヴィタッカ(vitakka:尋)で、鐘が鳴っている状況がヴィチャーラ(vicāra:伺)です。私たちはヴィタッカを用いてふさわしい瞑想対象を叩きます。鷹が羽ばたくのがヴィタッカで、その鷹が空へ舞い上がるのがヴィチャーラです。
メッタバーヴァナー(mettā-bhāvanā:慈の習修)の場合は、生命に向けた慈しみに心を向けるのがヴィタッカです。最初に心を向けるだけです。ヴィチャーラはヴィタッカより発展し安定した状態です。
生命に慈しみを向けそれを維持しようと努力することにより、残りの二つのジャーナの要素であるピーティ(pīti:喜)すなわち集中の高まりにより生じる喜びと、スカ(sukha:楽)すなわち集中が深まったことにより生じる安楽が生じます。集中の初歩的なレベルの場合力は強くありませんが、五つのジャーナの要素が生じます。心と身体は軽くなります。
心を瞑想対象に向けるといっても、瞑想対象以外に何も考えないというわけではありません。実際様々な思考が生じますがその大半は瞑想対象に関連したものです。心が遠くに彷徨うことはありません。
例えば慈しみの実践をしている時に仕事や、これから出かける旅行のことや外に干した洗濯物のことを考えます。こうした散乱した心が生じた場合、それを手放して、全ての生命に慈しみを向ける作業に戻ります。
このように慈しみの心を対象に向けてそれを維持すると、チッテーカッガターという心の要素はほとんどの時間慈しみに留まります。まるで注意が小さな円の中に閉じ込められたかのようになります。心はその円の外に出ません。しかし、心が完全に一か所にとどまり隠れ去るというわけではありません。
ウパチャーラサマーディ(upacāra-samādhi:近行定):サマーディ(samādhi:定、集中)の一歩手前の集中
瞑想者がふさわしい瞑想対象に心をとどめる時間が長くなるにつれて、五つのジャーナの要素は力を強め、集中を邪魔する要因が弱まります。
ある時点ではヴィタッカとヴィチャーラは強力ですがピーティとスカはそれほど力強くありません。また別の時点ではピーティとスカは強力ですがヴィタッカとヴィチャーラはやや弱くなります。おそらくチッテーカッガターは強力と思います。これがウパチャーラサマーディ(upacāra-samādhi:近行定)です。
五つのジャーナの要素全てが強いレベルで生じますがバランスが取れていません。ウパチャーラサマーディ、ジャーナに入る前に生じるレベルの集中です。ウパチャーラサマーディに入ると瞑想者は五つのジャーナの要素が全て揃っていると感じようになります。瞑想者は選んだ瞑想対象に心が向かい続け、心が長時間対象に留まり続け、そして他の対象に心が散乱していないことを自ら悟ります。
時にヴィタッカとヴィチャーラというジャーナの要素が生じていることを認識します。
時にピーティとスカも生じていることを認識します。
瞑想者は身体と心が軽いことに気づきます。瞑想者は粗雑ではありますがジャーナの状態に達し、心のプロセスの中にジャーナの要素が実際に生じていることを悟ります。ジャーナの要素が生じたことで、瞑想者がウパチャーラサマーディに達したことが指導者にも瞑想者自身にもわかります。
瞑想者はウパチャーラサマーディに入ったことを頻繁に知りますが、ウパチャーラサマーディを超えてジャーナ)に達するために何をすべきかを正しく理解することは稀です。瞑想者は全てがわずかに物足りないということだけわかります。
これは、瞑想堂に入ろうとしている人に似ています。その人は正しい道を歩き、門を通って敷地の中に入り、瞑想堂の入り口の階段の手前に達します。階段を上ることもありますが、階段の端から一歩踏み出して瞑想堂に入ることが出来ません。その人は瞑想堂のすぐそばに居て、瞑想堂がどのようなものかある程度の知識を得ますが瞑想堂の中にしっかりと入ることはありません。階段の端に佇むだけで、家に帰ってしまいます。
アッパナーサマーディ(appanā-samādhi:安止定):ジャーナに達した集中
ジャーナに入る前に瞑想者はウパチャーラサマーディのジャーナの要素のバランスをとらなければなりません。誰でもその道を通らなければなりません。
一つの対象を使って丸一年かけて訓練し、ジャーナの力を強め完璧なバランスとろうと努力する場合もあるかと思います。強力な瞑想者であっても、その一年の大半、ウパチャーラサマーディにとどまりその先へ進めないこともありえます。
瞑想者の対象が慈しみの場合は、「全ての生命が幸せで苦しみから逃れられますように」と、慈しみの心を直接生命に向けます。瞑想者の心の中で慈しみが長時間継続するとヴィタッカとヴィチャーラとともにチッテーカッガターが生じます。
さらに瞑想修行を続けるとピーティとスカが生じ、チッテーカッガターも力を増します。五つのジャーナの要素全てが一定の力のレベルで生じると、突然没入状態の意識が生じ、アッパナーサマーディ(appanā-samādhi:安止定)に達してジャーナに入ります。
初めてアッパナーサマーディに達する瞬間は、道を歩いていて道の裂け目に遭遇した時に似ています。私たちはいつもの歩き方を止めて、裂け目を飛び越え、またいつもの歩き方に戻します。裂け目を飛び越えたことに気づかない場合もあります。
日常生活の中で私たちは官能的快楽に対する渇望のままに絶えず感覚器官の対象に関心を寄せます。私たちの心は、官能的快楽を追い求める領域、すなわちカーマーローカ(kāmā-loka:欲界)の街路を彷徨っています。ウパチャーラサマーディに入ると、ジャーナの要素が官能的快楽に対する渇望を抑えます。
しかし、ジャーナの要素の力はバランスがとれていません。これは瞑想者がカーマーローカに留まっていることを意味します。五つのジャーナの要素がバランスをとりながら一定の力強さを得ると通常の感覚器官の活動は中断し、完全に停止した状況が続きます。瞑想者はカーマーローカから離れて微細な物質からなる領域、ルーパーローカ(rūpā-loka:色界)に入ります。ジャーナに達しています。
ルーパーローカに達している時間はほんの短い瞬間(心が生じては滅する時間、数個分)で一秒にもなりません。ルーパーローカに達した後、瞑想者はカーマーローカに戻ります。
ジャーナの要素は生じ続けますが力のバランスがわずかに崩れています。ジャーナはほんの短い瞬間しか続かないため、瞑想者はジャーナの要素のバランスがとれてジャーナに達したことに気づかないこともよくあります。
デイヴィッド:ジャーナから離れても、ジャーナの要素は強いのですか?
ペーマスィリ長老:
ジャーナの要素は強力で安定したままです。時にはジャーナの要素が生じては滅する状態が半日にわたり続く場合もあります。食事の時も、トイレに行く時も、誰かとしゃべる時もウパチャーラサマーディのジャーナの要素は生じ続けます。
ジャーナの要素が散乱しなければ、他の人の行動に対する怒りが生じることはありません。瞑想者が怒って、音をたてた人に怒鳴っていたとしたら、その瞑想者はただジャーナの要素の一つ、たとえばチッテーカッガター(citt'ekaggatā:心一境性)にしがみついているだけです。自分がしがみついている一つのジャーナの要素が壊れたために怒るのです。
以前私はドアをバタンと閉めた人に大きな声をあげました。私がジャーナの修行をしていて、五つのジャーナの要素が生じていたとしたら、怒り、欲、後悔、心の散乱、眠気、無気力、疑いという集中を傷害する要因が抑えられているため怒ることはありません。でも今は私を乱す人がいたら怒ります。
瞑想者のジャーナ(jhāna:禅定)の要素が力強く安定し続けていることで指導者はその瞑想者がジャーナに達したに違いないと判断します。一方瞑想者自身は自分が初めてジャーナに達したことに気づくことは滅多にありません。
ジャーナを経験する時間はほんの短い瞬間(心が生じては滅する時間、数個分)であり、その後すぐにウパチャーラサマーディ(upacāra-samādhi:近行定)に戻ってしまうからです。ジャーナの要素は力強いままですがわずかにバランスが崩れてしまいます。
