月刊サティ!
1.はじめに
サティの瞑想で心の汚染に気づくことができたなら、いかにしてその汚れを取り除いていくかが次の修行課題になります。これを「反応系の修行」とも言います。 その修行プログラムは膨大ですが、「三行日記」という面白い方法があります。これは誰でもすぐにやれるし、記録性もありますので、心を浄らかにして人生の流れを変えていくのにたいへん役立つものです。この「三行日記」と仏教の智慧について解説いたします。 2.三行日記とは 三行日記というのは、智慧の出るトレーニングと言ってよいでしょう。その日の出来事をたった三行で記録していくのですが、何もかもゴッタ煮状態で流れていく日々の経験を異なった視点から眺め、視座の転換をはかるものです。自己中心的な視座をいかに転換していくかが、智慧が発現する重要なファクターになります。すでに実践された方のレポートも紹介しながら話を進めていきましょう。(2015年8月号に掲載) 心の状態にサティを入れていく瞑想を「心随観」と言いますが、大事なポイントは自己を客観視する能力です。とても難しい自己客観視の仕事ができ、きれいにサティが入ると、一瞬にして心が整理され、苦しみがなくなっていくこともあり得ます。この客観視を明確にして強化する技術のひとつがラベリングという言語化です。きちっと言語化され言葉確認できたかどうかが、一瞬の自分自身を客観視できたか否かを証明する基準にもなります。 この言語化の能力は個人差が大きいのですが、なんとなく修行していればひとりでに上達するといったものではありません。習練を重ね、レベルアップしていく努力が必要なのです。 しかしラベリングの訓練は、心の現象にサティを入れていく瞑想の修行現場で同時並行に行なうことはできません。場をあらためて、別の修行プログラムをこなさなければならず、その一つとして三行日記が良いのではないかというわけです。 3.三行日記のポイント 三行日記は、➊その日の「ポジティブな経験」➋「ネガティブな経験」➌「明日の目標」の三行を毎日書き止めていくものです。ポイントは、だらだらと書かないこと、一行でまとめる簡潔性が重要です。経験された方のレポートでは、気づきのノートを持ち歩きながら一行反省というかたちで対象化していたようです。最初は携帯でやっていたといいますが、長続きすることが重要ですから、スマホでも手書きでもOKです。 まず第一に、その日の「ネガティブな経験」に順番をつけ、一番嫌なことを書きます。ネガティブな経験を思い出すのは不快なことですが、経験の言語化というものは、ネガティブな情動体験を軽減させると言います。言語化して物語れないと、感情的な経験を引きずってしまい、「失感情症」という病名もあるほどです。ネガティブな経験を書くことは、嫌なことを迅速に手放す有力な方法になるのです。 さらに書くことは、整理することにつながります。言語化することは必然的に客観視することになり、ネガティブな経験を観る視点が変わって終わりに出来る可能性があるからです。 次は、ポジティブな経験、良かったこと、感動したことを書き出します。この作業の素晴らしい点は、ネガティブなものに目を奪われていた状態を、強引に明るい面やポジティブな面に目を向けさせることになることです。 一度ネガティブな出来事に執われてしまうと、明るい考え方やポジティブな発想そのものが脱け落ちてしまい思いつかない状態に陥ります。楽しい考えや嬉しい経験、前向きな考え方に心が向かわなくなるのです。だから、義務として、その日の嬉しかったこと、楽しかったこと、ポジティブな経験を思い起こし、対象化して書くという作業が、ネガからポジに180度視座を転換させてくれることになるというわけです。 一番、二番に共通するのは、経験を書き出しながら、経験の意味を考え、「なぜそうなのか?」という分析や問いかけが行なわれるようになることです。これは意識的にやるべきです。その結果、注意深く自分の生活を観ていくことになり、マインドフルな瞑想的な生き方になっていくからです。 三番目は明日の目標です。