月刊サティ!

Web会だより

2015年7月号~2015年10月号

『ありのままの自分を受け容れる』 匿名希望

  私は十代の初めから様々な精神的問題を自覚しており、そのことがずっと悩みの種でした。とても緊張しやすく、気弱でなにかといえばクヨクヨと悩み、頻発する不快な妄想や恐ろしい妄想に簡単に捕われていました。また、中学時代に不登校になって以来、人付き合いもずっと苦手でしたし、この他にも自覚していた問題点を挙げていけばキリがありません。ずっと後になって精神科で受けたテストからは、ごく軽度ではありますが、発達障害の可能性を指摘されました。
  加えて、私は「無明」の直中 (ただなか)で生きていました。いつも自分の行動に迷いが生じており、何を決断するにも優柔不断、その上、行動してから後悔に苛まれることも頻繁でした。正しいこと、誤ったこととは何なのかが、大きな謎として心の中にあり、自分がどのような生き方をすれば良いのか分からず、漠然とした不安を抱えたまま日々を過ごしていました。人生の基盤となるような絶対的な真実を得たいと、いつも悩み続けていました。
  そんな私がヴィパッサナー瞑想を始めてから、2年半ほどが経過しました。そして、それによって、現在までに、自分の中のあらゆる精神的問題が劇的に改善されたか、といえば、正直にいってそうとは言えません。クヨクヨと思い悩むことは少なくなりましたが、相変わらずすぐに緊張しますし、人付き合いも苦手なままです。しかし、生きることが随分と楽になってきました。その理由としてもっとも大きいのは、問題のある自分を受け入れられるようになってきたことにあると思います。
  以前の私は、問題だらけの自分のことを嫌っていました。憎んでいたと言っていいかも知れません。自分のことを出来損ない、欠陥品などといってしょっちゅう攻撃していました。
  しかし、今の私には、そのようなことは無くなりました。瞑想を続けてゆくにつれて、少しずつ自分の欠点を許せるようになってきたのです。すると、精神的な問題に捕われて、さらなる困難を招く、という悪循環を離れることができるようになりました。つまり、精神的な問題が悩みの種では無くなってきたということです。
  加えて、瞑想に取り組み出した頃にはまったく思いもしなかったことですが、五戒を守ることと、慈悲の瞑想がとても大きな効果をもたらしました。五戒を守ることは自信をもたらし、迷いを減ずることに繋がりましたし、慈悲の瞑想は、集中力を増強し、対人関係の不安を減じてくれました。
  また、無常や無我といった仏教的な考え方が徐々に自分の中に根付いてゆくにつれて、「絶対的なものを獲得するのだ」という凝り固まった考え方が、少し柔軟になってきたように思います。それは気持ちを楽にしてくれました。
  このように、瞑想は私の生き方を大きく変えることに繋がりましたが、その過程は当然大きな困難も伴いました。自分の弱さを受け入れることはできても、嫌な部分、醜い部分に向き合ってそれらの存在を認めてゆくことは、私にとって極めて難しいことだったのです。というのも、私は少なくとも外面的にはできる限り「良い人間」でいることに努めていたつもりで、そのことはコンプレックスだらけの私が自負できる唯一といってよいものでした。怒りをあらわにする人や他人を傷つけるような人がいても、自分は違う、彼らよりは自制のできる優れた人間なのだという優越感にも似た感情があり、それは私の唯一の自信、拠り所だったのです。
  しかし、瞑想によって自分を見つめてゆくにつれて、厳しい現実が見えてきました。実際の私は、すぐに嫌悪感や怒りを生じ、他人を攻撃したくとも生来の気弱さがそれを妨げているという、それだけの人間だったのです。
  そんな自分を受け入れるのに2年以上がかかりましたが、今は自分のことを大切に思っています。乗り越えたい問題は多くとも、一生をかけて取り組んでいくつもりですし、その決意に揺るぎはありません。

 

 

 

『気がつけば出会いから7年』 J.N.

