月刊サティ!


 巻頭ダンマトーク

慈悲の瞑想 (1)(2)           ―自己否定観を越えて-

1.はじめに
  慈悲の瞑想は、サティの瞑想と並行して習得していかなければなりません。
  慈悲というのは仏教の究極の概念です。慈悲の瞑想が完璧にできるようになることが、ヴィパッサナー瞑想の究極の目標にもなっています。
  慈悲の心を育てるとは、具体的には慈悲喜捨という4つの心を成長させ完成させていく修行です。しかしこれを完全に体現することは、悟るのと同じくらい難しいことなので、完成は遠い目標として、できるだけ近づいていこうということになります。
  慈悲の瞑想とサティの瞑想には、どんな関連性があるのでしょうか。
 まずサティの瞑想は、現在の一瞬一瞬に気づくことによって、事実をあるがままに観ていく修行です。これがうまくいくと、先入観や思い込みがカットされ、情報が編集されたり歪曲されなくなるので、事実が正確に観えてきます。また、心の癖で反射的に反応してしまうのが抑えられます。ものごとを正確に観ることと、心の反応パターンを組み換えることで、心の清浄道に繋げていこうという修行です。
  人の心は千差万別なので、自分がこれまで培ってきた心の傾向、つまり心の反応パターンがサティのクオリティに深くかかわってきます。もし反応系の心がこれまでと何も変わらなければ、サティの技術によって反応を一時停止させることは上達しても、心はあまり成長していないという感じが否めないでしょう。ネガティブな反応が立ち上がるのを止めているだけでは、自分の心の汚染に気づきづらくなりかねません。
  サティの修行というものは、自分の心が真っ黒に汚染されていることを自覚して衝撃を受けることによって、心の清浄道を推し進めるものなのです。そして、反応系の心が少しでも善い方向へ向かうことによって、慈悲の瞑想が深まっていくことになります。

2.慈悲の心を育てるポイントは怒りの超克
  慈悲喜捨の基本的説明は拙著を参照していただくとして、ここでは、どうしたら慈悲の心が育っていくかということについて考えてみたいと思います。
  慈悲の心が育つために一番大事なのは、怒りを乗り超えていくことです。慈悲の心の正反対は、怒りなのです。だから怒りが超克されれば優しくなれるし、慈悲の心が育ってくるという流れです。
  怒りというのは「対象を嫌う心」と定義されるように、怒り系のグループにはさまざまな心が含まれています。「嫌悪する」「激怒する」「嫉妬する」「後悔する」、「悲しみ」も「物惜しみ」も、すべて怒りから派生している心です。
  「悲しみ」を例にあげれば、愛する人を失ってしまったが、どうしてもその状況が受け容れられない。この状態は嫌だ。否定したい。打ち消したいが、どうにもならない。でも嫌だ、と現状を厭う心が怒りなのです。愛する人を奪ったのが人為的な事故や事件などであれば、加害者に怒りをぶつけることもできるでしょう。しかし自然災害や、本人の意志による失踪や自死であれば、怒りのやり場がありません。誰にも怒りをぶつけることができず、ただただ情けなく、悲しい・・と怒りが陰に籠った表われ方になるのが「悲しみ」です。受け容れるしかどうしようもないのだが、嫌だし、否定したいが、それもできない無念さが、「悲しみ」として怒り系の心に分類されるのです。
  優しく慈しみ、調和させ、まとめる働きが慈悲の心です。壊すエネルギーが本質の怒りとは正反対なので、怒りをいかにして乗り超えるかという問題に取り組まないと、慈悲の心が発露しづらいということです。

