月刊サティ!

  スポットライト

決定される心

  1.瞑想ブーム
  世間では今、瞑想ブームが起こっていて、世界中で瞑想を実践する人が多くなってきています。特にマインドフルネス系の気づきの瞑想に取り組んでいる方や研究者の方が急増しており、最近グリーンヒルの瞑想会にも、都内の大学で瞑想研究をされている大学院生の方々が来られました。
  これまでの研究者というのは、修行の実践はあまりやらずに、知的な研究にばかり専念する傾向が強かったのですが、最近は様相が変わり、瞑想の実践もとても熱心に行なう方が増えてきているようです。
  つい先日も若い大学院生の方が1Day合宿に参加されました。
  1Day合宿では、瞑想初心者の方のやり方が正確かどうかを個人面接で点検することになっています。
  一般的にほとんどの方が何らかの修正をされることになります。この合宿に参加するまでに、朝日カルチャーの講座や他の講習を受けていても、それだけでマスターできる人は極めて少ないのが実状で、どうしても微調整が必要になるのです。
  ところが、驚いたことにこの大学院生の方は完璧でした。まったく修正する必要がないくらい正確にできていて、研究者でもここまでの瞑想ができるようになるのかと感銘を受けました。この方は、面接以外の瞑想の時間にもその正確さを保っていたようで、スタッフも異口同音に素晴らしいと絶賛するくらいだったのです。

2.瞑想と脳科学
  瞑想に関する論文も、ここ数年で膨大に書かれるようになってきて、瞑想に対する認識が一変したような感じがします。瞑想に対して胡散臭いイメージを持たれていた昔を知る私は、本当に時代が変わってきたのだと感慨を禁じ得ません。
  瞑想についての論文で目立つのは、瞑想状態の時の脳活動の研究です。
  学術的な論文に仕上げるためには、科学的手法を用いてエビデンス(証拠)を示さなければならないので、はっきりしたデータで表すことができる脳科学的なアプローチが必然的に多くなる傾向があります。このことについては「日経サイエンス」という雑誌でも特集を組んでいました。(『瞑想の脳科学』20151月号)
  それらの研究によると、例えば、注意散漫になっている時には、内側前頭前皮質という部位が働いていることが示されています。
  また、「あっ、注意散漫になっていた」と気づく瞬間、つまりサティが入る瞬間の脳は島皮質というところが中心的に発火していると言われています。
  注意を向け直す瞬間には、背外側前頭前皮質と呼ばれる部位が活動しています。
  そして、集中の維持には、背外側前頭前皮質が引き続き活性化するそうです。
  あるいは、仏教系の、恐らくヴィパッサナー瞑想だと思いますが、瞑想の熟達者20人くらいの脳活動を調べた研究結果もあります。その研究によると、島皮質という部位と、前頭前皮質のブロードマン領域910という部位の脳組織の体積が普通の人より大きく発達しているということでした。
  このことからわかるのは、熟達者と呼ばれるくらい瞑想修行をやると、瞑想に必要な脳領域が発達するということです。
  同様のことがロンドンのタクシー運転手における研究でも証明されていて、彼らは海馬という記憶の中枢が肥大しているそうです。ロンドンの道は複雑な上に、それを厳密に覚え込まなければタクシー運転手の試験に合格できないということで、実際に受験者の七割から八割は不合格になってしまうくらい難関なのですね。その難しい道を完璧に覚える習練を毎日やっていると、海馬が肥大するほどになるということです。
  脳も肉体ですから、鍛えればそれだけ発達するのは当然のことかもしれません。瞑想をする時に使われている脳領域は特定されてきていますので、瞑想をやればやるほど、その部位は発達するでしょう。脳科学では、このようなことがすでに明らかになってきているのです。
  先ほどのデータの元になっている被験者の数が20人というのは、証拠としては少ないような気もしますが、こうした研究が盛んに行われるようになってきたという事実が、瞑想が本当に実践され、社会的に認知されてきている証左ではないでしょうか。

3.意志決定のメカニズム
  しかしながら、これだけ瞑想に関する脳科学的な論文も増えてきたとはいえ、まだわかっていないことも多々あります。その一つが、今日お話ししようと思っている意志決定のメカニズムなのです。
  意志決定というのは、我々が「こうしよう」と何かを決める瞬間の行為です。これは自分の自由な意志ですべてを決めているような印象がありますが、本当にそうなのだろうかということです。自由意志ということをとことん突き詰めていくと、果たしてどこまで自由意志があるのかわからなくなってくるのではないでしょうか。
  このことを踏まえて、今回は『決定されていく心』というタイトルでお話ししたいと思います。なぜなら、自分が「決定する」というよりは、「決定されていく」のではないかという疑問を投げかけたいからです。
  私たち人間の脳は司令塔に喩えられていて、脳が「手を上げろ」と命令するから手が動くし、足を上げろと命令するから足が動くと考えられています。つまり、脳は司令官のような感じで、末端の身体に命令を発して自由に従わせているかのようですが、同時に「中枢は末端の奴隷である」という言葉もあるのです。
  たしかに、脳は最高司令官のように末端から上がってきた情報をまとめて意志決定する構造になっています。しかし末端から上がってきた情報は、絶対的な命のいとなみの現場から由来するものなので、それを無視するわけにはいきません。
  そうなると、末端の情報に指令させられているという印象も出てくるのです。
  例えば会社組織でも、意志決定者であるCEOや取締役が自由にやりたい放題にしているかどうか。トップがワンマンな独裁者のようにものごとを決めてしまえば、反対運動の闘争が激化したり離反して離れていく者が続出して組織の存在が危うくなるでしょう。
  そもそも現場の声を無視したり、末端からの情報を重視しない経営がうまくいく訳がないのです。まさに「中枢は末端の奴隷」であり、命令しているのではなく、命令させられているのではないでしょうか。
  人の心や身体も、基本的に同じ構造です。つまり、脳が好き勝手に自由意志で身体に命令を下しているのではなく、全身の末端から上がってくる膨大な情報を瞬時に処理しながら、生命活動を最適化するために否応のない必然の力で意志決定をさせられているのではないかということです。
  これが『決定していく心』ではなくて『決定されていく心』なのではないかというタイトルの所以です。

