月刊サティ!
はじめに 私は長年にわたってサティを中心とするヴィパッサナー瞑想の理論と実践を教えてきましたが、「サティの瞑想をやっていくだけで本当に心が変わっていくのでしょうか?」という素朴な疑問を持たれる方がとても多かったように思います。 サティの瞑想という訓練をしていくと必ず心が変わっていくし成長していきます。ただし、それにはヴィパッサナー瞑想を正しく理解し、正確な技術で修行が実践されていることが大前提になります。瞑想が正しく実践されないと、知的理解に基づいて反応が一応変わったかのように見えるのですが、イザという土壇場になると、深層の心は何も変わっていなかったことに愕然とするものです。 心が本当に変わっていくためには、心の反応パターンが根底から書き換えられなければなりません。また常に瞑想技術がいい加減になっていないか、マンネリ化していないかもチェックする必要があります。 きちんと覚えたつもりでも、時が経つと曖昧になっていることも珍しくありません。心に少しでも疑問が生じたらそのままにせず、得心がいくまで質問して正確な技術で修行してください。そのような意味で、今回はサティの瞑想の本質について少々厳密にお話をしていこうと思います。 Ⅰ.「赦し」に含まれる意味について 1.サティの核心とその働き まず、私たちの人生が苦しくなっていく基本的メカニズムとして、一瞬一瞬の情報がエゴによって編集され認知の誤りが生じるという問題があります。つまり、頭の中の思考や概念の世界と、事実として入ってくる情報とが混同されてしまい、結果的に認知に歪みが生じ、誤解や曲解の状態で強力に反応してしまう。これが、人生苦が発生するメカニズムなのです。自分が思い込んでしまった妄想・概念の世界と、あるがままの事実を仕分けて、正確に対象認知をすることから、サティの瞑想はスタートします。これはヴィパッサナー瞑想の原点なので、たえず確認しておかなければなりません。 しかし、さらに突っ込んだ考察をすると、サティを入れる瞬間の「認知」の構造は非常に複雑なプロセスを踏んでいます。 眼耳鼻舌身意の六門から情報が入った瞬間、脳内の記憶データと照合され「今の音は、お皿が割れたのではない。誰かがフォークを落としたのだ」などと特定され、知覚が成立しています。陶器の落下音と金属の落下音の違いが識別されているのです。瞑想者A君は「音」「聞いた」とラベリングしましたが、心の中では聞いた音の内容がフォークと分かっているのです。 一方、同じ音を聞いた瞑想者B子さんも「音」「聞いた」とラベリングしましたが、心の中ではお皿が割れたと誤認していたかもしれません。なぜなら今朝、お父さんの大事にしていた高価な皿を落として割ってしまい、ひどく叱られたのです。そのことが頭にコビりついていたので、金属のフォークの落下音を陶器と錯覚したのです。 落下音の内容を「フォークだ」「お皿だ」と特徴を識別し知覚する瞬間の働きを、仏教用語で「想」(sa???:サンニャー)と言います。「想」が成立するまでには、かなり複雑な脳内過程を経ています。過去の経験の違いや記憶データの影響を大きく受けるし、長年こだわっていることや気になっていること、劣等感、トラウマなど幾重にも干渉を受けているのです。 ヴィパッサナー瞑想はこの「想」の前後でサティを入れる訓練をするのですが、瞑想を深めていくためには、さまざまなものと網目状に関連し合った心の背景を理解することがとても大事になってきます。 サティが厳密に入れば、プツリと後続が絶たれますので、見たものは見たまま、聞いたものは聞いたまま、感じたものは感じたままで止まります。「匂った」で止まれば、ただ悪臭や芳香という事実があるだけで、悪臭への不快感も芳香に対する愛着が生じることもなく、ただ匂いが感じられたという嗅覚の経験があっただけです。 しかし、そのようにサティの本領を発揮して後続の連鎖を絶ち切っていく訓練だけで本当に心が変わるかどうかは微妙です。愚かな反応やあられもない反射的な振舞いを止めることができないので、私たちは人生を苦しくしています。サティを入れることによって、強力にそれが止められるということは、自己制御能力が飛躍的に高まり、マインドフルネスの威力が如実に検証されていると言えます。 しかし皮肉なことに、心の反応を止めてしまえば、逆に心の闇が抑圧される構造が深まってしまうこともあり得るのです。後続の反応が見事に止められれば止められるほど、意識の表に現れないのですから、誰もが各人各様の長い年月をかけて作ってきた反応パターンはそのまま温存されていることになりかねないのです。 2.事実を承認する心 情報処理した後にどう反応するかという、その反応の仕方を「反応系の心」と私は呼んでいます。その反応パターンは生まれた時から今に至るまでの経験によって決ってきますから、当然ながら人によって千差万別です。この反応パターンを根底から変えない限り、心はいっこうに変わらないし認知の歪みの修正にも繋がらないというのが私の持論です。 騒音に対して嫌悪がすぐに出てしまうような人でも、「音」とサティが入れば後続が絶たれ、それで終わってしまいます。「音」とサティが入らず「うるさいな」と心が反応してしまっても、その心に「嫌悪」とサティが入れば、やはり後続が絶たれてそれで終わりにできます。サティのクオリティはピンからキリまでですが、ただ「気づく」だけで後続を止める繰り返しでは、自動化されパターン化されて電車道のようになった反応系の心まで変えることは難しいのです。 事実と認識との混同を避けるために「あるがままの事実」に気づくこと、これがサティの最も大事な機能です。しかしこれはなかなか容易なことではありません。「気づく」ためには、「正確に認める」という背景がなければならないからです。つまり「気づく」ことと「認める」ことの間には微妙な違いがあり、大事なのは「事実を承認」すること、正確に在ったことを在ったこととして「気づいて認める」ということなのです。 