月刊サティ!

2024年4月号  April  2024

 今月の内容

 
  巻頭ダンマトーク:今月は休載いたします
   ダンマ写真
  Web会だよりー私の瞑想体験ー:『まさかの瞑想』(前) 
  ダンマの言葉 :『四聖諦』(3)
  今日のひと言 :選
   読んでみました :クリスティーン・ボーデン著、檜垣陽子訳
   『私は誰になっていくの? -アルツハイマー病者からみた世界』
                        (クリエイツ(かもがわ 2003)

  文化を散歩してみよう:『韓国文化の姓と名』 (4)
   ちょっと紹介を!:田中伸尚著『死刑すべからく廃すべし』(平凡社 2023)

     

    【お知らせ】】

      <地橋先生による「巻頭ダンマトーク」がまもなく再開されます。ご期待ください!!>     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。

 
     

 今月のダンマ写真 ~
  

琥珀色のブッダ

 先生より


    Web会だよりー私の瞑想体験ー

『まさかの瞑想』(前) 匿名希望(50代男性)

  人生には上り坂と下り坂とまさかという3つの坂があるとよく言われます。だれも「まさか」が自分の身に降りかかってくるとは思わないものです。私もそうでした。ここでは、私の身に降りかかった「まさか」と瞑想との出会いについて書かせていただきます。
  私にとっての「まさか」は、子どもの不登校でした。近年、不登校は年々増え続けており、社会問題にもなっています。でも、まさか自分の子どもが不登校になるとは思ってもいませんでした。しかも地域の公立の中学校ではなく、塾に通い、中学受験までした私立大学の付属中学校でした。当然ながら不登校が続けば、エスカレータ式で系列の高校や大学には上がれなくなります。
  「なんであんなに苦労して勝ち取った切符を手放すんだろう。この学歴偏重社会の中で生きていくにはエスカレータに乗っていた方が明らかに有利なのに」。このような思いが私の頭の中を駆け巡りました。まさに合格、入学という天国から地獄への転落という感じでした。
  ちなみに私は自分で言うのもおかしな話ですが、自身が遭遇してきた苦難や逆境は乗り越えてきたつもりです。病気などは運命ですし、どうあがいたところで治るものでもありません。それならそれを生きていくための条件ととらえ、自分に与えられた役割を粛々とこなすしかないと考えることができていました。つまり、これまで挫折という挫折はほとんど経験したことがありませんでした。

  でも子どものことは違いました。自分の心の持ち方だけではどうにもなりません。感情的に怒鳴ってしまったこともありましたが、冷静に論理的に話しもしました。しかし、思春期の反抗もあり、事態は何も変わりませんでした。将来の夢もかつては体育の先生かプログラマーと言っていたのですが、プロゲーマーやユーチューバーへと変わっていきました。こうなると、私の頭の中をマイナス思考が循環し、ふと気づくと、いつも子供の将来を案じているという状態に陥っていました。おそらくこの頃の私は鬱病寸前までいっていたと思います。
  この苦悩に対し、兄弟や親戚も親身になって話を聞いてくれ、心に響くアドバイスもくれました。例えば、「朝が来ない夜はない」「聞くことと待つことが大事」「人間万事塞翁が馬」「神は乗り超えられない試練を与えない」などです。

  その中で姉が、「手放す」ことの大切さを教えてくれました。手放すとは、見栄やプライドだけでなく、比較する心も手放すというものでした。確かに私は、「どうして多くの子どもは普通に中学校に通っているのに我が子はそうではないんだろう」という比較からくる悩みに苦しんでいました。「比較する心を手放す」というのは理論では理解できるのですが、心底からは納得できず、葛藤の日々が続きました。
  姉が進めてくれたもう1つが瞑想でした。それは、マントラを唱えるサマタ瞑想だったのですが、なぜだか直感的に瞑想が私の苦しみを救ってくれるのではと感じました。心が弱っている時はだれでも藁にもすがりたい気持ちになりますので、そういう側面もあったのだと思います。ひょっとすると、怪しい新興宗教に誘われていれば、入っていたかもしれません。
  そこで、瞑想に関する本を20冊近く読みました。その中で、地橋先生が書かれた「心の疲れが消えていく瞑想の不思議な力」という本になぜか魅了されました。この本の中に「子どものためと言いながら、自分が達成できなかった夢を子どもに押しつけている。親の学歴コンプレックスから子どもに無理やり勉強や習い事をやらせている。うまくいかなかった親の人生を子どもを使ってやり直そうとしている。子どものためを装いながら親の自己満足を満たそうとしている。こうした質の悪い愛をいくらもらっても子どもはあまり優しい人にはならないでしょう」と書いてありました。これらの指摘は100%私に当てはまるというわけではなかったのですが、なぜだか心に刺さり、一度この先生に合ってみようと思い立ち、ネットで調べ、初心者講習会に参加しました。その後、1Day合宿と朝日カルチャーセンターの講座も受講しました。(つづく)

    

 闇の桜花



         五行川の春@下館    
地橋先生提供
 






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ダンマの言葉

                    『四聖諦』 (3) 比丘ボーディ

  20051月号から連載されました比丘ボーディによる法話『四聖諦』を再掲載いたします。今月はその第3回目です。
                                                                                         比丘ボーディ 
四聖諦(三)
―ニッバーナ(涅槃)―
  「私が説くのは、ドゥッカ(苦)とドゥッカ(苦)の消滅についてだけである」とブッダは語っています。
  第一の聖なる真理は苦の問題を扱っています。しかし、苦の真理はブッダの教えについての最終の言葉ではなく、出発点にすぎません。
  ブッダは苦の教えから始めます。それは、ブッダの教えがある特定の目的、つまり苦からの解放へ至る道を目指しているからです。
  この目的を達成するために、ブッダは解放を目指す理由を私たちに示す必要がありました。自分の家が火事だということを知らなければ、人は楽しんだり、遊んだり、笑ったりしながらその家に住み続けます。その人を火事の家から連れ出すには、まずはじめに家が火事だということを理解させなければなりません。同様に、ブッダは「私たちの人生は老病死で燃えている」と教えています。私たちの心は貪瞋痴で燃えているのです。その危険に気づかなければ、私たちは解放への道を求めようとはしません。
  第二の聖なる真理により、「苦の主原因は渇愛、即ち視覚(眼)・音(耳)・臭い(鼻)・味(舌)・触覚(身)・考え(意)の世界に対する欲望である」とブッダは指摘しています。苦(ドゥッカ)の原因は渇愛なので、苦の終焉に至る鍵は渇愛を取り除くことにあります。それ故、ブッダは第三の聖なる真理について、「渇愛の除去」だと説明しているのです。

