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Web会だより

  2021年1月~12月

『仏教聖地巡礼 インド・ネパール七大聖地の仏跡巡り』(4)(7) H.Y.

 
 4.第4日目
  この日はブッダが涅槃に入られたクシナーラーに向かいます。インドから来た道を戻り、インドに再入国します。バスで約7時間ほど走って、四大聖地の一つであるクシナーラーに到着しました。
  経典では、ブッダが入滅を宣言されてから、大勢の人々がブッダとの最期の別れの挨拶を行う為に、ブッダのもとへ集まってきました。そのような中、ダンマーラーマという比丘はブッダに挨拶へ行かずにいました。それがブッダの耳に入り、その比丘を呼びなさいとブッダは言われました。比丘はブッダのもとに行き、ブッダは来なかった理由を尋ねます。比丘はブッダが涅槃に入る前に最終解脱に達したいと答えます。その言葉を聞き、ブッダは賞賛しました。
  この逸話でも示されているとおり、ブッダはヴィパッサナー瞑想を行い、覚りをひらくことが最も重要であることを述べています。そして死の直前に不放逸で励みなさいと言った最期の言葉を、今後の修行で常に忘れないようにしたいと感じました。
  クシナーラーには大涅槃堂とニルヴァーナ・ストゥーパが隣接しています。大涅槃堂には横たわった大きな仏像があり、ブッダが涅槃に入られた直後を示しています。またニルヴァーナとは涅槃の意味です。
  大涅槃堂では、旅行会社の手配でインド生まれの比丘にお経をあげてもらいました。お経はパーリ語で読み上げられ、タイでお経をあげてもらったときと似た感じがしました。タイではお経をあげる前に比丘にお布施をするのが慣例ですが、ツアーの面前でそういう訳にもいかず、終わってからお布施をお渡ししました。比丘が受取るのではなく、タイと同じ様に私の為に簡単なお経をあげてくれたのが、うれしかったです。

  少し驚いたのは、女性がその比丘に触れたにも関わらず、比丘が全く気にしていないことでした。上座部仏教の戒律では女性が触れるのは禁止されているはずですが、観光客に慣れ親しんでしまっている比丘に違和感を感じました。ここで疑念が出そうになりますが、聖地で比丘にお布施した行為は善業だと自分を納得させました。
  その後、ニルヴァーナ・ストゥーパを周りました。ブッダが涅槃に入られた当時、ストゥーパの近くに沙羅双樹の樹木があったそうですが、現在はその面影もありません。沙羅双樹とは、2本の沙羅の木という意味です。ブッダが涅槃に入られた際は、季節外れにも関わらず沙羅の木が満開になったと言われています。
  クシナーラーの近くにはブッダが涅槃に入る直前に休んだ場所があり、マータクワル祠堂として現存しています。ニルヴァーナ・ストゥーパからマータクワル祠堂までは徒歩で行きましたが、その間に幼稚園児と小学1年生ぐらいの物乞いの少女が歌いながらずっと付いて来ました。インドでは貧富の格差が大きく、特にこのウッタル・プラデーシュ州や隣のビハール州は、インド国内でも最も開発の遅れた地域の一つと言われています。観光客が行くところには必ずと言っていいほど、街頭の押売りと物乞いがおり、言い寄ってくる場面に何度も遭遇しました。
  通常の観光客の視点であれば、押売りや物乞いは相手にしないところです。しかし今回は聖地巡りで来ています。慈悲の瞑想の視点で考えれば、目の前の苦しんでいる人々を助けないのはどうなのか、と疑問を感じました。しかし小銭をあげても、彼らの根本的な解決にはほど遠い状況です。この気持ちについてどう行動したかは、第7日目のブッダガヤで後述します。
  次にブッダの火葬が行われた荼毘塚のラマバール・ストゥーパに行きました。経典ではブッダが涅槃に入った後に大勢の人々が葬儀の準備を整えました。ブッダを白檀の薪で火葬しようとしたところ、火が点火されません。立会者の一人であるアルヌッダ尊者が神通力で確認したところ、神々がブッダの後継者であるマハーカッサパ尊者が荼毘塚に到着するまで点火させないよう取り計っていることが分かりました。
  後継者のマハーカッサパ尊者ですが、以前からブッダの後継者と目されていた逸話があります。在家生活からの離別を決意した直後に、道でブッダと出会います。富豪の生まれであるマハーカッサパ尊者は、出家前に自分が来ている豪華な衣類をブッダにお布施します。そしてブッダが着ている糞掃衣をくださいと申し出ます。ブッダは最初注意しますが、マハーカッサパ尊者は再度申し出てブッダはそれを了承します。単に衣類を物々交換しただけですが、経典ではブッダが自分の衣を他人に渡したのは、マハーカッサパ尊者だけとされています。このことはブッダの後継者になるという重大な意味が含まれていました。
  ところでブッダの弟子には十大弟子と呼ばれる阿羅漢がいます。十大弟子の中でも、サーリプッタ尊者とマハーモッガラーナ尊者は教団の2トップといえる存在です。2トップの中ではサーリプッタ尊者が先任とされています。しかし、両尊者はブッダより先に涅槃されます。そしてブッダ涅槃後に、教団のNo.3であるマハーカッサパ尊者が後継者になりました。No.3が後継者になったというのは分かるのですが、ブッダに会ったときに既に後継者と目された逸話を聞くと、2トップの両尊者が生きているときに後継者というのは予言ではないかと思いました。原始仏教では基本的に予言は否定される為、話の矛盾を感じました。ただ別の見方をすれば、過去世からの計り知れない善業が帰結して、ブッダの後継者となったとも考えられます。いくら自分の頭で考えても、自分には正解は出せないと感じました。経典等を読んでいるときでも、このような疑問点はいくつか出てきますが、最後は自分自身で体験するしか正解にはたどり着けないのではと思いました。
  このストゥーパを周っているときに、托鉢している比丘に出会いました。午後に托鉢している比丘は初めて出会ったので、路銀が尽きたのか、エセ比丘なのか等と邪念が次々と出てきましたが、善業の為だと思って布施しました。
  聖地巡りの後、クシナーラーのホテルに宿泊しました。

5.第5日目
  この日はブッダが入滅を宣言されたヴェーサーリに向かいます。第5日目から7日目までは、インドのビハール州という地域であり、この州は2016年から州内への酒の持込・飲酒が法令で禁止されています。官憲は外国人に対しては賄賂を渡せば見逃してくれるそうですが、現地住民に対しては社会基盤維持の為、酌量の余地なく逮捕するなど厳しい運用を行っているとのことです。
  途中、ケーサリアというところに立ち寄りました。ここはブッダが入滅宣言の地ヴェーサーリから涅槃の地クシナーラーに向かう最後の旅の際に、ブッダが立ち寄ったところです。ケーサリアは、語感がケーサプッティヤーから変化した可能性があります。その場合、ケーサプッティヤー村というのが経典の有名な一節に出てきます。ケーサプッティヤー村には各宗教の人達がやってきては、各々の教えの正当性を主張していました。その為、村人達は何が正しいのか分からなくなっていました。そこにブッダが現れ、村人達が各々の教えを疑うことは正しいと言います。人が言ったから、伝統や聖典に書かれているからと言って鵜呑みにせず、きちんと自分で物事を確認することの重要性をブッダが説いています。
 現在のケーサリアは、周りに民家も無いところにあり、小山のような大きいストゥーパがただあるのみです。ちなみに、このストゥーパは世界最大の大きさです。ここでもストゥーパの周りを1周しました。