ジャーナの要素が強くなると自分がジャーナに達したと考える瞑想者がたくさんいます。しかし、ジャーナに達した場合の集中の形はウパチャーラサマーディとは根本的に異なります。
ジャーナをさらに高めるために、瞑想者はジャーナがより規則的に生じるように、またより長い時間維持できるように訓練します。サマタ瞑想の対象に注意を固定することで瞑想者はサマーディ(samādhi:定、集中)の時間を徐々に伸ばしていきます。
少しずつですが、選んだ対象をより一層コントロールできるようになります。瞑想対象が素早く心に現れるように、対象が心に現れたらそれを安定させるように練習します。カーマーローカ(kāmā-loka:欲界)から離れる時間を増やします。
ルーパジャーナ(rūpa-jhānas:色界禅定)の第一段階
ディーガニカーヤ(Dīgha Nikāya:長部経典)のマハーサティパッターナスッタ(Mahāsatipaṭṭhāna
Sutta:大念住経)の中で、ブッダはサンマーサマーディ(sammā-samādhi:正定、正しい集中)について、微細な物質に対する四つの心の没入状態、ルーパジャーナ(rūpa-jhānas:色界禅定)に入りそこに留まることであると説明されています。
・微細な物質からなる世界における第一段階の心の没入状態、パタマッジャーナ(pathamajjhāna:第一禅定)
・微細な物質からなる世界における第二段階の心の没入状態、ドゥティヤッジャーナ(dutiyajjhāna:第二禅定)
・微細な物質からなる世界における第三段階の心の没入状態、タティヤッジャーナ(tatiyajjhāna:第三禅定)
・微細な物質からなる世界における第四段階の心の没入状態、チャトゥッタッジャーナ(catutthajjhāna:第四禅定)
パタマッジャーナ(pathamajjhāna:第一禅定)では五つのジャーナの要素全てが働き、集中の障害を抑えます。ヴィタッカ(vitakka:尋)、ヴィチャーラ(vicāra:伺)、ピーティ(pīti:喜)、スカ(sukha:楽)、チッテーカッガター(citt'ekaggatā:心一境性)の全てが力強く、安定し、調和しています。
より高い段階のジャーナへ進むために、瞑想者はそれぞれのジャーナを磨き上げ、ジャーナの要素を取り除いていきます。ジャーナの進歩とはそれ以外の何物でもありません。
瞑想者がドゥティヤッジャーナ(dutiyajjhāna:第二禅定)に入るとヴィタッカ、ヴィチャーラが取り除かれます。
瞑想者がタティヤッジャーナ(tatiyajjhāna:第三禅定)に入るとピーティが取り除かれます。
そしてチャトゥッタッジャーナ(catutthajjhāna:第四禅定)に入るとスカはウペッカー(upekkhā:捨、不苦不楽)に変わります。チャトゥッタッジャーナに入った瞑想者に残っているのはウペッカーとチッテーカッガターだけです。
表1を見てください。
表1 四分類法によるジャーナ
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第一
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第二
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第三
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第四
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ジャーナの要素
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ヴィタッカ(尋)
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機能
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除去
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除去
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除去
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ヴィチャーラ(伺)
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機能
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除去
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除去
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除去
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ピーティ(喜)
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機能
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機能
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除去
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除去
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スカ(楽)
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機能
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機能
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機能
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除去
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チッテーカッガター(心一境性)
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機能
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機能
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機能
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機能
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第一
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第二
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第三
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第四
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ジャーナの要素
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ヴィタッカ(尋)
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機能
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除去
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除去
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除去
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ヴィチャーラ(伺)
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機能
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除去
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除去
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除去
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ピーティ(喜)
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機能
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機能
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除去
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除去
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スカ(楽)
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機能
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機能
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機能
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除去
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チッテーカッガター(心一境性)
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機能
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機能
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機能
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機能
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アビダンマ(Abhidhamma:論蔵)ではジャーナは四段階ではなく五段階としています。パタマッジャーナ(第一禅定)では五つのジャーナの要素全てが働いているのは同じです。しかしながら、次いで取り除かれるのはヴィタッカだけです。
表2を見てください。
表2 五分類法によるジャーナ
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第一
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第二
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第三
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第四
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第五
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ジャーナの要素
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ヴィタッカ(尋)
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機能
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除去
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除去
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除去
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除去
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ヴィチャーラ(伺)
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機能
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機能
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除去
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除去
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除去
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ピーティ(喜)
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機能
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機能
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機能
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除去
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除去
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スカ(楽)
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機能
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機能
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機能
|
機能
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除去
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チッテーカッガター(心一境性)
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機能
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機能
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機能
|
機能
|
機能
|
デイヴィッド:ヴィタッカが脱落するのは何故ですか?
