月刊サティ!
2016年1月号~2016年6/7合併号
『生きていていいんだ。ここにいていいんだ』 H.N.
1日10分の瞑想、クーサラ、慈悲の瞑想に毎日きちんと取り組むようになって数カ月、私は以前とは比べものにならないほど落ち着いた心で日々を過ごせるようになりました。たくさんの気づきが立て続けに起こり、生きることが劇的に楽になりました。その中でも最も大きな気づきについてご報告したいと思います。
私は若い両親の元で、物心ついたときから良い子として優等生として生きてきました。ただ、常に、「自分はお父さんお母さんの人生を食いつぶして生きているんだ」「生まれてきてよかったのかな、要らない子だったんじゃないかな」と自分の存在に対する罪悪感のようなものを感じていました。そして、いつか親に見放されるのではないかという不安を、大人から褒めてもらえるように振る舞うことでごまかそうとしていました。良い子にしていれば大事にしてもらえる、そう信じていたのです。自分の無価値感を打ち消したいがために、とにかく人から承認されるよう必死で努力しました。
もちろん、このような病的なほどの承認欲求に振り回されていることには、自分では全く自覚がなく、いつも頑張りすぎて、無理をして、しんどい思いをしていました。その結果、私は、「生きることはどうしてこんなに辛いのだろう。早くこの世から去ってしまいたい」という思いをひとりで抱え込むようになりました。でもそんなことは人に話せば心配させてしまうので、誰にも言えずにいました。
そんなある日、私は自分の苦手なことを人から指摘され、ひどく傷つき怒りを覚えました。そこでその気持ちを整理したくて思いつくまま紙に書き出してみたところ、苦手でできない自分を自己弁護している裏には、「自分は無能で、人に評価されることしか頑張れない卑しい人間だ」という思いがあることに気づきました。そしてその根底には、「何もできない人間(自分)は生きている価値がない」という強烈な固定観念が根を張っていることを知り、また一方では、「そんなことを思ってはいけない、寝たきりのお年寄りだって、生まれたての赤ちゃんだってそこにいるだけで周りの人は幸せじゃないか・・・」と、頭では必死で何とか打ち消そう、否定しようとしていたのです。
こうした生きる苦しさを抱えながらも、ブッダの教え、そしてヴィパッサナー瞑想に縁が生まれ、気づきによって「あるがまま」に観る心を養い整えて行く修行と、自分に対しても「幸せになっていいんだよ」と許可してくれる慈悲の瞑想とに真剣に取り組むようになりました。そしてふと読んだ本に、「固定観念を解消するにはその逆を信じてみればいい」とあったのを見て、試しに、「何もできない自分は生きている価値がない」という固定観念の逆に、「人間は存在しているだけで既に認められている、何もできない自分だったとしても生きているだけで価値がある」と紙に書いてみました。そうすると、スーッとそれが心に収まったのです。今まで頭では分かっていたつもりだったのに、この時はじめて本当に理解できたんだという実感がありました。自分の生きづらさの一番根っこにあったものが崩れ去って、「生きていていいんだ」という安心と喜びが一気に押し寄せてきて、涙が溢れました。
このことは瞑想中に起こったものではありません。しかし、真剣に瞑想に取り組んできたことが、本当に必要なときに最適な情報を得るというこの上ない現象に繋がったのだと私は深く感謝しています。そして今では、自分の無価値感や強い承認欲求が自分の中にあるということを認め、受け容れた上で、「生きているなら何かができる。生きることができるから生きていていいんだ」と思えるようになりました。
さらに日常生活においても、仕事が速くなったり、クレーマーに怒鳴られる業種なのに自分だけ激減したり、苦手な上司とも理解し合えるようになったりなどの変化も起きてきました。これからも生きる拠りどころとして淡々と瞑想を続けていきながら、こうした出来事についてもいつかご報告させていただきたいと思っています。
このような筆を執る機会を与えていただき、ありがとうございました。瞑想に励む皆様の修行が進みますように、お祈りしております。
『煩悩との二人歩記(ふたりあるき)』