 次にレリック・ストゥーパというところに行きました。ブッダがラマバール・ストゥーパで荼毘に付された後、ブッダの骨は8つに分けられました。その内の1つがリッチャヴィ族に譲り渡されました。このレリック・ストゥーパはリッチャヴィ族が受け取ったブッダの骨を安置していると言われています。現在は雨風を避けるように御椀型の屋根が設置されています。ここでも1周しました。
  それからヴェーサーリに向かいました。ヴェーサーリは八大聖地の一つであり、ブッダが入滅を宣言された場所です。経典ではブッダはご自身で寿命を決めることができるとされています。ただし不老不死という訳ではなく、身体は老い衰えた状態で寿命が延びるそうです。
  ブッダはヴェーサーリの地で、アーナンダ尊者にブッダの寿命を延ばすか否かを暗に問いかけます。アーナンダ尊者は、以前にも似たような別の会話をブッダと話したのを覚えていました。その為、このときのブッダの隠れた意図を見抜くことができず、ありきたりな回答を行います。そしてブッダはアーナンダ尊者に退席するよう命じます。その後、悪魔(ヤーマ)が現れ、ブッダに涅槃を勧めます。ブッダはヤーマに従ったという訳ではありませんが、最終的に涅槃を宣言されます。
  その直後に天変地異が起こりました。何事かと驚いたアーナンダ尊者がブッダのもとに駆け寄ります。ブッダが天変地異はブッダの生誕、成道、涅槃の宣言、涅槃に入ったときに起こるものだとアーナンダ尊者に答えます。即座に状況を理解したアーナンダ尊者がブッダに宣言の取消をするよう懇願します。しかしブッダは、一度放棄した寿命の力は二度と戻らないことをアーナンダ尊者に伝えました。

  現在のヴェーサーリは、大きなアーナンダ・ストゥーパがあり、アショーカ王の石柱も設置されています。石柱の上には獅子が完全な形で残されており、現存するものでは唯一の完璧な獅子の形の石像です。ここでも聖地をぐるっと周りました。
  その後はガンジス川を渡り、パトナという地方都市に宿泊しました。

6.第6日目
  この日は竹林精舎で知られるラージャガハに向かいます。途中、ナーランダー大学に立ち寄りました。
  ナーランダー村に大学が設立されたのは、智慧第一と言われたサーリプッタ尊者の故郷であったのが理由と言われています。大学と言っても、現在は遺跡群で世界遺産になっています。西遊記で有名な三蔵法師も実際に学んだとされ、桁違いの頭脳でなければなかなか入学できなかったそうです。ナーランダー大学はかなり広大な遺跡群で、全てを発掘できておらず、未だに全容解明はできていません。敷地内にはサーリプッタ尊者の大きなストゥーパがあります。また三蔵法師が瞑想で使ったと言われている小部屋もありました。
  次に、八大聖地の一つで竹林精舎で知られる、ラージャガハに行きました。ここはコーサラ国と並ぶ大国であったマガダ国の首都で、国王であるビンビサーラ王はブッダと旧知の仲でした。王は竹林精舎を寄進し、祇園精舎と並ぶ教団拠点の一つとなります。
  現在のラージャガハの入口には竹林が植えられており、竹林精舎の名を裏切らないものでした。しかし昔からこんなにうまく竹が生えていたのかなと疑問を持ちました。竹林精舎内は一部工事が行われており、おそらく管理者が巡礼者の為に気をきかせて、綺麗に植えてくれたと思いました。また竹林精舎の中には池が佇んでいます。聖地にくると1周していましたが、ここにはストゥーパはないため1周するものがなく、来た道をそのまま帰りました。
  竹林精舎の近くには七葉窟があります。ブッダが涅槃に入られてから3か月後に、ブッダの教えを確認する為に500人の阿羅漢が集まりました。これを第一結集といい、七葉窟で行われました。バスの車窓から見たのですが、洞窟らしきいくつかの穴は分かりましたが、どれが七葉窟かよく分かりませんでした。
  それからビンビサーラ王の牢獄址に行きました。王にはアジャータサットゥ王子という息子がいました。王子はデーワダッタにそそのかされて、父親を引退させ王の座に座ります。それだけではおさまらず、父親を牢獄に入れてしまいます。しかし、牢獄でも父親が生気を保てた理由の一つが、歩きの瞑想でした。そこで父親の両足を切断し、これが原因で前王は死んでしまいます。ビンビサーラ王のように国王でありながら預流果に覚るというのは、非常に恵まれたような気がしますが、このような寂しい運命をたどるのは何か釈然としない感じがしました。
  現在の牢獄址はほとんど何もなく、レンガが四方に積まれているだけのものです。今の姿は、悲しい逸話と対照的で、これも無常の一つなのかと勝手に思いました。
  次に霊鷲山(りょうじゅせん)に行きました。ここはブッダが登った山で、デーワダッタがブッダを死に至らせようと石を投げ落とした逸話が残されています。大乗仏教ではブッダが法華経を説かれた地とされています。実際に歩くと約15分で山頂に到着します。辺りの風景を一望でき、眺めが良いところです。少し自由時間があったので、しばらく座ってサティを入れてみました。
  バスで移動し、夜にはブッダガヤーに到着しました。ブッダガヤーの大菩提寺(マハーボーディ・マハーヴィハーラ)は外部からのライトアップ鑑賞のみでしたが、明日内部に行くことができると思うと、心が楽しくなってきました。
  この日の聖地巡りが終わり、ブッダガヤーのホテルに宿泊しました。夕食にホテルでスジャータの粥が出されたので食べてみると、ミルク粥で結構美味しかったです。

