月刊サティ!

Web会だより

2013年1月号~2013年4月号


『ヴイパッサナー瞑想が変えてくれた人生』 Y.T. 

◎瞑想実践前
  小さい頃から、親、友達、多くの人たちを、責めて、疑って、妬んできました。そうすることが、この世の中で自分を守り、生きていくためには不可欠だと思っていました。
  中学・高校時代は、家出をし、落第し、友達関係を全く築けず、親が心労で倒れた日もありました。大学時代は、特定ドグマに依る学生運動に没入。卒業間近のある日、唯一の友の自殺に遭い、以来自責の念に苦しみ、のたうち回る日々を重ねました。
  何とか教職に就きながらも、失恋を機に強烈な自己否定感に陥り、不快な過去回想とともに、自殺衝動が頻発。
  以後、打開策を求め、各種療法や薬による治療を試みましたが、私にとっては一時的な安心感だけで、根本的な解決には至りませんでした。
  その後、遅くに結婚。程なくして、一緒に暮らす義母との軋轢に苦しみ、仕事では、モンスターペアレンツに遭い、「告訴する」などと連日訴えられました。この頃から、急激な体重増加と、6年前に発症した顎関節症の悪化に見舞われました。
  しかし、その渦中にあっても、私の、責めて、憎んで、妬んで、という攻撃的な傾向は抑えられませんでした。

◎瞑想実践後
  「今、生きているということが、他人から優しさを受けてきた証し」
  平成24年春、初めて朝日カルチャーの講座に参加。地橋先生の言葉が心に響きました。
  「生きものが生きていくことには、必ず苦が存在する」「人との関係は自分を映す鏡。自分を悪意で見る人に出会うのは、自分も悪意で人を見ているから。人が自分を善意で見てくれるのは、自分もそう見ているから」「同じ事実に対して、どこを見るか、どう枠組に入れるかで受け取り方が変わっていく」「この瞑想は、心の便所掃除」・・・。
  先生の一言一言が心に突き刺さり、自分を苦しめていた正体は、人に向けていた自身の刃だと気づきました。
  その日以来、絶対に後戻りはしない、為すべきは、すべてこの一回限りと決意し、五戒の遵守、慈悲の瞑想、サティの瞑想を重ねていきました。
  モンスターペアレンツの方に対する時、全身全霊の慈悲の瞑想ののち応対。すると一方的な批難の嵐が、「何だか、気持ちを受け取ってもらっているようで・・・」と変化。結局は転校していきましたが、残された言葉が「いい学枚でした」。この言葉には、私も校長先生も驚きました。
  顎関節症は、時に耳元に火箸を当てられたような激痛が走ったこともあります。 3度も医者を替わり、マウスピースを毎晩装着して寝ていました。
  「歯ぎしりやむやみに強く噛むことがあるのでは?」と指摘されましたが、まさにストレスや怒りの度、しきりに歯ぎしりをしていました。
  それが瞑想を始めてから、噛み締めがなくなったためか、今はほとんど症状が消えています。
  五戒の中でも最も心配だったのが、不飲酒戒です。酒を伴う宴会が社交に及ぼす効果もあろうかと考えていたからです。
  しかし、杞憂でした。忘年会や納め会も含め、 1年間、全く口にすることなく終えられました。加えて、飲食不摂生の是正により、脱メタボの爽快感が得られています。
  「瞑想実践後」の変化として最も記しておきたいことですが、私は、恥ずかしいことに、生まれて一度もまともに募金に応じたことがありませんでした。
  ある初夏の日、「交通遺児育英募金」箱を抱え、汗を流し佇む中高生の姿がありました。思わず立ち止まり、慈悲の言葉で心を満たしながら、ぎこちない動作で初めて募金。丁寧なお辞儀と、「本当にありがとうございます」の温かい声が返ってきました。その瞬間、私の体にとてつもない優しい風が吹き込み、時を置かずして私の目から温かい涙が湧き出てきました。
  瞑想を始めて1年半、必ず早朝に10分、必ず昼食前に慈悲の瞑想、必ず一日一善、そして、朝日カルチャーの講座の他、瞑想会や泊まらない1Day合宿にも参加しています。集う皆様とともに、真剣で静謐な時間を過ごさせていただき、いつも凛と整えられる心身を実感しています。
  これからも「我が身に起きたことは、それでよし」の心構えで、倦まず弛まず歩む次第です。
 