4.「触(パッサー)」について
  グリーンヒルの瞑想会に初めてこられた方に真っ先に説明しているのは、「対象」「六門」「識」「受」「想」「尋」「行」という認知のプロセスです。これは、例えば「対象」である情報が心に入ってくる瞬間、人間の場合には、まず眼耳鼻舌身意の「六門」のどれかに接触して意識が生まれます。ほぼ同時に「受」という感じる働きがあり、次にその情報の中身を知覚する「想」が働き、さらに細部にフォーカスする「尋」、最後に「行」の反応が起きるという認知のメカニズムが基本になります。
  このプロセスでは「対象」と「六門」がカチッとリンクする瞬間に心が生まれるとされているのですが、この瞬間のことを「触(パッサー)」と言います。この「触」は、自動的な作用のように感じられるかもしれません。例えば、バン!と音がしたら否応なく聞こえてしまうでしょう。そのため「触」は機械的に起きるので選択の余地はないという印象ですが、実はメンタルファクター(心の構成因子:仏教用語で「心所」)だとされています。
  メンタルファクターというのは、心の構成因子のことです。同じ人の心が激怒したり優しくなったり、瞬間瞬間異なるのは、一瞬一瞬の心を構成しているファクターが変化するからだと考えられています。
  例えば、怒りのメンタルファクター、嫉妬のメンタルファクター、喜びのメンタルファクターというように、情動をいくつかの感情という要素に分けて、その感情の性質に従って概念化され分類されたものをいいます。 私たちの心にさまざまなメンタルファクターが瞬間ごとに入ってきて、それによって怒ったり嫉妬したり喜んだりという行為につながるという理解の仕方です。
  いま問題の「触(パッサー)」は、機械的な作用ではなく、こうした心所の一つに分類されているのです。つまり、私たちを取り巻く膨大な「対象」の中から一つを選び出し、心を押しつける働きをしていると考えられています。バン!と音が鳴ると、その音は自分の意志と関係なく、勝手に脳の中に飛び込んできているような印象がありますが、実は、自分が心の方を音にくっつけるから、音が聞こえているという解釈の仕方です。
  例えばお腹がペコペコで無我夢中で物を食べているとします。そんな時には、パッサーは食べることのみに向いていますから、よほどの大きな音でない限り気づかないでしょう。
  ブッダご自身にも、サマタ瞑想の深いサマーディに入っている時に雷が鳴って、それは農夫が二人雷に打たれて死んだほどのものすごい音だったにもかかわらず、まったく気づかなかったというエピソードがあります。
  また目の前を五百台の牛車が通りすぎて行ってすごい砂埃と大音響を立てたのにまったくわからなかったという話もあります。
  これは、ブッダはそのとき普通では考えられないほどの深い禅定に入っていたので、たしかに耳の鼓膜は振動してその電気信号が聴覚野まで届いていたのですが、脳神経細胞を発火させることなくオフになってしまうメカニズムが働いていたということです。あまりに深いサマーディ状態においては、パッサーは外界の対象に対して心を押しつける作用をしなくなるのです。
  自分が選んだ一つの対象に注意が注がれれば、他の対象が強烈なものであってもすべて無視され無化されます。
  これが、パッサーがメンタルファクターの一つであるとされている理由です。
  しかしながら、私たちには、自分からパッサーを働かせているという自覚はありません。自分の自由な意志によって音や視覚情報に注意を向けているという意識はなく、反射的にそうしているという印象を持っています。
  実際のところ、パッサーには個人差があり、大きな音が鳴っても、百人が百人すべてその音を聞くかというとそうではないのです。音が鳴ったその瞬間であっても、それがとても大事なことを思い出したのと同時であったら、「あっそうだ!忘れていた!」という動揺で目一杯になり、その音が聞こえない可能性があります。
  さらに喩えをあげれば、台所で料理を作っていたとします。トマトサラダを作って、サンマを焼いていました。その時、外で「ガチャン!」と大きな音がします。そしてまさにその瞬間「彼女にフラれたのはこういうわけか」という妄想が浮かんだとします。
  もしこれが時系列で起きたのであれば、「(トマトを)むいた」(包丁を)握った」(トマトを)切った」(サンマが)匂った」「音」(フラれた理由が)閃いた」というサティが入ることになります。
  しかるに、時系列ではなく、これらがすべて同じ一瞬に起きたとします。すなわち、トマトの皮を剥きながらサンマを焼いていて、それが匂っている時に外で「ガチャン!」と音がして妄想が浮かぶ・・。これが完全に同一の瞬間に起こったその時、人は何に気づくでしょうか?
  たとえ100%同じ情報の中にいても、何を重視して何を無視するか、その取捨選択は人によって千差万別だということがおわかりになると思います。
  実際の生活現場では、さらに大量かつ複雑な情報が入ってくるわけです。そうした情報の海の中から何か一つを選んで、それ以外はすべて捨て去るということを瞬間瞬間に行なっているのです。人生観も価値観もこれまでの来歴も違う人たちが、それぞれまったく異なる方向にパッサーが働いて別々の認識になっているのは当然ではないでしょうか。
  これからイタリアン系のレストランで料理人として働くことを考えている人は、トマトを料理することに集中するでしょう。
  視覚的な情報処理にしても、絵を描いたりするのが好きな人はトマトの赤い色に注目するかもしれません。また、最近ガステーブルを買い替えたばかりで、グリルの状態が気になる人は、どうしてもそちらの方に優先的に注意が注がれるでしょう。 これが初物のサンマだった場合、トマトよりもサンマを焼く匂いに強く惹かれるのも当然です。
  また例えば留学していた時に、たまたまテロ事件に巻き込まれて爆発音に対してトラウマがある人なら、外で「ガチャン!」と大きな音がすれば病的に敏感に反応せざるを得なくなります。
  あるいは恋愛が人生の何よりも大事なことだと考えている人にとっては、彼女にフラれた理由を思いついた瞬間、その思考にのめり込んで他のことに意識が行かなくなるかもしれません。
  このように、パッサーというのは、その人の知識や経験や情報処理の仕方や反応の仕方、価値観、生き方の全てがミックスされた中で、ある一つの「対象」が瞬時に選び出され、それに心が反射的に押し付けられるのを繰り返しながら人間特有の認知の流れが生まれてくるメカニズムなのです。
  そして、このメカニズムを機能させているのは何か、ということです。
  自分の自由意志でしょうか? 
  自分の思い通りに、こんな複雑な認知のプロセスを采配し、展開させることができますか? できる訳がありません。
  そうしている自覚がありますか? あろう筈がありません。
  ということは、自分の心なのに、自分の裁量の及ばないところで勝手に優先順位を付けられて、反射的にパッサーが起きてしまっているということになります。
  自由意志のようでいてそうではない。自分が選んで対象認識をし、情報を取っているように感じられるが、実は選ばされているという状態。意志決定させられている状態といえばいいのでしょうか。
  こうして、自由意志というものは本当にあるのだろうかという疑問が発生するわけです。
  決定しているのか、決定されていくのか・・・。(以上、1月号)

