月刊サティ!

 6/7月合併号   Monthly sati! June/July 2016


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ブッダの瞑想と日々の修行  ~理解と実践のためのアドバイス~
       今月のテーマ:瞑想修行の時に(1) -サティの対象-
 

 
ダンマ写真

 
 
翻訳シリーズ 『瞑想は綱渡りのように』 -39-
 
 
Web会だより 『生きていていいんだ。ここにいていいんだ』
 
 
読んでみました 『死のメンタルヘルス』 
 
お知らせ
 


 <『月刊サティ!』は、地橋先生の指導をもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています>




   ブッダの瞑想と日々の修行~理解と実践のためのアドバイス~
                                      地橋秀雄


今月のテーマ:瞑想修行の時に (1) -サティの対象-

             

                       (おことわり)
                  
編集の関係で、(1)(2)・・・は必ずしも月を連ねてはおりません。
                  

Aさん:坐る瞑想をしていて気分が悪くなりました。食事や身体的なこともあったのではないかと思ったのですが、思い当たることもなく、車や酒に酔っているような感じです。その時は「気持ち悪い」「焦っている」「イライラしている」とラベリングしましたが、それで良いのでしょうか。

アドバイス:
 気分が悪いというのは身心感覚としてどうなのかを、お医者さんが聴診器で調べるように観ていきます。つまり、気分が悪いというような大雑把な表現で留まるのではなく、物理的な視点から、細胞レベルまでを詳細に徹底的に観るということです。そうすると、それが物理的・肉体的なものなのか、それとも心の反応・精神的なものなのか区別がつくのです。この作業を曖昧にしておくと、体も心も観ないまま、なんとなく気分が悪いという結論を頭のなかで出して、自分はこうなのだという概念の世界に入ってしまいます。

 具体的なやり方としては、例えばムカムカしているのなら、先ず身体の感覚として気管支あたりなのか喉のあたりなのか、胃の内部がむかつくのか、吐き気までするのかと言うように厳密に細かく観ていきます。さらには心の面に行き詰まりのようなものがないかどうか、そしてそれが胸のつかえになっていないかということです。もし心に問題をかかえて悩んでいるような時には、その閉塞感によっても実際にムカムカというセンセーションが起きてきます。
 このように、細胞から心のレベルまでひとつも見逃さないという感じで点検していくと、潜在意識的な原因までもが観えてきて納得できる可能性があります。そうすると妄想が止まって現象も終わりになります。
 言えることは、身体的な不調や食べ物などには思い当たらない、心にも何もひっかかりがない、諸々の原因が観えてこないのに気分が悪くなる、不快な苦受が生じるというのはあり得ない話だということです。もしそのように見えたとしたら、それはエゴが真実を観たくないために深いところで潜在的に頑張っている状態と捉えることができます。なぜなら、大事な問題になればなるほど抑圧の構造が働きますので、表面的には観えてこないからです。

 ヴィパッサナーの修行構造からは、たとえエゴがそうして頑張っていても、やはり観るべきものは観なければならないのです。どんな現象も等価に、平等に、好き嫌いなく淡々と観ていくこと、そこには本来抑圧も隠蔽もないはずなのです。
 その一方で、明確に身体現象が出るというのはかえって修行がやりやすいという良い一面もあります。例えば、心を観るのがとても上手な方でしたが、しょっちゅう肩が凝っているような状態にありました。しかしその方は、肩の凝りは心理的な原因から来ているとして、むしろその凝りの状態を心の真相を観るバロメーターに利用しているようで、なかなかいいセンスをしていると感じられました。
 こうして詳細に観察を行なうことで、自分の潜在意識までもきれいにしていけるのです。ですから、修行中に気分が悪くなったら、それは潜在意識的なところに封印している問題が浮上しようとしていると受け止めて、できるだけ細かく分析して一番奥底に眠っている煩悩に気づき、きれいにしていこうと頑張って欲しいです。


