Aさん:
瞑想も人生も上手くいかない者には、ヴィパッサナー瞑想的ではないかもしれませんが、「すがる対象」も必要なのではないでしょうか?
先生:
「すがる対象」と言うと、やや否定的な依存の感じがしますが、とても重要なことだと思います。「すがる対象」は<心の安全基地>と言い換えることができ、人が生きていく上での拠りどころであり、必要不可欠なものです。
*すがる、繋がる、群れる、孤独を忌避する・・・
困り果てた時に、すがるものが何もないと感じてしまえば、絶望感や孤立感、無力感の妄想で圧し潰されるのではないでしょうか。家族からも友人や仲間からも見放され、誰ひとり頼れる人がいない・・・、そんな孤独地獄に陥れば生きる力を奪われ自滅するにちがいありません。
孤独に対する耐性は個人差がありますが、食欲や性欲と並んで集団欲は最強の本能プログラムです。人類の歴史が700万年続いてきたのは、集団を形成したからです。多くの動物は、捕食する側もされる側も、牙や爪、蹄、甲羅、擬態、毒・・・など、体を強力に進化させて適応しましたが、人類は道具の使用と、群れを形成して集団の力で生き延びる戦略を取りました。
スーパーやコンビニ、インターネットの通販システムなどのお蔭で、現代人は孤独でも生きられると錯覚しがちですが、太古の昔から群れに属さない者は確実に死に絶えていったのです。仲間と群れなかったら、危険回避も、食料や水の調達も、繁殖の相手と出会うこともできません。家族や群れの一員として集団に帰属するからこそ、食欲も性欲も安全も満たされるのです。
愛する人がいる。愛してくれる人や支えてくれる人がいる。自分は他者と結ばれているし、帰属する集団の一員であり、孤独ではない。・・・そう感じられなければ、頭が狂うほど苦しくなるように、つまり、何がなんでも仲間を求め、人との絆を作り、集団を形成しようという強い本能的衝動に突き動かされるのが人類なのです。
誰かと繋がりたい、すがる対象がなければ生きられないし、耐えられない、と感じるのは、生存の最深部から響いてくる叫びだと言ってよいでしょう。まさにあなたが仰るように、人にはすがる対象が必要なのです。それは、絆や関係性を求める命の声であり、孤立=死を回避しようとする本能なのです。
*幸福と苦の源泉
瞑想を始めたきっかけを問うと、多くの人が、苦しい人生を瞑想で乗り超えたかったと言います。何ゆえに人生が苦しいのかと訊くと、ほとんどの方が人間関係の悩みを訴えます。
親との関係、子供との関係、上司や同僚との関係、男女関係、夫婦関係、イジメやパワハラ等々、人生の苦しみとは、つまるところ人間関係ではないかという気がしてきます。
家族や親しい仲間との良好な関係は幸福の源泉です。貧しくても、劣悪な環境でも、素晴らしい人間関係に恵まれていれば、優しく支え合い、互いに思いやり、温かい炉辺の幸福があるのです。反対に、富や権力や地位や健康や美貌や知性に恵まれていても、人間関係が最悪では幸せではないでしょう。人間関係は、人類にとっての光と闇です。人との絆なくしては絶対に生きられない肝心要であり、同時に人生苦そのものでもあるのです。
すがる対象なくしては、人は生きられない・・・。安全・安心の拠りどころを、人と人との関係のなかに求めずにはいられないのです。絶対的に守ってくれる母、家族、仲間、共同体との揺るぎない絆を希求する心は、人間の最深部に組み込まれています。これが、「すがる対象」がなぜ人間に必要不可欠であるかの理由です。