7.第7日目
  朝食でもスジャータの粥を食べて、ホテルをチェックアウトしてからオートリキシャ(インドの三輪タクシー)に乗って、ブッダガヤーに向かいます。ブッダガヤーは四大聖地の一つで、ブッダが覚りをひらかれた地であり、最も活気ある場所です。
  ブッダが覚りに至るまでの逸話があります。村の富豪の夫人であったスジャータ夫人は長年、子供に恵まれませんでしたが、神々に祈りをささげてようやく子供を授かりました。そして神々への感謝を込めて、粥を作りました。この粥は、インドで神々の化身とされている牛の乳と米を白檀で炊いた特別な粥です。ちなみにコーヒーミルクで知られる会社のスジャータは、このスジャータ夫人が由来です。
  ブッダはサマタ瞑想や苦行を究極のレベルまで行っていましたが、覚りの境地を得ることができませんでした。苦行から何も得られないことを完全に理解したブッダは、それまで行っていた苦行を捨てました。その後、スジャータ夫人の召使がブッダを発見し、スジャータ夫人に報告します。スジャータ夫人は「私の希望が叶いました。あなたもこの食事を召し上がって、ご自分の希望が叶いますように」と、この特別な粥をブッダに勧めます。覚る直前のブッダにスジャータ夫人が食事の布施をしたことは、涅槃に入る直前にチェンダが食事を布施したことと並び、最高の布施とされています。
  粥を49口に分けて召し上がったブッダは、体力が回復します。その後、ガヤーの森に行きました。今回の瞑想で覚れるまで決して動かないと誓いを立てます。そして菩提樹の下でヴィパッサナー瞑想を行い、最終解脱に至ります。その後49日間、ガヤーの森に滞在されます。49という数字が2回出てきますが、大乗仏教で人が亡くなってから49日で法要を行うのは、これらが由来とも言われています。
  現在、ブッダガヤは整備されていて、街の名称になっています。その中で、ブッダが覚りをひらいた場所を中心とした関連施設が聖地としてのブッダガヤ、とされています。聖地としてのブッダガヤは全面土足禁止で、入口前で靴を預ける必要があります。また各国の巡礼者を見ていると、両腕でかかえるような大きなお供え物を持って入口に入っていくのが、多々見受けられました。自分も少しだけどお供えしたいと思い、入口前で物売りから小さな花を購入しました。
  午前7時過ぎにブッダガヤに入場しましたが、すでに大勢の巡礼者が詰めかけています。逸話ではブッダは覚ってから49日間、ガヤーの森に滞在しましたが、1週間ごとに森の中を移動していました。移動した場所はチェーティヤと呼ばれ、聖なる場所という意味です。チェーティヤは1週間ごとに変わり、第一から第七のチェーティヤまでがあります。
  最初に大菩提寺の周りを一周しました。第一のチェーティヤはブッダが覚ったとされる金剛宝座と菩提樹であり、大菩提寺を時計回りに周っていくと見えてきます。菩提樹のところで献花を行いました。次に第三のチェーティヤであるチャンカマナが見えてきます。チャンカマナはパーリ語で経行(静かに瞑想しながら反復歩行すること、歩きの瞑想)という意味です。
  その後、大菩提寺内部の金色のブッダ像に礼拝しようと並びました。そこでチベットの僧らしき人物が女性と口論となり、警備員に引き出されそうになっていました。聖地の中心で、お互いに怒りをむき出しにしているとは情けないと思いました。サティを入れることもなく、私の中で「音→怒鳴り声→聖地での無礼→情けない」という反応が、瞬時に立ち上っていました。その一方で、私が同じ状況ならば、「ぶつかった→怒り→聖地での無礼→イライラ(無言の怒鳴り声)」という瞬時の反応になっていたかもしれません。いついかなるときも、ありのままに感じる難しさと、反応系の修行を克服しなければならないことの重要性を感じました。
  ブッダガヤでも、旅行会社が手配した比丘がお経をあげてくれました。比丘のお経はサールナートと同じ感じでしたが、青空の下、ブッダガヤで座っているだけで心が澄んだ感じになります。それからツアーで坐禅の時間となったので、日本から持ってきた坐布で瞑想を行います。周りの喧騒が五感を通じて入ってきますが、不快な思いが生起されません。ここでは、あるがままを受け入れることができました。ツアーの坐禅の後に比丘に財施を行いました。比丘が受け取ったときに何も言わなかったので少しがっかりしましたが、ブッダガヤという最高の聖地で善業を行ったのだと自分を納得させることにしました。
  この後、ムチャリンダの池に行きました。第六のチェーティヤがムチャリンダです。ブッダがムチャリンダにいた際、インド全土で大雨が降っていました。ブッダが雨に濡れないように、コブラがブッダに巻き付いて、ブッダの身を守っていました。このコブラがムチャリンダ龍王(インドにおける蛇神の諸王)で、場所のこともムチャリンダと呼ばれました。ムチャリンダの場所は現在と異なる場所にありましたが、後世の人々が大菩提寺近くに池を作り、ムチャリンダの池と定めました。池の中央にはブッダとコブラの像が置かれています。私は、チューティヤの場所を変更してしまうのはどうかと思いましたが、ブッダガヤ内をコンパクトに周ることが出来るので、細かい疑問を気にしても仕方がないとも思いました。
  ここで団体行動がいったん解散となり、ブッダガヤ内で約20分間の自由時間となりました。このとき瞑想するか、ブッダガヤの中を散策するか悩みました。ブッダガヤには7つのチェーティヤがあり、第一・第三・第六のチェーティヤは行きましたが他のチェーティヤに行くのであれば、この自由時間を使うしかありません。半分を散策に使い、半分を瞑想に使うことも頭をよぎりました。しかし中途半端な時間ではどっちつかずになる可能性があります。観光に来たのではなく、瞑想を深める為に来たという原点を思い出し、全ての時間を瞑想に使うことにしました。
  先ほどツアーで坐禅していた場所が空いていたので、再び座りの瞑想を行いました。すると周りのドラやお経の声が騒音で聞こえますが、ほとんど気にならないくらいとても暖かい感じがしました。先ほど以上に心地良さを感じ、一日中瞑想していたいと思いました。あっという間の瞑想時間でしたが、これだけでも日本からわざわざ来た甲斐があったと感じる、今回で一番の思い出となりました。
  ブッダガヤに一日滞在したいという気持ちを残しながら、次にスジャータ・ストゥーパに向かいます。ここはスジャータ夫人の村で、ブッダに食事の布施を行ったことで、ストゥーパが残されています。ちなみにスジャータ夫人の親族は全員出家した為、財産は全て教団に布施されました。ここでもストゥーパを1周しました。
  この後はブッダガヤ市街地の仏像を販売しているお店にいきました。すでにルンビニで購入していたのですが、ブッダガヤで良いものがあれば、追加で購入してもいいかなと思いました。仏像は精緻に彫られており、品質はかなり良いものでしたが、お店と価格が折り合わず、購入を断念しました。
    それからブッダガヤには日本寺があり、大仏が建立されているところに行きました。現地にある大仏は大乗仏教のものであり、日本と変わらない姿です。どこか異国での懐かしさを感じさせます。その後、日本寺の本堂に行く途中に、日本寺が運営する慈善活動の学園がありました。たまたま、そこで働いている方と目があったのです。軽く会釈したのですが、何か力になればと思いました。インドに来てクシナーラをはじめ物乞いの人々に何かしなければならないと感じていましたが、物乞い個人個人にお金を渡しても更生にはならない気がしました。インドの物乞いは組織化されており、それをとりまとめるボスのような者が、分け前を取ってしまうのだそうです。このような状況の中、頑張っている施設であれば、布施する価値があると思いました。
  ツアーでは日本寺は自由散策となっていましたが、日本寺の僧侶の方が偶然本堂に来られました。有り難いことに突然来訪した我々ツアー客の為に、日本寺の歴史等の講話とお経をあげて下さりました。しかし僧侶と一緒に般若心経を唱えているうちに、心の奥でイライラが出てきました。原始仏教の瞑想を深める為にインドに来たのに、何故ここで大乗仏教の般若心経を唱えなければならないのかという内面的な怒りです。日本人僧侶の親切心に感謝する一方で、他宗派を否定する傲慢な考えがこのとき同時に生じました。布施したい気持ちは強くある一方で、比丘に布施をするのであれば原始仏教に基づくべきだと思い、学園への寄付に丸を付けず、わざわざ「四資具(衣・食・住・薬)」と封筒に書き、まとまった額の布施をお渡ししました。表層では日本人寺の僧侶に深い感謝を込めて布施を渡す一方で、僧侶に対しこれが原始仏教の正統な布施のやり方なのだと獅子吼する思いが心の深層でくすぶっていました。冷静に考えれば、僧侶に四資具をすること自体は良いことですが、それを相手に認めさせたいということとは別物です。また、布施を物乞いや慈善活動の子供達の為にという思いは完全に消え去っています。これでは怒りモード全開で、劣善そのものです。表面的にはとても良いことをしましたが、内面的には非常に後味の悪いものでした。
  昼頃にブッダガヤを出発し、バラナシに向かいます。バラナシまでは約260kmで、約10時間と一日で最長の移動です。夜にバラナシに到着し、市内のホテルに宿泊しました。

