月刊サティ!


  2024年8月号     Monthly sati! August    2024

 今月の内容
 
  巻頭ダンマトーク:今月は休載いたします
   ダンマ写真
 
Web会だより ー私の瞑想体験- :『ゆるしの航海』(前)
  ダンマの言葉:『四聖諦』・・・五
  今日のひと言:選
   読んでみました:“タモリ・たけし・さんま”の仏教的言葉
  文化を散歩してみよう:食の周辺(前)
   ちょっと紹介を!:『命の嘆願書』
  
『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、
広く、客観的視点の涵養を目指しています。
 
   

 今月のダンマ写真 ~
   
         モザイク聖堂     
         先生提供

 Web会だより ―私の瞑想体験―
            『ゆるしの航海』(前) 静華
  通知表はほとんど5、稀に4
  児童会長をやったりしちゃう。
  友達も不自由しない程度にいてくれる。

  勉強もそこそこにできて、有名な大学に入る。
  名の通った企業に勤める。

  私のこれまでの人生を振り返ると、大船に乗って順風満帆な人生を送っているように見えるかもしれません。しかしその実態は、形ばかり取り繕った外装で、中にはゆらゆらカヌーで人力で漕いでいる不安定な生身の舵取りがいました。

  みんなが幸せにしてくれていたらいい。それをただ見ているのが好きです。大人しくしている人たちから、感情を全部出してはしゃいでいる人たちまで。
  それなのに、本当は「勝手に好きなようにしていたい」というわがままな自分がいることを知っていました。それを出すとみんなハッピーでいられないかもしれない。それが怖かったのです。
  例えば、悪口が嫌い・噂話や流行りのテレビの話が苦手だったので、周りの友人がちょっと嫌な先生の話や最近盛り上がっているドラマの話をしているなかで、「そんなことより...」と自分の話をするのは、既に繰り広げられているみんなの楽しい時間を奪ってしまいます。

  だからこそ自分に自信がもてず、自分が積極的に関わるとその幸せを壊してしまうかもしれないから、距離をとり、一匹狼になり、人が好きなのに人が苦手という不器用な自分に、酷く悩まされてきました。
  自分がやることをある程度ちゃんとやって、体裁や笑顔を整えておけさえすれば、誰も悲しみません。余計な心配もかけません。完璧な自分の出来上がりです。

  テストは100点じゃないと褒められない、習い事や学校を休んではいけない。
  仲良くしていたお友達からの急な「本当に自分勝手だよね」という怒りの乗った言葉と別れ。
  昨日まで一緒にお昼を食べていたグループが突然いなくなり、孤立。
  言葉と力の暴力をふるうパートナー。

  その綺麗な外装は、教育熱心な母の教えと、順風満帆”風”な学生時代の中に起きた出来事によってどんどん強固に塗り固められていきました。

  自分が素直に動くと、誰かが傷つく。
  どうしたら周りが傷つかないか?求められている役回りはなんなのか?人の目を気にして、私の船の舵は見えない誰かがいつも取っていました。というより、見えない誰かに委ねた方が、自分がもっと傷つかないで済むから、そうさせていたんだと思います。

見かけだけは豪華客船のまま、社会人も4年目になった頃、そんな脆い自己像のバランスを壊してくれた出来事が立て続けに起りました。
  その時はもちろん知る由もありませんが、これが私の人生を大きく変えてくれる、瞑想と出会う入り口でした。そして、当時は壊してくれたなんてもちろん思っていません。辛くて仕方なかったですから。瞑想に出会って変わることができた今だから、そう言えるようになっています。
 ・・・
  「最近、気をつけてたんだけど太っちゃったんだよね。触ってみてよ、このお腹」
  母にそう言われ手を触れてみると、明らかに、「太ったお腹」ではありませんでした。
  パンパンに皮まで張った、私の知らないお腹。得体の知れない感覚に、わずかに戦慄が走ったのを覚えています。
  「これ、太ってるお腹じゃない。怖いから、早く病院行って」
  母は、ステージ4の腹膜がんを患っていました。これまで病気一つしたことのない母の突然の闘病生活が始まりました。

その最中、私の心が折れる出来事が起きます。代表を務める社会人サークルである出来事が起きてメンバーの1人を辞めさせるという、私にとってはこの上ない苦渋の決断をしなければいけなくなりました。大好きなメンバーでした。「みんな一人一人が幸せでいてくれればいい」という気持ちがベースにある中で、自分から苦しみを与えなければならなかったことをきっかけに、これまで責任感で繋ぎ止めていた自分の心を保つ糸がプツンと切れた音がしました。チーム運営で悩んでいたり、多忙な仕事で心身疲弊していたところに、トドメを刺された形となりました。
  それ以来、酷い自己嫌悪に苛まれ、対人恐怖症になり、睡眠障害などで苦しめられました。「ごめんなさい」が口癖で、寝床から起き上がれないことがあったり、人と目を合わせるのが怖かったです。
  とはいえ、母が頑張っていますから心配はかけられません。
  どうにかして自分を救えないかと、貪るように自分の心のケアに走り始めます。心理学や脳科学などを自己流に学びながら、ここで初めて瞑想に出会います。

  その時出会った瞑想は、イメージ瞑想でした。それは、なりたい理想になっている自分を想像し、暗示をかけるように自分に肯定的な言葉を繰り返し投げかけて叶えていこうとする、アファメーションに近いものです。ある程度、効果がありました。頭の中の妄想から解放されて、どっしりと安心感と安定感を持ちながら、自分軸で生きていく。自己嫌悪の声もおさまり、人の目を見て落ち着いて話せるようになりました。悪夢も見なくなりました。ただ、その瞑想は自分の嫌な出来事や思い出、嫌な感覚を消すイメージをするもので、そういったネガティブな感覚にダメ出しをされているようで、自分の全てをゆるして上げられない、どこか空虚でまだ苦しい感覚が残り、いつしか遠のいていきました。

  立ち直る自分とは裏腹に、母の病状は悪化していきます。もともと気丈な母は、すぐに治してまた普通の日常を送る、仕事に戻ることを目標に明るく必死に闘っていましたが、治りかけたところでの2度の再発、腸穿孔、脳転移、リンパ浮腫、蜂窩織炎、交通事故など、ことごとく母の前向きな気持ちを無情にもへし折り続ける出来事ばかり起きました。
  次第に、母と家族との関係も悪化していきました。助けたい父と私は、わからないながらに手を差し伸べますが、「病人扱いしないで、自分でやりたい」と、その思いを尊重して見守ろうとすると「なんで手伝ってくれないんだ」と言われたり、支える側の、分かってあげられない中なんとかしてあげたい気持ちと、母の頼りたくないけど頼らざるを得ない無力感、自分でできることがどんどん減っていく辛さが噛み合わなくなります。それぞれの気持ちがすれ違っていて、家庭崩壊です。
  母は毎日鏡を見ては、病気になって変わってしまった自分の姿に涙をしたり、怒りをぶつけてきたり、自分を受け入れることができなくなっていきました。(つづく)


