2024年9月号 | Monthly sati! September 2024 |
今月の内容 |
『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。 |
~ 今月のダンマ写真 ~ |
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『ゆるしの航海』(後) 静華 |
(承前) そんな時に、母の日と私の誕生日がやってきました。日にちが近いため一緒にお祝いをする予定でしたので、私はお花とケーキを手に、家に帰ってきました。 それなのに母はおらず、父が暗い顔をして座ったのです。事情を聞くと、力を振り絞って鍋を握り、私が好きな筑前煮を作ってくれていましたが、些細なことで父と口論になってしまい、具材がゴロゴロ入った重いお鍋を投げ捨てて、薬も荷物も持たずに家を飛び出していったそうです。薬を飲んでも痛くて仕方がなく、歩くのもやっとな身体です。連絡も一切取れなくなり、どこで倒れてもおかしくない状態だったので、警察沙汰になりました。 翌日、無事に母が帰ってきました。私は仕事から帰り、ベッドに臥している母のもとに行くと、「もう誕生日、祝ってあげられないのに。ごめんね。ごめんね」と母は静かに泣いていました。「大丈夫だから、そんなこと言わないで」「もう無理なんだよ」。 母も、私も、父も、苦しかったです。 その翌週に入院となりましたが、その壮絶な1週間が母と家で過ごす最後の時間でした。 入院してから1ヶ月、病気になってから3年後の初夏、母は亡くなりました。 本当に、最後の誕生日になってしまいました。 母が苦しんでいる間、私も何もしなかったわけではありません。心も身体も小さくボロボロになっていく母に、私ができること。自分を救ってくれた瞑想を、母のために私が誘導をしながら一緒に行いましたが、ちょっと遅かったようでした。少しは足しになったかも知れませんが、もう少し早ければ。 病気一つしないほど元気だった人が、病に侵され、あっけなく、亡くなってしまう。 母は、自分を否定ばかりしていて、どれだけ私たちが励ましても、全て跳ね除けてしまう。どんどん自分で自分の首を絞めているようでした。 もし、母が病気になった自分も、変わってしまった姿も、それでいいと。うまく動けなくて、人の力を借りることも、それでいいんだと。受け入れることができていたら、もう少し早くその心の土台を育むことができていたら、もう少し家族ともうまくやれていて、幸せな時間が増えていたかもしれません。 いつ何が起きるかわからない、もしかしたら短い人生かもしれない。でも、その生きる時間を少しでも笑顔で、幸せで生きるには、どんな自分でも、それでいいんだと、受け入れる自己受容がとても大事だと、あらためて感じました。 それは、当事者も、支える家族も同じです。それぞれに自分を受容できるからこそ、お互いを受容して前に進むことができます。 母のように、自分を苦しめながら亡くなる人を減らしたい。そして、支える側も一緒に幸せであってほしい。私がそうしていたように、もう少し心の扱い方を分かっていたら。でも、私のやっていた瞑想だとその自己受容の要素が足りない、まだ力不足であることを痛感していました。 再びかつてのように、貪るようにその方法を探し始めて行き着いた先が、やはり瞑想です。今度はイメージ瞑想ではなく、マインドフルネス瞑想でした。当てのない航海の先に見つけた宝箱のようでした。 マインドフルネス瞑想に出会って、ただ何かを信じるのではない、嫌なものを無理やり消したり蓋をしたりするものではない、ありのままに事実を受け入れるとても逞しいものだと知り、自分ではどうにもならないものをゆるす、委ねる感覚が生まれてきました。 イメージ瞑想ではわからなかった、自分の全てと周りで起こる出来事や全てをそのままにゆるしてあげられる感覚を知ることができました。 そのまま魅了され、勉強を続けていく中で素敵な出会いが重なり、地橋先生の存在を知りました。マインドフルネス瞑想の源流であるヴィパッサナー瞑想と原始仏教の智慧に触れることで、より私の人生のテーマである限られた人生を楽しく生きる人でいっぱいにしたい。