5.姿勢が心に及ぼす影響
 先日テレビでアメリカの心理学の番組を見ていたのですが、その番組によると、姿勢が心に及ぼす影響は、私たちの想像以上のものがあるそうです。
 両腕を大きく広げて胸を張り、大空を受け止めるように体をパーっと開くようなポーズを取るとポジティブで陽気な気持ちになるし、逆に、両肩を落とし背中を丸め、ガックリうつむいた姿勢を取るとネガティブで陰鬱な気持ちになるというのです。
 それを検証する心理実験を、ラスベガスの路上でやっていました。通行人に声をかけて、テレビカメラに撮影させてくれるように頼むのですが、被験者は必ず二人連れを選ぶのです。夫婦だったり、若いカップルだったり、男同士でも女同士でもとにかく二人連れにやってもらうのです。
 それでOKを出してくれた二人連れの一方には、ガッツポーズをして「人生、最高!」とこれ以上はないハッピーでポジティブな姿勢を取ってもらいます。そして他方には、この世の終わりみたいに頭を抱えて悲嘆にくれた、人生最悪のようなポーズを取るように依頼します。そして二人ともその姿勢を取ったままで何分間かいてもらうのです。
 その後、50ドルの報酬をそれぞれに手渡して、ルーレットの盤面を見せます。ルーレットは偶数と奇数がそれぞれ2分の1の確率で出るようになっているのですが、このルーレットに50ドルを賭けて、たったら2倍の100ドルあげるが、外れたら報酬は失われゼロになると説明します。そうすると、ポジティブなポーズを取っていた方は、次々と積極的に賭けに出るのです。ところが、ネガティブな姿勢を取っていた方は50ドルのままでいいと、賭けを断るのですね。
 この傾向は見事に分かれていて、そこから姿勢が人の心理にどれだけ大きな影響を及ぼすかが明らかにされていたのです。皆さんの中でも、これから仕事の面接を受ける方やデートに行く方がいたら、ネガティブなポーズではなくて、大空に向って両手を広げこれ以上はない陽気な盛り上がるポーズを取るようにしましょう。()
 この実験は、たかが姿勢なのですが、ポーズがその人の意志決定に影響を与える可能性を示唆していて、それがこの番組の前半で、後半は環境が心に及ぼす影響についての実験でした。

6.環境が心に与える影響
 この実験では、バスケットボールをフリースローで10本投げてもらって何本入るかという実験をやってもらいます。1本も入らない人が何人も出てくるのですが、一方で10本のうち9本や10本全部入れる人もいるのです。
 その後、全然入らなかった人を集めて、もう1回やってくださいと頼みます。そうすると、だれも不得手なものはやりたくないわけです。薬剤師をしている人などは、自分はバスケットボールなんてやったことがないから無理だと断るのですが、それでもお願いして再挑戦してもらいます。
 実験の仕掛けは、まずは目隠しした状態で2本フリースローをやるように提案します。その時に、サクラの観客を何人も連れてきて、被験者には観客も応援していますからねと説明するのです。それでボールを投げると、やはり薬剤師の人はまったく入らない。でも、サクラの観客は「わー!すごい!入った!入った!」と拍手喝采して持ち上げるのです。そうすると、被験者は「本当?」と嬉しそうな表情になる。もう1本の時も同じようにサクラが歓声をあげて応援する。すると薬剤師の人はますます嬉しそうになり、自信に満ちた表情になる。
 次に、目隠しを外してフリースローを10本行なうわけです。すると前回は1本も入らなかったのに、今度は4本も入るようになったのです。中には5本入る人も出てきた。このように、全体的に成績が大幅にアップしたのです。
 なぜこのような結果になったのかを分析すると、ボールを投げようとする瞬間に、自分はどうせダメなんじゃないかとネガティブな妄想が浮かんだりすれば、脳が不快で余計な仕事をやることになり当然その影響が出てブレるだろうということです。ところが、周囲から好意的に応援されてポジティブになった場合には、迷いやためらいや疑いがないので集中しやすくなり、脳の処理の仕方が違ってくるのではないかと考えられます。
 番組では、さらに次のような実験もしていました。
 今度は、フリースローが10本のうち9本か10本入った人を対象にします。例えば、アスリートのような黒人の若者に目隠しをしてもらい、先ほどと同じようにやってもらいます。すると、サクラの観客が痛烈なブーイングを浴びせかけるのです。「ブー!何やってんだ。ダメ!ダメ!才能ない、やめろ!」などとケナします。
 実際は惜しいところで入らないのですが、ブーイングで全否定の嵐状態にするのです。それを2回やって、その後目隠しを外してフリースローを10本投げてもらうと、驚いたことに、前回はほとんどパーフェクトに決めていた青年が5本くらいしか入らなくなったのです。カメラが顔をアップすると、表情には明らかに動揺が走っていました。同じように前回高得点だった他の被験者もほとんど成績が下がったのです。
 これを見て、「応援の力」というものを感じましたね。応援してもらって盛り上がれば、自分は肯定されている、評価されている、認められていると確信でき、明らかに成績が良くなります。反対に、ケナされて自信を喪失させられると、成績は大幅に下がるのです。このことは、周囲の環境が自分の心に与える影響の大きさを示しています。
 この実験には、例外もありました。それは、スポーツが得意そうな、一目でアスリートとわかる白人の女性です。この人は同じようにブーイングされてもまったく動じないで、10本のうち9本入れることができたのです。後で、その女性にインタビューして、周りの雰囲気に影響を受けなかった理由を訊いたところ、学生時代にバスケットボールをやっていて、試合中に観客のブーイングで動揺しないようにメンタルトレーニングを積み重ねてきたということでした。
 これらの実験結果から導き出される結論としては、自分が取った姿勢にも心は影響を受けるけれど、周りの人や環境からも相当影響されるということです。共感してくれる人がいる。心から応援してくれたり励ましてもらったりする。あるいは否定されたりブーイングされたり、さまざまな環境面での要因が、自分の心や能力や意志決定に少なからず影響を及ぼし、出力するエネルギーまでが変わってしまうということです。
 私たちは自分の自由意志で、何でも決めたり行なったりしているような気がしていますが、そうではなくて、その瞬間の身体の状態や環境から受ける影響、そして何よりも自分の過去の経験の影響を受けています。特に、無意識に反射的にする行為の場合には、親の影響や生育の環境の影響がとても大きいでしょう。小さい頃から刷り込まれたものが自動的に出てしまうということですね。つまり、自分が一瞬一瞬行なっている意志決定には、無量無数無辺のものが総合的に絡み合って影響を与えているということです。
 

