月刊サティ!
2017年1~6月号
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『変わりゆく人生の流れ』 (匿名希望)
私は、十代の頃は肩や首の痛みや円形脱毛等、様々な身体の症状を持っていましたが、それに苦しむという事はあまりありませんでした。 今から当時の事を振り返ってみると、両親は多額の借金を含む財産の問題で対立しており、また兄は、父から「母親は財産を弟(私)に全て与えるつもりのようだ」等と聞かされ、兄が父のスパイとして私を監視し、私が母のスパイとして兄を監視するような状態の中で思春期を過ごしていました。 親が正式に離婚し、兄を含む大半の親族との緑が切れて落ち着くまで、私の心は「苦しい」「辛い」等の感覚を麻痺させてやり過ごしていたのかもしれません。自分のこころが悲惨な状態である事実に気づきはじめた時は、間もなく成人を迎える頃でした。 大学生の頃、私は同級生達からだいぶ浮いた存在だったようです。こころでは穏やかに、平静に努め、利他的であろうとしていたのですが、肩にずっと力が入っており、目つきは険しく、何を考えているのかよく分からない状態であったため、友人や教員からは、「危ない人間」「何かの拍子で自殺してしまいかねない人」として見られていたようでした。 また授業やアルバイトの途中で、何の脈略もなしに過去の記憶、特に父親より「お前の母親の旧姓は、部落出身者が多い」等と言われた事が勝手に想起され、ずっと風邪をひいたような状態が続いていましたが、私の様子を見た母からは「甘えで病人のふりをしているのではないか」と思われ、真剣に取り合われない状況が何年も続きました。 そんな中で、私は自分の心身の状態をどうにか健康に近づけようと様々なものに手を出しました。 身体を鍛えたり、断食をしたり、霊能者の訓練を受けたり、心理治療を受ける過程で、「日常生活の中で継続が出来るもの」「目に見えない世界よりも人格の成長に主眼をおいたもの」「科学か、長い歴史によって効果が示されているもの」等の基準を徐々に自分の中で築いていき、最終的にヴィパッサナー瞑想にたどり着きました。 しかし、私が「ヴィパッサナー瞑想がとても良い」という事を頭で理解してから、継続的に実践が出来るようになるには時間がかかりました。 地橋先生の講座に通うようになり、ダンマ・トークを聞いたり、他の瞑想を学び実践している方々とも交流し、瞑想会だけでなく、できるだけ日常生活の中でも気づきを心がける中で、心身の分裂も段々となくなってきました。 なかでも、慈悲の瞑想を習慣化していった成果なのではないかと思うのですが、大学生の頃の私を知らない人からは、「明るくて元気な人」「幸せそうな家庭で育った人」と思われることも増え、どのような仕組みが働いたのか驚くばかりです。 今、私は人間関係に恵まれています。かつて私を「危ない人間」だと距離を取られていた友人とも仲良くする事が出来、私に、結婚式での挨拶を依頼してくる親友も出来ました。また、自分が憧れていた職業に就いた上に、職場でも深い人間性を持つ上司や同僚に恵まれ、対人関係のストレスなく仕事が出来ています。父や兄とは今でも絶縁したままですが、過去の家族生活を、切り捨てるだけのものとしてではなく、父は私に身体的な暴力を振るう事がなかった事や、兄は兄なりに心配していた事など、冷静に振り返れるようになってきました。 私は、瞑想を継続し「自分が幸福な状態にもなりうることを認める」ことが出来るようになったと思います。 かつての私にとって、残りの人生は辛い過去の出来事の残滓に過ぎませんでした。しかし、自分の出来る範囲で利他を心がけ、またヴィパッサナー瞑想や慈悲の瞑想を続けた事で、幸せに対する感受性が養われてきているのだと思います。 自分にはまだまだ乗り越えなければならない心の中の障壁がありますが、年々と心身の不調が減る実感を持てています。以前は風邪を引きやすく、また慢性的な疲労感から殆ど横になって休日を過ごしていたのですが、坐った状態で腹部の感覚に注意を集中すると、疲労感がだいぶ軽減するようなことが何度もあり、心身の不調を気にしないで人生を送れるようになった事は信じられないような心地がします。 今後、私自身も瞑想や利他の実践を深めると共に、他の人にヴィパッサナー瞑想の事を勧めるなど、微力ですが、苦しみに思い悩む人を減らせるように貢献していきたいと思います。 このような執筆の機会を与えてくださり、まことにありがとうございました。 |