ペーマスィリ長老:
しばらくすると自分が何をしているのか分かるようになるのでヴィタッカは必要なくなります。
蜂は花を見つけるまではあちこちと探しまわらなければなりません。一度花を見つけたら、蜂はまっすぐにそこに向かいます。そして瞑想者の場合は第一段階のジャーナに熟達すると、瞑想対象に対するヴィタッカはもはや必要なくなります。チッテーカッガターの力が強いので対象を捉えたままでいることができます。
瞑想者には、対象に対するヴィチャーラが直接生じます。第一段階のジャーナに達した瞑想者の善なる心はアナーガーミー(ananāgāmī:不還果)の聖者に匹敵します。しかしながら、ジャーナの修行を止めてしまうとその善なるこころは消えてしまいます。アナーガーミーの場合は消えて無くなることはありません。
四段階のジャーナを進んでいくために、瞑想者はまずヴィタッカとヴィチャーラにより慈しみを全ての生命に送り、慈しみによる第一段階のジャーナに達します。修行を繰り返すことで第一段階のジャーナに入り、そこにとどまることが容易にできるようになります。そしてそれが習慣になります。
第一段階から第二段階のジャーナに進むために、瞑想者は第一段階のジャーナに特有の二つのジャーナの要素、ヴィタッカとヴィチャーラを取り除かなければなりません。
瞑想者は第一段階のジャーナに何度も繰り返して入ることに成功しているため、ヴィタッカとヴィチャーラを脱落させることが出来ます。そして第二段階のジャーナの要素であるピーティにより第二段階の慈しみのジャーナに達します。
第二段階のジャーナに習熟し、それが洗練されてくると、瞑想者は第二段階のジャーナの性質であるピーティを脱落させることが出来るようになります。そしてスカとチッテーカッガターによる第三段階の慈しみのジャーナに達します。
第三段階のジャーナの要素はスカとチッテーカッガターだけです。瞑想者の心と体は安楽を感じます。瞑想対象として慈しみを用いる場合、到達できるのは第三段階のジャーナまでとなります。この第三段階のジャーナで止まってしまう瞑想者はたくさんいます。
第三段階から第四段階の第ジャーナ(jhāna:禅定)へ進むためには、瞑想者はスカ(sukha:楽)というジャーナの要素を捨て去らなければなりません。安楽の感覚を手放して、ウペッカー(upekkhā:捨、不苦不楽)という苦しくも安楽でもない中立的な状態になります。スカが心から脱落し、代わって第四段階のジャーナのウペッカーが生じます。
第四段階のジャーナはウペッカーとチッテーカッガター(citt'ekaggatā:心一境性)からなります。第四段階のジャーナに入った瞑想者は、自分の経験が本に書いてあることと全く同じであることを悟ります。ジャーナを深めていくということは、ジャーナの要素を洗練させ、それを第一段階の五つから、ウペッカーとチッテーカッガターの二つに減らしていくことに過ぎません。
マハーサティパッターナスッタ(Mahāsatipaṭṭhāna
Sutta:大念住経)に説かれているブッダの教えはジャーナを培い、ジャーナに達するためには不可欠というわけではありません。仏教以外の伝統宗教でもジャーナの意識状態を培い、それに達することが出来ます。
デイヴィッド:なぜ人々は高いレベルのジャーナを望むのですか?
ペーマスィリ長老:
瞑想者がより高いジャーナを望むのは、俗世間の通常の意識状態よりもジャーナの健全で洗練された意識状態を好むからです。
しかしながら、ジャーナの第一段階の意識は通常の意識状態と恐ろしいほど近いのです。第一段階のジャーナに達したばかりの瞑想者は、ジャーナの意識状態から脱落しカーマーヴァチャラ(kāmāvacara:欲界)の意識状態に戻ってしまう可能性が常に付きまといます。瞑想者はそのような事態を避けたいと考えます。
二番目の理由として、第一段階のジャーナから出た瞑想者はジャーナの要素を明瞭に観察し、ヴィタッカ(vitakka:尋)とヴィチャーラ(vicāra:伺)が、ピーティ(pīti:喜)とスカに比して粗野で心を乱すものであることを理解するからです。第二段階のジャーナにはヴィタッカとヴィチャーラが無いことを知った瞑想者は第二段階のジャーナを得ようと心に決めそのための修行に着手します。
第一段階のジャーナから第二段階のジャーナへと昇っていくために、瞑想者は第一段階のジャーナへの執着を手放し、第二段階のジャーナのウパチャーラサマーディ(upacāra-samādhi:近行定)に入ります。そして、通常のカーマーヴァチャラの思考による五つのジャーナの要素が短い時間ではありますが再び生じます。これは粗野な二つのジャーナの要素を捨て去るためであることを心で理解しています。