自分の醜い欲の心や妬みや高慢さなど、ネガティブな現実に「気づく」瞬間、「あるがままに」が崩れやすいのです。嫌な事実には、反射的に打ち消したい心や目を背けたい心が伴ってしまい、一刻も早く厄介払いしたいような反応になりがちです。 他人の心を観察するのであれば、淡々とありのままに客観視ができるのに、自分の汚い心を観察する時には事実を正確に「承認」できなくなってしまうことが問題です。その瞬間、「目を背けたがっている」「事実なのに認めたがっていない」というサティが入るなら素晴らしいです。しかし通常は、私は立派な人間だ、というプライドを守るために、出来事の表面だけに気づいてスルーしようとするのです。 これが、「気づく」ことと「認める」ことの微妙な違いです。おおざっぱに、いい加減に気づくサティや、ネガティブな反応が立ち上がるのを阻止するためのサティは、甘いと言わなければなりません。 どうしようもない自分の実情や醜い真相をあるがままに視るのが、苦しいけれどもやらなければならないヴィパッサナー瞑想本来の仕事です。煩悩に汚染された心を浄らかにしていくのが、清浄道としてのヴィパッサナー瞑想です。 3.あるがままの事実を認める 私たちにとって、あるがままの事実を認めるというのはそれほど簡単ではありません。理由は2つあります。 まず、汚い、うるさい、臭い、まずい、痛い、など、ネガティブな情報が心に入った瞬間、必ず苦受が伴うし、その苦受を嫌い、苦を避けようとするのは反射的な本能だからです。どうでもよいことや、ニュートラルな情報はあるがままに認めることができたとしても、苦受を回避しよう、打ち消そうとする反応はストレートに立ち上がってきてしまうのです。気づくのと嫌悪するのがほぼ同時の印象で、気づいた瞬間、ラベリングしながら目を背けているかのようです。 もう一つは、エゴがあるからです。悟らない限り、自己中心的なエゴ感覚は誰にでも多かれ少なかれ残存しています。エゴがあれば、利己的になりがちだし、生存に有利な利害得失に敏感に反応します。自分に都合の悪いネガティブ情報に対しては「否定する」「無視する」「抑圧する」のは極めて自然な反応なのです。自分の利益に反しプライドの傷つく情報を「あるがままに承認する」のが容易ではないのも当然と言えば当然です。 修行をすれば心が変わっていきます。もし嫌悪したくなる情報が心に入ってきても、ただ「気づく」だけで、ネガティブな反応が起きなかったら、心の反応パターンが変わってきたことを意味するでしょう。 エゴの君臨していた心が変われば、都合の悪い出来事もそのまま認めて受け容れることができるでしょう。嫌なことも好いことも、苦も楽も、すべてを等価に眺める視点は、エゴ感覚の減少に比例して安定してきます。その時の「気づき」には、ありのままに「承認する力」が込められているのです。 どうしたら、そのようなレベルの高いサティが入るようになるのかを見ていきましょう。 4.心をきれいにする決意 サティの修行の本来の面目は、心が変わることです。心が浄らかに変わっていくことを第一義に考えているので、ヴィパッサナー瞑想は「心の清浄道」と呼ばれています。反応する心が成長していかなければ、あるがままに「気づく」ことができません。偏ったエゴの視座からの気づきや、煩悩に汚染された心を一時的に停止させるだけのサティでは、人生の苦しみを乗り超えていくことが難しいでしょう。 自然放置された心は、必ず煩悩で汚染する。これが自然の摂理です。欲望と怒りと無知な反応を繰り返していくのですから、生存がドゥッカ(苦)になるのは宿命です。 大事なのは、エゴに執着する心を手放していく覚悟です。ネガティブな現象に目を背けず、不都合な事実もありのままに受け容れて承認していく決意です。まず自分の心が汚れてしまっていることを認めることができなければ、心をきれいにしていこう、浄らかになりたい、というモチベーションも高まりません。絶対にやる。必ずそうする、と揺るぎなく決心すれば、現実が動き始め、現象の世界が変わり始めるでしょう。人は、なりたい者になっていくのです。 5.赦し これまで多くの方々に、なぜ瞑想しようと思ったのですか?と訊ねてきました。最も多かった答えは、「現実は変えられないので、自分の心を瞑想で変えてみたかった」というものです。たいていの方が人生に躓き、苦に遭遇したことがきっかけでした。その苦しみのほとんどは、人間関係に起因するものと言っても過言ではありません。 人は、人との関係において苦しむのです。毒親に悩まされてきた人、子供のことで死ぬほど苦しんでいる人、安定した男女関係や夫婦関係が持てない人、上司のパワハラで重度の鬱病になった人、怨憎会苦の天敵にイジメ抜かれ頭髪がすべて脱けてしまった人、信頼していた人に裏切られパニック状態の人、誰にも愛されていないと自暴自棄になっている人、誰も信用できず誰ひとり本当には愛せなくなって立ち尽くす人・・。人間関係という名の地獄というものが、この世にはあるようです。 心を浄らかにするのも、心を成長させていくのも、人間関係の現場で検証されていくものです。洗面所の鏡に映っているのは、ただの顔です。眼や鼻や口が並んだ顔面です。人は、人間関係という鏡に映さなければ、自分自身の姿が見えないのです。 ここからは人間関係を中心に、心の成長を考えていきましょう。心が成長するとは、ひとことで言えば、「子供から、大人になる」ことです。いい歳をこいて、小児的エゴイズムを乗り超えていない人は、人間関係で苦しむでしょう。お子様の視線では、ものごとがあるがままに見えようはずはありません。 では子供から大人になるというのはどういうことでしょうか。それは、愛される側から愛する側になることであり、癒される側から癒す側になることです。多くの女性にとって、子供から大人になる劇的な瞬間は、母になることでしょう。真の母性は、ただ限りなく与えることに無上の喜びを覚えます。