月刊サティ!

Web会だより

  2020年  

『体を整え、心を整え、人生を整え』 E.K. 
  16年前に仕事のストレスから心の調子を崩しうつ病になりました。その時お世話になったカウンセラーの先生の勧めで、座禅を始めたのが瞑想との出会いでした。その後、体調管理のために続けていたヨガが実は瞑想のための技法であったことを知り、それ以降は、ヨガと集中系の瞑想を生活の中に取り入れながら、心と体のメンテナンスを行ってきました。
   ただ、どれだけヨガや集中系の瞑想を行っても、長年しみついた心の癖のようなものは、なかなか改善されず、生きづらさは変わりませんでした。何度も同じような悩みにぶつかり、それを乗り越えようと、自信をつけるために資格を取ったり、果ては外国留学までしてみたり・・・。そして頑張りすぎてへとへとになり、お酒や買い物、刹那的な快楽で気を紛らわしながら、いつも心の奥底でむなしさを感じていました。
  そんな中、あるマインドフルネス関係の書籍と出会い、今まで集中系の瞑想では感じることのなかった「客観的に観る」ということの意味がやっとわかったのです。その後は、片っ端から書籍を読み漁り、中でも地橋先生の「ブッダの瞑想法」が一番、論理的かつ親切でわかりやすかったので、かじりつくように読みながら、実践を重ねました。そのうちに、やはりご本人に指導を仰ぎたい、という想いが強くなり、朝日カルチャーに通い始めました。

  初めて地橋先生から直接、歩く瞑想の指導を受けた時のことは忘れられません。ラベリングのタイミングがこんなにも重要だとは思っていませんでした。六門からの情報の入力と(触)尋の流れが初めて理解できた瞬間でした。
  その日以来、歩く瞑想の素晴らしさに開眼し、毎日夢中になって行いました。毎朝20分の歩きの瞑想と座りの瞑想を、夜は時間があれば時間の許す限り行いました。
  とにかく瞑想が、サティが入る感覚が楽しくて仕方がなかったのです。サティが連続して入っている時、心は完全に今に留まることができます。集中瞑想と違って、軽やかな感じも、私にはとても新鮮でした。
  それからダンマトークを継続して聞くことで、法の理解が深まり、特に、無常、無我、縁起、の意味が単なる学問ではなく、「本当のこと」として理解できるようになってきました。
  ある時、座りの瞑想中に呼吸を観察しながら、気づいたことがあります。今まで私は「自分が」息を吸って「自分が」吐いている、と思っていたけど、よーく観察してみると、息って勝手に起きている。止めようとしたって、止められないし、せいぜい23分で、苦しくなって、吸ったり吐いたりしてしまう。自分の力じゃとても太刀打ちできない。
  今まで私は、自分の力で生きてきた、と思っていたけれど、この世界には、なにか得体の知れない力が、いわば「いのちの働き」のようなものがあって、そちらの方に生かされているんだ、そう思ったら涙があふれてきました。
  日常生活も激変しました。日常生活全般に、自然にサティが入るようになると、最初は自分が、いかにこの世界を、瞬時にジャッジ、判断しながら生きているのかを目の当たりにして、驚きました。
  道端の花を目にした瞬間、観た?ピンク?キレイ、と快を覚える心。前を歩く人の煙草の煙をかいだ瞬間、刺激臭?タバコ??くさい?無礼な人、と嫌悪する心。・・・こんなことを、一日中やっているんだ、私。そう知った時の衝撃は忘れられません。私はこの世界をありのまま観ているんじゃなくて、自分の色眼鏡を通して、世界を眺めているだけなんだ。これじゃあ、どれだけ瞑想しても、ありのままを眺めることなんて、一生かけても出来っこない。反応したくないのに、勝手に反応してしまう心。それが止められない限りは、苦しみはなくならない。それを悟ってから、反応系の修行に本気で取り組み始めました。
   まず慈悲の瞑想を徹底的に、真剣に行うようになりました。毎晩、寝る前と、電車の中で行うようにしました。特に満員電車や雑踏を歩く時など、不善心所になりそうな場所、場面では、嫌悪系の反応が起きる前に行っておくと、心が穏やかに保ちやすいことがわかってきました。
  私はヨガの講師をしているのですが、レッスンの前に行うことで「私が教えてあげる」というエゴ感覚が薄れて「この人たちに楽になって欲しい」という慈悲モードに意識が切り替えられて、「よく見られたい」「評価されたい」という承認欲求がなくなり、緊張することが減りました。また、なぜか生徒さんの数が増えて、クラスがキャンセル待ちになることも多くなりました。

  それから、戒を守ることの大切さも身に沁みてわかってきました。五戒はどれも大切だと思いますが、私には「嘘をつかないこと」が難しかったです。私は昔から人から嫌われることが怖くて、ついお世辞を言ってしまったり、相手を傷つけないように、事実とは違うことを言ってしまうことがよくありました。「嘘も方便」って言葉もあるじゃないか。相手を傷つけないための嘘ならついてもいいんじゃないか。最初はそう思っていました。けれど、瞑想が深まって行くにつれて、相手のことを思っているようでも、その実、自分を守っているだけなのだと、いうことに気づかされました。そしてどんなに小さな嘘であっても、心が汚れることにも気づきました。
  「迷った時は、心が汚れない方を選ぼう」。日常の中で、何か判断に迷う時、いつもそれを基準にすることで、自分の中に軸ができました。どんな時でも正々堂々と居られるようになり、生きていくことが楽になってきました。そして、そんな自分を信頼する気持ちが生まれてきて、生まれて初めて自信がついてきました。
  自分自身との信頼関係ができてくると、不思議なことに、自分のエゴ感覚に対しても、嫌悪ではなく、ニュートラルな視線を向けられるようになりました。怒りや不善心がわいてしまう、そんな自分もあるがまま観ることができるようになり、その結果、怒りや貪りを封じ込めることなく、根本的な原因にまで洞察が及ぶようになり、自己理解が深まりました。