すがる対象は、どんなことがあっても自分を見捨てず、絶対的に守ってくれる存在でなければならないのに、現実には、虐待されたり、ダマされたり、裏切られたり、傷つけられたり・・・、すがるどころか、寄る辺のない不安と怯えと不信感に悩み苦しんでいる人が少なくないのです。どうしたら良いのでしょうか。
*神話の普遍性
現実の人間関係の中に、安全基地となる絆を持てなかった人には代替えが必要不可欠です。拠りどころが何もない状態では、慢性的に不安や不満がくすぶり不善心を垂れ流すことになりがちです。安全・安心を保証し、心の安息をもたらしてくれる心理的装置として、ホモサピエンスが作り出した傑作は神話と宗教でしょう。
神話には、未知のものに説明をつけて取りあえず安心感をもたらす心理効果があります。何もわからない、得体が知れない、説明がつかないものに対しては、ネガティブな不安や恐怖の妄想が化け物のように肥大しがちです。
訳の分からない未知のものでも、取りあえず名前が付けられるだけで認識の範疇に入った感じがするし、たとえデタラメでもそれらしき説明に納得感が得られれば、妄想がモンスター化して肥大することはありません。
太陽はチャリオット(二輪戦車)に引かれて運行しているというギリシア神話や、日蝕は太陽の女神を大蛙が呑み込もうしているので、体を赤く塗って弓矢を放って女神を救えばよいというアメリカ先住民の神話など、妄想以外の何ものでもありません。しかし根拠のない妄想でも、説明可能・認識可能な知的納得感は一定の心理的効果をもたらします。
脳容量が増大し、妄想するシステムを搭載してしまったホモサピエンスは、妄想が生み出す不安や恐怖に対し、神話の妄想で対抗し安心感を得ようとしたように思われます。どんな未開部族でも必ず、物事の起源や因果関係を説明する神話や伝承の物語を持っています。
人の脳は、意味を求めずにはいられないのです。3~4歳くらいになると子供は「どうして?」と質問攻めをしてきますが、説明を求める衝動は大人も子供も変わりません。特に災害に襲われたり心にストレスを感じると、人はその意味を求めずにはいられなくなります。昔話や神話が必然の力で生まれてきた所以でしょう。
*脳の進化が宗教を作った
伝説や民話や神話の説明は知的な納得感以上のものではありませんが、安心感や安らぎの情動にもアピールする宗教の効果はさらに絶大です。アマゾンやボルネオなどには、今でも石器時代と変わらない狩猟採集生活を続けている未開部族がいますが、独自の宗教を持たない部族はおりません。
この20万年間、ホモサピエンスの脳容量や身体能力はほぼ同じなので、例えばアマゾンの裸族の赤ちゃんが先進国のインテリ家族の養子として育てば現代人と完璧に同じ能力を発揮するでしょう。逆に言えば、狩猟や採集をするのに必要な能力を、現代人は精密機器やIT技術の分野に応用しているだけなのです。
ホモサピエンスは身体や脳の構造、規模、性能、仕様が同じなのだから、どんな民族も部族も必ず言葉をしゃべり、妄想し、死者を埋葬し、呪術や宗教を持っているのです。
宗教は、なぜ人類に必要だったのでしょうか。人類特有の不安や恐怖を解消するためでしょう。ライオンなど大型肉食獣に対する脅威、雷鳴、嵐、洪水、旱魃などの自然の猛威、そして何よりも死に対する畏怖を軽減するために、何らかの心理的装置が必須アイテムになったのが人類です。
全ては、言葉とイメージを操作して妄想する脳を搭載したことが発端です。
アフリカのサバンナで、ガゼルは、チーターの姿を目撃した時、臭いを嗅いだ時、足音を聞いた時、恐怖を司る脳にスイッチが入り、運動系の脳に駆動され走り出します。しかし、ガゼルの視覚・聴覚・嗅覚に訴える脅威が消えれば、何事もなかったように草を食み始めるでしょう。