3.怒りとグリーフケア
  グリーフケアという言葉があります。グリーフという英語は、深い悲しみや苦悩を表わす言葉です。例えば、愛する家族やかけがえのないものを失ったり、災害や大事故などで家屋や財産、これまで築き上げてきたものが一瞬にして崩壊してしまったり、自分のせいで子供を死なせてしまったという罪悪感など、非常に強烈な、埋めようもない深い悲しみに襲われて圧倒されてしまう状態です。
  そんなグリーフに打ちのめされた人達が立ち直れるように支援する営みを、グリーフケアと言いますが、そういう仕事に携わっている方々がいます。例えば、カトリックのシスターで、グリーフケアの第一人者と言われる高木さんという女性です。この方は、阪神大震災で家具が倒壊し即死寸前のところを助かって、それがきっかけでグリーフケアを始めたらしいです。
  この方が紹介されていた事例に、ある婦人が夫を亡くして深い悲しみに暮れている時、ご近所の方が慰めてくれるというシチュエーションだったのですが、「あなたなんか、まだいいほうよ。夫なんかどうせ赤の他人なのだから、代替えがきくわよ。・・私なんか子供を喪ったのよ。子供は、もう帰ってこないのよ。取り換えがきかないのよ」と言われてしまったというのです。だから、そんなに嘆くことはないのだ、というようなことを言われ、ものすごいショックを受けたというのです。
  そう言い放った方は、子供を亡くしてから123年経っているのだそうです。123年経っても自分の中のグリーフという悲嘆が終わりにできず、怒りが渦巻いていたのです。悲しみが昇華されず、怒りのエネルギーとしてこういう冷たい態度になってしまうこともあるのです、と高木さんは語っていました。
  一昔前なら大家族が普通だったし、地域の共同体がお互いに声をかけ合い、助け合う社会システムだったので、深い悲しみというものをちゃんと聞いてくれる人や受け止めてくれる人がいて、グリーフケアがうまく機能していました。しかし今は、個人主義が嵩じた閉鎖的な集合住宅や、核家族、お一人様が多数派となり、人のつながりや絆が希薄になって、殺伐としたご時世です。孤立した家族や個人がかってに群れている社会で、かけがえのない人を喪ったり、圧倒的な悲嘆や不幸に襲われると、たった一人で抱え込んでしまった悲しみを乗り超えるのが難しくなっているのです。それゆえに、そうした方々のために新たなシステムとして、グリーフケアをやっていかなければいけないのではないかということです。そうした活動の先駆者とも言うべきお一人が高木さんという方なのです。
  高木さんは、あまりにも深い悲しみに襲われている方には慰めようがなく、見守るしかないようにも言われていました。むしろ下手に慰めの言葉をかけると、逆にキレてしまうとか怒りを誘発してしまうのだそうです。
  私自身が直接お話を伺ったースでも、ほぼ同じような印象でした。50代で突然、夫を亡くした方が、娘さんに連れられて瞑想会に来られたことがあります。その方が仰っていたのですが、いろいろな人が慰めてくれたけれど、誰に対しても怒りが出たと言ってました。何を言われても、「あんたに何がわかるのよ!」と感じたそうです。
  ただ、そんな全員討ち死に状態の中で、一人だけ怒りが込み上がらなかった人がいて、その方はこのようなことを言ったそうです。
  「私には経験がないから、あなたがどんな悲しみにくれているのかわからない。どうして良いかわからないから、想像するしかありません。あなたの気持ちは決して私にはわからないけれど、本当に大変なことだと思います」と。
  こう言われた時だけは怒りが出なかったと、この未亡人は言っていました。
  結論を申し上げますと、重度の悲しみは一人では乗り超えづらく、悲しみの深さを分かってもらいたい、共感してもらいたい、あるいは、自分の人生を誰かに肯定してもらいたい、という思いがあるのです。そして、もしその悲しみが完全に受容でき、乗り超えられたならば、逆に、普通の人以上に優しさが現れてくるというのがだいたいのパターンだと言われています。
  悲嘆に限らず、劣等感やトラウマなど、強いネガティヴな情念が手放せない状態になると、人は優しくなれない法則があり、真の慈悲の発露が難しくなるのです。
  優しさからエゴが引き算されると慈悲になっていくのですが、慈悲が体得されるためには、グリーフという悲嘆も含めた怒り系の心をすべて乗り超えていくことが求められます。怒りが手放されていく度合いに比例して、究極の優しさである慈悲が露わになっていくでしょう。

