月刊サティ!

Web会だより

2013年9月号~2013年12月号


『我が家のダンマトーク』 K.N.

  主人が月1回のヴィパッサナーの瞑想会に通い始めたのは、今から10年ほど前のことでした。いつも、洗い立ての白いシャツのような顔をして帰ってくるのが印象的でした。でもその頃は、帰ってきても口数は少なく、どんなことをしているのか私にはわかりませんでした。
  若い頃の主人は、普段はまじめで優しく、面白い人ですが、ひとたび自分がバカにされたり、軽い扱いを受けた時は、急に激しく怒ることがありました。それで、私や子どもはとても怖い思いをした記憶があります。
  仕事もとてもまじめに、一生懸命取り組んでいました。ところが、時折職場の人と衝突するのです。主義主張の違う人に対して意見を言わずにはおれない様子で、相手に対して、言ってはならないことを言ってしまい、その人の逆鱗に触れる感じでした。そして、結局謝らないといけなくなり、周りの方々のお世話になって、なんとか収まるというパターンでした。そんなことが2年に1回くらい続いていました。それは、瞑想会に行き始めても、まだ続きました。
  変化がおきたのは、今から34年前、子どもたちが家を離れ、夫婦だけで夕食を食べるようになった頃でした。主人が、瞑想会での「地橋先生のお話」を、食事をしながらよく話してくれるようになりました。話題は自分たちのその日あったことを色々話すのですが、例えば、「相手の行動に腹が立つことがあった日は『怒りは全てを破壊する』。うまくことが運ばなくて落ち込んだ日は『否定からは何も生まれない』。また、人から怒りをぶつけられた日は『今までに自分がした行いが返ってきただけ。因果応報。しかし、これで過去の悪行が1つ消えるのだから、祝いコーヒーを飲むといい』」など、地橋先生はこういう風におっしゃったよと教えてくれるのです。
  このような夕食時のダンマトークが、毎日のように続きました。特に、「祝いコーヒー」は何杯飲むのかというほど頻繁に話題にのぼり、私たちが人様にどれだけ怒りをぶつけてきたかをはっきり認識することとなりました。この頃から、ピタッと主人は職場で揉めることがなくなりました。
  この変化はほんとに驚くべきものでした。この夕食時の会話で、私たちの心が少しは掃除され、怒り系の心に歯止めがかけられたように思います。そして、この平穏な日々がありがたいと感じる毎日を過ごさせていただいています。
  現在、私も瞑想会に参加させていただくようになって1年になります。主人から何年も地橋先生のお話は伺っているし、本も読んでいるので、自分はすぐ良い瞑想ができるものと思いこんでいました。ところがそれは大変な思い上がりで、話に聞くのと実際にするのとは大違いで、サティをいれて一瞬一瞬気づくことは非常に難しいことがわかりました。しかし、主人もがんばってきたのだからと思い、毎日10分の瞑想を続けました。
  そうしたところ、自分の妄想だらけの心が、徐々にあらわになってきました。私は、人とのコミュニケーションで、自分の方が正しいと思うことが多く、また相手の話が自慢話に聞こえることがよくあることに気づきました。それに「高慢」とサティが入り、愕然としました。そして、一人っ子で大事にされ、小さい頃からピアノを習って、周りからほめられ、チヤホヤされてきた自分が見えてきました。
  いつも何かしら不安で落ち着かなかったのは、常に自分が相手より上に立ちたい、自分のプライドを保ちたいという高慢な気持ちが原因だったと腑に落ちました。今は以前より少し謙虚な気持ちでいることができています。そうすると、まわりの方たちも優しく助けてくださることが多くなったように思います。
  しかし、まだまだ心の清浄道の道のりは遠いです。今後も、日々精進していきたいと思っております。

 

 

 

