月刊サティ!
2016年8月号~12月号
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『見えてきた、自らの課題』 Y.J.
2年前、上座部仏教と出会い、興味本位で瞑想の実践を始めました。特に悩んでいることは、ありませんでした。 仏教に全く理解を示さない家族、特に母親には閉口することがしばしばありましたが、悩みという程のことではありませんでした。職場でも悩みはありませんでした。 それは、私が日々、自己中心的に言いたい放題、やりたい放題であったためです。ストレスフリーです。 自分で言うのもおこがましいのですが、悪意ある言動では無かったため、周囲からは「変わったやつだけれど、ネタを提供してくれるし、害はない。まあいいか」というように受け止められていたように思います。 私自身「特に趣味が合う者同士でもなし。適当にコミュニケーションをとって、仲が良いような感じであればいいや」と、この状況を楽しんでいました。今思えば、仏道を知らない他人を見下していたのです。 その結果は、職場の同僚とのトラブルという形でやってきました。私の相手のことを考えない発言が、鬱気味の同僚Aの心をえぐったのです。 そのAへの同情。日々、傍若無人に振る舞い、飄々としている私への鬱憤が一気に噴き出しました。 大人の集団です。表立って何かあるわけではありません。ただ、私への無言の非難や悪意、疎外されているという感覚はありました。 見下している相手からどう思われようが、何も感じないものなのでしょうか。私は、特に困ることもなく「勝手に嫌ってくる。私にも問題はあったけれど、相手の思考に問題があるのだから、どうでもいいか」と日々過ごしていました。 「自分は泥の中にいる。愚人の中にいる。その中で咲く蓮だ・・・」 この頃の私は、恥ずかしながら、そのように思っていました。 法の力か、瞑想の結果か。多少の苦しみが降りかかってきても、心は落ち着く。しかし、反応パターンに大きな問題が残っているため、いつまで経っても多少の苦しみが降りかかってくるという状況が改善されない。そんな状態だったように思います。 どうも瞑想が進まない感じがする。何かテクニックとして間違っていることがあるのではないか。そう感じて、グリーンヒル瞑想研究所の門を叩きました。そこで、「戒→定→慧」の順に修行を進めること、心の清浄道を歩んでいくことの重要性を痛感しました。 同僚Aとのいざこざから、8か月程たった時です。何か縁があったのでしょうか。同僚Aとチームを組んで、仕事をすることになりました。 後から聞いた話では、上司の決定にAは困惑し、上司に苦情を述べたそうです。私自身は、多少心に引っかかりを感じましたが、問題とは認識しませんでした。ただ、せっかく一緒に仕事をするので、同僚Aの名前を入れて毎日、慈悲の瞑想をすることにしました。また、幾度か、真剣に懺悔の瞑想を行いました。 Aは、私のことを嫌悪しています。しかし、私はAを嫌うどころか、真剣に慈悲の波動を送り続けています。Aは、何かおかしいと感じていたことでしょう。 Aとの関係が改善されたきっかけは、覚えていません。まさに氷が少しずつ溶けるように、わだかまりが無くなっていました。それはAへ慈悲の瞑想を始めてから、8か月程たった時のように思います。その後の結果は、劇的なものでした。 Aとの関係が改善されたどころか、職場で一番親しい間柄になりました。マインドフルネスの話をすることもありました。「職場の人間とは趣味が合わないから、どうでもいい」と感じて、適当に過ごしていた日々は終わりました。トレンドとしてのレベルではありますが、瞑想の話をできる相手ができたのです。 ①何も考えない自分本位の言動。 ②他人を見下していること。 同僚Aとの関係の改善から、自分の課題が浮き上がってきました。 同時に、なぜ、大きな恩を受けてきた母親に閉口するのかが見えてきました。まさに自分の課題を、鏡のようにきれいに映し出していたのです。 今、私は自分の課題に向き合っている真っただ中にいます。 みなさんの瞑想修行が進みますように。 生きとし生けるものが幸せでありますように。 |