              菖蒲園の朝 
       Y.U.さんより
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『月刊サティ!』
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ダンマの言葉

                    『四聖諦』・・・五

  20051月号から連載されました比丘ボーディによる法話『四聖諦』を再掲載しています。今月はその第5回目です。

四聖諦(五)
7)正念
  正念(正しい気づき)をもって生きることは、幸福と精神的成長にとっての基礎です。それは大いなる祝福であり、最も大きな力によって護られることです。人間は概してある程度の気づきは持っているものです。しかしそれは多分に散漫なものなので、正確には正念と呼べません。
  正念は、簡単に得られるというわけにはいきません。良いものは簡単には手に入らないのです。正念を発達させ身に着けるには、大きな努力と決意と自己献身を必要とします。正念とは「今の瞬間に心を留めておく」ことです。これは何かの仕事をしている時に、その行為に完全に気づき、マインドフル(註)であることを意味します。
  例えば歯を磨く時は磨いていることに注意を払い、その過程を見守り、考えごとが入り込んでくるのを許しません。食べる時は静かに気づきながら食べます。食事中におしゃべりすれば、それは気づきが抜けているということです。
  この二つの単純な例を取って見ても、正念をもって生きることは、そんなに簡単ではないと分かります。同時に二つや三つのことを行うのは良い技量とは言えず、不器用なことです。一度に一つのことを行うのが本当の技量であり本当の達成です。
  正念を発達させるには、決意が必要です。単純な訓練をこつこつと実践していくと、次第に進歩していきます。特に、内面的なものに気づいていることが必要です。ほとんどの人は外面的なものに注意を向けますが、幸福を得たければ心の内側を見るべきです。

  内面的なものとは、次のものを意味します。
 (1)身体に気づく(身)
 (2)感覚に気づく(受)
 (3)心の状態に気づく(心)
 (4)心の内容に気づく(法)

  これらは、気づきにおける四つの基礎です。気づきながら生きる人が頼りとする四つの領域です。これらの能力を入念に発達させ続けると、自分を護る大きな力の源となります。
  正念を十分に発達させると、人は何をすべきかすべきでないか、あるいは、話すべきか話すべきでないかを知るようになります。話す時は、何を話し何を話すべきでないかが分かってきます。正念は、知識と智慧と満足を得て最上の幸福へと向かわせます。それは八正道を成長させるための基礎です。

8)正定
  正精進と正念という要素は、八正道の八番目にある正定(正しい集中)の成長を目的としています。正定は、心を一つの対象に向け、心を統一することと定義されます。集中力を高めるためには、普通一つの対象物から始め、心が他のものに揺れ動くことがないようその対象物にしっかりとつなぎ止める訓練をします。
  正精進によって心を対象物に集中し続け、正念によって集中の障害となるものに気づきます。そして障害を除去することに努め、集中力が強くなるのを助けます。繰り返しの訓練により、心は次第に静かに穏やかになります。さらに訓練を重ねることにより、禅定と呼ばれる深い専心状態に至ります。

静止した心 ―智慧の入り口
  心が静止して落ち着いている時、洞察力が発達します。正定が成長し心が洞察のための強力な道具を得ると、静止した心の中に、気づきの四つの基礎である身体と感覚、心の状態と心の対象が熟視されます。

  心が身体と、心に起こっている過程の流れを調べていくにつれ、瞬間瞬間の流れに同調していきます。そして少しずつ段階的に洞察が生まれます。洞察は、発達して成熟し、深まって智慧へと変容します。それは、解脱をもたらす智慧、四聖諦を洞察する智慧です。
  発達の最高点にあっては、四聖諦を直接に即時に経験することになります。それは、煩悩の消滅、心の浄化、束縛からの心の解放をもたらします。
  その名が示すように、聖なる八正道は八つの要素により構成されています。八つの要素は、順に連続して行う必要はありません。それらは同時に働く八つの要素から構成されています。それぞれの要素は独自の働きにより、その独特の方法をもって苦の終焉を達成することに貢献しています。

※訳注:マインドフル(mindful)はパーリ語、「サティ(sati)」の英訳です。一般的には「気づき」と訳されますが、次の三つの意味を含んでいます。
 1)気づき
 2)注意深さ
 3)熱心さ
  これらすべてを一つで表せる訳語が見当たらないので、「マインドフル」のままにしておきます。
  比丘ボーディ『四聖諦』を参考にまとめました。(完)(文責:編集部)

       

 今日のひと言:選

(1)我執が深くエゴが強い人の中でも、自分を嫌悪し怒りを持っているタイプの方は慈悲の瞑想がノラない、 上手くいかない、苦手だ・・ということが多い。
  対策は、怒りとエゴを引き算することだ。
  他人を利する利他行や善行を課題にするとよい。
  エゴ感覚を弱め、他人を思いやる練習・・・。

(2)反射的な衝動に従ってしまえば・・、浮かんだことをそのまま言ってしまえば・・、人は必ず愚かなことをしてしまう。
  人格完成者でもなければ、悟りを開いたわけでもない凡夫が、自分のされてきたことを無意識に再現しながら子育てをしているのだ。
  よく気をつけておれ、とブッダは言う。

(3)堂々めぐりになった思考回路では、何も書けず、途方に暮れるばかりだ。
  歩く瞑想をすると、思考が止まり、頭の中を空っぽにできる。
  余計な回路が閉じられれば、脳内の全データが使用可能の状態になる。
  すると、意識下の必然性が必ず一瞬の閃きをうながしてくれる。
  歩けば、智慧が出る・・・。

(4)歩くことは、極めて高度な脳の働きによって支えられている。
  ギリシアの賢者達が歩きながら哲学していたのも、脳科学的に理に叶っていたようだ。
  私も、原稿の筆が渋り、アイデアに行き詰まると、歩く瞑想をしながら近辺での所用を果たすことにしている。
  ほぼ確実に閃きが得られている。

(5)この世の煩悩の対象であろうと、彼岸の超越的な対象であろうと、求めている執着の手を離さない限り、苦しみが生まれてくる。
 執念で得たものも無残に壊滅していくのが業の世界だ。
 ゲットしても、永遠の不満足性がくすぶる。
 限りなく手放して、究極の引き算の果てに拡がる安息と静寂・・。