『迷走から瞑想へ』 MK

  家は浄土真宗ですが若いときは全く宗教に興味はなく、仏教に興味をいだいたのは30才を少し過ぎてからでした。
  漠然とした虚無感からか禅に興味を持ち、近くのお寺の座禅会に参加し、折々に坐禅をするようになりました。そして、ある坐禅の本を読んだのがきっかけで10日間の座禅会にも参禅するようになりました。そこで初めてサマーディを体験し、「今って本当に有り難い。全てが奇跡的な存在で素晴らしい」と心底感動しました。
  しかし、結界で守られたお寺から普段の社会生活に戻るとその感覚はだんだん薄れていきました。
  しばらく時が経ち禅に対する意欲も薄れてきた頃、ある仙人のような先生からテーラワーダ仏教について書かれた本を勧められ、初めてヴィパッサナー瞑想を知りました。早速、ヴィパッサナー瞑想を習ってやり始めてみましたが、なかなか細かいところまでは把握できませんでした。
  また、インターネットで地橋先生の本や DVDを知り、次々と手に入れて読んでみました。そこには瞑想のやり方が緻密かつ明快に説いてあり、実践レポートにより瞑想者がどのような心境になるのか伺い知ることができて大変良かったです。
  しかし、何事も頭で理解するだけではダメで、実際にやってみないとわかりません。ありがたいことに著者ご本人が毎月瞑想の指導をされていることがわかり、瞑想会に参加させていただくようになりました。
  地橋先生は、瞑想一筋でやってこられただけあって経験も知識も豊富で、わずか数年の間に地橋先生や参加者の方々から教えられることが多々ありました。
  それに、「ヴィパッサナー瞑想を毎日最低10分だけでもしてください」というご指導は、飽きっぽい私に合っていたようで、瞑想を継続することができました。
  これまでは、慢が強く上手くできなかったら、怒りが出て嫌になって止めるというパターンを繰り返していましたが、サティを練習するうちに自分の中の貪瞋癡に気づくことができ、徐々に「心の暴走を止めて楽になる」ことに味を占めるようになりました。
  野球のイチローでさえあれだけ練習してもヒットは3割打てるか打てないかです。そう思えば私のサティがヒットする確率なんて1割あれば御の字です。芸事はなんでも、稽古でいろんな失敗を積み重ねていき、何年か経って初めて上手に出来ると言われています。
  サティも気づき→観察→洞察とレベルがあるそうで、洞察のサティが、今の瞬間、瞬間に次々と入っていく近行定をいつか体験してみたいものです。
  それから、佐賀の内観研修所で一週間集中内観させていただいた経験も本当に良かったです。両親をはじめとして、いろいろな人から恩を受けていることに気づかせてもらいました。危うく親が亡くなってから「ああすれば良かった。こうすれば良かった」と後悔するところでした。
  でも、これは日常内観をしないとすぐに忘れてしまうので要注意です。亡くなった祖父に対しての内観からは、人生のはかなさ、虚しさ、無常をひしひしと感じました。
  内観で今生を振り返ってみると、実は意外なほど豊かでありがたい人生を送らせてもらっていたことに驚きました。感動映画なんか見るよりよほど豊かなものが自分の中に眠っていました。まるで死ぬ前のおじいさんの心境になった感じでした。
  集中内観を経験してからは、日常生活で「なんでこんな目に遭わなあかんねん」と思うような出来事に遭っても、「これは全て自分が過去に同じような悪さをしてきたからや」と自然と納得することができ、自業自得と甘んじて受け止めるようになりました。
  相変わらず毎日あまり冴えない日々を送っていますが、おかげさまで心は少しずつ良い方に変わって行っているようです。今では瞑想は操体などとともに、心身を楽に快適にするための欠かせない習慣となっています。
  ご縁がありました皆様方、どうもありがとうございました。今後ともよろしくお願い申し上げます。

 

 

 