8.第8日目
  早朝、バラナシのガンジス川の沐浴見学に行ってきました。今回のツアーの中で、唯一の仏跡以外の観光地です。参加自由だったので、参加せずにホテルの部屋で歩きの瞑想と座りの瞑想により多くの時間を使うことも考えましたが、せっかくインドに来たので仏跡以外の観光地に行っても損はないと思い、参加しました。
  インドのヒンドゥー教ではガンジス川は聖なる川とされており、朝日が昇る前に川で沐浴するのが良いとされています。どこでも沐浴すれば良い訳ではなく、川が合流する場所が望ましいなどヒンドゥー教の教義があるそうです。ベナレスは沐浴に適した場所とされており、同時にベナレス最大の観光地とされています。早朝から観光客が続々と集まってきます。沐浴見学と言いつつも、観光客の方が多数で、インド人の沐浴者はそれほど多くはありませんでした。ガンジス川ではツアーが準備した船に乗り、ガンジス川の様子を一望できました。またガンジス川は火葬を行う場所でもあります。撮影は厳禁ですが、実際に火葬する場所まで船が近づき、死について考えさせられました。
  ホテルに戻って朝食を食べた後、サールナートに移動します。サールナートは初転法輪の地とされ四大聖地の一つで、ブッダが初めて説法をされたところです。ブッダは覚ったあと、誰に覚りの境地を教えようかと考えとところ、無色界禅定を教わった二人の師に伝えようと思いました。神通力で調べたところ、お二人とも亡くなっていることが分かった為、次に以前一緒に修行していた5人のもとに行きました。その5人はブッダが王子時代の縁者たちで、ブッダが覚るのを見届けるために出家していました。ブッダが苦行を止めたときに失望し、5人はブッダのことを仲間だと思わないよう、申し合わせていました。しかしブッダが来ると、各人が申し合わせを破り、ブッダの足を洗うなど世話をしてしまいます。そしてブッダとの歓談が始まります。5人はブッダと対等の言葉を使いますが、ブッダが5人と同格に扱われることに反対します。ブッダが覚ったことを伝えても5人は納得しません。そこでブッダが嘘をついたことがあるかと5人に問います。当時、釈迦族は高潔な民として知られていました。その中で最も信頼の高い王子が嘘をつく等、今までありませんでした。5人ははっと気づき、ようやくブッダの説法を聞くことに合意します。
  私は最初、この5人はブッダが覚ったと言っているのに何故信じないのか、ブッダが今まで嘘をついたことは無いと言って、初めて気づくのはブッダに大変失礼だと思いました。しかし「ブッダの聖地」を読み返していくうちに考えが変わっていきました。
  覚っているとブッダが言っても、根拠がなければ鵜呑みにしないという5人の理性の重要性がここで述べられています。5人がゴータマ・シッダッタ王子を尊敬していて、本人が覚ったと言ったから信じる、では根拠になりません。5人がゴータマ・シッダッタ王子が今まで嘘をついたことがないことを理解し、本人が覚ったと言ったから信じることで初めて根拠となります。
  世の中には、権威や著名だから納得してしまう場合が多くあります。しかしケーサプッティヤー村の逸話のように人が言ったから、伝統や聖典に書かれているからと言って鵜呑みにせず、きちんと自分で物事を確認することと同様に、この5人がその重要性を伝えてくれているのだと思いました。
  サールナートには阿羅漢たちの小さなストゥーパがいくつもあります。ブッダが、覚りに達した人々の骨はちゃんとストゥーパを作って安置するよう示されたことで建てられました。また高く大きなストゥーパがあり、これはブッダが初転法輪をされた場所で、静かにたたずんでいます。ここでも1周しました。
  その後、サールナートの近くにあるムーラガンダクティ・ヴィハーラ(転法輪寺)に行きました。ここは日本人がフレスコ壁画を描いたところで有名です。戦前のものですが緻密に描かれており、ブッダの一生を絵画から学ぶことができます。
  昼食をホテルで食べた後、バナラシから国内線に乗る為に空港に向かいます。エアインディアは搭乗1時間前の締め切りですが、1時間前にファイナルコールと言われ、催促されます。いくらなんでも早すぎると思いつつも、なんとか搭乗します。すると出発の40分前に航空機が離陸しました。普通は予定時間より遅れることはあっても、時間前に飛び立つことを経験したことがなかったので、エアインディアの対応に驚きました。その後、夜にデリーで成田空港行きの国際線に乗り継ぎました。

9.第9日目
  早朝に成田空港に無事到着し、自宅に帰りました。振り返ってみると、身体的には結構疲れた一方で、聖地巡りに思い切って行くことができて良かったと思っています。
  ブッダが「信仰心のある良家の子には、次のような四つの、見るべき、畏敬の念を起こしうる場所があります」と言って、四大聖地を挙げられています。ブッダは「私を拝みに来なさい」と言っているのではなく、「これらの場所にちょっと来て、ゆっくりして、実感してください」という気軽な感じで提案しています。
  もしヴィパッサナー瞑想を通じて仏教に関心を持ったのであれば、行く価値はあると思います。最近の書籍や映像で現地の様子は分かるようになっていますが、ブッダガヤの瞑想の様に現地に行ってみて初めて感じることのできる、あの暖かさを是非実感してほしいと思います。
  今回の聖地巡りのご報告が、皆様の今後の修行にお役に立てれば幸いです。(完)

出典:ブッダの聖地(サンガ文庫)



 

『心と向き合って -赦し、懺悔、そして慈悲の修行へ-』 匿名希望

  私がヴィパッサナー瞑想に出会ったのは10年ほど前になります。当時、合宿へ参加したり、地橋先生の指導を受けたりした後に環境が整い始め、そのため苦が少なくなってくるとモチベーションも下がりだし、数年の間仏教から離れてしまいました。
  そのうち、無常に変化していく人生の中で再び苦が生じ始め、やはりもう一度仏教を学びたい、今度はやめずに続けたいと思うようになりました。そこで、朝カルに通うというルールを自身に課し、今度は真剣に修行に取り組もうと決心をしました。以下はそのレポートです。

赦しの瞑想に取り組む
  修行を再開し、これまでの生き方を振り返りました。そしてサティよりもまずは反応系の修行を徹底的にしなくてはと思い、取り組んだのは赦しの瞑想でした。なぜかと言うと、先生の「許し」と「赦し」は違うという朝カルの法話を聴いて心に響くものがあったからです。
  私はこれまでの人生で、「承認」のような「許し」はしてきたつもりでしたが、私に対して明らかな害や屈辱を加え、こちらに怒りの感情を生じさせた人に対しては、「赦す」ということは全くしてこなかったと痛感したからです。今まで私が「ゆるし」てきたのは、積極的に自らの意志でそうしたのではなく、「まあ、仕方ない。許してあげよう」程度の、自分が上に立つような感覚からのエゴ的な「許し」にすぎませんでした。
  自分の罪を懺悔し、赦しを乞うとともに積極的に隣人の罪を赦すというような、ダンマに基づいた「赦し」に触れたのは今回が初めてでした。そこで、法話を聴いた翌日から、赦しの瞑想と懺悔の瞑想に毎日取り組みました。
  赦しの瞑想はなかなか思うように進展はしませんでしたが、ある日の瞑想中に怒りと憎しみに満ちた自分が他者を睨みつけている顔のイメージ(ヴィジョン)が浮かび、同時に、「人を憎み、恨んでいる自分は、醜くて無様でみじめだ」という、内語のようなものも浮かんできました。
  これまで私が赦すことが出来ないできた人物のなかには、他人に対していつも憎しみの波動を出し、怒り散らしているような人がいました。そういうタイプの人に出会うと、これまでは反射的にこちらも臨戦態勢に入ってしまい、喧嘩波動、怒り波動で対抗していたのが現実でした。今になってそれは過剰反応だったと言えるように思っています。
  どうしてそんな反応が起きるのだろう、その理由は?と真剣に考えました。そうすると、慈悲の瞑想を定期的に行っていたことで人間関係も良くなりはじめ、介護職という仕事柄、「あなたは優しい人ね」と言ってもらえる機会も増えた私にとっては、自分が潜在意識で他者に対して憎しみや怒りや嫌う心が強くあるのは明らかに目を背けたくなる事実だったからではないか、と気づきました。またそうして赦しの瞑想と並行して心随観の修行を行っているうちに、自分に怒りの波動が出てしまうのは、それから目を背けるばかりではなくむしろ抑圧しようとしていること、加えて自分の闇をその相手に投影していたためではなかったかとも思い至ったのです。
  こうして赦しの瞑想にも次第にすなおに取り組めるようになっていきました。
  その理由の一つは、ヴィパッサナー瞑想を続けていることがきっかけになって、人生や心が整いはじめたからではないかとも思います。たしかにここ数か月は、家族と過ごしながら幸せだと思うことや、仕事でやりがいを感じることも増えてきました。そのため、たとえ自分の醜い心を随観しても、以前のように必死に目を背け、蓋をしなくてもいられるような心の余裕?環境的な余裕?が出来てきたのではないかと思っています。そして、公私ともに今以上に良い人生を歩んでいくには、これまで目を背けてきた他者に対する憎悪や嫌う心、恨み、復讐心を自分でしっかり認識し、それらを仏教徒として手放していく決意が必要だと思うようになりました。
  おそらく今のままでも、たとえ浮き沈みがあったとしてもそれなり幸せな人生も送れるのかも知れません。しかし、朝カルに通い続けるというルールを自ら定めることで「法(ダンマ)」に触れる仕掛けが出来たせいか、上辺だけではなく、もっと根深いところまでの心の便所掃除がしたいと思い始めました。
  また上に述べたようなヴィジョンが浮かんでからは、人を憎んでいる自分に気づくと、すぐにその自分の姿を思い浮かべるようにしています。そして、「こんな自分は嫌だな。無様だな。できれば憎みたくないな。どうすればいいだろう?」と考えるようになり、その後で瞑想をすると憎しみや嫌悪の心が少なくなっているという当たり前の事実に気づくようになりました。
  こうして心の変化を観たり感じ取ることが出来てきてからは、「やはり瞑想をしなきゃ」と意欲も沸き、また、「瞑想をもし止めてしまったら、醜い汚れた憎む心がまた強まってしまうかも知れない、それは怖いな」とも思うようになりました。
  たしかに、毎日赦しの瞑想を行って「赦し」を心がけていても、日々の生活の中では怒りや憎しみの心が湧いてきてしまうことがあります。それは事実です。しかし、これまでのようにそれから目を背けたり抑圧したりするのではなく、「まだまだ憎しみや嫌う心の反応が根深いな。なんとかしなきゃ」と思うように、少しづつではありますが反応も変わってきました。
  ある日、仕事で些細なケアレスミスをして家に帰ってきたことがありました。これまでだとそんな時には自分を責めたり後悔することが多いのですが、その日は、「こんなに他者を赦そうと努力しているのだから、自分のことも赦してあげればいいじゃない?」というメッセージのようなものが心に浮かんできました。その時には、自分のミスから逃げたり後悔するのではなく、反省した上で気持ちを切り替えられるような気持ちになり、同時に、他者を積極的に赦そうとすることではじめて自分のことも赦せるようになってきたのだなと腑に落ちました。また、これまで積極的に懺悔の瞑想をしてきてもあまり心が変わったような効果を感じられなかったのは、自分が赦されることばかりを望んで、他者を赦そうという心がほとんどなかったからではなかったか、そのこともまた実感されました。
  今は、以前にヴィジョンで見たような、人を憎み続け自分も責め続けるような人生はもう終わりにしたい、そのヒントがヴィパッサナー瞑想にはあるはずだから修行したいと、心から思っています。