6.姿勢とホルモンの関係
 先ほどの身体のポーズが意志決定に影響を与えるということの医学的な説明では、身体を外側に開くと血流が良くなるため、テストステロンという男性ホルモン、これは攻撃性を司っているホルモンでもあるのですが、この分泌が増えるらしいのです。そうすると、自信がみなぎってくるというわけです。
 動物たちでも、例えばライオンのたてがみが黒っぽい雄は強いのです。雄同士が争って勝った方が勝利感を味わうとテストステロンが分泌され、その作用でたてがみの色が濃くなると言われています。雌はそのことを知っていて、必ずたてがみの黒い方を選ぶのですね。たてがみの色で交尾の相手を決めているのは、少しでも強い遺伝子を残したいという無意識の生存本能がそのような選別を行わせているのでしょう。
 またテストステロンというのは、超ポジティブな気分にさせる脳内ホルモンでもあります。これが増えると同時に、ストレスホルモンであるコルチゾールのレベルが下がります。
 このように、たかが姿勢と思うかもしれませんが、姿勢によってホルモンの分泌が変わってくるとなると、それに伴って心の状態も変化するのは当たり前のことかもしれません。例えば、オキシトシンというホルモンが出れば、必ず優しくなるのはよく知られていますね。
 脳内物質には、他にも、恐怖のホルモンもあるし、怒りのホルモンもあります。私たちの気分や感情は、これらのホルモンの作用によるものだとされていますので、姿勢が心に及ぼす影響は科学的根拠があり、無視できないということでしょう。

7.決意の力 ?意志の力
 人生を変えていくのは、意志決定をする瞬間の決意です。この決意のことを仏教用語では、「アディッターナ」というのですが、人生は決意した通りになるというのが、私が経験によって検証した確信です。ブレないで断固たる意志を貫き通せば、良くも悪くも人生はそのように展開していくものです。
 私は幼少期から小学校、中学校にかけて、徹底した模範生でした。中学の時も高校の時も生徒会長をやったり、クラス委員をやったりしていました。それを私は、家庭環境ゆえに強いられているからだと受けとめていたのです。後に内観に行って、本当は自分が好きでやっていたのだと納得できたのですが、その当時は、親をはじめとする周囲の者に期待され、強いられて模範生をやらなければならないと思い込んでいました。
 自分の素直な気持ちや本音は押し殺し、無理をして息も絶え絶え常に模範生を演じていた反動で、高校生の半ば、17歳の時にもうやっていられるかとブチ切れてしまいました。よし、大学に入ったら、グレて遊び回ってやると決意したのです。その決意の結果、その後の20代の10年間は本当にデカダンスな生活を送ることになりました。その時代は、まるで過去の自分に復讐するような感覚で生きていたのです。模範生の正反対であるダメ人間になるのが目的であるかのような荒んだ、暗い日々を過ごしていました。あるとき高校時代の友だちにばったり出会い「お前、人相悪くなったな」と言われたくらい、心が荒廃しきっていました。
 そんな頽廃的な生活をトコトンやり抜いて限界に達し、三十歳になろうとする頃、心底から「もういい。もう十分だ・・」と思いました。自ら志向した負の人生が極限に達し、陰のエネルギーが極まって陽に変わるように、もうこんな生活はごめんだ、と心の底から思ったのです。
 「浄らかになりたい!」と痛切に願い、その一心から修行を始めたのです。汚れきった身と心を浄らかにしたい、穢れを払いたい、と毎朝水をかぶって禊をする水の行をその時から17年間一日もかかさず続け、さまざまな修行に着手していきました。
 グレ始めた頃には「自分は今まで他人のために生きてきた」と思っていました。家族や周囲の人を喜ばせるために生きるのが自分の義務なのだと感じていたのです。今から思うと、アダルトチルドレンの考え方を引きずっていたのでしょう。だからこそ、模範生を演じることに疲れきったことで、今度は、自分のために生きてやると決めたのです。そして、その後の10年ほどは、本当に自分のためだけに、つまり自分のやりたいように、誰にも邪魔されず好きなように、望むがままに生きました。しかしそれも最後には、もうこの人生はダメだ、もう生きていけない・・と破綻したのです。完全に敗北したと思いました。
 そこからよく起ち上がることができたな、と今にして思いますが、まだ生きていくだけのカルマがあったのでしょう。何者かに救い出されるかのように不思議な展開があり、新たな人生が始まりました。存分に自分のためだけに生きたのだから、これからは他人のために生きたい。自分の命を、人世のために捧げたい。そのために修行をしたい、と心底決意したのです。以来、一度も決意がブレることなく今に至りました。修行者になり、瞑想者になり、苦労して培ったものを捧げ尽くしたい、恩返しをしたい・・と、いつの間にか瞑想のインストラクターになりましたが、まさにすべて自分が望んだ通りの展開になっています。
 また三十歳になり、ちょうど修行を始めたばかりの頃、私に願望実現の技法を教えてくれた方がいました。私は人並みに集中力があったので、ヴィジュアライゼーション(視覚化)は得意なのです。望んだものを鮮明にヴィジュアライズして想い描くと、本当にイメージした通りに次々と具現化していくのを目の当たりにしました。一時期それにハマったことで、まさに願いごとはことごとく叶えられ成就することを身をもって体験しました。
 「強い意志的行為は、やがて現象化する」と、後年カルマ論で説明される現象世界の法則性を、この時代に検証していたのでした。しかし、願えば叶うというその願望実現もすぐに飽きてしまって、急速に興味を失っていきました。自然に次の修行ステージに入っていったのですが、こうした経験を重ねたことによって、決意の力、意志の力、決定していく心の力の重要性が、身に沁みて腹に落ちていきました・・。(以上、2月号)