『同情されたくない』 小田絵里子

  私がヴィパッサナー瞑想と出会ったのは、4カ月前のことでした。念願だった結婚もし、仕事も順調で特に悩みがないはずなのに、なぜかふとつらい気持ちになることがあり、友人に相談してみたのです。すると地橋先生の講座を勧められ、早速受講したところ、これこそ私に必要なことだと感じました。
  その後1DAY合宿に参加し、面接でしっかりと歩く瞑想を指導していただき、足の裏の感覚をより繊細に感じられるようになりました。瞑想がますます面白くなってきた合宿3日後のことでした。
  友人達にバイバイと挨拶していると、いつの間にか感情まで繊細に感じられるようになっており、胸の奥のほんのわずかなつっぱりに気が付きました。そして突然、「同情されたくない!」と勝手に言葉が飛び出してきたのです!
  あまりに意外な感情に驚きながらも、「独りで帰るのを寂しく感じていると思われたくない」と思ったのだとすぐに理解でき、さらに「これまでの手に負えない怒りも、全てこの感情が原因」と出てきたのです。
  なぜか抑えられなかった怒りの原因が、まったく怒っていない時に思わぬ方向から理解できたことに感激しました。「同情されたくない!」というのがなぜ怒りの原因なのかは、まだ分かりませんでしたが、自覚できたことですっかり怒りにくくなれたように感じたのです。
  後日、このことを体験記としてまとめていると、今度は微かにいつも流れている音楽のような感情があることに気付きました。「‥‥幼い私が素晴らしい事をし、両親を喜ばせることが出来て誇らしい‥‥」→「それが原動力」と、また言葉が飛び出してきたのです!
  確かに、離れて暮らす両親には自慢話ばかりしており、泣き言を言った記憶はまったくありません。「そんなに私は<強がり>?‥‥それだ!」と急に謎が解けたように感じました。
  しかし、幼い頃の<両親が喜ぶ=素晴らしい自分>という想いが原動力となって努力してきたからこそ、今私は幸せなんだということにも気付き、怒りの原因をたどって何と<両親への感謝>へ行き着いたのです。
  「それならこれは怒りの原因だけど、悪いことではないのでは?」と疑問に感じた瞬間、「そのままでいいんだ!気を付けたら!」と一気に解釈が変わり始めたのです。「両親からもらった幸せになるための能力も、使い方を間違えばストレスにもなる。<つらい気持ち>はその能力が頑張りすぎて自分にダメ出ししていたからだ。それなら悩みの<食べ過ぎ・寝過ぎ・散らかし過ぎ>を嫌悪するのも本末転倒だ。そもそも食べ過ぎてはいないのに、自ら悩みを作り出していた」と気付いたのです。
  自業自得のストレスを解消するためにたくさん寝ていたのでしょうが、瞑想の効果もあってか気持ち良く起きられるようになっていました。また、完璧に片付けたいとこだわり過ぎていたことに気付き、整理するために散らかしていたものを片付けただけで、部屋は既に綺麗になっていました。
  「瞑想中の雑念、気の遣い過ぎ、心配し過ぎ等、自己嫌悪していたことにも、ただサティを入れて見守ればいいんだ!」そう思うと、ジワーンと温かい気持ちになり、余計な力が抜け、そのままの自分を受け入れようと思えたのです。
  その後、仕事中に「焦っている」と気付いた時、以前は「成長してない!」と嫌悪感が伴っていましたが、今では「真面目に頑張れている、けど、適度にしよう」といったように、考え方自体が変わっていきました。
  さらに、自分自身を受け入れられたからか、他人を嫌悪しにくくなり、誰と会って楽しく気疲れしなくなったのです。
  ヴィパッサナー瞑想を始めた頃には、嫌悪感自体が出にくくなるんだとも、それがこんなに楽なことだとも想像すらしていませんでした。瞑想者の皆さまの修行が進むことを祈りながら、これからもますます瞑想に励みたいと思います。

 

 

