月刊サティ!

2024年5月号  May  2024

 今月の内容

 
  巻頭ダンマトーク:【ラベリング論】  第1回 「ラベリングは必要か・・・」
   ダンマ写真
  Web会だよりー私の瞑想体験ー:『まさかの瞑想』(後) 
  ダンマの言葉 :『四聖諦』(4)
  今日のひと言 :選
   読んでみました :関大徹著『食えなんだら食うな』(ごま書房新社 2019)
  文化を散歩してみよう:『韓国文化の姓と名』 (5)
   ちょっと紹介を!:ティモシー・ワインガード著、大津祥子訳
    
『蚊が歴史を作った 世界史で暗躍する人類最大の敵』(青土社 2023)

     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。

 
                                     
     巻頭ダンマトーク  
   【ラベリング論】 第1回 「ラベリングは必要か・・・」

   ★ヴィパッサナー瞑想を進ませるには、いくつかのポイントがある。
  サティの精度を上げる。集中力を強化する。妄想の対処を厳密にする。反応系の修行を徹底する。五戒を厳守する。ラベリングの質的向上を目指す。洞察の智慧の仕込みをする、等々。
  ヴィパッサナー瞑想は総合的システムなので、瞑想を進ませるには、瞑想を構成しているファクターをパーツに分けて修行し改善することが重要である。今回から、瞑想会で質問されることが多いラベリングについて考えてみたい。

*ラベリングの是非
  適切なラベリングが浮かばずに立ち往生することは誰にでもある。
  一瞬一瞬の現実を鋭く観察せずに、使い古したラベリングを惰性で使っているうちに、真実の経験と認識にギャップが生じてくることもよくある。
  正確なラベリングを模索しながらいつの間にか妄想していたり、違和感のある言葉でやむなく妥協するのが心残りだという人も少なくない。
  それやこれやでラベリングを煩わしいと感じる人も多く、「集中の邪魔になる」「妄想を排除する瞑想なのに、妄想と同じ概念のラベリングを使うのは変ではないか」と批判する人もいる。
  しかし、初心者がラベリングなしで歩く瞑想をやりなさいと言われると、訳がわからなくなって瞑想にならない人が続出する。ラベリングに頼らないと、サティが維持できず自己客観視が崩れてしまうのだ。正確なラベリングは本質洞察の智慧に通じており、発想の転換やリフレーミング(再解釈・再評価)、引いては人生の生き方系の変化にも影響をおよぼすだろう。
  ラベリングを使わず身体感覚のみに集中する方法もあるが、それでは心随観も法随観も至難の業となり、ヴィパッサナー瞑想としては限定的なものになっていく。もし瞑想によって考え方や人生の流れを良い方向に変えていきたいのであれば、ラベリングは最も重要な修行ポイントの一つであり、洗練させ深めていかなければならない。

*法と概念
  人生が苦しくなる原因は渇愛であり、渇愛は無明に由来する、と仏教は考えている。無明とは真実が見えない心の状態であり、勘違いするのも、錯覚するのも、誤認するのも、脳内に妄想が充満しているからだと考えられる。人の話を聞かず、自分の見たいものだけを見るのが人間である。思い込みや先入観、欲や怒りや嫉妬の妄想があるがままの事実に投影され、法と概念がゴッチャになった状態が無明だといえる。
  事実と妄想の混同が諸悪の根源なのだから、サティの第一義的な役割は法と概念を厳密に仕分けることである。どうすればよいだろうか。方法は2つある。
  一つは、中心対象である腹部や歩行の感覚に集中し、集中が高まる度合いに比例して妄想が滅していくのを実感的に検証する。妄想が入ればそれまで感じていた感覚が消えるし、実感がしっかり取れていれば妄想が侵入していない証左だとわかるだろう。
  もう一つは、思考が浮かんだ瞬間に厳しくサティを入れ、思念を次の思念に接続させないで、一つひとつ直接知覚の状態でサティを入れ続ければ法と概念はきれいに識別されている。
  思考は概念と概念の連鎖であると定義されるので、見た瞬間、聞いた瞬間、匂った瞬間にサティを入れて中心対象にもどることができれば、眼識、耳識、鼻識の対象が直接知覚の状態で法として確認されている。同様に、味わった瞬間も、感じた瞬間も、思った瞬間も、ダイレクトに気づかれていれば法なのである。つまり、純粋にヴィパッサナー瞑想が実行されていると考えてよい。

*法の世界に生きる
  瞑想修行をしていなければ、眼耳鼻舌身の対象が意識に触れた瞬間、概念でまとめ上げられた認知ワールドが自動的に形成されていく。人間の認知のプロセスの宿命である。自分だけの認知ワールドを事実そのものと誤認し錯覚する瞬間から人間の苦しみが始まっていく。対象認識の歪みに気づかず、いわば妄想に反応して「行(サンカーラ)」を動かし不善業を形成するからである。
  眼耳鼻舌身の対象を「見た」「聞いた」「匂った」「感じた」・・・と直接知覚で認知する野生生物はどうだろう。概念化されていない法としての存在だけを対象に生きているので、人間のように妄想で苦しむことはない。いや、もっと正確にいえば、動物の脳内にもイメージは形成されるが、記憶イメージを自在にコントロールする言語を持たないので妄想が暴発してノイローゼ状態になったりはしないということだろう。

*犬の群れ
  昔、タイの海辺の寺で長く修行していたとき、寺に住み着いて比丘の残飯などで暮らす10数頭の犬たちの中に、ちょっと可愛げのある柴犬ぐらいの黒い犬がいた。ビザ延長の目的でマレーシアに一泊し、翌日の夕方寺に戻ると、3、4匹の犬たちがこちらを見ていた。私は裸眼でいまだに1.2の視力があり、犬たちよりも目は良いはずだ。
  風下から近づいて来る私を凝視していた犬たちは、怪しい者か寺の瞑想者か判断がつかず、小さく唸りながら警戒モードだった。やがて視認したのか、嗅覚で認知したのか、長期に滞在している私だと判明したらしい。黒い犬は、『あ!』と気づいて嬉しそうに尻尾を激しく振り始めたが、恥ずかしそうに『なんだ、ボク、間違っちゃった・・・』と照れ隠しのような笑い顔をして(と、私には見えたのだが)、お帰りなさいの歓迎ムードになった。
  犬たちと別れて自分のクーティに向かって歩きながら、あの黒い犬が何度も脳裏をよぎり、しばしサティを入れずに妄想してしまった。私を覚えてくれていて仲間として歓迎してくれた嬉しさ。昔、知人が飼っていた異常なまでに賢い柴犬が連想され、あの犬の前世は何者だったのか・・・と、およそタイの寺の現実からかけ離れた妄想だった。
  一方の犬たちはどうだろうか。
  犬の脳内にもさまざまな記憶イメージが保存されている。寺の門を抜け、ゆっくりと近づいてくる私の姿が認知された瞬間、黒い犬の記憶野からゆくりなくも私のイメージが浮上したのだろう。人影が近づいてくる現実と犬の記憶イメージが正確に対応していて、法と概念の混同がない。誤つことなく現状を把握し、寺の犬としての正しい反応行動がなされていたといえる。
  のみならず、犬たちは私が立ち去るや、直ちに犬の現実にもどって一瞬一瞬に集中し、残りわずかとなった夕暮れを真剣に生きていたことだろう。何かやりながら、『あの日本人帰っちゃったのかと思ったけど、戻ってきてくれてよかったよ。・・・いつまで居るんやろ。エサくれるかもしれないから、今度クーティに行ってみようかな・・・』などとバカな妄想に耽ることはない。