(6)人生に迷い、道を求めて東に西に遍歴しなければならなかった。
  カルマが悪かったのだろうか。
  その結果、デタラメな情報やネガティブな経験を重ね、膨大にデータ化されていった。
  それは、瞑想ができない人を教える上での宝物になった。
  カルマが良かったのか、悪かったのか・・・。

(7)因果関係がしっかりしていれば、どんなことでもあり得るのが業の世界だ。
  成功の瞬間がある。
  失敗の瞬間がある。
  ただその状態が一瞬あっただけなのに、心の中に焼き付いた「静止画」が苦の元凶となる。
  事実を握り締めることはできない・・・。

     

   読んでみました
             “タモリ・たけし・さんま”の仏教的立場
                                
※文献は末尾に

「あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい意味の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事にひとことで言い表しています。『これでいいのだ』と」
   これは、タモリによる赤塚不二夫への弔辞。当日、タモリは師匠から学んだ人生観をこのように(白紙の紙を見ながら)語った。さて、後日、タモリは加えて次のように語る。
   「その時点、その時点で時間が生きていなきゃいけないんですね。その時点で時間が生きるということは、その前と後ろが切れていなきゃ絶対生きてこないわけですね。未来とか過去とかあって、その連鎖の中に時間があったんじゃ、その瞬間瞬間の時間は絶対に生きてこない」

   ここには過去や未来への楽観も悲観もない、それゆえ妄想に縛られることもないだろう。まさに、ヴィパサナー的ではないだろうか。今を「これでいいのだ」と、潔く受け入る。

『見られたことは見られただけのものであると知り、聞かれたことは聞かれただけのものであると知り、考えられたことは考えられただけのものであると知り、また識別されたことは識別されただけのものであると知ったならば、苦しみが終滅すると説かれる』(『感興のことば』P242

   タモリのなんと自由なことか。

   交通事故に遭ったビートたけし。
   「あの事故でわかったことは、運命なんてものは、自分でどうにか動かせるものじゃないということ。どんな運命が待っていようと、それをそのまま受け入れるしかないもの」
   この了解のもとで、たけしは次のように語る。
   「与えられた時代と場所で最善を尽くせ」
   「当たり前だけど、人間が生きているのは今でしかない。過去のことはどうしようもないし、未来のことを考えたって確実に自分の希望通りになるなんて誰にも言えない。今のこの瞬間をわかりもしない未来の夢に使ったってどうしようもない」
   とはいうものの、世間は、夢だ、成功だ、と邁進する。しかしながら「どんなに金持ちになって高いワインを飲んだとしても、喉が渇いた時に飲む一杯の冷たい水のほうがうまいし、どんな高級レストランの料理でも、母ちゃんが握ってくれた飯に勝るものはない」。膨大な収入を得た果てに、たどり着いたビートたけしの思いだけに説得力がある。

   『もしも、一切の安楽を受けようと欲するならば、一切の愛欲を捨てねばならぬ。一切の愛欲を捨てた人は、実り窮まり無い楽しみを受けて、栄えるだろう』(『感興のことば』P168)

   たけしは「いつも人生で今が最高の時期だと思っている。老いるのがちっとも苦にならない」「人は生まれて、生きて、死ぬ、これだけでたいしたもんだよ」と。なんと泰然たることか。

   「満点は星空だけで十分や」という明石家さんまも、今に生きる。
   「常にその日がベストシーンや。生きていて今日という日が頂点。昨日はもうベストじゃない。昨日の経験を踏まえて今日、だから、毎日、ベストシーンは塗り替えられている。今日がベスト。明石家さんまのベストシーンは今日、今!」
   「人間なんて、今日できたこと、やったことがすべてやねん」
   「楽しいとか辛いとか分けたり、不幸とか幸せを決めるからオカシなんねん。人生いつでも今がすべてなんや」
   苦受楽受に囚われることなく、今、この瞬間瞬間に全力を注ぐさんま。スランプに落ち込んだことがないという。「振り返るのはイヤ、もの凄い嫌い」

   スマナサーラ長老「私たちはいつでも、『明るい明日がある』と自己暗示をかけて生きています。そうやって死ぬまで暗いみじめな人生を過ごすのです。明るいのはいつでも『明日』ですからね」
   「お釈迦様は『そんなもの放っておけ』と仰るのです。この瞬間瞬間で充実していればいいのです」
   「瞬間瞬間、選択肢などないのだ、と思って生きれば、充実感を味わって、いつでも穏やかに生きられるのです」


   人間のすることで、他の動物にできないことが二つあると思う。祈ること、笑うこと。
   ブッダの像は、祈る人に微笑を向けている。

   「優しさを持った人は、それ以上の悲しみを持っている」とさんまは言う。彼の生い立ち。母が3歳時に病死、その後の継母とうまくいかず、ただし、その連れ子(さんまより年下)とは、生まれながらの兄弟のようによく遊んだという。しかしながら、愛情を注いだこの「弟」、19才で焼死(自死ではないかともあり)。

   夏目漱石「呑気と見える人々も、心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする」

   さんまは言う、「俺はなぁ、悲しいことも辛いことも、”全部笑いに変えたんねんって決めたんや」「俺は幸せな人を感動させたいんやなくて、泣いている人を笑わせて、幸せにしたいんや」
   人は、辛いときでも、苦しいときでも、なんとか頑張って笑顔を浮かべたとき、わずかながらも明るくなれるものだろう。
   「笑顔になるから、楽しい出来事が起こるようになる」「しょうもない時、笑って過ごせるか過ごせないかが大きな差や」
  さんまが色紙に書く言葉に「生きているだけで丸儲け」がある。が、実は、もうひとつある。それは、「泣くな、笑え」
   苦しみ悲しみを乗り越えようとするものが、確かに笑いにはある。
   「悲しんでいる人の前で悲しんであげたら、ダメでしょ」「暗い人がちょっとでも笑うように、なるべくオレが出
ている限り明るい画面を、お届けしたいという、そういうポリシーで生きてる」

   さんまの笑いは慈悲心から生じているように思えてくる。

   ところで、さんまが涙を流す姿を見た人、誰もいない。どうしてだろう。こんな事があった。京都の映画ロケで、さんま「(さっきの撮影)昔の彼女思い出して泣いちゃいそうやった」
   隣にいた長年の親友・村上ジョージが言う「泣くか!あんたに涙があるかっ!!」とのツッコミに、さんま「あるわ、残っとるわ!」「お前(村上)が死んだ時用に残してあんねん」
   「弟」焼死の翌年に、「オレ、火事だけでは死にたくないんですわ。さんま焼け死ぬ!って新聞に書かれますやろ。さんま黒焦げ!って」

