月刊サティ!

Web会だより

  2018年1~6月号  

『素晴らしきヴィパッサナー瞑想との出会いに感謝!』
                                                           磯崎 富士雄
  この『月刊サティ!』の読者の皆さんの中には、瞑想に出会って人生が変わったという方が多いのではないかと思います。実は私もその例外ではありません。なぜ瞑想に興味を持つようになったのか、その経緯を振り返ってみたいと思います。
  子どものころから、一人っ子でカギっ子という家庭環境の中、一人で物思いにふけることが多い時間を過ごしました。やがて、中学生になり、フロイトの著書やシュールレアリズム絵画に触れ、「人とは何か」「人の心の奥底には何があるのか」「自分はいったいどこから来てどこへ行くのか」、そんなことに疑問を抱きながら、青春時代を過ごしました。
  大学生の時、1970年代末から1980年代初めにかけて、ちょうど世の中は精神世界ブームと言われる状況で、平河出版社から雑誌『メディテーション』が創刊され、青山にメディテーションセンターがオープンしました。自分もこの時初めて瞑想を体験しました。当時、山田孝男の著書『瞑想入門』(現在『瞑想のススメ』と改題改訂して出版されている)が瞑想における座右の書でした。また、大学の哲学の講義で、プラトンやニーチェと並ぶ哲学者の一人としてブッダが紹介され、初めて原始仏教に触れることができました。中でもマッジマ・ニカーヤ(中部経典)に記された「筏のたとえ」が鮮明に記憶に残っていますが、「お釈迦様」として神格化されない人間ゴータマ・シッダールタの存在に大きな衝撃を受けました。また、原始仏教が「葬式仏教」と揶揄される日本の仏教とはかなり違うという印象を持ちました。
  しかし、この時に原始仏教への理解がさらに深まることはなく、ユング心理学やインド哲学、特にウパニシャッド哲学に傾倒していきました。時折、瞑想はしていても当時はサマディや神秘体験を意識した瞑想、すなわちサマタ瞑想にしか心惹かれませんでした。とはいえ、最近知ったことではありますが、日本にヴィパッサナー瞑想が広く知られるようになったのは、意外に歴史が浅く、日本ヴィパッサナー協会が瞑想センターを開設し、スリランカからスマナサーラ長老が来日された1989年以降のことのようです。
  仕事では、異文化に興味があったことから、大学卒業後に専門教育を受け、日本語教師になりました。その1年目の夏休みに憧れの地インドを初めて訪れました。首都デリー、タージマハルで有名なアグラ、ガンジス河中流の聖地ベナレス、ブッダの初転法輪の地として知られるサルナート、そして、ビートルズもその足跡を残すガンジス河上流の聖地、リシケシュへと足を延ばしました。リシケシュではガンジス河畔のアシュラム(ヒンドゥー教の僧院)に数日間滞在し、ガンジス河を眺めながら瞑想をするという最高の時間を過ごすことができました。その後、人の体を治療する仕事に興味を持ち、鍼灸や気功を学びました。仕事も日本語教師から鍼灸師へと移り変わっていきましたが、仕事に没頭する傍ら、瞑想に対する熱意も次第に冷めていきました。
  10年余り鍼灸師の仕事を続けてきましたが、40代になって人の体に関わることだけでは飽き足らず、人の心に関わる仕事をしていきたいと思うようになりました。そして、大学院に行って心理学を学び、その後、職場の心理相談という今の仕事に就きましたが、同時に瞑想への関心が再び湧いてきました。そして、自宅近くの禅寺で坐禅を始めました。何年か坐禅に通いましたが、回数を重ねるにつれ、日本の伝統的な仏教に対する疑問を抱くようになりました。
  坐禅の時にも唱え、日本の仏教、特に密教や禅宗で重要な経典とされる『般若心経』の内容が知りたくなり、調べてみました。すると、『般若心経』はブッダの死後に作られた経典であり、ブッダ本来の教えとは大きく違うものだということを知りました。そして、原始仏教の流れを汲み、スリランカや東南アジアに広まったテーラワーダ仏教と、日本を含め、東アジアに広まった大乗仏教とは、大きく異なることがわかりました。ブッダが伝える本来の教えが知りたい、瞑想を極めたいという思いが強くなりました。気が付けば、世の中は大学時代以来の精神世界ブームとも言える、マインドフルネスがブームとなっていました。
