2016年9月号 | Monthly sati! September 2016 |
今月の内容 |
ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~ 今月のテーマ:瞑想と食(1) |
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ダンマ写真 | |
Web会だより 『ケンタウロスへの道』 |
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翻訳シリーズ 『瞑想は綱渡りのように』 -41- | |
読んでみました 『幸せは私の中に そしてあなたの中に』 |
『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。 |
ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~ | |
地橋秀雄 |
今月のテーマ : 瞑想と食(1) |
(おことわり)編集の関係で、(1)(2)・・・は必ずしも月を連ねてはおりません。 |
Aさん:早食いとドカ食いの傾向があります。それを改める目的で、ゆっくりご飯を食べるイメージトレーニングをするのは間違っていないでしょうか。また2週間に一度ぐらい断食をしています。 アドバイス:早食いもドカ食いも瞑想にはあまり良くありません。なぜかと言うと、どちらも消化に負担をかける食べ方だからです。良い瞑想に必要不可欠なのは意識の透明感ですが、消化に負担がかかると意識がドンヨリ濁ってボーッとした冴えない状態になりやすいのです。 ですからなるべく消化に負担がかからないよう、ゆっくりご飯を食べるのは正解です。そのためにイメージトレーニングするのも奨励すべき良いことです。 基本的にこの世の現象世界では、強くイメージしたものは具現化されていく法則です。この世は業の世界であり、強い意志(チェータナー)が業を形成し、その業が具現化していく構造なのです。ですから、はっきりと自分がそうありたいというイメージを可視化させ、それが単なる絵ではなく、事実であるかのような強さで熱望したものはそうなっていくものです。自分にも他人にも世の中全体にとっても価値のある善いことを願い、そのようにイメージトレーニングすることはマルです。 ですが、2週間に一度の断食は少々多いのではないでしょうか。その頻度ですと、どうしても身体が飢えた状態になり、栄養を摂取して体を回復させようと食欲の反動があるからです。長期の深い断食をした場合と、短期でも断食の回数が多過ぎると、どうしても食欲に執らわれてしまい、ちょっと餓鬼道のような感じになりがちなのです。身体は本能的に何とか食べさせよう、体に栄養を入れさせようとします。その時の強烈な食欲は押さえがたい生命反応といってよいでしょう。 ですから、断食をしようとする場合には、何のためにするのかを先ずはっきりさせておくことが大切です。心を透明に、明晰な状態にして良い瞑想をするのが本来の目的です。もし断食を解いたあと、餓鬼道のように食べてしまえば却ってマイナスになることもあり、本末転倒ということになります。 瞑想修行のための断食の前後は、かなり制限した食事になるので、全体としてみるとかなり体は飢えた状態になっています。もし目的に適ったきれいな断食をしようというのであれば、もう少し時間をゆるやかに、1カ月に一度くらいが適当な間隔ではないかと思います。 Bさん:けっこう瞑想時間を長く取れるので、一日一食のことが多いですがどうでしょうか。 アドバイス: 一日一食ということになると、やはりそこで一日分の栄養を摂ることになりますね。そうすると、量も品目も多くなるのは避けられないでしょう。 テーラヴァーダのお寺では一日一食のところがけっこうあります。朝食と昼食の間隔が短いと体に良くないからです。一日一食だと一回の食事量が多くなるので、食後の負担が大きくなりますが、この辺はその人の消化能力に関係する事柄です。消化器系が強い方と弱い方とでは展開が違ってきて当然ですね。 もし摂食障害などメンタルな問題が何もないのであれば、一日一食でもあまり問題はありません。食べることをどう調整するか、自分に最適の栄養摂取の仕方を確立していくことです。 良い瞑想をするには食事や体調をいかに整えるかが大前提ですから、気を配らないといけません。そもそも体調に最も大きな影響を及ぼしているのは食事のコントロールなのです。それがうまくいけば体が非常にすっきり整って、意識が明晰になる可能性が高くなります。そうなると良い瞑想ができます。 在家であれ出家であれどんな人も、一日中パーフェクトに良い瞑想状態を維持できることはあり得ません。どれほど食事の摂り方や環境などを工夫しても、意識がボンヤリして瞑想が低下する時間帯をゼロにはできないものです。 そこで私たちにできることは、いかにダメーシが少なく、効率の良い状態で瞑想ができるか、そのための自分流の工夫を重ねることです。その一環として、食事のコントロールは外すことのできない重要事項であり、できるだけ体調の維持管理をしていこうということになります。 Cさん:つい食欲に負けて食べ過ぎてしまうことがあります。食欲を抑える良い方法があるでしょうか。 アドバイス: Dさん:食事の時のサティのやり方を教えてください。 アドバイス: Eさん:食はそんなに大切なのですか。 アドバイス:
