月刊サティ!

2024年9月号  Monthly sati!     September  2024

 今月の内容

 
  巻頭ダンマトーク:今月は休載いたします
   ダンマ写真
 
Web会だより ー私の瞑想体験- :『ゆるしの航海』(後)
  ダンマの言葉:『私たちの真の家―死の床にある老在家信者への法話』(1)
  今日のひと言 :選
   読んでみました :NHK取材班、杉本宙矢、木村隆太著
               『日本一長く服役した男』(イーストプレス2023)
  文化を散歩してみよう(18):食の周辺(後) & 韓国文化に触れて
   ちょっと紹介を! :平野啓一郎著『死刑について』(岩波書店 2022)

        

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。

 
     

 今月のダンマ写真 ~
  
   
ダモ寺の古仏

先生より

    Web会だより -私の瞑想体験-

『ゆるしの航海』(後) 静華

  (承前)
  そんな時に、母の日と私の誕生日がやってきました。日にちが近いため一緒にお祝いをする予定でしたので、私はお花とケーキを手に、家に帰ってきました。
  それなのに母はおらず、父が暗い顔をして座ったのです。事情を聞くと、力を振り絞って鍋を握り、私が好きな筑前煮を作ってくれていましたが、些細なことで父と口論になってしまい、具材がゴロゴロ入った重いお鍋を投げ捨てて、薬も荷物も持たずに家を飛び出していったそうです。薬を飲んでも痛くて仕方がなく、歩くのもやっとな身体です。連絡も一切取れなくなり、どこで倒れてもおかしくない状態だったので、警察沙汰になりました。
  翌日、無事に母が帰ってきました。私は仕事から帰り、ベッドに臥している母のもとに行くと、「もう誕生日、祝ってあげられないのに。ごめんね。ごめんね」と母は静かに泣いていました。「大丈夫だから、そんなこと言わないで」「もう無理なんだよ」。
  母も、私も、父も、苦しかったです。
  その翌週に入院となりましたが、その壮絶な1週間が母と家で過ごす最後の時間でした。
  入院してから1ヶ月、病気になってから3年後の初夏、母は亡くなりました。
  本当に、最後の誕生日になってしまいました。

  母が苦しんでいる間、私も何もしなかったわけではありません。心も身体も小さくボロボロになっていく母に、私ができること。自分を救ってくれた瞑想を、母のために私が誘導をしながら一緒に行いましたが、ちょっと遅かったようでした。少しは足しになったかも知れませんが、もう少し早ければ。

  病気一つしないほど元気だった人が、病に侵され、あっけなく、亡くなってしまう。
  母は、自分を否定ばかりしていて、どれだけ私たちが励ましても、全て跳ね除けてしまう。どんどん自分で自分の首を絞めているようでした。

  もし、母が病気になった自分も、変わってしまった姿も、それでいいと。うまく動けなくて、人の力を借りることも、それでいいんだと。受け入れることができていたら、もう少し早くその心の土台を育むことができていたら、もう少し家族ともうまくやれていて、幸せな時間が増えていたかもしれません。
  いつ何が起きるかわからない、もしかしたら短い人生かもしれない。でも、その生きる時間を少しでも笑顔で、幸せで生きるには、どんな自分でも、それでいいんだと、受け入れる自己受容がとても大事だと、あらためて感じました。
  それは、当事者も、支える家族も同じです。それぞれに自分を受容できるからこそ、お互いを受容して前に進むことができます。

  母のように、自分を苦しめながら亡くなる人を減らしたい。そして、支える側も一緒に幸せであってほしい。私がそうしていたように、もう少し心の扱い方を分かっていたら。でも、私のやっていた瞑想だとその自己受容の要素が足りない、まだ力不足であることを痛感していました。

  再びかつてのように、貪るようにその方法を探し始めて行き着いた先が、やはり瞑想です。今度はイメージ瞑想ではなく、マインドフルネス瞑想でした。当てのない航海の先に見つけた宝箱のようでした。

  マインドフルネス瞑想に出会って、ただ何かを信じるのではない、嫌なものを無理やり消したり蓋をしたりするものではない、ありのままに事実を受け入れるとても逞しいものだと知り、自分ではどうにもならないものをゆるす、委ねる感覚が生まれてきました。
  イメージ瞑想ではわからなかった、自分の全てと周りで起こる出来事や全てをそのままにゆるしてあげられる感覚を知ることができました。

  そのまま魅了され、勉強を続けていく中で素敵な出会いが重なり、地橋先生の存在を知りました。マインドフルネス瞑想の源流であるヴィパッサナー瞑想と原始仏教の智慧に触れることで、より私の人生のテーマである限られた人生を楽しく生きる人でいっぱいにしたい。それは小手先にポジティブなものを見続けていくものとしてではなく、ネガティブなもの・苦しみも人生のとても大切なエッセンスとしてきちんと認めていく、それすらも楽しめる心を育みたい、自分の心の奥底にある考えととても共鳴しました。

  ただ座ることが瞑想ではなく、生活全てがかけがえの無い自分の糧となる経験になります。起きた事実自体に意味はなく、意味づけをしている自分に気づくこと。全ての行動や気持ちにサティをとにかく入れ続けると、何にも揺らがない、どっしりと「見る側」の自分が生まれてきます。見る側に回ると、視野が広がりました。時間的にも空間的にも、広がりが生まれる。長い歴史の中のこの1秒を生きている自分、地球全体のこの1平方メートルのなかに生きている自分、その中で湧き上がる心の動きや思考は、どんなものだとしてもなんて可愛らしいものなんでしょうか。そんな広い世界にいる人は、みんな置かれている場所や経験してきたこと、持っているものが違う。でも同じように体を持っていて、喜びや悲しみを感じていて、一人では生きていけないという点で、みんな同じ。一人一人の尊厳を認め、自分も人も大切に生きるために、ヴィパッサナー瞑想と原始仏教の厳しくも優しい学びは、私の大きな助けとなっています。

  地橋先生との出会いを頂いてからまだ1年も経っておりませんが、学びと実践のタッグで、かつて誰かに任せていた舵を自分の手に取り戻して、でも無理にハンドルを切るのではなく、海の波に揺られ委ねながら、私の時間を生きられている実感がどんどんと強くなってきています。そして、不思議とその波も平穏になってきています。カヌーのような素朴な舟に変わりはないですが、いつの間にか、それを取り繕うような外装は剥がれ落ちていたようです。自分の不器用さ、わがままなところ、覆い隠したくなるような心の動き。全部が愛おしいです。

  果たして、今後瞑想を続けていくなかで、病や他の予期せぬ出来事に出会ったとして、ブレずにいられるかはわかりません。
  心が折れる前の自分や病気になる前の母が瞑想を知っていたら、救われていたかどうかはわかりません。でも、こうして短いながらも続けている中で、きっと大丈夫だろうと思える心の土台ができてきていることが、何よりの証拠だと思っています。

  まだまだ未熟で自己統制とは程遠いところにいますが、これまでの全ての経験を糧に、相も変わらず不器用な自分と共にどっしりと、わたしの生きる目的を果たす航海を進めていきたいと思います。一緒に学び、舟をこぐ仲間がいることが何よりも大きな支えです。

  どうかこの瞑想がたくさんの方に届きますように。
  瞑想ではなかったとしても、自分と世界をゆるして生きる心と平和が広がっていきますように。
  生きとし生けるものが、幸せでありますように。
  みんながみんなの幸せを、願えますように。(完)

    

   
長瀞の岩畳 
Y.U.さん提供
 






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『月刊サティ!』
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ダンマの言葉

          
 『私たちの真の家―死の床にある老在家信者への法話』 (1)
アチャン・チャー 

今月号より「月刊サティ!」20051月~20055月号に掲載されましたタイの名僧アチャン・チャー法話を5回にわたり再掲載いたします。今月号はその1回で「はじめに」と簡潔な伝記です。次号から「私たちの真の家」(本文)を掲載する予定です。