もらうばかりだった子供が、与える側、愛する側、守り導く側になるのが、大人になることです。子供から大人になっていくとき、ものの見方が変わり、心の編集の仕方が変わっていくのです。 もうひとつ、私が強調したいのは「ゆるし」ということです。「ゆるし」ができるということは、大人の証しだと言えるでしょう。ゆるせないものが、ゆるせるようになっていく時、人の心は成長し大人になっていくのです。 この「ゆるし」を私は「赦し」と書きます。「許し」という字もありますが、これは許可を求める時の用語で、「赦し」は赦免や恩赦という言葉があるように、基本的には「罪をゆるす」というような意味で用いられています。しかし、ここでは罪だけに限定せず、「嫌なこと、否定したいこと、マイナスなこと全般をゆるす」という意味で使おうと思います。ネガティブなことが発生してしまい、不快極まりない嫌なことなのだが、それを「ゆるす」ことができるか、ありのままに受け容れることができるか・・という意味で「赦し」について考えてみましょう。 赦しがたいものをゆるし、受け容れることができる時、心は成長しています。認知が変わるからです。自己中心的なものの見方を断じて変えずに言い張っている限り、赦しがたいものがゆるせる筈はありません。赦せないものがゆるせるのは、認知が変わるからです。お子様の認知が、相手の立場もわきまえ、情況全体を俯瞰する客観的なものの見方に変わるので、受け容れることができ、ゆるすことができるのです。 ゆるせない!と息巻いているとき、心の中には怒りがあり、葛藤があります。幸せではありません。しかるに、全てを水に流し、ゆるすことができたなら、安らぎや解放感が得られ、幸せになれると言ってもよいでしょう。 赦しができるということは、認識革命を起こすことであり、自己変革にもつながっています。嫌悪すべき他人をゆるすのも、極めてネガティブな情況を受け容れてゆるすのも、結局、自分の心や認知の仕方に変化を起こしていくことです。 したがって、ゆるしの修行は、まず自分自身を赦すことが一大事であり、最初に取り組むべきタスクになります。自分のことが100%大好きで、自己陶酔しているおめでたい人もいますが、少数派です。自己嫌悪にまみれたことのない人は一人もいないでしょう。失敗したことのない人も、やり直せるものならやり直したい痛恨の過去がない人も、おりません。過去に束縛されていない人はいないのです。 過去から完全に解放されたなら、人生苦の大半は消えていくでしょう。ネガティブな過去の出来事や、忌まわしい記憶にいつまでも縛られているのは、エゴの立場からの認知が変わらないからです。起きてしまった事実は変えようがありません。それを否定し続けて苦しむか、認知を変えて受け容れる「ゆるし」の修行をやり抜くかです。ネガティブな過去を受け容れるということは、真の自分を受け容れることにつながる行為です。人生苦の元凶のひとつ、怒りの煩悩から根本的に解放されていくためにも、最も重要な取り組みと言ってよいでしょう。 Ⅱ.「赦す」ということ 1.自分を受け容れることができなかったマリリン・モンロー 以前マリリン・モンローの伝記的なドキュメンタリーをテレビで見たことがあります。晩年のモンローに精神分析をしていた方の手記をもとに、生涯を映像化した番組だったのですが、彼女の生涯は幸福とは言えなかったのではないかという印象を受けました。 有名な女優になって多くの男性と浮名を流したりしましたが、あまり幸せに満ちてはいなかったようです。それはやはり過去が乗り超えられず、結局、自分自身を受け容れることができなかったマリリン・・という言葉で括れるように思えました。 その番組とはまた別に、1954年にアメリカ大リーグのプロ野球選手ジョー・ディマジオと結婚し、新婚旅行を兼ねて来日した時のことを中心にしたドキュメンタリーを見たこともあります。 二人は1年足らずで離婚してしまうのですが、このジョー・ディマジオは、後年モンローの葬儀委員長までして、死ぬまで彼女のお墓に花束を欠かさなかったという、ほんとうに誠実な人であったようです。この人とうまくやれたら、また別の人生もあったのかな・・という感慨も覚えます。 二人の来日は読売ジャイアンツの招きでしたので、ディマジオには野球の仕事があって、ちょっとモンローはほったらかしにされていたのですね。その時は朝鮮戦争の最中で、折しもマリリンに韓国軍を支援して戦っているアメリカ軍のところへ慰問に行ってくれという依頼がありました。彼女は暇だったので、すぐ近くということもあって慰問に出かけました。夫は猛反対したのですが、それを振り切って夫を置いて行ってしまったのです。そのことがきっかけとなって彼女の人生が変わってしまうのですね。 どう変わったかというと、彼女は亡くなる直前まで次のように言っていたそうです。 「私の人生の最高の瞬間は、その1954年2月16~19日、韓国在留アメリカ第54師団の何万人もの兵士達の熱い視線を浴びながら、壇上で歌を歌い、慰問のショーを行なった時・・。それが最高の瞬間だった」と。戦場ですからね。そこへ慰問に行くと何千、何万という兵士全員が、たったひとりのグラマーな女性であるマリリンを注視しているわけです。もう何カ月も母国の女性を見たことがない、若い男性兵士の全ての注目がただ一人彼女に注がれているわけです。自分という存在が熱烈な視線を浴びているその時の痺れるような感動、それが最高の瞬間だったと言っているのです。それまでは女優を辞めて、ディマジオと幸せな結婚生活に入るつもりでいたらしいのですが、結果的にはまた芸能界に戻って女優として生涯を終えることになった、まさに人生のターニングポイントになった出来事だったそうです。 2.強い承認欲求 なぜマリリンは、幼い頃からの夢でもあった、ささやかで幸せな結婚生活の可能性を捨ててしまったのでしょう。