それは小手先にポジティブなものを見続けていくものとしてではなく、ネガティブなもの・苦しみも人生のとても大切なエッセンスとしてきちんと認めていく、それすらも楽しめる心を育みたい、自分の心の奥底にある考えととても共鳴しました。 ただ座ることが瞑想ではなく、生活全てがかけがえの無い自分の糧となる経験になります。起きた事実自体に意味はなく、意味づけをしている自分に気づくこと。全ての行動や気持ちにサティをとにかく入れ続けると、何にも揺らがない、どっしりと「見る側」の自分が生まれてきます。見る側に回ると、視野が広がりました。時間的にも空間的にも、広がりが生まれる。長い歴史の中のこの1秒を生きている自分、地球全体のこの1平方メートルのなかに生きている自分、その中で湧き上がる心の動きや思考は、どんなものだとしてもなんて可愛らしいものなんでしょうか。そんな広い世界にいる人は、みんな置かれている場所や経験してきたこと、持っているものが違う。でも同じように体を持っていて、喜びや悲しみを感じていて、一人では生きていけないという点で、みんな同じ。一人一人の尊厳を認め、自分も人も大切に生きるために、ヴィパッサナー瞑想と原始仏教の厳しくも優しい学びは、私の大きな助けとなっています。 地橋先生との出会いを頂いてからまだ1年も経っておりませんが、学びと実践のタッグで、かつて誰かに任せていた舵を自分の手に取り戻して、でも無理にハンドルを切るのではなく、海の波に揺られ委ねながら、私の時間を生きられている実感がどんどんと強くなってきています。そして、不思議とその波も平穏になってきています。カヌーのような素朴な舟に変わりはないですが、いつの間にか、それを取り繕うような外装は剥がれ落ちていたようです。自分の不器用さ、わがままなところ、覆い隠したくなるような心の動き。全部が愛おしいです。 果たして、今後瞑想を続けていくなかで、病や他の予期せぬ出来事に出会ったとして、ブレずにいられるかはわかりません。 心が折れる前の自分や病気になる前の母が瞑想を知っていたら、救われていたかどうかはわかりません。でも、こうして短いながらも続けている中で、きっと大丈夫だろうと思える心の土台ができてきていることが、何よりの証拠だと思っています。 まだまだ未熟で自己統制とは程遠いところにいますが、これまでの全ての経験を糧に、相も変わらず不器用な自分と共にどっしりと、わたしの生きる目的を果たす航海を進めていきたいと思います。一緒に学び、舟をこぐ仲間がいることが何よりも大きな支えです。 どうかこの瞑想がたくさんの方に届きますように。 瞑想ではなかったとしても、自分と世界をゆるして生きる心と平和が広がっていきますように。 生きとし生けるものが、幸せでありますように。 みんながみんなの幸せを、願えますように。(完) |
今月号より「月刊サティ!」2005年1月~2005年5月号に掲載されましたタイの名僧アチャン・チャー法話を5回にわたり再掲載いたします。今月号はその1回で「はじめに」と簡潔な伝記です。次号から「私たちの真の家」(本文)を掲載する予定です。 |
NHK取材班 杉本宙矢・木村隆太著『日本一長く長く服役した男』 (イーストプレス 2023) |
2019年秋に61年間服役していた83歳の無期懲役刑の受刑者(本書ではA)が仮釈放された。本書は無期懲役とは何か、更生とは何か、そして刑務所とは何かをめぐって熊本放送局の記者たちが立ち上げた放送プランの取材過程で、彼らが新たな事情に気づいていく姿を綴ったもの。それらは「はじめに」で端的に語られる。
本書は9章からなる。なお、著者の二人は交互に章を担当しているが、本稿ではいずれも「著者」とする。 2018年、NHK熊本放送局に配属された著者の一人は、主に事件や事故、裁判などを担当することになった。その取材を通して次第に「加害者はなぜ事件を起こさねばならなかったのか。判決確定後に、加害者は刑務所の中でどのように過ごし、更生していくのか」という疑問が湧き、2018年11月熊本刑務所の取材を始める。熊本刑務所は刑期が10年以上、再犯者や暴力団員である受刑者が収容されているところだ。 「受刑者は、罪と向き合うために刑務所にいる」と素朴に考えていた著者は、まずそこで見た数年前から認知症と診断されている無期懲役の80歳ほどに見える受刑者の衝撃的な姿にショックを受ける。 