○はじめに
  空(から)の旗
  私は以前、禅についての本を読んだことがあります。ご存知のように、禅では多くの言葉をもって教えることをしません。たとえば、瞑想中に僧が眠りに落ちてしまうと、警策を持った僧がやってきて、「バシッ」と背中を打ちます。間違いを犯した修行者は、打たれると、見回りの僧に感謝の意を示します。禅の修行においては、成長の機会を与えてくれるすべての感覚にたいして感謝するよう教えられています。

  あるとき、僧の一団が会合のために集まっていました。堂の外では一棹の旗が風にたなびいています。すると二人の僧が、「どうして旗が風に揺れるのか」をめぐって口論を始めました。一人の僧は「風があるからだ」と言い、もう一人は「旗があるからだ」と主張しました。このように二人は、おのおのが狭い見解を持っているがゆえに言い争い、いかなる合意に達することもできませんでした。放っておけば、彼らは死ぬまで論争していたことでしょう。しかし、師が割って入り、「どちらも正しくない。正しい見方は、旗もなく風もないということだ」と言いました。

  このように、旗もつかまず、風もつかまず、何物も持たないことが、仏教の実践です。旗があれば、風がある。風があれば、旗がある。こうしたことに思いをめぐらし熟慮して、真理にしたがって物事を見るようにすべきです。よくよく考えてみるならば、変わらずにありつづけるものは何もありません。すべては「空―虚空」です。

  旗は空(から)であり、風は空(から)です。大いなる虚空においては、旗もなく、風もありません。生もなく、老いもなく、病もなく、死もありません。「旗」や「風」であると私たちがふだん理解しているものは、ただの概念にすぎません。実体はありません。それだけのことです。実体のない名札があるだけなのです。

  こうした理解にもとづいて修行を実践するならば、不足しているものは何もないことがわかり、すべての問題は決着するでしょう。大いなる虚空においては、死王もあなたを見つけることができません。老いや病、死が追いかけようにも、追いかけるべきものがないのです。

  真理にしたがって見、実践するならば(それを「正見」といいます)、そのような大いなる「空っぽ」があるだけです。ここにおいてはもはや、「私たち」や「彼ら」や「じぶん自身」は存在しません。

  不断の実践
  実践において、私たちは直接的に心を観察します。実践がおろそかになり始めたらいつでも、私たちはそうした心の状態に気づき、気持ちを引き締めます。ところがすぐにまた、心はゆるんできます。このように心は私たちを引きずりまわします。しかし、十分な気づきのある人は落ち着いており、つねに自分の態勢を立て直します。じぶん自身を取り戻し、訓練を積み、実践を重ねる、というふうにして自分自身を育成してゆきます。

  ところが、気づきの不十分な人は、心が千々に乱れるままにしています。進むべき道からそれて、何度も脇道へ迷いこみます。意志が強固でなく、実践もしっかり根づいていません。したがって、絶えず世俗の欲望に惹かれ、実践から離れてしまいます。こちらに引きつけられたかと思えば、こんどはあちらに引きつけられるという具合です。みずからの気まぐれと欲望にしたがって生き、この世間のサイクルのなかで生きることに決して終止符を打とうとはしません。

  出家するのは、そうたやすいことではありません。そのためには、まず、自分の心を落ち着かせる決意をしなければなりません。さらに、修行の実践に対して確信がなければなりません。すなわち、好きな対象と嫌いな対象のどちらにもうんざりし、真理にしたがってものごとを見るようになるまで、実践をつづけるだけの確信がなくてはなりません。私たちは普通、嫌いなものに対してだけ不満を感じます。そして何かが好きなときには、それを手放すのを嫌がります。私たちは、嫌悪する対象と愛好する対象、苦しみと幸福の両方に対して、あきあきして、うんざりするようにならなければなりません。

  このことがまさにダンマ(法)の真髄であることをあなたは知りません。ブッダのダンマ(法)は深淵で精妙です。理解するのは容易ではありません。真の智慧が生じなければ、理解出来ません。あなたは未来にも過去にもきちんと目を向けていません。幸福を味わうと、これから先もずっと幸福のみがあると考えます。苦しみを経験すると、これから先もずっと苦しみのみがあると考えます。大があればいつでも小があり、小があればいつでも大がある、ということを理解していません。そんなふうには物事を見ないのです。ただ一面しか見ず、それが果てしなく続くと思っています。

  すべての物事には二つの面があります。あなたは両面を見なければなりません。そうすれば、幸福が生じたときに、夢中になることはありません。苦しみが生じても、途方に暮れることはありません。幸福が生じたときに、苦しみのことを忘れません。なぜなら、これらが相互に依存しているのを知っているからです。

  同じことは食物にも言えます。食物は、すべての生き物の身体を維持するうえで有益なものです。しかし実際には、食物が有害になる場合もあります。たとえば、食物のせいで、胃がさまざまな失調を起こすこともあるのです。何かの利点を見るときには、不利な点にも気づかなくてはなりません。

  逆もまた同様です。憎悪や嫌悪を感じたならば、慈しみと智慧についてじっくり考えるべきです。そうすれば、あなたはもっと安定し、あなたの心はいっそう落ち着くことでしょう。
  ※アチャン・チャー『Bodhinyana』よりまとめました。

○アチャン・チャー〔19181981〕略歴
  アチャン・チャー(アチャンとはタイ語で先生、師の意味です)は北東タイの田舎の村で、大きくて豊かな家庭に生まれました。青年期の初期に沙弥となり、ニ十歳になると、沙門としてさらに上の段階の戒を受けました。若い僧だったときに、法と戒と経典の基礎を勉強しました。その後、禁欲的森林派の伝統を受け継ぐ地元の瞑想の達人数人から指導を受けて、瞑想の修行をしました。何年もの間、禁欲的な僧の流儀に従って、森や洞窟や火葬場で眠りながら放浪し、そして、短期間ですが啓発的な期間を、二十世紀に最も有名で尊敬されたタイの瞑想の達人の一人であるアチャン・ムンの下で過ごしました。
  何年も旅と修行に費やした後、生まれ故郷の村の近くの鬱蒼とした森に定住してくれとの誘いを受けました。この森には人が住んでおらず、コブラとトラと幽霊の場所として知られており、そのため、アチャン・チャーの言葉を使うと、森の僧にとってこの上ない場所でした。アチャン・チャーの教えを聞きに来て、その下で修行をするために滞在する比丘や比丘尼や在家の信者の数がどんどん増え、ついには、アチャン・チャーを中心とする大きな寺院が形成されるに至りました。今では、タイ、イギリス、そしてオーストラリアに40以上の山と森の末寺があります。
  アチャン・チャーの素晴らしく簡単な教え方は、人を誤らせることがあります。あることをアチャン・チャーから何回も聞いてから、突然心が成熟し、どういう訳かその教えが遥かに深い意味を持つようになるということがよくあります。時と場所、そして聴衆の理解度と感受性に応じて法の説明を変えるアチャン・チャーの巧みなやり方には、目をみはるものがあります。しかし、活字になってしまうと、一貫性が無かったり、矛盾しているように思える場合があります。そのようなときには、読者はこうした言葉は生(なま)の経験の記録だということを思い出すべきです。同様に、教えが伝統から逸脱しているように思える場合があったとしても、師は常に心から、師自身の瞑想経験の深みから話をしているということを心に留めておくべきです。(つづく)
(文責:翻訳部)

       

 今日の一言:選

 (1) 歩くことは、極めて高度な脳の働きによって支えられている。
  ギリシアの賢者達が歩きながら哲学していたのも、脳科学的に理に叶っていたようだ。
  私も、原稿の筆が渋り、アイデアに行き詰まると、歩く瞑想をしながら近辺での所用を果たすことにしている。
  ほぼ確実に閃きが得られている。

(2)この世の煩悩の対象であろうと、彼岸の超越的な対象であろうと、求めている執着の手を離さない限り、苦しみが生まれてくる。
  執念で得たものも無残に壊滅していくのが業の世界だ。
  ゲットしても、永遠の不満足性がくすぶる。
  限りなく手放して、究極の引き算の果てに拡がる安息と静寂・・・。