.第四の聖なる真理 ―苦(ドゥッカ)の消滅に至る道―八正道
  四聖諦とは、「苦、苦の原因、苦の消滅、そして苦の消滅へ至る方法」であり、その中にブッダのすべての本質的な教えを含む「象の足跡」です。これら四つの真理の中からどれか一つの真理を取り出して、他のものよりも勝れていると言うようなことは危険なことでもあります。なぜなら、四つの真理はすべて非常に密接に組み合わさって一つのまとまりを作っているからです。
  しかし、かりに私たちがその完全なダンマ(真理)への鍵として一つを選び出すとしたら、それは第4の真理、苦の終焉への道でありましょう。それは聖なる八つの道です。その八つは三つの大きなグループに分かれ、八つの要素からなっています。
  先ず智慧のグループとして「正見」「正思堆」
  次に戒のグループには「正語」「正業」「正命」
  そして定のグループの「正精進」「正念」「正定」です。
  この八正道はブッダの教えの中でもっとも重要な要素であると言えます。なぜなら、八正道は法(ダンマ)を生きた経験として利用できるようにするものだからです。八正道がなければ法(ダンマ)はただの殻であり、生命のない学説の集まりになってしまうでしょう。八正道がなければ、苦からの完全なる救済は単なる夢になってしまうでしょう。

1)正見
  正見は八正道のすべての要素を案内し指導する「見方」という役割を担っているので、第一番目に置かれています。八正道の実践において、長い道のりを旅して行くための方法を知るために、私たちは正見によって与えられる展望とものごとを理解する力を必要とします。さらに続いて、私たちを目的地に連れて行く他の要素、つまり行為や実行が必要となります。
  つまり、実際の行いに着手する前に、私たちの案内人あるいは内なる指導者として、「どこから始め、どこに向かい、実践において一つの段階が過ぎたら次に続くものは何か」を示すために、正見による理解力が必要になります。そのために正見は八正道の最初に置かれているのです。
  ブッダは通常、「正見とは四聖諦への理解である」と定義しています。つまり、「苦と、苦の原因、その消滅、そして苦の消滅に至る方法」です。出発点から道を正しく理解するために、私たちは人間の状況について正しい視点を持つことが必要です。
  どういうことかというと、私たちの人生において、完全な満足は得られないこと、人生は無常であること、苦に支配されていることを第一に理解しなければなりません。そして苦は、理解によって見抜くべきものであり克服すべきものだということです。娯楽や気晴らしや、心の鈍化による物忘れといった「苦痛の除去剤」によって逃れるべきものではありません。そのことをまずは理解しなければなりません。
  もっとも深いレベルで観れば、私たちの存在を作っているすべての物事は五つの集合体(五蘊)です。そしてそれは永続せず、絶えず変化しています。それゆえそれを安全や変わらない幸福のための基礎として維持することはできないのです。ですから、苦の原因はあくまで私たち自身の心の中にあるということです。誰も私たちに苦を押し付けてはいません。その責任を自分たちの外部に置くことはできません。私たち自身が渇愛や執着を通して苦や痛みを生み出している、このことをよく理解すべきなのです。
  私たちが、「苦の原因は自らの心にある」と知れば、「苦からの解放への鍵も自らの心の中にある」とわかります。その鍵は智慧による「無知と渇愛の克服」です。そして解放への道に入るためには、「八正道に従って行けば苦の消滅という目的に達することができる」と言う確信が必要です。
  ブッダが、「四聖諦に対する理解」として正見を定義したのには大変重要な理由があります。すなわち、弟子たちが彼の教えを単に献身の感情から実践するのでなく、むしろ、彼ら自身の理解に基づいて悟りへの道を歩んでゆくことを望んでいるのです。つまり、人間の生について、その本性を彼ら自身により洞察することです。
  あとで次第に分かって来ますが、八正道は正しい理解についての初歩的段階から始まります。実践の中で心が成長するにつれて、理解はしだいに深まり、広がり、そして幅広くなります。そして心が成長するにつれ、私たちは何度も正見に立ち返ってきます。

2)正思惟
  八正道の二番目の要素は正思惟です。思惟のパーリ語「Sankappa」は、「目的、意志、決心、熱望、動機」を意味します。正思惟のこの要素は正見の結果として自然に生まれます。正見を通じて私たちは、生存の真の本質を理解します。この理解により生命の動機や目的や意志と傾向が変わります。結果として私たちの心は邪思惟に対抗する正思惟によって形作られるようになります。
  ブッダは、これらの要素を分析し、正思惟には三種類あると説いています。
  i)放棄という意思
  ii)嫌悪しない、あるいは慈しみという意思
  iii)傷つけない、あるいは苦への共感(悲)という意思
  これらは三つの不善な心、つまり感覚への欲望、嫌悪、加害や冷酷さという意思に対抗しています。
  正思惟は、前にも述べたように、本来的に正見からの結果として生じます。私たちが、苦という事実を洞察して正見を得る時はいつでも、快楽や富や権力や名声への執着を放棄する意思を生じるようになります。これらの欲望を抑圧する必要はありません。欲望は自然に衰えて行きます。

  四聖諦というレンズを通して他の存在を見てみると、他者もまた苦の網に捕まっていることがわかります。この認識により、私たちに他者との深い一体化の感情が生まれ、慈しみや苦への共感へと導かれます。これらの態度が起こることによって、私たちのなかに嫌悪や憎悪、暴力、冷酷さを放棄しようという意思が生じます。この正思惟という二番目の要素は、二つの有害な行為の根っこにある「貪欲と嫌悪」を中和するのです。
  次の三つの要素により私たちは正思惟を行為に移すようになります。すなわち、正語、正業、正命です。(続く)
  比丘 ボーディ『四聖諦』を参考にまとめました。(文責:編集部)