   スマナサーラ長老「どんな苦難に立ちむかっても、怖がらない人間になってほしい。何にも委ねることがなく、笑顔が絶えることがない、そんな人格をつくってほしいのです」

   さんまは、「オレ、今まで一度も怒ったことがない」という。その理由を、「怒るのは、自分のことを偉いと思っているアホ」がすることだからと一刀両断。怒りの源は、「自己過信・うぬぼれなんだ」と。
   怒りは自分の思い通りにいかなかった時に、生じてくるもの。そして、生じた怒り度は、自己過信・うぬぼれに比例する。
   さんまは言う「自分だけ大変だと思っている奴、多すぎる」「努力って、皆、普通にするもんやろ、努力って言葉を努力不足の奴がつくりよった」

   怒りから発する悪口がある。さんまは、娘IMARUに言う、「人の悪口言わん人になってほしい」

   ビートたけしも「感情というのは抑えるのが当然なのに解放するのがいいって風潮になってしまった」と言い、「悪口は恥ずべきもの」と断言する。
   ビートたけし、怒りへの処方として、「へりくだった心をもって互いに相手を自分より優れた者としろ」と。さて、昔のあるインタビューにて、「(オレの成功の秘訣は)あるとすれば、どこに行ってもトイレ掃除を実践していたことでしょうか」
   彼は、下座行の実践者だった。

   「怒を捨てよ。慢心を除き去れ」(『感興のことば』P220)

   たけし「楽しく生きるって考えはずうずうしいことだと思っている。生きていくことは苦しいことで、おまけとして楽しいことがたまにある」「苦しいと思うことも、生きている証だと思えば楽しめる」「死ぬときが一番楽しいかもわかんないね。この世に生まれて生きているってことは、かなり苦痛だし、罰のようなもんだから。人生、苦しみに満ちたもんだ」「人は老いて、死ぬものということから目を逸らしたら、いつか大きなしっぺ返しを受けるよ」

   さんま「生きているというのは、悲しいかな、死に向かって生きているんですからね」
   だからといって、落胆しない。「死ぬときにワクワクしたい。」と言う。

   タモリ「挫折と無縁の人生はあり得ない。それにもかかわらず『夢は当然叶うもの』と思っていれば、挫折の後にはもはや絶望しか残されていない」「夢がなかったら、自殺者はだいぶ減ると思うんです」「オレは何事においても期待しないところがある」
   タモリはある番組で、漢字の「幸」の起源について触れている。かつて手に枷をはめる刑罰があり、それが転じて「幸」という字になった。なぜそれが「幸」なのこといえば、本当は死刑になるところを、命を落とさずにすんだからだという。
   「だから『幸せ』というのは前の上を見るんじゃなくて、(自分の)後ろの下を見ること。望むものじゃなくて感じるもの」と。

   三人ともに、一切皆苦の諦念が底にあるように思われる。
   そしてさんま、「嫌なまま、ダメなまま過ごす方が楽しいと考えろ。嫌なことを楽しいと思ったら、もうあとは何があっても平気やねん。俺はそうしてきた」

   スマナサーラ長老「いくら願っても夢は叶いません。人生に必要なのは、夢ではなく、物事を理解する能力、明るく生きる走力です」「嫌な気分になる条件は、人生にいつも付きまといます。その都度、どうやってニコッと笑っていられるかと挑戦することで、幸福に生きる資格を得るので。」

   さんまは、神社参拝時の絵馬に「願い事がなくなりますように」と書いた。
   「自分で選んだ人生や、でも絶対一人で生きていると思ったらあかんで」とさんま。自分がここにあることは、多くの人たちに支えられているからだと、そうした思いは、笑福亭松之助師匠からの教えによると語る。
   かつて、師匠は、さんまへの手紙にこうしたためた。「人間はカボチャや。カボチャは何十個でできてても、ツルが一つ。すべて繋がっている。同じところから栄養をとってるんや。個人個人は知らないけれど、上で繋がっている。人間の社会はそれと同じや。隣のカボチャは敵じゃない」
   
   まさに諸法無我の話ではないか。最後にさんまの言葉。
   「落ち込みやすいってのは、感謝の足りない姿勢が原因やで」        (常)

<本稿は次の諸著作その他による>
○北野武著『人生に期待するな』(扶桑社2024年)、ビート タケシ著『ニッポンが壊れる』(小学館 2023
○戸部田誠著『タモリ学-タモリにとって「タモリ」とは何か?-』(イースト・プレス2022)、樋口毅宏著『タモリ論』(新潮社 2023
○エムカク著『明石家さんまヒストリー 2 生きてるだけで丸もうけ-19821985-』(新潮社 2021

文化を散歩してみよう
                          第17回:食の周辺(前)

私の韓国滞在中(198788)、韓国語の訓練をお願いし、また伝統的な結婚式にも夫婦で招かれた申さん(女性)に、今年になって「月刊サティ!」の韓国に関する記事を読んでほしいと依頼した(韓国でも閲覧できます)ところ、いくつかのコメントを寄せられましたので紹介したいと思います。現在彼女はソウルで日本語その他言語の翻訳、通訳の事業を運営しております。
  一つは、王氏の生き残り戦術の箇所、申さんの場合は王氏からの改名とは関係のない本貫ということでした。申、全、玉、田氏などについて調べてみると、申氏の欄には3系統がありその中の一つと言うことです。全氏は8系統、玉氏と田氏は1系統です。ただそれらと王氏からの改名が今も結びついているのかどうかはわかりませんでした。
  二つ目は第四代世宗大王の子供時代の暗殺未遂事件の件。ドラマのプロローグとして作られたもので、まあ普通に考えればあり得ない話ではあります。
  三つ目は、百済をなぜ日本では「くだら」と言うのかとずっと思っていたそうです。日本では日本史を学ぶ際に始めからすり込まれてしまいます。ですから、「何で?」と思っても「そう言うものなのか・・・!」と特に疑問を持つこともなくそのまま(私もそうでした)。でも考えてみれば、韓国人で日本の古代に興味を持ったら「なぜ『クダラ』なの?」と思うのは当たり前だとあらためて思いました。
  
  以上、少し補足しました。それでは今回のテーマに入ります。
  衣食住と言いますが、食についてはとくに食文化という言葉がありますように、自然条件もさることながら歴史や宗教、習俗なども関係があります。たとえば、日本のパン食の広まりが戦後の食糧難とアメリカ小麦との関連だったことはよく知られています。ただ私の場合、これまで食べることにこだわったことはほとんどありません。私の属する高齢者クラブの人(複数)から聞いた話ですが、子供の時に兄弟が多かったので食事では自分の分をしっかり確保しなければならなかったそうです。ですから、私にこのテーマはあまり向いていないと思うのですが、韓国との関係からあえて話を進めてみようと思います。まずはその点のご理解を!

