月刊サティ!

Web会だより

  2017年1~6月号  

『サティで消える幸福感』 (前半)T.H.

以前から行きたいと思っていたタイ、チェンマイの森林僧院で修行してきた。グリーンヒルの法友が出家して修行しているので、連絡を取ってみたら快諾してもらえた。日本人になじみのないサンガの実態を理解できるようにお坊さんと同じような生活をしてみたらどうかと言われて、その提案に乗ってみた。
  毎日、夜11:00ごろ就寝し、朝3:30ごろ(外は真っ暗)に起床するという生活を送った。必ずこの時間に起きると決めて就寝すると、朝はまだ真っ暗なのに、不思議と寝坊しない。
  4:00から全体瞑想+読経を行い、6:00から托鉢をする。托鉢は村まで30分くらいの距離を裸足で歩いていく。道中では妄想が頻発したり、逆に歩行感覚に集中できたりと様々なことが起こる。托鉢コースは決まっていて、村人たちが家から出てきて野菜や炊いたご飯などをお坊さんの鉢に入れてゆく。私の役割は托鉢で受け取った食物の荷物持ちだ。ちなみに季節は9月の雨季で、強い雨が頻繁に降った。強い雨が降っても托鉢は傘をさして決行される(裸足で)
  7:30くらいに寺に戻ってきて、朝食の準備をし、8:00くらいにそろって食事を開始する。朝食の後は午後4時くらいまで自由に瞑想した。午後4時から日本人比丘2人と話をするのが日課だ。彼らが出家に至る経緯を聞いたり、私のことも話してみたり。ちなみにもう1人、日本人のアチャンがいたが、20日間のリトリートに入っており、最終日に話をしたのみだった。
  夕方6:30からお堂にて一同そろっての読経+瞑想がある。寺には蚊がかなりいて、虫除けを塗っていても、坐る瞑想中に何匹も蚊が刺してくる。最初の数日は蚊に対して嫌悪が出ていたが、途中からやや諦めの気持ちが出てきて、「生きているとこういう苦しみは避けられない」とか思うようになって、だいぶん気が楽になった。
  6日目の瞑想では読経を聞いているうちに集中が深くなってきて、その後の坐禅で鋭いサティが続くような瞑想になった。お腹の感覚、(蚊による?)かゆみ、足の痛みなどに意識を集中して、詳細に感覚を取ることができた。そのうち気持ち良くなってきた。「気分が良い」などとサティを入れたが、消えなかった。
  瞑想が終わると、なんとなく誇らしい気持ちになり「自分がいい瞑想できた雰囲気が他の人にも伝わったりしてないかな」とか、恥ずかしい妄想が出てきた。全体的に、夜にそろって瞑想するときに集中が深くなることが多かった。お坊さんと一緒に瞑想するという環境の力もあるのだろうか?
  蚊がとても多かったので、自由時間のほとんどはクティ(独居住居)で瞑想していた。あてがわれたクティには寝室とトイレ・シャワーまで付いており、予想していたよりも快適だった。ただ森林僧院なだけあって、部屋の中に蚊、アリ、芋虫などがよく出没し、まれに大トカゲ、ヘビ、ゴキブリも出た。
  最初は虫に嫌悪が出ていたが、だんだん慣れてきて、親しみを感じるようになった(ヘビ・ゴキブリを除く)。蚊がクティに入ったときにはまず腕か手に留まらせてから、静かに玄関のドアを少し開け、腕をドアのすき間に近づけ、ふっと息を吹いて蚊を外に出して、素早くドアを閉めた。
  戒律を受けていないから午後に食事をしても良いと言われたので、朝食を多めにもらって半分クティに持ち帰り、午後2時くらいに食べた。朝食が8時なので、このくらいの時刻にお腹が減ってくるのだ。少し甘いものを置いておくとたちまちアリの行列ができるので、飲み物・食べ物の管理には工夫が必要だ。

長期で修行していると決まって出てくる、おなじみの煩悩が今回もしっかりと出てくる。3日目あたりになると、過去の瞑想体験と比較して今の瞑想はたいしたことないという自責が頻発するようになる。今回は一人で瞑想することが多かったので、他人と比べての劣等感はほとんどないのだが、過去の自分との比較は避けようもない。また集中が深くなると、もっと集中したいという欲が出て、なかなか消えないこともある。これらの煩悩は手ごわいのでサティを入れて一発で解決!とはならない。さらに7日目になると、手足に思いもよらない激痛が生じてきた。(続く)

『サティで消える幸福感』 (後半)T.H.