       
今日の一言:選

(1)自分が犯してきた悪業の相殺のために、人を押しのけるように強引な善行をしている人もいる。
  皮算用どおりの報果が得られなければ、取引で損をした人のように怒り出すにちがいない。
  本当の優しさも、真の善行も、「私が幸せでありますように」を成就した人からこぼれ落ちる・・・。

(2)素晴らしい善行をしているように見えるが、ああ、この人は自分の徳のポイントを増やす事しか考えていないのだな・・と、分かってしまう人がいる。
  エゴイストの冷たい優しさ・・・。

(3)自分からは何事も決めることなく、ただ、必然の力で生起してくることをそのまま受け容れていく生き方をしてきた。
  嫌だな・・と反射的に、ネガティブな反応が立ち上がることも多々あったが、我執の判断が入らない仕掛けになっていた。
  受動性に徹した生き方をしていくと、宿業に組み込まれていたものが顕わになっていく・・・。

(4)何事も、最初から正師につけばよいものを、回り道しながら遍歴することが多かった。
  失敗を重ね、試行錯誤を繰り返す必要があったのだろうか。
  後年、自ら望んだ訳ではない不思議な展開で、瞑想指導にたずさわると、バラバラにやり散らかした全てが必要な学びだったとリンクしてきた・・。

(5)ついに究極の道にたどり着いた確信が込み上がってきた原始仏教だった。
  だが、分け入ってみると、同じ原理と基盤の上に立ちながら、修行現場では微妙に異なるいくつもの技法が行じられていた。
  経験知と直観を拠りどころに、さらに求法の旅を続けた果てに、異国の森林僧院に導かれていった・・・。

(6)私が初めてヴィパッサナー瞑想を試みた20数年前は、寺も文献も師もインターネットも、情報というものがほとんど無かった。
  既存の脳内データを全開にして、闇の中を手探りで試行錯誤していった。
  正解が封印されていたがゆえに、瞑想の構造的理解が深まり宝となった。

     

   読んでみました
クリスティーン・ボーデン著、檜垣陽子陽子訳
    『私は誰になっていくの?-アルツハイマー病者からみた世界』
                          (クリエイツかもがわ 2023)
 
  若年性認知症患者が自分で書いた本である。
  クリスティーン・ボーデンは199546歳でアルツハイマー病の診断を受け、1996年にオーストラリア政府の首相・内閣府、第一次官補を退職。19988月「私は誰になっていくの?」を出版した(巻末著者紹介より)。
  原題は“Who will I be when I die?
  「私が死ぬときに私は何者になっているだろうか?」・・・まだ認知機能が働いているときに、認知症患者が感じる恐怖とはそのようなものなのだろう。
  1998年に、彼女はアルツハイマー病ではなく前頭側頭認知症と再診断された(巻末著者紹介より)が、どちらも根本治療法は無く徐々に痴呆状態になるという点では同じである。認知症のうちアルツハイマー型が7割近くを占めるのに対して、前頭側頭型は1%にすぎず65歳未満の発症が多い。人格が変わったり、異常行動が目立つため家族や周囲の負担が大きいことが特徴である。多くの種類がある認知症の中で唯一難病指定されている認知症である。
  本書は彼女が「自分は若年性アルツハイマー型認知症患者である」と思っていたときに書かれたものである。

  前頭側頭型認知症は、「人格・社会性・言語」を司る前頭葉、「記憶・聴覚・言語」を司る側頭葉に萎縮が起きる。アルツハイマー型は海馬に萎縮があり初期に短期記憶に問題が起きる。著者がかなり進行した状態で診断されたのは前頭側頭型の初期には物忘れが目立たないからでもあっただろう。
  いずれにしても彼女に認知症の確定診断が出た時には、余命が6年から8年という状態になっていた。私はアルツハイマー型認知症が死に至る病とは寡聞にして知らなかった。最終的に「多くの細胞が損傷されることで、脳は身体も働かすことができなくなり(例えば、飲みこみ方がわからなくなる)、そして昏睡に陥って死ぬ」(本文P.68)のだという。
  四苦八苦というが、これはは「病・老・死」も「愛別離苦・求不得苦」もそろってやってくる事態なのだ。アルツハイマー型認知症の患者の多くは高齢者であり、認知症による死が訪れる前に何らかの別の病気によって死んでしまうから、このような誤解が生まれるのだろう。

  この本を読んでまず驚かされるのは、彼女の言語能力の高さである。
  病気によって能力が奪われていく様子やその恐怖を表現するその文章は、そのような事態の真っ只中にある人とは到底思えない。
  例えばこのように。

  ―日記がなければ、今日何の日か、誰が何をしているのか、どこにその人たちがいるのか、など思い出せない。私の頭にはもう、「木曜日であること」(それが、たまたま何曜日であったとしても)、または「四月であること」、または「1998年であること」、その意味を考える余地はないようだ。このことが、しゃべる能力を制限してしまうことに私は気づいている。「今日はどうでしたか?」のように聞かれても、答える言葉を見つけるのに苦労する。今日は何曜日か?午前中か、午後か?今日何をしたのか?思い出すためには、いつも半狂乱になって考えねばならない!―

  この状態にある人間が、こんなに豊かな表現で自分の状況を語れることに驚愕する。

  ―だから、一つの簡単な質問を尋ねられるなら、私は、自分の限られた一次元のデータバンクの中をさがしまわり、ゆっくりと答える。まるでコンピューターのことを言うようだが、私は一度に一つしかウィンドウが開けられないし、一つしかアプリケーションを起動させられない。・・・中略・・・一度に一つだけをするように努めないと、何かを始めて、次にやめて、さらに何か別のことを始めることは私をすっかり取り乱させることになる。このコントロールができないと、その時、私は娘たちが「逆上」と呼ぶ状態でなっていく―

  このように、彼女は抜け落ちていく能力、その結果どういう状況になるか、自分の気持ち、家族の反応を見事に表現している。その巧みさは随所に見られるので、抜き書きしていると切りがない。
  彼女曰くの「どろどろした糖蜜のような脳」で何故このような表現ができるのか?
  元々の言語能力の高さもあるだろう。またコンピューターを使えることも大きいようだ。喋るよりも手書きするよりも、コンピューターで書く方が易しいと彼女は言う。字の形、つづり、単語の順番をコンピューターは提示してくれるからだ。訂正、挿入の機能もある。
  自分の価値、特徴は知的に高度であること・・・そう(意識的にでも無意識的にでも)思っていた人間にとっては、認知症を患うことはどんなに恐怖だろう。