アドバイス: (文責:編集部) |
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~ 今月のダンマ写真 ~ |
チェンマイ北部、森林僧院奥の院への1000余段入り口と頂上の仏塔 |
先生提供 |
『ケンタウロスへの道』 中野 祐三郎 |
私は、人生の目標をケンタウロスになることに置いてきました。ここで言うケンタウロスとは、ケン・ウィルパーが意識の成長・進化のサイクルの中で記した後期自我→成熟した自我→生物社会的領域→ケンタウロス→アートマン→ブラフマンのケンタウロスの段階を指したもので、自我を手放した状態、或いはありのままの自分を受け入れた状態を示します。天外伺郎氏によれば、後期自我から成熟した自我或いはケンタウロスに進むには、努力や頑張りでは難しく、瞑想がその助けになると瞑想を勧めていらっしゃいます。 |
瞑想は綱渡りのように -41- |
-ペーマスィリ長老と語る瞑想修行- |
デイヴィッド・ヤング |
(承前) ペーマスィリ長老: デイヴィッド:
・五つの集中の障害、ニーヴァラナ(nīvaraṇa:蓋) ・生命を構成する五つの塊、カンダ(khandha:蘊) ・六つの内部ないし外部の感覚基盤、サラーヤタナ(saļāyatana:六処) ・七つの覚りの要素、ボッジャンガ(bojjhaṇga:覚支) ・四つの聖なる真理、アリヤサッチャ(ariya-sacca:聖諦) サティ(sati:念)が十分に開発されると、心の対象に対する気づきの瞑想の領域に入り、それが瞑想の大部分を占めるようになります。心は水であり、思考は色であると考えてみてください。純粋な水には色も、臭いも、形もありません。水に色素を入れると、水はその色に染まります。しかしながら一緒に混ざっても水と色素は別物です。水と色素は異なる別々の実体です。私たちが何かを考える場合も同じで、心は思考の色に染まります。思考は、ニッバーナ(nibbāna:涅槃)に達する支えになることもあれば、それを妨害することもあります。瞑想の障害すなわちニーヴァラナとなる思考には、官能的快楽による興奮、悪意、怠惰と無気力、不穏と心配、疑い、が含まれます、思考が支えになるにせよ、障害になるにせよ、心と思考はやはり異なります。心と思考は全く別物です。 心の対象に対する気づきの瞑想、ダンマーヌパッサナーとは、こうした障害が私たちの心にあるのか、無いのかを認識するという意味です。「涅槃へ達することに対する障害が増えているだろうか?もしそうであれば、その障害はどのように生じ、どうしたら克服できるのか?」心の対象に対する気づきの瞑想には生命を構成する五つの塊、カンダ(khandha:蘊)すなわち、感受、認知、意思による形成作用、意識、物質性を認識することも含まれます。「生命を構成する塊はどのように生じ、どのように消え去るのか?」 サティ(sati:念)が良好であれば、心は自動的に障害から離れます。心は自動的に有益な方向へと向かいます。 私たちは音を聞きます。鳥のさえずりを聞きます。心の対象はさえずりの音であり、それは実のところ存在が認められるもの、ルーパ(rūpa:色)です。さえずりを聞いた時点では、それはただのさえずりの音です。そしてそれを知るのは心です。私たちはさえずりに対し安楽である、苦しみである、あるいは苦しくも安楽でもないと感じます。心の対象が感受になることを知ります。また、さえずりに対する感受が生じては滅していることを知ります。また感受から様々な思考が生じることを知ります。これらは全て心の対象に対する気づきの瞑想、ダンマーヌパッサナーです。 心の対象に対する気づきの瞑想、ダンマーヌパッサナーは、心の対象が心であるという意味です。私たちは心により、心に注意を向け瞑想します。経験の対象が変わるにつれて心が次々と変化することを瞑想します。 もう一つ例をあげます。私たちはブッダの教えを信じて、苦しみからの解放を目指して修行します。しかし、なんらかの理由で怒りが生じます。智慧と理解とともに何かをしているまさにその時に、私たちは怒りに圧倒され、信が消え去り、怒りをおぼえます。次の瞬間には怒りが消え去り、欲が生じます。ある対象から別の対象へと心は変化します。私たちの思考は変化していきます。思考が生じるやいなや直ちにその思考に気づくためには良好なサティが必要です。サティにより、心に怒りがある時には怒りがあると知り、欲がある時には欲があると知ります。どのような障害が心に生じてもサティによりそれを直ちに認識することが出来ます。 デイヴィッド: ペーマスィリ長老: デイヴィッド: 翻訳:影山幸雄+翻訳部 お断り:一部のパーリ語のフォントが表記されないため、他のフォントで代用しておりますことをご了承ください。 |
南裕子著 『幸せはわたしの中に そしてあなたの中に』 (ぶどう社 2015年) |
子どもたちが生まれた時、「私は『なるべく試練の少ない、平穏な人生でありますように』と願った。今はそうは思わない。なぜなら自分の人生をふり返った時、両親との軋轢、借金苦、翔の障害、難病、癌と、様々な試練に見舞われたけれど、そのたびぶざまにもがき苦しみ、時間はかかっても、こんな私でさえ乗り越えることができた。そしてひとつの試練を越えるたび、成長していく自分を感じることができたからだ」 |
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