4.人を癒すセラピー犬、チロリ
  セラピードッグという介護犬がいます。「日本アニマルセラピー協会」など、訓練された介護犬の癒しの仕事を支援している団体があるのです。誰に対しても完全に心を閉ざしてしまった孤独で意固地になった介護施設の老人が、セラピー犬とジーッと目を見つめ合いながらアイコンタクトを取っているうちに、いつの間にか笑い出したり、犬の頭をなで始めたり、動物ならではの癒しの仕事を立派にやり遂げてしまうのです。
  人間同士だったら、一定秒数以上の長いアイコンタクトは無意識に避けてしまうものですが、犬だけはジーッと瞳の奥をいつまでも見詰め続けてくれるのです。視線が合っただけでドーパミンなどの快感ホルモンが分泌されることも知られていますが、犬には、人間にできない不思議な癒しの仕事ができるのです。あらゆる家畜化された動物の中で、犬以上に人間と心を通わせ合える動物はおりません。
  アメリカや英国の刑務所や少年院で、虐待された犬のドッグトレーニングを更正プログラムの一環としているのをテレビでご覧になった方もいると思いますが、こうしたことは非常に難しいことなのです。なぜなら、人間でも犬でも、幼い時に虐待などの悲惨な目に遭うと、どうしても優しさとは正反対の怒りタイプになってしまうものです。しかし、そうしたネガティブ体験を乗り超えることができると、今度は逆に、素晴らしいセラピー治療のできる癒しの達人のような犬に生まれ変わるのです。
  私がこれまでに最も深い感銘を受けたのは、日本初のセラピードッグとして活躍したチロリという介護犬でした。この犬は子連れの捨て犬だったのですが、後に国際セラピードッグ協会の会長になった大木トオルさんという方にめぐり合って、運命が変わりました。大木さんは、アメリカと日本を半々に二重生活をしているブルースシンガーでした。アメリカではセラピードッグのような活動が盛んなので、大木さんも共感して自費でセラピードッグの訓練センターを運営していました。
  ある日、捨て犬だったチロリを廃墟の裏で子供たちが世話しているところに、大木さんが通りかかりました。放っておけず、大木さんもドッグフードを与えたり子犬の里親探しをしたりしていたのですが、とうとうチロリが野犬狩りにあってしまったのです。保健所では5日の間に引き取り手がないと殺処分になってしまうそうなのです。
  大木さんが気付いた時にはもう4日目の夜で、明日必ず引き取りに来ますから処分しないでくださいという張り紙をしておいたそうです。そこの犬たちは捕獲された日によって仕分けられていて、1日目はただもう混乱して騒いでいますが、2日目、3日目になると次第に死に近づいているというのがわかってきて、4日目、5日目となるともう絶望的な感じになるそうです。犬というのは実に正確に状況を把握するのですね。
  チロリは、今日殺されるという檻にいて恐怖で震えていたらしいのですが、大木さんが来たのを見つけたら尾っぽをちぎれるように振ったそうです。チロリはぎりぎりのところで助かりました。
  チロリは雑種で短足でしたが、優しいかわいい顔をしていて、大木さんはチロリを飼ってあげたいとは思ったのですが、すでにシベリアンハスキーという大型犬を10頭くらい飼ってセラピードッグの訓練をしていたのです。そこへ野良犬だったチロリを一緒にするのは難しいと思われたようですが、とりあえず連れて帰りました。
  大木さんが飼っていた犬の中のボスは、アメリカのドッグショーでチャンピオンになったほどのハスキー犬なのですが、チロリを犬舎に入れたところ、他の犬たちがワンワン吠えたのに、そのボスだけはおまえを受け入れてやるみたいに尾っぽを振って、仲間に入れてくれたといいます。そうすると、チロリはメス犬なのですがとても統率力があって、いつの間にかそこにいるハスキー犬の7割くらいを子分にしてしまい、その上にチャンピオン犬がいるという状況になってしまったそうです。
  やがてボスのハスキー犬が癌になってしまいました。そしていよいよ死期が近づいた時に、このチロリが、ボスが歩くと一緒に歩き、止まると止まって、完全に寄り添って介護しているような動きを見せたのです。どこへ行く時でも付き添って励ましてやっているような様子を見た大木さんは、チロリにはセラピー犬としての才能があるのではないかと感じました。
  セラピードッグはしつけ、訓練、服従という三要素からなる40科目くらいの訓練をクリアーしなければならず、どんなに優秀な犬でも1年くらいかかるそうなのです。ところがチロリはすごく頭が良くて、訓練を始めてみたら5か月で終了してしまい、日本初のセラピードッグとして認定されたということでした。
  このチロリが大木さんにセラピードッグとしての才能を見出されるきっかけとなったのが、自分を初めて受け入れてくれるきっかけとなったボスが癌で死んでいく時に示した行動でした。大木さんはそこに、いわば犬の恩返しのようなものをどうしても想像してしまうということでした。もし、ボスが認めなければ、チロリはとうてい仲間に入れてもらえなかったのですから。
  犬の世界というのはとても厳しいのです。実際、私がタイのお寺で修行をしていたときに目撃したのですが、寺に住みついた野犬グループの中にはリーダーを筆頭に明確な序列があります。もしそこに新しく野良犬が入っていこうとすると、リーダーを頂点とした群れの承認が得られないと仲間に入れません。毎日のように噛み合ったり吠え合ったり、強さによる順位の確認がなされ、餌を食べる時には厳然たる上からの順番となっています。最下位の犬は哀れなもので常に噛まれたりして、餌はほとんど無くなっていますから腐りかけたゴミを漁って、運が悪ければ食中毒で死にかけたりします。その苦しそうな悲しい鳴き声は本当に哀れな、凄まじいものでした。
  それでも群れに入れなければ餓死するかも知れず、何よりも群れの仲間と共に生きていきたい本能のある犬にとって、孤独地獄は耐えがたい過酷なものなのです。ですから、チロリがボスに認められ受け入れられたことはすごくありがたい話で、それ故にチロリは懸命にボスの介護をしたようなのです。
  遡って、大木さんがなぜチロリの世話をしようと決断したかを考えると、大木さん自身の境遇がチロリの境遇と重なってしまったというのです。小学校の時、大木さん自身が吃音のためにいじめにあって、家に帰ると飼い犬だけが尾っぽを振って自分の帰りを待っていてくれていました。そこに心の交流があって、どれだけ癒されたかわからないと言われています。また、12歳の時に一家離散の状態になってしまって、おじさんやおばさんのところにタライまわしにされ、ご飯をおかわりするにも遠慮がちというような子供時代を送られたということです。
  つまり、少し足を引きずって、虐待のあとも残る捨て犬のチロリを見殺しにしたりせず、受け入れてあげる決断は、自分の少年時代の境遇と同じだというところから来たのです。どこにも行くところがない時の悲しみや苦しさ、自分自身のいろいろな体験が想起され、大変だけど引き取ろうという判断につながったわけです。
  このように、トラウマがあったりマイナスの経験をした人が優しくなれるというのは、自分自身の痛みを通して他者の痛みや苦しみが理解され共感される構造になっているからだと考えられます。自分自身が傷ついてきたからこそ、苦しんでいる者への優しさにスイッチが入るきっかけになっているわけです。大切な人との死に別れの経験があれば、同じ経験をしている人に対して、ああ、この人は今あの悲しみを経験しているのだ・・とわかるのです。これは、上から目線の強者の憐れみや慰めではない、心の底から共感できる力の源になっていると思われます。