Bさん:身体の凝りが激しいです。

アドバイス:
 身体の物理的な現象として凝りというセンセーションを感じているのですね。その場合、凝っているのが知覚されている状態ですから、「凝り」とサティを入れても良いですし「痛み」と入れても良いでしょう。そのとき感じたように入れます。

 ですがそれでも消えない場合、その時には心の観察にシフトしていきます。今の心の状態はどうか、イライラしているとか嫌悪しているとか、凝りに対して何かそういう心理的な反応が起きているのではないかと観察します。もしそういった心理的なものが優勢であれば、そのとき経験している現象に対しては「凝り」というラベリングではなく、凝りがどうやったら消えるだろうかという「考察」だったり、凝りが消えずに「心配している」とか、凝りに対して「嫌がっている」、あるいは「嫌悪」ということになるわけです。
 つまり、その時点で起きている現象は心理的な反応であって、心がそのように働いているということです。ですから、今度はその心を対象にしてサティを入れ、ラベリングしていく、このあたりはまさに練習、訓練です。そういった心の観察を面白がってやるような意識モードになると、結果として初めに感じた凝りという身体的な現象とは全く関係のない観察になっていきます。
 このように、初めに凝りが出てきたので「嫌だなー」という反応から始まって、「凝り」「凝り」とやっているうちに、実は優性に起きている現象が「心配」だったり「嫌悪」だったりという心の現象であった場合には、その心が現在の瞬間ですから気づきの対象であるべきです。そうして「嫌がっている」「嫌悪」という適切なラベリングによって心をよく観察し、他人事のように客観化し対象化していく作業にシフトしていくと、それは悩み苦しみの状態からは完全に離れ、ただそういう事実観察をやっているだけということになります。
 こうなると、身体的な凝りなどは消えてしまう場合が多々あります。なぜかというと、凝りというのは純粋に身体的な原因でも起こりますが、ストレスや心の緊張によっても起こるからです。それも一つの対象に心が固着し、そしてそれに執着することによって起こります。そこで、正確な事実観察によって「あー自分はものすごくこのことを気にしているんだ。ストレスがあるんだ」と気づく、そしてそれに対して「嫌がっている」「心配している」とサティを入れて客観視する、そうして見送ることができればストレスが消える、すると連動して凝りも消えるということになります。つまりこれは心の随観をしているわけです。

 このようにフッと意識モードを変えることを覚えた方が良いのです。これは、巻き込まれてパニックを起こしていく世界とは意識状態が違って、まさにヴィパッサナー的でもあります。こうしたやり方をすればあらゆるドゥッカ(dukkha:苦)から離れられる、このあたりが原始仏教的な苦の無くし方と言えます。
 とにかく、きれいにヴィパッサナーをやっていたら凝りが消えたという報告は膨大にありまして、「ヴィパッサナー瞑想で凝りが消えます!」と断言したくなるくらいです。そうではありますが、だからと言ってサティの技術による「凝り退治」という感じになってしまうと、これは逆に執着になってしまいますから気を付けてください。ヴィパッサナーは凝りを解消するためのものではないですから(笑)。
 ヴィパッサナーはあらゆる執らわれを無くしていく修行です。凝りがあろうがなかろうが心が静かで落ち着いている、苦悩している状態ではなくなりますよという世界です。このあたりが体得できると生きるのが楽になります。


Cさん:生理的な欲求が生じたとき、例えばくしゃみをしたいと、そういうときに限って気づきが出てきて、『・・・したい』『・・・したい』とパパパとサティが入る。そんなので良いのでしょうか。