  今、これを書いていて思うのは、「ヴィパッサナー=あるがままを観る」というのは、結局のところ、目の前の全てを受け容れていく、自己受容、他者受容、全受容の訓練なんじゃないかということです。
  私は結婚して23年になるのですが、子供はおりません。世間には子供ができなかった、という体裁をとっていますが、子供が欲しいと思えなかったのです。こんなにも生きていることが苦しくて、自分自身が生きていくだけで精一杯なのに、別の命を育てるなんて、私にはとうてい無理なことのように思えました。また、こんなに苦しい世界に新しい命を作りだすことの意味がわかりませんでした。生まれてきたら、その子がかわいそうだ、とも思いました。幸い主人も同じ考え方だったので、子供を持たない人生を選択しました。それが正しかったのかどうかはわかりませんが、自然に子供が欲しいと思えない自分が、人間として、生物として、どこかに欠陥があるような気がずっとしていました。
  先日2回目の1DAY合宿で、心随観を徹底して行ったところ、私の中のこの「嫌生観」の根っこのようなものに気がつきました。
  それは母との関係でした。私の母は精神的に不安定な人で、何かのきっかけで取り乱すと、子供の目の前で自殺未遂をしたり、家に火をつけたりするような人でした。小学6年生の時、薬とお酒で錯乱していた母から首を絞められ、その母を思い切り突き飛ばして逃げた日以来、私には母はいない、と決意して生きてきました。
  18歳で上京して家を出て以来、表面的にはそつなく接してきましたが、心を通わせたことはありませんでした。母が死んでも涙は出ないだろうと思っていました。
  そんな母とも、ヴィパッサナー瞑想と出会って、慈悲の瞑想を行ったりしていくうちに、私の中で心境の変化が起き、手紙を書いたり、プレゼントを送ったり、一緒に食事をしたりすることも増えてきました。昔の私からすれば、驚くべき変化です。
  しかし、1DAY合宿のインタビューで地橋先生から、再び内観へ行くことを勧められ、またその後の座りの瞑想の中でも、自分がいつも何かに急き立てられるように頑張りすぎてしまうのは、根底にある無価値観のせいだ。それは、母との関係を清算しない限りなくならないだろう。そう、気づかされたのです。
  ただ、そう感じる一方で、心の中には大きな抵抗感がありました。特に合宿後、一週間くらいは自分でも驚くほど、大きく心が動揺しました。
  「ヴィパッサナー瞑想のおかげで、やっと毎日が楽に生きられるようになったのだから、もう十分じゃないか、このままでもいいじゃないか」
  「内観なんて行って、わざわざ傷口を開くようなことをする必要があるのか?」
  「なぜそんなことを勧めるのか?」
  そんな怒りさえ沸いてきました。
  エゴが抵抗していたのです。
  瞑想したくない。そんな気持ちにさえなりましたが、直観的に、だからこそ、今、必要なんだ、と思い、とにかく続けていると、ある時「手放したくない」という言葉が浮かんできました。一瞬、何を?と思ったのですが、さらに観察を続けると「アイデンティティ」という言葉が浮かんできました。そこでやっと納得がいきました。
  私はこれまで「ひどい母親に育てられたけれど、健気に頑張って生きてきた子」というアイデンティティにしがみついて、それを心の拠り所にして生きてきたのです。それを手放すことは、人生を根底から覆すことになり、だからエゴはこんなにも必死で抵抗していたのです。
  全てがつながりました。私はこれまで母親を憎むことをエネルギー源にして、いろんなことを頑張ってきたのだということ、そんな健気な私を認めて欲しいとずっと願っていたこと、上手く行かないことがあれば、これを言い訳に自分を憐み、慰めてきたということ。過去の自分の行動や言動が次々と思い出され、あれも、これも、すべてそうだったんだと、いろんなことが腑に落ちました。
  数日間そんなふうに検証を続けていたのですが、ある時なんだかそんな自分が、可笑しいというか、愛おしく思えたのです。「笑っちゃうな、私」って。すると、これまでずっと重たかったお腹のあたりがふっと軽くなりました。「内観に行こう」、そう素直に思えました。
  面白いことに、そう決心した翌日に、実家から宅配便で荷物が届いたのです。段ボールの中に小学1年の時の絵日記が数冊入っていました。掃除をしていたら押し入れから出てきたということで、父が私に送ってくれたのです。そこには、母との日常を楽しそうに描いた私の下手な絵や文章のほかに、その文章に対しての母からの返事が赤のサインペンで綴られていました。自然に涙がこぼれました。
  「こういうことなんだ」、と思いました。私は自分で勝手に捨ててしまった思い出を取り戻したい。偏った記憶じゃなくて、まっすぐに世界を観たい。そのために内観に行くんだ。そう思ったらとても明るい気持ちになりました。
  先週ようやく仕事のスケジュールが調整できたので、さっそく内観合宿の予約の電話を入れました。まだ少し怖い気持ちはあるけれど、今は自分がどんなふうに変化するのかが楽しみです。
  最後に、私をここまで変化させてくれたヴィパッサナー瞑想と、地橋先生、朝日カルチャーや合宿で出会ってくださった皆さまとの出会いに、心から感謝申し上げます。先生や皆さまの存在が私をいつも励まし、勇気づけてくれています。これからも、ヴィパッサナー瞑想を人生の杖として、歩んでまいりたいと思います。今後とも、どうぞよろしくお願い致します。(完)
 