(3)昔、まちがえて洗顔フォームを歯ブラシに塗り、口に入れた瞬間、ギャッと叫びたくなる違和感を覚えた。
 「毒!」と判断せず、歯磨きの味も分からなくなった自分の味覚不全を責める意識が過ったことに感動した。
 『何があっても、自分が悪い』と考える修行を必死でしていた時代だった・・・。

(4)「瞑想なんて、ただボーッとして、いい気持ちになってるだけだよ。あんなものやったって、どうもないわ」
 では、一瞬一瞬の身体感覚を感じながら、サティを入れて歩く瞑想はいかがですか。
 歩いている自分に気づいて、自分を対象化し客観視する練習です。
 自己チューの視座の転換・・・。

(5)何も考えないだけなら、蛙やトンボや眠りこけている人と同じではないか。
 なんとなくまぶたの裏をボーッと眺めている鈍重な無思考状態では意味がない。
 音や匂いや思考が浮かんだ一瞬の、リアルな現実に明敏に気づく意識の修練。
 そこからだ、存在の本質を洞察する智慧が閃き出すのは・・・ 。

(6)サティを入れ、余計な妄想を排除していくと、思考から生まれる欲望と怒りから自由になれる。
 何も持っていなくても、苦の種である妄想と執着を引き算していった果てには、ただありのままの自分で豊かに自己完結していることに気づく・・・。

     

   読んでみました
       NHK取材班 杉本宙矢・木村隆太著『日本一長く長く服役した男』
                                 (イーストプレス 2023)
  2019年秋に61年間服役していた83歳の無期懲役刑の受刑者(本書ではA)が仮釈放された。本書は無期懲役とは何か、更生とは何か、そして刑務所とは何かをめぐって熊本放送局の記者たちが立ち上げた放送プランの取材過程で、彼らが新たな事情に気づいていく姿を綴ったもの。それらは「はじめに」で端的に語られる。
  本書は9章からなる。なお、著者の二人は交互に章を担当しているが、本稿ではいずれも「著者」とする。
  2018年、NHK熊本放送局に配属された著者の一人は、主に事件や事故、裁判などを担当することになった。その取材を通して次第に「加害者はなぜ事件を起こさねばならなかったのか。判決確定後に、加害者は刑務所の中でどのように過ごし、更生していくのか」という疑問が湧き、201811月熊本刑務所の取材を始める。熊本刑務所は刑期が10年以上、再犯者や暴力団員である受刑者が収容されているところだ。

  「受刑者は、罪と向き合うために刑務所にいる」と素朴に考えていた著者は、まずそこで見た数年前から認知症と診断されている無期懲役の80歳ほどに見える受刑者の衝撃的な姿にショックを受ける。  
  「高齢化に伴い認知機能が衰えた受刑者は、日常生活はおろか、言葉のキャッチボールさえできていないのが現実のようだ。罪に向き合う以前に、自らの罪をきちんと認識できているのか怪しく思えてくる。
  早朝から後頭部を殴られたような衝撃を受けた私は、自らの考えがあまりにも単純だったと思い知らされた」と言う。
  その一方、4050代ぐらいの比較的若い受刑者は対照的で、運動時間には刑務所内の屋外運動場でキャッチボールをしたり懸垂をしたりしている。
  「なかでも走り込みをしている受刑者たちには驚かされた。走るペースも速く、黙々と運動場を周回している」。そして「運動を終えた無期懲役囚の引き締まった体に流れる汗を見ていると、社会への、そして生きることへの執念が感じられる。もちろん、彼らが生きて社会に出られる確証はどこにもない。まるで、ゴールのないマラソンでも見ているかのような気分になった」。

  この取材は20196月には熊本の地域ニュースで「福祉施設化する刑務所」として放送される。
  その年の秋に仮釈放されたA83歳の男は推計だが22,325日ぶりの塀の外だ。彼の様子は約1年後の2020911日の夜、『日本一長く服役した男』として熊本県域で放送、5ヵ月の再編集期間を経て2021221日に再び放送される。
  Aは一体なぜ、「これほど長く服役したのか。どんな罪を犯し、塀の中で何を思ってきたのか。これからの余生をいかに過ごすのか。そして無期懲役とは何なのか」。Aへの密着取材を続けるうち、「次第に『罪と罰』の概念、『懲役』という刑罰の本質、それに『更生』の意味を考えざるを得なくなって」いく。

  著者はなぜ本書を執筆することになったのか。それは、放送は取材&編集の100分の1ほどでしかないのに対して、「取材活動のリアルな一面を物語ることができれば、結果として私たちが目撃した現場を、そして問題提起したかった内実を、より深く理解してもらえるのではないか」と考えたからだった。
  本稿ではそのうち数点だけを取り上げる。

  まず著者が刑務所で目にした感想。
  それは「罪と向き合いながら、再犯せずに社会で生きていく」という「更生」の意味の非現実感だった。「高齢受刑者の中には『更生』どころか、罪を認識しているかも危うい者がいる」し、「少なからず福祉施設の機能も果たして」いたことから、「どうやら私はあまりにも『更生した/していない』という二分化した考えに囚われすぎていたのかもしれない」と言う。

  片山さんという元無期懲役で仮釈放された人がいる。裁判から服役まで42年あまりを経ての仮釈放、著者は片山さんに30年以上刑務所で暮らすとどんな感覚になるのかを尋ねる。
  彼によると無期懲役囚の受刑態度は大きく3つに分かれるという。
  「ひとつには、更生なんてどこ吹く風で、自分の我を通して、刑務官や周囲にも反発している人がいます。またそれとは反対に、出所できるかどうかは別にして、被害者の冥福を祈りながら、忍耐強く真面目に取り組んでいる人もいます。そしてあとひとつは、あまりにも長い受刑生活の中でただ漠然と生きている、いわばマンネリ化している人ですね。人間、弱いですから、『もういいや』とかなってしまうんです。加えて、刑務所の中は規則も人間関係も独自の閉鎖的な〝社会″なので、自分を保つことは難しいですね」

  では、無期懲役刑と仮釈放との関係はどうか。
  1980年前後を調べてみると、無期であってもおよそ15年前後で仮釈放されるケースが目立つという。当時は、少なくとも無期懲役囚の9割以上は20年以内に仮釈放が認められていたらしい。
  現在でも「無期懲役は15年か、20年ぐらいで出られる」とまことしやかにささやかれているのは、「この頃の印象が強いのかも知れない」と言う。
  その後、昭和の終わりから平成の初めにかけて、仮釈放中だった無期の受刑者が殺傷事件を起こしたり、地下鉄サリン事件の影響から厳罰化の流れが生じる。また、2004年の刑法改正により有期刑の上限は最長30年に引き上げられ、それに伴って無期懲役囚の仮釈放までの平均服役期間も長期化する。そうすると、「2003年以降は、20年以下で仮釈放を許される無期懲役囚はおらず、期間は30年を超えるように」なっていった。

  また、無期懲役と終身刑はどう違うのか。
  再現番組で見るアメリカの事件では、よく「仮釈放無しの終身刑」という判決が出てくる。それは凶悪犯罪者を社会から隔離するため生涯刑務所に閉じ込めておくこと。
  日本でも2008年から翌年にかけて「終身刑」を導入しようとする動きがあった。そのとき現場の刑務官の職務という観点から法案を再考するよう求めたのが桐蔭横浜大学の河合幹雄教授だ。その主旨は、「刑務所は自由を制限する場所でありながら、そこに社会復帰につなげる機能を持たせることで、秩序が保たれている前提がある。もし、その前提が崩れるようなことがあれば、刑務所がもたらしている社会的な秩序そのものが、崩れるおそれがある」というものだった。
  結局、終身刑を創設する法案は成立せず、回避された。