  そんな中、その存在を知ったのがマインドフルネスの起源であり、テーラワーダ仏教が伝えるヴィパッサナー瞑想です。サマタ瞑想以外の瞑想法があること、そして、ブッダはヴィパッサナー瞑想をより重視していたことも知りました。人は過去のことを悔やんだり、悩んだり、未来のことに不安を感じたりして苦しみます。それを解決するためには、思考を止め、エゴ中心の見方から離れる必要があります。自分を客観的に、ありのままに観るヴィパッサナー瞑想はそれを可能にしてくれるものです。常に冷静でありたいと願う自分にはピッタリな瞑想法だと思いました。これからの人生を進むための羅針盤(今風に言えば、GPSでしょうか)を得たかもしれない、そんな思いになりました。このヴィパッサナー瞑想が、職場からほど近い朝日カルチャーセンターで学べることを知りました。その講師が朝日カルチャーセンターで20数年来指導を続ける地橋秀雄先生です。早速、地橋先生の著書『ブッダの瞑想法』を読み、去年の春から講座に通い始めました。
  ここで講座の内容を少しご紹介しましょう。講座は、まずダンマ・トーク(法話)から始まります。内容はテーラワーダ仏教の教えにとどまらず、最新の脳科学や心理学などの科学的知見をまじえた幅広いもので、瞑想の実践だけではなく、日常生活を送る上でもとても参考になります。後半は参加者全員で瞑想を行いますが、同じ場を共有するグループでの瞑想は、とても一体感を感じ、瞑想のモチベーションが高まります。
  講座は最後に地橋先生から参加者全員へのインタビューで終わりますが、初めて参加された方のコメントもリピーターの方からのコメントも気づかされることが多々あります。ブッダは法友の大切さを強調していますが、志を同じくする人々との交流はとても刺激を受けます。谷中でのワンデー合宿にも参加させていただきましたが、寺町の静かな環境の中、日常生活ではなかなかできない、朝から夕方まで瞑想を続けるという貴重な時間を経験することができました。地橋先生はもちろん、講座で出会い、学ぶ機会を与えていただいた参加者の皆さんに改めて感謝したいと思います。
  講座に通い、ヴィパッサナー瞑想についての理解が深まるにつれ、日常生活がどんなに自分本位で、怒りやイライラの感情に振り回されているかということに気づくようになりました。ヴィパッサナー瞑想が目指す「自分を客観的に、ありのままに観る」ことは、正に「言うは易く行うは難し」で、そう簡単にできるものではありません。瞑想を続けていても、日によって集中できる日もあれば、あまり集中できない日もあります。とはいえ、「継続は力なり」、続けることが一番です。これからも地橋先生がおっしゃるように1日最低10分でも毎日瞑想を続けていきたいと考えています。
  以上、僕の人生における瞑想との関わりについて振り返ってみました。一度の離婚、二度の大きな転職を経験しても、幸か不幸か、これまで僕は人生にそれほど苦(ドゥッカ)を感じませんでした。しかし、50代後半を迎え、高齢の両親を次々と看取る中、考えが変わってきました。両親が老い、病を患い、そして、死を迎える姿を見て、いわゆる四苦の「老病死」を強く意識するようになりました。どんなに若くて、どんなに美しくても、やがて人は老い、病を患い、死んでいくのです。自分も若い時はいつまでも自分の健康が続き、自分の夢や希望は必ず叶えられるのだと信じていました。しかし、歳を重ねるにつれ、それはエゴが作る幻想に過ぎないのだと気づくようになりました。まさにブッダが説くように一切皆苦、諸行無常であるということが実感できたのです。
  心理学者のユングは、40歳を人生の正午と表現しました。これによると、私の人生は午後540分を回ったところです。煩悩も多く、まだまだ穏やかな人生を送れそうにありませんが、これからもヴィパッサナー瞑想を通して心の清浄道に励み、残された人生で少しでも涅槃(ニルヴァーナ)に近づけていければと思います。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。