5.悲嘆を乗り超える道筋
  チロリも大木さんも、マイナスの体験を見事にプラスの切り札に転じていった癒しの達人のような存在になりました。しかし、いきなりそうなれる訳ではありません。他者を癒す力は、自分自身の悲しみや心の傷に向き合い、そのネガティブ体験を完全に乗り超えて癒される体験をしなければ得られるものではありません。
  ブッダが「自ら浄められてから、他を浄めよ」と説いているように、深く傷ついた悲しみや苦しみや絶望にしっかり向き合い、あるがままに受け容れ、共感してもらい、癒され、解放されていく自然な流れに沿って、自己回復物語を完結させていかなければなりません。悲しみは必ず癒され、優しさの原点にもなり得るものですが、それなりのコストや時間が必要なのです。
  悲嘆に繋がるような突然の出来事に遭遇した人は、ショックのあまりただただ呆然としてしまう時期があります。例えば、シスターの高木さんが看てきた事例では、若い母親が4歳の娘と横断歩道で信号待ちをしていて、いつもは幼い娘の手をしっかり握っているのですが、その時はたまたま荷物を持っていて子供の手を離していたのです。すると、まだ信号が赤なのにその女の子が飛び出してしまい、その途端にバイクにはねられ、3メートル近く飛ばされて母親の目の前で即死してしまいました。母親は完全に茫然自失、能面のように何の感情も出せない状態になってしまい、その後に続くお通夜やお葬式を、涙ひとつ流せないロボットのような感じで送られたそうです。
  それからひと月ほど経った頃、高木さんと対面したこの母親は自分の心のすべてをぶつけて、娘は今どこにいるのでしょうか!?と訊いたそうです。高木さんはカトリックのシスターなので「私にはマリア様にしっかり抱かれて守られているように感じられるから大丈夫ですよ」と答えました。「見えているわけじゃないのですが、私にはそう感じられるのです」と。
  そうしたら「本当ですかー!」と、若い母親はその場に泣き崩れ、号泣慟哭したそうです。この大泣きが大事なのですね。泣くべきところで、ちゃんと泣いて、情念を発露させ、解放する心のプロセスを経ないと、悲しみが抑圧されたまま心の奥底で凍結してしまうのです。そうすると、いつまで経っても心は冷たいまま、自覚に昇らない悲嘆という名の怒りが渦巻いて行き場がなくなるのです。
  ですから、まず自身の悲しみに正面から向き合い、承認し、泣いて感情を吐露し、それを誰かに理解してもらい、受け止めてもらって、優しさを受けて癒される体験が必要不可欠なのです。自分をちゃんと受け入れてくれる存在との共感性の中で、悲嘆にトドメが刺され、真に癒され、自己回復物語が完結していくプロセスがあるのです。
  悲嘆というのは非常なショックを受けると、そののち強い喪失感が襲い、閉じこもり状態を経て再生していくというふうに言われていますが、そうした流れのなかで共感というか、自分の存在を認め、自分の人生を肯定してくれる人に出会わないと、孤独と絶望を抱えたまま出口なしの心理状況になってしまいます。そうすると12年経っても、「あんたなんか、たいしたことないわよ」と口にするようになってしまうのです。
  グリーフ(悲嘆)が乗り超えられないと、人は冷たくなる、と高木さんは言っていました。この冷たさは、悲嘆という名の怒りがいつまで経っても手放せないまま、心の深層で凍結して立ち往生している状態です。
  さて、セラピードッグになるため、チロリは大木さんの訓練を他のどの犬よりも早くをクリアーしていったのですが、致命的な欠陥が露わになりました。それはステッキ状のものへの恐怖です。セラピー犬として、車椅子同様、松葉杖やステッキなど歩行の必需品に対する恐怖があれば致命傷です。おそらくチロリは、棒やステッキで虐待されたことがある、とにらんだ大木さんは、毎晩チロリを抱いて自分のベッドで一緒に眠りました。しかもチロリと自分の間には、恐怖の源であるステッキを置いたのです。
  最愛の大木さんに抱かれているが、その間には恐怖のステッキが横たわっている。愛と優しさと恐怖が同時に存在しているのです。感銘を受けました。なんと見事な手法で、チロリの恐怖を抜き、人の優しさを伝えていったことか・・と胸が熱くなりました。チロリの最大の難関は、このように突破されていったのです。この時の大木さんから受けた愛と優しさと心底からの共感が、チロリの心の傷を完全に癒したのではないかと思われます。
  こうしてチロリの自己回復物語は完結し、晴れて日本初のセラピードッグとなりました。数えきれない多くの人に癒しを与えたチロリは、癌で亡くなる直前まで、フラフラになりながらも癒しの仕事に出かけるのを止めず、最後の瞬間まで優しさを発露しながら見事な生涯を閉じたのです。
  人はさまざまな個人史のなかで、トラウマや劣等感もすべて含めたネガティブな体験をいかにして乗り超えるかという課題を負っています。その成否を決定づける要因は、自分の悲しみの深さに共感してくれる人との出会いにあります。自分の存在を丸ごと受け止め、肯定してもらえる人との関係性の中で癒され、自分を取り戻し、それが他の誰かに対する新たな優しさと癒しの発信に転じていくということではないでしょうか。