  では、法務省と刑務官という現場の人たちはどう考えていたのだろうか。河合教授は言う。
  「『法務省の役人たちも、さすがに終身刑が導入されれば、現場が維持できないという懸念を持っているようでした。日本の刑務官というのは受刑者の規律違反にはものすごく厳しい一方、受刑者側に立って話を聞いて世話をするという伝統があります。そこで、仮釈放がなくなると、刑務官にも受刑者にも目標がなくなってしまうということですね。実際、終身刑を導入した諸外国の対応を調査してみると、ものすごく苦労している様子がうかがえました』
  このように仮釈放は、無期懲役囚を統率する上で有効な手段であるようだ。それは無期懲役囚に先の見通しを持たせるだけでなく、刑務官自身の職務の根幹にもかかわるようである」と。

  この「先の見通し」というのは「社会復帰」ということで、それは「現場の刑務官にとって、自らのモチベーションを維持するものであると同時に、刑務所内の秩序を維持する理念でもあった」。
  で、著者は「社会復帰」の考え方がどのように刑罰システムの中に組み込まれたのだろうかを知ろうとする。そうすると、「ふとある記事が目にとまった。そのタイトルは『熊本藩に懲役刑のルーツがあった』というものだった」という。(※記事の出所は本書では不明)
  「日本の『懲役』という刑罰制度の根底には、実は西欧由来ではない『社会復帰の思想的潮流があって、しかもその源流は熊本にあったというのだ。()
  懲役刑の源流は熊本藩の刑罰制度にあります。日本の更生保護事業は熊本から始まった、といっても過言ではありません』
  こう話すのは、日本法制史を研究し、江戸時代の刑罰制度に詳しい國學院大学の高塩博名誉教授だ。高塩名誉教授によると、『社会復帰』の思想に基づき、犯罪者を施設に拘禁して強制労働を課す『徒刑』制度を江戸時代にいち早く導入したのは、熊本藩だったという」。

○以下は情報開示に関わる幾多のハードルとその乗り越え方について
  →論語にある「民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず」という言葉は、本来は「人民を為政者の施政に従わせることはできるが、その道理を理解させることはむずかしい」という意味だそう。(ですが私の場合)これまでは「民は従わせればよく、教える必要は無い」という傲慢なものと捉えていた。(これも100%誤りかどうか。検索すると「転じて」ともあるので・・・)
  ともかく自覚のないまま、いまだに「お上意識」を抱えていたり、あるいは仕事を増やしたくなかったりということがあるのかも知れない。

  当然ながら、なにごとも裏取りが重要なことを著者は十分に承知している。そこで、Aさんの起こした事件をさらに知るため、NHKの解説委員清永聡さんに相談し、調査報道の手法の一つとして裁判記録を活用することを教わる。 清永さんによると活用可能な根拠は次の法律にあるという。
  ・刑事訴訟法第53条:「何人も、被告事件の終結後、訴訟記録を閲覧することができる」
  ・刑事確定訴訟記録法第4条:「保管検察官は、請求があつたときは、保管記録を(中略(ママ))閲覧させなければならない」
  
  清永さんはこう指摘した。
  「検察庁の記録係は人手不足もあり、当事者ではない第三者による閲覧の申請を窓口で諦めさせようとします。これは“水際作戦”です」
  申請のポイントはこうだ。
  ・アポイントは不要
  ・なんと言われようが、窓口でとにかく申請書を出すこと
  ・その際、検察に有利になるような揺さぶりに安易に乗らないこと
  ・出しさえすれば、法律の手続き上、検察はなんらかの対応をせざるを得なくなる
  しかし、いくらなんでも60年以上前の事件の記録は保管されていないのではないのかとの疑念はあったが、法律の原文を読むと明確に規定があった。それには「有期の懲役又は禁鋼に処する確定裁判の裁判書『五十年』、死刑又は無期の懲役若しくは禁鋼に処する確定裁判の裁判書『百年』」と。「それなら、まだいける!」

  翌朝、著者たちはアポなしで岡山地方検察庁へ向かう。検察庁での丁々発止のやりとりは臨場感たっぷりだが、ここでは一部だけを。

  「『要件はなんでしょうか?』
  『はい、ある昔の事件について調べていまして。今日は刑事確定訴訟記録法に基づく刑事裁判の記録の申請に来ました』
  『事件というのは、いつのものでしょうか?』
  『実は、無期懲役の事件で、もう60年以上も前なんですが』
  ここで女性の職員が口を挟む。
  『無期懲役の保管記録は50年間ですよ』
  これは揺さぶり? 清永さんが話していた、噂の〝水際作戦″か。事前に調べてあった情報で、反論する。
  『いえ、無期懲役の記録の保管期間は100年のはずです。法律の文面にそうありますよね』
  『あれ、そうでしたっけ?』
  こちらが間髪を入れずに言葉を返すと、落ち着きを払っていた女性職員がやや動揺して見えた。
     (略)
  『ちょっと調べましたが、記録はないかもしれないです』
  男性職員が言い放った。再び揺さぶりか。不安がよぎる。だが、ここで押し負けてはいけない。『法律の保管期間が経過する前に、公文書である記録を破棄していたら、問題じゃないか!』と思ったが、ここではグッと堪えて、筋論で行くことにした。
     (略)
  閲覧することができる内容は2つ。『1.被告事件についての訴訟の記録』と『2.被告事件についての裁判書』だ。閲覧する内容に○をつけようとしていると、再び男性職員が声をかけてくる。
  『判決文だけでしたら、2だけでいいですよ。1もいりますか?』
  ここは重要なポイントである。判決文を含む2の『裁判書』だけでなく、論告や証人尋問、被告人質問などの記録も含む、1の『訴訟の記録』が残されているのかどうか。それらを見れば、警察や検察が当時この事件に対して、どのような見立てをしていたのかがわかる。保管されていないケースも考えられるが、もし、ないならないでその事実が重要である。ここで請求をしなければ、保管されているかどうかすら、わからなくなってしまう。
  『はい、1もいります』
  毅然とした態度で臨まねばと即答し、こちらの意思をはっきりと伝えた。
     (略)

  なんとか無事に提出を終えられた。実際、手続きはなかなかの手間だと感じた。だから、わざわざ申請しようとする人は弁護士などに限られるのだろう。職員も「報道の方の申請なんて珍しいですよ』と話していた」(p.101~p.109
  その後もいくつかのやりとりがあったが、結果、無事に手にすることが出来たという。

○元に戻る。
  仮釈放から1年と5日後、Aさんは亡くなった。
  番組を進めた当初の問いは、「61年も服役した人物はどんな大罪を犯し、どのような境地に達しているのか」、そして「罪の意識はどうなっているのか」という素朴なものだったという。

しかし、次第に問いかけの意味もわからなくなり、Aさんの言葉からは罪の意識を見出すことはできず、かといって否定しきることもできない状態になる。「被害者の命日に手を合わせて寺で祈るAさんの姿は、形の上では『反省』の態度を示し、『贖罪』に尽くす人のそれだった」が、「その直後に彼に問いかけても、私たちが期待する『反省』と『贖罪』の言葉は出て」こなかった。
  そればかりか、Aさんとの最後のインタビューでは事件について、「良いことか、悪いことか、今はもうわからない。ただ、刑務所に戻りたい」と言った。これでは「被害者や遺族からすれば聞くに堪えない答えに違いない。刑務官や保護観察官、支援者もやるせない思いになるだろう。Aさんは最後まで私たちの前で明確に反省の言葉を表明することはなかった。まるで贖罪の精神が〝成熟″することなしに、刑罰を背負い続ける〝器″として、ただ老いた身体だけがそこにあるかのようだった。当時は、そう感じられた」。

  番組の最後のナレーションは、「染みついた無期懲役という罰。罪と向き合えたのか? もう一度問いかけたかった」としているが、それは「編集の最後の最後まで、取材班全員で頭を悩ませてひねり出した『ラスコメ』だった」という。しかし、
  「改めて思い直してみると、私たち自身が『罪と向き合う』という観念に囚われていたのかもしれない。反省してほしい。罪の意識を持っていてもらいたい。これらは取材者自身の欲望ではなかろうか。〝成熟″していなかったのは、私たち取材班の方ではないか」と。そしてこう故・岡本茂樹氏の言葉を踏まえて締めくくる。(※岡本氏は臨床心理学の専門家で、数々の無期受刑者にも接してきた)