『生きる意味を探して』 H.M.
  私は55歳の会社員です。地橋先生の朝カル講座を受講し始めて11ヶ月になります。
  私が朝カル講座を受講し始めた理由は、お寺での坐禅会や阿字観瞑想、念仏会などが大好きでよく参加していたのですが、意味がわからないまま参加していたので、きちんと意味を理解したいと思ったのがそもそものきっかけです。最初は本を読んだり、朝カル等の仏教に関する講座をいくつか受けたりしていました。その後、地橋先生の講座を受け始めました。
  地橋先生の講座は納得できるところが多く、毎回楽しみに受講していましたが、受け始めて3ヶ月目に名古屋への転勤が決まりました。内示を受けた翌日に講座があり、それまで講座終了後の食事会には参加していませんでしたが、勇気を出して食事会に参加し、転勤が決まったことを話しました。地橋先生や法友の皆さんからたくさんの励ましの言葉をいただき、大変有り難く受け止めました。名古屋に引っ越してからも、交通費は嵩むものの、私にとって講座は大切な存在となり、他の所用と並行しながらですが、現在も継続受講しています。
  では、なぜ坐禅等が好きかということについて書きます。
   私は姉と二人姉妹ですが、幼少期に姉から「人は一秒々々死に近づいて生きている」と聞いた時にショックを受け、人は死んだらどうなるのだろう、なぜ自分以外の人は死後のことを気にしないで生きているのかが不思議でなりませんでした。
  高校生の頃に丹波哲郎の死後の世界の本と出会い、それからは丹波哲郎の信奉者になりました。辛いことがあるといつも丹波哲郎の本を引っ張り出し、どんなに辛いことがあっても自殺だけはしないようにと書かれた箇所を何度も繰り返して読んでいました。
  辛いことというのは、自分は一言でいえば、アダルトチルドレンであるということや、恋愛に関して、いつも好きな人には好かれないということ等があります。また、生きる意味がわからないというのもありました。
  私の両親は、結婚して子供を産んで家庭を持つというのが、『まともな生活』という価値観でした。一方で私は好きな人には好かれないということがありましたので、親のプレッシャーから逃れたいという思いから、あまり好きではないけれど結婚してしまえば何とかなるだろうという安易な考えで結婚しました。そんな結婚生活はうまくいかず、2年足らずで離婚しました。離婚した時に両親から、「こんなことなら産まなければよかった」と言われ、ひどく傷つきました。
  また、生きる意味がわからないというのは、人は愛する人と出会い、その人と結婚し、その人の子供を産み、その人とその子供のために生きるというのが生きる意味であると考えていたので、生きていればそのうち自然にそうなるだろうと思っていたのに、まわりの人はそうなっても自分はそうならず、だったら自分に生きる意味はいったい何なのだろうとよく考えていました。
  会社員なので、会社では利益を追求するために毎日精進し、会社以外では会社の仕事に役立つようなMBA等の勉強をしていたのですが、どうしてもそれだけに集中できない状態でした。会社の仕事はするけれども、それよりも大切な問題があるのではないかという感覚です。
  職場では普通に仕事していましたが、人の好き嫌いが激しく、嫌いな人の足音が聞こえたり視界に入るだけでもストレスに感じ、一時期カウンセリングを受けたり、自分でもキャリアカウンセラーや産業カウンセラーの資格を取ったり、スピリチュアル系のセッションを受けたり、ワークショップに参加したり、出家者の講演を聞いたりしていました。
  会社では、利益追求が最優先だけれども、違う場所には違う世界が存在しており、そういう世界に触れることで自分なりに会社員としての生活とのバランスを取っていたような気がします。(これを一般的には、現実逃避と呼ぶのかもしれませんが、私にとってはどちらも現実なので、現実逃避という言葉はしっくり来ない感じがします)
  そうした活動をする中で、だんだんと仏教を勉強したい、坐禅をしてみたいという気持ちが強くなりました。
  東京に勤務している間に、都内で数回人事異動しましたが、新しい職場に変わっても、しばらくするとまた嫌いな人が現れるというパターンが繰り返されていました。因果論を理解していなかった頃は、嫌いな人に対し、心の中で「あんなことをしていると地獄に落ちるぞ」「地獄に落ちればいいのに」と思うことがよくありました。
  名古屋に転勤する前に、嫌いな人が複数人おり、どうしたらその人達と離れることができるかを考え、ネット検索したところ、嫌いな人と離れられる呪文のようなものを見つけました。それは、「〇〇さん、あなたからの学びは終わりました。〇〇さん、ありがとう。〇〇さんが、幸せになりますように」と唱えるものでした。しばらくの期間、それを実行していました。それを実行したせいなのか、地橋先生の講座を受講したせいなのかはわかりませんが、結果的に嫌いな人達とは離れることができました。私はその人達が人事異動することを望んでいたのですが、自分が異動することになってしまいました。
  それは不本意な人事異動でしたが、朝カル講座を受講していたおかげで、どんなことでも受け入れられるようになりました。もし受講していなければ、人事異動を決めた人(誰かはわかりませんが)を恨んで、また新たな業を作っていたと思います。
  今は、名古屋への転勤も含め、どんなことも自分の蒔いた種を刈り取っているのだと自然に思えるようになってきました。そう思うと苦受が起きてもほとんど腹が立たなくなってきました。
  例えば、お手洗いが汚れていたとしても、なんできれいに使わないのだろうと思うのではなく、善行を積めるチャンスだと思えば全く気にならなくなります。
  朝カル講座のインタビューで一番驚いたことは、朝、歩く瞑想をしていると、忘れ物に気づくことがあり、その時に、瞑想を一旦中断し、忘れ物を鞄に入れてから、瞑想に戻る旨を話した際に地橋先生から「忘れ物は所詮、この世のこと。瞑想の方が大事」と言われたことです。ああ、そういう価値観なのだと、つくづく驚きました。
  また、私が嫌いになる人は、声が大きい人、声が高く、よく通る声の人、その人が独り言やおしゃべりが多かったりする、そういう人が職場にいるとストレスになり、だんだん嫌いになることに気づき、そのことを質問すると、それについては、今生で自分が音に関して人に迷惑を掛けたことがあったのではないかという考え方と、人のせいにしないで、自分の集中力がその程度だ、という考え方がある旨のアドバイスをいただきました。どちらも思い当たる節があり、特に自分の集中力という点では、確かにものすごく集中している時には、音が気にならないことに気が付きました。
  まだ、サマーディの体験をしたことはありませんし、私は瞑想の才能がないのかもしれませんが、これをしたからこうなったのかな、という小さな出来事はよく起きます。それは、本当にそれが原因なのかどうかはわかりませんし、それを立証することもできませんが、自分なりに、ああ、そういうことなのかな、という感じで過ごしています。
  また、瞬間的に人を見くだす傾向がある自分に気づき、そのことに気づいた時には、透かさず、慈悲の瞑想をしたり、ごみ拾いをしたり、コンビニ等で募金箱を見かけたら1円募金をするようにしています。
  このレポートを書き始めて、最近は生きる意味とは何かについて考えることがなくなったことに気が付きました。すべては起きるべくして起きていることで、様々な起きることが学べる機会だと捉え、有り難いことだと感謝しながら生きていきたいと思います。