『夫が教えてくれたこと』(前半)匿名希望 昨年の12月に、夫が突然、不慮の事故で亡くなりました。私の人生で、最も衝撃的な出来事でした。 朝元気に会社に出かけて行った夫が、夜、冷たい遺体となって警察の霊安室に横たわっていました。全身が震え、立っていられない経験を初めてしました。突然、地面が割れて地獄の底に突き落とされたような気持ちです。この世の全てが信じられなくなりました。 葬儀、事務的手続きなど、日々やらなければならないことに没頭し、夫を喪った悲しみに浸ることができませんでした。ある意味、夫が死んだという事実をどうしても受け入れたくなかったのです。 「悲しみ」の代わりに心の中に渦巻いたのは、思いもよらなかった感情でした。 それは、まず、夫の突然の死を知って我が家に駆けつけた母から言われた「今までウチはずっと何事もなく平穏に暮らしてきたのに・・・」という不平めいた言葉から始まりました。 この他にも、母からは、告別式で「今さっき(夫の)お母さんとお兄さん、お姉さんから『(夫が亡くなったので)これからはNさん(私のこと)をよろしくお願いします』って言われたけど・・・そう言われてもウチだって困っちゃう」と言われました。 同様に、傷ついた心に塩を塗りこまれるような言葉をいくつか言われたのですが、その全てに悪意は微塵もなく、ただ、感じたままを口にしている様子だったので、聞き流していました。 ただ、年末に電話がかかってきて「寂しいだろうから泊まりに行ってあげるよ。野菜とか持って行ってあげようか・・・」などと優しく言ってくれるのですが、最後に「本当にお前は、赤ん坊の頃から手のかかる子だった」と半ば呆れたように言われた時、「夫の事故死は私のせいではない!」という心の声が沸き起こり、発作的に「そんなことを言うのなら来なくていい」と言ってしまいました。 赤ん坊の頃、母の母乳の出が悪くても、母乳しか飲みたがらなかった私は、いつもお腹をすかせて泣いていたそうです。農作業で忙しい父母にとって寝不足の日々が続いたのはかなり辛かったそうです。 幼い頃から「赤ん坊のお前が泣きすぎて脱腸になり、夜中に小児科の先生を叩き起こして診察してもらったんだ。本当に大変だった」と何度も聞かされました。 そして、私を苦しめた両親の言葉がもう一つあります。それは、「この家の財産は全て弟のものだから、結婚したらこの家の土地やお金をあてにしてはいけない。お前は、嫁ぎ先で苦労して、ウチにお金を無心しに来たおばさんにそっくりだ。将来そうならないように気をつけろ」と、物心ついた時から何度も言い聞かされました。その言葉は、呪いの言葉のようでした。 ずっと父親に対して怒りの気持ちが強かった私は、ここ数年父親との関係改善に焦点を絞っていました。父親に対する認知が徐々に変化し、親に対する問題を乗り越えたと浮かれていたところに、今回、夫の死という突然の出来事が降りかかり、母に対して抱いていた心の問題が浮き彫りにされました。 母親とは良い関係が築けていたとずっと思っていました。父親に受け入れてもらえないと思っていた私は、何がなんでも母親の愛情が欲しかったのです。結婚しても実家に何かあると積極的に手伝いをしてきました。 夫の事故死という人生で一番心細い時、頼りにしていた母には「何かあったら手助けするからね」という優しい言葉を求めていました。ところが、返ってきたのはその正反対とも思えるものでした。 「お母さんから拒絶された。私はどうせ厄介者なんだ。呪いの言葉通り、私の結婚は不幸に終わった。なぜ、『お前は幸せになるよ』と育ててくれなかったのか・・・お母さんに対する今までの努力は無意味だった」ぐるぐると心の中にドス黒い感情が渦巻いていました。(続く)
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