小さくても実現可能な目標を立てます。どんなことでも、具体的な目標や〆切などを立てるか立てないかで、実現する可能性に大きな開きが出てきます。漠然とこうしたい、こういう風になりたい、と誰でも思っていますが、その希望が具現化するか否かは、目標として明確に掲げられたかどうかによります。〆切のない仕事はいつまでも終ることがないのです。やるべきタスクが明示されれば、エネルギーの集中が明確に絞り込まれ、生活全体に勢いがついていきます。 さらに、目標を立てることによって、それを実現していく過程や、その時の自分の心が観察され、確認し納得するように促されます。その結果、自分にできること、できないことが明らかとなり、目標がいちだんと鮮明になっていきます。これは自己認識ができてくるプロセスとも言えます。すでに実践されレポートされた方は、三行日記を続けることによって自己否定の負のスパイラルを乗り超えることができたといいます。 また、三行日記は、漠然とした一日の出来事を3つの角度から分析的に眺めることですから、ヴィパッサナー瞑想の最重要ファクターでもある「択法」の訓練につながっていると言ってよいでしょう。現在の瞬間にただ気づくだけだったサティの瞑想に、洞察の智慧が伴ってくる高度なサティに成長していく可能性が開けてきます。 4.仏教的智慧の育て方 ものごとを分析的に捉えていく技法としての三行日記は、仏教的智慧の育て方に通じるものがあります。そのポイントを、箇条書きに挙げていきます。 ➊問題点について徹底的に調べつくすこと。精査すること、これが第一歩です。 ➋疑問点があったなら、納得するまで質問すること。わからないことをわからないまま曖昧にしない。徹底的に理解し腹に落とし込めば、どんな難問も解決の糸口が見えてくるし、不可能に思われていた自己変革も成しとげることができるものです。 ものごとを完璧に理解し把握すれば、やり遂げる決意が揺るぎなく定まり、すべてが始まる可能性が開けてきます。そのために、よく質問をして曖昧なところや不明な部分を一掃します。 優れた人は素晴らしい質問をするものです。大いなる疑問を持つのも、本質に迫る鋭い質問ができるのも、問題に真剣に取り組み、真実を見極めようとする真摯な態度や生き方に由来すると言ってよいでしょう。良い質問をするには、その前に自問自答し、文章化してみたり関連事項を調べたりして自分の考えや経験を整理します。当然のことですが、質問する相手は自分より優れている人を対象とします。 自分の発想とはまったく異なる視点からの素晴らしい回答が得られれば、自己客観視がさらに深まり、智慧の出る土台を広げることができるでしょう。 ➌問題点そのものを好きになること。ネガティブな問題に対して嫌な気持ちが先立つのは当然のことですが、避けがたく遭遇したことは運命だと受け入れ、腹を括って好きになる決意をするのです。好きになれば、注意の注ぎ方が一変し、ポジティブな側面に目が向き始めるでしょう。発想の転換が起き、脳内編集が変わるのです。 アスリートがどんなに苦しくても頑張るのは、どれほど苛酷だろうとそれが好きだからでしょう。好きになることでものの観方が変わり、精査することが楽しくなっていきます。よく知れば知るほど、そのことが好きになる法則もあります。情報の力です。 ➍紙に書き出すこと。カードなどを使って簡潔に可視化していきます。これはブレインストーミングとして、問題解決のための方法論としてすでに広く知られている方法です。 頭の中だけでは、対象化や客観視が難しく、いつの間にか堂々めぐりになったりします。自分の頭の中のことを外側に吐き出させ、可視化すると、今まで見えなかったことが見えてくるし、客体化が断然やりやすくなります。 ➎対話による双方向性。これは➋とも通じますが、優れた人との対話には偉大な力があります。基本的な発想がまったく違うし、対話しながら視座の転換のやり方を具体的に教えられているようなものです。異なる見方を知り、視野が広がるだけではなく、相手の言葉に反射的に答える自分自身の言葉にも驚かされ、教えられたりします。 