『父への怒りと内観と』 Y.T.
  私が今回、瞑想を始めたきっかけは、強い背部の痛みでした。以前より疲れた時などに出現していましたが、生活に支障が出るほどではありませんでした。それが2年前より急に痛みが強くなり、生活に支障が出てくるまでになりました。2度の精密検査でも異常はなく、当時仕事でストレスを強く感じていたため仕事を辞め、旅行などをしてストレスの解消をしていましたが、痛みは変わりませんでした。他にもヨガ、鍼灸、ストレッチなどをしても同じでした。
  そうしているうちに、以前教わったヴィパッサナー瞑想を思い出し、行なってみると瞑想後に少し楽になりました。そこで、またきちんと教わろうと令和元年11月に1DAY合宿に参加しました。そこで地橋先生との面接で「私も今までたくさん話を聞いてきたけど、あなたのお父さんのような例は初めてですね。その痛みは、お父さんへの怒りが関係していると思いますよ」と言っていただきました。しかし私の父への恨みは当たり前のことでしたので、その2つを結びつけることはありませんでした。
  父は2年前に90歳で安らかに老衰で亡くなりましたが、亡くなった時、まったく悲しみはなく、「ホッとした。やっと終わった」というのが実感でした。父の葬儀には、親戚も友人も知人も参会者はゼロ、たった一人、息子の私だけが焼香する異様なものでしたが、その後も恨みは薄れることなく、逆に、「あれだけ好き勝手にやって家族に迷惑をかけたのに、なぜ安らかな最期を迎えられるのか?やったもん勝ちかい!」と恨みは増強してしまいました。亡くなった時に父の兄弟に連絡したところ、「おかしいな~兄貴は苦しんで死ぬはずなんだけどな~」と言われ、「ぼくもそう思います」と答えたことからしても、俺は間違っていないと確信していました。
  1Day合宿の最後のまとめの時間に、隣に座っていた方から「内観は良かった」との報告がありました。内観については、以前ビジネスホテルの部屋に置いてあった内観の本を少し読んだとき、「親孝行が大切」と書いてあったので、「俺には合わない。冗談じゃない」と思い、すぐに本棚に戻したことがありました。そこで地橋先生に、「ぼくはどうでしょうか?」とお聞きしたところ、「絶対にいい。行ったほうがいい」と断言していただいたので、とりあえず、良いと言われたものはやってみようと思い、半信半疑ながらお勧めの静岡の福田先生の所へ12月中旬に申し込みました。
  12月に静岡の福田先生のところへ伺いました。内観は一週間、屏風に囲まれた畳半畳の所でひたすら自分の過去と向き合うということをする、と説明されていたものの、「はたしてできるかしら?」と不安がありました。
  そしてその時は、幸か不幸か参加者は私一人ということを知り、「大丈夫かな~。でも対人関係のストレスはゼロなのでまっいいか」ということでスタートしました。
  内観の二日目:「瞑想は今の現実を観ていくことだと思うが、内観は過去の自分を観ていくものなのかな?だとしたら瞑想と内観は相性がいいのかもしれない」と思いました。
  四日目:父の内観中、自分の考えていた自分の年表あるいは履歴が、どうも違っているようだと感づいてきました。それは父と私あるいは母との険悪な期間は思っていたほど長い年月ではないかもしれない。また仲の良かった時期も存在しているということに、否応なしに気づかされました。とてもショックでした。福田先生のお話し中に「チョット待ってください!どうもおかしい。ずいぶん違うような気がする」と失礼ながら先生のお話をストップさせてしまったくらいです。
  悪いことはよりワイドに、良いことはその陰に隠して、事実を捻じ曲げ、今日までそれを発展させてきたことに気がつきました。
  六日目:自分の愚かさにも気が付き、かなり落ち込んでしまい、父への恨みどころではなくなってしまいました。
  内観の間に体験者の録音を流してくれるのですが、その中でオーストリアでの内観がありました。この時のオーストリア人の女性が「私の母の愛は無償の愛ではなかった」と言って母親への憎しみを訴えたお話がありました。「さすがにヨーロッパ人の苦しみの根源は違うな~」などと呑気に聞いていたところ、その担当の先生は、「有償だろうと無償だろうと、あなたは愛を受けたのでしょう?してもらった事実だけを観てください」 とお答えになったのを聞いて、「これだよな~。これが大切なんだよな~」と目から鱗が落ちた感じでした。
  七日目:すっきりとした気持ちで終了することができましたが、「よく号泣して打ち震える人もいる。体でわかるということです」と初日に言われたことを思い出して、「さすがにそれはなかったな。残念だが頭でしか理解出来なかったということだろうな」と思い、残念さも残しながら帰宅しました。
  ところが、帰って三日目のことですが、突然、常時存在していた父親に対する憎しみがスーと消えていく感覚が出現し、重い荷物を下ろしたように体全体が軽くなって、体がぽかぽかと温かく、何とも言えない気持ちよさにつつまれました。「これが体で分かることなのか!」と実感しました。それ以来、父に対する憎しみ怒りは消失しました。ただ事実としての不満が残っているだけです。
  父は家族からみて、他人に父の話をしたとき、「そんなひといるの~、それはひどいね~、つらかったでしょう?」と同情されるようなことはしていたので、いいネタ話にはなっているけど、「もうちょっと、どうにかならなかったのかな~」「父親は自分に対し父親なりの愛情をもって俺に接してくれた。それには感謝しているし、それに対して恩返しが出来なかったのは申し訳なかったと思っている。しかし親子としての相性はよくなかったな~。生まれ変わったらまた親子で、なんて勘弁してほしい、隣の変なおじさんくらいにしてほしい」というような感じに激変してしまいました。
  そして2月、重度の認知症のため、もう僕のことも何もわからなくなって久しい母親に会いに施設に行って、母に向かって、「お父さんの墓参りに行ってきたよ。いろいろ有りすぎたけど、三人ともがんばったよね!」と声をかけました。
  母は無反応でしたが、こんなことが言えたことがよかったと思いました。そして背中の痛みも次第に軽くなっていき、このところ全くなくなってしまっています。
  以上、内観の体験とそれによって経験したことでした。この機会を与えてくださった地橋先生と福田先生に感謝いたします


                              『死と奇跡と救い』 I. E.