第二段階のジャーナに近づくと、通常のカーマーヴァチャラの思考は止まり、瞑想者はルーパーヴァチャラ(rūpāvacara:色界)の第二段階のジャーナに入ります。カーマーヴァチャラの思考が止まった後は、第二段階のジャーナの三つのジャーナの要素がはっきりと分かります。
第二段階のジャーナから第三段階のジャーナへと昇っていくためには、瞑想者は第二段階のジャーナへの執着を手放し、第三段階のジャーナのウパチャーラサマーディに取り組み、そして第三段階のジャーナに入ります。さらに先へ進む場合も同じです。
第三段階のジャーナを捨て去り、再びウパチャーラサマーディに入り、そして第四段段階のジャーナに入ります。
それぞれのレベルのジャーナに到達できるかどうかは、そのひとつ前のレベルのジャーナにどれだけ習熟し、それをどれだけ理解したかにかかっています。
ジャーナは一つ一つ段階的に進んでいきます。瞑想者はそれぞれのジャーナから出た後、それぞれのジャーナに特有の危険性と欠点を省察します。
例えば第一段階のジャーナを省察した瞑想者は、それがヴィタッカとヴィチャーラという欠点を有しており、カーマーヴァチャラにおける瞑想の障害要因に恐ろしいほど近いことを理解します。瞑想者は粗野な意識状態を克服し、より平穏で洗練された意識の状態に達したいと願います。
こうした目標を掲げていても、実際のところその瞑想者は何かを得ようとしているわけではありません。瞑想者は瞑想対象にとどまり続け、ジャーナの要素をさらに洗練させます。瞑想者に執着や強い期待があると先に進むことが出来ません。
こうして洗練された意識状態にも嫌気がさすような負の側面があることを瞑想者は常に省察しなければなりません。
スリランカには強いサマーディー(samādhi:定、集中)を持ち、第四段階のジャーナに達した瞑想者がたくさんいます。その意識状態は極めて繊細なものであるため、瞑想者は自分がアラハット(arahat:阿羅漢)になったと思いこみ、瞑想修行を完全にやめてしまうことがよくあります。しかし、その瞑想者は必ずしもアラハットではありません。
デイヴィッド:彼らはソーターパンナ(sotāpanna:預流者)ですか?
ペーマスィリ長老:
第四段階のジャーナに入った瞑想者は一時的に集中を妨害する要因が抑えられているだけです。マッガパラ(magga-phala:道果)に達するのとは異なります。
ブッダのご在世当時、500人の比丘からなるグループが二つあって一緒に旅に出ました。最初のグループは梵住の瞑想により第四段階のジャーナに達しました。二番目のグループはなんとかアラハットの覚りに達しました。合わせて1000人の比丘は神々と出会いました。
神々は第四段階のジャーナに達した最初のグループの比丘に対してだけ敬意を払い、アラハットである二番目のグループの比丘たちを無視しました。神々が最初のグループにだけ敬意を払ったのは、比丘たちが放つ慈しみを感じ取ったからです。神々は完全に開放された心を感じ取ることが出来なかったのです。
もう一つの逸話があります。
第四段階のジャーナに達した一人の比丘が自分はアラハットだと思い込みました。彼には親友が一人いました。その親友は実はソーターパンナで、第四段階のジャーナを得たとしてもアラハットになったという意味ではないということを何度も説得しました。でもその比丘は友人の話を信じませんでした。ある日のこと二人は川で水浴していました。第四段階のジャーナに達しているその比丘に気づかれないようにしながら、ソーターパンナである友人は水の中にもぐって比丘の足を噛みました。比丘は叫び声を上げました。ワニに襲われたと思った比丘は急いで岸へ上がり、土手を駆け上がりました。
ソーターパンナである友人は言いました。
「見てごらん、君は怖がっているだろう。君がアラハットならば何も怖がらないし叫ぶこともないはずだ」
この経験から比丘は自分がアラハットでないことを悟りました。比丘は修行を再開し、終にはアラハットになりました。
第四段階のジャーナが、バランスが取れて揺るぎない状況になるとそれは第四段階のジャーナサマーパッティ(jhāna samāpatti:禅定等至)と呼ばれます。
川の水が様々な支流に流れるように、瞑想者は極めて純粋な意識状態である第四段階のジャーナから三つの流れのいずれかに方向を定めます。一番目は超能力を得ること、二番目はアルーパジャーナ(arūpa-jhāna:無色界禅定)に達すること、三番目はウィパッサナー(vipassanā:観察瞑想)により真っすぐニッバーナ(nibbāna:涅槃)を目指すことです。
超能力を得ることを選んだ場合、かすかな音を聞いたり、通常では見えないものが見えたりするようになります。過去の生存を見たり、空を飛んだり出来ます。第四段階のジャーナサマーパッティは分岐点です。
デイヴィッド:そこで自分の進む方向を決めることが出来るのですね。
ペーマスィリ長老:
その通りです。
デイヴィッド:四つの気づきの土台はどのような役割を果たすのですか?