タイ森林僧院で迎えた7日目は、午前2時ごろに目が覚めた。起き上がって、歩行瞑想を始めることにする。しばらくすると手足に激痛が生じてきた。激痛は同じ部位で長く続くのではなく、短い時間間隔で激痛が体の様々な箇所に現れるという具合だった。原因はよく分からない。あまりに痛いので、このまま集中を深めるともっと痛くなるのではないかと不安が頻出して、足裏の感覚に集中できなくなった。痛みは結構長く続いた。朝食も痛みに耐えながら取った。それでも痛みが永続するわけではなく、次第に消えていった。印象的な体験だった。おかしな話だが、その後帰国してから、また激痛を体験したいという気持ちが出てきた。理由は、どうも激痛のことを集中が深くなった証と考えているからのようだ。まさか激痛に執着するとは。
  9日目の午後に日本人のお坊さんと話していると、アチャン・チャーの法話集「無常の教え」(訳: 星飛雄馬)の一節を読んでくれた。ある比丘がアチャン・チャーに「私は静けさを得たいのです。瞑想をし、自分の心を平安にしたいのですが」と言うと、それに対してアチャンは「そらそうじゃろう、お前さんは何かを得たいのじゃな」と返答した。それを聞いて、自分も何か興味深い瞑想体験を得たいと思っていたなと深く納得した。夜630からの全体瞑想のときに、坐禅をしながら次々と現れる瞑想に対する欲に注意してサティを入れていった。すると瞑想への欲が治まっていき、平静になっていく。そのうち息苦しくなってくる。何が起こっているのかと調べてみると、お腹の膨らみ・縮みに集中しているときには、呼吸が止まるようになっているのだった。お腹の感覚を取るのはやめて、意識的に呼吸すれば 楽になるのだが、再びお腹の感覚に戻ると呼吸が止まってしまい、息苦しくなる。これを何度も繰り返した。印象的な体験だった。瞑想中の心は平静で気分は良くも悪くもなかったが、呼吸のおかげで身体的には苦が多かった。今でもこの体験を思い出すことがあるが、また同じような体験をしたいという気持ちは出てこないようだ。
  10日目は出発日で、準備や掃除で忙しかった。午後になって、20日間のリトリートを終えたばかりのアチャンと話をした。アチャンの話の中で印象的だったのが「心随観が深まっていくと、心の深くにあるネガティブな感情が見えてくる(不好正念)、そのためにはまず心地よい現象にサティが入る(好正念)必要がある」というものだった。それを聞いて6日目の夜の坐る瞑想を思い出して、「気分が良くなったときにサティを入れても気分の良さが消えなかった」と言ったら、アチャンは「それはサティが未熟だからだ」というような説明をされた。サマーディの力で現象の無常をよく理解すれば鋭いサティが入ると言っていた。その話を聞いて私が思ったのは、気持ち良さに執着しながらサティを入れていたので現象が消えなかったのではないかということだった。
  その後、夜行バスでバンコクに向かい、観光にも興味がなかったので空港に直行した。空港では待ち時間が15時間くらいあった。その間にドロドロに眠くなったり楽しくなったり、心が様々に変わった。暇だったので空港内を歩いていると、ふと幸福感を感じたので、注意しながら「幸福感」とサテ ィを入れてみる。その結果をよく見ようと思って「観察している」とラベリングをして(このラベリングを抜かすと妄想に流れる傾向がある)、心と体を観察していくと、なんと幸福感が消えていた! アチャンの言った通りだった。同じようなことがあと何回も起こった。印象的な体験だった。
  今回は途中で本を読んだり、托鉢に行ったり掃除をしたりと、グリーンヒル合宿に比べるとゆるめの修行だったが、それでも深い集中もあったし、このまま1カ月くらい修行を続けてみてもいいなあと思った。なんとか長めの休暇をとってまた寺に行ってみたい。(完)


 『変わりゆく人生の流れ』 (匿名希望)

  私は、十代の頃は肩や首の痛みや円形脱毛等、様々な身体の症状を持っていましたが、それに苦しむという事はあまりありませんでした。

今から当時の事を振り返ってみると、両親は多額の借金を含む財産の問題で対立しており、また兄は、父から「母親は財産を弟()に全て与えるつもりのようだ」等と聞かされ、兄が父のスパイとして私を監視し、私が母のスパイとして兄を監視するような状態の中で思春期を過ごしていました。

親が正式に離婚し、兄を含む大半の親族との緑が切れて落ち着くまで、私の心は「苦しい」「辛い」等の感覚を麻痺させてやり過ごしていたのかもしれません。自分のこころが悲惨な状態である事実に気づきはじめた時は、間もなく成人を迎える頃でした。