7.決意の力 ?意志の力 

  仏教では、決意はアディッターナといいますが、他に意志を意味するチェータナーという言葉もあります。チェータナーがカルマであると仏教は考えていて、業を作るのは意志であるとブッダも明言しています。このように強い意志や決意には、現象を動かす力があると考えられています。
  ナポレオン・ヒルの『思考は現実化する』という本がありますが、私は自分の経験上、願望実現の構造には根拠があることを実感しています。現象世界は自分の意志や決意によって変わっていくし、変えていくことができます。自分が心底願ったことは、基本的に必ずその通りになっていくものです。
  その願望実現のやり方については巷に多くの本が出回っていますので、ここでは、その願望を起こさせる意志決定は誰がやっているのかというメカニズムについて考察していこうと思います。本当に自分の自由意志でやっているのか、それとも、そのような意志決定をさせられているのか、という点を追究してみたいのです。最高司令塔が自由に決定しているのではなくて、末端の情報の奴隷のように意志決定をさせられているのではないかということです。
  私たちの心には、さまざまな情報が膨大に詰まっています。過去の経験も、周囲の環境も、その時の姿勢も、人間関係も、本で読んだ知識も、体調も、そのような諸々の要因の相互作用によって、総合的に意志決定をさせられているのではないかと私は考えています。

8.マナシカーラ
  仏教には、マナシカーラという言葉があります。人間の場合には、眼耳鼻舌身意の六門から情報が入ってくると、その情報が脳内の既存のデータと結びついて、そこからドミノが倒れるように連想や思考が始まります。情報が心に飛び込んできた瞬間、それを脳内の既存のデータにくっつける作用をマナシカーラと呼んでいます。
  これは、パッサー()と同じようにほとんど反射的に起きることなので、意識的にコントロールすることができません。例えば、何か連想が始まるときは、自分の意志で起こしたのでしょうか?  連想というものは、あッという間にかってに始まっていくのです。心のドミノは一瞬にしてパタパタと倒れていくのであって、自分では決められません。
  私たちは、ABBC・・と自分で思考を展開させているようにも感じますが、多くの場合、思考は無意識下で自動的に駆けめぐっていて、自分の意志の力はかかわっていないのです。
  例えば、瞑想会に参加した方はどなたも集中して瞑想しようと思うでしょう。ところが、いざ瞑想が始まると、お呼びではないのに妄想がかってに現れてきます。妄想したくなくても出てくるのです。そして、その妄想の内容は、自分が決めているのではなく、ひとりでに頭の中に浮かんできていませんか?
  自分としては妄想をしたくないのです。中心対象の足やお腹の感覚をしっかり取りたいと思っている。それなのに、勝手に妄想がフワーと浮かんできて、しかもそれは自分がまったく想定していない内容の妄想だったりする。
  このように、マナシカーラというのはコントロール不能なのですが、確実にあるやり方で心のドミノを倒しています。そしてその倒れ方がネガティブな方へ、悪の方へ、煩悩の方へと倒れていくものだったり、ポジティブな方へ、善なる方へ、浄らかな方へ、だったりするわけです。
  この心のドミノの倒れ方はいかんともしがたい、選ぶことのできないものだと絶望することはありません。たとえ時間はかかろうとも、心を浄らかにする清浄道の修行を徹底してやっていけば、必ず変えていくことができるのです。この修行が仏教のすべてであり、その詳細を解明していこうと思います。

9.自由意志に関する実験
  1970年代に、アメリカの脳科学者であるベンジャミン・リベットという人が、自由意志の研究を行ないました。それは、人の自由意志が生起する瞬間、例えば指を動かそうと意志決定するときの実験です。その結果、指を動かそうという意志が生じる0.5秒前には、すでに脳の中では指を動かすための活動が始まっていることが明らかになったのです。これは、当時としては衝撃的な実験結果であり、センセーションを巻き起こしました。
  この実験の方法というのは、まず脳活動が計測できるような装置を仕掛けて、指を動かそうと決めた瞬間、つまり意志決定がなされた瞬間を計測するのです。
  次に、準備電位を計測します。準備電位というのは、例えば物を取ろうとか、立ち上がろうとか思ったときに、その動作を開始する直前に態勢を整える準備をする瞬間のことです。脳が電気的に活動を起こして、それで立ち上がろう、取ろうというように、動作を始める前に準備をすることです。指を動かそうとするときも、その動作が開始される前の準備電位が始まった瞬間を計測する。それから、実際に指の筋肉が動いた瞬間を計測するのです。
  そうすると、本人が指を動かそうとする0.5秒前にはすでに準備電位が始まっていることがわかった、ということです。つまり、本人が何かをしようと思う前に、脳はすでにその準備を始めているということになります。
  この研究結果を受けて、自由意志というのは本当にあるのかという問題が起きたのです。自分が自由意志を起こす前に脳が活動を始めているというのは、因果関係の逆転現象のようなことで、にわかには受け入れられなかったのも当然でしょう。
  でも、これはよく考えると、不思議なことではないと思います。指を動かそうとする意志決定を本人がする前に、脳はいろんな情報を処理しているはずなのです。今、自分は被験者になったのだから指を動かさないわけにはいかないとか、右手でやろうか左手でやろうか、わざと普段とは違う指を動かしてみようか、などということも考えるかもしれません。
  これは、例えば右利きの人は左脳を使っているのですが、本人は自覚していなくても、右の脳を刺激すると、必ず左手でやるのです。ですから、いろいろな情報があって、ある意志決定をする前段階にはすでに何段階もの情報処理が階層的に行なわれている、そのような構造で意志決定がなされるから、準備電位が事前に起きてくるのは当たり前だろうという理解です。このように考えれば、ベンジャミン・リベットの実験結果は別に不思議ではないと私は解釈しています。
  しかしながら、その後、さらに意志決定に関する別の研究が出てきました。その一つは、右のボタンを押すか、左のボタンを押すか、それを自由に決めてもらうのですが、脳は7秒前にはすでに活動を開始しているという実験結果です。これが確かだとすると、自分がこうしようという意志決定の前に、脳が活動を始めていることは明らかなので、自由意志とは何だろうという問いが突きつけられたわけです。

