月刊サティ!

2024年3月号  March  2024

 今月の内容

 
  巻頭ダンマトーク:今月は休載いたします
   ダンマ写真
  Web会だよりー私の瞑想体験ー特別編:『瞑想と俳句』 榎本憲男
  ダンマの言葉 :『四聖諦』(2)
  今日のひと言 :選
   読んでみました :日野行介著『情報公開が社会を変える
                ―調査報道記者の公文書道』(筑摩書房 2023)
  文化を散歩してみよう:『韓国文化の姓と名』 (3)
   ちょっと紹介を!:ニコラス・シュラディ著、山田和子訳
         『リスボン大地震―世界を変えた巨大災害』(白水社 2023)

     

    【お知らせ】】

         <地橋先生による「巻頭ダンマトーク」がまもなく再開されます。ご期待ください!!>     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。

 
     

 今月のダンマ写真 ~
  

筑西プッタランシー寺院の比丘

 先生より


    Web会だよりー私の瞑想体験ー・特別編

『瞑想と俳句』 榎本憲男

   本会においてヴィパッサナー瞑想の修行に取り組んでいる作家・榎本憲男氏からの投稿です。職種の上からは他の媒体への登載も考えられるところですが、会からの謝意、ならびにあえてご本人が本会へ投稿された意向を踏まえ、ここに「Web会だより・特別編」として掲載する運びになりました。(編集部)

   いつの間にか散文(小説)を書くのを稼業にしてしまいましたが、僕の祖父は韻文の専門家でした。俳人、つまり俳句を詠む者だったのです。
   私の祖父が取り組んでいたのは、江戸時代の俳諧を源流として、正岡子規が創始し、高浜虚子が完成させ、高野素十らに受け継がれた“写生俳句”でした。現実をありのままに写しとり、そこに詩情を詠み込むという姿勢が特徴です。写生、つまり観察という点で、ヴィパッサナー(よく観察する)と共通点を持っていると思います。
   俳句は、私の感情というものをダイレクトには吐露しません。「寒し」と詠むことは稀で「寒さかな」と詠むのが一般です。「寒し」は私が寒いと感じているわけですが、「寒さ」は「寒さがある」という観察です。冬に喫茶の瞑想をしているときに、ポットの金属部に触れて「冷たさ」と入れるサティと同じですね。

   易水にねぶか流るる寒さかな   与謝蕪村
   易水は中国の河北省西部にある川です。ねぶかは葱です。冬の川に葱が流れてくる、そのひんやりとした情景をスケッチしたものです。もうひとつ見てみましょう。

   叱られて次の間へ出る寒さかな  各務支考
   御談義を頂戴して、しょんぼりした心を抱えて部屋を出たときに寒さが身に染みたよという句ですが、やはり「寒し」とは詠わない。

   このようなメタ認知的な観察と「私」の縮減はヴィパッサナーと相通ずるところがある気がいたします。

   仏教は、我欲を捨て、〝私〟の解体を通して真理に到達せよ、と説きます。そして、そのための、長い修行の重要なカリキュラムが瞑想です。瞑想にはいくつかの種類があり(詩にさまざまな形態があるように)、その中で観察(≒写生)を重んじるのが、ヴィパッサナー瞑想だ、などということは、『月刊サティ』の読者には言うまでもないことではありますが、いちおう確認させてください。
   ところで、「観察する」ということは、「観察している人」がいるということですね。それは誰でしょう? もちろん「私」です。

   柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺   正岡子規
   この句において、「柿」を「食」んでいるのは詠み手である「私」であり、法隆寺の「鐘」の音を聞いているのも「私」です。
   つまり「私」はいるわけです。

   空をゆく ひとかたまりの 花吹雪   高野素十
   この句も同様で、空を見上げているのはまさしく「私」でしょう。

   歩行瞑想の時、マハーシ式のヴィパッサナー瞑想では、歩行のアクションに、それぞれ「離れた」「進んだ」「着いた」「圧」とサティを差し挟みます。このとき、足先が床から「離れた」と感じているのも「私」です。
   つまり、ヴィパッサナー瞑想をはじめて1年未満の現状では、「私」は完全には消えてはいない。僕は、これを清潔でプレーンな概念(離・進・着・圧)によって、汚れた概念まみれになっている「私」を洗浄している途上だと理解しています。そして、どこまでいけるのはわかりませんが、このまま瞑想修行を続けて、無我という境地に至ったときに、自分の肉体の感覚と「私」の関係がどうなっているのか、それは皆目見当がつきません。