  「抗癌剤治療をしなければ7週間、やれば44週間生存というデータがあります」。「腺癌」という診断がついた日に主治医からそう告げられました。20165月のことです。当時麦生(むぎお)は15歳。人間なら76歳の高齢猫です。重い副作用の可能性もある抗癌剤治療を選択する気にはなれませんでした。
  私にとって麦生は特別な子です。ペットは家族も同然と言いますが肉親との縁が薄く孤独な私にとって麦生は楽しい同居人であり、人生の伴侶であり、この上なく大切な我が子でもあり、唯一無二の家族以上の存在でした。そんな麦生が7週間後、この世からいなくなるかもしれない・・・。前々からペットロスについては心配していましたが、その前に死と向き合わなければならないのだと気づきました。私は生き物を飼った経験がありませんでした。愛する存在が死にゆく姿を自分は直視できるだろうか。最期の瞬間まで飼い主として麦生の命を全うさせてあげられるだろうか。強くなりたいと心の底から願いました。
  初めて1day合宿に参加したのは麦生が大腸にできた腺癌を手術した2016年の12月でした。腫瘍の切除には成功したものの開腹のダメージは大きく、様々な身体の不調が襲ってきて気の抜けない日々が続いていました。私が何より恐れていたのは癌の再発でした。どこに再発するかはわかりませんが、おそらく手術はできません。高齢猫に与えるダメージを考えるとリスクが大きすぎます。それでも私は迷うだろう。一縷の望みを託して手術という選択をするかもしれない。飼い主のエゴだと思いました。死生観を持っていないから迷うのだと思いました。
  何が起きてもどんな過酷な状況になっても、麦生らしく死が迎えられるようサポートしてあげたい。そんな思いでネット情報を集め、地橋先生の1day合宿に辿り着きました。そこで私は一人の女性参加者と出会います。振り返りの時間でのその方の発言に心惹かれるものがあり、合宿終了時にどちらからともなく挨拶をし、名刺を渡したところ、後日メールをいただきました。この出会いが私にとっては奇跡とも言える幸運であったと後に知ることになりました。
  手術から1年が過ぎる頃、原因不明の下痢を押さえる薬が見つかり、問題は慢性腎不全のみとなりました。徹底した食餌管理と新薬が効を奏し、腎不全はステージ2の後半で進行が止まったかのように見えました。ところがその手術から2年が過ぎた頃、麦生の体調は悪化していきました。自力ではほとんど食事をしなくなり、しゃっくりをするようになりました。不穏なものを感じた私はしゃっくりの回数を記録しました。単発だったのが連続になり、その間隔が狭くなり、血痰のようなものを吐いたため、麦生への負担を押して病院で検査をしてもらいました。癌が肺に転移しており、「もう何もできません。早ければ1か月位だと思います」と主治医に宣告されました。
  本当の意味で死生観が問われたのはこの後です。麦生は呼吸困難の発作を起こし、息が出来ず部屋中をのたうち回り、苦しさに耐えかね倒れました。私はただ見守るしかできませんでしたが、ふと1day合宿で出会った女性のことを思い出しました。彼女は呼吸器内科の専門医だったのです。既に主治医から余命宣告を受けており、遠からず死が訪れることは私も受け入れていました。ただ、壮絶な発作を見ていたので楽に逝かせてあげたかった。そのために出来ることは何でもしたかった。すがる思いで彼女にメールを送り、アドバイスをお願いしました。彼女は専門医として肺癌の末期患者の身体の中で何が起こり、それが外からはどう見えて、臨終の際の患者がどんな感覚なのか、痛いのか、苦しいのかなどをメールで克明に伝えてきてくれました。人間と猫の違いはあってもメカニズムは一緒でしょうと。そしてとてもわかりやすく私がやった方が良い事とやらない方が良い事を教えてくれました。
  20181125日午後4時過ぎ、3回目の呼吸困難の発作が起きました。不思議とこれが最後の発作になると私にはわかりました。小一時間程して呼吸が落ち着いたのでコンビニに麦生が好きだったヨーグルト飲料を買いに行きました。専門医のアドバイスのおかげで私は最期までもう少し時間があることがわかっていました。9月以降は食欲が廃絶し、強制給餌になっていましたが24日からはそれすら与えられない状態でした。それでも私は麦生が大好きだったチュールとヨーグルト飲料を最後に食べさせたかった。自分の口から食べる姿を最後に目に焼き付けておきたかったのです。本当に不思議なのですが、麦生はむさぼるようにヨーグルト飲料を飲み、大好きだったチュールを何度もペロペロと舐めてくれました。
  その後、麦生は昏睡状態に陥り、専門医がおっしゃった通りの経過をたどり、翌1126日に私の腕の中で息を引き取りました。知識がなければ私は取り乱して麦生に何もしてやれなかったと思います。しかし、これから何が起こるかを詳細に理解していた私は専門医のアドバイスに従い、やった方が良い事を心を込めて麦生にしてやることができました。彼女にはどれだけ感謝しても足りないほど感謝しています。そして麦生を思って参加した1day合宿での出会いが2年後、麦生の臨終に際して奇跡的な幸運として私にめぐってきた不思議にも感謝を禁じ得ません。
  麦生が亡くなって1か月後、私は2回目の1day合宿に参加しました。手術後2年半も生きてくれて、看病をさせてもらえて、最期は私の在宅時に私の腕の中で見送ることができたのに・・・、私は辛くて、苦しくてたまりませんでした。私はただ麦生のことを懐かしく切なく思い出し、永遠の不在を純粋に悲しみたかったのです。しかし当時の私は麦生を思い出すことすらできなかった。苦しくて辛くて息苦しく身体が震え出すような状態でした。
  亡くなる半年前から麦生は自力で食べなくなり、強制給餌が必要になりました。強制給餌は猫にとっても飼い主にとっても過酷です。「生き物として自然な生と言えるのか」という罪悪感に苛まされるからです。止め時は飼い主しか決められず、それは死を意味します。私は強制給餌が上手く、麦生もそれほど嫌がる風ではなったのですが癌が肺に転移してからは息苦しいのか嫌がるようになりました。目を見開いて声に出さないミャアで嫌だと訴える麦生の姿に「食べなきゃ死ぬんだよ」と私も泣きながら食べさせたことが思い出されてなりません。苦しくて苦しくて、1day合宿に行けばなんとかなるかもしれないと思い参加しました。
  地橋先生との面談でありのままを話したところ先生が仰いました。「あなたがやったことが正しかったのか間違っていたのかは誰にもわかりません。しかし、あなたはその時、愛猫のために正しいと思ったことをしたのだから、それは正しかったのだと考えるべきです。もし間違っていたのなら、あなたが死を迎える時に、自分がやったのと同じことをされて苦を受けるでしょう。それが因果と言うもので、ただそれだけのことです」。
  そうか、そうなのだなと思いました。強制給餌に関する苦しみは一瞬にして消えました。間違っていたのなら死ぬときに報いが来るのだから、それまでは後悔する必要はないのだ。罰してもらえるという考えに私はとても救われました。因果の大きな法則に委ねればよいのだと理解しました。
  以上が1day合宿で私が得た奇跡と救いの話です。途方もなく大きな幸運だったと思います。それなのに相変わらず私は瞑想もたまにしかやっておりません。ただ、麦生が亡くなるまでの半年間、私は「今、この時」に真剣に向き合っていました。強制給餌の療法食をシリンジに詰める時、薬やサプリメントを計量してオブラートに包む時、私は目の前の作業に細心の注意を払い、何も考えず、心を込めて手を動かしました。
  死の2週間ほど前の晴れた日の夕方、麦生を毛布にくるんで抱っこしてベランダに出ました。これが最後のベランダ散歩になると分かっていましたが、悲しむことはせず、目を閉じて風の匂いに鼻をゆっくり動かす麦生の顔を見ながら私もまた風を感じました。小さく上下する麦生のお腹を見て、それが失われることを嘆くのではなく、今生きている麦生だけを感じていました。あの時のように「今、ここ」だけを感じながら、また今を生きることができるようになれるだろうか・・・。
  麦生のいない世界はやはり寂しくて、虚しくて、宇宙に漂い続ける塵になったような気分になることがあります。でもこれが私が望んでいた純粋なペットロスなのであれば、今はこの気分を味わうしかありません。
  麦生のいない世界できちんと生きて行く。これが今の私の課題です。外に出て、人と関わり、人を信じ、人を愛し、人に愛されて生きろと麦生に言われているような気がします。死の前の麦生は体重も半分以下になり、やせ細ってしまいましたが、身体の苦痛も死も受け入れた哲学者のような面持ちでした・・・。()

    『仏教聖地巡礼 インド・ネパール七大聖地の仏跡巡り H.Y.