不特定多数の華やかな喝采と強烈なスポットライトを浴びる、まばゆいばかりのステージの陶酔と、人が去り、ライトが消え、独り取り残される虚しさと寂しさに突き落とされる、まさに痺れるような陶酔といたたまれない虚しさを繰り返しながら、30代で孤独に謎の死を遂げていく人生を選んでしまったのでしょう。 マリリンの私生活では、次のようなことも分かってきました。 彼女は、誰と会う時にも遅刻をしていたそうなのです。友だちであろうが目上の人であろうが、仕事関係であろうが先生であろうが、必ず遅刻をするのだそうです。なぜ遅刻するのかというと、「遅れても待っていてくれるのは、私を愛してくれている証拠なのだ」というのが彼女の言い分です。「私を受け容れてくれている証し。私を愛してくれている確証を得る」ためにわざと遅刻をしていたそうなのです。 それを精神分析医に「違う」と診断されました。「遅刻することは相手に対して『あなたは嫌い』『あなたを否定する』『認めない』というメッセージを送ることなんだ」と分析医は言い続け、結局彼女はそのことを受け容れて、その後遅刻はしなくなったそうですが・・。 つまり、自分の存在をどうしても確かめずにはいられないのです。自分に関心を寄せてもらいたい。自分の存在を承認してもらいたい、という強い自己承認の欲求があったわけです。それが、韓国での何万人もの兵士を前にした、あの「人生最高の瞬間」につながっているということです。 3.愛されなかった生い立ち そのようなドキュメンタリーでしたから、生い立ちについても触れていました。 彼女の母親は精神病を患っている人だったので、通常の親子の愛情をあまり受けられず、結果として母親に愛されなかったわけです。孤児院にいた一時期もあったり、里子に出されてあちこちたらい回しになっていたこともあります。その当時のアメリカは里子を受け容れると補助金が出るので、その補助金目当てに引き取る、そういう家庭が受け入れ先となっていたのでは、決して優しく愛されたわけではなかったでしょう。 そのような事情から、彼女の生い立ちにはまともな愛情をもらえなかった辛い背景がありました。自分を丸ごと愛してくれる優しい親に守られながら、自分の存在が完全に受け容れられている感覚。これが健全な生育環境であり、幼い子供はそうした安全基地の中で自分の存在を肯定することができるし、この世界にいて良いのだ、生きていてOKなんだ、と安心して自尊感情が育まれるのです。 それが得られなかったら、当然のことですが、自己評価が非常に低くて自分に自信が持てなくなるでしょう。ここにマリリンの悲劇の原点があったように思われます。自分の存在を絶対的に肯定してくれるものを常に求め続けてさまようという、「愛着障害」特有の心の渇きがどうしようもなく強くなるという事情がありました。 4、代償は本質的な解決にならない 彼女は女優として必死で頑張って、やがて人気が出て世間の注目と喝采を浴びました。それこそ何万人もの男性の熱烈な視線がマリリンひとりだけに注がれるというトップ女優ですから、数え切れないくらいステージの上で喝采を浴びる陶酔を繰り返してきたことでしょう。しかしそれでもなお、自分の存在を認めてほしいという彼女の心の渇きは続いていたと私は見ています。 麻薬のように強烈な快感に酔いしれても、壇上のスポットライトのまばゆい陶酔は、マリリンの求めていた安全基地になろう筈はなかったのです。おそらく彼女は、自分が必死で求め続けているものが何なのか自覚していなかったのだろうと思われます。自分の存在を丸ごと受け容れる絶対肯定こそ、彼女に必要不可欠なことだったのですが、万雷の喝采と眩しい光を求めてしまっていたようです。その瞬間の、自分の存在が爆発的に求められているような陶酔感が錯覚させてしまったのでしょうか。喝采はたちまち消えていき、観客は自宅に帰り、マリリンが独り取り残され、どうしようもない寂しさに陥っていく・・。 なぜマリリンは自分を乗り超えることができなかったのでしょう。それは、真実の自分に向き合うことができなかったからではないかと思われます。 普通であれば、可愛い盛りの子供時代に、自分を絶対的に受け容れてくれる親や家族に守られ、その安全基地となる存在を通して自己に対する肯定感が形成されていきます。自分を完全に受け容れ、肯定しきる心理的体験は、たとえそれがうまくいかなかったからといっても、他のものでは代償にはなり得ないのです。 もし代償で取って代われるものなら、爆発的に自分を求めてくれる眩しい喝采を浴びることで彼女の心の渇きは完全に終わりにできたことでしょう。しかし喝采は本質的な解決になりませんでした。彼女の人生が喝采を求める繰り返しだったことはそのことを示しています。 彼女に必要だったのは、喝采ではなく、生い立ちから今日までのすべての自分を受け容れることだったのです。しかし、自己肯定感の乏しいマリリンが独りでその難事業をやり抜くことなどできるはずもありません。だからディマジオのような誠実で、実直な、決して裏切らず、どんな時にも彼女の安全基地となってくれる存在に助けられなければならなかったのです。 それがマリリンに必要な真の「代償」でした。十分に愛され、助けられ、心底から自分の存在に安心できる体験を重ねなければならなかった。そして次に、自分が他者に手を差し伸べ、弱き者、苦しんでいる者、傷ついている者を自ら救い、救われた者の喜ぶ姿を眺め、共感し合い、感謝される利他行の体験をしなければならなかったのではないか・・。その自己回復物語をやり遂げることができずに、喝采の虚しさを繰り返しながら、自殺なのか他殺なのかも不明な30代での孤独死で人生の幕を閉じてしまったのではないでしょうか。 5.自分を赦せない ネガティブな経験も含めて過去の全てを肯定し受け容れることが、「ゆるす」ということです。しかしそれはなかなか容易なことではありません。どうしても受け容れられないものが残るのです。ではその赦せない対象は何なのでしょうか。