  ―以前の私とはひどく違っている。私はいつでも、あらゆるものを短時間で記憶できた。読むのも速く、すばやく質問し、いつも次の話題に移るのが待てないほどだった。学校でも、大学でも、上位23人のうちに入った。私の知的レベルは高く知能テストは150から200ぐらいの得点だった。・・・中略・・・今ではもうそんな「すばらしい記憶力」はない。・・・中略・・・それはバラバラに砕かれ、もはや立体的ではなくなり、あの内部の結合もない―

  私は昔読んだ「アルジャーノンに花束を」の主人公を思い出す。脳の手術によってIQ68からIQ185の天才となるが、それは一時的なもので、また知的障害へと戻ってしまう。IQ185から下降を始めたときの主人公チャーリーの描写を今も覚えている。ある日、昨日まで読めていた外国語の本が全く意味をなさないものに見えた、というシーンだ。知能というのは、このようにある日突然に失われるものらしい。認知症になってやがて家族や大事な人も忘れてしまう・・・いや、老いるということは多かれ少なかれ、そういうことは起きるのだ。つまり誰にでも。

  さて、本書は大きく3つに分けられる。
  P.17からP.129までは病気について。発症以前の彼女の生活、発症、診断、変化した生活、精神状態、家族について、赤裸々に語られる。
  P.131からP.160までは信仰について。
  P.161以降には、彼女自身の視点からアルツハイマー病とはどのような病気か、そして人にどのような影響をもたらすのかの説明がある。
  この部分は、医学的にも科学的にも専門用語を使い、データを明記して説明がなされていて、私はここでも「これが、アルツハイマー病患者が書いたものなのか?」と驚かざるを得なかった。実際に認知症の家族の介護を担う立場のものにとって、大きな助けになるものだと思う。

  さてこの第二部に当たる信仰について、彼女は第一部と同じくらいのウェイトを置いている。実際はこちらをより強く語りたかったのではないか?と思うほどに。

  彼女は1990年に転機が訪れ、キリスト教徒(英国国教会派)になったと書いている。まだ発症する前のことで、「神のジェットコースターにやっと間に合うように乗り込んだのだ」としている。
  人は予想もしなかったような「苦」に打たれたときに、それ以前の価値を越えるものを求める。またはその「苦」を委ねる相手を求める。信仰が先にあったことは、混乱する彼女の救いであったことは想像に難くない。

  ―この先の何年間か、私がどんなにこの信仰を必要としたか、・・・中略・・・神への信仰なくしては、どうして私が、この病気と折り合っていけるものだろうか。―

  そして、かみ砕いてこのように書いている。

  ―少なくとも私たちは、神によって病気に対する悲観的な態度から癒され、どんな恐れも憂うつも拭い去ることができる。時には治らないこともある――そうでなければ、誰も死ぬ人はいなくなってしまうだろう!―しかしこれはキリスト教徒でないと理解されないことだが、病気の結果がどんなものであろうと、信仰は私たちに喜びを与え、また、この生きている神がどんなに力強く全てを一変させるものであるか、他の人に証言する機会を与える―

  神によって病気を癒す奇跡を求めているわけではない。神に全託することによって「安心」を得ているということだ。
  大乗仏教では「安心」と書いて「あんじん」と読む。「揺るぎない心の安定、境地」とされる。天台宗では「天台止観を達成してそこに安住すること」と説明されている。浄土宗系統では「阿弥陀仏の救いを信じて浄土往生を願う心」としているので宗派によって違いがある。
  だがいずれも、肉体的、この世的な救済を得ているわけでもなく、求めているわけでもない。
  彼女自身はキリスト教を特別なものと考えているが、私はそうは思わない。
  キリスト教によって「安心」が得られるならそれで良いし、イスラム教でも神道でも、芸術であっても良いと思う。自分に起きたことに怯え我が身と運命を呪い、恐怖のなかで死んでいくよりずっと良い。
  だが、もし自分に起きたことを淡々と客観視し、因果論から理解し、全て受け入れる(キリスト教的な全託とは異なる)ことができるなら、もっと深い「安心」を得るのではないか?と思う。自分がそうできるかは定かではないが。
  仏陀は入滅直前に弟子たちに「自灯明法灯明」という言葉を残された(漢訳で「灯明」と訳されたがパーリ語では「州」)。何かに依存することなく、自分を信じ法を頼りとして生きてゆけ、という意味と思っている。それこそが人間の尊厳ではないかと思う。
  決してキリスト教徒を否定する意図は無い。だが神や、仏の慈悲に全てを任せる生き方は私には馴染まない。己の卑小さを自覚しない愚か者、神に出会えない 哀れな者と呼ぶ向きもあるかと思うが、それはそれで構わない。

  彼女は当初の診断に反して現在も生きている。そして認知症に対する啓蒙活動を続けている。
  この続編である「私は私になっていく 認知症とダンスを」によれば、なんと彼女は1999年に再婚しクリスティーン・ブライデンとなった。寄り添う二人の笑顔は印象的である。

  「私たちが痴呆症であっても、たとえそのために理解しがたい行動をとったとしても、どうか価値ある人としての敬意をもって私たちに接してください」という彼女のメッセージを大切にうけとめたい。
  おそらく、命を守ることよりも、愛される価値があり尊敬される価値がある人として扱うことの方がずっとその人を幸せにするだろうと信じている。(恭)

文化を散歩してみよう
                        第14回:韓国文化の姓と名 (4)
  喫茶店で水だけを頼んだ女性を見て驚いたことを第1回にお話ししました。実は最近この文章を見た韓国の、何回も日本と往復されている実行力に溢れた女性ですが、その方から、「あれは80年代のことで、今は一人Oneメニューがルールになっています」とのコメントがありました。私は最近の事情には疎いのでとてもありがたい情報でした。第1回に遡って訂正はしませんが、当時としてもおそらく「水だけ!」はやはり突飛だったかも知れません。今は一つのエピソードでしたと言うことにしておきます。