アドバイス:
 大変結構ですね(笑)。あるがままに起こった通りですからね。

 くしゃみでは皆さん同様の経験をしていますが、「ハ、ハ、ハッ」となった時に、純粋に鼻の感覚だけに絞ってサティを入れたら、それがスパッと入ってくしゃみが立ち消えになってしまったという、これもわりと多いですね。
 一方、そういう風に純粋に感覚だけに絞り込まないケースもあります。「あ、くしゃみが出かかっている」「きっと出るぞ」「もう我慢できない」「ハックションとやってしまった状態」など、予測イメージが一瞬起きていることもよくありますね。すると、身体はその命令に従うかのようにくしゃみを完成させていってしまう、そんな要素もあります。
 これは痙攣や痛みでもしばしばみなさん経験することですね。例えばこむら返りみたいに足が攣ってきた時は「痛~!」となるでしょう。だいたいそういう時には「まずい」「大変だ、どうしよう」「早く治さなきゃ」という感じで、頭の中はパニックになって、かえってこむら返りが悪化してしまう。ところが、純粋に感覚にだけサティを入れていると立ち消えというか、すぐにスーと消えてしまったという話はいくらでもあるのです。
 痛みもそうです。坐る瞑想をしている時に足に痛みが出れば誰でも嫌ですから、普通は「ああ痛い、嫌だな」ですよ。ところがサヤドウから、「痛みが起こったときは徹底的に観察して、どんな具合か報告しなさい」と指導されて、痛みが来ると「よーし! 観察してやろうじゃないか」と。そのときには痛みを積極的に観察してやろうと歓迎している感じで、嫌だとか逃げたいという発想は全然なくなるのです。そうすると、サヤドウが「どうだった?」「はい。痛みを観察しようと待ち構えていたら、一発のサティで消えてしまいました」「アハハハ・・」って。そんなもんなんですね。
 つまり、くしゃみにしても、痛みにしても、あるいは攣ったり、凝ったり、いろいろありますけれど、心が演出してそうなってしまったような面が多々あるということです。
 つまり言いたいことは、基本的には、今自分の身体に起こっている感覚に対してあるがままにサティを入れていけば、せき込むとかくしゃみとか、それらは立ち消えになってしまうこともあるということです。こうしたことは非常に多くの方に経験されているということ、これが一つです。
 もう一つは、そのとき心はどんなことをやっているか、そこにサティが入るならそれは誠に結構なのだということです。
 今の話を聞く限りでは、一瞬心の中にパ、パ、パと起きていることに気づきが入っている、その状態は大変結構ですね。いつでもそういう状態で生きていられたならば、問題の起ころうはずがないでしょう。そういう経験を重ねていけば、心はだんだん落ち着いてくるのです。
 サティというのは不思議なもので、最初は幼稚園児のようにそんな難しいことできるはずがないと思うけれど、毎日やっていけば、サティを入れるつもりなんか全然なくても大事なときに勝手にサティが飛び出して来るようになるものです。デパートで買い物しているとき、欲望が起こった瞬間、あるいは怒りが立ち上がる瞬間、さらにそこから心がどういう風に反応していくのか、そうしたことに気づきがパパパと入っていくようであれば素晴らしいですね。さらに、戒を守って悪を避けるという仏教の基本的理解が腹に落ちていれば、悪いカルマを作るはずがないのです。こういう感じでヴィッパサナーは進んでいきます。


Dさん:寝入りばなに、黒い陰のようなものが窓から侵入してきて、寝ている私の体の上に乗っかってくるのです。心が作り出した幻影なのかも知れませんが、私は悪魔と呼んでいます。コントロールがまったくできす、恐くて仕方がありません。(『月刊サティ』2001/6 再録)

アドバイス:
 おそらく妄想の産物だろうと思います。

 仮に餓鬼などの霊的生物だったとしても、この情況を打破する最も有効な方法は、サティを入れ、徹底的に事実確認することです。

 
もし心が作り出した幻影なら、「見た」「(悪魔だ)と思った」「重たさ」「(手足が)動かない」「(恐い)と思った」「イメージ」「(背中と布団が)触れている」「聞いた(遠くでシャッターが閉まる昔)」「音(バイクの)」「膨らみ、縮み」・・・と、サティを入れて、現実感覚が明確になれば、事実に根ざしていないものはすべて、ひとりでに雲散霧消します。必ずそうなります。
 