ペーマスィリ長老:
サティパッターナ(satipaṭṭhāna:念住)を正しく実践すれば、第四段階のジャーナサマーパッティ(jhāna samāpatti:禅定等至)に入ります。第四段階のジャーナ(jhāna:禅定)を維持するのは難しいですが、ただそこに達することはそれほど難しくはありません。達するのは維持するのよりも簡単です。森に住むことは役に立ちます。
アルーパジャーナ(arūpa-jhāna:無色界禅定)
第四段階のジャーナから出た瞑想者は振り返って観察し、第四段階のジャーナに欠点があることを悟ります。それはやはり物質に依存しており、第三段階のジャーナのスカ(sukha:楽)という比較的粗野なジャーナの要素に近い状態です。
アルーパジャーナ(arūpa-jhāna:無色界禅定)には物質が無いことを知った瞑想者はさらに洗練されて平穏な状態である四つの物質に依存しないジャーナ、すなわちアルーパジャーナに達するための修行に着手します。
・第一段階のアルーパジャーナ:無限の空間の領域、アーカーサナンチャーヤタナ(ākāsānañcāyatana:空無辺処)
・第二段階のアルーパジャーナ:無限の意識の領域、ヴィンニャーナンチャーヤタナ(viññānañcāyatana:識無辺処)
・第三段階のアルーパジャーナ:無の領域、アーキンチャンニャーヤタナ(ākiñcaññāyatana:無所有処)
・第四段階のアルーパジャーナ:認知が有るのでもなく、無いのでもない領域、ネーワーサンニャーナーサンニャーヤタナ(nevasaññā-n'āsaññāyatana:非想非非想処)
アルーパジャーナはルーパジャーナ(rūpa-jhāna:色界禅定)とは異なります。四つのルーパジャーナの場合、瞑想者は同じ瞑想対象を保ったままジャーナの要素を克服することで上の段階へと進んで行きます。瞑想対象は変わりません。一方、アルーパジャーナの場合、瞑想者は瞑想対象を乗り越えていくことで上の段階へと進んで行きます。
アルーパジャーナにおける瞑想の進歩は段階的に生じます。先行するジャーナの比較的粗野な対象から、次のジャーナのより繊細な対象へと注意を移すことで、粗野な瞑想対象は徐々に消えて行きます。瞑想者は繊細な対象だけに集中し、粗野な対象を完全に乗り越えるまでそれを続けます。そして繊細な対象のみが残ります。
しかしながら、アルーパジャーナに取り組もうとする前に、瞑想者は第四段階のルーパジャーナに習熟しなければなりません。単に第四段階のルーパジャーナに達するだけでなく、それを自在にコントロール出来なければならないという意味です。思うとおりに第四段階のルーパジャーナに入り、そこに留まれるようにならなければなりません。
第四段階のルーパジャーナにおいてはチッテーカッガター(citt'ekaggatā:心一境性)とウペッカー(upekkhā:捨、不苦不楽)というジャーナの要素が確立しており、呼吸の出入りは止まり、心が外部の対象に向かうことはありません。
瞑想者は形態の性質と事実について熟考します。あるのは意識だけで身体に思いが及ぶことはありません。カシナニミッタ(kasiṇanimitta:遍相)を原因として、アルーパジャーナという結果が生じます。カシナ(kasiṇa:遍)は青い円盤のこともあります。ニミッタ(nimitta:相)は光などのような統合性の兆候で瞑想者の心に現れます。
例えば青いカシナを観察することで瞑想者はカシナニミッタを生じさせ、それを大きくします。生じたニミッタには限界がなく、無限に大きくなります。その後瞑想者はルーパジャーナの第一段階から第四段階へと進んでいきます。
第四段階のルーパジャーナから第一段階のアルーパジャーナへと進むため、瞑想者はニミッタを乗り越えなければなりません。ニミッタが占める空間だけに集中しながら「無限の空間、空間、空間は無限」と考えます。
徐々にニミッタは瞑想者の心から消えて行きます。突然消えるわけではありません。長い間空間に集中していると、やがて瞑想者は強い風に吹き飛ばされたように感じます。さらに空間に集中し続けると、心が作り出したニミッタを含む粗大なあるいは微細な物質は吹き飛ばされます。
瞑想者の心には形態は無くなっているため、意識は無限の空間を経験の対象にします。雲が漂う空のような空間でもなければ、惑星や恒星がある宇宙のような空間でもありません。第一段階のアルーパジャーナの空間にはそのような物はありません。目の前にある空気を見てください。意識はその空間を対象にします。意識は空間だけに固定されます。他の何ものも対象にすることはありません。物質としての身体について考えることはありません。全くありません。