ダイアローグ(対話)は生きものです。話題やテーマが思わぬ方向に変化し、突飛なアイデアが閃いたり、エゴの立場からは予想もしなかった方向に問題が展開したり、煮詰まっていったりします。対話による双方向性には、智慧が躍動する可能性が秘められていると言ってよいでしょう。 ➏環境を整えること。環境の乱れは、心の混乱を表してもいます。心は表情に現れ、態度に現れ、服装やその人の環境に必ず表現されてしまうものです。 そうであるならば、まず周囲の環境を整えてみるのです。環境が変われば、心も変わっていくものです。食べるものが変われば、栄養状態が変わり、体調が変わり、体の環境が変われば、心は必ずその影響を受けるでしょう。 緑の多い静かな山の麓の民宿に籠もって仕事に取り組むのと、絶えず嬌声が聞こえてくるキャバレーとカラオケ・バーに挟まれたアパートの一室で同じ仕事をしなければならないとしたら、環境の力は無視できないものがあります。 物理的な環境を整えると、心も整えられていきます。どうしたら智慧が出るかの要因の一つです。 ➐食べ過ぎないこと。食べ過ぎは瞑想にも智慧にもよくありません。消化に負担がかかれば、頭がボーっとするし、鈍重な感覚になります。より物質的になり、イライラし、欲望が泥沼化して煩悩が暴れ出す出発点は、過食にあると言ってよいでしょう。 人類の進化も、新たな発明も、偉大なる飛躍が起きるの時に共通なのは、ハングリーであること、生きるか死ぬかのギリギリの極限情況や大ピンチに陥っていること、火事場の馬鹿力を出さざるを得ないことです。 腹いっぱい飽食し、満足して好きなだけうたた寝が許されるような環境から、智慧が生じることはないと心得るべきです。 栄養バランスの良い食事を少食でまとめることができた後に訪れる、明晰な意識状態と明敏な感覚は何よりも得がたいものです。 ➑体を清潔に保つこと。自分の身を置く部屋の環境だけではなく、体に直接触れている衣服ですら心に影響を心に及ぼしているのです。何日も下着を変えず、汗臭い汚れた衣服をまとっているのと、きれいに洗濯したばかりの清潔な衣服を比べてください。 衣服が清潔でも、長い間お風呂に入れなかったらどうですか。垢光りする臭い体の不快感はたまりません。感覚が爛れ、荒んだネガティブな思考に陥るでしょう。 たとえ貧しい服装でも清潔で、毎日お風呂に入って体もきれいなら、心はその影響を受けます。 ➒五戒を守ること。戒を破るということは、殺生や盗みや嘘や不倫をしていることですから、罪悪感と自責の念に必ず苦しみます。心は絶対に落ち着きません。強がったり居直ったり、抑圧しても、潜在意識は必ず覚えています。悪夢にうなされたり、得体の知れない不安感や体の震えなど、心を乱す元凶になります。 心が澄みきった状態でなければ、智慧の発現は望むべくもありません。落ち着きのないブレた心から智慧が生じることはなく、いわんや罪悪感に怯えたやましい心から智慧が閃くことなどあろうはずはないのです。 もし五戒を破ってしまったなら、しっかり懺悔の瞑想を行なって、二度と同じ過ちを犯さないと誓い、罪業感を手放してください。 ➓最後は善行です。善いことをすると間違いなく気持ちが良くなりますし、清々しい、青空のような感覚を覚えるばかりではなく、自己有用感を高めます。私のような者でも、人のお役に立つことができた。苦しみから抜け出せたと、心から感謝されたりする瞬間の感動は素晴らしいものです。常に善いことをしてきれいに生きていて、心にわだかまるものがなければ、智慧が生まれてくる条件が整ってくるのです。 そのための具体的な方法として、「善行日誌」を付けるのも良いことです。毎日一つは善行すると決め、その日の善行を記録する「クーサラ日誌」を義務化すると、善行が確実に定着し、自信を喪失し落ち込んだ時などに読み返すと、自己肯定感とプラス思考が取り戻せるでしょう。自分の善行の記録が、自分を救ってもくれるのです。 5.まとめ 三行日記は抽象化する能力がないと書けませんから、その訓練を行ないます。