6.「悲しみ」という名の「怒り」を手放す
  前述した未亡人ですが、悲嘆に暮れた母の様子を見かねた娘が『瞑想クイックマニュアル』出版記念講座の1dayコースに母親を連れて来ました。その後しばらくして、この未亡人は夏の10日間合宿にも参加されたのですが、娘から強引に背中を押されて渋々来たようで、瞑想ができない状態でした。ボーッと物思いに耽ってしまう感じで、リタイアするかもしれないと思いましたが、それでもなんとか踏み留まってがんばっていました。
  この方は、壁に手を付きながら歩く瞑想をしていました。「(手を)のばした」「(壁に)触れた」「(足が)離れた」「進んだ」「触れた」「圧」と繰り返しながらゆっくり歩いていました。
  印象的だったのは、この方は壁から手を離すと漠然とした不安を感じるらしく「不安感」「恐怖感」とラベリングしていました。面接で何度も確認したのですが、「奈落の底に落ちていくような漠然とした恐怖感」ということでした。「恐怖感」の他にも「(暗闇に落ちていくような一瞬の)恐怖」「(どこまで落ちていくかわからない)不安感」など、微妙に言葉が変わりましたが、足が床に着き、手が壁に触れると「安堵感」というラベリングに変わるのでした。
  「恐怖感」から「安心感」まで毎日毎日、えんえんと繰り返していたのです。すると、手足が宙に浮いている寄る辺ない感覚と、自分の置かれている現状がダブってきたのでしょうか。自分の悲しみや苦しみの構造がだんだん理解されてきたようです。
  どんなに恐怖があり不安があっても、やはり手が壁に触れる瞬間が来るし、足も必ず床に着いて両足で立てる瞬間が来るのだという安堵感です。誰にも頼ることのできない、孤独にひとり宙に浮いている感覚にも終わりがやってくる。必ず到着できるときが来て安堵することができるし、どんなことにも終わりがあるのだ・・ということがわかってきたのです。
  こうして、合宿が終わりに差しかかったある日の午後、真夏の陽射しがパタリと途絶え、辺りがにわかに暗くなって夕立ちが襲来しました。激しい雨が降るだけ降ると、やがて黒雲が破れて再び陽光が射し始め、すっかり晴れ渡りました。グリーンヒルはわりと緑の多いところですが、そこかしこの木々の緑からしたたり落ちる雨滴がキラキラキラキラ光り輝いているのが見えました。その時なぜか、この方の言葉だと、夫は成仏したと感じたというのです。
  夫は成仏したというのは、私の言葉に翻訳すると、悲嘆が手放せたということです。自分の中のどうしようもない喪失感と悲しみが終わりにできたのではないか、と。この方は、夕立の後に辺り一面の景色がキラキラ輝くのを見ながら「つかんでいて放せなかったあの人の腕を、私は今、放そうとしている・・」と感じ、涙がこぼれたと言っていました。
  この時からなぜか心がシーンと静かになって、瞑想が本格的にできるようになり、その次の日には、少女時代に描いていた絵をもう一度描いてみたいと思ったそうです。合宿が終わったら、絵筆を取ってみたい・・。今までは、とてもそんな気持にはなれなかったけれど、何かが確かに終わったと感じられたのです。
  合宿が終了し2回くらい瞑想会に来たのですが、その後はもう来られなくなってしまいました。苦しみが乗り超えられると、瞑想をやらなくなる方が多いのですが、この方もそのタイプだったようです。人生に躓いた人の大きなドゥッカ()がこうして癒されるならば、たとえその後、瞑想から離れていったとしても、苦を癒すためのシステムとして、仏教はひとつの役割を果たしたと言えるでしょう。
  この合宿に入るまでは、誰に会っても突っかかっていたと言っていたこの方も、あれだけの体験をなさったのですから、たぶん優しくなっているのではないでしょうか。


7.自己否定感覚を乗り越える
  いずれにしても、怒りが渦巻いている限りは優しさや慈悲が発露することはありません。その乗り超え方はいろいろありますが、もし誰かの悲嘆に立ち会うことになった場合には、余計な慰めは言ってはいけないというのが鉄則です。グリーフケアに携わっている方によれば、不用意に励ましの言葉などをかけてもまず良い結果にはならず、「あんたに何がわかるのよ」というふうになるそうです。
  傾聴してあげること、何もできないがただ聞いてあげるのがよいと言われています。信頼できる共感者の存在は、悲しみが癒される重要なファクターですが、誰でも簡単にめぐり会えるものでもありません。難しいところですが、ヴィパッサナー瞑想には希望があります。サティの瞑想では、ひたすら自分に向き合い、ありのままに客観視することが求められています。その結果、他人の助けがなくても、自分自身で負の情念を解き放つことが可能なのです。事実を正確に把握し受容するプロセスでは、他人に指摘されて気づくよりも、自分自身で気づいた衝撃の方が何倍も強烈な印象となります。それが、観察の瞑想の威力です。
  悲しみを乗り超えるためには、まず悲嘆という負の情念を解放しなければなりません。そのためには、辛く苦しい真実に向き合い、悲しみの涙に暮れるプロセスを経なければならないでしょう。悲しみを抑圧し、このプロセスをカットしている限り、いつまでも引きずることになります。悲しみも「対象を嫌う」怒りの心に分類されますので、悲嘆が抑圧されている心に慈悲の優しさは発露しづらいのです。
  悲嘆という怒り系の心を乗り超え、真の慈悲を体得していく上で最も大切なのは、自己肯定感です。悲嘆とトラウマ(心的外傷)と劣等感に共通するのは、怒りと、自己肯定感の乏しさです。自分は劣っているという認識も、嘆き悲しんでいる自分も、ズタズタに傷ついた自分も、当然肯定できようはずもなく、その状態を嫌悪している怒りと言えるでしょう。
  劣等感の場合、それが自分のキャラクター(性格・気質など)に関するものであれば「自己否定感覚」になるだろうし、自分が失敗したことによる単発的な出来事に起因するものであれば「自己嫌悪」になるでしょう。先ほどお話した4歳の娘が交通事故にあった方のケースでは、自分は母親失格ではないかという罪悪感と劣等感とトラウマと悲嘆がゴチャ混ぜになって、強烈な自己否定感覚に襲われていたので能面のような表情になっていたと思われます。それゆえにこの情況では、まず大いに泣くことによって悲嘆を手放すことがどうしても必要なのです。
  怒りの対象となるマイナス感情や負の情念を解放する仕事が終わったら、積極的に自己肯定感を高める営みが必要不可欠です。優しさを阻む否定感情が無くなり、ゼロになりました・・。それだけでは、積極的な慈悲の発露には弱いのです。自分を受け容れ、自分を愛することができ、自己を積極的に肯定できる心から、他者への優しさは生じやすいということです。
  では、自己肯定感を養うのに必要なものは何でしょうか。それは自己有用感です。私は無用な存在ではない。私は人のお役に立てる存在であり、私の存在にも価値があるのだという感覚です。そしてこの自己有用感を養うには、当然のことですが、どんな些細な善行でも躊躇せずに実行することです。義捐金を送ったり、ボランティアだけではありません。自分の家のトイレ掃除やゴミ出しからでも構いません。席を譲るのも、ネットに有用な情報を書き込むのも、他人の家の前の道路を清掃するのも、ゴミを拾いながら駅に向かうのも、最初は戸惑っても、しだいに人のお役に立てることが自然にできるようになります。
  さらに、自己肯定感と大いに関係があるのは達成感です。何事も投げ出さずに最後までやり遂げ、「やったぞ」「やればできるんだ」という気持ちです。常識的に考えても、自分のなすべきことを途中で投げ出してしまえば、そんな自分が嫌になって自己否定的な傾向に陥りがちです。やり遂げたという感覚は、なんとなく自分を褒めてやりたくなるし、自己肯定感覚につながっていきます。