しかし人類は、ライオンに襲われそうになった谷間の茂みを通るたびに、これといった姿も臭いも足音も何の兆候がなくても、ライオンがいるかもしれない・・・と緊張し、不安に心臓が高鳴り始めるのです。実在する恐怖刺激にのみ反応するガゼルやヌーと、在りもしないものを妄想して怯える人類の違いは、脳容量と抽象的な思考能力の有無に由来します。
動物は実在する事象のみに反応しますが、人類は、事実と関係なく余計なことを妄想して不安と恐怖に怯えるのです。認知能力が増大した結果、世界を分析し理解しなくてはいられなくなり、今日食べるものがあっても明日の飢えを思い煩い、妄想する脳が訴える不安を軽減するシステムが必要になったのです。
*信仰型の宗教
少数派ながら、精霊と交信できるシャーマンや霊能者タイプの人は世界中どこにでも一定の割合で存在しますが、彼らは脳裏に浮かぶイメージのレベルをはるかに超えたリアルさで、霊や神の存在を語ります。シャーマンの超感覚的知覚は特殊能力であり、一般の人の追試や検証で確かめることができないので、真偽のほどは定かではなく、信じるか信じないかの判断に委ねられます。しかし存在しないものを想像する能力は、人間なら誰もが有しているので、ここから信仰型の宗教が生まれてくるのは必然でしょう。
現実に存在するものにしか関心を示さないチンパンジーと人間が異なるのは、概念やイメージを駆使しながら「想像する力」です。チンパンジーが祖霊に無病息災を祈ったり、バナナとアカコロブスの肉を神に捧げて、死後永遠の楽園で暮らせることを願うなどという話は聞いたことがありませんが、人類は目に見えない精霊や神を想像し拝むことができるのです。
この<想像する=妄想する>能力のお陰で、人類はシャーマンや神官の託宣を共同幻想として【神】を共有し、人間のリーダーとはケタ違いの威神力によって巨大な集団を形成し統一することができたのです。
狼もハイエナもリカオンも、群れを形成する動物には服従本能があり、人間も例外ではありません。猿山のボスになりたがるのも本能ですが、親分やボスやリーダーに従う本能も組み込まれていて、偉大な指導者に従う精神がカリスマやアイドルやスーパースターに熱狂し、英雄や偶像を歓呼の声で讃えるのです。そして、家長→族長→王→皇帝→とエスカレートしていった究極に、全能の神が妄想され共有され、服従本能は完成するのです。
こうして畏怖すべき偉大な神の権能を共同幻想として分かち持つ想像力が、膨大な数の人間を巨大な一つの集団としてまとめ、階層的な秩序と統一をもたらしたと言えるでしょう。集団を差配するリーダーは、自らシャーマンとなり、あるいは神官を利用して人々の想像力に訴え、集団全体に上意下達を徹底させる権威を付与しようとする構造が人間の社会です。
蟻や蜂の群れはホルモン言語で女王を絶対視しますが、人間は「王権神授説」などのように「王の権威は神から授かったものだ。王は神の代理人だ」と、人間の妄想する力を利用して集団を統率する原動力にしたのです。ヒットラーも「キリストの仕事を、私が引き継ぐのだ!」とアジ演説をぶち上げて独裁者に成り上がっていきました。
ブランドの力も然りだし、私がブッダの言葉を引用するのも同じ構造です。私の言葉は軽く聞き流されても、同じ意味内容を経典の中に見つけて引用すると、後光が射したかのように有難味や値打ちが上がって、信頼される可能性が増えるのです。(笑)
*母なる神への信仰
精霊や神のイメージは千差万別で、民族や部族の数だけ、あるいは人間に思いつく数だけ存在します。ギリシアやローマ、ヒンドゥーの多神教世界は神様のオンパレードだし、唯一絶対の神様ですら複数存在するのだから、「ひょっとして、神って、人間が妄想で作り上げたものじゃないの?」と疑問を持つ人も出てくるでしょう。