  実はこんなこともありました。赦しの瞑想を始めたころ、集中してやり終わった後に心は軽くなったのですが、何故か自分がとても無防備なってしまった感じで、心細いような怖いような気分になったことがあるのです。例えるなら、今まで憎い相手に対してこちらも敵愾心をもって刃(やいば)を手にして立ち向かっていたのに、急にそれを捨ててしまったような感覚です。相手を赦すのは良いけれど、それを機会に憎い相手が自分に攻撃をしかけてくるのではないか? 敵愾心や憎しみを捨ててしまって自分の身を本当に護れるのだろうか? そのような恐怖感でした。そんな気持ちになったのは初めてでしたが、それでも私はそのまま赦しと懺悔の瞑想は続けていきました。

変化

  変化が現れたのは、会社での人間現関係においてです。
  以前なら、これは絶対にムカムカしたり嫌っていたに違いない他者の行動を、反応せずに受け流し、手放すことができる頻度が増えてきました。ちょっとしたことに対して刃を向けて戦闘態勢に入っていた自分が、その刃を鞘に納めたまま自分と他者を観察できるようになってきたイメージです。それはまた、他者の行動に反応し、蒸し返して怒り続けるよりも、手放した方がはるかに自分にとって楽なのだという視座が新たにインストールされたような感じでした。
  もちろん、まだすべての状況でそうしたことが観察できるわけでなく、嫌悪や怒りが出てしまうこともありますし、また、「戦闘態勢にならなくて大丈夫かな?」という恐怖感や違和感も少しは残っています。ですが私は、こうした恐怖感を自覚することで、他者を赦す修行をする以前には「赦し」という鞘をもたずに怒りという刃をいつも手にして家族や職場の人たち、そして友人ともずっと接してきたのだなとわかり、ショックを受けました。
  また私はこれまで、この人は優しくて素敵だなと感じたり、また仲良くなりたいと思った時に、なぜか空回りしてしまってうまくコミュニケーションが取れなかったことが多くありました。なぜそうなったか。それは、特定の誰かに怒りの刃を向けながらそれを手にしたまま、それとは関係ない人とも接していたのだな、また、潜在意識のレベルでは向けるべきでない相手にも怒りの刃を向けてしまっていたのではないか、と気づきました。そのため、私が仲良くなりたいと思った人でも誰かを憎んで刃を握っている私に気づき、自ずと距離を置くようになってしまっていたのだと思い至りました。まだ完璧に刃を捨てるまでにはなっていないのですが、赦しの修行を実践することで怒りの刃を鞘に納めた状態で他者と接することもできるようになり、自分自身が楽になったと最近では実感しています。
  このように、憎んでいた特定の人に対して赦せるようになっていったことで、そうでない人とも接しやすくなり、また自分が楽になったのを実感できたことも、私がこの赦しの修行をもっと深めていきたいと思う強い動機になりました。
  でも、赦しの瞑想に取り組めば取り組むほど、今まであえて観ないようにしていた憎しみや嫌う心にサティが入ります。そのことからも、これは短期間で終わる修行ではなく、これからの人生を通して10年、20年と続けていかなければいけない修行だと痛感しています。