   チベット仏教の研究者今枝由郎に『ブッダが説いた幸せな生き方』(岩波新書)という本があり、この第1章のタイトルは「仏教徒は幸せ」となっています。何気ないタイトルですが、実は過激です。なぜなら、仏教の教説を多少聞きかじったことのある者は、仏教は「生きることは苦だ」という認識から出発している、と知っています。しかし、主にチベットブータン仏教の研究者である著者は、「仏教は人としての幸せを追求する、合理的、科学的、ユマニスト的、慈しみのある実践体系、すなわちブッダの『幸福論』、幸せのレシピにほかなりません。レシピはおいしい料理のガイドブックであり、仏教は幸せな人生の指南書です」と説いている。つまり、今枝由郎の言葉をそのまま信じれば、仏教徒は、苦を出発点としながらも、修行を通じて我執を捨てれば、最高レベルの幸せに到達できる、ということになります。これはなかなか魅惑的な導入でしょう。大乗仏教ならではの希望に満ちあふれた提言です。ただ、原始仏教の教えはもっともっと厳しい。この厳しさをどう受け止めるのかが、軟弱な私の目下の課題でもあります。

  俳句はこの世でもっとも短いスタイルを持った詩です。つまり極限まで言葉(概念)を捨てることによって詩情を獲得しています。仏教も捨てることを推薦し、捨てることによって無我に到達せよと説きます。こう考えると似てますね。

   空をゆく ひとかたまりの 花吹雪 高野素十
   この句について、「空を見上げているのはまさしく『私』でしょう」と僕は上に書きましたが、ひょっとしたら修正する必要があるのかもしれません。確かに作者は空を見上げたにちがいないけれど、そのときの彼からは「私」が消えて、風景と合一していたのかも。「私」を捨てたからこそ詠めた句とも言えるし、もっと言うならばなにか巨大なものに「詠ませてもらった」のかもしれません。このように考えると、僕の瞑想に飛躍的な発展が見られないことと、俳句が苦手なことには関係があるのでは、とさえ思えてきました。

   さて、難しい話はこのくらいにしましょう。僕の祖父は7人の子供を持ち、僕の母を含めて子の全員、そして妻(僕にとっての祖母)も俳句を嗜みました。物好きな一族ですね。ただ、三代目、つまり僕や従兄弟らの代になると、俳句などという古めかしいものに興味を示すものはいなくなって、ギターを弾いたりバイクを乗り回したり野球をやったりしはじめます。
   ただ、特に俳句に熱を入れていて、なおかつある俳句誌の編集にも関わっている叔母は、このことに我慢ならなかったらしく、「やらせるなら憲男だな」と僕に白羽の矢を立て、「毎月八句ほど発句し、雑誌に投句しろ」と迫ってきたのです。もちろん原稿料など出ません。おまけに僕は、この方面にはあまり才能がないらしく、ろくなものを作れない。嫌でたまらないわけですが、とはいえ、大学受験の際に和歌山から上京した僕を宿泊させてくれたり、学生の頃にどうにもこうにも金が尽きて無心しに行った折には、救済してくれた叔母がそう言うのですから、断ることなどできないのです。覚悟を決めて、喜捨のつもりで毎月駄句を渡しております。すこし暖かくなった五月、1Day合宿のことを詠んでみました。

   畳踏む 足裏に春 おとずれて   榎本憲男
   道場の 畳あたため 春きたり   榎本憲男
   両句ともに、歩く瞑想についての句です。僕が通う谷中初四町会会館は修行の場であるので「道場」と詠みました。足裏の感覚を鋭敏に感じたいという理由で、靴下はなるべく脱いで歩くのですが、冬は当然寒い。けれど、それも春の到来とともに、すこし暖かく感じられるようになったよ、と詠んだわけです。たいした句ではありません。が、二番目が、「今週の特選」らしきもののひとつに選ばれて、選者の先生に高評していただきました。
   ただし、「作者はおそらく柔道などの武道をたしなんでいるのだろう」などと書かれていたのには笑いました。(完)
 