*ボーッとしている暇はない・・・
  なぜ人間は現実から遊離した妄想の世界にのめり込み、動物たちは余計な妄想をせず、今の瞬間に完全燃焼するかのように生きることができるのだろう。理由は2つ考えられる。
  まず、食うか食われるかの厳しい現実を生き抜くために、動物たちは一瞬たりともボーッとしてはいられないからだ。死と隣り合わせの日々である。海辺の寺の犬の群れには、狼同然の掟と秩序があり、アルファ雄を中心に役割分担されたピラミッド状の階層社会が形成されており、毎日どの犬も真剣に生きていた。
  人間だって、リング上の格闘家たちには余計な妄想をしている暇はない。野生動物のように、一瞬に命を懸けている。小人閑居して不善をなすのは、暇を持て余して妄想に耽ることが発端なのだ。
  2つ目は、言語脳が搭載されていないからだろう。犬たちも豊かなイメージ記憶を保存しているからこそ、獲物を見定め、正確に狩場の現状を把握し、敵を見分け、仲間の個体識別と絆の維持が可能なのだ。
  しかし、記憶イメージが喚起されるのは現実の一瞬に具体的に対応したものだけであり、刺激がなければ関係のないイメージを呼び起こすことはできない構造だと思われる。つまり、人間のようにイメージに紐づいた言葉を自在に操作しながら、妄想の団子状態を長々と続けることはできないだろうと考えられる。妄想できないから妄想しないだけなのだろうが、常に現在の瞬間に生きている犬や狼たちの生きざまは、悟りを開いた禅僧のように潔く見える。

*言語の光と闇 
  人類が言語を持ったメリットは量り知れないものがある。
  言語の情報伝達力は凄まじく、経験や考えや知識を他者と共有する能力が飛躍的に進化し、狩猟も採集も道具の使用も住環境も、生活全般を画期的に向上させ、さらにその知識を次世代に伝承し、文化の発展と多様性をもたらす決定的な礎となった。
  お互いの感情や意図や心の内面を明確に伝えられるようになり、家族や仲間や同胞との絆が深まり、社会的結束が揺るぎないものになったのも、言語の力に負うところが大である。
  人類が集団で複雑な共同作業を協力的に行なうことができたのも、高度な文明を築きインターネットや生成AIや宇宙開発まで可能にしてきたのも言語なくしてはあり得なかっただろう。
  対人関係の画期的なツールとしてだけではない。個人の心の内面に光を照射したのも言語だった。自分の考えを分析し、客観的に整理しながら論理を明確にし、抽象的な思考を高度なものにし、哲学や宗教思想を完成させ、人類の知恵を増大させた立役者でもあった。
  言葉がなければ、繊細な感情を自覚することも、豊かな心の世界を深めていくことも至難の業となっていたにちがいない。サリバン女史に救われる以前の幼いヘレン・ケラーが、家族との意思疎通もままならず、混沌とした暗黒の内面を持て余して荒れ狂っていた事実は、言葉の奇跡的なまでの表現力がいかばかりかを暗示しているだろう。

  ・・・このように言語の価値はいくらでも列挙していくことができるが、同時に言語は人類最大の苦しみの元凶にもなったのである。知恵の果実を食して楽園を追放された男女のように、言語の出現と同時に人類は永遠に妄想で苦しむ羽目になったのだ。明日を思い煩い、悲惨な過去にいつまでも縛られ、疑心暗鬼に駆られ、ネガティブ思考に鬱々と蝕まれ、自己欺瞞や自己否定感覚に苦悩する日々が始まった・・・。
  言語が元凶となって誤解や勘違いが日常茶飯事となり、嘘や偽情報があふれ返り、挙句の果てに真実とフェイクが完全に見分けられなくなるまで悪化の一途をたどったと言えるだろう。
  さらに、現実から乖離した言語による脳内の区別化や差別化は、鋭いカミソリのように自他を分別し、対立を激化させる要因にもなった。
  叩かれて頭に瘤ができても死のうとは思わないが、心を折られた者は自ら命を絶つかもしれない。体を傷つける暴力よりも、罵倒され、見下され、侮蔑され、心をズタズタにされて生きる気力を奪い取られてしまう言葉の暴力のほうが、邪悪さも凶暴さも凄まじいだろう。
  社会的に優位な強者の言語は、弱者の言語を使う者を差別し排除し、富裕層や貧困層の階層社会を激化させる一因にもなっている。言葉の力で邪悪な権力者が自己正当化をし、カースト制を押しつけて弱者の貧困層を無力化させる時にも言葉が威力を発揮する。言葉は、毒をまき散らしてもきたのだ・・・。
  人類にとって、言語の価値が量り知れないように、言葉のマイナス要因も量り知れないのである。
  人は妄想で苦しみ、野生動物は事実で苦しむ。いや、人は事実でも苦しみ、妄想でも苦しむ・・・。

*言語野のOnOff
  哺乳類のクジラは海に戻っていったが、肺呼吸をエラ呼吸に先祖帰りさせることはなかった。進化に後戻りはないのである。たとえどれほどマイナス要因があっても、今さら妄想と言葉をセットで手放し、狼たちのように瞬間に生きることを選ぶことはできないだろう。
  どうすればよいのだろうか・・・。
  汲めども尽きぬ知恵の源である言語の価値から、弊害となったマイナス要因を排除すればよい。言語は記号であり、実体のない概念である。概念の連鎖が妄想であり、その妄想が正確な対象認知を妨げているのだから、妄想を止め、野生動物のように空っぽの心で対象をありのままに知覚すればよいということになる。
  だが、考える時には考え、思考を止めるべき時には止められるだろうか。人の頭の中では、微細なものを含めれば四六時中妄想や連想が流れていて、止まることがない。「ああ、ダメだ、こんな嫌なことばかり考えていてはダメになる!妄想はオシマイ!」と言い聞かせてピタリと止められる人がいるだろうか・・・。
  そんな人は滅多にいないし、できないからこそ、人類にとってヴィパッサナー瞑想が無くてはならないものになったのだと私は考える。複雑で高度に進化した人類の脳の正しい使い方を示すために、ヴィパッサナー瞑想が提示されたという理解である。いかんともしがたいことには、理論と技術がなければならないのだ。

  智慧は得るが、妄想は止めなければならない。妄想を止めるのは正確な対象認知のためだ、と言ってもよい。先入観や思い込みなど妄想の弊害を除去する技法として、ブッダによってサティの瞑想が開示されたのだ。言葉を持たない野生動物のように、知覚した瞬間にサティを入れ、その経験の意味がラベリングによって認識確定される・・・。
  サティを入れるとは気づくことであり、「気づく」とは一瞬の経験がいかなるものだったかを明瞭に知ることである。いや、こう言うべきだろう。たんなる気づきだけのサティは、理解力のともなったサティへと成長していく。ただのサティがあり、智慧のともなったサティがある。後者を「正知(サンパジャニャー)」と呼ぶこともできるし、「正念・正知」とセットで理解されるのが通常である。
  2つのサティが存在するように見えるが、サティの精度にはグラデーションがあるということだ。妄想や外乱と戦いながら、かろうじてサティを維持しているレベルのサティは、ただ気づくだけで精一杯である。しかるに、定力が高まり集中力のともなった精度の良いサティは、知覚対象から一瞬にして読み出される情報量が増えるので、対象(経験)への理解が増大し、智慧のともなったサティと称されるということだ。
  この、いわば高度なサティの現場では、ラベリング(言葉確認)が不可欠なものとなる。言葉を完全に遮断して認識する瞬間は、野生動物と大差がないだろう。分析力や抽象能力が本質の言葉で認識確定をくり返しながら、洞察のサティへと成長していくことが修行である。
  言語野のスイッチをOffにして、野生動物のようにありのままに知覚し、次の瞬間、言語野のスイッチをOnにしたラベリングで認識確定し、次の瞬間またスイッチをOffにする・・・。一瞬一瞬こんな複雑なことをしなければ、弊害を排除しながら言語の恩恵を享受することができなくなったのだ。異常に脳を進化させた人類の宿命である。
  瞑想修行としては、言葉脳のスイッチを切ったまま集中したほうがやりやすいし、そのまま集中が極まれば対象と合一するサマーディが成立する。これがサマタ瞑想である。
  だが、対象と一つに融け合ったまま蛸壺にいくらハマっていても、気持ちがよいだけで智慧が閃くことはないし、現実逃避の瞑想と非難されかねない。サマーディ瞑想は刃がこぼれて鈍化した刀剣を砥石でとぐことに譬えられ、解脱の智慧は、その鋭い刃で煩悩の根源である無明を切り裂き、闇に光を照射させることである。
  言葉も概念も駆逐された空っぽの心で対象を知覚し、それがどのような経験として認識されていくのかは、聖者と凡夫、智慧のある人と無い人、霊長類とトカゲや虫によって千差万別となる。言葉の正確な使用を心得ている人の認識は、言葉を持たない動物よりも高度な智慧の世界に通じているだろう。
  私の瞑想理論では、ヴィパッサナー瞑想の智慧が深まっていくプロセスは、ラベリングの進化に対応しているのである。ラベリング論をさらに続けていきたい。(この項続く) 