しかし、実在してもしなくてもいいのです。不安や怯えを一掃し、人の心に安息をもたらしてくれる安全装置として機能すれば、宗教の存在意義はあるのです。民族や部族の数だけ宗教も神様も必ず存在しますが、掟や規律を守らせる厳しい父性的神と、あらゆる命を生み出し全てを優しく受け容れる母なる神のイメージは、どちらも人類に普遍的です。
さて、ここで問題にしたいのは、永遠の母性を象徴する地母神や母神についてです。程度の差は千差万別ですが、母親の愛が得られなかった・・・と寂しさと悲しさに苦しんできた人が、いったい世界中にどれだけいるでしょうか。愛着障害は、一生その人の人生に影を落とし続け、不安感や人間不信など多くの人生苦の要因になっています。カルマが良ければ母性的な人に出会い、傷が癒され、救われますが、出会いのなかった膨大な数の人々に、この「母なる神」が強力な心の拠りどころとなり救いになるのです。
どんな時にも自分を丸ごと包み込んでくれる絶対的な安全基地が、人の心には必要不可欠なのです。菩薩や女神のような完璧な母性を体現している人は限りなく少ないので、理想化された究極の安心・安全の拠りどころを提供してくれる宗教や信仰の存在意義は高いと言えるでしょう。
「天の父」以外に神は存在しないキリスト教世界でも、優しい聖母マリアは女神のように慕われ、根強い人気があります。絶対的な母性のイメージを必要とする人がどれだけ多いかが窺われます。一神教の仏教バージョンと言ってよい阿弥陀仏は、究極の母性の完成形と言ってよいかもしれません。善人だろうが悪人だろうが、誰もかれもみんな我が子なんだ。絶対に見捨てないで、必ず救う!と言ってくれるのです。
「迷わないで山に残った99匹の羊よりも、迷い出た1匹の羊が見つかったことを喜ぶように、小さい者のひとりが滅びることは、天にましますあなた方の父の御心ではない・・・」と説くイエスの言葉に涙を流す人も数えきれないでしょう。能力も高くないし性格も悪い自分のような者でも、絶対に見捨てずに救ってくれる・・・。
この安心感こそが、「すがる対象」の原点です。母親の胸に優しく抱かれておっぱいを飲み、自分は無条件に愛されている、ただこのまま存在していて大丈夫なんだ、と信じられる情緒的安らぎが自尊感情の基盤です。その基盤に亀裂が入った不安定な幼少期を過ごした者には、絶対に自分を見捨てない「すがる対象」がなくてはならないのです。
そのような拠りどころを持たない者は、自信のなさに苦しみ、仕事や外界の対象に向かうべき心のエネルギーを自分自身との葛藤で費消してしまい、すぐに不安になり、ネガティブな妄想に怯えがちになるでしょう。
*認知症の母と少女の救済
たび重なる父親の虐待で深く傷ついてきた少女が、14歳の時にクリスチャンになり「やっと、本当の父を見つけた!」と叫び、生まれ変わったように、生命と喜びにあふれ、自分にも人にもおだやかになり、聖書を勉強し、「イエスは、私を愛してくださる」というステッカーをあらゆる勉強道具に貼りまくったといいます。
毒親に傷つけられた少女にもたらされたこの救済こそ、宗教の力であり信仰の力です。たとえ神は存在せず、イエスの愛がただの妄想であっても、救いが成立するならば存在意義はあるでしょう。
この少女の母親クリスティーンは、46歳の若さで認知症を宣告され絶望に打ちひしがれた時、娘に遅れてクリスチャンになり、やはり信仰に支えられ、輪になって自分のために祈ってくれる教会の仲間の優しさに救われるのです。不安と絶望で目の前が真っ暗になっていた認知症のシングルマザーが、未来に明るい希望を持ち、あるがままに自分の現状を受け容れ、安らかに日々を過ごすことができたのであれば、たとえ存在しなくても神は立派に機能したのであり、ホモサピエンスの最高傑作の一つと言えるでしょう。