       

                  忍ぶ冬    
         先生提供
 






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ダンマの言葉

                    『四聖諦』 (2) 比丘ボーディ

   2005年6月号から連載されました比丘ボーディによる法話『四聖諦』の再掲載です。今月はその第2回目です。

四聖諦(二)
―ブッダは悲観主義者だろうか―
   第一の真理においてブッダが説かれた教えは、往々にして感情的レベルで反感を買います。それによって、ブッダは悲観主義者であるとか否定主義者であるというような誤った非難が起きるのです。
   第一の真理の教えでブッダが意図したことを理解する必要があります。ブッダの究極の目的は私たちをこの苦から解放することにありました。
   苦から解放されるためには努力が必要です。そのためある種の内的葛藤が生じます。
   私たちは自分のまわりに感情という幕を張っています。そうすることによって、自分の望む方法で物事を見たり理解したりしているのです。
   しかしダンマは私たちのこのようを意向に反します。ダンマは真理なのですから、私たちは物事をあるがままに見るしかありません。正しく見ることによってのみ私たちは自由を得ることができます。ですから、私たちは自分が見たいように見ることを止め、客観的に物事を見るようにしなければなりません。
   ブッダは物事を完全に見るためには三つの角度から観なければならないと言われます。
   1)楽しみ、満足という角度から観る
   2)危険性、不満足という角度から観る
   3)解放、脱出という角度から観る
   人生には楽しみや快楽があるとブッダは指摘します。もし、この世に楽しみや快楽や所有物や人間関係などがなければ、人はこの世に執着しないだろうとおっしゃっています。まったくそのとおりです。
   快楽があるから人はこの世に執着しますし、快楽全部が不健全というわけではありません。良い家庭、真の愛、上品な楽しみ、宗教的な生活から得られる幸福は本当に満足を与えてくれます。
   しかし第二の角度から観ると、これらすべては一時的なものであり、それゆえに不満足が生じることが分かるでしょう。それゆえ私たちは、執着や欲望を捨て、これらの楽しみが完璧な満足を与えてくれるものかどうかを調べなくてはなりません。
   ブッダの教えに照らし合わせて人生を観てみると、「生まれ、死んでゆく世界」の中には真の幸福は見いだせないことが明らかになります。そこでブッダはこの苦から抜け出す方法も示しています。それが涅槃であり、涅槃に到る道です。ブッダご自身が到達された所に誰でも行けることを保障されています。ですからブッダが示された道は、最も楽観的で希望に満ちたものであると言えるのです。
   しかし苦から解放されるには、束縛の原因を見つけなくてはなりません。それが第二の真理に示されているのです。

Ⅱ.第二の聖なる真理 ―苦(ドゥッカ)の原因―
   〔あなたの苦は全能の神の意思でしょうか〕
   第二の聖なる真理は、私たちに苦の原因を示すことを目的としています。
   「なぜ私たちが苦しむようになるのか」という疑問に対する答えは、哲学や宗教によって異なります。苦は単に偶然や運命や宿命によって生じると言うものもあれば、苦は全能の神によるものだと言うものもあります。
  ブッダはこれらを信仰と想像の産物として退けます。こういう見方はすべて二つの結果に行き着きます。すなわち、苦を受動的に受け入れることを促すか、苦の症状を治していくことに熱中するかのどちらかです。
   一方、ブッダの方法では問題をその原因、根源にまで辿ります。ブッダは、苦の原因は渇愛(タンハー)だと明言しています。
   渇愛には三つの種類があるとブッダは認識していました。
   欲求には、ダンマの修行をしたいとか、布施をしたいなどの健全なものがあります。また、散歩をしたいとか眠りたいなどの、健全でも不健全でもない欲求があります。そして不健全な欲求があります。渇愛とはこの不健全な欲求、無知に根ざした欲求、個人的な満足を求める衝動のことです。
   欲求は苦(ドゥッカ)の原因として挙げられますが、苦の生起を惹き起こす唯一の要因ではありません。確かに欲求は苦の主要な要因であることは確かですが、渇愛は常にさまざまな要因が重なり合うことによって作用します。渇愛は無知と心理的・肉体的有機体によって条件付けられており、その対象を必要とします。