 『ゆるやかに変わっていく母・・・』 匿名希望

  朝日カルチャーの「ブッダの瞑想法とその理論」に通い始めてから1年半が経ちました。ふと気付けば、今までになく心が静かで軽くなってる時間が増えています。自分を取り巻く環境が劇的に変化‥‥というわけではないのですが、あたりまえの日常がどんなにか貴重で、生きていること自体が奇跡であると思えるのです。
  いつの頃からか、私は母親とことごとく折り合いが悪くなり、母を恨み、私の人生の諸悪の根源は母であると思い込み生きてきました。今思えばなんと恐ろしいことでしょう。もし自分が自分の子供に恨まれ続けていたとしたら、こんなに悲しいことはないでしょう。
  そんな感情を持ち続けながら生きてきたのですから幸せになるはずがありません。常に行く先々で人間関係に苦しみ、常に身体の不調、倦怠感を感じていました。「楽しい」ということがどういうことなのかわからなくなっていました。しまいには生きていくことも苦痛になり、消えてしまいたいというところまで落ち込んでいきました。
  その頃、友人からある新興宗教に誘われ、10年ほど在籍した後、自己啓発系セミナーや、ヒーリング等を経て、それなりにポジティブな方向に持っていくことはできるようになりましたが、母との関係は相変わらずで、いつしか母の顔は能面のようになり、すっかりまともな会話もできなくなっていました。
  実家からの電話の着信を見ただけで身体が凍りつき、夜中や朝目覚めたときに何とも言えない孤独感、虚無感のようなものとともに、呼吸が苦しくなり、痺れなど身体症状にも襲われるようになりました。
  そもそも人間の幸・不幸、善・悪、平和・戦争、優・劣‥‥といった概念が存在することが疑問で、真理を求めてさまよっていました。そしてたまたま読んだ仏教系の本から原始仏教に出合い、ヴィパッサナー瞑想というものがあることを知りました。
  ネットサーフィンでグリーンヒルのHPにたどりつき、早速朝カルに申し込みました。地橋先生の講座では毎回インタビューというコーナーがあり、個人のレポートや質問に懇切丁寧に答えてくださることにまずは驚きました。毎回の講座の中から今まで疑問に思っていたことが少しずつ紐解かれていかれる気がしました。
  どこをとっても潔いと思えるヴィパッサナーに惹かれ3か月ほど通った頃、数年前から患っていた右首筋の痛みが消えていることに気づきました。これは効果があるかもしれないと思い、一日1030分の瞑想を続けていましたが、瞑想を始めるとザワザワと何かが蠢くような感じがして、もう少し詳しくアドバイスをいただきたかったので、1DAY合宿に申込みました。
  その日はテクニック的なことを教えていただく為に参加したので、自分のプライベートな事などお話しするつもりはなかったのですが、面接に呼ばれて行くと、先生と向かい合うや否や、なぜか自分から「喧嘩の絶えない家庭に育った」こと、「父の介護に直面している」ことなど一気に話し始めたのです。
  先生は、今の私には瞑想技術よりも反応系の心の修行が必要とのことで、5日後に迫った短期合宿に参加することを勧めてくださいました。合宿に参加するなど全くの想定外でしたが、ついに積り積もった悪業に向き合う時が来たと腹を括り参加を決意しました。
  当日は「よく来ましたね」と先生が迎えてくださり、我が家に帰ったような安堵感を感じました。不思議なことに1日目から妄想が激減、いつものザワザワ感もありませんでした。また、いつも夕暮れ時に襲われる得体の知れない淋しさも感じられませんでした。さらに、寝つきの悪い私が、枕に頭が着くや否や熟睡でき、起床時に襲われる「嫌な感じ」もなくスッキリと目覚めました。
  そしてインストラクションでは、今まで自覚できなかった醜い自分の姿が顕わになり、嫌悪してきた相手に自分の姿が投影されていることがわかりました。34日の合宿が短く感じられるほど清々しい気分で帰途に着きました。
  その2か月後、内観を受け、うっすらと母の「優しさ」が感じられるようになってきた頃から、母の表情が美しくなってきたのです。「あんたなんか産まなきゃよかった!育てて損した」などとつい最近まで言っていた母から、時折「ありがとう」の言葉が出るようになりました。とはいうものの、瞑想修行は始まったばかり、本当の浄化はこれからではないでしょうか。
  今世でできる限り心のお掃除をして来世に繋げたいと願っています。


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