中道精進
昨年一月から瞑想会に参加させていただいています。きっかけはいつの頃からか心に芽生えた他者に対する不寛容や怒りの感情に気づかされたことでした。例えば、日常会話や職場で間違った言葉や内容を発言する人やスタッフがいるとわざわざ叱って訂正する、駅で階段の昇降矢印を無視する人が許せない、電車の乗車口で両脇に陣取り邪魔になる人が許せない・・・など、きりがありません。自分が思っている常識や学問やマナーを盾にして、私は正しいけれどあなたは間違っていますよ、という感情です。
ところが、「あれ?私は間違わないの?」「何をそんなに怒っているの?」「嫌な自分だな」などの気持ちが起きてきて、その時ふと立ち寄った書店で目に飛び込んできた一冊からヴィパッサナー瞑想を知ったのが一昨年の十二月でした。
本だけで自己流の癖などを付けたくなかったので、年明けの瞑想会まで待って地橋先生の初心者指導を受けました。最初は全然集中できず、サティやラベリングも間に合わなかったり抜けたりしていました。帰宅してからは一日最低十分の歩く瞑想を日課にして欠かさず実践していましたが、なかなかありのままのサティがリアルタイムで入りませんでした。通勤時でも「臭った」とサティが入るはるか前に、「こんなきつい香水を誰がつけているの?」という怒りの感情が出る始末。
その後、瞑想会での超スローの歩く瞑想の指導で、方法的に細かな疑問が無くなり少し瞑想が進んだように感じました。それからは日課の瞑想に加えてダンマの勉強にも意欲と精進が溢れてきました。今、究極の法を修行しているという「慢」と「傲り」の煩悩と共に・・・。
五月には初めて1 Day合宿に参加し、充実した貴重な一日を過ごしました。面接では先生から、解脱までにはどんなに幸せだと思える瞬間も苦を見つめる能力が最後まで必要なこと、ヴィパッサナー瞑想に出会わせていただいた三宝のご加護と導きに感謝して心身共にゆだねること、そして、清浄道には大きく智慧の道と信の道があるそうですが、私には信の道を示していただきました。それは、実証していくのが仏教ということに共感していた私にも何の抵抗もなく素直に実感として入ってきました。言葉にできない確信のようなものとして。
しかしここで試練という事態を自ら招きます。私が既婚者なので話が出来るという若い女性にほのかな感情を持ってしまったのです。すぐに「父性!」とサティが入り恋愛感情には至らず終わりましたが、今考えると、日々変化生滅し続ける現象はその時に抜群のキャストを用意してくれるようです。
時を同じくして、職場でもお酒から卒業したことを宣言していたにもかかわらず、お中元に贈ってくれた方がいました。五戒を知った上では、頂いたお酒を他に勧めることも出来ず、浅はかな考えで不飲酒戒を中断しました。また飲酒した上で瞑想することも、ブッダや阿羅漢、先人の聖者たちに失礼極まりなく思い、飲酒した夜は瞑想を中断、そこからはドミノ倒し的に乱れてしまいました。本当に恐ろしいことです。
日課としていた瞑想も欠かす日が増え、煩悩は、「音楽を聴いて感動しようよ」「映画を観て泣こうよ」と、感情に直に訴えかけて邪魔をしてきます。おまけにまた慢が顔を出して、これまで原始仏教以外に学んだり親しんできた事柄に対して軽視する感情が現れてきました。所詮は世間の書物、書く者が都合のいいように事実を歪めて書いたもので真理ではない・・・とか。いったい自分は何様のつもりなのでしょうか。
こうした煩悩に気づいた時には猛烈な拒絶感と否定感が生まれました。しかし、ある日のダンマトークで先生が、「何事も嫌っているうちは終わりませんよ」といわれた一言で自分の中で何かが変わった気がしました。煩悩をただ毛嫌いしていても何も始まらない。私でも悟れる日が来るまで煩悩と付かず離れず共に歩いて行こう、と。煩悩があったからこそヴィパッサナー瞑想にも出会えたのだから。
その頃から日課の瞑想に加えて日常生活の中でもサティが入るようになり、慈悲の瞑想にもより心が入るようになりました。朝も自然に早く起きるようになり、職場ではリーダーシップよりもスタッフ皆が働きやすい環境作りを行うように行動が変わっていきました。