懺悔の瞑想
  赦しの次に私が取り組んだのは懺悔の瞑想でした。
  実は、その懺悔の瞑想と並んで心随観の瞑想をしている時に、不善心に鋭くヒットした気づきがあったのです。それは「自己欺瞞」という言葉でした。
  坐っているうちになんとも言えない重苦しい気持ちになり、サティを試しているうちにハッと衝撃を受けたのがこの言葉です。「自分は、自分を抑圧し偽っていた」こうはっきり理解しました。この言葉が出てきたのは、自分の思うところでは、懺悔、悔い改め系のキリスト教関連のウェブを読んでいたこと、そして朝カルで聞いた「アングリマーラ経」の法話の影響が大きいのではないかと考えています。
  ではなにをもっての「自己欺瞞」なのか、なぜその言葉がヒットしたのだろうか、です。それはおそらく、仏教から離れてしまって段々と心が汚れていき、煩悩を抑制しようとしないまま身口意で不善業をおかしたりしたこと、そしてまたそれから目を背けたり誤魔化したりしていた自分自身の在り方だったと思います。致命的に世の中の法に触れるような悪事を行ったわけではなくとも、再び瞑想を始めたことで、振り返って「あれは不善業だったよな」というような過去の行動が数多く思い出されてきました。
  当然ではありますが、仏教から離れていたころの私の人生は、緩(ゆる)やかに苦に満ちた方向に向かっていっていました。そのころには、実は頭ではこちらが悪いとわかっているのに、「あの時は周りがああいう態度をとったからだ」とか、「自分だけではなく外部の環境にも原因がある」と誤魔化していたのです。「自分は悪くないし汚れてもいない」「たとえ汚れていたとしても周りも一緒だし・・・」「自分よりもっと汚れている人もいるじゃないか」と。
  しかし仏縁を戻そうと決心し、朝カルを受講して仏教を学べば学ぶほど、本当は不善なカルマを作っている自分のせいで心が汚れていったために人生が苦しくなっていったのだと洞察され始めました。もちろん客観的な観方がきちんとできていたなら素直にそれを認めなければなりません。でもその時は、それでもなおエゴが抵抗して抑圧していました。
  ブッダに帰依したアングリマーラが改心し、未来へ向けて善を積んでいく法話が心に響いたのはその時でした。
  「愚かな自分を認めてしまおう。そして、悔い改めよう」「アングリマーラのように仏教に信を定めてからは、罪を犯していませんと言えるような人生に変えていきたい」と思うようになりました。
   また、「赦しよりも懺悔の瞑想のほうが大変なんですよ」という先生の言葉も自分を後押ししてくれました。それまでは、「自分が汚れるのは成育歴や環境のせいであって、それを赦さなきゃ」という考えにとらわれていた構造もわかってきました。
  確かに、人は親や周囲の影響によって作られると説く文献は多くあります。でも私は、その悪い環境や人に対して赦しの瞑想を心の底から続けているうちに、「なんだ結局悪かったのは自分ではないか」と思い知り、まさに、「ついにバレてしまった」というような心境になりました。「やはり、自分の汚れた心を作っているのは自分でしかなかった。そのことを知りたくないとエゴが抵抗していたのだな」と悟ったのです。
  「サティからも反応系の修行からも遠ざかり、受けた刺激に煩悩のまま反応していた期間があったんだから、そりゃカルマは悪くなるよな」
  「刺激を与えたのは他者や外部環境でも、その反応は自分がしたものだし、人にさせられたわけではないよな」
  このことは、朝カルで、六門から受まではブッダも誰でも同じ、そこからの反応が違うのだという基本を再確認した時にも思いました。環境にどう反応するのかは、周囲でなく自分自身なのだと。
  仏教に縁を戻そうと修行に真剣に取り組んでいなければ、なんとなく誤魔化しながら生きていけたかも知れません。でも、修行を重ねているうちに、もうこれ以上自分を誤魔化せないぞと理解され、それが「自己欺瞞」という言葉に繋がっていく流れになったのだな、と、今文章を書いていて再び強く感じます。また、文言を繰り返すだけでも「赦し」と「懺悔」の瞑想を毎日続けていたのが功を奏したのだなとも思いました。
  こうしたことに気づいた後、私の懺悔の瞑想の文言は次のように変わりました。
  「私は自分の弱さから仏教を離れたのを、周囲の人や環境のせいにして身口意で不善なことを沢山しました。また、仏教の法や因果論に疑いを持ちました。愚かな私をどうかお許しください。これからは悔い改め生活を正して生きていきますので仏教から離れないようにお導きください」
  本当にそう思います。
  ある日懺悔について調べていると、キリスト教の「懺悔・悔い改め」の教えが見いだされ、それもまた心に響きました。その解説では、キリスト教の懺悔というのは、①.罪に気づき認める、②.罪を告白する、③.罪について悲しむ、④.罪を繰り返さないと悔い改める、⑤.罪を悔い改めた行動を実行する、⑥.罪を悔い改めた行動を維持する、ここまでがセットだそうです。
  懺悔とは生き方を変えること、悔い改めることであって、罪を犯したことに対して悲嘆に暮れることではないと言うのです。悔い改めることこそが重要なのだとそのキリスト教の教えには書かれていました。これは、地橋先生の法話の、懺悔し、視座を変え、善の総力戦で生き方を変えるアングリマーラの話とセットで私の心に衝撃を与えました。
  私は悔い改めたいと心の底から思いました。
  「汚れてしまった生き方と心を綺麗にしたい、あきらめたくない、心から懺悔して生き方を変えたい。変えなければ、このままズルズルと汚れを隠し、なんとなくは幸せだけどすっきりしない人生を送って死ぬだけだ」という恐怖感も生まれました。また、倫理的にも正しく生きていきたいと思いました。
  「再度仏縁に触れたことで今は認知の視座が変わってきている。それを身口意の行動レベルで現さなければ意味がない」とも考えました。そして、「そこから離れずに維持していきたい」と。
  自分の非を懺悔して、生き方を変えようと強く思った時に、心が爽快になり、すっきりし、軽くなった気がしました。当然、瞑想にも以前に比べて身が入るようになり、幸せだなと感じることが増えていきました。

執筆へ
  その後、参加させて頂いた1day合宿で、これまでの経験をふまえてレポートにまとめて報告したところ、先生から褒めて頂き、同時に「Web会だより」への執筆を依頼され、二つ返事で快諾いたしました。その時は褒められた嬉しさもあり、「文章を書くのは嫌いじゃないから大丈夫! 今は苦も減ってとても幸せだし、きっといい文章が書けるはず」と当初は考えていました。
  しかしいざ書こうとすると、なんだか気分が乗らないなという思いが起こり、ズルズルと書くのが先延ばしになって、締め切りの日が近づいて来てしまいました。で、思い直して、「よし書こう!」と書き始めてみても、どうしても途中で何かが違う感じとなり、書けなくなってしまう日々が続きました。書きたくないわけではないのに、書こうとすると筆が止まってしまうのです。
  そんな状態でも私は、この心のありようを深く洞察することを避けてしまいました。そして、これは自分に執筆するだけの徳がないからだと考えたのです。
  「私は自分の苦をなくすことばかりを考えて修行をし、利他業をして徳を積んでこなかった。そうだ執筆は徳を積んでからにしよう。そしてそのことを書かせて頂こう」と思いました。そして先生には、「書いてみたい」という本心から目を背け、執筆のお断りのメールを書きました。
  先生から、返ってきた答えは、
  「徳を積んだ自分の体験を書きたい。それは典型的な劣等感からくる自己承認欲求の現れです。自分の自慢話をするようなクサイ話を書きたいのですか?」という厳しくも的確な指摘でした。
  この厳しい言葉を受けた時、ショックと同時に何故かスッと腑に落ちる感覚を覚えました。おそらくそのころの私は、力を込めて赦しと懺悔の瞑想をしていた結果、次第に周囲との関係が調和的になってきたため、心理学者マスローによる欲求階層説の、いわゆる社会的欲求が満たされつつある状況だったのだろうと思います。
  そして次には、「何か価値あることをしたい!」「自分の達成した成果を認めてほしい!」という自己承認や自己実現の欲求が表出し、そこから、苦と向き合いながらもがいていた過去の自分は褒められるようなものではないし、もうあまり見せたくないという、どこか慢に通じるような心が生まれて執筆を中断してしまったのだと痛感しました。そして自分の心の中を冷静に見つめてみると、執筆するならこの修行の取り組みを価値あるものとして書きたいという自己顕示欲があること、また潜在意識ではそれに気づいていて、「それは違うだろう」という葛藤のようなものが生じており、心が揺らぎ続けていたのだと理解できました。