8.善行を積むことの意味
  以上のようなことを大局的にみれば、大切なのは人との関係性だと言えるでしょう。やはり人間というのは孤立した孤独な情況では生きるのが苦しく不安定になる存在です。人は、人との関係性や繋がりの中で生きるように、遺伝的にプログラムされているのです。
  では、人との関係性を築いていくには、具体的にどのようなことを心がければよいのか考えてみましょう。
  まず第一には、前述した善行です。善行を行なうと気持ちが良いし、達成感があり、自己肯定感を高めてくれます。自分自身の心を浄化し、向上させていくのに強力な効果を発揮するでしょう。しかし、それ以上に大事なことは、善行をすれば、他人や社会との関係性が良くなり、素晴らしい絆ができるということです。相手のためになることや世の中に貢献する善行をしている人は必ず好かれるし、尊敬されるし、評価されるし、良い絆が培われ関係性がよくなっていくものです。その結果、世の中や人と関わることができている安心感や自己肯定感がさらに増していくでしょう。
  自分の心の闇に目を背けてそんな善行をするのは、偽善ではないかと言う人もいるかもしれません。だから何もしない方がよいのでしょうか? 何もしなければ、現状に何も変化は生じません。心の闇を根絶するのはライフワークと心得て、まず諸々の善行に着手し、人との関係性を良好にすることです。人間の幸福度や長寿の原因に指摘されている第一位は、良好な人間関係なのです。これは世界中に共通です。人というものは、人間関係や絆の良し悪しで幸福が左右されてしまう存在です。互いに協力し合って生き延びてきた700万年の人類史の結論なのでしょう。
  慈悲の瞑想も、本来は心の闇を一掃した人から発信されるべきものかもしれません。自ら浄められてから他を浄めよ、というブッダの教えからしても、それが正論です。しかし、誰もが修行第一の道を歩む訳ではありません。ほとんどの人は、ライフワークとして心の根本問題に取り組み、人生を閉じるまでにやり遂げることができれば大成功といったところでしょう。
  心の土台が浄らかな人は、慈悲の瞑想の上書き効果が鮮やかに現れます。しかるに、深刻な心の闇を抱えた人の上書き効果には限界があるのも確かなことです。では、そういう方の上書き効果はゼロかと言えば、そんなことはありません。繰り返され習慣化されたものは、必ず反応系の心を形成していきます。多くの場合は、繰り返された反応パターンが一番で起動するものです。
  土壇場に追い込まれた情況では、もっと深い心のプログラムが解除されますから、豹変し、本性が出た・・ということになるかもしれません。だから、どうだと言うのでしょう。慈悲の瞑想は虚しいもので、やらない方が良いと言えるでしょうか。土壇場の極限情況など滅多にあるものではありません。たとえ不完全な上書き効果であっても、心を浄らかにするあらゆる営みは価値あるものです。そのように、必ず心は変わっていくのです。
  たとえ不完全、不徹底でも、衆善奉行、諸々の善行を行じ奉るべし、です。何よりも、行為の実行ほどカルマが良くなるものはないのです。世のため人のために善行を積み重ねていけば、人生の流れが好転し、運が良くなったラッキーな日々が到来した印象を受けるでしょう。現実として日々、好きことが起きれば心は良い方向に傾くものです。それとも毎日、嫌なこと、苦しいこと、最悪な現象が続いた方がよいのでしょうか。善行をすれば、カルマが良くなり、穏やかな優しい心が立ち上がりやすくなるのですから、それだけでも心がけるべきでしょう。
  慈悲の瞑想の文言を繰り返すだけでも素晴らしいことなのだと、ぜひ言っておきたいと思います。たとえ悲しみや劣等感が心の奥底に残っていても、慈悲の瞑想の文言を繰り返していくだけで優しいモードになれるのです。それが不完全で脆くても、怒りモードでいるよりも、優しいモードになった方がよいのだと心得て慈悲の瞑想をしていきましょう。カルマが良くなれば、やがて素晴らしい共感者やカウンセラーや、安全基地になってくれる人との出会いにも恵まれてくるでしょう。そうして心が整い、環境が整い、時の流れ、因縁の流れに助けられて、成しがたきライフワークを成し遂げていくのです。
  心の奥深くに抑圧されている劣等感やトラウマや悲嘆に向き合い、その事実を直視して受け容れる人生最大の難事業をやり遂げるのです。始まりがあったものには終わりがあり、悪くなった原因に匹敵する良い条件や原因が組み込まれれば、完全に乗り超え終わりにできるのも確かなことです。長い間、黒くわだかまっていたものが完全に解体し、解き放たれたとき、素直で自然な優しさに満ちた慈悲が溢れていくでしょう。