最後になりますが、今回法施の勧めをしてくださり心より感謝を申し上げます。そして文章を書きながらも瞑想にも劣らずサティが入ることに初めて気づかせていただきました。これからもどんなに躓いても挫けずに清浄道を歩んで中道に至れますように。仏法僧の三宝のご加護と共に皆様がお幸せでありますように。
『マトリョーシカ人形と孫悟空』
金子義政
昨年の6月に初めてグリーンヒルの東京瞑想会に参加させて頂いて以来9カ月が経過しました。2回の短期合宿と2回の1DAY合宿に参加しましたが、その間の自分自身の変化を振り返ってみたいと思います。
私はいわゆる関西弁で言う<イラチ>で、すぐイライラし感情的にキレることもしばしばでした。それが祟ったのでしょうか、4年前に、パワハラ上司と巡り合わせ、言葉の暴力を浴び、プライドを傷つけられたと感じた私は怒りの感情を増幅させ、それを溜め込み、体調を悪化させ、入院するハメとなりました。
その後営業部門から負担の軽い事務部門へ転勤となり、現在に至ります。この間、さすがに体に変調を来たした原因の「怒り」の感情を無くしたいとの思いに駆られ、縁あってヴィッパサナー瞑想を知り、グリーンヒルの門を叩きました。
初めて参加した瞑想会では、まさに基本的な歩く瞑想の方法から、これも基本的な五戒を守ることや、貪瞋痴を取り除いていくのが清浄道であることのお話がありました。終了後の食事会では先生より「瞑想会では指導に限界があるので、1DAY合宿に参加したら良いですよ」とのお言葉を頂きました。生憎当月の1 DAY合宿は満員でしたが、丁度短期合宿に1人空きがあるということで早速申し込みました。右も左も分からないまま、期待と不安の入り混じった中での参加でしたが、「何か得るものがある」と妙な予感がしていました。
その短期合宿では、瞑想中に半年前に亡くなった父のことが想い出されました。私は父から抑圧された印象が強く、それが足かせになっていたのか、自分の殻を壊せないのが悩みでした。「親の言う通りにすれば間違いない」と、私の希望などことごとく却下されていたのです。しかし合宿の3日前の朝、坐る瞑想の途中で、「父は私を守ろうとするが故、間違った道を行かないようにとああしたのだ」と自覚され、その刹那、涙が溢れて止まりませんでした。この状態こそが、合宿前に私が感じていた「何か得るもの」だったのだと思います。
合宿の最後の面接で、「下山後は変化を感じますよ」と言われ、いったいどんな変化があるのだろうと思っていましたが、下山後一週間ほど経過したある日、いつものように通勤電車で車窓を眺めでいると、いつもと違って、まるで映画の1シーンのような別世界に感じる瞬間がありました。その時なぜか「ああ生かされているんだ」という想いがこみ上げ、また涙が溢れてきました。その後、あれほど取り憑かれていたマイナスの妄想が激減しました。
ヴィッパサナー瞑想の効果を実感した私は、1日30分以上を目標とし、継続は力なりと、歩く瞑想をメインとして励みました。そうするうちにセンセーションが次第にクリアになり、しばしばその感覚に感動を覚えるようになりました。集中すると、鳥肌が立ち涙が出ることもあったのです。しかしこれが一つの落とし穴でした。この感覚を知った私は、「もっと長時間集中して行って極めたい」と欲が出、10月は1 DAY合宿と短期合宿に連続して参加しました。1DAY合宿では良い瞑想になった感覚があったので、その後の短期合宿は期待が大きかったのですが、初日は全く集中が出来ず、他の参加者の発する音にイライラし、サティも入らず、完全な不善心所モードとなっていました。2日目も最初のうちは同じ状態でしたが、「まあこうやって修行ができるのは幸せなことだ」と居直ると、突然あの鳥肌が立つ感覚が蘇り、涙が溢れてきました。面接でその経過を話すと、先生より「誰でも100%通過する過程です」と言われました。
その後は比較的イライラも無く、精神的に落ち着いた日常でしたが、もう手放したとさえ思っていた「怒り」の感情が蘇ることがあり、1月に再度1DAY合宿に参加しました。先生の面接では意外にも、「瞑想は進んでいる」とのことでした。「人の心は多重構造で、マトリョーシカ人形のように、浄化して一体外れてもまた次の一体が現れる。だけど1体外れる毎に残った人形は小さくなる」と。