大学生の頃、私は同級生達からだいぶ浮いた存在だったようです。こころでは穏やかに、平静に努め、利他的であろうとしていたのですが、肩にずっと力が入っており、目つきは険しく、何を考えているのかよく分からない状態であったため、友人や教員からは、「危ない人間」「何かの拍子で自殺してしまいかねない人」として見られていたようでした。

また授業やアルバイトの途中で、何の脈略もなしに過去の記憶、特に父親より「お前の母親の旧姓は、部落出身者が多い」等と言われた事が勝手に想起され、ずっと風邪をひいたような状態が続いていましたが、私の様子を見た母からは「甘えで病人のふりをしているのではないか」と思われ、真剣に取り合われない状況が何年も続きました。

そんな中で、私は自分の心身の状態をどうにか健康に近づけようと様々なものに手を出しました。

身体を鍛えたり、断食をしたり、霊能者の訓練を受けたり、心理治療を受ける過程で、「日常生活の中で継続が出来るもの」「目に見えない世界よりも人格の成長に主眼をおいたもの」「科学か、長い歴史によって効果が示されているもの」等の基準を徐々に自分の中で築いていき、最終的にヴィパッサナー瞑想にたどり着きました。

しかし、私が「ヴィパッサナー瞑想がとても良い」という事を頭で理解してから、継続的に実践が出来るようになるには時間がかかりました。

地橋先生の講座に通うようになり、ダンマ・トークを聞いたり、他の瞑想を学び実践している方々とも交流し、瞑想会だけでなく、できるだけ日常生活の中でも気づきを心がける中で、心身の分裂も段々となくなってきました。

なかでも、慈悲の瞑想を習慣化していった成果なのではないかと思うのですが、大学生の頃の私を知らない人からは、「明るくて元気な人」「幸せそうな家庭で育った人」と思われることも増え、どのような仕組みが働いたのか驚くばかりです。

今、私は人間関係に恵まれています。かつて私を「危ない人間」だと距離を取られていた友人とも仲良くする事が出来、私に、結婚式での挨拶を依頼してくる親友も出来ました。また、自分が憧れていた職業に就いた上に、職場でも深い人間性を持つ上司や同僚に恵まれ、対人関係のストレスなく仕事が出来ています。父や兄とは今でも絶縁したままですが、過去の家族生活を、切り捨てるだけのものとしてではなく、父は私に身体的な暴力を振るう事がなかった事や、兄は兄なりに心配していた事など、冷静に振り返れるようになってきました。

私は、瞑想を継続し「自分が幸福な状態にもなりうることを認める」ことが出来るようになったと思います。

かつての私にとって、残りの人生は辛い過去の出来事の残滓に過ぎませんでした。しかし、自分の出来る範囲で利他を心がけ、またヴィパッサナー瞑想や慈悲の瞑想を続けた事で、幸せに対する感受性が養われてきているのだと思います。

自分にはまだまだ乗り越えなければならない心の中の障壁がありますが、年々と心身の不調が減る実感を持てています。以前は風邪を引きやすく、また慢性的な疲労感から殆ど横になって休日を過ごしていたのですが、坐った状態で腹部の感覚に注意を集中すると、疲労感がだいぶ軽減するようなことが何度もあり、心身の不調を気にしないで人生を送れるようになった事は信じられないような心地がします。

今後、私自身も瞑想や利他の実践を深めると共に、他の人にヴィパッサナー瞑想の事を勧めるなど、微力ですが、苦しみに思い悩む人を減らせるように貢献していきたいと思います。