○族譜と一族についての続き
  先月号からの話に戻ります。かなり以前、韓国には「族譜学会」というのがあると聞いていましたので、この機会に調べてみましたが残念ながらわかりませんでした。日本の「アジア情報室」では刊行物を開架していますが、そこに記された韓国学会名にも見当たりません。ただ日本には「日本家系図学会」というのがありますから、韓国ではそれ以上にありそうな感じもします。引き続いての課題としておきたいと思います。また、尹學順氏によれば「譜学」という学問が存在すると言いますが、それが一般的に言う「系譜学」なのか、あるいは韓国独特のものかどうかも判明しませんでした。

  次は4回で触れた李完用の子孫の方と少々似たような話です。もっとも時間軸はさらに遡ります。
  例えば日本の歴史ドラマを見ていたところ実在の人物が出てきたとします。細かいことはさておき、全くの創作とも言えないような筋でその人が「自分の先祖だ!」と知り、しかもどちらかというと悪>善のように描かれていたとしても、だからと言って「テレビ局に抗議する!」とはならないでしょう。
  ところが韓国ではそういうわけにはいかないようなのです。もしそんなふうに描くと途端に抗議が来るので、歴史ドラマの制作にはけっこう神経を使うのだとか。部外者から見れば「そんなことが・・・?」と思うだけですが、第4回で触れた日本軍の道案内をしてしまった崔さんの先祖の例もあります。良いにつけ悪いにつけ、先祖とのつながりが依然として意識され続けるという点ではあり得る話かも知れないと思いました。

○女性の力
  また伝統的な族譜では、男性中心に詳しく載せられているのは確かです。しかし、歴史上には尊敬されている女性も沢山いますし、まして現実の家庭生活ではどうでしょうか。人生という中身では差別・被差別という単純な色分けではなく、当然ながらいろいろなケースがあるのは当たり前だと思います。
  例えば、有名な儒学者李栗谷の母である申仁善は良妻賢母の鑑とされ今も崇敬の対象になっていますし、第7回で取り上げた姜希孟の夫人は、族譜には本貫と安氏という姓だけが記されていますが、当時の王は乳児であった長子を養わせたと伝えられ、亡くなった際には特別に恩賜の品々があったと言われています。
  あるいは第4回で紹介した妓生の論介、また1919年の「3.1独立運動」の時に日本の官憲によって逮捕されて獄死した女子学生柳寛順を知らない人はいません。
  私ごとで恐縮ですが、数年前から町会の役員に引っ張り出され、そこで目にするのはまさに女性パワーです。これはおそらくどんな社会や組織でも見られる、と思うのは逆に「偏見」にあたるかも知れませんが、『わきまえている』などの発言は『何を考えているんだ!』とつい思ってしまいます。

○婚姻と伝統
  話が思い切り飛んでしまいましたが、前回あげた文献の中にある「族内婚禁止律」についてです。
  これは文字通り一族のなかでの婚姻は禁止ということなので、仮に同じ姓の男女が恋に落ちそうな時には前もって確かめる必要が出てくるわけです。味気ない気がしますけれど仕方ありません。
  ただ、姓が異なっても先祖が同じということもあります。もちろんその場合もダメです。例えば金海“許”氏と金海“金”氏、済州島の“高”氏と“梁”氏“夫”氏など、姓は異なりますが婚姻はできません。
  ということは逆に、もし同じ姓でも出自が違えば”OK”ということです。例えば南陽には二つの“洪”がありますが血統が異なり、江陵の二つの“崔”氏も同様に差し支えありません。
  また一方、同じ姓を持つ氏族すべてが一人の先祖からという例があります。“朴”氏がそうで、もともと同一人物からの一族です。ですから、たとえ○○(地名)“朴”氏、△△“朴”氏というように異なる出身地を本貫として名乗っていたとしても、すべて不可です。
  部外者にとってはこんがらがりそうです。

  というようなこともあり、そこから「愛別離苦」のひとつが生まれることがあるのは容易に想像できます。そればかりではありません。実は違法の市民は20万とも30万とも言われているのです。(尹學準『オンドル』夜話 中公新書 1983より)
  いったいどういうことでしょう。つまりは人の気持ちは抑えきれない、厳格には守りきれないということなのでしょうか。

  もちろん近親婚のタブーは世界的にみられますが、それにしても数百年も前に先祖が同じだったからと言って結婚できないとは・・・と部外者には思わないではいられません。そんな韓国とは反対に、従姉妹同士の婚姻も可能な日本を、韓国人からは禽獣のようだとも言われたりします。私も韓国で「日本ではなんでそうなのか?」と聞かれたことがありますが、「法律上そうだから。でも遺伝のことからそんなのを嫌がる人は多いと思う」としか答えられませんでした。もっとも古代には、韓国でも日本でも近親婚の話はよく出てきますけれど・・・。

  それからもう一つ。ご存じかも知れませんが韓国では結婚しても女性の姓は変わりません。これは夫婦ということでは別姓ですが、姓のルーツを最も重視する儒教から言えば当然の結果です。
  日本でも妻が夫の姓を名乗るように法律となったのは明治31年に発布された民法で制定されて以来です。この民法の制定は、不平等条約改正を意図して日本国内の法律を整えるため、つまり、当時の先進国から侮られないようにというのが一つの動機になったとも言われています。
  それまでは夫婦が別姓だった地方もありましたし、そもそも明治8年に姓(苗字)を名乗るように義務化されるまでは、姓を持っていることと常に名乗っていることとは別だったと言います。(←ここから「江戸の庶民には姓はなかった」と思われるようになりました)
  いずれにしても、日本では夫婦の姓をめぐって議論が起きるたびに「夫婦別姓を認めることは伝統を壊すことになる」という意見が出てきます。しかし背景にはいろいろ経緯があって、そう単純なものではありません。たびたびですが前回紹介した本郷和人氏の著書『恋愛の日本史』からの引用です。