すべての衆生が幸せでありますように。 

  

 

 

『変わっていった父親像』 村田広之

  「ずいぶん劣等感の強い性格なんだなあ」気づきの瞑想をやるようになって、私が自分という人間について感じたことのひとつです。「集中力がついて、仕事がうまくいくようになって、もっと健康になって、人間関係も良くなって・・・」と、多くを期待しつつ始めた瞑想ですが、期待とは微妙に違った方向に進んでいきました。
  集中力どうこう、という前に、なぜか家族のことがしきりに気にかかるようになりました。そこで、親子関係に関する本を何冊か買って読んでみたのですが、これと瞑想があわさって、亡くなった父親との関係を見直すきっかけになりました。
  「自分は父親と充分な関係をむすぶことができなかった。それが今の自分の劣等感や性格の不安定さと関係がありそうだ」。こういったことを自覚するに至りました。
  父親は、10年以上前、私がまだ学生の時に突然亡くなりました。「風邪をこじらせて、週末に入院した」ということを聞いたと思ったら、週が明けると、死んでしまったのです。解剖したところで、末期の肺癌だったということがそこで初めてわかりました。
  突然のことで驚きはしましたが、「悲しい」という感情が出てこなかったことをよく覚えています。「親が死んだら悲しいのが普通だ」と思っていたのですが、その時は悲しさを感じることができませんでした。
  私が小さい頃から、父親と母親は、仲が良くありませんでした。子供の目から見た父親は、「いつも何かを我慢しているような感じの不機嫌な人」という印象でした。特に母親との会話を避けているようで、「お父さんは、お母さんのことが嫌いなようだ」「お父さんが不機嫌なせいで、お母さんはさみしそうだな」といったことをずっと感じていました。
  父親から話しかけられても、「子供にいい顔をする前に、もっとお母さんと仲良くしたらどうなんだ」と子供心に失望と怒りをうっすらと感じていたように思います。そうした感情が何年もずっと積み重なるうちに、同居していても父とはほとんど言葉を交わさなくなり、目を合わせることも少なくなり、父との交流は希薄なまま、突然亡くなった、ということになります。
  父親との関係はそこで凍結していたのですが、瞑想を続けていくうちに、父親について、それまでは思いもよらなかった見方をするようになりました。
  毎日の瞑想では、直近に人と関わった時の感情が反芻されることが多くありました。「自分はもっと注目されるべきだ」「居場所を確保するために、認められるような実績をあげなくては」というような感情が頻繁に出ていました。
  そして、ポッポッと何年も前の記憶も浮上してきました。小学校の先生、部活の先輩、会社の上司などを思い出し、「自分は目上の立場の男性が苦手だな」というのを再認識しました。「心を開いた会話ができず、ただ気に入ってもらえるのを待つ」「認めてもらうことに失敗したと感じる」そういう不健康なパターンをはっきりと確認しました。
  さらに、日々の瞑想を続けていく中で、父親が生きていた頃の記憶と感情も浮上してくるようになりました。親子関係についての本を読んだことも手伝ったと思います。そして、ある段階から、自分の中にこれほどある根強い劣等感や緊張、抑圧といったものが、父親にもあったのだ、ということをはっきりと確信しました。
  父の育った家庭環境について、詳しく知ることはできませんが、「お父さんとおばあちゃんは、あまり仲が良くないようだ」というのを、子供の頃にはっきりと感じたことを記憶しています。
  他にも、父親の兄弟についてなど、いくつかのことをあわせて考えていくと、「実は父親は、苦しさをかかえながら、家庭を維持しようと必死でがんばっていたのではないか。自分を抑圧して抑圧して、末期の癌であることにも気づけなかったのではないか」そういう父親の像ができてきました。
  この瞑想をきっかけとして、父親に心の中で歩み寄れた、そういう感覚が確かにあります。父の墓の前で手紙を読み上げたこともあります。「自分は大変に恵まれた家庭に生まれ、育つことができた。親には充分すぎるほど良くしてもらった。今度は自分が責任をはたす番だ」と以前にも増して強く感じるようにもなりました。
  瞑想を始めなければ、こういった展開はなかったのではないか、と思います。今後の展開を楽しみつつ、これからも日々の瞑想を続けていこうと思います。

 

 

 

『瞑想で辿りついたプリンの思い出』 Y.T.