消えないとすれば、心が反応し、つかんでいるからです。心が仮作している幻影は、妄想が停止した瞬間に必ず消滅するのです。
 
事実の世界と思考や概念の世界とをハッキリ識別することが、ヴィパッサナー瞑想の本来の仕事です。心が作り出したどんな苦しみも、妄想が止まれば、なくなるのです。
 
さて、妄想や気のせいではなく、仮に「悪魔くん」が本当にいたとしましょう。その場合も、徹頭徹尾サティを入れ続けるのがよいのです。
 
恐怖などで反応すれば、相手の存在を認めたことになります。誰でも存在を認めてもらうと嬉しいので、引き取らずに、すり寄って来るでしょう。
 
ただ現在の瞬間を確認するだけで、なんの反応もしないサティの状態は、完壁に対象を無視しています。
 相手にしてもらえなければ、悪魔くんも立ち去っていきます。(文責:編集部)

 
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~今月のダンマ写真~ 
ミャンマー、アーナンダ寺院と仏像
   
 
 N.N.さん提供




    翻訳シリーズ
     瞑想は綱渡りのように -39- 
               -ペーマスィリ長老と語る瞑想修行-
                           デイヴィッド・ヤング 
(承前)
ペーマスィリ長老:身体に対する気づきの瞑想により、全ての行動を善、すなわちサティsati:念)する方向に変えていきます。これを成し遂げるための訓練には複数あります。

 ・呼吸に対する気づき、アーナーパーナサティ(ānāpānasati:出入息念)
 ・姿勢に対する気づき、イリヤーパタ(iriyāpatha:威儀路)
 ・明瞭な理解、サティ・サンパジャンニャ(sati-sampajañña:正念正知)
 ・身体の三十二の部分に対する省察、カーヤガターサティ(kāyagatāsati:身至念)とアスバ(asubha:不浄想)
 ・四つの物質の要素の分析、ダートゥ・マナシカーラ(dhātu-manasikāra:四界の作意)
 ・九種類の死体を土台とした瞑想、シーヴァティカー(sīvathikā:墓場

 身体に対する気づきの瞑想、カーヤーヌパッサナー(kāyānupassanā:身随観)とは、自分の身体の動きを知ること、そして物質としての身体の真実を知るという意味です。身体に対する気づきの瞑想をする時には、私たちは現在に留まっています。真理は過去にはありません。未来にもありません。真理はたった今の瞬間にしかありません。何かをしている時に、それをしている事を知ります。お茶を飲む時には、お茶を飲んでいることを完璧に気づきます。ペンを手に取る時には、ペンを手に取っている事を知ります。ペンを動かしている時には、ペンを動かしている事を知ります。ペンを置くときには、ペンを置いていることを知ります。私たちは現在に留まります。過去は過ぎ去っています。様々な訓練を通して私たちは現在に留まります。
  呼吸に対する気づき、アーナーパーナサティはそうした訓練の一つです。息を吸う時にそれに気づき、息を吐く時にそれに気づきます。呼吸の際にお腹が膨らみ、縮む様子に気づきます。

二番目の訓練は姿勢に対する気づき、イリヤーパタです。歩く時に、歩いていると気づきます。立っている時に、立っていると気づきます。坐っている時に、坐っていると気づきます。横になっている時に、横になっていると気づきます。

 三番目は気づきを伴った明瞭な理解サティ・サンパジャンニャです。身体の動きに気づく際、同時に身体の動きに没頭することで、明瞭な理解のトレーニングを行います。前に進む時には、前に進んでいると気づきます。後退する時には、後退していると気づきます。手足を曲げたり伸ばしたりする時には、曲げたり伸ばしたりしていることに気づきます。前方を見るときには、前方を見ていることに気づきます。あちこちを見るときには、あちこちを見ていると気づきます。振り向く時には、振り向いていると気づきます。瞬きする時でさえも、気づきながら行います。気づきながら食べたり飲んだりします。食べ物を嚙み、味わい、飲み込むことに気づきます。身体を洗う時も、トイレに行く時も、用事を済ませる時もそれに気づきます。