9.エゴを乗り越える
  ここまで、悲しみや劣等感やトラウマという名の怒りを手放すことを強調してきました。では、怒りさえなければ自動的に慈悲の人になれるのでしょうか。残念ながらその保証はありません。怒りや残酷さが引き算されたニュートラルな状態から、温かい慈愛がこぼれる場合もあるし、そうでない場合もあるでしょう。確かなのは、ネガティブな悪いものが発信されなくなっただけです。
  それでは、優しさを充分に与えられれば、誰でも自動的に優しい慈悲の人になれるのでしょうか。多くの場合は、その通りです。虐待も慈愛も、暴力も優しさも、人は受けてきたものを反射的に出力してしまうものです。
  しかし、小さい頃から大事にされ、まるで王子様か王女様のように育てられたのに、ただワガママなだけで、やりたい放題のゴイストになり、慈悲も優しさも発信されない愚か者もいるようです。大事にされ、優しさを受けたのに、まるでダメ夫やダメ子になるのはなぜでしょうか。
  一つには、純粋で賢明な優しさではなく、愚かな溺愛や盲愛を受けてしまった可能性があります。もう一つは、我執やエゴ感覚や自我意識の問題です。ギブアンドテイクで取引される優しさもあれば、正直や優しさを戦略として利用している人たちもいます。
  薄汚れた優しさと慈悲が決定的に異なるのは、エゴ感覚の有無と言ってよいでしょう。エゴ性を乗り越えなければ、純粋な慈悲の心は育まれないのです。自分に被害を与えた人、敵対する人のためにも幸せであれと祈る、慈悲の瞑想のむずかしさがここにあります。純粋な慈悲の瞑想を体得するには、エゴを乗り超え、仏教の究極の到達点でもある「無我」を目指さなければなりません。
  こうして、慈悲の瞑想が完璧にできるのは、悟りを完成した人だけなのだと絶望的になります。まあ、致し方ありません。仏道を極めるのは至難の業であり、聖者のみが慈悲の完成形を体得するのであれば、われわれ泥凡夫は、自分の立ち位置から一歩づつ歩んで、果てしなく遠いゴールを目指して日々なすべきことを一つづつやり遂げていくだけです。途方もなく巨大なグラデーションですが、1ミリでも心が浄らかになれば、慈悲の純度も向上しているのです。それに正確に比例して、人生の幸福度も確実に上がっていくのです。


10.優しさのために
  慈悲の瞑想に真剣に取り組むことは、怒りを引き算し、エゴを引き算し、智慧を養い、捨の心を組み込んでいく修行であり、自己実現の道そのものとなります。この全人格的な営みがうまくいけばいくほど、優しさも智慧も崇高さも慈悲の心も深くなり、自己完結していくのです。
  この自己実現の悟りの道であり心の清浄道を歩み出すスタート地点は、私たちの顔が異なるように、長い輪廻の中で集積してきた宿業により千差万別です。優しくて賢明な両親や家庭環境に恵まれ、細胞レベルで優しさが自然に組み込まれた、生粋の慈悲の人もいるでしょう。正反対に、幼い頃から虐待を受け、トラウマや怒りを心中に深く抱えてきた人もいるでしょう。それは、カルマの相違であり、現象世界にこうした落差が生じているのは否めない現実です。
  だが、あらゆる存在は互いに己の分を守りながら公平であり、万物万象は平等にそれぞれの役割を果たしているのです。生来の優しい慈悲の人がその役目を果たすように、トラウマに深く傷ついてきた人は怒りを乗り超え、自らの運命を受容して「悲(カルナー)」の瞑想の達人として、世界中に溢れている虐げられた人々の等身大からの共感者となり、癒やしの仕事をやり遂げていくのです。
  銀の匙をくわえて生まれてきたおめでたき幸福の王子たちには、本当に傷ついてしまった人の悲しみは分かりません。経験が皆無なのだから、心底からの共感も同情もできないし、「慈しみ」の名人ではあっても「悲」の達人にはなり得ないのです。愛された者も、虐待された者も、人間として平等に、ただ異なった役割を果たしながら、因果法則を学び、エゴを乗り超え、自己実現の道を歩んでいくのです。
  誰も自分の運命を呪うことはできないし、手放しではしゃぐこともできないのです。肉食獣が獲物を倒して数の淘汰に一役買わなかったら、あっという間に草原は食い尽くされ増えすぎた草食獣も死滅するでしょう。他人の糞を日がなまるめていくフンコロガシが存在しなかったら、アフリカのサバンナはたちまち枯渇し、ガゼルもシマウマもチータもライオンも全滅するのです。カルマが違い、役割が違うだけで、フンコロガシもライオンも存在するものは全て、そのありのままで、公平で平等な立ち位置にいると心得、自分に与えられた運命や情況を受け容れ、なすべきことをなしていくということです。
  優しく愛され、悲嘆も劣等感もなしに来られたのであれば、それはそれでお人好しのような優しさが出るだろうし、苦渋の人生を歩んできた人は、それゆえに深く傷ついてきた人たちに奥深い優しさを発信できるようになります。ただ、自然にそうなるのではありません。

  放置しておけば必ず汚れていくし、悪くなっていくのが人の心です。汚れれば汚れるほどドゥッカ()の分量が増し、浄らかになればなるほど苦しみが引き算され幸福度が増していくのも確かなことです。心を浄らかにする瞑想は、苦を乗り超えて無くしていく瞑想であり、心を浄らかにする修行も、優しい慈悲の人になるための行法も、同じ一本の道なのです。遠大な計画の下に、その道を歩み抜いていきましょう。


関連質問
Aさん:
  慈悲の瞑想をしているとき「私を嫌っている人の悩み苦しみがなくなりますように」と唱えていると、私のことを嫌っている人の顔がまず浮かんできます。そのあと、その人の悩み苦しみってなんだろうとか、その人の願いは何だろうとかの考えが浮かんで、結局それはわからないというふうになってしまうのですが、どう対処すればよいのでしょうか。