「高齢化に伴い認知機能が衰えた受刑者は、日常生活はおろか、言葉のキャッチボールさえできていないのが現実のようだ。罪に向き合う以前に、自らの罪をきちんと認識できているのか怪しく思えてくる。 早朝から後頭部を殴られたような衝撃を受けた私は、自らの考えがあまりにも単純だったと思い知らされた」と言う。 その一方、40~50代ぐらいの比較的若い受刑者は対照的で、運動時間には刑務所内の屋外運動場でキャッチボールをしたり懸垂をしたりしている。 「なかでも走り込みをしている受刑者たちには驚かされた。走るペースも速く、黙々と運動場を周回している」。そして「運動を終えた無期懲役囚の引き締まった体に流れる汗を見ていると、社会への、そして生きることへの執念が感じられる。もちろん、彼らが生きて社会に出られる確証はどこにもない。まるで、ゴールのないマラソンでも見ているかのような気分になった」。 この取材は2019年6月には熊本の地域ニュースで「福祉施設化する刑務所」として放送される。 その年の秋に仮釈放されたA、83歳の男は推計だが22,325日ぶりの塀の外だ。彼の様子は約1年後の2020年9月11日の夜、『日本一長く服役した男』として熊本県域で放送、5ヵ月の再編集期間を経て2021年2月21日に再び放送される。 Aは一体なぜ、「これほど長く服役したのか。どんな罪を犯し、塀の中で何を思ってきたのか。これからの余生をいかに過ごすのか。そして無期懲役とは何なのか」。Aへの密着取材を続けるうち、「次第に『罪と罰』の概念、『懲役』という刑罰の本質、それに『更生』の意味を考えざるを得なくなって」いく。 著者はなぜ本書を執筆することになったのか。それは、放送は取材&編集の100分の1ほどでしかないのに対して、「取材活動のリアルな一面を物語ることができれば、結果として私たちが目撃した現場を、そして問題提起したかった内実を、より深く理解してもらえるのではないか」と考えたからだった。 本稿ではそのうち数点だけを取り上げる。 まず著者が刑務所で目にした感想。 それは「罪と向き合いながら、再犯せずに社会で生きていく」という「更生」の意味の非現実感だった。「高齢受刑者の中には『更生』どころか、罪を認識しているかも危うい者がいる」し、「少なからず福祉施設の機能も果たして」いたことから、「どうやら私はあまりにも『更生した/していない』という二分化した考えに囚われすぎていたのかもしれない」と言う。 片山さんという元無期懲役で仮釈放された人がいる。裁判から服役まで42年あまりを経ての仮釈放、著者は片山さんに30年以上刑務所で暮らすとどんな感覚になるのかを尋ねる。 彼によると無期懲役囚の受刑態度は大きく3つに分かれるという。 「ひとつには、更生なんてどこ吹く風で、自分の我を通して、刑務官や周囲にも反発している人がいます。またそれとは反対に、出所できるかどうかは別にして、被害者の冥福を祈りながら、忍耐強く真面目に取り組んでいる人もいます。そしてあとひとつは、あまりにも長い受刑生活の中でただ漠然と生きている、いわばマンネリ化している人ですね。人間、弱いですから、『もういいや』とかなってしまうんです。加えて、刑務所の中は規則も人間関係も独自の閉鎖的な〝社会″なので、自分を保つことは難しいですね」 では、無期懲役刑と仮釈放との関係はどうか。 1980年前後を調べてみると、無期であってもおよそ15年前後で仮釈放されるケースが目立つという。当時は、少なくとも無期懲役囚の9割以上は20年以内に仮釈放が認められていたらしい。 現在でも「無期懲役は15年か、20年ぐらいで出られる」とまことしやかにささやかれているのは、「この頃の印象が強いのかも知れない」と言う。 その後、昭和の終わりから平成の初めにかけて、仮釈放中だった無期の受刑者が殺傷事件を起こしたり、地下鉄サリン事件の影響から厳罰化の流れが生じる。また、2004年の刑法改正により有期刑の上限は最長30年に引き上げられ、それに伴って無期懲役囚の仮釈放までの平均服役期間も長期化する。そうすると、「2003年以降は、20年以下で仮釈放を許される無期懲役囚はおらず、期間は30年を超えるように」なっていった。 