10.ヨニソ・マナシカーラについて
  私がここで強調したいのは、マナシカーラという心のドミノ倒しです。ネガティブなドミノの倒れ方をしている人は、それをポジティブな倒れ方に組み替えなければならないということです。
  その方法はというと、総力戦ということになります。瞑想もする。必ず悪を避けて善をなす。知的理解もする。五戒を守る。善行をする。・・というように、一定の方向に向かってありとあらゆることを全人格的に総力戦でやっていけば、やがてマナシカーラの働きが変わるだろうということです。
  マナシカーラは「作意」と訳し、それが善なる方へ、正しい方へ、本質の方へと変わっていくのをヨニソ・マナシカーラ、「如理作意」と言います。英語ではマナシカーラは“attention”と訳されています。“attention”というのは、注意という意味ですが、作意が理の如くになるように注意を注ぐという意味に理解すればよいでしょう。
  ブッダも「ヨニソ・マナシカーラのない者に悟れる見込みはない」と明言しており、その重要性を繰り返し説いています。私もタイで修行したときに、ヨニソ・マナシカーラほど大事なものはないと何度も言われました。
  ヨニソ・マナシカーラの反対は、非如理作意、パーリ語ではア・ヨニソ・マナシカーラと言って、煩悩の方へ、悪の方へ、ネガティブな方へ、と反射的に心のドミノが倒れていく状態です。
  例えば、お金がチャリーンと音を立てて落ちたとします。その音を気にも止めない人もいるでしょうが、金儲けにしか興味がない人はこの音を聞き逃さないでしょう。このように、人の興味や関心の所在によってもパッサー()の起き方が異なるのです。
  何度も言いますが、マナシカーラは一瞬の反射的な現象なので、意識的なコントロールは基本的にはできません。でも、修行を積み重ねてブレない心になって、その上で、人生丸ごとの総力戦で当たれば、どんな場面でもヨニソ・マナシカーラが働くようになっていくことは確かなことです。
  これは矛盾していると思われる方がいるかもしれませんが、実際にそうなることを実感されれば、そのからくりが自ら理解されるでしょう。汚れた心を浄らかな心に構造改革するのが、ヴィパッサナー瞑想の最も重要な役目なのです。

11.ヴィパッサナー瞑想とマインドフルネスの違い
  ヴィパッサナー瞑想の最大の特徴は倫理性です。
  昨今流行のマインドフルネス瞑想や認知行動療法などは、ヴィパッサナー瞑想から派生して現代的にアレンジされたものです。こうした瞑想に共通して言えることは、サマタ瞑想の集中の要素は説いているし、気づきであるサティの要素も説いている。さらに最近では慈悲の瞑想の効果も説かれ出しています。ところが、肝心の倫理()は説かれていないのです。
  「戒慧」のシステムであるヴィパッサナー瞑想には、集中もサティも慈悲も、そして悪を避けて善をなす倫理性もすべて含まれています。もしマインドフルネス系の瞑想が倫理も説いてくれたなら、仏教の瞑想に限りなく近づくので、私としてはそれはとても好ましいわけです。お寺で説こうが、グーグルのような企業で説こうが、本質が同じなら構わないと考えます。
  しかし、五戒について言及しているマインドフルネスや認知行動療法は聞いたことがありません。たしかに、グーグルなどは企業と結びついていますから、倫理を明確に強調しづらいのでしょう。でも、倫理を説かなかったら仏教の瞑想にはなりません。ここが大きな違いです。ヴィパッサナー瞑想から完全に宗教性を抜き、戒の倫理性をボカしてしまうことによって、気づきの瞑想としてのマインドフルネス瞑想が世界的なブームになっているように思われます。清浄道の瞑想の目玉が抜かれてワールドワイドに広まっていく・・というのは皮肉な感じがします。
  悪を避けて善をなすというこの倫理性が如理作意の方向に導いていく根本であり、それがなかったら、いくら瞑想をしたところで、人生を幸せな方向に展開させていくことはできません。極端なことを言えば、落ち着いて悪いことをするために、心の動揺を食い止めるサティの技術を使うということになれば、とんでもないことになるでしょう。
  戒を守るということは、絶対に他人に苦しみを与えないことであり、積極的に幸福や喜びを与えることに通じているのです。善行をするのは、戒を守ることの究極の表現とも言えるでしょう。
  戒の遵守と同時に懺悔の瞑想を行なうことも、私は強調しています。
  ネガティブな過去に縛られて、怒りと戦っている人が少なくありません。懺悔の瞑想をすることによって黒いものを吐き出し、ネガティブな過去に終止符を打つことができれば、慢性的な怒りは激減するでしょう。過去への根深い怒りがどうしても払拭できなかった人が、懺悔の瞑想を試みることによって視座の転換が起き、心を縛っていた鎖から解放されていった事例が数多くあります。
  怒りが削除されれば、眠っていた優しい心が自然に現れてくるでしょう。復讐の怒りに燃えていた瞳の色が変わり、一瞬一瞬の意志決定の仕方が肯定的なものに変わり、人のために善をなそうと優しい心が輝き出す可能性があります。意識的に変えようと思っても変わらなかった心が、いつの日か必ず決意し望んだ方向に変わり始めるのです。マナシカーラが変わり、決定されていく心の方向が変わり、悪のドミノが善なるドミノの倒れ方に変わっていく・・・。
  これが清浄道の瞑想の真骨頂であり、心が変わり、生き方が変わり、人生の流れが変わっていく発端になっていくのです。(以上、3月号)