『五戒を守る』 K.I 
   ヴィパッサナー瞑想を始めてようやく半年になろうとしています。まだサティの入れ方も迷う入り口なので、瞑想による変化はよく分かりません。
  ですが、確かに変わったと自覚がある点がいくつかあります。
  朝カルのクラスに通っていて、毎回先生の詳しい話を聞いていますと、瞑想の上達以前にしっかりと整えねばならないことが分かってきました。「戒定慧」の順に修めて行かねばならない。まずは「戒」です。
  「不殺生:殺さない」「不偸盗:盗まない」「不邪淫:人倫に悖らない」「不妄語:嘘をつかない」「不飲酒:酒を飲まない」
  普通に生活していたら、人を殺さないし、盗まないし、不倫もしないし・・・と比較的簡単に考えていました。ちょっと抵抗があるのは不飲酒かな?などと気楽に考えていたのですが、いざやってみると難しいのです。
  「不殺生」手に止まった蚊を殺さない。台所のゴキブリを殺さない。今までの人生でいったいいくつの命を奪ってきたのか!愕然とします。
  「不偸盗」他人の家に行って泥棒を働いたことは無くても、ちょっと拾ったものをそのまま使ったことは無かったか?人のアイデアを自分の思いつきのように喋ったことは無かったか?
  「不邪淫」実際の行動に移さなくても、心はどうだったのか?
  「不妄語」その場を穏やかに傷つけないために、と事実ではない理由をつけたこと。相手が言ってほしい言葉を口先だけで言ったこと。たくさん嘘を言ってきたと思い至りました。
  「不飲酒」そもそも悪いと思っていなかった。
  破戒のカルマは必ず我が身に返ってくると知り、「今後は戒を守って生きる!」と決めました。
  そうして決意してみますと、毎日が清々しいのです!五戒を守るためには決意と智恵が必要です。嘘をつかずに酒を辞退する。怒りが起こらぬようにして害虫から逃れる。等々。
  ある夜、面白いことがありました。深夜、裸で風呂場のドアを開けたところ、大きなゴキブリがいました。窓を開けて追い出すわけにも行きません。今までなら躊躇なく殺虫剤だったと思うのですが、静かにドアを閉めて捕獲用のカップを取りに出ました。戻ってくるとゴキブリは消えていました。その時に思ったのは「私が不殺生戒を本気で守るかどうか、試すために現れたゴキブリだったのだな」ということでした。
  毎日の生活の中で小さな小さなできごとが、五戒を守るかどうかの試金石になっているのです。私にとっては最初の一歩でしたが、大きな一歩でした。五戒を守り続けている意識は、毎日を明るくします。
  どれほど本を読んでも、実際の行動を起こさなければ涅槃には近づけない。瞑想をいくら学んでも、実際に瞑想を続けなければ涅槃には近づけない。大事なのは毎日毎日の地道な努力だと思います。道は遠くて、今生だけでは無理かもしれません。わずか半年ですが、これが如何に無理な話か、分かってきました。でも、何回の輪廻の先でも、こうやって努力を続けるしかないのだと思います。
  カルマの法則を知ることで、とても楽になったことも特筆すべきことです。
  今までは悪いことが起きると、自分のどこが間違っていたのか、どうすれば良かったのか、何をしなければ良かったのか、自分を責めて責めていました。
  でも今私に起きていることは、全て過去の自分が積んできたカルマが発動しているだけ。すべてそう思ってただ受け入れるしかない。私にできることは、今後悪業を積まないことだけ。この考え方は私にとって大きな救いでした。
  視点も変わりました。「何がいけなかったのか?」という自分の中の犯人探しをするのではなく、因果関係を知ろうとして、これから何が必要かを考えるようになりました。
  焦らず怠けず、真剣に取り組んでいこうと思っています。