以下本文から。
  「他者が反省を強要すると、受刑者は表面的には反省の言葉を述べるが、逆に本当の気持ちを抑圧する。被害者の心情を他の人が無理に理解させようなどとすると、受刑者は『自分はダメだ』という否定的な自己イメージを持ちかねない。その結果生きづらさが助長され、本音を語ることができず、再犯防止どころか、再犯につながる恐れすらあるという。
  罪の意識が芽生えるためには、受刑者が周りの人を安心して頼ることができ、長い時間をかけた手厚いケアがなされる環境が必要だと、岡本氏は訴える。罪の意識を問い詰めるだけでは、更生は見えてこないというわけだ。
  受刑者や無期懲役の取材を進めるほどに、この考えはしっくりくるような気がした。結局のところ、世間も、メディアも、刑務所の仕組みも、表面的な『反省』を求めることによって、真に「内省」を促すことに失敗しているのではないか。本人の深い『内省』よりも、結局は漠然とした誰か、〝世間の空気″のようなものを満足させるための『反省』になってはいないか。Aさんから、そう問いかけられている気がしてならない」(p.295)。

さらに「取材」と言うことについての鋭い指摘。
  「一般的に取材という営みは、一見何か新しいものを見ようとしているようで、実は対象を既存のカテゴリーに当てはめて考えることになりやすい側面がある。(略)
  この取材の数年前から受刑者の立ち直り取材をしていた私は、〝更生″の可能性を信じたかった。それゆえに、Aさんの〝更生の物語をどこかで期待していた。あるいはAさんの社会復帰がうまくいかないのであれば、更生に〝失敗″したAさんと、誰か他の仮釈放された無期の受刑者を対比させれば、更生の物語が番組として成立する、とさえ考えていた。
  しかし、あるデスクはこんなことを言っていた。
  『もし目の前にいる対象を自分の価値観や考え方に当てはめているだけならば、それは取材ではなく、ただの材料集めになってしまうよ』
  だとすると、私は意識のどこかで『無期懲役でも更生は可能だ!』と声高に主張するだけの〝材料″として、Aさんを捉えていたのかもしれない。しかし、Aさんの人生を辿り、Aさんと向き合う中で、世界はもっと複雑だと思い知らされた。
     (略)

  取材で向き合う他者は、私の(鏡)でもある。その他者との間で生まれた新たな世界への理解が、物語を結び直す。そうしてこの『日本一長く服役した男』という、物語然としない物語が生まれた。そう言うとちょっと大げさだろうか」(p.297

  内容は取材先の出来事やさまざまな資料をめぐっての事柄や取材者の内面等々、ここに紹介した以上に多方面から丁
寧にしかもわかりやすく描写されている。ぜひご一読されることをおすすめしたい。(雅)

文化を散歩してみよう 
   第18回:食の周辺(後) & 韓国文化に触れて 

2回で学生時代に1年間カリフォルニア州で米作りの実習をしたことをお話ししました。そこはColusa郡の中でも有数の大農場で仕事は多岐にわたり、通年雇用が十数人、収穫期などには二十人を越える人々が働いていてそのための食堂もあります。住み込みのコックさん夫妻もいます。
  私たち実習生3人はその中の一棟で1年間過ごしましたが、言はば労働者のキャンプです。若かったこともあり一日一日が濃い日々で、なかでも「なるほど」というような今でも心に残ることが3つあります。
  一つ目は、部屋にはタンスがあって一人に一つずつ引き出しが割り当てられ、そこに入れた服で一年間OKだったこと。それは「人はこれだけで過ごせるんだ!!」という少しの驚き、新発見でした。(贅沢はいりませんね)
  二つ目は、すっかり労働者気分になってしまい、日本に帰ったら「学生」に戻るのがなぜか現実ではないような心持ちがしたものです。(郷に従った一つのパターンでしょう)
  三つ目、活字に飢えて薬の効能書きを何度も読み返したと言う話は聞いていましたが、「なるほど」と思ったことです。たまたま岩波の雑誌『世界』一冊を手に入れたことがあり、目次から編集後記まで、つまり最初から最後まで余すところなく読んでしまいました。雑誌をそのように読んだのは後にも先にもそれきりです。その反動のせいか、帰国したあとでは本を読むのに1年ばかり苦労するようになってしまいました。
  こうして今振り返ると、肉体労働にハマるのもそこからの転換も、個人的にはさまざまに違いがあるでしょうけれど、案外人間には可塑性があるのだなあと感じます。私たちの学ぶダンマやヴィパッサナーにおいても同様でしょう。たとえ反省点が多くても、務め続けることにはやはり大いに意味があるわけですね。


余談で始まってしまいましたが、ここからは食に関連した話題です。
  そこの食堂はいわゆるバイキング形式でした。強く残っているのは鶏肉と牛のステーキです。ほかにも食材は豊富でしたが、まるでその二つが交替で出てきたような印象が強く残っています。
  牛は放牧していて、あるときブッチャーがきて私たちも解体を手伝わされ、ボスの家にある大型の冷凍室に運んだこともあります。それが出てきたのかどうかはわかりませんが、厚さが1センチもあるようなステーキです(これも印象のまま)。それにプラスして毎日の肉体労働、太ももがパンパンになって歩くたびにジーパンが擦れたのもそのころです。

このような食事が1年続きました。で、実のところ終わりのころには、「この味付けがずっと続くとしたらなんだか味気ないなあ」というような思いでした。
  考えてみれば、食文化というのは本来その土地の固有のものですから、何をどう食べていようと大きなお世話のはず。テレビでレポーターが外国の食生活をみて驚いている(「こんなもの食べている!」みたいな)場面を評論家が批判している文章を以前に読んだことがあり、その通りだと思いました。ちょっと調べるだけでも食はたいへん幅が広い世界ですから。あの時の私の感想も同じようなものだったと今では反省しています。当時は私も二十歳そこそこでした(言い訳です)。

○家庭での食事と膳
  それはさておき、はじめてペンパルのお宅へお邪魔した時、食事はお父さんと向き合って一人用のお膳でいただきました。江戸時代のめいめい膳と同じですね。あとになって、お客さんとの食事は主人が対面でするものだと聞きましたので、その時は私も「お客さん」だったわけです。
  その時に使われたお膳は、第11回で触れましたがお土産にいただいた一人用の四角い螺鈿のものでした。「韓国 膳」で検索してみると形も大きさも実に様々なものが出てきます。

  では、ご家族がどうやって食事をしていたのか、実はあまりよく覚えていないのです。少なくとも大きなテーブルや日本のちゃぶ台のようなもので家族で食事をしていた記憶は全くありません。
  ただひとつ、日本に帰ってからのことですが、「お母さんはいつ食べていたんだろう? そう言えば台所で食べていたような・・・」ということをふと思ったことを覚えています。なぜなら、お母さんが同じ部屋で食べていた覚えがなかったからです。今の韓国ドラマ(見た限りです)からはそんなイメージは全然湧きませんけれど。私の思いつきでしかないのですが、当時は亭主と主婦は一緒に食べないとされていた世代だったかも知れません。どうなんでしょう。

○浅川巧
  録画して何回も見たテレビ番組があります。それは20年以上前にTBSで放映された『韓国人になりたかった日本人』という、40歳の若さで亡くなった浅川巧の生涯をとりあげたもので、9811月に先ず韓国のKBSで、続いて日本で放映されたものです。
  彼は日本統治下の朝鮮で林業試験場に勤めながら韓国の山の緑化に取り組みました。また同時に、(やなぎ)宗悦(むねよし)や兄(のり)(たか)とともに朝鮮民藝・陶芸の研究に携わり、亡くなったときにはその棺を韓国の人々がこぞって担いたほどの、当時にあっては例外とも言える日本人でした。
  「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人、ここ韓国の土となる」
  これは浅川巧の墓地に建てられている追慕碑の言葉です。番組では当時の部下だった方々も墓地に参拝する場面もあり、当時の想い出を懐かしく語っていました。
  ※浅川巧については山梨県北杜市公式サイトhttps://www.city.hokuto.yamanashi.jp/docs/1939.html)をご覧ください。