 今月のダンマ写真 ~
  

ダモ寺のレリーフ仏画

 先生より


    Web会だよりー私の瞑想体験ー

『まさかの瞑想』(後) 匿名希望(50代男性)

  私はもともと熱心な仏教徒ではありませんでしたが、たまたま実家が浄土真宗の檀家だったため、小さい頃からお経や浄土真宗の教えには親しみがありました。ですので、原始仏教の考えにはまったく抵抗感はありませんでした。ただ、原始仏教を知れば知るほど大乗仏教とのギャップに気づくようになり、これにはちょっとしたカルチャーショックを受けました。
    とにかく乗りかかった船ですし、やってみるかと思い、毎日10分間だけ歩く瞑想と座る瞑想を実践してみました。ところがいざやってみると、妄想や思考が出るわ出るわ、まともに体の感覚に集中できるのは30秒も持ちません。中学受験をさせない方がよかったのだろうかとか、子どもは将来ちゃんとした職業につけるのだろうかなど、過去の後悔や将来を憂える不安など、次から次へと余計なことが頭に舞い降りてきて10分がとても長く感じました。まるで心は暴れ馬のようでした。
   しかし、曲がりなりにも数か月間続けていると、少しずつ妄想や思考が出てくるまでの時間が長くなってきました。変な例えですが、スキーも最初はだれでも転びまくりますので、嫌になってやらなくなる人もいますが、それを乗り超え、少しうまくなってくると楽しくなってくるということがあります。何となくこれに似ている気もしました。
   この瞑想を数か月間続けると、すぐに私の苦悩がなくなったというわけではありません。ですが、思わぬ副産物が出てきました。それは仕事に集中できるようになり、タイピングなどが早くなったということです。
   それから以前よりは怒りの気持ちが出てこなくなり、いわゆる「ぶち切れる」というようなことはほとんどなくなりました。ただ、私はもともと負けん気が強い性格で、嫌いな人を毛嫌いする傾向が人一倍強かったのです。この気持ちはこれまでも私の人生でマイナス方向にばかり足を引っ張り、プラスになったことはありませんでした。でもこれは心の反応ですから、どうしようもありません。
   それが仏教に関する本を読む中で、四苦八苦の中に怨憎会苦というのがあり、2500年も前に仏陀が8つの苦しみの1つに定義していたことを知りなぜだかほっとしました。また、地橋先生から事実にだけ目を向け、反応の妄想を膨らませないということを教わりました。これまではそういう人と出会ったら、「なんでこんなところで会ってしまうんだ?今日は運が悪いな」などと、嫌悪の気持ちを自分で増幅させていましたが、「まだ自分の心の中に嫌う気持ちが残っているんだな」などと客観的に見るように心がけるようにしました。
   極めつけは慈悲の瞑想です。自分の嫌いな人が幸せになることや悩みや苦しみがなくなることを祈ることは至難の業でした。今でも心底できているかというと、若干疑問ですが、少なくとも嫌悪が自らをも苦しめることになるということを理解し、その心の氷ともいえる恨みの塊を溶かしていこうと努力しています。

   肝心の子どもの不登校に関する心の変化についてです。まず、原始仏教の経典に財産も子どもも自分の持ち物ではないと書かれていました。親としては子どもの幸せを願うばかりにレールを引いてその上を歩いていってもらいたいと思っていました。これが渇愛であり、執着だったということです。教育論的には、過干渉とか過保護ということかと思います。
   また、姉が教えてくれた「手放す」ということは、煩悩を捨てるということにも通じていることに気づかされました。比較する気持ちを仏教的には「慢」というそうですが、これも瞑想修行で手放すべき煩悩の一つに挙げられているそうです。比較して苦しむくらいなら比較しない方がいい、人を嫌って苦しむくらいなら嫌わなければよい。
   地橋先生からは、事実が変わらない限り、認知を変えるしかない。「<捨て育て>という言葉もある。決して見捨てるということではなく、黙って見守りながら、子どものやりたいことをやらせてあげる。お金は出すが、親の押し付けや干渉は一切しない。子供が失敗することを恐れず、仮に行き詰ったとしても、愛情のある眼差しで見守られているかぎり、人にはそれを乗り超えていく力が内在している。人間が本当に成長できるのは人生のどん底まで落ちた時である」というインストラクションをいただきました。
   確かに学歴がなくても立派に人生を切り開いていっている人はたくさんいます。「どうあがいても変わらないものは変わらない。それなら子どもが後悔しないように、好きなことをやらせてあげればいい。もし人生に行き詰まったらその時に考えればいい」。少しずつではありますが、最近はこのように考えられるようになってきました。人の人生は1度きりですし、明日死ぬかもしれないわけです。この心の変化も私にとっては、「まさか」でした。
   地橋先生の本の中に、「自分を苦しめるものは菩薩である」というフレーズがありました。これを私に当てはめると、子どもが不登校にならなければ私は瞑想とも原始仏教とも出会っていなかったということになります。私の子育てもあと数年ですし、決して永遠に続くわけではありません。子育ては親育てと思い、子どもがめぐり合わせてくれたまさかの瞑想を続け、自分の苦悩がどこまでなくなるのか、挑戦してみたいと思います。(完)
 
 
 谷中の牡丹

空を泳ぐ鯉 
K.U.さん提供
 






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 ダンマの言葉
『四聖諦』 (4) 比丘ボーディ
   
  20051月号から連載されました比丘ボーディによる法話『四聖諦』を再掲載いたします。今月はその第4回目です。

四聖諦(四)
3)正語
  正語は4つの面を持っています。
  1)偽りの話しをしないこと。つまり嘘をつかないこと。その代わりに真実を話す努力をします。
  2)悪意のある話しをしないこと。人々の間を分かつ言葉や、敵意を生じさせる話しをやめます。その代わりに、道に従う人は常に人々の間に友情や調和を作り出すような言葉を話します。
  3)租野な話しをしないこと。すなわち、怒りから出た言葉や、とげのある言葉をやめ、他人の心にナイフで切りつけるようを言葉をやめることです。その代わりに、柔らかく、優しく、慈愛ある話しをします。
  4)むだ話、うわさ話をしないこと。その代わりに意味のある話、重要な、目的を持った話をします。

  これらのことは、話すという能力にとても大きな力が秘められていることを表しています。舌は身体に比べればとても小さを器官ですが、この小さな器官は、それをいかに使うかによって大きな利益や大きな害を作り出す結果となります。もちろん私たちが実際に習熟しなければならないのは、舌ではなく舌を使う心の方です。

4)正業
  この要素は身体的を行為に関係しており、三つの面を含んでいます。
  1)生命の破壊をしないこと。つまり他の生命を殺さないことです。その中には動物や他の、感覚を持つ生き物すべてが含まれています。狩猟や釣り等もやめることです。
  2)与えられていないものを取らないこと。つまり、盗みや騙し、他人からの搾取、不正直、不法な手段による富の獲得をしないことです。
  3)性的な不道徳をしないこと。つまり不倫や誘惑や強姦のような不法な性的関係を持たないことです。そして出家した僧にとっては独身を守ることです。