○肉食、胡椒
  韓国食の特徴としてすぐに思い浮かべるのは「辛い」ということかも知れません。「ニンニク」や「唐辛子が多く使われているからでしょう。「にんにく」はともかく、ご存じでしょうけれど唐辛子はもともと南米原産です。ではなぜ韓国で広まったのかですね。
  4回でも触れましたが、仏教国(非肉食)の高麗にモンゴルが侵入した時に朝鮮半島に肉食文化がもたらされました。高麗は仏教文化ですので農耕用としての馬や牛はありましたが、肉食は基本禁止でした。また、今済州島では馬が放牧されて一つの風景となっているそうですが、これはモンゴルが日本に攻め込むためだったとも言われています。
  ところで、肉食にはスパイスが重要でした。その理由を簡単に言えば、穀物だけでは十分に人々を養えないところでは、人が食べることができない餌(おもに牧草)を動物に与え、飼い慣らしてその生産物を人間が利用したからです。そこにそのための工夫、文化が生まれました。例えば乳や肉の保存や加工、あるいは飼育、管理のための去勢や牧羊犬などもその一つです。
  ところが餌となる牧草もヨーロッパの場合はとくに冬には無くなります。ですからその前にはある程度の屠殺も必要となるわけで、その肉の保存にどうしても欠かせないのがスパイスでした。
  ※なおスパイスと言えば、植物由来のうち茎と葉と花を除いたものを指します。従って、たとえばハーブであれば「香辛料」となりますが、胡椒はスパイスです。また、英語の“Pepper”はサンスクリットのピッパリイ(Pippali)という長胡椒を表す言葉から出てきたそうです。

  ところで、胡椒に代表されるスパイス(ほかに丁子やニクズクなど)は熱帯の産物なので温帯では自給できません。当時はインドなどの東洋とはアラブ商人が、地中海ではベニスの商人が取引をしていたそうです。そしてヨーロッパでの胡椒の価格は金の重さと同じだったと言われているくらいです。なぜそのように高価だったのか。その理由は、途中のさまざまな形での通行税、あるいは献上などがあったためだそうです。つまり莫大な経費が掛かったわけです。
  そこで「生産地と直接取引を・・・」と当然、それも強く望みました。そのため、危険は十分承知のうえであえて未知の外洋に乗り出します。つまり、航海時代を生み出した背景にスパイスを求める大きな動機があったというのはもう常識の範囲だと思います。

  朝鮮半島の話に戻ります。
  高麗時代に肉食文化が入ってきたと言っても、モンゴルと言えば一般的な家畜は羊で、豚ではありません。草原の草は豚の食料にはなりませんから。でも朝鮮半島では豚です。それもかなり大事にされていたのではないでしょうか。おそらくは文化や人物交流の深い中国との関連でしょう。中国で肉料理と言えばまずは豚だそうですから。豚は労働力としてはまったく役には立ちませんが、何でも食べてよく成長してくれるという意味ではとても好まれ、重要視されていたのだと思います。
  それについてはこんなことからも推察できます。
  今でも冠婚葬祭などでは豚肉が必需品ですし、市場で豚の頭が売られている映像を見られたことがある方もおられるでしょう。韓国では豚は縁起が良く幸運をもたらすもの、それに「豚」という字の読み方の「トン」がお金の意味の韓国語「ton」と同じなので、語呂合わせのようですが豚の頭の貯金箱でお金を貯めたりします。十二支の最後は日本では亥(イノシシ)ですが、韓国では豚ですし。もしかすると何かの行事で豚の頭を供えているシーンを映像で見た方があるかも知れませんね。

  私はこのような場面を直接見たことがあります。衝撃的と言うほどではありませんでしたが、けっこう驚きました。ただ一方では日本文化にも通じるところがあるとも感じました。
  当時お世話になっていた研究院に新しいコンピューターが導入された時のことです。80年代の終りですからまだパソコンなどがまんべんなく普及している時代ではありませんでした。導入した少し大型のコンピューターの前に豚の頭を供え、それが故障もなく順調に働くように、院長自らが先頭に立って職員がうしろに揃って並んで頭を下げるという、そんな儀式に参加しました。神社の祝詞のような感じ(調子は違いますが)で文章を読み、何というか日本で家を建てるときの地鎮祭みたいな感じでした。「えーっ、こんなことするんだ!」とは思いましたが、また一面「なるほどなあ!」と思ったことも事実です。
  説明するまでもなく、日本でも機械に名前を付けて擬人化したり、物に魂があるように取り扱ったりする文化があります。仏教で言う生命と物質の違いはともかくとして、モノを粗末にしないで大切に使う、そういった意味からそのような儀式をしっかり行うのだとすれば、それはそれでけっこう日本文化とも馴染みのある風習だと思いました。

  ではモンゴルの侵略がきっかけとなった朝鮮半島の肉食文化はその後どうなったでしょうか。しっかり定着しました。では肉食に欠かせないスパイスはどうだったのだろう、ということですが、初めのうちは山椒が使われたとも言われています。
  しかしそこに中国を経て胡椒がもたらされ、やがて琉球から対馬を通して入って来るようになりました。はじめは朝廷が中心だったようですが、それがだんだんと庶民にまで広がり、朝鮮時代になるとなんとか自国で生産できないかとの試みがあったことは第4回で述べたとおりです。

○唐辛子
  ところが例の秀吉の侵略があって、胡椒が手に入らなくなってしまいます。でもちょうどそのころ唐辛子が入ってきました。第4回にはその伝わり方に諸説があり、また毒があると書かれた『芝峰類説』についてもすでに述べましたが、徐々に広まっていったといいます。一方、日本へはポルトガルの宣教師が伝えたとの記録もあり、また煙草と一緒に入ったとか、あるいは朝鮮半島から秀吉軍が持ち帰ったという説もあるようです。