明瞭な理解を丹念に続けることにより、私たちは全ての身体の動きを高いレベルの気づきとともに、そして明瞭な理解、サンパジャンニャsampajañña正知)とともに行う習慣を育てます。身体の動きを明瞭に理解することで私たちは全ての動きを善で有益なものへと変え、完璧な善の中で、サティ とともに暮らすことが出来ます。

 四番目の訓練は(1)地、(2)水、(3)火、(4)風、という四つの物質の要素の分析、ダートゥ・マナシカーラです。明瞭な理解をもって瞑想することにより、自分の身体が四つの物質の要素から成り立っていることが分かるようになります。この四つの物質の要素が現われては消えるのが身体であると分かります。サンパジャンニャにより気づきます。身体にあるこの四つの物質の要素と、それを知る心があるだけです。

 例えば、私たちは身体の中の地の要素、硬いという感触に気づきます。ただそれを知ります。身体に硬いという感触があることを単純に知ります。その経験を不快に感じるわけではありません。地の要素にただ気づき、地の要素には硬いという感触があることに気づくだけです。私たちはそれを知ります。あるいは、私たちは身体の中の水の要素、流動性という感触に気づきます。汗をかき、唾液が口の中に流れ込むことを知り、それが水の要素であることを知ります。また、私たちは熱感という形で身体の中の火の要素に気づきます。熱を感じます。身体の中に火の要素があり、身体の中に火の要素があると知る心があります。そして風の要素です。息を吸うときにそれを知り、それに気づきます。息を吐くときにそれを知ります。そして息を吸って吐く動作に伴う感触が風の要素であると知ります。私たちは身体に気づくのです。

 あなたは、ノートに文章を書いています。書こうという気持ちが生じ、そして書いています。そして今、あなたは自分が書いていることに気づいています。気づきとともに書いています。私が言ったことに疑問が生じてあなたはノートにクエスチョンマークを書きます。完璧に気づきながら書くことは身体に対する気づきの瞑想です。

一日の大半を、呼吸への気づき、姿勢への気づき、物質の要素の分析など身体に対する気づきの瞑想を行いながら過ごすことで私たちは身体に対する気づきを確立します。気づきのモードで暮らします。途切れることなく、繰り返し、繰り返し、身体の真実に気づく訓練をします。身体を動かす時、それを知りながら、身体の真実に気づきながら行います。そして、こうすることにより私たちは身体を巧みな方向へと変えることが出来ます。サティの方向へと変えます。これが身体に対する気づきの瞑想、四つの気づきの土台の一番目です。

身体に対する気づきの瞑想を実践している最中に、これは良い、これは悪いという思考が生じます。身体に関して観察したものを喜んだり、嫌がったりします。これは、感受という心の要素(心処)が優勢となっており、サティパッターナ スッタ(Satipawwhāna sutta:念処経)に説かれている感受に対する気づきの瞑想、ヴェーダナーヌパッサナー(vedanānupassanā:受随観)に属します。身体に対する気づきの瞑想には入りません。身体に対する気づきの瞑想を行うと同時に感受を経験し、それに気づきます。こうした経験と気づきがいつ、どこで生じるかは微妙です。気づきの土台の一番目から気づきの土台の二番目へと変わります。身体を対象にした気づきの瞑想が感受に対する気づきの瞑想へと変わります。実際のところ、感受に対する気づきの瞑想は身体に対する気づきの瞑想とともに進みます。これを直接の経験として知ること、パジャーナーティ(pajānāti:了知)には大変鋭いサティが必要です。

あなたにお話しする時も、私は感受に対する気づきの瞑想を経験しています。お話ししていることがうまく翻訳されて、あなたに理解してもらえているだろうかと心配しているからです。たった今、この瞬間に、私が教えていることをあなたが理解しているかどうかに関連した感受を経験しています。教えていることがうまく訳されて、あなたが理解していると思えば、なんだか嬉しいという感受を経験します。感受に対する気づきの瞑想が存在しています。対象を経験する中に感受が存在しています。