実はその中でとくに印象的だったのが、彼が汽車の中で膳を大切にしている夫婦を見た時のナレーションです。その文言をどこから持ってきたのか探したところ、彼の著書『朝鮮の膳/朝鮮陶磁名考』(ちくま学芸文庫2023)の中にありましたので紹介します。
  「これはよく見る光景であるが京城から元山に行く汽車の中で、間島方面へ移住する貧しく疲れ切った農夫の一家が、その馴れない長い旅の道中に、邪魔とも思わず客車内に持ち込んでいる荷物のうちには、新しいパカチなどと一緒に美しく拭きならされた膳を見うける。住み馴れた家も売り、農事における唯一の力と頼む牛も人手に渡し、親戚知人とも別れて知らない遠い国へ旅立つその家庭にも、使い馴らされた膳は見捨てられないものと見える。また京城でも()(うつり)に運ばれる荷物が通るのを見ていると、満載された諸道具の上に古く美しい膳の添えられて居ないことは殆どない」
  また彼は同じ著書の中で次のような味わい深い文章も記しています。
  「然るに朝鮮の膳は淳美端正の姿を()ちながらよく吾人の日常生活に親しく仕え、年と共に雅味を増すのだから正しき工芸の代表とも称すべきものである。ここに特に本問題を選んだ訳もその点にある」
  また、「正しき工芸品は親切な使用者の手によって次第にその特質の美を発揮するもので、使用者は或意味での仕上工とも言い得る。器物からいうと自身働くことによって次第にその品格を増すことに」なる。そして、「最も簡単な標準の一つを挙げれば、工芸品真偽の鑑別は使われてよくなるか悪くなるかの点で判然すると思う」とも述べています。

○食器
  食器では、平たい皿は別としてご飯と汁の器は、かつては陶器だったのでしょうが今はステンレス製です。そしてご飯の器には蓋がついているので湯気も出ていきませんし、冷めにくいとも言えます。
  日本ではご飯茶碗や味噌汁の椀は手に持ちますが、韓国では手に持つことはありません。スレンレス制なので熱くて持てないですし、また割れる心配も無いのでそこは安心です。ただ、例外的ですが一度だけ会食中に手に持って食べるのを見たことがあります。それは同席する78人の中では最も地位の高い方でした。おそらく底の方に少しだけ残っていたのでしょう、そのままでは食べにくかったのだと思います。私は「初めて見たなあ!」とちょっと驚きましたが、ほかの人たちは無関心のようでした。
日本の家庭では普通は誰々の茶碗、誰々の箸と決まっていますが、ご飯と汁の器、箸などは共通です。ステンレスになる以前はどうだったのでしょう。

  ところで、韓国で生活するうちにだんだん感じてきたのは、どちらかと言えば「食事に汁気が多いな」ということです。ちょっと気を抜くと跳ねかねないので、少々注意がいりました。というわけで匙の出番が多くなります。汁はもちろんですがご飯も匙を使いますし。そのためか、日本の箸の文化に対して匙の文化とも言われています。日本ではご飯に汁を掛けますが、韓国では汁の中にご飯を入れます。
  では箸はというと、おかず用にしか使いません。これもステンレス製でちょっと平べったく出来ているのではじめはちょっと意識しますがすぐに慣れます。私は子供の時から卵かけご飯を焼き海苔で包むようにして食べるのが好きだったので、ペンパルのお宅で初めて食べた時(韓国では卵かけご飯が日常的かどうかわかりません)、日本でしていたように焼き海苔をつい指で取ってしまい笑われました。「行儀わる~」と思われたかも・・・、失敗談です。
  また箸は膳の右側に縦向きに置きます。これは文章を重んじることが筆の置き方に表現されているということで、その筆は縦に置くということから来たとも言われます。日本では手前に横向きに、持つところを右に置くのが決まりですね。調べてみるとそれぞれいろいろ由来があるようですが・・・。

  次は坐り方。日本では畳、韓国ではオンドル部屋で膳を前にして食べるときでです。
  日本の場合は時代や習慣によって違ってきました。つまり、元々胡坐だったのが茶の湯から正坐が始まり、江戸時代になって次第に普及していったとされているようです。まあ、正坐もあり胡坐もありというところでしょうか。
  韓国では正坐はしません。オンドルの部屋では男性は胡坐ですし、女性は立て膝の片胡坐のような坐り方です。これは服装(チマ;スカートのこと)とも関係があるようです。
  余談です。日本の江戸時代のドラマでの外食シーン、椅子に腰掛けてテーブルほどの高さの台を前にしての飲食は全くの虚構です。こうした坐り方やマナーなどは民族によっていろいろで、調べるとけっこう面白いと思います。
  ついでですが、これも時代劇で女性が自分の名前の前に「お」をつけて「お○○といいます」などと言うことは決してありません。ドラマとはいえ基本的なことです。

○モチ粟の香ばしさ
  例の気の合った友だちに案内されて田舎の食堂に入ったことがありました。ちょうど朴正熙政権による維新体制が敷かれていたころです。食堂のテレビで大統領の演説を見ていたのを覚えています。ちょうどその日は「米なしデー」でしたので、白いご飯はダメだと言われました。
  ※「米なしデー」を調べてみましたが、正確には何と呼ばれていて、どういうふうに決められていたのかはわかりませんでした。でも、当時(70年代)はそんな日が設けられていたのです。
  友だちは「日本から来た人だから・・・」というようなことを食堂のおばさんに言ったのですが、おばさんはきっぱり拒否。ともかく原則は原則ということで100%の粟飯が出てきました。ところがその粟は「モチ粟」(漢字では「秫(じゅつ)」と書きます)でした。後にも先にも100%のモチ粟飯はそれっきりになってしまいましたが、あのときの香ばしさは感動ものでした。モチ粟があんなに美味いものとは知らず、今でも忘れることはありません。
  余談ですがモチ性を持っている穀類と言えば稲を筆頭に、大麦、粟、キビ、唐黍(モロコシ)、はと麦、玉蜀黍(トウモロコシ)など7種類に限られるようです。稗やシコクビエ、パン小麦にはモチがありません。

○おなかいっぱい
  こんなことを聞きました。
  1969年に初めて韓国に行った時の船の中で、日本の漁船の50代ほどに見える船員(日本人)さんとなんとなく話しをするようになりました。いろいろ面白いことを聞かせてくれたその方は、韓国人の若者を漁船の作業員に募集して統括する責任者という立場にあるようでした(正式な役職名はわかりません)。
  その人によれば、とにかく彼らは大盛りご飯に唐辛子味噌をべったり塗ってよく食べると言うのです。おかずは何だったのかわからないのですが、「よくあんなんで沢山食べられるものだ。よほど普段食べていないのか」とあきれたような口調で話すのです。これをどう解釈して良いかは微妙ですが、今でも覚えているほどとても印象に残りました。もっとも漁船というのはかなりの重労働でしょうから大食も当然なのでしょう。

量についてはこんなこともあります。
  韓国でお世話になった年配(60代くらい)の方が90年代の終りころ日本に来られ、数週間滞在されたときのことです。日本での外食は見栄えがいいと言ってもその方にとっては量が少なく、毎日毎日お腹が空いてたまらず、ついには「もう限界!」となったそうです。そこでたまらずに友だちを誘って焼き肉料理店で思い切り食べたそうなのですが、その勘定が目の玉が飛び出るほどだったので、こんなに高いのかとびっくりしたと言っていました。
  私の経験では韓国で外食しても特に量が多かった覚えはありませんが、ただ、量をケチるとそれはもう不人気のもとになると言うことは聞いたことがあります。それにつけても、ちょっと言ってくれれば食べ放題のような所を見つけられたのではないかと思いましたが、後の祭りでした。