  「現代において夫婦別姓を議論する際、『歴史的に見ると、かつての日本では夫婦別姓であり、女性の地位は高かった』と言われることがあります。男女の別姓は事実ですが、それは先に見たように、実家の女性に対する権限が強かったことに由来します。結局、他家へ嫁いでも、実家の家父長権から抜け出せず、実父の姓を名乗らざるを得なかったのです。家父長権はそれだけ、強く女性を縛るということです。
  当時の夫婦別姓を考えるならば、結婚後も女性に一定の財産が認められていたことと同時に、実家の家父長権による縛りの強さも併せて論じる必要があるでしょう」(p.136)。

  どうでしょうか。この「実家の家父長権による縛りの強さ」という点についても、女性を介した家同士の結びつきに関して鎌倉時代の戦い、反乱をめぐる実例をあげて述べていますので、興味を持たれましたらぜひお読みください。もちろん現在にそのまま当てはめることはできませんが、ことによると経済力をめぐっては今でも似たことがあるかも知れません。

  さらに考えを広げれば、「伝統ってなんだろう?」と言うことになるのではと思います。
  例えば、夫婦と言うことから思いつくのは婚儀の形ですが、江戸時代には「人前結婚」と言えるようなものでした。神主が祝詞をあげるいわゆる「神前結婚」と言う形は、明治33510日に時の皇太子(後の大正天皇)が、宮中の賢所の前で結婚式を挙げられたのが最初と考えられていますし、それもキリスト教のやり方にならったものとも言われています。
  大林太良氏によると、神社での結婚式はその後、明治35921日に医学博士高木兼寛氏が媒酌した結婚式がきっかけとなって次第に盛んになったそうですが、全国的に一般化したのはやはり戦後であろうとも言っています(産経新聞1996.6.23)。
  私も韓国で、フルに伝統に沿っているようにみえるもの、クライマックスだけを伝統式にしているもの、あるいはキリスト教の結婚式に似たやり方をしているものと、三つの婚礼に参席したことがあります。もちろんどんな形で式を挙げようと、それからの方がずーっと大切なことは言うまでもありません。

  言いたいことは、そもそも「○○年過ぎたら伝統となる」などという決まりがあるわけではないと言うことです。ただ、歴史上のある時期に生まれたものを継いできたのには、その社会にとってやはりなんらかの意味があったのだと思います。それを踏まえれば、それぞれがそれぞれを“伝統”としていればいいだけの話で、それを他に強制するようなことではありません。ですから、例えば「夫婦別姓」とか「伝統を壊す」などの意見も、歴史的な経緯や根拠を十分に踏まえた上で、今の人々が納得いくように議論を尽くして欲しいと思います。(少々理屈っぽいですが気になりましたので)

○南氏の場合
  ここからはペンパルだったNam(南)さんの姓についてです。
  すでに触れたように、韓国では一族の先祖や出身地のまとまりを本貫と呼んでいます。日本の場合であれば“清和”源氏とか“桓武”平氏というようなものです。
  繰り返しになりますが、たとえ同姓でも先祖や発祥地により系譜が違えば異なる一族になります。金海金氏、安東金氏、慶州金氏などですね。ただ金海金氏と言っても、第5回で触れた友鹿洞の金忠善も金海金氏を賜っています。ですから同じ金海金氏であっても両者に血縁関係はありません。また同じ一族を友鹿金氏とも言うそうですから(失礼ですが)ややこしい話です。
  こんな話があります。
  かなり以前、ある在日朝鮮人の有力商工人が北朝鮮を訪問し、金日成主席との接見の場でおもむろに尋ねたそうです。
  「『ところで首領様は(本貫が)どこの金氏であられますか』
  すると、金日成主席は満面笑みをたたえながら、
  『私の本貫は朝鮮です。朝鮮金氏ですよ』と答えたそうである。いかにも金日成主席らしい応答の仕方で、思わずふきだしてしまったが、その場の状況が目に見えるようである」(尹學準『オンドル夜話』より)
  「朝鮮金氏」というのはあり得ません。ただ、質問者は本貫が気になったし、金日成にとっては「私はそれを越えているぞ」という意識だったのでしょう。

  また、例の姜君や南氏のように宗族によっては本貫が一つという場合もすでに挙げました。ただ南氏には宜寧南氏、英陽南氏、固城南氏とあるのですが、この宜寧、英陽、固城というのはあくまで二次的な呼び方だと思います。なぜなら、調べてみると「始祖は中国の唐の文官であり、日本に使者として派遣された帰りに台風に遭遇し遭難した後、新羅に帰化した南敏(本名金忠)」とあって先祖は一人、ですから同族に違いありません。「中国の汝南出身であるため、汝南の南という文字を姓として景徳王から与えられ」「合同で南氏大宗会をなしている」とのこと。つまりルーツは一つです。

○行列字
  では名前の方はどうでしょう。これは伝統として世代ごとに特定の漢字や偏や旁を同じにするようになっていて、それを行列字と呼びます。その行列字は同じ字を使いますから世代がわかります。日本でよくあるように子に親と同じ字を使うというようなことは決してありません。
  ということで、もし同じ一族なら名前を聞いただけで、年令に関係なくそのなかでの自分の位置づけ、つまり上の世代か下の世代かがわかるわけです。儒教社会では世代の上下が重視されていますから、けっこう気になるようです。と言うのは、数世代を経ると年齢が下でも系列的には上の世代にあたる人が出てきますから。そんな時にはどうするのでしょう。それについてこれまで尋ねたことはありません。
  また、この行列字は五行説に基づいていて、木火土金水のいずれかの意味を含む漢字があてられます。例えば前に触れた韓国の友人の彼は「淳」つまり「水性」がついていました。ただ、必ずしも木火土金水の順ではないようです。行列字を何にするかは一族の集りで決められて族譜に記録されますが、どうやって決めているのかは私にはわかりません。
  また、行列字に添えるもう一つの字(2字名の場合)はかなり自由に付けられるようです。私の知人で五人兄弟がいますが、祖父が上の3人にはそれぞれ「鳳」「龍」「虎」を行列字の前に置きました。かっこいいですね。ところが4人目になるともうお爺さんも面倒になったのか、春に生まれたので「春」、そうしたらまた弟が生まれたので今度は「五」としてしまったのだとか。笑いながら言っていました・・・。