12.プレッシャー研究
  これも、以前に私が見たテレビ番組なのですが、アメリカの女性脳科学者でプレッシャー研究をしている人がいます。この方は、学生時代はオリンピックに出られるくらいサッカーが得意で、ゴールキーパーのポジションでした。
  その方が選手生活をしていた学生時代に、ある有名な監督が試合を見に来たそうです。その監督の前でいいところを見せればオリンピックに選ばれるかもしれないという大事なチャンスだったのですが、絶対に取れるボールをプレッシャーのあまりミスしてしまったのです。それで結局オリンピック選手には選ばれなかったのです。
  それで、なぜあのとき自分はプレッシャーに負けてしまったのだろうという問いを究めるため、その研究を大学で専門にして、結果的にプレッシャー研究の脳科学者になったということでした。
  この方の研究は、とても面白いものでした。それを紹介しますと、アメリカの中学生か高校生を二人一組にして数学の問題を解くように指示します。そのとき二人に同じプレッシャーをかけるのですが、それは、ABのペアであれば、Aの成績がよかったらBの報酬も上がるけれど、Aの成績が悪いとBの報酬も下がるというものです。そうなると、Aとしては、自分がその問題を解けないとBの報酬が下がって迷惑をかけることになるので、心理的に大きなプレッシャーになるはずなのです。
  もう一つプレッシャーをかけます。それは、数学の問題を解いているときに至近距離のカメラで撮影するのです。すると、どのようにして解いているかがモニターに写し出されてしまい、他の人から丸見えになるという設定です。
  皆さんも、その状態を思い浮かべてください。よほど数学が得意でなければ、相当のプレッシャーを感じるのではないでしょうか。問題が解けない場合に、どこで躓いているかが一目瞭然になってしまうのですから。しかも、ペアを組んだ相手の報酬が自分の成績次第で上がったり下がったりするわけです。普通では耐えがたいというか、たまりませんね。
  一般的にも、プレッシャーがあると、だいたい12%成績が下がるとされています。こうしたプレッシャーの仕掛けをほどこした上で、実は実験の核心部分はこれからなのです。
  まず被験者を二つのグループに分けます。一方は、プレッシャーをかけてそのまま数学のテストをするグループ、そしてもう一方は、プレッシャーをかけた後に、紙に心の奥底にある考えや感情を、日記を書くような感じで書き出すことをさせます。それは誰に見せるのでもなく、ただ自分のためだけに書くのですが、その後に数学のテストをするのです。
  結果はどうなったでしょう。興味深いことに、何もしなかったグループの人たちはプレッシャーを受けたせいかとても悪い成績になりました。一方、紙に自分の考えや感情を書き出してからテストを受けた方はむしろ成績が良くなっていたのです。
  これは、かなりヴィパッサナー的だと思いました。
  成績が良かった方は、紙に書く作業を行なっただけで、カウンセリングを受けたわけでもなく、指導を受けたわけでもありません。ただ自分の心の中の考えや感情をそのまま事実として紙に書き出しただけなのです。それを誰かに読んでもらってアドバイスをもらったり共感してもらったりしたわけでもありません。それなのに、これだけ成績が違ってくるのです。
  なぜそうなるかというと、紙に書き出すという行為は、ストレスを軽減する効果があるからです。そのことを具体的に説明しましょう。
  人が何か行為をするときには作業記憶というのが働きます。作業記憶と言うのはワーキングメモリーとも呼ばれていて、前頭葉にある人間らしさの記憶の中枢を担っていると言われています。また、不安感やプレッシャーは扁桃体というところが司っているのですが、これは人の感情を読んだり、共感したり、恐怖などの感情を担っています。
  前頭葉の作業記憶が何かひとつの仕事をしようとしているときに、扁桃体から情動的な情報がくると、その仕事がスムーズにいかずに低下すると言われています。逆に、その二つの部位のつながりを切るとプレッシャーがあっても作業記憶の仕事は滞らなくなります。
  プレッシャーに強い人というのは、ほとんどこのような脳の構造的な特徴があるそうです。プレッシャーがあるときには、誰だって不安や焦りなどネガティブな感情になりますが、それは扁桃体の情報が前頭葉に伝わってしまうためであり、そうするととたんに意識の明晰さが濁ると言われています。
 しかし、作業記憶を行なう前頭葉と扁桃体との情報通路を遮断してしまうと、頭がクリアになって仕事率が格段に上がるというのですね。そして、その方法の一つが、紙に自分の心の奥の考えや感情を書き出すという行為なのです。
  なぜ、書き出すという行為が前頭葉の情報処理をスムーズに行なわせるのを手助けするかというと、紙に書いて表現するということは、文字通り「表に現わす」ことであり、心の中のストレスや混乱が外に出されて可視化され、自分自身を客観視することにつながるからです。問題が見えなければ解決しようがありませんが、はっきり見えれば整理されやすくなるのは言うまでもないことです。
  ストレスになっているものをうやむやにすると、頭の中が混沌としてきます。そうならないために、嫌なものから目を背けないではっきりと認め、自覚して、紙の上に書き表すのです。
  そしてこれは、サティの瞑想でラベリングが必要な理由でもあるのです。
  サティの瞑想をやっているときにも、私たちは誰に伝えるわけでもなく、心の中でラベリングをやりますね。このラベリングと同じように、ただあるものをあると認めて自覚するだけで、このプレッシャーの実験では、明らかに有意な結果が現れたことを示しているのです。
  これが、私がこの実験結果をヴィパッサナー瞑想に通じるものがあると感じた所以です。
  紙に書き出さなかった方のグループの成績が悪かったのは、自分の中にあるものをあると素直に認める手段を与えられなかったからです。プレッシャーを自覚しないでそのままにしておくと心の中で激しい葛藤が起きます。特にネガティブな感情や考えに対しては、それを打ち消したり対抗しようとする反応が出てきがちです。そのような葛藤や矛盾をそのまま放っておくと、心は膠着状態になってしまいます。これでは、どう考えても能力を発揮できませんし、それゆえプレッシャーに負けてしまうということです。
  ところが、ただ心の中の事実を認めて紙に書き出すことによって自分の内部のものを表面化すると、特に何らかの解決策が得られたわけでもないのに心はクリアになって落ち着いてくるのです。自覚することには力があると改めて思いました。「自覚する力」と呼びたいですね。
  サティの瞑想が人の心を解放していくメカニズムも、潔く事実を承認する力によるのです。これは、存在するものを存在すると認めないことが、どれほど心の無意識の部分に余計な仕事をさせているかということでもあります。それがなされないと、心はジレンマに押し潰されそうになるのです。