瞑想者は空間を何か広大なものとして経験します。その空間には終わりがありません。その空間に終わりがあると考えることは出来ません。意識の届くところは全て空間です。あなたの心の意識はこの広大で何もない空間の中にあるだけです。あるのは意識と空間だけです。そして命もあります。命と意識と空間です。
無限の空間を乗り越えるために、瞑想者は無限の意識の方が無限の空間よりも平穏であると省察します。無限の空間のこのような欠点を知り、空間を対象とする意識に集中します。注意を意識へと移します。瞑想者は「意識、意識」と考えます。
意識だけに集中することで、無限の空間にいるという認知は徐々に、極めてゆっくりと瞑想者の心から消えて行き、終には意識のみが残ります。
デイヴィッド:ついていけません。
ペーマスィリ長老:
第一段階のアルーパジャーナでは、瞑想者は無限の空間を瞑想対象にします。無限の空間とは経験、すなわち意識の対象です。瞑想者の意識が届く分だけ無限の空間は広がっていきます。遮るものはありません。これは、無限の空間を対象とする意識もまた無限でなければならないということを意味しています。
第二段階のアルーパジャーナに達するためには、瞑想者はまさにその無限の意識を瞑想対象にします。瞑想者は無限の空間を対象とする無限の意識に注意を向けます。このように無限の意識が意識の対象となります。意識が意識の対象となるのです。
瞑想者はその無限の意識に集中し続けます。やがて無限の空間は克服され、完全に消え去ります。瞑想者に残るのは無限の意識だけです。こうして第二段階のアルーパジャーナに到達します。
第二段階のアルーパジャーナは無限の意識の領域とも呼ばれます。無限の空間の領域よりも洗練されており、平穏です。
第三段階のアルーパジャーナに到達するために、瞑想者は意識の性質について省察します。意識がなければ、いかなる物もありません。次いで瞑想者は意識のない状態を対象にして瞑想します。「何もない、いかなるものも存在しない」と瞑想者は考えます。
何もない状態だけを対象として瞑想を続けると、意識は徐々に消えていき、終には何もなくなります。心は、いかなるものも存在しない、意識さえもないと認識します。心が唯一認識するのは何も存在しない状態です。
こうした経験の中に留まりながら、何もない状態は無限の空間や無限の意識よりも洗練されており平穏であることを瞑想者は発見します。また、何もない状態の空虚と無限の空間の空虚(遮るものがない広大さ)とは異なることも発見します。ヴィタッカ(vitakka:尋)はありません。考えるものすらありません。
何もない状態が消えていき、それが克服されると瞑想者は深い平穏の境地(第四段階のアルーパジャーナ(arūpa-jhāna:無色界禅定))に達します。楽しむというよりも味わうという言葉がふさわしい境地です。瞑想者は、これが達しうる最も高い境地であることを知ります。これに比べれば何もない状態はまだ粗野です。物質とは全く関係ない境地です。あるのは命と活力だけです。
第四段階のアルーパジャーナに到達した後、瞑想者はアルーパジャーナの全てを第一段階から第四段階へと昇り、あるいは逆に第四段階から第一段階へと下降する訓練を行います。次いで下から上へ、そして上から下へと順に八つのジャーナ(jhāna:禅定)に達する訓練をします。超能力を発揮する場合は、第四段階のルーパジャーナ(rūpa-jhāna:色界禅定)の状態で行います。アルーパジャーナでは超能力を発揮することはできません。
アングッタラニカーヤ(Ańguttara Nikāya 増支部経典)の中でブッダは、ジャーナは瞑想者が今ここで経験できるニッバーナ(nibbāna:涅槃)ですと説かれました。瞑想者はジャーナを用いて、安楽に住することを楽しむのです。
デイヴィッド:ジャーナに達する瞑想者は多いのですか?
ペーマスィリ長老:
たくさんいます。ブッダが教えを説き始めた前でさえ多くの人がジャーナを探し、ジャーナに達してきました。現代ではブッダの教えに触れることができることから、ジャーナに達するのは以前より簡単になりました。ジャーナに達するのは難しいというならあなたは間違っています。
デイヴィッド:どうしてそうなるのですか?