  で、上にあげた3つのサブ系統の南氏について調べてみたところ、行列字はそれぞれ違っていることがわかりました。そこでペンパルの家族はそのどれに当たるのかを見てみますと、お父さんが「熙」(24代で「火」の性)で子どもたちが「相」(25代で「木」の性)なので宜寧南氏だということがわかりました。英陽南氏、固城南氏にはこの字は使われていません。
  さらに、これから使われることになる行列字がなんと50代まで決まっていました。仮に一代を2530年としたところで何百年もかかりそうです。以前地橋先生の本を韓国語に訳してくれた南さんはどの南氏にあたるのでしょうか。
  それにしても、このような文化が身に付いている人々からみれば、日本人の姓や名前はどんなふうに映っているのでしょう。

  そろそろ飽きてきましたか? もう少し辛抱を。
  もともとのテーマは、高句麗、新羅、百済が競い合っていたころ日本に渡ってきた人々の中にはいろいろな姓があったのに、なぜ今の韓国の人たちは(ほとんど)一文字姓になったのか、でした。その昔の時代を韓国では三国時代と呼びます。で、そのころの姓の話に戻りますが、その前にまたまた少し寄り道を。スミマセン。
  
  それはなぜ日本では百済を「クダラ」と言うのか、ということです。韓国ではそのまま「ペクチェ」なのに。日本語の通訳をしている金さんからも「なんで日本では『クダラ』って読むの?」と聞かれました。
  一説には「クンナラ」がなまったものと言われています。「ナラ」は「くに」(国・邦)という意味で、今の韓国語でも「くに」は「ナラ」です。ですから、日本の「奈良の都」はそのまま「国の都」で、その時代韓国語で「国」を意味する発音にそのまま漢字を当てはめたのでしょう。
  では「クン」は? 韓国語では「大きい」という意味です。ですから「クンナラ」は「大きい国」という意味になります。百済は滅亡以前には今のソウルをも含むかなり広域だった時代もありましたし、また第2回で述べたように朝鮮半島の地形からも、渡来した人々が日本の自然と比べて広いイメージを抱いていたとしたら、「大きい」と表現したこともうなずけます。
  それから、そのころは何世紀にもわたって百済の地からは多くの人々が渡来しています。私見ですが、ことによるとその人々が故郷をしのんで懐かしい「母の国」という気持ちから「クンナラ」と呼んだのではないかとも思います。情緒的ですが私としてはこれが一番しっくりきます。いかがでしょうか。

  では新羅はどうでしょう。韓国ではそのまま「シンラ」なのに、なぜ日本では「しらぎ」と言うのでしょうか。このような説もあると言うほどですが紹介します。
  先ず第一は、「しらぎ」の「ぎ」は奈良時代には「き」で濁らず、「しらき」と発音しました。「き」は「城」で、日本では城のことを「き」と呼びました(水城〔みずき〕など)。ですから、もともと「新羅城」と意味で発音は「しんらき」、で、その地域の中心地として「城」のことを指していたのが、次第に国全体を指すようになり、それがなまって「しらぎ」になったというものです。この説は古代に朝鮮半島南端にあった伽耶(加羅、駕洛)という部族連合の国の呼称が、朝鮮半島全域から中国(唐)、そして外国一般を指す言葉になったのと相似しています。
  それからもう一つは天皇を「すめらぎ」と呼んだことと関連があるという説です。「すめる」は「統べる」で統治するという意味、「ら」は接尾辞、そこに「ぎ」が付いたということです。この「ぎ」の濁りを無くした「き」は「兄弟」を意味していて、兄貴とか叔父貴という「き」でもあります。このもともと「人」という意味のある「き」が濁って「ぎ」となり、「統治する人」は「統べる人」と言う意味で「すべらぎ」、さらに「すめらぎ」になったと言うわけ。そしてそれを踏まえて、その「ぎ」を「新羅の人」にあてはめて「新羅貴」、そこから「しらぎ」となったという説がもうひとつ。
  どちらが本当でしょうか。あるいはほかに・・・?(つづく)(M..
 
  
    ちょっと紹介を!

           山田伸尚著『死刑すべからく廃すべし』(平凡 2023)

  著者は朝日新聞記者を経て、ノンフィクション作家。『ドキュメント憲法を獲得する人びと』(岩波書店)で第8回平和・協同ジャーナリスト基金賞、『大逆事件~死と生の群像』(岩波書店、のち岩波現代文庫)で第59回日本エッセイスト・クラブ賞など多数。
  本書のタイトルからは死刑の是非についてさまざまに論じているものかと思ったが、そうではなかった。本書は教誨師田中一雄の遺した手記を元に、様々な資料を参照し聞き取りを重ね、彼の伝記とその思いをたどるもので予想とは違っていていたが、一貫して死刑廃止の姿勢を示す内容だった。
  本書の目次は次のとおり。
  1章 死刑囚に寄り添って
  2章 死刑否定と「大逆事件」の相剋
  3章 手記を守った元江戸町与力
  4章 手記を生んだ原風景

  田中一雄は幕末に生まれ、1890(明治23)年から1912(大正元)年129日まで鍛冶橋監獄と東京監獄で教誨師をつとめた。著者はその手記を遺言のようだと評す。本書にはその手記の存在を知ることになった経緯が縷々述べられ、また元会津藩士としての生立ちや浄土真宗の僧侶として教誨師になるまでの状況なども推論されているが、ここでは立ち入らない。本書はかつて日本において死刑がどのように行われたか、また死刑囚に接する教誨師の残した貴重な資料であると考え、ここに紹介することにした。
  「あとがき」にはこうある。
  「田中一雄はとても愚直な生き方をした人だったと思う。そこにわたしは強く魅かれる。田中は極悪非道な罪を犯した死刑囚の限られた時空間に接し、自己の波瀾に満ちた生を重ね合わせて、国家の手の内に在って微動だにしない死刑(制度)に果敢に抗った。稀有の『手記』は、田中のこの愚直な抵抗の精神の『結晶』だった。(略)
  わたしは『手記』に出会ってから、何としてでも田中一雄に光を当てたいと思った。田中一雄はしかし捉え難く、くっきりとは描けなかった。それでも教誨師田中一雄を、『手記』とともに記憶できる存在として少しは印せたのではないか」(p.213)。
  本稿では本書の中から、田中一雄が死刑を廃止すべきと主張する背景と理由、さらに218月号の『太平洋食堂』で取り上げた大逆事件に関連した部分に絞って紹介する。