  色々なことがあったものの、自分の人生は結構順調に進んでいると感じていました。
  恵まれた環境で育ち、あまり苦労もせず大人となり、就職、結婚と進み、仕事も家庭もしっかり守ってきました。自分のことを良い人と思っていましたし、周りからもそう思われているであろうと勝手に信じていました。会社では当面の目標としていた所にも到達し、「さあこれからどこまで行けるかな?」などと考えている時のことでした。
  非常に優秀ですが、結構エゴの強いメンバーが現れ、何故か仕事が苦しく感じ始めたのです。今までなんてことはないと思っていた種類の仕事も非常につらく感じられ、猛烈な自己嫌悪に襲われたのです。今思えば、たまたま環境が良くて自分の中にあった「根深いエゴ」に気付くことがなかっただけで、その奥底にあるものとそっくりのエゴで私に向かって来る相手に出会うことにより、一気に顕在化したのだと思います。
  23年その様な状態が続き、結果一か月の休職となりました。休職中に図書館で引き寄せられるように仏教のコーナーに行き、初期仏教を知りグリーンヒルに出会うことが出来ました。気がつけばそれから7年が経過しました。
  朝日カルチャー、瞑想会、1Day合宿、短期合宿などに参加し、自宅では毎朝40分程、ヴィパッサナー瞑想、慈悲の瞑想、自分を戒める言葉を唱えることを行っています。
  もともと長続きしない性格でありますが、瞑想は何故かほぼ毎日欠かさず行っています。本当に朝早く起きて瞑想を続けられている自分が不思議です。心の何処かに、これしか自分は変われない、清くて健やかな心、慈悲と感謝にあふれ充実感のある日々を過ごしたいとの思いがあるからだと思います。そこに少しでも近づきたいと願っているから瞑想を続けているのだと思います。
  確かに直接的で感情的な「怒り」は少なくなっていますが、まだまだ数多くの「対象を嫌う心」や「慢(他者と比較する心)」を発生させているのが現状です。たぶん、自分に好意的でない人には、条件反射的に「慢」を発生させてしまっています。
  昨年短期合宿に参加させていただいた際に地橋先生から下座行を進められました。なかなか踏ん切りがつかず行動に移せなかったのですが、半年前からようやくスタートしました。今は毎週駅までの通勤路のゴミ拾いを中心に行っています。裏道も通りますので結構ゴミが多く、毎回2袋が一杯になる程拾っています。なんでゴミなんか拾っているのだとの思いや、雨が降った日はやらなくて済むのでホットしたりなど、まだまだレベルは低いのですがなんとか継続してやっています。
  ゴミを拾うなかで様々な思いが出てきます。
  さっきまで人が飲んでいたものなのに、何故捨てられた瞬間に汚いものに見えるのか。何故同じゴミで泥が付くだけでこんなに汚く感じてしまうのか。何故髪の毛は体から離れた瞬間にこんなに気持ち悪いものに変わってしまうのか。本当は差などまったく無いのに、受け入れ側の違いで大きな差が生まれることにあらためて気付かされています。
  「誰かに対して、泥を付けて見ていないだろうか」「本当は良い人なのに、たまたま泥が付いているから違うように見えているのではないのか」との意識も出てきました。
  また、ゴミを拾っていると「ご苦労様」とか「おはようございます」など声を掛けてくださる方がいますが、そのような方は、世間一般の裕福度と反比例の様な気もします。
  ゴミを拾う中で、「慢」とは何か?私の「慢」は何なのか?について考えさせられます。
  最近はこの様な日々を送っております。私の修行はまだまだですが、それでも7年前心の海の底に沈んでいた時期からすると、グリーンヒルに出会い目標を持ち、気付きを持つ生活ができていることに感謝しています。これも地橋先生をはじめスタッフの方々のお陰であり本当にありがとうございます。これからもよろしくお願い致します。

 

 