  ブッダは身体に対する気づきの瞑想の実践について説かれましたが、100身体に対する気づきの瞑想を行うことは不可能です。もちろん、最初は身体に対する気づきの瞑想から実践を始めます。それが出発点です。しかし、私たちの経験の一部として常に感受が伴います。ですから、私たちが身体に対する気づきの瞑想を実践する時には、感受に対する気づきの瞑想の実践も行うことになります。そして、このようにして心が生じることを悟れば、心の状態に対する気づきの瞑想、チッターヌパッサナー(cittānupassanā:心随観)を実践していることになります

身体、感受、心の状態、心の対象、を対象にした気づきの瞑想、四つの気づきの土台は相互に不可分の関係にあります。例えば身体に対する気づきの瞑想は、身体に対する気づきの瞑想から始まりますが、他の三つの気づきの瞑想へと進んでいきます。何らかの行為をする時、身体動作があることを知り、安楽である、苦しいといった動作に伴う感受があることを知り、この二つの異なる部分があることを知る心に気づきます。心の状態に対する気づきの瞑想とは、その経験を知るのが心であるということを知ることです。心の対象に対する気づきの瞑想、ダンマーヌパッサナー(dhammānupassanā:法随観)とは、精神的な経験が生じそれが生じたとたんに消え去ることを知ることです。(つづく)
翻訳:影山幸雄+翻訳部  

              
 
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   Web会だより 
  『生きていていいんだ。ここにいていいんだ』 N.H.
 

 1日10分の瞑想、クーサラ、慈悲の瞑想に毎日きちんと取り組むようになって数カ月、私は以前とは比べものにならないほど落ち着いた心で日々を過ごせるようになりました。たくさんの気づきが立て続けに起こり、生きることが劇的に楽になりました。その中でも最も大きな気づきについてご報告したいと思います。
 私は若い両親の元で、物心ついたときから良い子として優等生として生きてきました。ただ、常に、「自分はお父さんお母さんの人生を食いつぶして生きているんだ」「生まれてきてよかったのかな、要らない子だったんじゃないかな」と自分の存在に対する罪悪感のようなものを感じていました。そして、いつか親に見放されるのではないかという不安を、大人から褒めてもらえるように振る舞うことでごまかそうとしていました。良い子にしていれば大事にしてもらえる、そう信じていたのです。自分の無価値感を打ち消したいがために、とにかく人から承認されるよう必死で努力しました。
 もちろん、このような病的なほどの承認欲求に振り回されていることには、自分では全く自覚がなく、いつも頑張りすぎて、無理をして、しんどい思いをしていました。その結果、私は、「生きることはどうしてこんなに辛いのだろう。早くこの世から去ってしまいたい」という思いをひとりで抱え込むようになりました。でもそんなことは人に話せば心配させてしまうので、誰にも言えずにいました。
 そんなある日、私は自分の苦手なことを人から指摘され、ひどく傷つき怒りを覚えました。そこでその気持ちを整理したくて思いつくまま紙に書き出してみたところ、苦手でできない自分を自己弁護している裏には、「自分は無能で、人に評価されることしか頑張れない卑しい人間だ」という思いがあることに気づきました。そしてその根底には、「何もできない人間(自分)は生きている価値がない」という強烈な固定観念が根を張っていることを知り、また一方では、「そんなことを思ってはいけない、寝たきりのお年寄りだって、生まれたての赤ちゃんだってそこにいるだけで周りの人は幸せじゃないか・・・」と、頭では必死で何とか打ち消そう、否定しようとしていたのです。
 こうした生きる苦しさを抱えながらも、ブッダの教え、そしてヴィパッサナー瞑想に縁が生まれ、気づきによって「あるがまま」に観る心を養い整えて行く修行と、自分に対しても「幸せになっていいんだよ」と許可してくれる慈悲の瞑想とに真剣に取り組むようになりました。そしてふと読んだ本に、「固定観念を解消するにはその逆を信じてみればいい」とあったのを見て、試しに、「何もできない自分は生きている価値がない」という固定観念の逆に、「人間は存在しているだけで既に認められている、何もできない自分だったとしても生きているだけで価値がある」と紙に書いてみました。そうすると、スーッとそれが心に収まったのです。今まで頭では分かっていたつもりだったのに、この時はじめて本当に理解できたんだという実感がありました。自分の生きづらさの一番根っこにあったものが崩れ去って、「生きていていいんだ」という安心と喜びが一気に押し寄せてきて、涙が溢れました。
 このことは瞑想中に起こったものではありません。しかし、真剣に瞑想に取り組んできたことが、本当に必要なときに最適な情報を得るというこの上ない現象に繋がったのだと私は深く感謝しています。そして今では、自分の無価値感や強い承認欲求が自分の中にあるということを認め、受け容れた上で、「生きているなら何かができる。生きることができるから生きていていいんだ」と思えるようになりました。
 さらに日常生活においても、仕事が速くなったり、クレーマーに怒鳴られる業種なのに自分だけ激減したり、苦手な上司とも理解し合えるようになったりなどの変化も起きてきました。これからも生きる拠りどころとして淡々と瞑想を続けていきながら、こうした出来事についてもいつかご報告させていただきたいと思っています。
 このような筆を執る機会を与えていただき、ありがとうございました。瞑想に励む皆様の修行が進みますように、お祈りしております。