  正語と正業の原則は否定的な表現で言い表されていますが、少し振り返ってみると、積極的な心の要素は、自制することと共に大きな力を伴い一緒に進むことを示しています。たとえば、
  1)命を取らないことは他の生命の苦しみへの共感を持ち、尊重することへの誓約です。
  2)盗まないことは正直さと他者の所有権を尊重することへの誓約です。
  3)嘘をつかないことは真実を語ることへの誓約です。

5)正命
  ブッダは弟子たちに、生命を害し苦しめるような職業や仕事、あるいは、自分の精神が堕落するような仕事を避けるようにと説いています。正直に、害のない平和な方法で生計を立てるべきです。
  ブッダは五つの具体的を避けるべき職業を述べています。
  1)生きた肉を扱う仕事
  2)毒を扱う仕事
  3)武器や兵器を扱う仕事
  4)奴隷取引や売春を扱う仕事
  5)人を酔わせる酒や麻薬を扱う仕事
  ブッダはまた、人を騙したり、嘘をついたり、押し売りをしたり、ごまかしたりして収入を増やそうとするどんな不正直な行いも避けるべきであると説いています。
  これまで述べてきた三つの要素、正語・正業・正命は、生きる上での行動の指針に関することでした。次の三つの要素は、心を訓練することに関するものです。

6)正精進
  ブッダは正しい努力によって心の訓練を始めます。道を実践するには、労力と活力と努力が必要なため特にこの正精進を強調しています。
  ブッダは救世主ではありません。彼は、「目覚めた人は道を示す。弟子たちは自ら励み努めなさい」と述べ、さらに続けます。「目的地は、励む者のためにあり、怠け者のためにあるのではない」。
  ここに仏教の大いなる楽観主義があります。この楽観主義によって、仏教は悲観主義であるという非難はすべて論破されます。
  ブッダは、「正しい努力を通して、私たちは人生の全構造を変えることができる」と述べています。私たちは、過去の条件によって作られてしまった希望のない犠牲者ではありません。遺伝子や環境の犠牲者でもありません。精神的訓練によって、心を智慧と悟りと解放の高みへと引き上げることができます。
  正精進は、四つの局面に分けることができます。心に生じる状態を観察してみると、善い心の状態(善心所)と、不善な心の状態(不善心所)という、二つの基本的状態に行き着くことがわかります。不善心所は煩悩、すなわち貪欲、嫌悪、迷妄と、それらの派生物を根源とする心の状態です。
  善心所の方は、八正道や四念処や七覚支のような、育て高めて行くべき徳の資質から構成されています。これら善心所と不善心所のそれぞれを見てみると、私たちがなすべき仕事が二つずつあります。合わせて四つになる正精進は、次のとおりです。

  1)未だ生じていない不善心所が生じるのを防ぐ努力
  心が穏やかな時に、煩悩が生じるきっかけになる何かが起こることがあります。例えば、快いものに対する執着、不快なものに対する嫌悪などです。この感覚を見守り続けていると、煩悩が生じるのを防ぐことができます。貪欲や嫌悪で対象に反応することなく、単に対象に気づきを入れているだけで良いのです。

  2)すでに生じた不善心所を手放すための努力
  すでに不善心所が生じていたら、生じた煩悩を消し去ることです。煩悩が生じているのを見つけたら、それを消し去ることに努力を傾けます。これにはいろいろな方法があります。
  3)未だ育っていない善心所を育てる努力
  私たちには心の中にしまってある、たくさんの美しい潜在的素質があります。これらを心の表に出すようにしなければなりません。例えば、慈しみや他者の苦に対する共感などです。
  4)現に存在する善心所をさらに強化し育成する努力
  私たちは、自己満足に陥ることを避けなければなりません。そして、善心所を保つ努力と、それらを充分に育て完成させるために発達させる努力をしなければなりません。

  正精進についてはさらに注意すべきことがあります。心とはとても精密を器械であり、それを発達させるには、さまざまを精神的要因の正確な調和を必要とします。どのような種類の心所(心の状態)が現れたかを理解する鋭い気づきが必要ですし、極端な方向に脱線することを避け、心の調和を保つためにある程度の智慧も必要です。それが中道を歩むということです。
  精進においては、心を疲れさせないようにすることと、もう一方で停滞することのないよう、調和をとることが必要です。「リュートで美しい音楽を奏でるためには、弦を強すぎず、ゆるすぎず張らなくてはならない」とブッダは述べています。
  道の実践も同じようなものです。修行の道は、精進(努力)と静寂(定)とを調和させて、中道を行くものです。(続く)
  比丘 ボーディ『四聖諦』を参考にまとめました。(文責:編集部)

       
今日の一言:選

 

(1)心は多層構造である。
  表面意識が無思考状態に入れても、意識下で通奏低音のように鳴り響いているものがある。
  トラウマや劣等感などが多いが、それだけではない。
  慈悲の瞑想に集中してからサティの瞑想を開始すると、暗黙の慈悲の波動が放たれる。
  優しい空間が出現する所以である。

(2)瞑想は、孤独な営みである。
  外界の人や環境との関わりを一時的に中断するからである。
  腐った内面を浄化し整えるためには、まず独りになって情報の乱入を拒み、思考や判断を停止しなければならない。
  瞑想者は内閉的な世界に自らを閉ざすがゆえに、ワガママになり独善的になる危険がある。

(3)余計な妄想を駆逐するサティの持続と、互いに思いやりさりげなく配慮し合う慈悲の瞑想の波動が絶妙にハーモニーを奏で、瞑想道場は優しい沈黙に包まれていく・・。

(4)それだけではない。
  人にも情報にも環境にも恵まれなければならない。
  外的な条件は、これまでに作ってきた善業と不善業によって決まる。
  徳がなければ瞑想が進まない所以である。
  そして全てが整っても、心に傷がありわだかまるものがあれば、瞑想は破綻する。
  反応系の心を組み換えていかなければならない。

(5)苦楽中道の原始仏教では、断食は苦行と見なされるのが常識である。
  しかし2日程度の断食は苦行ではなく、体の毒素を排除するデトックスであり、瞑想を深める技法である。
  秀逸な瞑想は意識の透明度に比例し、意識は体調、体調は食事の調整によって決まる・・。

(6)自分に対する怒りであれ、他人への憤りであれ、怒りは対象を打ち消し、拒み、否定し、破壊するエネルギーである。
  怒りを発すれば、その被害を最も深く、強力に受けるのは、自分自身である。
  病む。怪我をする。心が傷つく。関係が壊れ、情況が悪くなる・・・。
  愚か者は、よく怒る・・・。

     

   読んでみました
  関大徹著『食えなんだら食うな』(ごま書房新社 2019) 
  『食えなんだら食うな』は曹洞宗の僧侶、関大徹が197875歳の時に出版したものである。長らく絶版になっていたが、ごま書房新社から2019年に復刊された。ちなみに1978年のものはネットで数万円の高値がついている。復刊される前にはもっと高額だったことだろう。
  関大徹は明治36年(1903年)福井に生まれ、大正4年(1915年)に得度している。13歳の時、「饅頭がたらふく食える」という誘いに乗って坊主になったと告白している人が『食えなんだら食うな』という本を上梓するのだから面白い。

  「食う」というのは生きていく上での大命題である。自分の力で食べられるようになって一人前。
  私は、親に食べさせてもらっている間は、本当の自由は無いと思っていた。また子育ても、自分で食べられるようにするまでが、親の責任と思っていた。野生動物でも、産み育て、狩りができるように、食物を得られるようして子離れする。そのことに縛られていると言っても良い。それだけに「食えなんだら食うな」という一喝は魅力的に響いた。
  関大徹は「食えなかったら死ぬまでよ」と身軽に生きるために、妻帯しないことを選んだ。「妻子があれば、そのような身勝手はできない」と考えたという。実際その通りだろうと思う。だから肉食妻帯せず、酒煙草もたしなまず、行乞に出て糊口を凌ぐ、我が身ひとつ、いつ野垂れ死にしても満足、生涯素寒貧という軽快さを選んだ。
  江戸時代に対キリスト教の施策として確立した寺請制度、檀家制度によって純粋な宗教的存在では無くなった日本の仏教においては、僧侶は寺の運営が第一義であろうと思っていた。「食べるために僧侶になる」「お寺にいれば安心」というのが日本の大方の僧侶の在り方と思っていた私には、このような禅僧がいることは新鮮に思えた。(実際は、後年そうではない幾人かの高徳の僧侶と巡り合う機会が与えられたのだが・・・。)