13.ジャーナリング
  心の中の考えや感情を紙に書き出す行為に似たものに、ジャーナリングというのもあるようです。(編集部注:ジャーナリングとは、思いつくことを思いつくままに、5分間~10分間、連続してひたすらノートや紙に書き出すこと。それによって、悲しみや喪失感や怒りといったさまざまな感情のもつれを解きほぐすことが出来るといいます)
  テキサス大学のペンベイカー教授の研究では、ジャーナリングによってストレスの値が低減することがわかっているそうです。
  ペンベイカー教授のある研究によると、失業した人たちを被験者として5日連続して毎日20分間のジャーナリングをしてもらい、その後8カ月間追跡調査したそうです。同時に、同じような失業者でジャーナリングしなかった人たちも同じ8カ月間追跡調査して、前者のグループと比較しました。
  8カ月後、ジャーナリングを5日間した人たちの就職率は、しなかった人たちよりも40%も高いことが判明したとのことでした。

  また別の調査では、学生に、自分にとって一番重要な個人的な経験について毎日連続でジャーナリングを実行してもらいました。結果、体調が良くなり学業成績が上がったそうです。
  さらに、別の調査では、大学生数十人に 2日連続で2分間、自分の感情を大きく動かした出来事について書いてもらったところ、学生たちは気分が良くなり健康状態を示すデータも改善されたのです。
  このように、ジャーナリングをするとストレスホルモンと呼ばれるコルチゾールが減少することが確認されています。これらのジャーナリングについての研究結果もまた、サティの瞑想のラベリングがいかに有効であるかを証明しているように思われます。

14.決定されていく心とヨニソ・マナシカーラ
  マナシカーラ(manasikāra:作意、心の働きの向き)を「如理作意」という善なる方向に変えていくには、生き方全体で総合的に取り組む以外にはないということから、その具体的な方法についてこれまで述べてまいりました。最後にもう一度まとめますと、悪を避けて善をなすこと、常に気づいていること、慈悲の瞑想によって慈悲の心を養うこと、このように総力戦で実践していくことが、マナシカーラを変えていくことにつながっていくということです。だからこそ、瞑想は人生全体であるというのが私の持論なのです。
 単に坐ったり歩いたりすることだけが瞑想ではありません。気づくということは、普段の生活の中でも、例えば職場でもやろうと思えばできるものです。在家の瞑想者が普通の日常生活の中で、サマタ瞑想のような強烈な集中の訓練を続けていくことはまず不可能でしょう。
  それに対して、サティの瞑想はマインドフルに気づきを維持していく訓練なので、瞑想修行と日常生活が同じ意識モードで連続するのです。サティの瞑想をしている時と同じように、よく気をつけてマインドフルであればあるほど人生のクオリティが格段に向上するという画期的なものです。
  そして何よりも重要なのは、悪を避けて善をなすという、生きていく上での倫理的な基軸です。人に苦しみを与えない。その反対に、積極的に善行をして人に幸せを与える。このように心がけて日々生活していくと、カルマが良くなって人生の流れが大きく変わっていきます。何よりも自分の心が晴れ晴れとします。こうした行為の積み重ねが、人の心を根本から変えていって、結果的に心のドミノの倒れ方をも変えていくことになります。そうすると、自分の自由意志と、潜在意識や無意識でのドミノの倒れ方が合致してくるのです。
  自分自身の明確な自由意志による「決定する心」が、諸々の力によって「決定されていく心」と重なり合い合致していく・・。カルマという名の運命の力と、遺伝情報と、自分自身の過去の一切の経験と、環境や情況が強いてくる力と、さまざまな諸力の総和が、自分の自由な意志によって決定していく心と一つになって、心の清浄道を完成させていく。まさにそこに仏教の教えの正しさが実証されているのではないでしょうか。
  多くの人が、自分は善をなそう、人に善いことをしようと思いながら、反対のことをしてしまい迷惑をかける結果になるのは、心の深層では、自分の意志とは正反対の心のドミノの倒れ方をしているからなのです。 理性的に考えて、表面の意識では善いことをしよう、もうこんなことはやめようと思っているのだけど、本能の命令や長い間の習慣が反射的に命じるものなど、心には矛盾する命令が飛び交っているために、実際には理性が命じた反対のことをしてしまうということです。無意識の心のレベルでは、自分の意志とは正反対の方向に心のドミノが倒れていってしまう。それゆえに、いくら頑張っても、なかなか思うような結果に至らないのです。
  「決定されていく心」と「自分が決定していく心」が合致すること、これが、総力戦で修行を行なっていく者が必ず検証するであろう結論です。ブレることなく悪を避けて善をなせる心、そういう心になれば、意識の上だけでなく無意識的にも、いつでも、安定して、善なる方向へ反射的に倒れていく心、真のヨニソ・マナシカーラ(yoniso-manasikāra:如理作意)が展開するようになります。心の清浄道が完成していくのです。
  断じて諦めることなく、日々修行を続けていけば、必ず人生の流れは変わっていきます。ブッダの言葉に信を定めて、希望を持って瞑想を実践していきましょう。(完) 


(文責:編集部)

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