 日本の寺の住職を辞して、これから』 (1)(2)(3) 白幡憲之 
 先代住職だった父の急逝
  平成16年の暮れ、寺の住職をしていた父が急逝したとき、私は45歳でした。住職の長男ではあるものの、その頃の私は僧侶の資格を得るつもりも、いずれ寺を継ぐ意志もなく、20代後半から30代初めまでは会社勤め、30代半ばから10年あまりは翻訳者として過ごし、寺とはまったく関係ない仕事をずっとしていました。
   当時73歳だった父は、これといった体調の異状もなく年齢相応に元気でしたから、まだ後継住職のことなど決めずにいたところ、突然亡くなってしまったのです。そのため、誰が次の住職になるのか誰にもわからず、誰もすぐには決められない状態が生じました。住職が未定であれば、どうしても寺の内外がざわつき始めます。檀信徒の方たちのあいだにもある種の不安が広がりつつあるようでした。
  そうした緊急事態が出来したこともあり、そもそも僧侶になる考えすらなかった私が、「あとを継ぐ」という決意表明を周囲の方々にしました。(いま振り返れば、「思いあまって」というべき部分もあったかもしれません)

   寺の住職は世襲制だと思っておられる方が現代の日本では少なくないおかげもあり、住職の長男がともかくも「継ぐ」と表明したことで、いわば「落ち着くところに落ち着いた」といったおおかたの方々の受けとめがあり、結果的には幸いにも寺の内外の混乱や不安は静まっていきました。

上座部仏教の瞑想との出会い
  実は、私が住職になる決心をするに至るには、それよりさかのぼること3年ほどの経緯が関係していました。その間のさまざまな出来事がなかったならば、先代住職である父が急逝したときも、それをまるで他人事のように眺めるだけで、あとを継ぐという思いなどまったく浮かばなかったかもしれません。
  父が逝去する3年前に起きたこと――それは私と仏教との「邂逅」でした。そのさらに数カ月前、私は軽い鬱病になり、症状は薬で軽減したものの、この鬱の原因は自分の物事のとらえ方やそれまでの生き方にあるのではないかと感じるようになっていました。
  そこから自分の心や精神的な事柄に関心が向き、インターネットなどを通じてあれこれ探索した末、上座部仏教とヴィパッサナー瞑想や慈悲の瞑想に触れることになりました。
  当時の私は、上座部仏教が2600年前のお釈迦様の教えを忠実に守り実践しようとしている仏教であるという知識もろくになく、ましてやその上座部仏教で、「いま・ここ」にいる自分自身の変化を客観的に見つめる「観察の瞑想」や、慈・悲・喜・捨の4つの善き心を育てる「慈悲の瞑想」が実践されていることなど、つゆほども知りませんでした。
  そんな私が上座部仏教と最初に出会うことになったのが、瞑想実践では東京・新宿の朝日カルチャーセンターにおける地橋秀雄先生による入門講座、教えのほうはスリランカから来日なさり今や滞日25年におよぶアルボムッレ・スマナサーラ長老の著書を読んだことでした。私としてはそれぞれ別々に見つけた瞑想と教えでしたが、じつは二つで一つのセットになっているものの両方に、たまたま同時期にめぐり遇うことになったわけです。
   寺の住職の長男に生まれながらお恥ずかしい話ですが、私は40歳過ぎまで仏教についてあまり知らず、特に関心もありませんでした。その私が自分の心の問題をなんとかしようと彷徨した結果、一番しっくりきて得心のゆく教えと実践方法が、お釈迦様の開かれた仏教に近いとされる上座部仏教とその瞑想法だったとは・・・広い意味での因縁だったのかもしれません。