  章立てを挙げてみよう。
  ●食えなんだら食うな
  ●病いなんて死ねば治る
  ●無報酬ほど大きな儲けはない
  ●ためにする禅なんて嘘だ
  ●ガキは大いに叩いてやれ
  ●社長は便所掃除をせよ
  ●自殺するなんて威張るな
  ●家事嫌いの女など叩き出せ
  ●若者に未来などあるものか
  ●犬のように食え
  ●地震ぐらいで驚くな
  ●死ねなんだら死ぬな

  明治生まれの人の感覚だろうという違和感は、正直ある。雇用機会均等法などはまだ無い時代であったし、子供の教育環境も今とは違った。しかし、根底に流れているのは、「与えられたものに感謝して誠心誠意励め」ということだし、「他者の痛みをしっかり理解せよ」ということだ。それは時代がどのように変わっても変わらない。
  章立てを見ると、小気味よく啖呵を切る人のように感じられるが、実際は言葉少なく吶々と語る人であったようだ。読み進めるうちに、厳しく温かい人柄が浮かび上がってくるようだった。ひたすらに歩んだ「道の人」であっただろう。寄進を受けてもことさらに喜んだり、相手を喜ばしたりしない。また布施が無くてもがっかりもしない。「自分は好き勝手に修行だけして生きているのに、ありがたい」という姿勢がいつも崩れない。他人のために力を尽くす。それでも理解されないなら仕方ない。褒められたくてやっているのではない。

  「食えなんだら食うな」に続いて「病いなんて死ねば治る」という文言にも惹かれた。「生きることは死ぬこと」という言葉が出てくる。確かに生まれたら必ず死ぬ。どのように死ぬかという差異があるだけで。死ねば治ってしまうのだから(肉体を脱ぎ捨てるのだから当然)、そのプロセスをしっかり見て、自分の心をしっかり観察してやろうという態度は禅なのだろうか?ヴィパッサナーなのではないか?

  そもそも「初関を得る」とはどういうことか?「見性」とは何か?ヒントになる記述がある。少し長いが引用してみよう。
  「一日中座っている。用便のとき以外立つことは許されない。粗末な食事も、運ばれてきたものを作法とおりにいただくと、ただちに座禅三昧に入る。もちろん、私一人である。・・・中略・・・蝉が啼いていた。・・・中略・・・騒然と啼いている、と最初は聴いた。それが実は、一定の気息のようなものがあり、それは大自然の気息と一体になっているといってもよく、一つに融けあった世界だと知って、私は私の気息もその蝉の無心に移しかえようとしたようである。この一週間、私にとって、蝉は師であり、仏であり、そして私自身が蝉になった。
  夜間も座禅は続く。意識が朦朧としている。そういうとき、不意に蝉が啼いた。・・・中略・・・蝉のおどろきが、私のおどろきになった。私は、蝉になっていた」
  これはサマタ瞑想によるサマーディではないのか?しかしこれは「初関」では無いらしい。この報告を聞いた原田祖岳老師が「初めての見性は近い」と言ったとある。その後の臘八接心(陰暦12月1日から8日、釈迦の成道にならって不眠不休で座禅すること)で初関を得たという。
  「見性が、いかなる内容であったかという点については、誰でもそうだと思うが、筆舌にあらわし難い。・・・中略・・・曰く言い難しというほかはない。強いていうなら、それは、私の『蝉座禅』の果てにたどり着いた、一種の宗教的恍惚かも知れず、恍惚といってしまったのでは、身も蓋もないが、やはり恍惚としかいいようのない世界であった。
  とにかく、私は一つの世界を得た。それは開放感といってもよかった。のびやかな気分だった。自由とは、これかと思った」
  タイで出家されたテーラワーダ仏教の日本人比丘に、20日弱の無言行での経験をお話した際に「比丘は自分の宗教的体験を語ってはいけないことになっている」とおっしゃって、ご自身の体験は語られなかった。ただ淡々と私の体験を聞き、瞑想のやり方の小さな注意をくださるのみだった。曰く言い難いということもあるだろうし、語ることによってむしろ初心者の修行の妨げになるのかもしれないとも思った。
  この本は座禅の指導書ではない。歩むべき道、方法を示すもので無いのだから、「どのように」というやり方が示されていないのは当然だが、禅僧が座禅によって「見性を得ること」を目指す様子を垣間見ることはできるし、ヴィパッサナー瞑想との共通点が大いに感じられるものではあった。

  関大徹の75歳までの歩みを語る前半に続き、後半では訪ねてくる(助けを求めてくる)多くの人々のエピソードが綴られる。「ここは精神病院ではない!」と言いたくなるような状態でもあったようだ。オートバイ泥棒の高校生、自殺未遂の若い母親、シージャックをはかった過激派、ノイローゼの少年、自殺か一流大学かの二択しかない青年・・・彼らとの関わりは「慈悲」の在り方を示していて興味深い。一見冷淡にも感じられるような在り方だが、物事を俯瞰して見ていながら、同じ地平に立って共感し道を示す、そんな在り方に感じられた。
  昭和20年の富山空襲の描写は凄まじい。僧侶として異臭漂うなか、死体から死体へと何日も喉を潰して読経を続ける。結局本人が倒れて死にかかる。たとえ何千人の死者がいても、個人にとって「死ぬのは己ひとり」という言葉が腑に落ちる。生き死には詰まるところ、極めて個人的なことなのだ。

  最後の章は「死ねなんだら死ぬな」。その中でいのちについてこのように書いている。

  「仏教でいう『いのち』とは『業』である。業というはたらきは永遠につづいてゆくのである。肉体は滅びても、業のはたらきは、はたらきをやめない。無始無終である。いま、われわれが生きているのも、突如として生きてきたのではなく、それだけの業のはたらきであり、これから先も業は、はたらきつづけてゆく。人の一生というのは、この無始無終のはたらきの一期間にしかすぎない。善業は善果をまねき、悪業は悪果をまねく。これは『道理』である」
  死ぬまでどう生きるかが問われているのだから、苦しまずに楽に死のうなどと、まともな仏教者なら決して言うべきでない。業と因果の道理をわきまえれば、現世の尊さが実感できる、生涯をかけて積み重ねてきたものの重さがわかる、と関大徹は言う。背筋が伸びる心地がした。と同時に、無常であり苦である現世につかの間、生きることを肯定できるようにも感じた。否定からひっくり返る肯定、これが大乗仏教なのだろう。
  一括りに大乗仏教と言うが、仏陀の生きた北インドから砂漠を越え、中国の精神風土のなかで変質し、さらに日本に渡って日本の文化や習慣に合わせて変質して、今の日本の仏教諸派がある。禅宗でも臨済宗と曹洞宗ではかなり厳格さにおいて違いがあるようだし、他力本願の浄土真宗、浄土宗と原始仏教では宗教理念を同じくするとは思えないほど違っている。
  私が地橋秀雄先生の下で取り組んでいるテーラワーダ仏教の瞑想技法は、座禅とは異なるものだし、そもそも明確に解脱を目指している点で、現世に力点を残している曹洞宗とは異なっていると思う。
  しかしながら、関大徹の語る言葉は、ストレートに心に響く。衒いの無い、飾らない言葉は初版から50年近く経ても読む
者の心を打つ。「はだしの禅僧」と呼ばれる関大徹は、75歳になっても托鉢に出て、作務をしていたという。その最期はどのようなものだったのか、調べても出てこなかった。