また、無期懲役と終身刑はどう違うのか。 再現番組で見るアメリカの事件では、よく「仮釈放無しの終身刑」という判決が出てくる。それは凶悪犯罪者を社会から隔離するため生涯刑務所に閉じ込めておくこと。 日本でも2008年から翌年にかけて「終身刑」を導入しようとする動きがあった。そのとき現場の刑務官の職務という観点から法案を再考するよう求めたのが桐蔭横浜大学の河合幹雄教授だ。その主旨は、「刑務所は自由を制限する場所でありながら、そこに社会復帰につなげる機能を持たせることで、秩序が保たれている前提がある。もし、その前提が崩れるようなことがあれば、刑務所がもたらしている社会的な秩序そのものが、崩れるおそれがある」というものだった。 結局、終身刑を創設する法案は成立せず、回避された。 では、法務省と刑務官という現場の人たちはどう考えていたのだろうか。河合教授は言う。 「『法務省の役人たちも、さすがに終身刑が導入されれば、現場が維持できないという懸念を持っているようでした。日本の刑務官というのは受刑者の規律違反にはものすごく厳しい一方、受刑者側に立って話を聞いて世話をするという伝統があります。そこで、仮釈放がなくなると、刑務官にも受刑者にも目標がなくなってしまうということですね。実際、終身刑を導入した諸外国の対応を調査してみると、ものすごく苦労している様子がうかがえました』 このように仮釈放は、無期懲役囚を統率する上で有効な手段であるようだ。それは無期懲役囚に先の見通しを持たせるだけでなく、刑務官自身の職務の根幹にもかかわるようである」と。 この「先の見通し」というのは「社会復帰」ということで、それは「現場の刑務官にとって、自らのモチベーションを維持するものであると同時に、刑務所内の秩序を維持する理念でもあった」。 で、著者は「社会復帰」の考え方がどのように刑罰システムの中に組み込まれたのだろうかを知ろうとする。そうすると、「ふとある記事が目にとまった。そのタイトルは『熊本藩に懲役刑のルーツがあった』というものだった」という。(※記事の出所は本書では不明) 「日本の『懲役』という刑罰制度の根底には、実は西欧由来ではない『社会復帰の思想的潮流があって、しかもその源流は熊本にあったというのだ。(略) 懲役刑の源流は熊本藩の刑罰制度にあります。日本の更生保護事業は熊本から始まった、といっても過言ではありません』 こう話すのは、日本法制史を研究し、江戸時代の刑罰制度に詳しい國學院大学の高塩博名誉教授だ。高塩名誉教授によると、『社会復帰』の思想に基づき、犯罪者を施設に拘禁して強制労働を課す『徒刑』制度を江戸時代にいち早く導入したのは、熊本藩だったという」。 ○以下は情報開示に関わる幾多のハードルとその乗り越え方について →論語にある「民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず」という言葉は、本来は「人民を為政者の施政に従わせることはできるが、その道理を理解させることはむずかしい」という意味だそう。(ですが私の場合)これまでは「民は従わせればよく、教える必要は無い」という傲慢なものと捉えていた。(これも100%誤りかどうか。検索すると「転じて」ともあるので・・・) ともかく自覚のないまま、いまだに「お上意識」を抱えていたり、あるいは仕事を増やしたくなかったりということがあるのかも知れない。 当然ながら、なにごとも裏取りが重要なことを著者は十分に承知している。そこで、Aさんの起こした事件をさらに知るため、NHKの解説委員清永聡さんに相談し、調査報道の手法の一つとして裁判記録を活用することを教わる。 清永さんによると活用可能な根拠は次の法律にあるという。 ・刑事訴訟法第53条:「何人も、被告事件の終結後、訴訟記録を閲覧することができる」 ・刑事確定訴訟記録法第4条:「保管検察官は、請求があつたときは、保管記録を(中略(ママ))閲覧させなければならない」 清永さんはこう指摘した。 「検察庁の記録係は人手不足もあり、当事者ではない第三者による閲覧の申請を窓口で諦めさせようとします。これは“水際作戦”です」 申請のポイントはこうだ。 ・アポイントは不要 ・なんと言われようが、窓口でとにかく申請書を出すこと ・その際、検察に有利になるような揺さぶりに安易に乗らないこと ・出しさえすれば、法律の手続き上、検察はなんらかの対応をせざるを得なくなる しかし、いくらなんでも60年以上前の事件の記録は保管されていないのではないのかとの疑念はあったが、法律の原文を読むと明確に規定があった。それには「有期の懲役又は禁鋼に処する確定裁判の裁判書『五十年』、死刑又は無期の懲役若しくは禁鋼に処する確定裁判の裁判書『百年』」と。「それなら、まだいける!」 翌朝、著者たちはアポなしで岡山地方検察庁へ向かう。検察庁での丁々発止のやりとりは臨場感たっぷりだが、ここでは一部だけを。 「『要件はなんでしょうか?』 『はい、ある昔の事件について調べていまして。今日は刑事確定訴訟記録法に基づく刑事裁判の記録の申請に来ました』 『事件というのは、いつのものでしょうか?』 『実は、無期懲役の事件で、もう60年以上も前なんですが』 ここで女性の職員が口を挟む。 『無期懲役の保管記録は50年間ですよ』 これは揺さぶり? 清永さんが話していた、噂の〝水際作戦″か。事前に調べてあった情報で、反論する。 『いえ、無期懲役の記録の保管期間は100年のはずです。法律の文面にそうありますよね』 『あれ、そうでしたっけ?』 こちらが間髪を入れずに言葉を返すと、落ち着きを払っていた女性職員がやや動揺して見えた。 (略) 『ちょっと調べましたが、記録はないかもしれないです』 男性職員が言い放った。再び揺さぶりか。不安がよぎる。だが、ここで押し負けてはいけない。『法律の保管期間が経過する前に、公文書である記録を破棄していたら、問題じゃないか!』と思ったが、ここではグッと堪えて、筋論で行くことにした。 (略) 閲覧することができる内容は2つ。『1.被告事件についての訴訟の記録』と『2.被告事件についての裁判書』だ。閲覧する内容に○をつけようとしていると、再び男性職員が声をかけてくる。 『判決文だけでしたら、2だけでいいですよ。1もいりますか?』 ここは重要なポイントである。判決文を含む2の『裁判書』だけでなく、論告や証人尋問、被告人質問などの記録も含む、1の『訴訟の記録』が残されているのかどうか。それらを見れば、警察や検察が当時この事件に対して、どのような見立てをしていたのかがわかる。保管されていないケースも考えられるが、もし、ないならないでその事実が重要である。ここで請求をしなければ、保管されているかどうかすら、わからなくなってしまう。 『はい、1もいります』 毅然とした態度で臨まねばと即答し、こちらの意思をはっきりと伝えた。 (略) なんとか無事に提出を終えられた。実際、手続きはなかなかの手間だと感じた。だから、わざわざ申請しようとする人は弁護士などに限られるのだろう。職員も「報道の方の申請なんて珍しいですよ』と話していた」(p.101~p.109) その後もいくつかのやりとりがあったが、結果、無事に手にすることが出来たという。 ○元に戻る。 仮釈放から1年と5日後、Aさんは亡くなった。 番組を進めた当初の問いは、「61年も服役した人物はどんな大罪を犯し、どのような境地に達しているのか」、そして「罪の意識はどうなっているのか」という素朴なものだったという。 しかし、次第に問いかけの意味もわからなくなり、Aさんの言葉からは罪の意識を見出すことはできず、かといって否定しきることもできない状態になる。「被害者の命日に手を合わせて寺で祈るAさんの姿は、形の上では『反省』の態度を示し、『贖罪』に尽くす人のそれだった」が、「その直後に彼に問いかけても、私たちが期待する『反省』と『贖罪』の言葉は出て」こなかった。 |
第18回:食の周辺(後) & 韓国文化に触れて |
第2回で学生時代に1年間カリフォルニア州で米作りの実習をしたことをお話ししました。そこはColusa郡の中でも有数の大農場で仕事は多岐にわたり、通年雇用が十数人、収穫期などには二十人を越える人々が働いていてそのための食堂もあります。住み込みのコックさん夫妻もいます。 |
平野啓一郎著『死刑について』岩波書店 2022
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