ペーマスィリ長老:
瞑想実践で最も難しいのは最初に集中の障害を抑えることです。集中の障害が抑えられれば、あとは大きな問題はありません。ジャーナは自然に進んで行きます。
木を切り倒したり、岩を粉砕したり、くぼみを埋めたり、ジャングルの密林に道路を作るのは大変な作業です。しかし道が出来てしまえば誰でも易々とジャングルを通ることが出来ます。そして集中の障害が抑えられれば第一段階のジャーナに達することが出来ます。残りのジャーナに達するのもそれほど難しくはありません。
デイヴィッド:どうして高い段階のジャーナに達するのが簡単なのですか?
ペーマスィリ長老:
瞑想者は集中の障害を抑えるための仕事を既に終えているため、より高い段階のルーパジャーナそしてアルーパジャーナを得るのは容易です。
瞑想修行を始めた時点においては、瞑想者は集中の障害を抑えるために多大な努力を払わなければなりません。ジャーナの意識状態に達することと、心をジャーナの状態に維持することとは全く異なります。
ただジャーナに達するだけであれば実際はそれほど難しくありません。しかしジャーナの意識状態はとても脆いため、それを維持するのは難しいです。こうした洗練された状態は簡単に崩れてしまいます。
デイヴィッド:崩れるとはどういう意味ですか?
ペーマスィリ長老:
瞑想者はルーパジャーナから脱落し、通常の日常生活に戻ってしまいます。カーマーローカ(kāmāloka:欲界)に戻ってしまった瞑想者の感覚機能は再び粗野な状態に戻ってしまい、しばしば不満の種になります。そこにはドゥッカ(dukkha:苦)があります。
ジャーナに達することが出来ても、それを維持できなければ落胆してしまうことがよくあります。瞑想は意味がないと決めつけ、修行を完全に諦めてしまう人がたくさんいます。
デイヴィッド:悲しいことですね。
ペーマスィリ長老:
ジャーナにおいては、心は高度に洗練されていますが、所詮意識の状態に過ぎません。ジャーナに達することは修行のゴールではありません。
腐ったゴミの山に出くわした男のことを憶えていますか?
デイヴィッド:はい。その人はゴミの山を掘り進んで道をきれいにしました。
ペーマスィリ長老:
瞑想者がサマーディ(samādhi:定、集中)を得るためにサマタバーワナー(samatha-bhāvanā:止の習修)のみを実践するとしたら、それは単にゴミを覆い隠しているだけです。ゴミを掘り、取り除いてサンマーサマーディ(sammā-samādhi:正定、正しい集中)を得るために、瞑想者はサマタバーワナー(samatha-bhāvanā:止の習修)とともにヴィパッサナーバーワナー(vipassanā-bhāvanā:観の習修)を実践します。これが、ブッダがサティパッターナスッタ(Satipaṭṭhāna
Sutta:念住経)で説かれた方法です。
集中の障害を抑えるため、瞑想者は、最初はサマタ瞑想のみ実践します。最初はサマタという方法が全てです。
しかしながら、集中の障害が抑えられた後は、四つのルーパジャーナ全てに達してそれに習熟するめにウィパッサナーとサマタを交互に実践します。ジャーナを手放し、第四段階のルーパジャーナから先へと進みます。超能力を手に入れたり、アルーパジャーナに達したりするためにジャーナを使うことはしません。
デイヴィッド:瞑想者は何故アルーパジャーナに達しようとしないのですか。
ペーマスィリ長老:
サティパッターナスッタに書かれているサンマーサマーディ(sammā-samādhi:正定、正しい集中)は第四段階のルーパジャーナのサマーパッティ(samāpatti:等至)までしかありません。その先はありません。第四段階のルーパジャーナから先へ進み、サマタの力を高めウィパッサナーをさらに育てる作業を続けます。
瞑想者は自分自身の体験を通じて、無常で苦しみで実態が無い(無我)という物事の本質への洞察を得ます。条件づけられた全ての現象の本質を見抜くことで瞑想者は智慧を育て、自分への執着を克服し、ニッバーナへと近づきます。一度信が定まると何が正しくて何が正しくないかを知るのは簡単です。
これで四つの聖なる真理と八正道についての話は終わりです。他に聞きたいことはありますか?
ディヴィッド:何を質問したらいいのかわかりません。私はまだシーラ(sīla:戒律)の修行に取り組んでいる段階です。
ペーマスィリ長老:
それで良いです。人々が真摯にダンマ(dhamma:法)に関心を寄せるなら、教えを説くのは楽しいことです。
ディヴィッド:ありがとうございます。私はまだジャーナに入ったことがありません。
ペーマスィリ長老:
でもあなたは学ぶことが好きですよね。(完)
翻訳:影山幸雄+翻訳部