『三行日記で強化された気付きの力』 匿名希望

  長年勤めていた会社を過重労働と長年勤めていた会社を過重労働とパワハラで退職し、働く自信もなくしてアルバイトや旅行をしていた1年前、瞑想に出会いました。以前から興味があり、ネットで『ブッダの瞑想法』を知って、地橋先生の講座を受けたいと思い朝カルに通うようになりました。瞑想やダンマトークにより、過去の認知や現象世界がどんどん変化するので、すごいと感動し夢中で講座を受けました。
  今まであまり行わなかった善行も積むようになり、ボランティア帰りに法友がお持ちだった小林弘幸さんの著書『自律神経を整える諦める健康法』をお借りしました。本には、毎日「反省点」「感動したこと」「明日の目標」を一行ずつ書く三行日記が勧められていました。
  その頃私は内観を終えましたが、日常内観ができず落ち込んでいました。三行日記は反省するところが内観に似ているし、三行なら続けられるかもと、携帯に日記を書きはじめました。反省や感動を書くつもりでいると、よりそれに気付くように生活でき、目標を書くと翌日できることが全然変わるので、どんどん面白くなりました。
  だんだん携帯に書ききれなくなり、2カ月後にノートに書くようになりました。また三行日記に加え、日々の気付きを忘れないよう「気付き日記」もはじめました。
  書くことで頭が整理され、目の前の出来事に常に気付こうとする意識が強くなりました。なぜ怒りを感じているのだろうと客観視することで感情に巻き込まれにくくなり、なぜ辛いことが起こっているのだろうと観察することで、不善業の結果だとカルマ論の理解も深まりました。
  一番楽しかったのは明日の目標です。「できたこと」「できなかったこと」に赤丸や青丸をつけ、「なぜできたか」「なぜできなかったか」を振り返りました。心から納得したことは労力がかかっても絶対にやる。すごくやりたいことでも、心の中で本当に納得できていなかったらやらない。と今まで知らなかった自分に気付き、目標達成の為にどれだけ納得しているかにも注意を払うようになりました。
  目標達成が積み重なると、自己否定感の強かった自分自身を、客観的に心から褒めることができるようになりました。今までは自分の成果を人に認めてほしい気持ちがありましたが、自分以上に自分自身を認めてくれる人はいないと気付き、成果を話すことが激減しました。
  また、人間関係も変わってきました。アルバイト先の上司から1年近く攻撃的な態度を受け悩んでいましたが、その人との関係を整理してみようと、過去何度か攻撃されなかった時、私のどういう態度によってそうなったかを全て書き出してみました。内観や笑顔などいくつかありましたが、そのなかで当時の精神状態では笑顔しかできなかったので、心の中で何を思っていても、ひたすら笑顔を向けるよう試みました。
  引きつった笑顔だと思いましたが、頑張って笑顔を向け続けると徐々に攻撃が減り、二日目にはほぼ無くなりました。嬉しくなって日記に笑顔の効果を書くと、またそれが励みとなって継続でき、それから攻撃されることがなくなり、気付くと無理のない笑顔で話せるようになっていました。1カ月後にはいつも頑張っているからと初めて昇給し、日記の効果はすごいと思いました。善行をしていなかったらこの日記にも出会えなかったので、劣善ですが善行のご縁を頂けて有難いと思いました。
  日記や瞑想によって働く自信を取り戻し、フルタイムの仕事を始めました。今まで逃げるしか方法がわからなかった嫌な出来事に対し、都度解決しようとしている自分に気付き、これも全て、瞑想や内観、日記によって問題に向きあう力がついたお陰様だと、至らない私を導いて下さった先生と法友の皆様に大変感謝しています。
  その後10日間合宿に入り、日記によって自己否定感が減ったといってもまだまだ根深いものがあると気付きました。ありのままを肯定できるようになるには長い道のりになると思いますが、これからも先生のご指導のもと、日々気付き、向き合っていきたいです。

 

 

 