いろいろ考えられますが、今回テーマとしている人間関係で言えば、やはりすぐに浮かんでくるのは身近な存在です。 人間というのは、利害や関係性などの距離感の遠い人とはあまり争いを起こさないものです。逆に、近くなればなるほど深く愛し合いもするが、嫌悪や怒りをぶつけ合うハードルも低くなります。何かをきっかけに争いが起きて「絶対赦せない!」となるのは、だいたい家族や身内、親友など、これまで親しい間柄だった人が多いものです。身近な人ほど関係が濃密になり、結果的に可愛さ余って憎さ百倍、近親憎悪ほど激しさを増すことになるようです。生きていく上で最も大切な家族の全員と、完全に和合し、仲良く、お互いに愛し合い、受け容れ合っている・・。そんな人がどれほど存在するでしょう。おそらく少数派ではないでしょうか。 誰でも親との間で、夫婦の間で、兄弟の間で、子供との間で、なんらかの問題を抱えています。完璧にお互いの存在を受け容れ合っている睦まじい関係性を保つのは容易なことではありません。本音と本音をぶつけ合う、近しい存在ほど難しいのです。そうであるなら、最も近くて最も受け容れずらいのは誰でしょうか。それは「自分」です。能力、容姿、身体的特徴、家庭環境、あるいは過去に自分が犯した失敗や痛恨の過ちなど、つまりは自分自身の過去と現状が赦せない、受け容れられないという否定的感覚を持っている人がとても多いのです。 6.執着と自己中心性 では、なぜ「赦せない」のでしょうか。それは、心の中に「怒り」があるからです。そしてそれが「執着」となっているからです。 怒りというのは一度発散するとあとはケロッとして一過性の場合が多いのですが、赦せないという時には怒りが持続しており、その怒りに執着していることを表しています。この執着して頑張っている心を、仏教では渇愛のエスカレートした強烈な執着、「掴んで放さない」という意味の「取」(upādāna:ウパーダーナ)という煩悩として捉えています。 さらに、自己中心性の問題があります。赦せないというのは、自分の立場や自分の価値観から眺める視座を断じて手放さないということです。誰がそうしているのでしょうか。その後ろにはエゴの問題が横たわっています。 つまり、過ぎ去った過去にとらわれ、自己中心的な見方に固執し、一方的な視座から怒りを再生産させているため「ゆるす」ことができなくなっているのです。 Ⅲ.赦すためには 1.大人になる 「渇愛」がさらに強烈な執着である「取(ウパダーナ)」に発展すれば業が確実に形成され、やがて相応の異熟(業の結果)を得ることになるでしょう。 仏教の基本的な理論からは、「取」に発展する前の「渇愛」(taņhā:タンハー)が、苦しみの根本原因と言われます。「渇愛」が不善業を作るからです。その「渇愛」が「取」にエスカレートすれば決定的だということです。 怒りは、対象を否定する、嫌うという心から始まります。「嫌う」という心は、実は、気に食わない対象に強く執われ、ネガティブに掴んでいる状態なのです。つまり怒りは、ネガティブな渇愛なのです。忌々しい対象を消し去りたいと心が渇いているのです。喉がカラカラの人が水を求めるように、叩き潰してやりたい、打ち消したいと強く囚われているということです。 この怒り系の渇愛が「赦せない」という心の状態になり、その自己中心的な見方を頑として譲らないところに苦しみの根源があるわけです。 ヴィパッサナー瞑想は貪瞋痴という煩悩をなくしていく瞑想ですが、怒りの超克は最も大きな目標になっています。絶対に赦さないと怒り続けている限り、思い通りにならない苦しい人生を生きていくしかないのです。怒りは、苦の原因と心得なければなりません。赦せないものが赦せるようになり、受け容れることができるようになっていくプロセスが、心の成長です。 心が成長していない人は、つまりお子様ということです。自分の立場に執着してかたくなにワガママを言い立てる人を見ると、まるで子供のようだと言うでしょう。子供は概ねものの見方を変えることができないし、また自己中心的な立場を捨てることもできません。そして、それができるようになった状態が成熟した大人です。 大人というのは、たとえ完璧にエゴを捨てられなくても、一歩引いてものごとを見られるはずです。子供の喧嘩に大人は取り合いません。自分の視座からしかものが見えず、断じて赦せなかったものが、もし赦せるようになり受け容れられるようになったなら、それが大人になるということです。 自分の視座から、相手の視座や全体を客観的に俯瞰する視座に自在に転換できるならば、人間関係の持ち方が格段に優れたものになり、それにつれて問題も起きなくなってくるでしょう。 2.仏教の価値観を受け入れる では、こうした道に進むために、どんなやり方があるでしょうか。 まず、これまでこだわってきた自分の信念や立場を乗り超えようとする気持ちが大切です。頑固に自分の視座にこだわってきたので、諸々の問題が起きていたのですから。 自己変革の第一歩として私がお勧めしたいのは、仏教の基本的な価値観に基づいて判断し対応してみることです。しょせん猿知恵に過ぎない卑小なエゴの視座や考え方を一変させるのに、明確で具体的なマニュアルとなるはずです。 では、仏教の価値観を採用するということは具体的にはどういうことでしょうか。最も基本的なところでは五戒をしっかり守ることです。①生命を傷つけない。②与えられていないものを取らない。③間違った性関係を持たない。④偽りを語らない。⑤酒や麻薬のような理性を失わせるものを摂らない。この5つです。これを受け入れ、生き方の基軸にするだけで、たちまち反応が変わるでしょう。これまで繰り返してきたエゴの立場からの反応とは正反対だからです。生命というものは貪瞋痴の煩悩を基本原理にしており、人間もまた利己的な欲望と怒りと愚行に基づいて生きてきたのです。 五戒を守るということはその煩悩に逆らうことでもあるので、従来の反応が一変したという印象を受けるかもしれません。