 


 読んでみました 
   『死のメンタルヘルス』 中澤正夫著(岩波書店、2014)  

 著者は「風化仏教徒」を自称する1937年生まれの精神科医。扉にフツーの人がフツーに死んでいくための終活の書とあり、原発事故、原爆被爆者、多くの患者の死、自らの心筋梗塞、そして対談を通して「死」に関する考察を進めていく。
 母の入院を通して、それまで「自分はそこそこいい医者だと思っていた、その矜持が砕け散った」こと、世間では家で看取られるのが好ましいと見られているけれど、それは「大勢の親兄弟、親戚、友人、近隣の支え」という前提があってのことで、今の日本では負担が個に負わされ、頑張りだけでは保てない現実。また、旧知の末期ガンの看護師と奥さんの介護の姿勢から、最後まで正気を失わずに自己決定していく死も楽ではない、「人間は弱い。人を助けたり、助けられたりして生きてきている。死の時だけ例外になるのは不自然」なことだと気づく。
 また、「死は肉体の生滅であるが、それだけではない。誰でもこの世に影響を与えていく、その影響が、長いか短いかの違いだけである」として、その影響は、個人だけでなく社会にとって新しい世界をつくり出していくための契機でもあり、決して「喪失」ではないと言う。そこには「死の豊穣さ」とも言うべきものがあり、「毎年、遡上する鮭が、産卵を終えて死んでいく。それをみていると、死と豊穣は、ぴたっとくる『組み合わせ』だとわかる」と言う。
 さらに対談からは「何を遺したら安心して死ねるだろう」という課題が浮かび上がる。財産や名前でないのはもちろん、人材でもない。そして、「DNA―子どもや孫もそんな気がする。子どもを遺して安心ならヒトは有史以来、こんなに死にこだわってこなかったはずである。『生のリレー』の短い区間を担った、ということがそんなに安心とは思えないのである」に至って、生命の基本的な本能の一つにまで疑問を投げかける。
 「最期に向けての対話」というテーマのもと、結局、人間の生き方に行き着く。「ヒトは知能は高いが『賢くはない』と言わざるを得ない」のは、欲に執着しすぎると争いと破滅があることを知りながら止められないからであり、「・・・福島県を除けば、なにごともなかったかのような日常がもどってきている」のは、通常の生活では便利で優れた機能である「忘却」のマイナス面が表れていることを指摘する。
 本書は瞑想修行に直接的なヒントになるようなものではないが、どのページも背景に奥行きのある内容が含まれている。自分に当てはめて考えてみることで、「あるがままに観る」ことを支える土台を固める助けとなると思う。(雅)  

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