『真の自分の姿を受け入れて』 匿名希望

  ヴィパッサナー瞑想と出逢い、今までまったく見えていなかった自分の姿に気づかせて頂きました。わが身に起こる事柄は自ら種を蒔いたものだと分かっていても、いざ自分のことになると我執(エゴ)が邪魔をして驚くほど何も見えないものだと実感しました。
  瞑想を始めてからしばらくして、私は佐賀の内観研修所に行くご縁を頂きました。
  初めて屏風の内側に座り、母に対する自分を調べ、さらに父について調べて行くと思いもよらなかった記憶の蓋が開き、そこから衝撃的な気づきを得ることになりました。
  小学校低学年の時、父の会社の専務にはお子さんがなく、私を養女に請われたことを父から聞かされました。しかし、10歳にも満たない子供の私にその事実は衝撃が強く、受け止め方が分かりませんでした。
  思春期頃から、私は一切の生活の糧を担っている父に対し、自分の都合の良い部分では甘え、私を思っての忠告は一切聞き入れず、やりたいことを誰にも相談せず、全て一人で決めてきました。母からも冷たいと言われるほど父を嫌い、何か言われても聞いた振りをして無視するという冷酷な態度をとってきました。
  内観をしていくうちに私は自分の冷酷さ、醜さに涙が溢れて止まらなくなりました。あの時、父が誠心誠意に断ってくれたから私は本当の両親の愛情の中で育ててもらえたのに。それなのに、1度も会ったこともない専務のお宅に貰われていたらどんな生活が送れたのかと財力面のみ比べるような妄想までしていたのです。自分はなんという酷い娘だろう。父にお詫びしなければ、と心の底から思いました。ところが直後の面接では、さっきまで打ちひしがれ罪深さに大粒の涙を流していたのに、先生の前では語尾を濁してしまい、自分の冷酷さを告白できなかったのです。
  そのことを先生は見逃さず、「本当は分かっているのじゃろう?」と優しく私に問いかけて下さいました。先生にそう言われて、私は身体の中心から来る振動を感じ、身体がブルブルと震えて止まりませんでした。まさに自分の我執を認めた瞬間だったと思います。それは内観4日目、午後3時のことでした。その後は身体が楽になり、さらに内観が進みました。
  さらに5日目から嘘と盗みを調べるにつれ私は恐ろしく大きな罪に気づかせて頂きました。
  私は結婚が遅くてなかなか子宝に恵まれず、辛い不妊治療に踏み切った結果、やっとの思いで43歳で初めて妊娠することが出来ました。幸い悪阻も軽く経過は順調そうに思われましたが、突然悲劇に襲われ、私のお腹に宿った命はわずか18週でこの世を去ってしまいました。自分は何故このようなことが起こってしまったのか、その答えをずっと探し求めていました。
  我が子を喪ったことがきっかけとなり、地橋先生の著書に触れ、仏教を学ばせて頂くようになりました。内観で、お釈迦さまの教えに従いながら、ありのままの事実を認めてゆこうと進めていき、私は自分の罪を問い詰めた後に一筋の道に辿りつくことが出来ました。
  私は今までに多くの人の心・・・まごころを踏みにじり奪って来ていたのです。長い間目を背け続けてきた自分の真の姿に、やっと気づかせて頂きました。私という者は人間の面をした悪魔です。そのことを、あの子が命がけで私に教えてくれたのだと思っています。あのときお医者さまから言われた「貴女は何も悪くない。今回は運が悪かった」という言葉を支えにし、残りの人生を何も気づかぬまま過ごすことなど、今の私にはまったく考えられません。罪に与えられた苦だと認めて生きていく方が何倍も幸せだと思えるからです。
  全てのご縁を繋いでくれた生命に、言葉でたとえようのない感謝で私は満たされています。
  罪悪感と無常観、この二つを交互に深めることで自然に感謝と謙虚さが増すのだと教えて頂きました。これからいっそう瞑想に励み、自分の心を綺麗にしていけるよう清浄道に励みたいと思います。

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