五戒は他者に苦しみを与えないことですから、その本質は他者を思いやる優しさです。今まで愛と優しさをもらうばかりだった子供が、与える側の大人になる第一歩と言ってよいでしょう。 3.劣等感の克服 こうした積極的な行ないと並んで、「赦す」ことができるためにもうひとつ大事なことがあります。それは心の中にある劣等感の克服です。私たちは自分以外の他者の立場も考慮し、受け容れていかないと社会生活が成り立ちませんが、その許容の幅が狭くなるのは、自分自身の内面に強いこだわりがある時なのです。 「断じて赦せない」と熱くなってしまう原因は多くの場合こちら側にあって、自分の中の嫌な部分を相手の中に見たりしたときに過剰に反応するのです。例えば、自分がだらしない性格だと思っている人は、「きちんとした人が赦せない!」とはあまりなりません。そのかわり、部屋の中を乱雑にしているだらしない人を見ると思わずムカつき「なんだ、アイツは・・赦せない!」というふうになりがちです。 ケチな人に出会ったとき、気前のよい人は「へえ、こんな人もいるんだ」とキョトンとするだけですが、自分もケチで、そのことに自己嫌悪を感じて嫌でならない人は大変です。「あのドケチめ!」と激しく反応してしまうのです。赦せないのは、そのとき出会った吝嗇な人ではなく、自分自身なのです。自己嫌悪するエネルギーが相手に投影されている状態です。ずうずうしい人は、ずうずうしい人が嫌いです。大言壮語ばかりしている人は、大ぼら吹きの人が赦せないし、体面ばかり気にしている人は、ええカッコしいの人がムカついて赦せません。 自己嫌悪の心を抑圧しているので、自分の本当の姿をありのままに認めることができないのです。心理学で「シャドー(影)」と言いますが、自分の事実が外に投影されて激しくそれを嫌うようになるということです。こうした心理構造は誰にでもありますから、「あの人が赦せない!」と強く反応した時には、「本当は自分のことが赦せないのではないか?」と問いかけてみる習慣をつけるとよいでしょう。 私たちはおしなべて、自分とあまり関係がなければ不愉快ではあってもまあなんとか赦せるものです。しかし、自分のコンプレックスを刺激するようなことになると、過剰に反応して赦せなくなることが多いのです。 4.不善心所を直視する 在家の瞑想者には、自分の汚れた心をありのままに随観していくあたりが、サティの瞑想の正念場と言ってよいでしょう。サティの瞑想は、歩く、座るなどの身随観から始めますが、次に身体動作から自分の心の随観に進むのが基本です。心随観が始まれば、どなたも必ず嫌悪や怒りや嫉妬など、あるがままに承認したくない心を観ることになり、心を直視するのがだんだん難しくなってきます。そして目を背けて、一刻も早く逃げ出すような感じでラベリングするようになることがよくあります。そうなると、気づきはできていても、「ネガティブな自分の心を潔く承認する」という核心部の仕事がうまくできないまま、取りあえずラベリングしてしのいでいるような状態になります。 怒りの状態が良いとは誰も思わないし、嫉妬や高慢、物惜しみ、そういったものを直したい、無くしたくて瞑想を始めているはずなのに、いざそうした現実が立ち上がってくると、あるがままに認めるのがどうしても嫌だし辛い・・。「私の心は今この瞬間、真っ黒だ」「残念ながら、これが事実なのだ」と認める瞑想なのに、反射的に目を逸らし、プライドが傷つかない当たり障りのないラベリングでごまかしたくなってしまう。真実の自分を受け容れることができないのです。 「赦し」とは、受け容れたくないものを受け容れる修行と言ってもよいでしょう。今の瞬間も過去のことも同様であって、今を認められないことは過去も認められないし、過去の事実を認められなければ今の事実もまた認められないということです。傷つきたくないし、プライドを守りたいし、自分の見たいものだけを見て、真実は受け容れたくないという反応が立ち上がってしまっている状態と言えるでしょう。 瞑想を実践していけば、こうした反応は、実は心の随観ばかりではなく、六門に入る情報に対しても同様であると気づくはずです。騒音や雑音が耳につけば「うるさい!」と嫌悪が出るし、足が痛くなり始めれば反射的に舌打ちして嫌がっているのです。 嫌悪が出る前に「音」とサティを入れ、「痛み」のラベリングでネガティブな反応が止まる、というセオリー通りのカッコよい瞑想はなかなかできません。嫌悪しても「嫌悪している」と気づいてそのまま見送ることもできるのですが、それは「こんな音や痛みに自分は嫌悪しているんだ・・」と、嫌悪した事実をありのままに認めて、受け容れる心があったからです。 これがなかなか難しいのです。嫌なものをあるがままに認めるには、どうしてもエゴイスティックな視座が変わらなければなりません。いきなり正解を組み込むのではなく、まず自分のネガティブな部分を認めるという作業がなされるべきなのです。事実なのだからありのままに認めて、ネガティブな自分自身を受け容れる練習です。 これが「赦し」の修行です。 5.受け容れる精神 サマタ瞑想は、崇高なものや快いものに集中する営みなので、修行そのものが楽しいものです。しかるに、ヴィパッサナー瞑想は「心の便所掃除」と称されるくらいで、嫌なことにサティを入れることの方が多いのです。飽きてくる、痛くなってくる、集中できなくてイライラする、眠気が来る、妄想が多発してうまくいかない、嫌悪から怒りになる・・。そんな状態が頻発します。心をきれいにする作業に取り組みながら嫌悪だらけなのです。 しかしここが踏ん張りどころです。繰り返しますが、嫌悪や怒りが立ち上がってきた事実は事実としてありのままに認めることがとても大事です。この難事業をやり遂げるには、過去に自分が犯したあやまちや自己中心的だった振舞い、相手は少しも悪くはないのに一方的に傷つけてしまった後悔・・など、否定すべき過去を潔く認めて受け容れることができなければなりません。