例えば、文章の大意を要約したり、メールの内容を一言に凝縮した件名を付けたり、チャプターや節の小見出しを付けたりする作業は抽象能力の訓練になるでしょう。ニュースで報道される事件の本質や原因を想定してみるのも良いかもしれません。複数のものに共通している要素は何だろうと問うのもよいし、ごった煮状態のものごとの最も大事なポイントを見つけたり、類推するのも訓練になります。 こうしたトレーニングをしていれば、ラベリングの技術が向上し、サティの精度も上がっていくでしょう。そして、なぜ三行日記がお勧めなのかと言えば、その日の膨大な出来事の中から大事なポイントを見つける訓練になり、簡潔的確に要約してラベリングする技術に直結しているからです。 洞察の智慧が閃くような素晴らしいサティの一瞬は、日々の気づきと、反応系の浄化と、智慧を発現させるためのトレーニングの所産と言えます。 反応系の修行も含めた瞑想を基軸にして、生きること全体、生活態度全体が智慧の発現を目指す方向に向かえば、苦しい人生が笑顔の絶えない人生になっていくことはまちがいありません。一日10分のサティの瞑想と、三行日記に代表される反応系の修行を並行して続けていきましょう。 それが、苦しみを乗り超えるために提示されたブッダの瞑想修行の現場なのです。 <関連質問と回答> Aさん:三行日記もサティの瞑想も、起きている現象を受け止めれば良いということでしょうか。 アドバイス: そのとおりです。人生のあらゆる問題は、過去になされた善業や不善業の結果として起きています。私たちは瞬間瞬間に新しい業を作っているわけですから、ネガティブな反応をしてしまえば、やがてまた嫌なことが起きます。ですからどこかで悪い循環を止めなければなりません。苦受を受ける出来事があってもネガティブな出力をしないことです。嫌なことがあっても勇気をもって発想の転換をし、嫌な思いをして苦受を受けることによって不善業が消えたのは良いことだ、と受け止めるのです。善なる出力をしていけば、人生は必ず良い方向に向かっていきます。 そしてそのためには、起きている現象をきちんと受け止めなければなりませんが、何が起きているか、それを正確に捉えるにはサティによる気づきと、仏教の智慧がどうしても必要なのです。その智慧を磨く一環として、三行日記が一助になるということです。 Bさん:三行日記では三つのことを1行ずつ書くのですか。分量はそれぞれ同じなのでしょうか。また目標というのは前の二つに関連していなければならないのでしょうか。 アドバイス: まず目標については、前の二つを踏まえなくてもよろしいです。大きな目標ではなく、実現可能なささやかな目標を立て、達成感を感じることが大切です。 前半のご質問は、原則として、3つの項目をそれぞれ1行で書きます。分量すなわち字数は、三行日記の横幅によっても文字数が異なってくるので適当でよいでしょう。 なぜ長文よりも短いほうが良いかと言うと、まず長い文章の日記は続かなくなり挫折しがちだからです。短い1行の日記を一日に3行なら続くでしょう。 次に、文字数が少ないということは、その日の経験の大事なポイントに絞りこんで書かざるを得なくなるからです。短くしようとすると無駄なことがそぎ落とされます。これが、否応なしに抽象化する能力や本質を適確に捉える訓練になるのです。短い言葉で簡潔に表現する努力はラベリングの技術を格段に向上させるでしょう。 たった1行のことですから、同じ文字数になる必要はありません。短歌や俳句を作るのとは違います。時には2行になり3行になる例外も認めてあげる鷹揚さが長続きのコツになるかもしれません。 何事も原理原則どおり厳密に考え過ぎると窮屈になります。楽しみながらおやりになり、定着してから、精度を上げ、高度な内容のものにしていくと良いでしょう。 ものごとを異なった角度から捉え、その本質を絞り込んで簡潔的確に要約する訓練は、瞑想上達の道であり、智慧ある人になっていく秘訣です。三行日記をどう書くかは、まさにその人の智慧の現れでもあります。 (文責:編集部) |