内省すると、私の「怒り」の感情は父からの抑圧から逃れられないとの劣等感に因るものと自覚され、その劣等感のある自分を受け入れることにより、イライラなどの不善心所は減ってきたのだと感じます。しかし、「怒りの感情やプライドの元は劣等感」と、ちゃんと先生の本に書いてあるのです。
何回も読み返していたのに、いかに人は自分の都合のいいように認識を編集するものかと納得しました。そしてお釈迦様の手の平で踊っている孫悟空の話を思い出し、苦笑せざるを得ませんでした。私の清浄道もまだ始まったばかり、また次のマトリョーシカ人形が現れるまで地道に継続するしかありません。
『苦 (ドゥッカ)が指し示す道』 岡田行矢
瞑想を始めるきっかけとなったのは中学生の時から悩まされてきた頭痛です。その頭痛は始まると1時間以上持続し、痛みは強烈なものでベッドの上で七転八倒するようなとても苦痛を伴う酷い体験です。それはだいたい2年に1回のペースでやってきて、発作期間に入ると約1カ月間、毎日2~3回頭痛発作に襲われます。
その頭痛が起きている期間は毎日発作に怯え、発作が起きると気力と体力を根こそぎ奪われ何をする気も起きなくなります。何か目標に向かって努力していても頭痛発作が起きることで気力をなくし、全てが崩れていきました。しばらく頭痛から解放されてまた何かに頑張って取り組んでいても、頭痛発作が起きれば再び無気力で「できない自分」に逆戻りです。そのようなことが重なっていくともう俺は何もできない、頑張ったって無駄なんだと投げやりになっていきました。
その頭痛が起きないようにしたいと思い、1年前に出会ったのがヴィパッサナー瞑想でした。瞑想によって得られる静けさや優しい気持ちは心地よく、もっとこの世界を知りたいと思うようになりました。瞑想に取り組んでいるとある程度までは集中が深まりサティの精度も上がってくるのですが、そこから先に進まなくなりました。また慈悲の瞑想にまったく気持ちがのらないのです。
瞑想が深まってくると、なぜか自分が日々感じている怒りや高慢な部分が首をもたげてきました。というのは、私は他人を見下して怒りにかられることが多く、自分が一番偉いと思うことさえあり、明らかに自分が悪くても、心から相手に対して謝罪するということが一度もなかったということが明確に自覚でき、その問題から目をそむけて逃げているということにわだかまりがあったのです。瞑想をすればするほどそのような問題が僕の目の前に立ちはだかってきてどうにも瞑想ができなくなるので、先生の助言にも助けられとうとうその問題に正面から向き合って克服していく決意をしました。その決意をしたときの妙に清々しい気持ちは印象的でした。
ヴィパッサナー瞑想で頭痛を完璧に克服したという実感はまだありません。頭痛発作はだいたい2年に1回のペースでやってくるので、起きるとしたら2016年だろうと思います。しかし、怒りや高慢に対して日々取り組んで行くことで、生きることが少し楽になりました。なぜなら、怒ることや他人を批判することに、いかに無駄なエネルギーを膨大に使っていたかが分かったからです。また、そのことで以前はまったく気持ちがのらなかった慈悲の瞑想や懺悔の瞑想も少しできるようになり、以前よりも柔らかで温かい気持ちで過ごすことができています。
そして、自分になぜこれほどの頭痛が生じるのかということもよく考えるようになりました。仏教の考え方で事象には必ず原因があるということを常に意識していると、日々の生活の中でカルマ論の検証ができ理解が深まります。すると諦めていた人生ももしかしたら自分で切り開いていけるのではないかという希望も湧いてきました。
そして、仮に私の現在の最大の苦 (ドゥッカ)である頭痛が起きても、そのとき自分に生じている感覚や気持ちの変動に鋭くサティを入れていき、それでもし頭痛の原因を特定できたら、また自分がレベルアップできるチャンスになるのではないかと考えるようにもなりました。
少し良いことばかり述べてしまいましたが、実際はそう一朝一夕に人格が向上することはありません。日々の生活の中で怒りにかられることもまだしばしばあります。しかし私には、怒りや高慢を必ずや克服して完璧な慈悲を実践するという究極の課題が頭痛を克服しようとすることで明らかとなり、毎日家で行う瞑想や毎月の瞑想会に出席させていただくことで課題を再確認し、その道を意欲的に歩んでいけるということが喜びや自信にもつながっています。