 ブッダの教えを学んでいく中で、ブッダはどのような場所で生まれ育ち、覚りをひらいたのか興味が次第に増していきました。そしてインド・ネパールにはブッダにまつわる八大聖地というものがあると知り、一度は行ってみたいと思っていました。今回、インド・ネパールの七大聖地に行ってきましたので、ご報告させて頂きます。

0.事前準備
 せっかく行くのであれば、八大聖地全てを周りたいと思いました。しかし八大聖地のツアーを探してみたところ、ツアーの取扱いが非常に少なく、あっても15日間のような長期ツアーしかありません。半月も仕事を休む訳にもいかず途方にくれましたが、幸運にも9日間の七大聖地のツアーを見つけました。行く聖地が一つ少なくなってしまうのですが、八大聖地に固執して行かないほうが一生後悔すると思い、参加することにしました。
 それから、七大聖地はどのような場所なのかを調べることにしました。スマナサーラ長老の『ブッダの聖地』という文庫本を購入し、旅行前に読んで学びました。原始仏教の観点で書かれており、長老が聖地各地で説かれた説法も収録されています。旅行中も読み返し、聖地をより深く理解する上で、大いに役に立ちました。
 インドとネパールは入国に際し、ビザが必要です。単純往復であれば到着ビザでも入国可能ですが、聖地巡りではインドとネパールを陸路で出入国する必要があるので、事前にマルチビザを申請する必要があります。インドのビザ申請は5×5cmの写真が必要で、背景については白色以外は不可など、細かい規定があります。その為、写真屋で撮影してもらい、旅行会社経由でビザ申請を行いました。
 荷物は通常の海外旅行と同じですが、今回は坐布とマットを持っていくことにしました。坐布とマットがあれば、ホテルの部屋で座りの瞑想と歩きの瞑想ができます。また今回のツアーは、聖地の一つであるブッダガヤーで坐禅の時間が組まれていました。是非、本場の聖地で自分の坐布を使って座りの瞑想を行いたいと思い、スーツケースに詰め込みました。

1.第1日目
 航空会社はエアインディアというインドの国営会社で、成田空港からの出発です。
 通常であれば航空機の搭乗開始は約30分前ですが、エアインディアは約1時間前からの開始です。搭乗ゲート前でツアー客全員に対し、添乗員さんからの簡単な説明を聞いた後に、航空機に乗り込みます。
 成田からインドの首都デリーまでは約9時間のフライトです。長距離のフライトなので、機内ではドリンクサービスや昼食及び軽食がありました。普段、お酒は飲み会以外は一切やめていますが、空の上でお酒いかがですか言われると飲みたい誘惑にかられます。しかし、この聖地巡りの間は酒一滴も飲まないぞ、と決意してきたのでジッと我慢です。お酒の代わりに、のどが乾いたので紅茶を頼んだのですが、なかなか出てきません。これがインドの航空会社の接客レベルかなと思いましたが、あまりイライラしないようにしました。映画や音楽などの機内サービスは使わず、終始「ブッダの聖地」を読み返して、聖地への思いを新たにしました。
 デリーに到着したのが日本時間で午後9時、現地時間で午後5時半です。日本との時差が3時間半なので、腕時計を現地時間に合わせます。この日は空港近郊のホテルに宿泊しました。

2.第2日目
 この日から七大聖地巡りが本格的に始まります。最初は祇園精舎で有名なサヘート・マヘートに向かいます。早朝午前7時のエアインディアの国内線で、デリーからラクナウというインド北部の地方都市まで移動です。前日に添乗員さんからモーニングコールが午前3時半と言われ、ずいぶん早いと思いながらも、実際に電話が鳴ったのは午前3時でした。添乗員さんの話だと、ホテルのフロントが時間を間違えて電話してしまったのだそうです。さらに午前7時起床の他のツアー客にもモーニングコールがかかるなど、日本であればクレームになりそうな対応です。このようないい加減な対応や接客は、インド滞在中に頻繁に発生しました。しかし聖地巡りに来ているのに、インド人の接客態度に腹を立てて不善業を作ってはいけないと思い、極力気にしないようにしました。
 早朝にホテルを出ると、空気がなんだか曇っています。最初は霧かなと思いましたが、大気汚染で曇っているとのこと。近年の経済発展で、中国以上にデリーも大気汚染が進んでいました。バスで到着したデリーの空港は、人で混雑しています。空港内は搭乗券を所持している人だけが入場できるシステムです。このツアーでは航空会社のチェックインは個人ごとに行う為、受付カウンターで窓側の座席を希望しました。ラクナウまでは約1時間のフライトです。フライト中はヒマラヤの山々を見ることができ、ブッダもこの山々を見て生まれ育ったのかなと思いを馳せました。
 ラクナウ到着後、ツアーのバスに乗車します。バスには添乗員と現地ガイドのほかに運転手とヘルパーの計4人が乗務します。運転手さんは運転のみで、ヘルパーさんが車内の維持管理全般と車外の交通整理を担当します。日本だと運転手さん一人で充分だと思いますが、インドの交通事情は悪く、他の車両の急な車線変更や路上で暮らしている野良牛や野良犬がバスに飛び込んできそうになったとき、ヘルパーさんが追い払う役割があります。乗ったバスは外国人観光客向けのバスですが、座席のシートベルトが壊れていたり、バスのクラクションを交換して昔の暴走族が鳴らしているような大きな音に改造したりと、最初は日本との大きな違いにびっくりしました。しかし、次第に慣れてくると、これがインドスタンダードだと思い込み、不思議と気にならなくなりました。
 バスで約4時間ほどで、サヘート・マヘートに到着しました。サヘートとは祇園精舎のことで、マヘートとは舎衛城でコーサラ国の首都を指します。二つ合わせて一つの聖地で、八大聖地の一つとされています。
 ちなみに仏教の聖地は、四大聖地と八大聖地にグループ分けされています。四大聖地はブッダの生誕・成道・初転法輪・涅槃の4つの聖地で、ブッダが定めたものです。八大聖地は四大聖地に加え、後世の人々がブッダゆかりの4つの場所を聖地に追加して、八大聖地として定めたものです。
 1)ルンビニ     :ブッダ生誕の地
 2)ブッダガヤー   :ブッダ成道の地
 3)サールナート   :初転法輪の地
 4)ラージャガハ   :竹林精舎(マガダ国)
 5)サヘート・マヘート:祇園精舎・舎衛城(コーサラ国)
 6)サンカッサ    :ブッダ昇天・降臨の地
 7)ヴェーサーリ   :ブッダ入滅宣言の地
 8)クシナーラー   :ブッダ涅槃の地
 今回のツアーで行かなかった聖地はサンカッサです。サンカッサはブッダが兜率天にいる生母マーヤー王妃に説法する為、ブッダが昇天・降臨した場所です。他の聖地は史実に基づいていますが、サンカッサだけは史実になく、伝説上の聖地とされています。仏跡ツアーの中でも、サンカッサに行くツアーはかなり少ないとのことです。聖地の中ではあまり重要度が高くないこと、他の聖地からかなり離れており大幅な移動時間を要することが、通常の仏跡ツアーから除外されている理由と考えられます。