  もっとも、食べることがなにより関心事であるのはいつでもどの世界でも同じです。バランス良く少量ずつというのが健康の土台だそうですが、ほとんどの時代おなかを空かしていたわけで、一般的な話として「食事しました?」が挨拶代わりになるのも自然なことだと思います。今でも様々な理由から悲劇が起きているのはなんとも言い様がありません。

  「春窮」と言う言葉があります。日本では「端境期」の方が一般的なようですが、毎年45月には前年の収穫物(穀物)を食べ尽くして窮乏することを表しています。50年以上前の話ですが、この言葉は同級生の姜君から教わりました。そしてそのころ彼が言っていたのは、「韓国では太っている人(男)がモテる」ということでした。それは、太っているのはしっかり食べている、つまり裕福なのだという証拠になるからです。
  ちなみに、「姓と名」の項でも参考にした本郷和人氏によると、平安貴族の肉体美は太っていることだったと言います。例えば、紫式部は『源氏物語』の第22帖「玉鬘」で、九州に暮らすことになったお姫様に求婚した地元の有力者を「でっぷりと太っている」として、しかもそれを「なかなかに見事で好ましい容姿をしていたと評価している」と記しているそうです。そして著者は、「ともあれ、でっぷりと太っている男性ということは、平安貴族にとってはむしろ好ましいこと、美しいことだったのだと言えるでしょう。それは太っていることがある種の富の象徴となっていたからであり、ポジティブに捉えられていたと考えられます」と述べています。
  関連して著者は、「その時代には特有の価値観というものがあり、歴史を通じてさまざまに変遷していったと考えられ」「男女の美意識の価値観というものも、平安貴族にとってのそれと、現代人にとってのそれとでは大きな隔たりがあると言えます」とも記しています。(本郷和人著『恋愛の日本史』宝島社2023より)。
  つまりは、何時でも何処でも人々の理想は満腹すること、おなかいっぱい食べることがそのまま「幸せ!」だったということですね。

それはそれとして、食に対する思いの一面ではないかと思えるこんなマナーがありました。今は違ってきているかどうかわかりませんが、食を提供された時には韓国では残すことが礼儀でした。なぜなら、残すと言うことは「充分いただきました」「満腹しました」ということを現わしているからです。
  ですから、「残すと失礼かも・・・」と日本流に考えて多少無理しても完食してしまうと「まだ足りません」と言っているのと同じで、逆に礼儀から外れているというわけです。そればかりか450年前には、眉唾ではありますが街の食堂でも残したものを従業員があとで食べると言うのを聞いたことさえありました。
  日本では、小さいころから「残しちゃダメ」とか「残すと罰が当たる」とか、残さないようにきれいに食べるように言われてきたのではないでしょうか。その背景にはいろいろあるのでしょうけれど、ひっくるめればこれもまた欠乏時代の記憶からでしょう(私見です)。

  ただ会食とは限りませんが、テーブルに目一杯並べたおかずには圧倒されることがあります。種類と量が半端ではなく、見ただけでも完食は無理だとわかるくらいです。このような情報は韓国の食文化を語る本にはほとんど出ていると思います。ともかく、多い少ないをあまり気にせず韓国食を楽しんでほしいと思います。


○このテーマのまとめ
  韓国での食について、浅いままに感じたところを述べてきました。食について大いに関心のある方ともなれば、もっと膨大に話題も広がり、しかも奥深く分析されるのでしょうが、なかなかそうもいかないようです。
  ただ、それでも1年間韓国で暮らしてみて感じたことは、韓国における「食」への思いの強さのようなものでした。それは材料、味、量、関連する道具・食器、食事の機会、等々、バラエティの豊富さでもあり、また文化の奥行きでもあるようです。
  繰り返しになりますが、食文化というのは本来その土地々々にある固有のものですから、何をどう食べていようと大きなお世話には違いありません。でも、すぐ隣で「似ているようで違う、違っているようで似ている」国の文化を、生命を保つ食を通して見てみるのも視野を広げる一端となるかも知れません。

<韓国文化に触れて>
○帰国した時に感じたこと

  初めて韓国を訪問した1969年当時、観光ビザは15日間でしたので、2週間後に再び船で下関に帰ってきました。後半の日々、ペンパルのお宅ではお父さんだけが日本語を話せて、あとはシャワーのように浴びる韓国語とこちらのいくつかの韓国語(らしきもの)と片言の英語です。
  そうして2週間後、下関についた時なぜか「ホッ!」として肩の力が抜けたようでした。それはなぜかと言えば、「自分の考え(頭に浮かんだこと)をそのまま言葉に出せるところへ帰ってきた」ということでした。とにかく口に出す前に頭の中でしなければならない手探り作業(英語、そして文法も発音も聞き取りもおぼつかない韓国語)に疲れたのだと思います。

  それからほぼ18年後、今度は1年間滞在しました。もちろん韓国語は片言でしたが、なにしろ言葉の並びが日本語と同じなのが助かったこともあり、なんとか過ごすことができました。でも、1年後に成田に着いたときには、実はその時もやはり「ホッ!」としたことを覚えています。しかしその「ホッ!」の中身は初めてのときとは違っていました。
  たとえば、他国の空港に着いた時に、その国独特の匂いのようなものをかすかに感じることがないでしょうか。私も空港に着くたび、「韓国に来たんだなあ!」と一瞬ですが毎回そんなふうに感じました。もちろんすぐにそんな感覚はすぐに無くなってしまいますけれど。

  それまで何度も訪韓したり勉強したりして韓国文化には慣れているつもりでしたし、韓国人同士の会話も、細かいニュアンスは別として何を話しているかぐらいはだいたいわかります。もちろん私と話すときにはわかるように話してくれますし、なにしろ面倒見の良いことはピカイチですから、全体的にみれば生活する上で神経を使うことはほぼありませんでした。
  それでもやはり「ホッ!」としたのは、あえて理屈をつければ、「自分と同じような思考回路のところに帰ってきた」ということになるのでしょうか。なかなか適切な言葉が浮かばないのですが、意識に昇らず、それも膚では感じないほどの空気感、「やはりそれなりに気疲れしていたのか?」と表現するしかないようです。

  今日のように国際的な接触が頻繁な時代に異文化の中ですごすこと、それは対象社会のあり方や人それぞれのケース(目的、期間、本人の気質など)でかなり違うだろうと思います。なので、私の経験もその一つと言うことになりますが、みなさんの場合はいかがでしょうか?

○韓国とのかかわりをめぐるテーマのおわりに
  ここまでいろいろ述べてきましたが、心がけてきたのは、安易に一つのことを全体にあてはめるような「早まった一般化」は避けなくてはということです。極力そういうことがないように、またできるだけ裏付けを取りながらきたつもりですが、これまでの話も一つの実例であり私の印象と捉えていただければ幸いです。

  かつて冬季オリンピックが開かれた平昌の農業試験場を訪ねたとき、作物の世話をしていた若いアルバイトが私に向かって歩いてきて、いきなり「植民地にした35年間どう思うか?」と聞いてきました(もちろん案内してくれた方が私に謝りましたが)。また、先に話した釜山の先生と幌張馬車(ポジャンマチャ:韓国映画によく出てくるテントで囲った大型の屋台)で飲んで(昔のことです)いたら、そこにいた若い3人がその先生に「なぜ日本語で話すのか!」と絡んできたこともありました。
  私の経験の中で、そのようなネガティブな出来事はこの2度だけでした。
  実はそうしたことを意識するまでもなく、マスコミが時々報じるような日本を嫌悪する人々と、私が個々に知る人々とはまったく結びつきません。まったく普通に皆さんをとても懐かしく想い出されますし、韓国社会から感じた雰囲気も、自分とピッタリ重なるとは言えないまでも、かけがえのないものでした。個と社会の関係には単純に答えは出せそうもありませんが、これもまた現実のありようだと考えています。
  そんな経験からではありますが、極度の緊張感や無関心は埒外として、「ケンチャナヨ!」というのは個人的にはなかなか良い言葉だなあと感じます。弦も強めすぎず弛めすぎずです。これからも何事につけてもバランスのとれた「客観的視点」にできるだけ務めたいと思っています。
  これまで韓国文化に触れ、また個人的に韓国の人たちとお付き合いをした経験を元に、拙いながら多少勉強してきたことを加えて述べてきました。韓国とのお付き合いはとても長かったので、また気がついたことや思い出したことがあれば時に応じてお話しできればと思います。ご清覧ありがとうございました。(M.I.