過去の自分を赦せなければ、その延長にしか過ぎない今の自分を赦し、受け容れることはできないのです。 そして、ダメな自分が赦せなかったら、人を赦すこともできないのです。愚かで、どうしようもない自分でも、人間なのだから優しく受け容れてあげる。これから立派になっていけばよいのです。自分を赦せるから、他人を赦すことができるという結果につながっていくのです。 6.生き方を変える決意 このようなことを強調したのは、長年の経験から、ただサティの技術だけを洗練させていこうとしても限界があると確信しているからです。今まで生きてきた人生の中で、ものの考え方や生きる指針となる価値観、習慣的な行動パターンをそのまま温存させながら、サティの技術だけを繰り返し修練しても、根本的に心をきれいにすることはできません。心をきれいにしよう、成長させよう、具体的な営みとして心の反応パターンを変えていこう、という明確な決意をもって正しい方向を目指していかない限り、心が変わることはないでしょう。明確な決意の力に支えられたサティの瞑想が威力を発揮するのです。 心を浄らかにする清浄道の瞑想をするには、生き方が根本から問われることになるでしょう。今までの生き方とは違う生き方を選ぶのか否かという覚悟です。 Ⅳ.反応の浄化 では、どうしたら反応をきれいにし、また赦せるようになるのでしょうか。どんなやり方があるのか具体的に見ていきましょう。 1.懺悔の瞑想 まず赦しの瞑想に必要不可欠なのは、懺悔の瞑想です。私たちは過去に過ちを犯さなかった人は誰ひとりとしておりません。その自分を赦して受け容れる瞑想として最重要なのは、まさに懺悔の瞑想なのです。 過去を受け容れられず引きずっている時、それに終止符を打つには心の儀式が必要です。その過ちを認めて「二度と同じ過ちを繰り返さない」「これからきれいに生きていくので赦してください」と心の中で謝罪し、それをしっかり誓って終わりにするのです。過去から未来に意識の矢印を切り換えるのがポイントです。懺悔の瞑想というのは過去から解放されるために非常に重要な瞑想なのです。 特に自己嫌悪や自己否定感覚の強い方は、ネガティブな過去に目が向きがちなので、懺悔の瞑想が大事になります。人を赦す前に、自分を赦さなければなりません。自分がいったい何に囚われていて、いまだに何を赦せないのかを明確にするのです。その過去の過ちや失態や後悔の種から目を背けずに、はっきりと認め、事実は今さら無かったことにはできないのだから、これからそれを償っていく。あるいはきれいな生き方をしていくので赦してください、と過去に訣別するための心の儀式を行なうのです。 見るべきものをしっかりと見て、事実は事実として潔く承認し、今後は二度と同じ過ちを繰り返さないので赦してください、と心から謝ることによって終わりにしていくのです。過ぎ去ったことから未来に目を向けていくために、こうした懺悔の瞑想によって心を整理するということです。 ネガティブな過去の自分から解放されなければ、いつまでも過去に囚われ、未来への新しい一歩が踏み出せません。ところが、過去に向き合おうとせず、慈悲の瞑想だけをやりたがる人がとても多いのです。なぜかというと、自分の中に罪悪感や自責の念があるので、どうしても頑張って慈悲の瞑想をやりたくなってしまうのです。しかし、無意識に自分を責めたり罪悪感が残っていたりすると、慈悲の瞑想も上べだけのものになり、本来の威力が発揮されなくなってしまいます。 ですから、辛い仕事なのですが、この懺悔の瞑想は省略しないでください。真の解放が起きるためには、手順どおりやるべきことをやるしかないのです。ただし、これは相手に直接謝りに行くということではありません。心の中で謝って同じ過ちを繰り返さないという決意が肝心なのです。 2.内観 さらにまた内観という方法もあります。これは、自己中心的な視座を転換させるための行法です。また、過去の記憶というものが非常に不正確で間違ったものがとても多いので、それを正すためのものです。特に親子関係や家族関係で過去にネガティブな記憶を抱えている人は、本当はどうだったかという事実の確認をする必要があります。きちんと調べてみると誤解だらけだったということはいくらでも出てきます。 内観を体験された方が口々に言われるのは、よく調べたら事実は違っていたということです。誤解に端を発した妄想によって、自分を責めたり罪悪感に苦しんだりしていることが非常に多いのです。ヴィパッサナー瞑想は現在の瞬間を正しく「あるがままに」観ていく訓練ですが、内観は過去の事実を「あったがままに」観て、経験事実を正確なものに修正していく行法です。今のこの一瞬の事実も、過去の事実も正しく認識することから全てが始まります。 3.諦める 受け容れたくないものを赦さずに頑張っている限りは幸せになれないし、心が解放されることもありません。原始仏教の根本原理である「四聖諦」には「諦」という字が使われていますが、これには真理という意味があり、この字を使っていることは原語以上だと言われております。「赦す」ということは「諦める」ことでもあります。 諦めない限り、心の中では果てしない葛藤が続きます。これから夢を叶えようという話ではありません。起きてしまった事、過ぎ去ってしまった事なのに、断じて赦さないと怒りの心で否定しているのです。これでは救いようがないし、永遠に解決されることはないでしょう。 人為的な被害に遭った場合にそうなりがちですが、同じ喪失の経験や苦痛の体験であっても、自然災害などの場合には、自然には勝てない、と諦める人が多いようです。大自然にやられても、人間にやられても、かけがえのないものを喪ったこちらの苦痛は同じです。 執着という名の妄想で苦しみを永遠化するのは愚かしいことです。幸せになりたかったら、諦めるしかないし、赦すしかないのです。その発想の転換に、仏教は多くのことを教えてくれるでしょう。