  余談ですが、いま触れた煙草の記事がその『芝峰類説』に載っていて、「淡婆姑草名亦號南靈草、近歳始出倭國」と記され、毒があるから軽々しく試してはならず、南蛮の国には長期に服して死んでしまった女性がいると言っています。同時に「管」を意味するカンボジア語「khsier」(キセル)も伝わりました。朝鮮服を着た老人が悠々と長いキセルで煙草を吸っている図や写真などを見たことはないでしょうか。キセルの長さが権威を示しているそうです。
  またまた余談ですみませんが、日本で「一味」といえば唐辛子だけ、「七味」と言えばいろいろブレンドして使われています。そのブレンド内容を調べてみると、山椒、麻の実、胡麻が共通で、陳皮、芥子の実、青のり、生姜などに違いがあると出ていました。ただ、その読み方が「しちみとうがらし」となっていたので、ちょっとひっかかりました。
  実は、ずいぶん前に浅草に行った時の話です。そこに露店を出している威勢のいい小父さんが、「『しちみとうがらし』というのは間違い、ほんとうは『なないろ唐辛子』と言わなきゃいけない!」とえらく強調していました。その時は「ふーん、そうなんだ」と思っただけでしたが、今回これも調べてみると「七味唐辛子というのは上方風の名前であり、江戸・東京周辺では七色唐辛子、七種唐辛子(なないろとうがらし)である」と出ていて、「近代以降の多くの辞書では『なないろとうがらし』を標準語形とした」ともありました。なるほど、あの小父さんは江戸っ子だったのですね。
  その小父さんに聞いて以来、私は「七味」と書いてあっても「しちみ」ではなく「なないろ」と読むようにしていましたが、今回調べてみてスッキリしました。皆さんはこんなことを気にする方ですか?

  それはさておき、唐辛子の成分のカプサイシンは胃液や唾液の分泌を促して食欲を増進させ消化を助ける効果があるそうです。また肥満防止、血行促進、発汗作用などにも効果があるとか。ですが、胃に問題がある方はちょっと気をつけた方がよいかと思います。私も昔はあまり気にしないで辛いものを食べていたのですか、実は大失敗したことがあります。
  30年ほど前に筑波大学で開かれた研究会に参加した時のこと、留学生が多いためだと思いますが食堂には各国特有のランチが用意されていました。その中にカレーがあり、そのそばに緑のものがあったので普通の野菜だと思いちょっとプラスしたのですが、実はそれは青唐辛子でした。うっかり食べたところ、胃が猛烈に痛くなり牛乳を飲んでも治まらず冷や汗が出て、顔色も真っ白だと同僚に言われ、ついには救急車で運ばれてしまいました。そのうえ保険証を携帯していなかったというおまけまで。
  それ以来カレーと唐辛子は食べ合わせないように(当たり前ですよね)、とにかく辛いものには慎重にしています。

○キムチ
  ところで、唐辛子と言えばすぐにキムチが思い浮かびます。スーパーやコンビニでキムチを置いてないところはないでしょうし、辛さやうまさ、あるいは深みもいろいろで、輸入だけではなく日本で作られているものもけっこう目に付きます。
  キムチという言葉の語源説はいくつかあって、野菜の漬物を指す「沈菜」(シムチェ)だったらしいのが一つですが、ここでは触れません。今は魚介なども入っていて栄養や健康という面からもよく話題になっています。もともと野菜のない厳冬期のための保存食で、唐辛子のない頃は塩漬でした。それをペッキムチ(白キムチ)と呼び、水を多くしたものをムルキムチ(水キムチ)と言います。当然ですが白キムチや水キムチは辛くありません。日本の白菜漬けの親戚みたいな感じです。
  キムジャンというキムチを大量に漬ける年中行事が毎年11月にあって、2013年にはユネスコの世界無形文化遺産に登録されたそうです。
  また、キムチ漬けのために「キムチ手当」というものがあったはずなので調べてみましたが見当たりませんでした。もっとも、その話を聞いた当時も、どういう人がどれ程の額をもらうのか知りませんでしたし、今でもあるかどうかはわかりません。
  私がよく行った頃には大量に作ったキムチの保存のために、ちょっとした庭には片隅にキムチの甕が置いてあり、またアパートのベランダにもキムチの甕が並んでいました。アパートのベランダは開放型ではなくガラス窓で外部と仕切ってあります。つまり室内は暖かくてもその部分は冬の間自然の冷蔵庫の役を果たしているような感じです。ちなみに、私の宿泊していた旅館の窓も二重になっていて隙間が78センチあり、私は買ってきた牛乳パックをそこに置いておきました。なにしろ部屋の中は半袖でも外はマイナス10度くらいなのですから冷蔵庫としては最適でした。ただ外を見て寒さをナメたために、うっかり鞄を素手で持って外出し大失敗したこともありました。

  ただ、今日ではベランダに甕を並べるような風景はおそらく見られないでしょう。なぜなら、キムチ用の冷蔵庫が出来ていて、冬の保存食用としてかつてのように大量に作らない人も増えているそうですから。
  また、一般的な話ですが、どの家庭にも独特の作り方や好みがあるようです。日本で言えば「お袋の味」のようなものかも知れません。何時、誰から聞いたかはよく覚えていないのですが、「うちのキムチが一番美味い!」という自慢といっしょにキムチを食べさせられたことがありました。今となると、「確かに美味かった」ことはかすかに思い出すのですが、その後の記憶がまったく無く、それっきりになってしまいました。
  ちなみに、そのころ食堂ではキムチのおかわりはタダだったような記憶です。今はどうだかわかりませんが、良い時代でした。

○ナベ
  ナベには日本とは違って取り箸は使いません。自分が使っている箸で勝手に取ります。
  「ナベ」というと日本語では容器も食べ方も同じ「ナベ」ですが、韓国語ではそれぞれに呼び方があります。韓国語の場合、容器を「ネンビ」と言います。“n”発音と“b”発音は共通ですね。おそらく古代には同じ言葉だったのではないでしょうか。初めて韓国に行ったころ、“n”と“b”とが同じように聞こえたことがあります。
  それに対して食べ方としての「○○ナベ」というような場合には韓国語では「チゲ」と言います。ですから「キムチ・ナベ」は「キムチ・チゲ」となります。よく日本で「チゲ鍋」などと言うのを聞きますが「何それ!?」です。「ナベ鍋」という二重言葉になっています。
  言葉も含めてこの世界の「すべては変化する」ものと心得ているつもりですが、私の場合、やはり「ガッツリ」とか「他人事(ひとごと)」を「たにんごと」などと言うのを聞けばとても気になって、「ガッチリだろう!」とか「ひとごと!」と言い直すので家内に「また言ってる」といつもたしなめられます。「こだわり」とは自覚しているのですが反面面白がっているところもあって、ここは逆説的に「不快!」と自然にサティが入る便利な例と捉えておく、というのはどうでしょうか?
  ただし、「チゲ鍋」という言い方は言葉が変化したわけではなく、明らかに間違いですからぜひ改めてほしいものです。