 ちょっと紹介を!

平野啓一郎著『死刑について』岩波書店 2022

  著者は1975年生まれの小説家。芥川賞を始め数々の文学賞を受賞。また小説、エッセイ、対談集など多数。各国で翻訳紹介され、2020年からは芥川賞選考委員を務める。
  1997年の神戸連続児童殺傷事件のあと、TBSの報道番組のなかである高校生が「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いにスタジオの大人たちはうまく答えられなかった。その事実はけっこう知られているが、著者は小説家としてその問いに答えなくてはいけないのではないかと感じていたという。
  かつて著者は死刑はやむを得ない選択だと思っていたと言う。しかし今は死刑廃止を主張するようになった。なぜそのようになったのか、本書はその経緯と理由、そしてあるべき社会のあり方について考えを深め、整理した問いかけの書に見える。その結果、読者は自分の考え方がどのあたりにあるのかが浮かんでくるのではないだろうか。また、著者自らも「わからない」と率直に述べているところにも好感を持てた。
  著者は死刑に関わって様々な講演会やシンポジウム、対談などに臨んでいる。本書はそれらの記録をもとに加筆・再構成したもので、カバー裏には次のように記されている。
  「死刑廃止の国際的な趨勢に反し、死刑を存置し続ける日本。支持する声も依然、根強い。しかし、私たちは本当に被害者の複雑な悲しみに向き合っているだろうか。また、加害者への憎悪ばかりが煽られる社会は何かを失っていないだろうか。『生』と『死』をめぐり真摯に創作を続けてきた小説家が自身の体験を交え根源から問う」

本書の目次は次の通り。本稿ではその一部を取り上げただけなので、ぜひ直接読まれたら有益ではないかと思う。「章」が記されていないので「・」を付けた。
  ・死刑は必要だという心情
  ・「なぜ人を殺してはいけないのか」の問いに向き合って
  ・多面的で複雑な被害者の心に寄り添うとは―「ゆるし」と「憎しみ」と
  ・なぜ死刑が支持され続けるのか
  ・「憎しみ」の共同体から「優しさ」の共同体へ―死刑の廃止に向けて
  ・付録 死刑に関する世界的な趨勢と日本
    1)死刑廃止国と存置国
    22020年に死刑を執行した国と件数
    3)日本の死刑執行者数と確定者総数の推移
    4)死刑をめぐる日本の世論

  著者は死刑に反対するようになった理由についてこう述べる。
  1は、小説『決壊』を書くために多くの資料や取材を行った過程で警察の捜査の実態を知り強く批判的な思いを抱いたから。
  「警察の捜査のあり方に、強い不信感を抱くようになりました。それまで自分が多少ナイーヴに思い描いていたような捜査とは、およそかけ離れた実態があり、信じられないような冤罪事件が少なからず起きていることを知りました」(p.31

  第2は、死刑判決が出されるような重大犯罪の具体的な事例を調べると、少なからず加害者の生育環境が酷いケースがあるという。

  「そうした中で、犯してしまった行為に対して、徹底的に当人の『自己責任』を追及するだけでよいのかと疑問に感じたことも、死刑に反対するようになった理由です。はたして、どこまでを当人の『責任』として問えるのだろうか、と」(p.35
  そしてこうも言う。
  「僕は、加害者には、一切の責任はないとまでラディカルに思想を突き進めることはできません。人間の自由意思の全否定というのは、なかなか難しく、曖昧な言い方と思われるかもしれませんが、まったく環境だけに左右されているわけではないとも考えます」(p.37

3は、殺人は絶対的な禁止であって相対的な規範ではないと言うこと。
  「ところが、死刑制度というのは、人を殺すような酷いことをした人間は殺してもよい、仕方ないという例外規定を設けていることになります。事情があれば人を殺すことができるという相対的態度です。
  はたして、私たちは、そのように相対的に、ある事情のもとでは人を殺すことのできる社会にしてしまってよいのでしょうか。このような例外規定設けているかぎり、何らかの事情があれば人を殺しても仕方がないという思想は社会からなくならないでしょう」(p.40

さらに、第4とはことわっていないが、犯罪の抑止効果に対しても疑問を呈する。「死刑によって、その恐怖から心を入れ替えさせようとする発想は、本当に正しいのでしょうか?」と。(p.53
  
  また、「教育刑という考え方からは、死刑は、当然、正当化されません。教育の成果を、その生によって生かす可能性が断たれるのですから」とも言っている。(p.56

ここからは「なるほど」と思った個所(全てではない)をあげることにする。

*死刑の廃止と犯人を「ゆるす」こととは別なこと。
  著者が出会った犯罪被害者の中には、自身は死刑を望んでいないという方もいたという。「ところが、死刑を望んでいないと話すと、『身内が殺されたのに相手が憎くないのか』『愛する人が殺されたのに、死刑を望まないなんておかしい』と心無い言葉を投げかけられたという経験を語られていました。それによって二度傷つけられたとおっしやいます」(p.65
  「犯罪に巻き込まれた被害者が死刑を求めないからといって、犯人をゆるしたと考えるのは短絡的です。また逆に、犯人をゆるせないなら、死刑を求めて当然だと考えるのも同様です。いずれの場合も、被害者の側に勝手な思い込みを押し付けています。被害者に『ゆるし』までただちに期待するのは、過剰です」(p.58

*司法やその関係者への憤り。
  殺人事件の被害者の母親が犯人3人に対して死刑の求刑を強く望んでいるが、一方、「他方で、司法の世界への怒りを訴えています。彼女は、裁判官から『被害者が一人である本件では、死刑選択がやむを得ないといえるほど、悪質な要素があったとはいえない』と聞かされ、また、『被害者一人で死刑になった事件に比べると、この事件はそれほど酷い事件ではない』といった言葉を被告の弁護人からも聞かされて、深く傷ついています。このような経験は、私たちが『犯人憎し』という感情にだけ注目していては共有できないものです」。(p.65
  これら無神経な発言は不祥事や事件、事故の時にメディアに流される謝罪会見、言い訳の取材で頻繁に見ていると思う。

*著者がある番組に出演した際、ある憲法学者は「(死刑を)暴力と言うけれども、すべてのケースにおいて、死刑を科せられなければならない人がやったことは異常ですよ。人間の業ではないですよ」と言ったそうだ。
  「人間の業」ではないというのはつまり、「人間ではないと言っているのと同じです。これは比喩的な話ではなく、だから死刑によって殺すべきだという極めて具体的な話です。そして、他者から生命を奪われないという権利は誰にでも認められるべき基本的なものではなく、条件付きの相対的なものであるということを意味しています」
  「死刑の問題について心情的なレベルで考えることの大切さを否定するわけではありません。持続的な制度は、感情的に納得できるものである必要があるでしょう。しかし、あくまで、私たちの生存の権利は、誰からも侵されることがない、というのは大前提です。それは国家とて例外ではありません。人権は誰にでも認められているものであり、けっして相対的なものではありません」(p.89

  さらに本書では、死をもって償うと言ったようなかつての日本の文化的な残渣、あるいは日本の宗教観等についても述べている。
  いかがだろうか。さすが小説家の文章だと思う。繰り返すがぜひ考えの整理のためにも直接読まれたらどうだろうか。(文責:編集部)

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