慈悲の瞑想へ

  このような諸々のことから、自分の中に強い劣等感や承認欲求があるのは母に褒められなかった過去が関係していると考え、地橋先生に相談すると、「それなら人を褒めたり、認める修行が必要です」との言葉を頂いた私は、人を褒め認めるには、「まずは自分も含めた人々の幸せを願うことから始めねば!それならば基本である慈悲の瞑想しかない!」と考えました。
  偶然その時読んでいた上座仏教の比丘の本に、「朝出かける前に慈悲の瞑想をすると一日が穏やかに過ごせるようになります」と書いてあるのを見つけ、毎朝の瞑想を慈悲の瞑想に充てることにしました。
  まずは、劣等感の強い自分自身への慈悲の瞑想を真剣に行い、そして、家族、友人、法友、職場の同僚、嫌いな人々と順々に広げていきました。会社員である私は特に、当然苦手な人もいる職場の同僚には意識的に強く慈悲の瞑想を行いました。好き嫌いを問わず慈悲の心をもって接しなければ、他者を認めたり褒めるのを習慣とすることなど到底出来ないと思ったからです。
  ところが、最初に効果が感じられたのは意外にも自分自身への慈悲でした。「私はまだ未熟で劣等感や承認欲求も強い。でも、それが今の『あるがまま』だ。そんな自分にも幸せを願おう」と思えるようになったのです。
  このように修行を続けているうちにまた発見がありました。それは、自分が仏教から離れた期間を取り戻そうと、本を読んだり瞑想する時間を増やそうと必死になるあまり、自分を美化したり聖者コンプレックスのような状態になっていたんだなと気づいたことです。自分なりに修行を積み、先生にも褒めて頂いたことで、私は仏教徒でそれなりの修行を積んでいるんだという慢心が現れ、瞑想者である自分のあるべき姿はこうでなければならないというような妄想を抱き、それが知らず知らずのうちに本当の自分との乖離を生んで苦しくなっていたのだなと自覚されたのです。
  このことに気づいた時には、懺悔の瞑想をした時のように心が軽くなる感じがありました。そして、「瞑想修行に取り組む人間にはこういうことはよく起こることだと、確か本で読んだことがあるな」と思い、そんな状態になった自分を素直に認めようと、これも受け入れることができました。
  慈悲の瞑想をすると未熟な自分でも認めてやることが出来、受容的で優しくなれ、それに加えてその気持ちを周囲にも同じように広げられるんだなと感じました。悩んでいた時に先生から教えられた、「まずは堂々と自分の幸せを願いなさい。そして、自らを清めてから他を清める順番です!」という言葉の意味がすっと腹に落ちました。
  自分で自分を認めてやる。すると他者への祈りも義務感のようなものでなく、少しづつですが、祈りたいなという優しい気持ちになっていきました。その結果、周囲との関係性の中で変化も生まれました。それは、他者を「積極的に褒め」たりするようなことではなく、他者への怒りや怨み、復讐心のような悪い気持ちを「自然と手放しやすくなった」ことでした。かつては、人から悪意のようなものを向けられるとこちらの劣等感からか感情がストレートに刺激され、「何だとっ!」という怒りの心が即座に立ち上がり、それに巻き込まれて気づきを失い、手放せずにいたのです。自分ではそれをどうにかしたいなと思いながらもできなかったのですが、このごろは少し手放せるようになってきたなと感じています。
  この些細な変化が現れただけでも周囲との摩擦が減ってきました。そして、自分でも気持ちが軽いし、なんか笑顔になれる時間が増えたな、鏡で見ても表情が柔らかくなったなとも思えます。それが他の人にも不思議と伝わるのか、職場で人に話しかけられたり、親切にしてもらえることが増えてきました。また自然と良い縁にも触れたり、忙しさから疎遠になりかかっていた学生時代の友人たちと関係が戻ったり、仏教の話ができる法友もできました。
  地橋先生は「瞑想をすると人生が変わる」と言われていますが、人生が変わるとは、世界が変わるのでなく、自分自身の心や考え方や視座が変わることなんだなと考えが及ぶようになりました。また、この瞬間瞬間にも自分は変化し続けている、悪い反応をするか善心所で反応するかでこれからの人生が変わっていっていくのだと、法話で繰り返し教えて頂いたことが少しづつ体感出来るようになりました。そしてこんな変化を、不善な方向にではなく、清らかな善なる方向に向けるための方法がブッダのダンマと瞑想にはあると、これが私が修行を通して確信することになったひとつの検証ではないかと思っています。
  そして今思うことは、まだまだ未熟で弱い心のある私は、朝カルに通うことやさまざまな媒介を通して法話に触れること、そうした仏教から離れないための仕掛けを自分で意識して作らなくてはならないんだな、そこも含めての瞑想修行なんだな、と言うことです。
  自分は独覚タイプではなく、周囲の影響を受けやすいので、周りの方々との縁を大切に、仏教の修行を通して、残された人生と自分自身を善なる方向へ変容させていければと強く思っています。(完)


 
 

『私にとってのブッダの教え』 Y.Y.


それでも地球は回っている
  地橋先生の朝日カルチャー講座に通い始めてしばらくした頃、最後の質疑応答で、「心を浄らかにするには、如理作意が何よりも大事」というアドバイスを頂いたことがあります。如理作意というのは、パーリ語でヨニソ・マナシカーラと言って、その意味は「理の如く心のドミノが倒れていくこと」だそうです。外界から心に情報が入った瞬間、心のドミノが欲望や嫌悪や煩悩の悪い方向へパタパタと倒れていきがちですが、それを「真理の方へ」「善なる方へ」「真の原因の方へ」正しく倒していくのが「如理作意」だといいます。
  仏教の因果法則から言えば、理に叶うように冷静に分析し、因と果の面から正しく考えていくことだろうと思い、やってみました。当時の私の悩みの種に対してです。なぜなら、悩みの種を思い浮かべるだけで苦を感じていたからです。
  そこで、「この苦の原因は何か?」「どうして私はこのことを考えると苦を感じるのか?」「苦を感じている時の心と身体の状態は?」「どんな欲や執着がこの苦を生み出しているのか?」等々・・・、しっかり考えました。
  そして発見しました。「無常や因果法則を受け入れきれていないから苦を感じている」ということを。
  気に入ったものごとはずっとそのままであって欲しい、ものごとは自分の願い通りになって欲しい、心の底でそう思っていました。しかし、当然そうはなりません。だから苦を感じていた、ということでした。
  「結局、因果法則しかないのですよ」という有名なお坊さんの言葉を思い出しました。世界は因果法則だけで回っていて、私の願いや都合なんてどうでもいいことだったというわけです。私の願いや都合、そんなものはそもそも因果法則から見たら塵や埃みたいなものでしかありませんでした。ちっぽけな私の思惑など完璧に無視されて、因果法則だけが平然と作用していく・・・、ここはそういう世界なのだと。
  因果法則や無常を受け入れられないと言うことはどういうことなのか・・・? それは、地球の自転を止めようと素手で地面を必死に押さえているようなものだったということです。ということは、「期待通りにならない」と腹を立てるのは、「なんで太陽は東から昇るのだ!私は北から昇って欲しいのにっ!!!」と騒いでいるようなものでしかなかったわけです。
  こんなことがだんだんわかってきてからは、「ずーっとバカなことをやって来たなぁ・・・」と思えてきて、願い通りにならないことに腹を立てたり悲しんだりしていることに気づいた時には、必死に地球を抑えている自分の姿を想像します。すると何だかバカバカしくなって、「しょうがないな〜」という諦めの気持ちが出てきます。
  こうして私は因果法則にパタパタと白旗をあげることにしました。以来、私の苦はかなり減ったと実感しています。

心の水やり

  「いいですか、悟れるのは人間に生まれた時だけなのですよ! 人間に生まれるのはなかなか難しいのです! 次はどんな生命に生まれ変わるかわかりません。だから、人間でいる間に悟りを開かなければならないのです! 頑張ってください!!!」と、最初の仏教の先生に言われました。
  単純な私は、「そ、そうなのか・・・じゃあ頑張ろう」と、かなり真面目に修行していました。毎日1時間歩いて、5分立って、30分坐って、と。仏教の本を読み、合宿にも参加しました。
  しかし何だか変なのです。一所懸命頑張れば頑張るほどものごとが空回りして、変な方向に進んで行きました。老人介護のストレスも加わってノイローゼ状態になってしまったのです。
  そんな時、アーチャン チャー大長老の本を読みました。そのなかには、こんなことが書かれていました。
  「私たちは自分で植えた木の成長をコントロールすることができないように、智慧の果実がすぐになるか、ゆっくりなるかをコントロールすることはできません。智慧の木は、自分自身のペースで成長します。あなたの仕事は穴を掘り、水や肥料をあげ、木を虫から守ることです。それがあなたの仕事であり、信(サッダー)なのです。しかし、木の成長の仕方は、その木次第です。もし、あなたの修行がこのようであるなら、すべてはうまくいき、自身の木は育つと確信することができます。
  このように、私たちは自分の仕事と木の仕事の違いを理解しなければいけません。木の仕事は植物に任せて、自分自身に責任を持ってください。もし、私たちが何をすることが必要なのかを知らなければ、一日で木に花を咲かせ、実をならせようと無理強いすることになってしまうでしょう。これは間違った見解であり、苦しみを生じさせる主たる原因です。ただ正しい方向性に則って修行をし、あとはあなたのカルマに委ねなさい。そうすれば、一回の、百回の、千回の生を経てかは分かりませんが、あなたの修行は、やがて平安へと達するのです」(増補版『手放す生き方』、サンガ出版より)
  今から思うと私は「欲」で修行していました。種を蒔いたばかりだというのに、まだ実がならないと怒っていたのです。「悟りたい。解脱したい」と、修行を始めたばかりにもかかわらず、大それた目標を掲げてしまっていました。
  「そう、私は庭師なんだね。毎日丁寧に木に水をやり、色々お世話をするだけ。木の成長は木に任せて見守るだけ。文句言っちゃいけないのね」
  そう反省しました。
  「空手の時と同じなのかも・・・」
  今ではそう思っています。
  「昇段したい、黒帯が欲しい」
  そう思っている間は昇段の話は全然ありませんでした。
  「もう帯なんて何色でもいいや。ピンクでもシマシマでも水玉でも。私は空手が好きでやっているんだもの」
  「一所懸命に稽古して、昨日より今日、今日よりも明日、少しでも強くなれたらそれでいい。帯なんて何色でも良いから、空手着が乱れないように一本紐があればそれで十分」
  そう思い直して楽しく稽古を続けていると、ある時、昇段審査を受けさせて頂けることになりました。空手を始めて10年後でした。
  今は、悟るとか解脱とか、そういうことは考えず、空手の時と同じように、「昨日より今日、今日より明日、心が少しでも清らかになれたらそれでいい」、そう思って修行しています。
  「瞑想は心の歯磨き。毎日コツコツ磨きましょう。やらないと心が汚れてしまいますからね」
  そんな感じです。決死の覚悟で修行に邁進するより、こちらの方がのんびり屋の私には合っているようです。
  コツコツ稽古していたら気がつくと黒帯を締めていた。仏教の修行も、気づいたら悟っていたというふうになれたら良いなと思いっています。(そうなる前に、あと何百回 何千回と生まれ変わる必要があるだろうとは思いますけれど・・・)
  とりあえず今しばらくは、虫歯にならないよう心の歯磨きをコツコツ頑張ろうと思います。