回答:
  慈悲の瞑想は、テーマから外れなければ、たとえ考えごと的になってもよいのです。事実検証ができず、妄想や想像力の域を出ないものであっても、嫌いな人や自分を嫌っている人を受け容れ、好きになれるというのは良いことなのです。慈悲の瞑想は、嫌いな人が嫌いではなくなり、好きになっていくプロセスであるとも言えるでしょう。
  しかしそうは言っても、普通は好きになれません。嫌いな人を好きになるためには、認知が変わらなければなりません。認知が変わるためには、価値観や世界観や考え方など、心の中で事実上の自己変革をしていくのと同じようなものです。一方的なエゴの視座から眺めれば、嫌な人はいつまで経っても嫌なままでしょう。
  どうしたら視座を変え、発想の転換ができるのかという問題です。この時に大事なのは情報です。相手に関する情報が乏しく、その内容も劣悪なものであれば、結論は悪い人だ、残酷な人だということになり、頭の中にはモンスターのようなイメージが作り出されてしまうかもしれません。例えば、嫌いな相手というのは、こちらに対して優しさの反対の行為、冷たかったり被害を与えたり、こちらが嫌がることをしている人でしょう。しかし、もし相手の情報をたくさん持っていれば、なぜそんな態度を取るのかその背景が推測できるかもしれません。どんな人にもそれなりの事情があり、相手にもそうなるだけの理由があるでしょう。あるいはその人の来し方や現在置かれている状況がわかってくれば、悲しくも哀れな過去に同情的になり、受け入れて認めることもできるかもしれません。
  しかし嫌いな人の情報を客観的な立場から収集するのは、やはり難しいことです。情報が得られないのであれば、たとえ妄想であってもこちらに慈悲の気持ちが芽生えてくれば、それを活用すればよいという考えもあります。相手をゆるせず、こちらの怒りが永続するのはお互いのために不幸なことです。
  グリーフケアの高木さんが「私には、マリア様にしっかり抱かれて守られているように感じられる」と言ったのは、たぶん嘘ではなかったでしょう。私は、これは嘘の戒律に触れない巧みな言い方だと思いました。見えている訳ではないからわからないが、私にはそう感じられるし、そう確信している・・。人のケアに携わる人だったら、こう言うべきだと思います。もし「わからないですよ。ひょっとしたら地獄に行ってるかもしれません」などと答えたらどうでしょう。聞かされた方は救いようがありません。「私のせいで死んだ上に地獄で苦しんでいるのですか!!」となったら、どうしようもないですね。
  高木さんのこの言葉によって、能面のようになっていた母親は「本当ですかーッ!!」と号泣することができました。抑圧され押し込められていた悲しみの解放が始まれば、乗り超える可能性も開けてきます。こうしてグリーフケアが終了できるのでしたら、それはそれで素晴らしいことだと思います。
  情報が得られないなら、致し方ありません。大事なのは、怒りの認知を慈悲の認知に転換していくことです。たとえ事実かどうか不明な勝手な妄想でも、それでお互いにいがみ合いや怒りから解放されていくのであれば賢明なことでしょう。あの人があそこまで悪くなるのにはこんな背景があって、のっぴきならない事情からあそこまで荒れ狂っているのだと、頭の中で想像すればよいのです。そして、私は私のカルマによって、このような情況にめぐり合わせているのだと理解するのも大事なことです。こちらも苦受を受けることによって不善業の解消をさせられているのですから。
  たまたま入ったコンビニの店員の態度が非常に悪かったら「なんだあの態度は!」と憤慨するでしょうが、ちょっとでもこちらに余裕があれば「どうしたんだろう、あの人。あそこまで接客態度が悪いのは、どんな原因があったのかな」と思うことも可能でしょう。すると反射的に怒りに巻き込まれることなく、冷静に達観できる感じになるのではないでしょうか。
  サティの一瞬と、智慧の一瞬が問われるところですね。想像力の乏しい人、エゴの強い人には難しいわけです。相手の立場に立って眺めてみる視座の転換が求められます。自己中心的な視座を換えることができれば、共感能力も増大するでしょう。「客に対してあんな態度を取ってしまうのは、あの人は本当にもういっぱいいっぱいになっているのではないか・・」と発想が変われば、怒りから優しさへシフトできる可能性も開けてきます。
  また、人は、お腹が空いていたり体調が悪い時などには、余裕がなくなって怒りが出てくるものです。血糖値が下がってくると想像力が働かなくなってくるし、そうなるとエゴの立場からしか見られないので、どうしてもキレやすくなったり荒れたりします。体調もまた条件であって、それが安定していればやはり心にも余裕が出てきますので、相手の側に立つ想像力も働きやすいのです。
  そして、このような共感能力を体得しさらに高めていくには、やはり訓練をするしかありません。慈悲の瞑想が深くなるのも訓練です。慈悲の一点に絞り込んでイメージを浮かべ、そこから外れないようにいかにしてのめり込めるかが大切です。しみじみとした情感の込められた慈悲の瞑想の方が効果的なのです。情動脳が働きウルウルするほど優しい想いが深くなっているし、深く集中するほど自分の心が慈悲の色に染められ、その心のエネルギーは不思議に相手にも届いていくものです。
  慈悲の瞑想は、怒りを乗り超え優しい人になるためだけのものではありません。慈悲の究極を目指して修行していくことが、仏教全体の悟りの階段を上りきっていくことに通じています。サティの瞑想と並行し、日々修行を深めてまいりましょう。

(文責:編集部)



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