これは私の持論であり、ツイッターに次のような文章を書いたこともあります。
★「神は、存在しないことによって機能し、人を支配する・・・。
巨大な国家や集団を一つにまとめる<共同幻想>として・・・。
神の沈黙は、神は妄想に過ぎないことを暗黙に宣言している。
悲惨な苦しみを納得して受け容れる装置として、人類は、存在しないことで万能になる神を必要としてきた・・・」
*光もあれば闇もある
人類には、仲間と力を合わせながら共に生きていく道しかなかったのです。それゆえに孤独を忌避し、仲間を求め、集団を形成し、家族→共同体→国家→宗教→と規模を拡大しながら、人の絆と仲間意識を何よりも重んじてきました。内のものと外のものを峻別し、仲間との同胞感覚が強いほど、外集団に対抗意識を持ち、敵視します。脅威の大型捕食動物から逃げまどい、狩猟対象の獲物を殺し、見知らぬ敵対勢力と競合してきた数百万年の間に組み込まれた自他の分別の感覚や、内と繋がり外を排除するプログラムは、遺伝子の奥深くにまで書き込まれているのです。
例えば、全身の細胞のひとつ一つにいたるまで常に免疫のシステムによって守られていますが、免疫の役割は自己が非自己を徹底的に排除することです。内集団の<我々>を守り、愛し合い、外集団の<彼ら>を叩きのめすために団結するのは、人間の成り立ち上、あまりにも当たり前な必然の反応なのです。
「すがる対象」とは、心の安全基地であり、エゴの拠りどころであり、家族の絆に端を発し、仲間や共同体に帰属する安心感の究極が「神」であり、宗教と言ってよいでしょう。
*宗教戦争
エゴにはすがる対象が不可欠であり、ちょっと問題のある凡夫の両親よりも、安全基地としての純度や絶対性は神の方がはるかに優れています。神のイメージは時代とともに進化し、洗練され、完全性を増していくので、その神のために命を投げ出す殉教者が現れるのも自然なことです。しかし神は常に無言なので、どんなことにも大義名分を与えてくれる便利な装置として、聖職者や王に利用されてきた歴史もあります。ギラギラした領土的野心から他国を侵略し、富を収奪し、人を奴隷化し、批判する集団には「聖なる」戦争を仕掛け、神の名の下に罪悪感を払拭し、集団エゴの邪悪さを肯定する装置にもされてきました。
ヒンドゥー教や古代ローマのように、多神教世界には本来的な共存の思想がありますが、「私のほかに神があってはならない」と宣言する一神教が世界を席捲するにつれ、宗教のマイナス要因が露わになってきました。集団を一つにまとめる求心力は、同時に集団エゴを強化し、外集団を攻撃し排除する原動力にもなるのです。個人の「すがる対象」が多神教世界で共存することも可能なのですが、「私だけが正しい」とする一神教世界では、エゴ感覚の排他性を強化し、人と人、集団と集団、国家と国家が激突して殺し合う直接原因にさえなるということです。未開部族の神と神、十字軍とイスラムの神、カソリックとプロテスタントの近親憎悪的内ゲバ、織田信長に挑んでいった僧兵達、空爆に報復する自爆テロ・・・。
在りもしないものを妄想する人類の概念形成能力は、人類を巨大な集団としてまとめ上げる力原動力であり、心に安息をもたらす安全基地にもなるが、我利我利の集団エゴを正当化する心理的装置にも、侵略と収奪の罪悪感を忘れさせてくれる免罪装置にもなり得るということです。
*原始仏教は特別か?