  私が原始仏教に出会ったのは5年前のことでした。原始仏教について解説された本を書店でたまたま目にし、何冊か購入してみました。拝読させていただくと、それまで目にしたことがない透徹した論理と教えに大きな衝撃を受け、その世界にすっかり魅了されました。
  私は学生時代から、自己嫌悪と自己否定、他者に対する恨みで苦しんできました。また働き始めてからは、職場の人間関係等で辛い思いをすることが多く、それを克服するためにありとあらゆる心理療法やセミナーを試してきました。そんな時に原始仏教に出会い、「これで自分や人生を変えられる」と期待しました。
  グリーンヒルの瞑想会に来させていただくようになったのは2年前からです。最初は、瞑想する機会を増やしたいという気軽な気持ちでした。関わりが深くなったのは、一昨年の11月に初めて参加した泊まらない1Day合宿からです。その時初めて地橋先生から丁寧な個人インストラクションを受け、御指導いただく機会を得ました。それから数回の合宿を経て、昨秋には910日の合宿に参加させていただきました。
  私の場合、瞑想が順調に進んでいったわけではなく、合宿に参加させていただいてもずっと妄想の嵐の中で、「瞑想なのか、それとも妄想なのか」という状態をなかなか脱することができませんでした。そんな私も地橋先生の粘り強い御指導や法友の皆さまの温かいご支援により、910日の合宿でようやくダンマへの「入門」が叶い、普通に瞑想ができる段階に辿り着くことができました。その合宿も山あり谷ありでしたが、とにかくサティを入れ続けることに努力した結果、無明の闇に一瞬光が指すような経験がありました。
  910日の合宿最終日の朝食にプリンが出ました。何の変哲もない、スーパーでよく売られている昔からあったプリンです。そのプリンを口に入れた時、なぜか小学校の校庭の風景が思い出されました。子供時代の懐かしいような、少し切ない気持がしましたが、その時はその様子を瞑想で客観視していたせいか、大きく感情が動くことはありませんでした。
  しかし、合宿での瞑想を終了した後の最後の面接で、そのプリンのことを先生に尋ねられた時、なぜか訳もなく涙があふれ出てきました。なぜ自分が泣いているのか、その理由も分からないまま、ただ自然に涙が出てきたのです。このようなことは、日常でも、そして内観でさえも、経験したことがありませんでした。
  これについて、先生が合宿最後のダンマトークで次のようにおっしゃっておられました。
  「人はエゴによって、自分の過去を不幸一色で塗りつぶし、いつも不幸であったと編集してしまいますが、そんなことはないはずです。概して不幸な子供時代であっても、その合間には普通の家族の当たり前でささやかな幸福を感じる時があったはずです。この方にとってプリンは幸福の象徴でした。10日間にわたり、サティによって思考を止めようとした結果、エゴが少なくなり、エゴが見せまいとしてきた真実の世界が出てきたのです。この方は内観でも情動脳にスイッチが入らず、あまり変わらなかった人ですが、それが瞑想の力で変化しました。我々は『妄想している』のが常態ですが、サティの基本部分は毎日の生活に活かされるべきであり、過去を見る際にも活かされるべきです。事実をあるがままに観るということを日々実践していきしょう」
  この現象に対する先生の御理解に私も強く同感しました。エゴや妄想が強く、物事をありのままに観ることが人一倍困難な自分でさえも、一生懸命瞑想に取り組めば、変わっていけるのではないかと感じた出来事でした。精進と多くの支えによって経験することができた、人生の貴重な転換点を無駄にしないよう、また死を迎える際に後悔しないよう、残り半分を切った貴重な人生の時間をこれまで以上に、瞑想と清浄道への取り組みに使っていきたいと思います。