このような執筆の機会を与えてくださり、まことにありがとうございました。


 『夫が教えてくれたこと』(前半)匿名希望
  昨年の12月に、夫が突然、不慮の事故で亡くなりました。私の人生で、最も衝撃的な出来事でした。
  朝元気に会社に出かけて行った夫が、夜、冷たい遺体となって警察の霊安室に横たわっていました。全身が震え、立っていられない経験を初めてしました。突然、地面が割れて地獄の底に突き落とされたような気持ちです。この世の全てが信じられなくなりました。
  葬儀、事務的手続きなど、日々やらなければならないことに没頭し、夫を喪った悲しみに浸ることができませんでした。ある意味、夫が死んだという事実をどうしても受け入れたくなかったのです。
  「悲しみ」の代わりに心の中に渦巻いたのは、思いもよらなかった感情でした。
  それは、まず、夫の突然の死を知って我が家に駆けつけた母から言われた「今までウチはずっと何事もなく平穏に暮らしてきたのに・・・」という不平めいた言葉から始まりました。
  この他にも、母からは、告別式で「今さっき(夫の)お母さんとお兄さん、お姉さんから『(夫が亡くなったので)これからはNさん(私のこと)をよろしくお願いします』って言われたけど・・・そう言われてもウチだって困っちゃう」と言われました。
  同様に、傷ついた心に塩を塗りこまれるような言葉をいくつか言われたのですが、その全てに悪意は微塵もなく、ただ、感じたままを口にしている様子だったので、聞き流していました。
  ただ、年末に電話がかかってきて「寂しいだろうから泊まりに行ってあげるよ。野菜とか持って行ってあげようか・・・」などと優しく言ってくれるのですが、最後に「本当にお前は、赤ん坊の頃から手のかかる子だった」と半ば呆れたように言われた時、「夫の事故死は私のせいではない!」という心の声が沸き起こり、発作的に「そんなことを言うのなら来なくていい」と言ってしまいました。
  赤ん坊の頃、母の母乳の出が悪くても、母乳しか飲みたがらなかった私は、いつもお腹をすかせて泣いていたそうです。農作業で忙しい父母にとって寝不足の日々が続いたのはかなり辛かったそうです。
  幼い頃から「赤ん坊のお前が泣きすぎて脱腸になり、夜中に小児科の先生を叩き起こして診察してもらったんだ。本当に大変だった」と何度も聞かされました。
  そして、私を苦しめた両親の言葉がもう一つあります。それは、「この家の財産は全て弟のものだから、結婚したらこの家の土地やお金をあてにしてはいけない。お前は、嫁ぎ先で苦労して、ウチにお金を無心しに来たおばさんにそっくりだ。将来そうならないように気をつけろ」と、物心ついた時から何度も言い聞かされました。その言葉は、呪いの言葉のようでした。
  ずっと父親に対して怒りの気持ちが強かった私は、ここ数年父親との関係改善に焦点を絞っていました。父親に対する認知が徐々に変化し、親に対する問題を乗り越えたと浮かれていたところに、今回、夫の死という突然の出来事が降りかかり、母に対して抱いていた心の問題が浮き彫りにされました。
  母親とは良い関係が築けていたとずっと思っていました。父親に受け入れてもらえないと思っていた私は、何がなんでも母親の愛情が欲しかったのです。結婚しても実家に何かあると積極的に手伝いをしてきました。
  夫の事故死という人生で一番心細い時、頼りにしていた母には「何かあったら手助けするからね」という優しい言葉を求めていました。ところが、返ってきたのはその正反対とも思えるものでした。
  「お母さんから拒絶された。私はどうせ厄介者なんだ。呪いの言葉通り、私の結婚は不幸に終わった。なぜ、『お前は幸せになるよ』と育ててくれなかったのか・・・お母さんに対する今までの努力は無意味だった」ぐるぐると心の中にドス黒い感情が渦巻いていました。(続く)