『人生のどんでん返し ―ヴィパッサナー瞑想との出会い―』 前田晃幸
私はヴィパッサナー瞑想に出会ってから現在までに考え方が変化したことを、「怒り」「視点」「無常」の3項目毎に述べていきます。
まず「怒り」です。
私は、表面では短気で怒りやすいタイプに見えませんでしたが、怒りを溜めこむ人間でした。
「お前の子孫、3代先まで恨んでやる!!」を合言葉に、一度、嫌がらせや、裏切った嫌いな相手を許さず、他の人と一緒にその相手の悪口を言うのが楽しく、「悪口を言っても、私たちに嫌な思いをさせたので、当然の報いだ!!」と当然の権利だと思っていました。
ヴィパッサナーを学んでからは、怒りを受けても怒りで返さず、日常生活では職場等で皆が誰かの悪口を言っていても、その輪には入らず、淡々と自分の仕事に集中するようにすると、最悪の人間関係にはならず、人から完全に嫌われることがなくなりました。
しかし、まだ私も修行が足りず、悪口を言ってしまう事がありますが、その時は対象に対し、懺悔の瞑想をするように心掛けています。またヴィパッサナーを知るまでは「後悔=怒り」と知らず、失敗や取り返しの出来ない事をやってしまったら、一人で後悔し続け、「取り返しが出来る時までタイムマシーンで戻れれば良いのに!!」とばかり考えていました。そんな後悔の考えは非常に自分自身を苦しめ、まさに、「こぼれた牛乳を嘆いても仕方ない」を理解していても嘆いてしまうという悪循環でした。今は多少後悔するものの、「失敗しないと勉強出来なかった」と思うようになり、これから改善して今から出来ることを考え行動しています。
2番目は「視点」です。
昔から「相手の立場に立って考えろ」と自分自身では十分理解したつもりでした。しかし私に対して嫌がらせ等をした人たちを許せず、理解に苦しむことが多くありました。ヴィパッサナーを学んでからは、その行動が相手にとっては正しく、様々な事情、自分の立場を守るために行っているのだと思えるようになりました。また私も昔は、誰かの視点で見ると、相手が傷つく事をやっていたんだろうと思います。
最近では、奇妙な行動を取る人でも、相手の視点になって見てみると、その奇妙な行動を取る理由、育ち方をしてきたのではという原因が見えてきて、大部分の人を差別しなくなりました。
最後に「無常」です。
ヴィパッサナーを知るまで「無常」という考え方を知らず、苦しんでいました。どんな人も次に会うときには違う考え方になっていると気付くと、ずっと対象に対し執着していた自分にバカバカしくなりました。
そして、エベレストに登山する時の重い荷物のように、人、物、時などに執着していたんだと気づき、それらを手放すと心が軽くなりました。最近では久しぶりに会う人に対し、どういう人格に変化しているのか、無常を楽しむようにして会っています。以上、ヴィパッサナーに出会ってからの変化を述べみました。
学び始めた当初は自分の中で理解している自分と、納得しない自分で葛藤していましたが、今では少しずつですが物事を客観的な視点で観て冷静な対応が出来るようになっています。
そして冷静な目で周りの人たちを観察すると、多くの人が、私が今回取り上げさせていただいた「怒り」「視点」「無常」の3点で悩んでいることにも気づきました。
しかも多くの人が、悩みの原因にすら気づかず、他人へ非難することにより自分の正当性を認める行動や、酒などの一時的な快楽に走り、表面では解決出来たように見えても、何も解決していない人生を送っているのにも驚きでした。
しかし私も一年近く前までは同じ状況だったのです。そのことを忘れずに、苦しんでいる人を見ると昔の自分を思い浮かべ慈悲の瞑想をするようになったのも、ヴィパッサナーで智慧が付いたからだと考えます。
これからも時折、辛いことが起きたら「自分の成長には必要な出来事」、物事がうまく変わらず焦った時には「物事は少しずつしか変わらない」というヴィパッサナーで学んだ言葉を思い出して冷静な心に立ち戻り、毎日10分の瞑想を努めてまいります。