  祇園精舎はブッダが雨安居(遊行せず雨期に滞在すること)を過ごされた場所です。日本人には平家物語の冒頭に出てくるので、馴染み深いと思います。経典には祇園精舎にまつわる、以下の有名な話があります。
 舎衛城にはスダッタ長者という裕福な商人が暮らしており、預流果に覚っていた居士(在家のブッダの弟子)でした。スダッタ長者は教団に雨安居の場所を寄進したいと考えていたところ、コーサラ国のジェータ王子(漢訳で祇陀王子)が所有している園林を見つけました。王子に購入したいと持ちかけますが、最初は断られます。
 交渉していくうちに、土地に金貨を敷きつめない限りは売りませんと王子が言いました。それに対しスダッタ長者が買いましたと言いました。私は、王子が売らないと言ったのにスダッタ長者が買いましたという話のやり取りは少し変だと思いましたが、当時のインドではいかなる状況であっても価値を表現した以上は、それで支払うのであれば売買は成立する慣習だったそうです。売る気のない王子は無効だと主張しますが、裁判の末、スダッタ長者に購入の権利が与えられます。その後、スダッタ長者自身が金貨を土地に貼り詰めていきますが、敷き詰めている金貨が無くなってしまいます。スダッタ長者は後で準備して払います、と王子に釈明します。一連のスダッタ長者の真摯な態度を見て、王子はもう結構ですと言い、全ての土地の売却に合意します。

 スダッタ長者は別名をアナータピンディカ居士と呼ばれています。アナータピンディカ(漢訳で給孤独)は、貧しく孤独な者に食を給する善徳者という意味です。経典には、「アナータピンディカ居士の祇園精舎である。持ち主はアナータピンディカ居士である」と記載されています。前所有者である王子の名前を冠した精舎にしたこと、本名のスダッタの名前は出さないところに、スダッタ長者の美徳を感じます。現在の祇園精舎は公園のように整備されており、建物はありません。跡地には建物基礎のレンガが残されており、当時の面影を忍ばせています。そのレンガは当時のものはごくわずかで、大部分は後から積み上げていったものだそうです。
 今回の聖地巡りは、ブッダの残した仏跡を肌で感じて、今後の修行の励みにしたいと思って参加しました。聖地の細かい部分を見れば、史実とは異なる、当時の時代のものではない、など多くの相違点が出てきます。そして聖地巡りの間には、聖地への真偽や聖地にいた比丘のモラルなど、疑う心がその都度出てきました。しかしブッダがこの世に生誕されて、ブッダの教えが今も生き続け、それを伝えてきてくれたサンガがあるから、今この聖地に来たのだと実感しました。疑念はできる限り気にしないようにし、聖地で清らかな喜びを感じることに最大限努めました。
 祇園精舎ではガンダクティと呼ばれるブッダが滞在された部屋に対して、正座で三帰依を行いました。今回は一般の旅行会社のツアーに参加した為、周りのツアー参加者の人たちからは奇異に映ったかもしれません。お寺関係の人ですかとも言われました。しかし今回の聖地巡りは、ただの観光では終わらせたくなかったので、他人がどう言おうがどう思おうが、原始仏教の礼拝スタイルで巡礼を通そうと思いました。
 以前タイに行った際、一日中お寺巡りを行ったことがあります。ダーナ(布施)を行うのが目的で、現地のガイドさんに原始仏教の作法を教えてもらったことがあります。今回はタイで教えてもらったやり方で行いました。具体的には比丘に財施をする、布施箱に財施を入れる、献花の布施をする、三帰依の礼拝をする、聖地では時計周りに礼拝をすることです。加えて、可能な場合は歩きの瞑想、座りの瞑想も行いました。祇園精舎では東南アジアから来ている比丘がいたので、財施を行いました。比丘の方からマネーと要求されたのには面食らいましたが、ここでイライラして疑念を大きくするよりも、聖地で比丘に布施したことは良いことだと割り切りました。

 また祇園精舎にはアーナンダ・ボーディというアーナンダ菩提樹があります。雨安居が終わると、ブッダは覚る可能性のある人を導くために、祇園精舎を離れて遊行に出ていきます。人々は、ブッダが祇園精舎を不在にしているときもブッダの代わりになるものがないか、とアーナンダ尊者に相談しました。アーナンダ尊者はブッダの秘書役で、ブッダの十大弟子の一人です。アーナンダ尊者は菩提樹を植えておけばいいのではと提案します。植える菩提樹は、ブッダが覚りをひらいたガヤーの森の菩提樹を採用することになりました。
 今の樹木は植樹した当時の樹木ではなく、第5世代の樹木だそうです。現地ではこの樹木の周りを3周しました。通常タイだと3周ですが、現地のガイドさんに聞いたらインドでは7周とのことでした。7周はヒンドゥー教の教えだと思いますが、宗教や文化が違えば変わるのかと思いました。ここでは3周できましたが、時間の関係で1周しかできない場合がほとんどでした。その為、1周や半周しかできなかったときは、ブッダへの思いが確かであれば回数は大きな問題にはならない、と自分を納得させることにしました。
 次にマヘートに行きました。マヘートは舎衛城と呼ばれ、コーサラ国の首都だったところです。ブッダの時代には祇園精舎の比丘たちが約15分歩いて、舎衛城にあるスダッタ長者の邸宅に托鉢に行っていました。
 現在、舎衛城にはスダッタ長者の遺構と、阿羅漢になった後にアングリマーラ長老が住んでいた遺構が残されています。遺構はストゥーパと呼ばれます。ストゥーパは、その場所が巡礼者の足跡で踏み消されないようにレンガなどで積み上げられたもので、記念碑のようなものです。ストゥーパには記念碑以外にも仏舎利や阿羅漢を祀ったものもあります。大商人だったスダッタ長者のストゥーパが大きいのは分かるのですが、アングリマーラ長老のストゥーパがスダッタ長者に劣らず大きいのは意外でした。
 アングリマーラ長老のような聖者であれば当時、清貧な家屋に住んでいたと思いますが、後世にレンガがどんどん積まれて、今のストゥーパが大きくなったと勝手に想像しました。昔の人々がレンガを積んだのは、本来はブッダの聖地を守る為ですが、人々は徳を積みたいからとも思いました。経典ではアングリマーラは学友や師匠にそそのかされて、999人の人殺しを犯してしまいます。そして母親殺しの重業を犯す直前に、ブッダが救いの手を差し伸べた人物です。999人という大量殺人は、理由はともあれ大罪です。アングリマーラ長老が覚りをひらくことができたということは大きな意味を持ちます。どんな過去の過ちであっても重業を犯さない限り、今世で諦めることはないことを実証しました。アングリマーラ長老の生い立ちが人々を勇気づけて、ストゥーパが大きくなったと想像しました。
 サヘート・マヘート近郊には日本人が設置した祇園精舎の鐘があります。昔は日本から、多くのお寺の檀家が団体でインド巡礼にやってきました。巡礼者達が祇園精舎に鐘がないことにがっかりした反動かどうかは不明ですが、近年に設置されたものです。せっかく来たので、鐘を大きくつきました。またサヘート・マヘート周辺には各国の寺院等も建立されています。中にはヴィパッサナー瞑想のメディテーションセンターもありました。他の聖地でも周辺には数多くの寺院や瞑想センターがあり、世界の人々の仏教に対する信仰の篤さを感じました。
 聖地巡りの後は、サヘート・マヘート近くのシュラバスティーという町のホテルに宿泊しました。