心底から納得すれば、諦めがつくし、執着を手放した瞬間、解き放たれるのです。 どうしたら赦すことができるのか、さらに見ていきましょう。 4.因果性の理解 仏教の理論から見れば、すべての現象には偶然はないということです。「なぜ、自分がこんな目に遭うのだ!いったい自分がどんな悪いことをしたのだ!」というような悲劇が、どうしても人生にはついてまわります。それでもやはり、そこには何らかの因果関係があったのではないか、と仏教では考えます。ネガティブな現象が自分の身に起こったということは、それがどれだけ理不尽に思えることであっても、輪廻転生まで視野におさめれば、過去世も含めてそれが起きるだけの必然の背景があったし、原因があったのだ、と仏教は見るのです。 もしそれが因果の帰結だったなら、同じことを再現させないためには、これからその反対のことをすればよいということになります。深く傷ついたのであれば、絶対に人を傷つけないと誓い、かけがえのないものを失ったのであれば、絶対に奪わない。欺かれたなら、欺かない。裏切られたなら裏切らないだけではなく、真実を貫き誠を尽くしていくと決意するのです。 ネガティブなものは決して人に与えないと誓い、その反対の善きものを与えていくと決意し、実行していけば、そこから人生の流れが変わります。人生のあらゆる場面で今までとは反対の生き方がなされていくし、その因果の帰結として、新たに自分が組み込んだものが現象化し始めます。幸せが現成してくるでしょう。 不徳のなせるわざと言いますが、必然の力で我が身に起きてしまった事は粛然として受け容れるほかはありません。これは辛いことですが、とても大事なことです。そこが承認できると、自分の身に起きたネガティブなことを受け容れることができ、ついに終わりにできるからです。それが「承認する力」であり、何よりも心が解放されるのだということを強調したいと思います。 5.受容する精神 これまで申し上げてきましたように、究極のところになると、受容というのは非常に苦しい作業になってきます。「理不尽な!なんでこんな目にあわなければいけないのだ!」という事態をそのまま受け容れるのはかなり辛いことです。しかし、現象世界の仕組みを構造的に理解し、受け容れづらいものを受け容れていかない限り、苦しい人生が続くことになります。正しく理解し納得する智慧によらなければ、認めていないのに認めているふりをするだけの、ただのやせ我慢になってしまうでしょう。 赦しというものは起きてしまった事実を承認し受け容れることですが、ただ「承認するぞ」「認めるぞ」「受け容れるぞ」といくら言っても、心は言うことを聞かないでしょう。必然の力で因果が帰結したのだと我が身に起きた経験を承認していなければ、心は本当には納得していないし終わっていないのです。何かきっかけがあれば、怒りが再燃し「やっぱり赦せない!」と元に戻ってしまいます。 それでもこの困難な、なしがたい仕事ができた時には、赦さない!復讐してやる! とエゴが固執していた考え方が手放され、苦しみの消滅につながる無我の道が開けるのです。 6.心の苦しみをなくす 誤解のないように申し上げておくと、受け容れるというのは、他人であれ自分であれ、「そのままで良しとして容認する」という意味ではありません。「自分に被害をもたらした人を受け容れてしまえばその人の悪を認めていることにならないか?」という疑問もあるかもしれませんが、そういうことではないのです。その事実を認めて赦すということと、その人がやっている悪をそのままこちらの価値観として支持するということは別のことです。 我が身に起きたネガティブな出来事をありのままに認めることによって、反射的に怒りのカードを切らないことです。いきなり怒鳴り返したり報復したり、不善心所で反応しないことです。因果論に照らし合わせれば、全ては必然の力で起きているのだから、なぜ我が身にそんなことが起きたのかを冷静に読み解くのです。いかなる理由があろうとも、不善心所で反応すれば、その瞬間、新たな不善業を作ってしまうことに気づくべきです。 相手を裁く必要はなく、もし不当な悪をなしているのであれば、相手は必ず自ら作った不善業によって自滅していくのだから、こちらは何もする必要がない・・と考えるのです。こちらが無反応でいたからといって、相手の悪を承認している訳ではありません。相手がなした悪を受けなければならなかったカルマがこちらにあっただけです。それで、一つの因果が帰結したのだから、捨て置けばよいのです。もしネガティブな反応をすれば、その不善心が新たな不善業を作りやがてその報いを受けるだけだ、と正しく理解する。これが、赦しの意味でもあります。 こうして「赦し」というキーワードによって、仏教の奥義とも言うべき大事なポイントに分け入ることができるし、我が身に起きた一切を平然と、淡々と、引き受けていくことができるのです。人生の流れは、ここから確実に変わっていくでしょう。 善いことも悪いことも、快いことも不快なことも、得することも損することも、どんな事実もありのままに受け容れて、冷静に、公平に、無差別平等に観じきっていく「ウペッカー(upekkhā )」という「捨」の心は、こうして養われていくのです。そして、「捨」の心が確立していくとき、諸悪の根源であるエゴが限りなく乗り超えられ、ヴィパッサナー瞑想のターゲットでもある「無我」が現成していると言ってよいでしょう。 サティの瞑想が、その瞬間のネガティブな反応を止めるだけの技術なのか、無我を目指す自己変革につながるシステムなのか。もし、こうした仏教の智慧の伴った気づきが連続する瞑想なら、人生の途上で見舞われるどのような苦しみも乗り超えていくことができるでしょう。気づき→観察→理解→承認→受容→無我→と成長していくサティの瞑想・・。これこそ、ブッダが私たちに提示してくれた究極の行法なのです。(完)
(文責:編集部) |