自分の心を見つめる

  私はそれからの約2年間、上座部仏教の教えと瞑想、とりわけヴィパッサナー瞑想と慈悲の瞑想の実践にのめり込みました。といっても、瞑想が進んだとか、悟りが云々などという話ではまったくなく、むしろ門をちょっと入ったあたりでウロウロしつつ、『ああ、うまくいかない、よくわからない・・・』と、もがいていたというのが現実でした。
  ところが、そんな悪戦苦闘のなかでも、自分の心の状態やクセについて数々の気づきがあり、そのつど自分の心が解放されたようにラクになってゆくのを実感しました。瞑想の素質や才能がとりたててない初心者にも、それなりの効果がある方法――『これを見つけ出したお釈迦様って、本当にスゴイなぁ』と、僭越ながら、また遅まきながら、私は驚嘆にも近い感慨を抱き、その教えと実践に生きる希望を見出した思いでした。
  平成15年には春と秋にそれぞれ10日間、地橋先生が主宰するヴィパッサナー瞑想のリトリート(合宿)に参加し、朝、目が覚めてから、夜、寝るまで瞑想を続けるなかで、こだわりやプライドが自分では容易に気づけない形で確かに私の心に巣くっていることや、自分の心のクセのいくつかをも痛切に思い知らされました。
  このように自分の心のかんばしくない面やイヤな部分がわかってくると自己嫌悪に陥りそうなものですが、そうはなりませんでした。この瞑想による気づきは、自分の心のあり様が瞬間的に、しかし淡々と呈示され、しかもそれを受け入れられる態勢が自分の心のなかに整ってきたタイミングで気づかされることになるからなのか、大きな衝撃を受けたり落ち込んだりすることなく、意外なほど素直に受け入れられるのでした。そこがこの瞑想の面白さであり、素晴らしさだとも思いました。
   こうした体験を積むうちに、私の心のなかには、上座部仏教の盛んな国でもっと瞑想をしてみたいという気持ちが芽生え、最初は憧れにも似た淡いものだったその思いは、徐々に決意として固まり始めていったようです。

父との和解?

  上座部仏教の瞑想により自分の心が解き明かされることと並行して(その裏側で?)、父の人生や生き方への理解も深まるという、予想外の副産物もありました。
  父子関係については、ご多分にもれず私も、父の生き方や考え方に反感をもつことがありました。しかも瞑想合宿を通じて自分の物事のとらえ方を確認してみると、私の自己評価のやり方には父の影響が実は大きく働いており、それも否定的な自己評価に向かわせがちな働きをしていることまで明らかになってきたのでした。
  となれば、父への反感や怒りが相当強まりそうなものですけれど、これまたそうはなりませんでした。むしろ、小学34年の少年だった当時の父が、寺の住職に嫁いだ母親の連れ子として姉兄とともに寺に入り、馴染みのない環境で暮らしてゆくうち、(兄ではなく次男の)自分が住職を継ぐことになったものの、30歳を越えたばかりの頃には大恩を感じてきた養父の住職が早逝してしまい・・・といった前半生を送った父の気持ちや思考についての理解が、瞑想合宿で自分を見つめるうちに私のなかで深まっていたようです。
  父のような境遇に置かれれば、「失敗はできない、負けられない」というこだわりにも似た気持ちを抱き、養父のあとを継いでからはなおさら、そうした気概を強くもって生きることになったのも無理はないと、私は素直に受け入れていました。そのような受け入れ方ができたのは、観察の瞑想と並行して、慈悲の瞑想も同等に行なっていたことも大きかったのだろうと思います。
   平成15年秋の10日間瞑想合宿から帰ったあと、父と私は改めて話し合ったりはしませんでしたが、どういうわけか、父と私との関係はかつてないほど穏やかで良好なものになってゆきました。お互いに相手に対して妙に構えたような(ある種の遠慮があるような?)それまでの態度が薄まり、和やかさが増した感じとでも言えばいいでしょうか。父子の間で凝り固まっていたものが溶けていったような感覚がありました。ただ、その時期は結局、父の急逝のため、1年あまりで終わりを迎えてしまったのですが・・・。