  本書の副題には「114人の死刑囚の記録を残した明治の教誨師・田中一雄」とあるが、篤志の時を含めて約20年間、接した死刑囚は200人に及んだという。彼は「死刑囚に向き合い、伴走した。全身に補聴器を付けたように死刑囚の声に耳を傾け、対話し、諭し、迷い、憤り、悔やみ、惜しみ、苦しみ、あるいは突き放し、死刑の当否を、さらに制度の是非まで考えつづけた――」(p.59)。
  その結果田中は、「死刑須らく廃すべし 否廃すべからず」との考えに至る。著者はこの言葉を「廃止すべきである、と断じてすぐに否定する。わかりにくい」としながらも、「しかし追いかけて『其(死刑廃すべからず)は社会に害毒を流すの大なるものなればなり』とつづけている」ことを評して次のように言う。それは、田中にとって死刑の是非の判断のポイントは先ず第一に、「『社会に害毒を流す』かどうかだった」のだと。(p.59
  そして、「死刑囚でも時間をかけてじっくり教誨すれば、やがては悔い改め、反省し、獄則に従うようになり、社会に『害毒を流さない』人になり、生き直せるのだという人問への信頼が、田中にはあった」と述べる。(p.60
  さらには、「獄則に従順で、逃走の心配がないということも死刑に処すべきでない大きな理由の一つに挙げている。獄則に素直であれば、それは『新しい生』を生きる道につながると田中は確信していた」とも言う。(p.34
  しかし例外もあった。それは、一家4人殺しの凶悪な強盗殺人犯、死刑確定後半年で執行された男であった。田中は備考欄で「在監中度々脱監を企てしことあり。ある時は監外に飛び出せるなど、死刑の必要は斯くの如き者あるを以てなるべし」と書いている。そして著者は、「田中が死刑を事実上認めたのは、手記ではこの男だけであった」と。(p.55

  本書にあるさまざまな事例に見られるように、当時の死刑の多くは「確定から執行までは半年前後で、わずか数日というケースもあった」とされる。(p.61
  田中の主張にはどのような底流があったのか。著者は、「残酷極まる死刑は仏教の大慈大悲の教えに背く」とする観方と、「重大な間違いを犯し、躓いても人は必ず生き直せるという人間への信頼」、この二つが一つになっていること。そして死刑は生き直せる「可能性を根こそぎ攫ってしまう。だから『死刑須らく廃すべし』」に至ったのだと述べている。(p.62
  また手記には冤罪の疑いがある者が1名、さらに「死刑の必要なしと認むる者100」とも記されているという。では200人の死刑囚の残りの半数は「『死刑やむなし』だったのだろうか」と言うとそうではない。著者は、「判決確定から執行までの時間が短くて『死刑不必要』と言い切る教誨を十分できなかったからではないか」と推測している。
  つまり著者は、「田中が多くの死刑囚の教誨を通じて得た『死刑須らく廃すべし』は、殺人を犯した一人ひとりの死刑囚と向き合い伴走した末の結論であった」と結論づけている。(p63

  さらにこれを取り上げたい。21年8月号でも違う形で触れた大逆事件である。
  1911118日、24名の被告に死刑判決が言い渡され、わずか1週間後に死刑が執行された。著者は、「あまりに無法な裁判という海外からの批判が在外公館から伝えられ、それを押さえこむためだった」と言う(p.96)。
  「政治や国家への批判はあっても、ただの一人も殺人を犯していない24人は天皇暗殺の予備・陰謀を企てた確たる証拠もないにもかかわらず、一瞬にして天皇制国家によって死刑を突きつけられた。国家が思想を抹殺するために発動した暴力の果て、それがこの途方もない酷烈な判決だった。
  判決が終わった午後4時から日比谷の大審院の一室で慰労会が開かれた。裁判官、東京地裁の予審判事、大審院の各検事局検事、書記官らが集まって『酒杯をかわしつつ判検事か仲よく苦心談や手柄話を語りあった』という」(p.84)。
  19日夜9時過ぎに12名が、「天皇の『恩命』によって無期に減刑され」「12人への知らせには教務所長の田中も立ち会っている。()田中は知らなかったが、天皇の『恩命』はじつは、山県有朋の意向で判決の前から用意されていたのである」(p.84)。
  徳冨蘆花は、「処刑からほぼ1週間後の21日、第一高等学校の弁論部主催で開かれた講演のなかで政府を痛罵した。()
  『死の判決で国民を嚇して、12名の恩赦でちょっと機嫌を取って、余の12名はほとんど不意打の死刑――否、死刑ではない、暗殺――暗殺である』」(p.96)。
  田中は大逆事件の連座者の教誨を担当している。手記にはこう記している。
  「『大石、松尾、奥宮等に就いて記したき事多くあるも、事秘密に属するを以て書くことを得ず。以て遺憾とす』」(p.103)。
  「ただの一人も殺めていない『大逆事件』の死刑囚の教誨で田中はどんな結論を得たのだろうか」(p.63)。
  本書には菅野須賀子との交流から田中の前史に関して推測も出てくるが本稿では略す。
  本書の最後に著者はこう述べる。
  「国家はそのチャンスを奪ってはならないという熱い想いを抱き、田中は死刑制度と格闘し、類なき手記を書き遺した。しかもそれを伝えるために原に託した。それは国家への紛うかたのない抗いでもあった。ほんのわずかだが田中を追ってきたわたしは、そう思う。同時に田中一雄の手記は、死刑に向き合うことを避け、死刑制度のあることに慣らされてしまっている現在のわたしたちへの問いを含んだ、世紀を跨ぎ越した『遺書』でもあろう。
  田中一雄の手記は貴重だが、一人の教誨師の眼を通しての記録という限界がある。現代の犯罪の態様や質は、たとえば『死刑になりたいから』人を殺傷するなど、田中の時代のそれとは驚くほど大きく異なっている。だが国家が、法の名の下で生きている人を殺すという、死刑制度の本質は変わらない。()
  死刑廃止条約が発効(1991年)して30年を超えたいま、死刑須らく廃すべし――一雄の声がこだまのように響く」(p.204)。(文責:編集部)
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