○流行、好み
  当然ですが、食には流行り廃りや個人的な好き嫌いがあります。
  何年か前に流行ったタピオカは今はどうなっているのでしょう。恵方巻きなどは大阪の風習だったものが広まったそうですけれど。
  もちろん韓国も同じで、ドラマではバナナ牛乳というのをよく飲んでいるそうです(家内から)。また申さんから今流行っているキュウリを巻いた、日本で言えばカッパ巻きのような海苔巻きがあるそうで、「簡単だから作ってみたら」と作り方の動画が送られてきました。それを見ると、独特の味噌を作って入れたりごま油を使っているようで、カッパ巻きより複雑なのですが、説明の字幕が速すぎて残念ながら正確に読み取ることができないでいます。

  個人的には、韓国の方でも辛いのが苦手だという人もいました。まあ韓国人ならすべてが辛いのを好むと考える方がいささか杓子定規ですね。日本でも刺身が苦手という人がいますし。
  私ごとで恐縮ですが、韓国食はだいたいOKですが冷麺はまったくダメです。寒い冬にオンドルの暖かい部屋で食べるのが本来なのだそうですが、冬でも夏でもお腹に合いません。また中国から来たジャージャー麺、ドラマでは美味そうに食べているシーンが出てきますが、これもまったくごめんでした。
  それから激辛の「ナクチポックン(ム)」(nakchi:長手タコ、pokkum:炒める)唐辛子(辛味噌)満載の激辛のタコ鍋で、からかい半分に一度薦められたことがありました。唇から火が出たようになりすぐに吐き出しましたが、その感覚はかなり長い間残りました。

  逆に好きなものはやはり定番のカルビクッパとかビビンパです。
  カルビというのは本来の意味は「あばら」のことで、韓国ではやせている人(男性)を「カルビシ」(つまりアバラさん〔氏〕)というからかい言葉になっています。クッパはローマ字で表せば“kuk pap”で“kuk”は「汁」、“pap”は「ごはん」です。で、「ビビン」は“bibin”で「まぜた」という意味、つまり「まぜごはん」ということです。
  このビビンパで有名なところは「全州ビビンパ」と言って全州が有名です。私は全州に行ったことはないのですが、実はソウルから電車で一時間ばかり南の水原も有名で、一度に二人前食べたことがあります。若かったからですね。ただ日本の食堂で出される<石焼き>というのは日本が起源、それほど昔からではではないようです。

○その他
*補身湯
  ご存じかも知れませんが犬です。それも食用のために育てている赤犬で、そのための小屋(檻)がずらっと並んでいるテレビ場面を見たことがあります。
  今年(2024年)の19日、韓国では「犬の食用目的の飼育・処分および流通などの終了に関する特別法」(特別法)が国会を通過しました。端的に言えば犬の肉は食べてはいけないということになったわけです。
  かつて1988年にソウルオリンピックが開かれるにあたって外国から厳しい目で注がれた時、もともと補身湯と言っていた、つまり体に栄養を補う、日本で言えば土用の丑の日のような意味を持っていたものを、栄養湯とか四節湯、季節湯とかと呼び名を変えて、しかも一時的でしたが町の裏に引っ込んで営業していたりしていました。
  もちろん韓国でも食べる人もいれば食べない人もいます。知り合いのキリスト教の信者の方に「食べるのですか?」と聞いてみたことがありますが、その方は「信仰上の理由で食べません」と言っていました。私の場合、何ごとにつけ好奇心旺盛だった頃なので、話の種になるかと思いそうした店に入ってみました。そうしたらマトンより癖が少なかったのは意外でした。すみません、気分を悪くされたら恐縮です・・・。

*ヘジャンクッ(解腸汁)
  これはその名の通りお腹を整えるのに良いと言われるスープです。地方によって材料や作り方に違いがあるようですが、出汁や味噌それからいろいろな具材も入り、中でも特徴は牛の鮮血を固めたものが入っていて、いかにも効きそうです。当時は飲酒もしていましたから、「飲んだ次の朝にはこれがいいんだ!」とはことあるごとに聞きました。
  私が食べたのはいかにも庶民の感じの食堂で、そこのおばさんとも顔見知りになりました。何年か後の話ですが、ソウルでゼミの卒業生(留学生)の金君と会った時にその食堂に入ったら、「先生とこんなところで一緒に食べるとは。感激です!」と言われたのが印象に残りました。彼はそのあとアメリカに移住してしまいましたが、成功していることを願っています。(つづく)(M.I.)


                

 ちょっと紹介を!
                 井手裕彦著『命の嘆願書
   ―モンゴル・シベリア抑留日本人の知られざる物語を追って―』
                                 (集広舎 2023)

  著者はジャーナリスト。読売新聞社会部で主に調査報道を担当。論説委員、編集局次長、編集委員を経て2020年退社。14年から20年まで羽衣国際大学客員教授(ジャーナリズム論)。自ら捜し出した抑留者の死亡記録を日本政府に情報提供するとともに遺族に届ける取り組みを行っている。(本書紹介欄より)

  とにかく大部で、目次、図、年表、参考資料を除いた本文だけでもp.18~p.1279まで。しかも28字×22行の2段組。今回は通読していない。ではなぜここで取り上げたのかと言うと、本書の第29章に“満洲「根こそぎ動員」の犠牲に”があったため。なにしろ目次だけでも40章、なのでそれを記すことも諦め、今回は文字通り「ちょっと」だけになった。

  著者はロシアによるウクライナ侵攻で人々の連れ去り情報を知ると、第2次大戦後のモンゴルやシベリアへの日本人の抑留を思い浮かべる。そしてそのなかに、「少なくとも同胞の命の保証を求めて相手国政府と堂々と渡り合った3人の日本人抑留者がいた」ことを見いだし、調査、探索を始める。その結果、「国家機密の壁を乗り越え、私がモンゴル外務省中央公文書館で3人がモンゴル政府を相手にぎりぎりの折衝をした証である『嘆願書』を758年ぶりに目にしたのは、42年余りの新聞記者生活の最後の年になった20201月のことだった」と言っている。
  ※漢数字は算用数字に改めた。以下同じ。