ミャンマーとの縁
  父は20代半ばだった昭和305月からの1年間、全日本仏教会の派遣留学僧の一人として、78名の同年代の日本人僧侶の仲間とともにビルマで過ごしました。
  若き日の南方仏教の国での体験は、その後50年近くもの間、父の僧侶としての生き方に何らかの影響を与えていたようです。というのも、平成16年に急逝後、父の机の引き出しを開けてみると、日本の僧侶としての戒名が書かれた紙が1枚出てきましたが、その戒名の脇に「上座部佛教比丘 ウ・ソービタニャーナ」と、かの地で授かった僧名も記されていたのです。それを見たお弟子さんたちは、いずれミャンマーに遺骨の一部を埋葬できればと考え、火葬後、分骨を行ないました。
  一方、私も上座部仏教の瞑想に出会ったのをきっかけに、日本にいるミャンマー人の方たちと交流するようになり、住職就任後は、在日ミャンマー人のために東京に滞在されているミャンマー人僧侶・オバサ・セヤドーの長期滞日ビザ申請の保証人も務めることになりました。
  平成255月には、オバサ・セヤドーのために信者の方々が寄進なさって、ヤンゴンに建設された僧院の落慶式に私も招かれ、ミャンマーを訪問しました。その折、私は父の分骨を収めた骨壺を持参しました。そしてミャンマーの僧侶の方々のはからいにより、父がかつて現地で比丘としての戒を授けられた寺院の一隅に、父の分骨を収めていただくことができました。
  そのミャンマー旅行では訪れる先々で、仏教がミャンマーの人々の生活にいかに浸透しているかを知る機会にも恵まれました。一般の方が日常的に瞑想をしている姿も目にし、人々の表情が総じておだやかである背景を垣間見た気がしました。
   父が急逝していなかったならば、きっと私は寺の住職を継ぐこともなく、その一方でミャンマーなどの東南アジアの仏教国をしばしば訪れ、瞑想センターにも滞在するようになり、そのうちにあちらで出家し・・・ということにもっと早くなっていたかもしれません。上記の諸々の事情を私から聞いたある方は、父が急逝したことについて、「お父さんがあなたをひとまず引き止めたのかもしれませんね」とおっしゃっていました。

住職退任を決意、そして・・・

  仏教寺院は仏の教えを人々に伝え広めるための拠点です。平成16年末、先代住職の父が後継者未定のまま急逝したとき、僧侶資格のない私でしたが、上座部仏教の瞑想などを通じて自分なりにお釈迦様の教えの偉大さと尊さに出会っていたため、つたないながらも自身の体験をもとに仏教の素晴らしさを、いろいろな方々に少しでもお伝えできればという思いが浮かびました。そして何より住職急逝による混乱や不安をなるべく早く静めるべきだという考えもあり、住職を継ぐ意思表明をしました。
  さらに、極めて私的事情であったことを今さらながら寺の関係者の方々に対して申し訳なく思うのですが、当時、母の認知症がかなり進みつつあり、環境の変化による病状悪化を避けたいという願いもありました。寺は住職やその家族の所有物ではなく、新しい住職が決まれば、前住職の家族などは寺を出ることになります。
  それまでとまったく異なる環境に母を置いた場合、どんな具合になるか、それも心配だったことは確かです。その母は、結局、さらに認知症が進んでゆき、父の死後2年あまり経った平成191月には介護付き高齢者マンションに入ることになりました。
  ちょうどその前月の平成1812月末、私はようやく約2年の学業等を経て宗派の総本山で3週間の加行(僧侶資格前の最後の修行)終えたところでした。母は翌平成196月の私の晋山式(住職就任式)に出席することができず、その2カ月後の8月初め、脳出血により他界しました。『これで、家族とのかかわりによりこの寺に留まる動機は、自分の中ではほとんどなくなったな』と、そのときふと感じたことを今も憶えています。
  いずれにせよ、父の急逝を経て私が住職になってからの10年間(父の急逝時から数えれば12年あまり)、寺の檀信徒の方々をはじめ、旧来からこの寺に縁の深い僧侶の方々には、さまざまなお気遣いやご支援をいただき、そうしたことには心より感謝しています。
  とはいえ、私が住職に就いた経緯は上述のとおりであり、私としては、あくまでも短期間の「つなぎ役」の住職であるという思いを、就任当時から抱いてはおりました。それでも住職になったからには、それなりに寺の維持に努め、寺の属する宗派の教えを中心に、なるべくわかりやすく正しく皆様にお伝えするべく心がけてきたつもりではあります。
  けれども一方で、上座部仏教との出会いによって仏教に惹かれるようになった私は、日本仏教の一宗派の寺の住職として、知識や能力、経験のみならず、やはり情熱に欠けており、それ故にさまざまな事柄をどうしても表面的・形式的に済ませてしまいがちになることをこの10年間、折々に痛感してきました。
  その反面、日本仏教界の現況、特に僧侶のあり方やふだんの生活の様子などを自ら目にするにつけ、どうも私には馴染みきれないものがあり、上座部仏教(という限定ではなく、むしろ仏教僧侶の本来のあり方といったほうが適切かもしれませんが)により惹かれるようにもなってきたのでした(もう少し具体的にいえば、彼我において「戒」がどうとらえられ、守られているか、というようなことなどです)。
  他方、寺の住職についていえば、本来はその宗派の僧侶としてもっとふさわしい方が住職を務めるべきであり、そういう住職のもとでこそ、檀信徒の方々もいっそう信仰熱心になって、寺の維持発展も望ましい形で期待できるものと考えるようになりました。
  平成28年末には父の十三回忌を済ませ、私はもうじき還暦を迎える年齢となり、住職になってからまる10年が経ちました。短期のつなぎ役のつもりが10年というのは長すぎると感じました。早く次の方にバトンタッチすべきだという思いが募りに募ってきたのでした。