3.第3日目
 ホテルを出発前にホテル内の売店を覗いたところ、仏像が売られていました。沙羅双樹の木でできているとのことで、聖地巡りに来た記念に買うことにしました。この日はブッダ生誕の地であるルンビニに向かいます。ルンビニはネパール領であり、陸路で国境を越えます。添乗員さんから、この日はツアーで一番の難所となると言われましたが、まさにその通りでした。
 インド北部は辺境地域なので道路の舗装が良くなく、バスのサスペンションも良くないためか、バスの乗り心地が悪いのです。ひどいときは舗装の段差の衝撃で体が持ち上がるほどです。また約2時間ノンストップで走っても、トイレ休憩できる場所が全く無いのです。その場合は青空トイレで済ませました。男性であればそれほど気にしないかもしれませんが、女性の場合はかなり抵抗があると思います。またトイレ休憩できた場合でも、インドのトイレは総じて汚く、約30年前の日本の公衆トイレかそれ以下の状態です。
 約7時間のバス乗車で、ネパールとの国境近くまで来ました。インドからネパールの税関手続で遅延が常態化し、ネパールへ行く道路は運送トラックの大渋滞に見舞われています。その為、まともに道路を走っていたらネパールにいつまでも到着しません。そこでどうするかというと、バスは反対車線を走行するのです。日本であればとても考えられませんが、インドでは当たり前のように走っていきます。他のバスや乗用車も同様です。当然、事故の起こる可能性は高くなります。この為にバスのヘルパーさんが必要だと改めて理解しました。
 ネパールとの国境付近の街に到着し、まずインドの出国審査を受けます。出入国管理事務所と言っても、国境境界ではなく市街地の中にあり、見た目は普通の建物です。そこでいったん乗客全員がバスを下車して手続を行います。ツアーのグループごとに手続が行われる為、順番が来るまでは露店のチャイを飲んだりして待っていました。グループの順番近くになったら、ツアー客全員が出入国管理事務所の前で並んで手続を行います。そして全員の手続が完了したらバスに乗り込み、乗車したまま国境を越えます。ここで不思議なのが、出入国管理事務所と国境が離れているので、黙っていれば出国審査をしなくともネパールに入ることができてしまうことです。また国境付近は職員が配置されていますが、国境を歩いている人々は、自由に往来しています。気になったので調べてみたら、国境近くのインド人とネパール人は二国間協定により、審査なく往来できるようです。外国人は適用外というのは分かりますが、このような緩い国境管理のやり方もあるのかと思いました。それからネパール側に入り入国審査を済ませ、ルンビニに向かいます。午後4時にルンビニへ到着し、ようやく昼食です。
 現代の海外旅行者の視点で見れば、今回の聖地巡りは秘境ツアーで過酷だと思いました。しかしその反面、昔の巡礼者の視点で見れば、現代の聖地巡りはとても安心だと感じました。旅行会社が聖地まで案内してくれて、具合が悪くなったら海外保険で医療を受けることができ、たとえ犯罪に巻き込まれても大使館に助けを求めることができます。昔の巡礼者であればそんな保障は一切なく、まさに生死を賭けて巡礼していたと思えば、現代の聖地巡りは大変有難いと思いました。
 ルンビニはブッダの生誕の地であり、四大聖地の一つです。ブッダの生母である釈迦国のマーヤー王妃は隣国のコーリヤ国の出身で、里帰り出産の為にルンビニに立ち寄りました。王妃はルンビニで産気を催し、この世にブッダが生誕されました。大乗仏教ではブッダが生誕されたときに言った天上天下唯我独尊という言葉が有名ですが、この説話には続きがあり、もう二度と生存はないと記されています。これは輪廻転生から解脱し、覚りをひらくことを意味します。
 ルンビニに入場する際は、入口で靴を脱ぐことになっています。聖地によっては脱がなくても良いところもありますが、礼拝の対象とされているところは、必ず脱ぐ必要があります。その為、履物の着脱を容易にし、足を洗いやすいように、日本からサンダルを持参しました。
 現在、ブッダが生誕された場所には建物が建っており、マーヤー堂と呼ばれています。その中にはマーカーストーンという仏足の形で作られた石が安置されています。建物の中は混雑しており、巡礼者の団体が集団で声を出してお経をあげていました。これらの行為は行く先々の聖地で見られました。ブッダが説いた教えをブッダの聖地で、ブッダや他の人々に聞かせてやろうという態度だと、まさに釈迦に説法です。思わずイライラしそうになりますが、周りがドラや大声でお経をあげていても、自分のブッダへの思いが揺らがないぞと思い、あまり気にしないようにしました。マーカーストーンの前では立礼で三帰依を心の中で唱えました。
 マーヤー堂のとなりには、ブッダが産湯に使用した際の池が残されています。見た目はプールのような四角形で、よく見るとナマズが泳いでいました。またルンビニにも礼拝の対象である樹木が植えられていました。仏教では三大聖樹というものがあり、無憂樹、菩提樹、沙羅双樹があります。無憂樹はマーヤー王妃がブッダをお生みになる際に寄りかかった樹木です。このルンビニの樹木が無憂樹と思いましたが、実際は菩提樹でした。現地ではこの周りを1周しました。
 一通り見学が終わった後、現地ガイドさんから約30分の説明時間がありました。座って聞くことになり、この時間を活かしてサティを入れてみました。午後6時頃で日が暮れてきており、周りの音や寒さも感じながらの状況でしたが、何か心に暖かい感じがするのです。ここに座っていたい思いがしてきました。しばらくすると犬が吠えてきて、追い払うかどうか困りました。頭の中で妄想を張り巡らせたところ、急に犬が静かになりました。
 ルンビニにはアショーカ王の石柱が建っています。アショーカ王は紀元前3世紀の人物で、王がこの聖地を参拝した記念に石柱が建てられました。石柱は行く先々の聖地で見られました。歴史学上ブッダとルンビニは存在自体が疑問視されていましたが、近代にドイツ人考古学者がアショーカ王の石柱を発見したことにより、ブッダとルンビニの実在が証明されました。
 聖地巡りの後は、ルンビニのホテルに宿泊しました。(2021年へつづく)



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