―三種類の渇愛―
   1.感覚への渇愛(欲愛) カーマ・タンハー
   感覚の喜びに対する渇愛。快い光景、音、匂い、味、触覚、楽しい考えに対する渇愛。
   2.存在に対する掲愛(有愛) バヴァ・タンハー
   生存の存続に対する渇愛。存在し続けたい、特別な姿形になりたい、目立ちたい、有名で金持ちになりたい、不死になりたいなどの衝動。
   3.破滅に対する渇愛(非有愛) ヴイバヴァ・タンハー
   非存在に対する渇愛。自己の破滅を望むこと。最も明白な例は自殺ですが、他の自己破壊行為も含まれます。

Ⅲ.第三の聖なる真理  ―苦(ドゥッカ)の消滅―
   〔苦は完全に克服することができる。ブッダの偉大なる言葉〕
   「この生起の過程を際限無く続ける必要はない」とブッダは言います。
   ブッダは苦(ドゥッカ)の消滅の真理を語ります。この真理によって仏教は悲観主義だという非難は粉砕されます。この真理によって、ブッダの偉大な言葉、「苦は完全に克服することができ、完全な平安の境地が開かれており、渇愛を取り除くことによってその境地に達することができる」という言葉の意味が明らかにされます。
   渇愛の終わりとともにやって来る苦(ドゥッカ)の消滅は二つのレベルで理解することができます。それは心理学的なレベルと哲学的なレベルです。
   心理学的なレベルでは、渇愛が断ち切られると心の不幸はすべて終りを迎えます。心は悲しみ、悩み、恐れ、深い悲しみと苦悩から解放されます。苦(ドゥッカ)の終焉とともに、大いなる平安、至福、完全なる喜びが訪れます。解放された方である阿羅漢は、完全な平安な状態で生きています。常に満足しており、常に落ち着いていて幸福です。肉体の苦痛、老い、痛い、その他の人生の栄枯盛衰があったとしても、阿羅漢の心には乱れが生じません。なぜなら、あらゆる執着から解き放たれているからです。
   死の瞬間に生起の過程は終了します。渇愛が無いので、新たな生存への種子は存在しません。阿羅漢の肉体の崩壊とともに輪廻(サンサーラ)は終焉を迎えます。阿羅漢は生起の世界から知覚することも量ることもできない境地に渡ります。その境地は言葉や概念の範囲を超えています。それは涅槃(ニッバーナ)と呼ばれる実在です。(続く)
   比丘 ボーディ『四聖諦』を参考にまとめました。(文責:編集部)  

       
今日の一言:選

(1)眼鏡の汚れを拭けば拭くほど、顕微鏡の倍率を上げれば上げるほど、微細なものまで鮮明に見えてくる。
  心がきれいになればなるほど、自分の心の汚さ、未熟さが見えてくる。
  心が真っ黒な人ほど、自惚れる・・。

(2)煩悩に汚れた心を自覚しても、浄らかになりたいと願っても、怒ってしまうし、妬んでしまうし、貪ってしまう・・。
  溜め息をつきたくなるが、心の成長というものは、ゆるやかに、しずしずと進行していくものだ。
  上手くいかないから練習があり、修行がある。
  心は、必ず変わっていく・・・。

(3)完全に不要になったゴミを捨てる瞬間に、怒りはない。
  執着が何もない「手放し」の感覚が、仏教の引き算だ。
  獲得すれば獲得するほど、束縛と苦しみとエゴ感覚が肥大していくことに気づかない無明。
  足し算の貧しさ、引き算の豊かさ・・・。

(4)「よーし、いいこと聞いた、やってみよう」と、猿真似をすると上手くいかないものだ。
  期待と欲でワクワク、ギラギラしている人には、無心に行なった人の「捨」の心がない。
  ビギナーズラックが起きるときの要因の一つだろう。
  余計なことは何も考えず、「一所懸命、淡々と」できますか?