「私」の引き算
  ある日、ふと昔の不快な出来事を思い出しました。数年前、ある人にちょっと失礼なことを言われた時のことです。
  「そういえば、あの時あの人は私にこう言ったんだっけ・・・」
  すると 当時の情景がまざまざと甦り、何やらムカムカと腹立たしい気分になりました。
  私はちょうどその時、自我や無我についての本を読んでいたので、「そうだ、私という言葉を消して言い直してみよう!」。そう思いついた私は、頭の中で文章を書き直しました。「あの人は私にこう言った」というのを、「あの人はこう言った」と、「私」を削除してみました。
  すると、「あら不思議・・・!」、全然腹が立たないのです。そしてこちら側は、「何を言うかはその人の自由だから、別に・・・・・・」という気分になってしまいました。
  「あの人はあの時こう言った」
  ただそれだけです。どうと言うこともなく、まったく怒りの感情が出てきません。
  「私」という一文字を削除しただけで、嫌な出来事の記憶はただのニュートラルな過去のデータの一つになってしまいました。
  「これは使えるかもっ!!!」と、それ以来このやり方を愛用しています。
  たとえば、私の料理を家族が残した時には、「私が折角作った料理を家族が残した!!!」と思えば腹も立つでしょうが、「家族が料理を残した」と言い換えると腹が立ちません。お腹があまり空いてなかったのか、量が多すぎたのか、他の何かかな・・・?と軽く流すことができます。「家族は料理を残した」ただそれだけです。
  挨拶して無視された時も、「あの人は私に挨拶しなかった」ではなく、「あの人は挨拶しなかった」それだけ。私の声が聞こえなかったのかもしれないし、挨拶が苦手な恥ずかしがり屋さんなのかもしれないし。腹はまったく立ちません。
  足を踏まれたとしても、「あの人が、私の足を踏んだ!」ではなく、「あの人は踏んだ。痛み」でおしまいです。
  よくよく考察してみると、頭の中で 「私が〜!」「私の〜!」「私に〜!」と叫んでいる時はぷんぷんモードになっていたことがわかってきました。
  「怒っているのはつまりは『自我』なんだ。『私』のひと言を取っちゃえば自我の奴は出て来られなくなるんだね、ウシシシシシ・・・」
  以来、私はこの方法で怒り撃退生活を送っています。
  長年複雑に絡み合ってしまっているような複雑な問題には効き目は落ちますが、日常の些細な出来事には絶大な効果ありです。
  ご興味があったらぜひ一度試されたらいかがでしょうか。

さんちゃん すごいね!
  私には、「この人もしかしたらすごい人なんじゃないか!!!」と、密かに思っているお笑い芸人がいます。その名は明石家さんま!!
  たまたま見たテレビ番組で、さんちゃんはこんなことを言っていました。
  「すごく腹が立つことありますか?」と言う質問に、
  「ないないない。人に対して嫉妬心がないから。自分も過信してないし。なんやねんこいつ、と思うことはあるけど、すぐ『こいつアホやねんな』と思う。人に腹を立たす奴ってアホ。人に怒らす奴ってアホ」
  「ふーん、人に腹を立たせたり怒らせたりするのって、アホかぁ・・・。ちょっと面白い考え方だけど、慢だなぁ」と、最初は思いましたが、「いや待てよ、これはもしかしたら仏教的にすごく当を得ているのでは?」
と思い直しました。
  アホ・・・これを仏教用語に置き換えると、無明、貪瞋痴の痴・・・・でしょうか。ということで、「こいつアホやねんな」を仏教語に翻訳すれば、「この人は無明の闇に覆われ、貪瞋痴の三毒がかなり回ってしまっていますねぇ」となります。
  人間社会で暮らしていれば、時として嫌な人に出会うことがあります。そんな時、仏教を知る前の私は「怒り心頭!」「ぷんぷんぷん!」となっていましたが、今は、ちょっと深呼吸して考えます。「この人、毒がかなり回っちゃてる・・・」
  そして、因果法則に則って如理作為を試みます。
  「今腹を立てると私の心が汚れます」→「心が汚れるといつまでも輪廻の輪を苦しみながら回り続けることになります」
  仏教娘の私がプンプン娘の私にこう問いかけます。
  「本当にこんなことで輪廻の輪っかを回り続けるつもり?」
  「今怒ると、この人がアホ(無明)なことが原因となって、今度はあなたが永遠に苦しみ続けると言う結果になるけれど、それでいいの? それ、何だかおかしくありませんか?」
  「アホなのはこの人なのだから、輪廻の輪っかをクルクル回るのはこの人一人で充分なのでは? なぜあなたまで一緒にクルクルしようとするの?」
  「今、腹を立てると言うのはそう言うことですよ。せっかくがんばって毎日瞑想修行を続けているのに、その苦労も水の泡になってしまいますよ!」
  「あなたが苦しみ続けるに値する価値が、この三毒に侵されたアホの人に本当にあると思うのですかぁー?」
  「今怒ってこの先も苦しみ続ける、あなた、本当にそれでいいんですか?」
  プンプン娘はしばし絶句、「そっ、それはちょっとぉ・・・」と答えます。
  「だって腹を立てるとそうなりますよ。それでいいこと何もないでしょ。それなのに何故あなたは怒りたがるのですか?」
  プンプン娘はまっとうな怒る理由をみつけることが出来ません。時には、「そう言えば、何で怒りたいのか自分でもよく分からない」と言ってしまう時もあったりします。こうしてだいたいはすごすごと引き下がっていきます。
  このようにプンプン娘を説教しながら私は暮らしています。
  たまにはプンプン娘に一本取られることもありますが、こちらも負けじと頑張っています。いずれはめんどうくさい説教などがなくても、「怒り」と一言で消えてくれるようになるいといいな、と思います。しょっちゅうお説教するのもやっぱり面倒なんで・・・。
  他にも、さんちゃんは、
  「(腹は)立たない立たない。腹を立てる器でもない。そんなに偉くない。腹立って怒りたい人は偉いと思ってるんじゃないの、自分のこと」と言ったり、「俺は幸せな人を感動させたいんやなくて、泣いている人を笑わせて幸せにしたいんや。これが俺の笑いの哲学や」とも言っています。まさに慈悲の心ではありませんか。
  最近ではとうとう「ワクワク死にたい」と言い始めました。
   「おっ!」と思う発言の多いさんちゃん。もしかしたら、修行僧だった前世があるのでは?とつい思ってしまいます。
  でも、おしゃべりなさんちゃんには、黙って瞑想する生活はかなりキツかったろうな・・・。
  ついでながら、さんちゃんのインタビューはyou tubeでも見ることができますので、ご興味ある方はどうぞ。(完)




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