  「いつ死に直面しても動じぬ心得で生きてきた。それが、ほんものであったかどうか、私は知りたかった」と書いている通り、興味津々で死に臨んだように思うがどうだろうか。そうであっても、なくても「良し」として、飄々とその先へ歩いていっただろう。
  読みやすいし、読むと元気になる好著である。一読をお勧めしたい。(恭)  

文化を散歩してみよう
                         第16回:韓国文化の姓と名 (5)
  いよいよこのテーマの最終回ですが、その前に最近読んだ本(杉本つとむ著『語源入門』東京書籍2007)に言葉の変化として「子音交替」ということが書かれていました。「クンナラ」が「クダラ」と変化した裏付けと思いますので紹介いたします。それは例えば「ノク」「ノケル(除ける)」が「ドク」「ドケル」となるように、n→dと子音が交替したと言うものです。また、「無駄mudaも、古語、空シのmunasiと、ndの子音交替かもしれません」とも言っています。単に訛ったというわけではなかったようです。

  先月号から続きます。
  先月号の最後にあげたいわゆる「唐天竺」のカラの元になった伽耶(加羅)は、金官国(駕洛国)、任那などといくつかの名称で呼ばれ、また日本()との関係についてもさまざまな説が称えられていますが、ここでは触れません。この国は6世紀半ばに百済や新羅によって滅ぼされます。また、高句麗、新羅、百済の三国のうち、660年(斉明天皇6年)に百済が、668年(天智天皇7年)に高句麗が新羅と唐との連合軍によって滅ぼされました。
  『日本書紀』にはそれ以前から出来事や交流の記録が多く記されていますが、私は今回はじめてそれらの記述を読んでみて、当時の朝鮮半島と列島との関係の深さにあらためて驚かされました。とりわけ百済と倭国はまるで兄弟のような印象さえ受けました。
  百済からは論語と千字文、また五経(易経、詩経、書経、春秋、礼記)をはじめ、暦書・天文・地理・遁行・方術が伝えられたと言われています。また、種々の薬物や暦本や卜書を求めたりもしていますが、当然それらに通じている人々も来なければ役に立ちません。また高句麗の医師徳来は百済に依頼した結果渡来した人物で、難波で子々孫々医を業として『難波薬師』の称号を受けたと言います。
  また、知られているように仏教も百済から、日本最初の仏寺として法興寺(後の飛鳥寺)を建てた技術者たちも同様です。さらに伽藍配置の形は高句麗から百済を経て伝えられています。このようにとくに百済からは文物とともに多くの人々が渡ってきていたことがうかがえます。
  *一説によると、日本書紀には三国に関わる記事が4分の1から3分の1を占めると言います。詳しくカウントしたわけではありませんが、確かに頻繁に出てきていて、それぞれ大変興味深いものでしたが、主題が異なるため本稿では諦めました。

  それはさておき、600年代半ばからの姓名に関係するところのみ、わずか一部ですが抜き出してみました。以下は井上光貞監訳、笹山晴生訳『日本書紀』下(中央公論社2020)からです。
  ◇訳者による解説には、「全体として歴史的事実の反映と認められるものであるが、暦日はまだ確かなものではなく」、また、個々の事件についての「年次は、必ずしも信のおけるものではない」とあります。さらに凡例には、〔〕内は原著の分注、もしくは分注ではないが異説を併記したもの、()内は訳者の注や簡単な補足が掲載されています。
  また、本稿では、年月日などの表記は算用数字に、また流れを考えて一部(役職名の説明など)削除したところもありますので、必ずしも原著のままではありません。なお、三国系の人名には下線を付けました。ルビは当該書にあったものですがわからないものもあります。古代史に興味が薄い方がおられるかも知れませんがご一緒にどうぞ。 
  ※印は私の文章です。

○「日本書紀」から
  孝徳3年(647
  「新羅が上臣大阿飡(だいあさん)金春秋(こんしゅんじゅう)(のちの武烈王)らを遣わし、博士小徳高向黒麻呂(たかむくのくろまろ)と小山中中臣連押熊(なかとみのむらじおしくま)とを送り、来朝して孔雀一羽・鸚鵡一羽を献上した」
  ※新羅にはすでに中国式の名前の高官がいたのですね。

  天智2年(663
  「甲戌(24日)に、日本の軍船と、佐平余自信(よじしん)、達率木素貴子(もくそきし)谷那晋首(こくなしんす)憶礼福留(おくらいふくる)、それに百済の国の民らが弖礼城(てれさし)に至った。翌日、船を発してはじめて日本へ向かった」 
  8月には白村江の戦いで百済援軍の倭国軍が潰滅。9月には州柔城(つぬさし)がついに唐に降伏、生きのびた人々は妻子たちとともに国を去りました。ルビの発音は日本式の音読みです。

  天智3年(664
  
「この月(2)に、百済国の官位の等級のことを検討し、佐平福信(ふくしん)鬼室(きしつ)福信)の戦功の故をもって、鬼室集斯(きしつしゅうし)福信の子か)に小錦下を授けた」
  「秋8月に、達率答㶱春初(とうほんしゅんそ)を遣わして、城を長門国に築かせ、達率憶礼福留・達率四比福夫(しひふくぶ)を筑紫国に遣わして、大野および()の二城を築かせた。また、耽羅(たんら)が便を遣わして来朝した」
  ※この年、対馬や壱岐、また筑紫の国に防人と烽を置き、筑紫には大きな堤を築いて水を貯えて水城<みずき>と名づけました。佐平や達率は官の地位です。また、 耽羅は済州島で当時は王国だったようです。

  天智7年(668
  「秋9月の壬午の朔英巳(12日)に、新羅が沙淥級飡(さとくきゅうさん)金東厳(こんとうごん)らを遣わして調(みつぎ)をたてまつった。丁未(26日)に、中臣内臣(鎌足)は、沙門法弁と秦筆とを使として、新羅の上臣大角干庾信(かんゆしん)金庾信(こんゆしん))に船一隻を賜い、これを東厳らにことづけた」
  ※新羅では一字姓がポピュラーになっているような印象です。

  天智8年(669
  3月の己卯の朔己丑(11日)に、耽羅が王子久麻伎(くまぎ)らを遣わして朝貢した。丙申(18日)に、耽羅の王に五穀の種を賜わった。同日、王子久麻伎らは帰途についた」。
  「12月、また、佐平余自信、佐平鬼室集斯ら男女七百余人を近江国の蒲生郡に移住させた」

  天智10年(671
  「正月:この月に、大錦下を佐平余自信沙宅紹明(さたくしょうみょう)に授けた。小錦下を鬼室集斯に授けた。大山下を以て達率谷那晋首(こくなしんしゅ)木素貴子(もくそきし)憶礼福留春初日比子賛波羅金羅金須、鬼室集信に授けた。小山上を達率徳頂上(とくちょうじょう)吉大尚(きちだいじょう)許率母(こそつも)角福牟(かくふくむ)授けた。小山下をその他の達率ら五十余人に授けた。

  橘は 己が枝枝(えだえだ) ()れれども 玉に()く時 同じ()に貫く

(橘の実はそれぞれ違った枝になっているが、それを玉にしてひもに通す時は、同じ一つのひもに通すのだ)という童謡があった」

※知識や働きが認められたり、高位に昇ったりしているようです。ただ、谷那晋首の「首」や木素貴子の「素」は前出とのルビが異なります。また「比子」は人名のようでもあり、「賛波羅金羅金須」は肩書きのようにも思えますが、いずれもわかりません。

  以上わずかに一部にすぎませんが、これだけでも当時の国際関係の深さや複雑さが十分伝わってくるのではないでしょうか。なにしろ百済再興の支援に大和朝廷が送った兵は3次にわたって計5万に及ぶとの研究もあるくらいですから。そのころの倭国の総人口は500万ほどとも言われ、男半分としておそらくぎりぎりまで国力を注いだに違いないと思います。
  このほかにも大唐人、百済人、高麗人、新羅人に冠位を与えたり、各地に移住させたりする記事が目白押しです。