 

 

 

『本当に心がきれいになった瞑想・・・』 平澤久男

  私は昔から「生きる意味、目的、意義」や「我々はどこから来てどこへ行くのか」などの疑問を、心の底ではいつもうっすら考えていました。
  日常生活の中でも、心の奥底ではそのようなことが気になっていました。宗教書や哲学書などの本も、幾らか読みました。なるほどと思う部分もありましたが、どうも今ひとつピンとこない部分も、多々ありました。
  一方私の日常の生活は、基本的に怒りがありました。毎日イライラしていました。不安もありました。心配性というか自分頭の中で妄想をふくらませ、ああでもない、こうでもないと考え、自分の思い通りにならないと、不機嫌になっていました。
  そのような状態で、瞑想会に初めて参加した時のことを、今でも覚えています。
  初心者講習を受けたあと、質疑応答を聞いている時の気持ちが、それまでと違って、平静で落ち着いた気持ちになりました。今思えば完全に瞑想の効果ですが、その時はそんなこととは少しも気づかず、質疑を聞きながら「空も晴れわたって、今日はのんびりした良い日だなあ」などと思っていました。
  また、瞑想会に参加したあと一週間ぐらい、何故か職場の人々が、みんな自分に優しくなることに気がつきました。面倒なことも起こらないし、スムーズに事が運ぶのです。これも、瞑想の効果に違いないと思います。
  怒りについては、かなりよくなったと思います。怒りの感情が起こると、怒りの感情に気がつけるようになりました。サティを入れると、怒りがおさまるようになりました。
  ところが、そう簡単に怒りがおさまらないこともあります。仕事上のことで嘘をつかれたことがありました。状況からいって相手は明らかに嘘をついているのですが、証拠がありません。悔しさと怒りで、心の中がいっぱいになりました。
  しかし、怒りを言葉や行動に出してはならないと、ギリギリと歯を食いしばってその感情を観察しました。それでも怒りはおさまらない。
  「自分は何で嘘をつかれるんだ。どうして、こんな目に遭わなければならないのだ」という思いが、頭の中でぐるぐる駆け回ります。
  その時、「これが自分の過去の業の結果なのか?」「自分は過去に嘘をついたことがあるかな?」と思いました。すると突然、過去に嘘をついたことがある、と思い至りました。「そうだ、自分は一回や二回どころではなく、ごまかしや言い逃れの嘘をついたことがあるではないか。そうか、その結果がここに現れているのか、全く自業自得じゃないか」と思った瞬間、心の中の怒りや悔しさがスッとおさまってしまいました。全く不思議な体験でした。
  短期合宿に参加して、合宿が終わったあと、しばらくホワーッとした、何ともいえない優しい気持ちが続きました。
  自分の気持ちの状態があまりに変わっているので、びっくりしました。とても心地よい落ち着いた気持ちです。道を歩いている人など、周囲の人の顔がはっきり見える(見ることができる)ようになりました。
  周りの人が怖くなくなりました。対人恐怖症というと大げさですが、人に対する恐怖心的なものが、どうも自分にはあったらしい、ということに気がつきました。優しい気持ちでいる自分に、人は攻撃的になることはないだろう、危害を加えることはないだろう、そういう安心感で、人の顔がはっきり見えたり、人が怖くなくなったりしたのだと思います。
  そもそも、周りの人がよそよそしいのではなく、自分自身が周りを拒むような拒絶の雰囲気を出していて、それが他者に反映していたのではないか、という気がします。
  総じて瞑想をしていくうちに、様々なことに気づき、心が穏やかになったと思います。 前から思っていた疑問に、目から鱗が落ちる思いになりました。 原始仏教の思想や考え方に、今まで疑問に思っていたことの答えの方向性がある、という思いです。
  まだまだ信が定まっておらず、清浄道を歩んでいるなどといえる状態ではありません。しかし、瞑想を続けていると、その効果や変化が自分の中に現れてくるのを感じます。景色がだんだん変わっていく感じです。次にどんな景色がひろがってくるのか、ゆっくり少しずつ進んでいきたいと思います。

 
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