一切の概念や妄想を排除して、実在する事象のみをありのままに客観視するヴィパッサナー瞑想は、信仰型の宗教とは一線を画すものです。欲や怒りの妄想も、神妄想も、ダンマ妄想も、思考されたものは全てドブに放り捨て、捨(ウペッカー)の心で淡々と客観視を続け、そのサティを入れている主体にもサティを入れ続けて対象化していく・・・。
と、こう言えばカッコいいのですが、テーラワーダ仏教を支えている国々の信者さん達のほとんどは、瞑想などやったこともないし、そんな時間もないので、原始仏教のダンマを信仰しているだけの人が圧倒的に多いのです。そうなると、「妄想を離れて、あるがままに観る瞑想は凄いよね・・・」と話しながら、三宝帰依やヴィパッサナー瞑想理論をダンマとして信仰しているだけの状態に過ぎません。これでは、教義内容が異なるだけで、世界中のさまざまな宗教を信仰している人たちと変わらない、ドングリの背比べにならないでしょうか。
*ダンマを拠りどころとする
ブッダが悟りを開いて解脱した聖者になった後に、「私は、私が悟り得たこのダンマ(法)をうやまい、拠りどころにしていこう」と呟きます。すると、梵天が現れ、「尊師よ、そのとおりです。過去の仏たちもみな、法のみを尊敬し、うやまい、たよっておられました。未来の諸仏もそうでしょう」と伝えています。
解脱した聖者も「心の拠りどころ」を必要とするらしいのは、驚きでした。
ブッダが拠りどころにされたダンマの内容は言及されていませんが、私は個人的に八正道の「正見」の内容の一つである「因果論」を拠りどころにしています。
人に説明したりするくらいですから、悪因悪果・善因善果の因果応報のセオリーを忘れることはありません。我が身に良いことが起きたなら、その原因に相応する善行の記憶を探り、不快な嫌悪すべきことが経験された時には、その原因となったであろう不善業の所業を想起するのです。日々遭遇する経験事象というものは、すべて因果の理法どおりの展開であることに確信を持っていると、善いことが起きても悪いことが起きても、心は乱れることなく、あるがままに受容できるのです。
雀が一羽落ちるのも神の意志による・・・とハムレットは呟きますが、雀が落ちるには落ちるだけの諸々の原因と条件があったからだと、私は反射的に考えます。
どんなことも因果の帰結であると理解していくと、心が常に安らいでいる最強の拠りどころとなるでしょう。
*マザーテレサとマハーカッサパ
インドの路上で野垂れ死にしようとする膿だらけの乞食が、マザーテレサの「死を待つ人々の家」に担ぎ込まれます。そのお世話をするシスター達に、毎朝テレサは「あなた達がケアする人の体は、キリストの体だと思いなさい」と檄を飛ばしたといいます。なんと素晴らしい妄想なのだろう・・・と感銘を受けました。信仰が原点になっています。
一方、一切の妄想を離れた阿羅漢のマハーカッサパは、毎朝極貧の者が住むエリアに托鉢に出たそうです。貧しくなるのは与えてこなかったからであり、そこから救い出されるには徳を積まなければならない。阿羅漢のカッサパに食を施せば、最高の財施になり、苦境を脱する因となる、という明確な理念に基づき貧民街へ托鉢に行くのが常でした。
ある朝、カッサパは、食事をしている一人の癩病者に恭しく近づき、鉢を差し出しました。癩病者は腐った手で一握りの食を入れると、同時に彼の指もまたその場に落ちたのでした。
カッサパは塀の下にもたれて、一握りの食を食べましたが、食べている時も、食べ終わった時も、一片の嫌悪の念も存在しなかった・・・と述懐しています。(テーラガータ)
これが、信仰型の宗教と、一切の妄想を離れる瞑想の違いです。
美しい神妄想を使ってなされる善行は素晴らしい。信仰を拠りどころに生きていく姿は神々しい。
確信するダンマを拠りどころに、なんとか救われる機縁を与えたいと、一片の妄想も交えずに淡々となされる行乞も素晴らしい。
瞑想が上手くいく人もいかない人も、「すがる対象」を持つことは必要と考えてよいでしょう。(完)
(文責:編集部)
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