○こんな例も
  ここで見られるだけでも、朝鮮半島にルーツを持っている人々、あるいはそこから日本に訪れた使者の名前には、中国式の一文字もあり、固有の姓名と思われるものがありました。おそらくですが、後者の場合は本来の発音に似た漢字を当てたり、あるいは漢字の意味をもってきて母国の発音に置き換えたりしたのではないかと推測されます。
  歴史的には日本はもとより朝鮮半島における正式な文章表記法は漢文でしたが、日本では漢字の音を借りたり意味を併用して言葉を記述していました。例えば、音だけを借りたものには「卑弥呼」とか稲荷山古墳から出土した鉄剣に刻まれた大王名の「獲加多支鹵(わかたける)」などがありますし、意味を併用したものには「春過而(はるすぎて) 夏来良之(なつきたるらし) 白妙能(しろたえの) 衣乾有(ころもほしたり) 天之香来山(あまのかくやま)(万葉集巻1)という持統天皇天応の歌などがあります。

  朝鮮半島では三国時代ころからと言われますが、漢字の音と意味を借用して言葉の語順に合わせた「吏読(りとう)」という表記法が生まれました。現在も研究されていますが、韓国語の発音はかなり複雑なためなのでしょう、万葉仮名の一部からひらがなが生まれてきたようにはなりませんでした。
  ただ高句麗の人名には漢字の意味と音を用いている明らかな例があります。例えば皇極天皇元年(642)2月6日に伝えられた情報には、大臣の伊梨柯須弥(いりかすみ)泉蓋蘇文(せんがいそぶん)蓋金(こうこん))が「大王(栄留王)を殺したうえ、伊梨渠世斯(いりこせし)など百八十余人を殺害して、弟王子の子(宝藏臧王)を王とし、自分の同族の都須流金流(すつるこんる)を大臣とした」ということが記されています。
  泉蓋蘇文淵蓋蘇文(えんがいそぶん)とも記され、世界史の教科書でも出てきたことを覚えていますが、ネットを見ると、「姓の『淵(泉)』は高句麗語の『いり(高句麗語で「水源」の意味と推察されている)』を漢字訳したもの、名の「蓋蘇文」は高句麗語で『かすみ』と発音したものを漢字で当て字したことがわかる」とありました。つまり意味と音の併用というわけです。

○一文字になったわけ
  いよいよ最後です。なぜ姓名が中国式の一文字に変わっていったのでしょうか。結局ズバリこれだというような理由はわからないのですがいくつかの要因が重なり合っているように思いました。

  第一に考えられるのは中国からの移住です。以前、韓国・朝鮮人のDNAからその60%が中国系だという記事を読んだことがあります。族譜の研究からも中国から移り住んだ一族がわかるそうです。族譜の編纂は高麗時代からですが、それ以前も含めて中国からの移住者の姓名は中国式だったでしょう。
  このような記事もあります。
  12世紀の日本は京都を中心に住民の80%程度が韓国系であった。また韓国人の40%程度は中国系である」(金東旭「東北アジアのなかの韓国文化」コリアナ89年春号)
  ただ、「朝鮮の外来帰化氏族」としてネットで調べてみると、「女真、契丹の攻撃によって合併の恐れがあった高麗時代には女真、契丹との違いを表すため中国の苗字を借り、中国から帰化したという族譜を作るようになった」とあります。このように、族譜の編纂を契機に一文字姓が広がっていったのは高麗時代かも知れませんが、それ以前からそのような流れはあったと思われます。

  第二の要因と考えられるのは外圧です。三国時代には三国とも大国唐の脅威を感じていた、あるいは唐に認められることに力を注いだであろうからです。特に新羅で一文字姓が目立つのは、唐と連合を組み、その力を借りて統一を果たすわけですから、さらに関係を深めようとの思惑もあったと思います。つまり一文字姓に変えることは新羅のサバイバル戦略の一つだったとも言えそうです。当時の新羅の武烈王の名前が金春秋というのもその傍証とも言えるのではないでしょうか。
  あるいは逆説的になりますが、唐との関係において外交的に対等の姿勢を示そうとしたのかとも思います。中国式の名前が必ずしもへりくだる意味ではなくプライドを示すかのように。事実、新羅によって半島が統一された以降、唐との関係は悪化していきました。

  第三の要因としては国内事情です。当時は姓を持つのは支配階級だけ、庶民に姓はありませんでした。もちろん庶民にも呼び名はありますが、それと区別するために姓をつけたということです。もっとも、支配階級に属する人数といえばそもそも限定的でしょうから、中国式に姓を変えるのにそれほど大がかりなことではなかったのではないかと思います。

  第四はやはり文化的な憧れの反映です。何といっても唐は文明の中心ですから。
  上にあげた「朝鮮の外来帰化氏族」にも、「多数の韓国の学者は朝鮮時代の学者・茶山丁若鏞が主張したように朝鮮半島の土着民が模華思想で中国の苗字を使ったと思っている」とありました。これは土着民の側から姓氏の変更が起きた背景に中国文化を慕う心情があったということを言っています。
  高麗時代に完成した現存最古の歴史書の『三国史記』にはこうあります。
  「真徳王の在位2年(648)になって、金春秋が唐にゆき、唐の儀礼をうけいれたいと申しでた。〔唐の〕太宗皇帝がこれを許可し、あわせて、〔唐の〕衣服・帯を賜った。そこで〔金春秋が〕帰国し、〔唐の衣服の制を〕施行し、夷〔俗〕を中国風に易えた。文武王4年(664)に、また、婦人の衣服〔の制度〕を改めた。このとき以後、衣冠〔の制度〕は中国と同じになった。
  わが〔高麗の〕太祖が天命をうけ〔即位す〕ると、すべての国家の法律は、〔新〕羅の旧〔制度〕に多くよっていたので、〔新羅の衣服の制度は〕今(高麗)の宮廷の子女の衣服にまで存続している。おもうに、これまた〔金〕春秋が願いでてもちかえった遺制であろうか。臣(金富軾)は三度使者として上国(宋)にいったが、一行の衣冠は宋人と異なるところがなかった」(井上秀雄訳注『三国史記』巻33 雑志第2 色服 平凡社東洋文庫4541986

  つまり結論としては、「移住者の存在という歴史」、「政治と国際状況(唐と三国の関係)」、「外交上の理由(承認欲求および対等性への思惑)」、「社会状況(支配階級だけに姓がある)」、「高度な文明への憧れ(事大主義の萌芽)」などのいろいろな理由から、結果として中国式の一文字姓名になったのではないかと考えています。
  姓名のことをテーマにして調べているうちにこんなことになってしまいました。ちょっと幅を広げすぎた感もありますが、もし興味を持っていただけたら幸いです。(このテーマ:完)(M.I.)

  
    ちょっと紹介を!