  著者は考える。なぜ「身の危険を冒してまで3人は嘆願書を出そうとしたのか。嘆願書には強大な権力を持つ相手当局を説き伏せるためのどんな理屈建てと戦略があったのか。そもそも3人はどんな人間であったのか」と。
  これらの課題を追って、著者は数々組織とともにこれまで知られなかった資料に出会い、多くのインタビューを重ね、それらを有機的に繋げた過程を細大漏らさず記したものが本書である。そしてその内容は、まさに著者が自負するように「筆と紙のみを頼りに信念を貫いた知られざる日本人抑留者の勇気の物語」となった。

  著者は『序』の中で以下のように端的に記している。
  「私はほかにも必死の願いや訴えが切々と書かれた嘆願書やそれを巡る人間ドラマに遭遇する。いわれなき『戦犯』として抑留が続く夫の早期釈放を求めて妻が小学生の長女、長男とともに計4回にわたり、モンゴル首相宛てに出した嘆願書。長期抑留者の男が自分も体が弱っているのに身代わりとして残留するので同じ収容所の病人や高齢者の即時帰還を認めてほしいと申し出た嘆願書。『戦犯』の罪をかぶされ、10年以上抑留されてきた男が抑留者を『人質』に領土問題を有利に運ぼうとしたソ連政府の日ソ交渉に関して『自分たちのために祖国が不利になるのなら切腹自殺を行う覚悟がある』と抗議した嘆願書……。まだまだある。
  肉親や同胞の命を守ろうと軍や収容所幹部、そして相手国の元首にまで悲痛な叫びをぶつける。ソ連政府の対日外交姿勢に憤り、自らの命を懸けて異議を唱える。まさに『命の嘆願書』なのだと私は感じ取った」

  そしてこれらは、「モンゴルやロシアの公文書館の奥深くに『外交文書』や抑留の『公的記録』として厳重に保管され、誰の目にも触れず、歴史の中に埋もれようとしていた。こんな抑留者やその妻、母、子がいた真実を置き去りにしたまま、出会った記録を墓場まで持っていっていいものだろうか。新聞社を後にして筆を執ってから脱稿まで三年を要したが、私は伝えずにはおれなかったのである」。

  内容の一部。
  20章に終戦2日前に入隊した小池七雄とその家族の話が続く。七雄は長野県の出身、開拓団ではなかったが兄から誘われて満洲に渡る。1940年に一次帰郷して結婚する。朝鮮半島から鉄道での満洲行きが新婚旅行になった。
  やがて3人の娘が生まれたが、19458月に召集を受け、813日に陸軍2等兵として歩兵第240連隊に入隊する。それはあと3か月で従来の徴兵年齢上限の40歳の誕生日を迎える時だった。
  著者は「亡くなった御父様のお話を聞かせていただけませんか」とのモンゴル会事務局(2017年に解散)の富川俊子(七雄の3女)へ最初の電話。そのなかで彼女から、「私の父もモンゴルで亡くなったんですが、召集を受けて入隊したのが終戦の2日前でねえ。ソ連軍との戦闘もなく、まるで抑留されに行くような入隊だったんですよ」と聞かされる。
  当時の満洲の関東軍は南太平洋地域や中国本土に派遣され、質量ともに弱体化していたことはよく知られている。

  19454月、一年後に有効期間が満了となる日ソ中立条約についてソ連から『延長はしない』とする通告があり、対ソ戦が確実になると大あわてで部隊が抜けた穴を埋めるための現地召集が進められた。いわゆる『根こそぎ動員』である。公務員、会社員、学生、商店主、農民ら、高齢者や病弱者もおかまいなしに召集された。従来の17歳~40歳の徴兵年齢の範囲にとどまらず、45歳まで召集された。
  特に召集が盛んに行われたのは19455月から7月にかけてで、7月だけで25万人が補充された。人数だけは埋まったものの、軍事訓練も十分行われず、支給された武器や装備も旧式だったため、ソ連軍の機械化部隊に太刀打ちするのは不可能だった。(略)
  俊子の父は終戦二日前の入隊だったとはいえ、当然、軍人として扱われた。モンゴル抑留中死亡者の記録でも「軍人」になっている。でも限りなく民間人に近かった軍人とは言えまいか」(p.435

  著者は、終戦直前の間に合わせの召集だけではなく、「ソ連・モンゴル軍の満洲侵攻を関東軍がつかんだ後も入隊していた兵士の話は具体的に聞くのは初めてだった」という。
  そして、
  「ソ連軍侵攻と重ね合わせるように開拓団の男手だった成人男性が次々と召集され、開拓団を離れていったことが記されていた。
  関東軍はソ連軍に対して長期戦の構えをとって日本本土への侵攻の脅威となる朝鮮半島への進撃を食い止めるため召集令状の発送を止めなかったのである。
  さすがに815日の終戦の後は召集令状の発送を止めたと思われる。だから手続き(令状発送の手続き:編集部注)がもう数日遅れていたら七雄が召集されることはなかったし、そのまま捕虜となってモンゴルに抑留されることもなかったのである。運命の境だった。

  俊子はこのときの父の心境を想像して語った。
  『召集令状が来ると入隊しなければ脱走兵として扱われるので、母はとりあえず父に知らせた。ソ連軍が侵攻しているとかどうとかは別に父は行かなればならなかった。頭が回る人だったら軍隊に行かなかったかもしれないけど、父はどうでもこうでも行かないといけないと思ったのでしょう』
  さらにこうも続けた。
  『父が召集された頃は関東軍もでたらめで理不尽なことばかり起きていた。だからなぜこんな時期に高年齢の父を召集するのか、なんて言っても仕方ないことだと思っています。今更、ね』」(p.437)。

  この章ではこののち召集時のいきさつをはじめ、母と娘たちの避難と途中で次女を亡くしたこと、引き揚げてからの生活、そして現地への墓参や父が亡くなった場所と死因、さらには他にもいた民間人の犠牲者を捜し求める話が続く。そしてその最後の手がかりをきっかけに「父の抑留がきっかけに」とする第21章と進んでいく。

  いかがだろうか。これだけでもかなりの衝撃だが、他の章でも盛りだくさんである。たとえば第29章「帰還するには精神病者を装うしかなかった」では、水が干されていた牢に入っていて、ソ連のスパイになるように説得された下士官が、それを断ると再び排水溝が閉ざされて水が満たされた牢に戻されるという話も出てくる。

  いずれにしても、あまりにも大部なことと、公立図書館の蔵書でしかも3人もの予約が入っているため規定の貸し出し期間で戻さねばならず、今回は通読を諦めざるをえなかった。(文責:編集部)

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