  以上のようなことどもは、単に私のわがままによる判断や決意に過ぎないとも言えますが、決心のほどはそれ相応に強く固いものでした。また、勝手ながら期間限定のようなつもりで10年あまり力を尽くしてきましたので、ある種の疲労や倦怠感も覚え始めており、このまま惰性で続けるのはいかがなものかという思いもありました。そこで父の十三回忌法要後の挨拶でも退任をほのめかすようなことを口にし、そしてついに平成29年の春、寺にごく近い数人の僧侶の方々にはっきりと退任の意向を伝えました。
  日本の一般寺院では住職は終身続けるものだという認識が、一般の方々だけでなく僧侶の間にもありますから、私の退任の話をお聞きになった方々はいちように吃驚なさいました。
  けれども私がいわば不退転の決意のようにしてお伝えしたことと、昔から私の性格をよくご存じだった方々だったこともあり、ありがたいことに、そこまでの決心ならば後任住職の選定を進めようということになり、私の退任の意向は受け入れられました。おかげさまでその年の秋までには後任の態勢が決まり、無事に私は退任できる運びとなりました。
  平成2912月上旬、私は寺を離れ、一人暮らしを始めました。年末そして年明け後も当分の間は、引継ぎやあと片付けのために寺に出向くことになりますが、それが済めば、およそ2年後をめどに東南アジアの仏教国(ミャンマー等)に渡って上座部仏教の比丘になることを考えており、当面は日本国内でその準備を進める予定です。しばらくの間は住職退任後の心身のリフレッシュを心がけつつ、パーリ語やミャンマー語の学習を始めるつもりです。そして日常の瞑想の時間を増やすだけでなく、瞑想指導を受ける機会を積極的に求める一方、上座部仏教の教理の勉強も行なっていきたいと思案しています。その間には、ミャンマーなどを訪れ、瞑想センター等で短期のリトリートに入ることもあるかもしれません。
  さらに、これは実際にやり始めてみなければどうなるかわかりませんが、願わくはミャンマーなどで出家の身として一生を終えたいとも考えています。
  いずれにせよ、いつこの世での命が尽きるのか、誰にもわかりません。お釈迦様が「すべての物事は刻々と変化し滅びてゆく。怠ることなく修行に努めよ」と最期に説かれたことを心に留めながら、一日一日を充実させるべく過ごしてゆく所存です。

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