   ティモシー・ワインガード著、大津祥子訳
 『蚊が歴史を作った 世界史で活躍する人類最大の敵』(青土社 2023)


著者はオックスフォード大学で歴史学を専攻して博士号を取得。現在、コロラド州グランド・ジャンクションにあるコロラド・メサ大学で歴史学と政治学を教える。カナダと英国の陸軍で将校として服務経験。軍事史と先住民族研究の分野で4冊の著書がある。
  訳者は津田塾大学国際関係学科(フランス政治史専攻)卒。共訳書に『ビジュアル図鑑 スーパークールテック 世界のすごい技術』(すばる舎)、『にわかには信じがたい本当にあったこと』(日経ナショナルジオグラフィック社)。

  今、最も多く人を殺しているのは蚊だと言われるが、歴史を変えるほどの影響があったことに改めて驚かされた。本書は内容的にかなり惹かれるが、大部で情報も多岐にわたりしかも詳細で、年次や場所を追うのにかなり努力がいった。なので、世界史や地理についてある程度知識のある人にとっては頭に入れやすいが、もし(私も含めて)そうでなければ、面白そうなところに絞って読んでみるのも本書を読む一つの方法かと思う。
  「はじめに」によれば、本書の主題は「戦争や政治、移動、交易、人間による土地の利用方法の変化のパターンと、自然気候の間における相互作用」についてだという。目次もそれにならって第1章の古代から第19章の現代まで、しかも副題が付いていてそれだけでも字数オーバー気味となる。そのような理由から本稿では目次は略した。また内容も恣意的にいくつかのトピックに絞らざるを得なかった。

○ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団の年次報告書では「2000年以降、蚊を原因とする人間の死者数は年間平均で200万人前後となっている」という。また、「人類の20万年の歴史を通して、この世に生存した累計1080億人のうち、蚊によって520億人が殺害されたと推定される」そうだ。(「はじめに」から)

○読み始めてすぐに「えっ、そうなの!」と思ったのは・・・。
  「単細胞の細菌は、おおおよそ45億年前に地球が形成されてからほどなくして出現した最初の生命体だった。原始の大気の大釜と海水の軟泥から生まれると、速やか自己を確立し、他の全ての動植物を合わせた量の25倍にものぼるバイオマスを生成し石油や他の化石燃料の起源となった」(p.20
  学校では有孔虫や放散虫が石油の起源だと習った(と思う)。ネットで調べたところいろいろの説があるというのも初耳だった。

○また、例の小惑星の衝突時には、すでに「恐竜は既に大きく衰退して」いたそうだ。
  「ある学説によると、地域の種の最大70パーセントが絶滅または絶滅の危機に瀕していた」そうで、純古生物学者のポイナ一夫妻は「天変地異説支持者、漸進説支持者のどちらも、病気の可能性は無視できない。特に非常に小さい虫によって媒介される病気は、恐竜の絶滅に婁な役割を果たした」と結論付けている。(p.24
  これは23年の12月号で取り上げた『理不尽な進化』に加えることが出来そうだ。(以上は第1章から)

8000年前のアフリカで、マラリアがヘモグロビンの変形を促し、マラリアに耐性をもつ遺伝性の鎌状赤血球というのを作り出したという。当時、鎌状赤血球を保有している人の平均寿命は23歳だった。だが、保有していない人の平均寿命はさらに短い。だから、そんな時代に23年と言えば、「子孫の50パーセントにこの傾向を遺伝させるには23年は十分な長さで、素晴らしいトレードオフだったのだろう」。(p.44
  マラリアを始めとする蚊媒介感染症と戦うための香辛料、飲み物、食品などの話も出てくる。コーヒー文化の広まりの起源としてエチオピアのヤギ飼いカルディの伝説があるというのも面白い。(p.53(以上は第2章より)

○今のマラソン競技のもとになった「神話」は二つの事実を混同したものだそうだし、ヒポクラティスは「最良の医術は予防であり、治療ではない」と言い切ったという。(第3章より)

○そして十字軍。「十字軍」いう言葉はその当時は使われてはおらず、宗教的な要素は背景にあるねらいを隠す覆いだったそうだ。実はその根底にあったのは、「政治、領土、経済におけるメリット」で、「回数を重ねるにつれて、実入りのいい営利事業になった」という。その詳細もこの章で説明されている。(5章より

○さらにモンゴル帝国の拡大がある。それにはもちろん強力な軍事力があったからだが、拡大のきっかけは小氷期による急激な気温の低下で、牧草地が大幅に減少したことによる。つまり、牧草地は馬を養いながら遊牧生活を続けるのに不可欠であって、「モンゴル人にとっては拡大か、さもなければ死かのいずれか」となったためだったという。これなど世界史で習ったかも知れないが、すっかり忘れていた。

○モンゴルの侵略はおよそ300年続き、東西を結びつけた。しかし「ヨーロッパの蚊の粘り強い防御を打ち破ることはできず」、結局東方へ去っていった。しかしそれをきっかけに「香辛料や絹、想像以上にエキゾチックな輸入品は、ヨーロッパの市場の棚や露店での主力商品」となり、加えてマルコ・ポーロによる情報に触発されたのがコロンブスだった。
  ロヨラ大学の歴史学者バーバラ・H・ローゼンワインが明言しているのは、モンゴル帝国の影響で「エキゾチックな品物や布教機会を求めるように」なったヨーロッパ人がついにアメリカ大陸を発見するに至ったが、「この意図せぬ『発見』によって、周囲から孤立して免疫性のない南北アメリカの先住民に対し、歴史的に類を見ない蚊や疾病、死の大波が放たれた」のだと。(p.173)(以上は第6章から)

○ここからはアメリカ先住民を襲った悲劇について。
  なぜ先住民にはそれまで蚊が媒介する感染症がなかったのか、つまり免疫がなかったのかというと、それはこういうことらしい。
  それはアメリカ先住民が北方からアメリカ大陸に移住した時の状況だ。つまり、動物や昆虫が繁殖したり病原となるにはあまりに寒すぎ、そのうえ人口密度は非常に低く、また頻繁な移動もなかったために病気感染の連鎖が断たれたと考えられるということ。
  さらに、「紀元後1000年頃からの短期間にノース人がニューファンドランド島を訪れた際に先住民に病気がうつらなかったと思われること、もし感染があったとしてもせいぜい一過性だったことも、これらで説明がつく」とされる。(p.179180
  いまさらだが、「なるほどそうなのか」と思う。たしかに、ヨーロッパ人が持ち込んだ病気で免疫のなかった先住民の多くが死亡したと習ったが、ここまでの記述は教科書にはなかった。

○もっとも、アメリカ大陸にももともと無害のハマダラカがいたそうだ。だがその蚊はヨーロッパ人が持ち込んだ有害のハマダラカによってすぐさまマラリア媒介蚊になったという。
  また当時のヨーロッパでは、天然痘や結核、麻疹、インフルエンザに加えて、蚊を媒介とする感染症が全盛を誇っていたそうだ。だがそれに対して、もちろん全員ではないものの多くは免疫を持っていたという。それこそが、ヨーロッパ人をして世界の大半の地域を征服して植民地化することを可能にした「真相であり、唯一の理由」であって、「辺境の入植地の(全てとは言い兼ねるが)非常に多くにおいて、病原菌によって先住民に対する集団殺戮が行なわれたのだ」。(p.182

○さらには、アメリカ大陸の「先住民は人獣共通感染症を持つ動物を飼っていなかった」し、「旧世界で広く見られたような生態系のバランスが崩れるほど農業を商業化していなかった」こともあるという。(p.185

○結局、「1492年に南北アメリカ大陸の先住民数は1億人だったと推測されるが、1700年にはおおよそ500万人になっていた。世界人口の20パーセント以上が抹殺されたのだ。蚊は天然痘といった他の疾病と共に、集団殺戮に関して有罪であった。生き残った民族は小人数で途方に暮れ、その後に直面したのは、無慈悲に目まぐるしく続く戦争、大量殺戮、強制移動や奴隷になることだった」(p.192(以上第6章より)

  本書ではこのあと、中国の阿片、植民地化されたインド、キニーネの発見、アフリカからの奴隷の悲劇、アメリカ大陸におけるその後の歴史、等々が語られるが本稿では略す。

  「終りに」で著者は、次のように記している。
  蚊は地球を19000万年間支配し、現代の世界秩序を生み出すとともに、近年では、「自然的要因による温暖化が温室効果ガス排出によって加速し、地球を消耗させる中で、以前は蚊媒介感染症が発生していなかった戦域に入り込むことで、蚊は新たな戦場を拡大している。蚊の勢力範囲は広がって南北両方向と垂直に拡大し、高地にも向かった。以前は進出できなかった地域でも、気温が上がって生存できるようになったからだ。頑強な蚊媒介感染症は、蚊の生き延びるための進化への熱意を通して、あちこちに移動して互いに交わるようになった人間たちに対してますます脅威をもたらすようになった」と。
  今のところ「かゆみ」ぐらいで済んでいるのは運が良かっただけかも知れない。(文責:編集部)

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