『夫が教えてくれたこと』(後半)匿名希望

  「赤ん坊の頃から手のかかる子だった」・・・この言葉は幼い頃から何度も聞かされたセリフです。その言葉に私は強く反応しました。
  「それはそっち側からみたことでしょう?なぜ、十分なお乳をあげられなくてごめんね、という気持ちになってくれないの?」という積年の思いがこみ上げ、それは怒りの感情に変わりました。気がつくと、お腹をすかせた赤ん坊の私が泣いている映像が頭に浮かんでくるのです。
  「お母さんは、なぜお腹をすかせた赤ん坊の私のことを可哀想と思ってくれずに、自分のことばかり被害者だと思っているの?!」と怒っていました。
  しかし、この「双方に被害者意識」を抱いていたということに気づいた時、自分の中に大きな気づきが生まれました。
  私が一番悲しく感じた母の「お願いしますと言われても、ウチだって困っちゃう」という発言は、私自身の中にあった、「夫を失い、これから子どもたちを一人で育てて行かなければならないけれど・・・本当に自信が無い。不安だらけだ。本当にやっていけるのだろうか。」という強い不安と同じだったのだ・・・と思いました。
  事故後初めて家にかけつけた時に言い放った「今まで平穏だったのに・・・」という言葉を耳にした時、不快感が広がりました。それは、我が家が母の平穏な暮らしを乱す元凶のように扱われていると感じたからです。
  しかし、そう感じた自分自身の心を観た時、「どうして突然死んでしまったの?何故もっと安全確認して行動してくれなかったの?」と亡くなった夫を哀れむのではなく、厳しく責め続けている自分がいることを自覚しました。
  私が嫌悪した母の発言と、自分の中にあった本音が同じものであったことに気づいた時、自分の中の怒りが半減しました。
  「私は何に対して怒っていたのだろうか。自分自身の本音に怒っていたのか・・・」と思いました。母は、私の本音を感知し言葉に表していただけのように感じられました。この世で私が反応することは、すべて自分自身の中にあるものではないかと思いました。
  また、私にとって夫の事故死は理不尽極まりない出来事で、無意識に大きな怒りを抱えていました。その感情はどこにもぶつけることができないものでした。(何をしても夫は戻ってこないので、夫を轢き殺した加害者に対して怒りを持つこと自体虚しいと思っていました)
  「私は出口の無い怒りの感情を母相手に吐き出していたのだ。私は母に甘えていた」という思いが心を占めるようになりました。
  さらに、自分の行動を振り返ってみました。すると、子供たちが探しものなどでとても困っていた時など「だらしないからだよ」と冷ややかにせせら笑っている自分の姿が浮かび上がってきました。私自身、子供が助けを求めていた時、突き放した行動をとっていたことが数多くありました。今回、そのカルマが戻ってきたという捉え方もあると思いました。
  様々な視点から、母との問題を考え、当初抱いていたどす黒い感情は段々薄らいでゆき、心が軽くなっていきました。母とは年末以来、現在に至るまで4カ月の間会っていません。仲直りできたら一番良いのですが、無理して「良い子」にならず、自分の心をじっくりと観察し、自然な流れに身を任せたいと思っています。
  夫が命にかえて教えてくれたことに心から感謝し、今後もさらに自分なりの理解を深めていきたいと思っています。(完)  


『ヴィパッサナー瞑想に出会って』(紫苑)
  ヴィパッサナー瞑想に出会い、私は、自分の身体を実体のあるものとして実感できるようになりました。
  五十歳を過ぎた頃、突然「一過性健忘症」という聞き慣れない病気に罹りました。医師によると、ストレスや疲労が要因となり、特に身体の変調をきたす更年期の女性が多いとのこと。再発は少なく命に関わることはないとの診断でしたが、夢遊病のような言動をくり返す私の様子に、家族はパニックになったようです。
  本人は半日の記憶が飛び、夢のような断片的なことが頭の中をめぐり、倦怠感が残りました。当時、仕事も私生活も順調で、身体も絶好調と過信し、日々フル回転で動いていました。自分の身体を客観的に感じられない私に、脳がストップをかけたのかもしれません。このことがきっかけで、家人が朝日カルチャーセンターの「ヴィパッサナー瞑想」の受講を勧めてくれました。
  日々の生活の中で、手足を車のドアにはさんだり、家の中でも気づかないうちにぶつけて青アザを作ったり、小さなケガは日常茶飯事のことでした。些細なケガや火傷は、幼い頃、戯れに小さな生き物の命をもて遊んだことのカルマと納得しましたが、自分の身体への気遣いが足りなかったことに気づきました。気づきの瞑想を始めてから、少しずつですが、切り傷や青アザが減ってきたような気がします。長い間雑な扱いをしてきた自分の身体に詫び、労(いたわ)りたいと思います。
  「ヴィパッサナー瞑想」に出会って気づかされたことがもう一つあります。子供だった私を、長所も短所も丸ごと受け止め、慈しみ愛して育ててくれた家族に対し、感謝の思いが湧いたことです。当たり前のように思っていたことを恥じ、今の自分の礎を作ってくれた祖父母、父母に感謝することが出来ました。この5年ほど、ひとり残った認知症の母を介護するために毎週実家に通っています。昔話や季節の移ろいを語り合うことがささやかな恩返しであり、私にとっても喜びになっています。
  退職後は、仕事に追われることも職場の人間関係からも解放され、心穏やかに暮らせると思っていましたが、「苦」は姿を変えて次々と現れて来ます。まだまだ、怒りの虫が治らず、自分の未熟さにつくづく嫌気がさします。でも、生きている証しと気を取りなおし、瞑想をしています。以前よりは、わずかながらも、早めに怒りを手離すことができるようになりました。行きつ戻りつですが、少しずつでも心が浄化するよう自分自信を戒めていきたいと思います。
  家族が目覚める前に歩く瞑想をし、悩める息子と餌を求める野鳥たちに慈悲の瞑想をして私の一日が始まります。
  生きとし生けるものが幸せでありますように。

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