(5)ヴィパッサナー瞑想を実践して2ヶ月だが、3つの効果があったという。
  仕事が速くなった。
  クレーマーに怒鳴られる業種なのに、自分だけ激減。
  苦手な上司と理解し合えるようになった。
  はサティの効果。は慈悲の瞑想。①②の相乗効果で自己中心的な見方が変化したから、と解釈される。

(6)壊れた水道のように、四六時中思考が止まらないのが人の基本設定だ。
   集中し、サティを入れ、思考の止まった静かさを味わう。
  さらに、後悔を、自責の念を、恨みを、抑圧された闇を手放すと、心はいちだんと静かになる。

  雑念のない清潔、深層の心も浄らかにした自信と安息、深められる瞑想・・・。

     

   読んでみました
  日野行介著『情報公開が社会を変える―調査報道記者の公文書道』
                                   (筑摩書房 2023)
  著者はジャーナリストであり作家。元毎日新聞記者。東京電力福島第一原発事故の被災者政策や、原発再稼働をめぐる安全規制や避難計画の真相を調査報道で暴いた。著書に『福島原発事故、県民健康管理調査の闇』(岩波新書)、『調査報道記者一報道記者一国策の闇を暴く仕事』(明石書店)、『原発再稼働一葬られた過酷事故の教訓』(集英社新書)など。

  本書の趣旨を著者は次のように述べる。
  行政が押し進める理不尽な政策に共通するのは、「意思決定過程が不透明で結論や負担だけを市民に押しつける点だ」。なので、「真実を知り、民主主義を守るためには、私たち一人ひとりが行政を監視し、政策をチェックすることが求められる」し、どこが誤りでありウソなのかをはっきりさせるために用いるのが「情報公開制度」なのだという。なぜなら「必要な情報は公文書の中にある」からだ。
  これまでに1000件もの「情報公開請求を行い、数々のスクープを伝えてきた調査報道記者が、長年の経験をもとに、そのしくみとテクニックをわかりやすく伝授する」のが本書であると。

  本稿の筆者はこれまでそのような手続きをしたことはないが、こんなことがあった。
  家の前にある一方通行の道路は両側に歩道があり、その歩道の幅が一方は少々狭く、一方はやや広くなっている。しかも歩道に植えられている30年以上経つ並木の根が張り、敷石がでこぼこになっているのも問題になっていた。
  ある時業者が来て、4年ぐらいあとに並木を伐採すること、そしてこちら側の歩道を50センチほど狭くし向こう側を広げ、両側を同じくらいの幅にすることになったと言う。おそらく沿道の一軒一軒を回っていたのだろう。
  そのことがあってから12カ月後、役所からその歩道の改修について検討会があるので、道に面した町会の関係者に参加の要請があり、私も出席した。内容は現状の問題点やこれからの計画などについてで、質疑を始め「皆さんのご意見を・・・」や、また並木の視察をする予定も立てられ、取り立てて問題はないように思われた。しかし、私が例の業者が来たことを質問したところ、正確な文言は覚えていないが答えの内容は「そのようなことはないはず」というようなことだった。つまり、悪く言えば「アリバイ作り」のために設けられた会議のようでもある。その後改修工事も徐々に(予算に合わせて少しずつ)進んでいるのはけっこうなことだが。

  それはそれとして、バランスのためにもうひとつの例をあげる。
  毎日新聞の2024210日の朝刊の「ルポ路上売春」という連載の最終回で、新宿歌舞伎町の路上で売春をする女性の背景と、その女性たちの相談に乗って支援を行う人々と総合診療の専門医、こども家庭庁の職員、更生保護支援団体のスタッフに関する記事が載っていた。「2024年に施行される困難女性支援法には、そうした民間団体と行政が『協働』する必要性がうたわれている」という。「この事業も、それまで民間団体が続けできた現場での支援を参考にしてできました。行政の手が届かない部分はたくさんあります」(都育成支援課)という。(下線は本稿筆者)
  つまり、一口に「行政」と言っても現場などでその実態はさまざまであることを先ずは言っておきたいと思う。そして本書である。

 本書は著者によるさまざまな経験や実例から行政による政策の問題点を指摘し、私たちがどのような方法をとれるかを示している。膨大だが、一読するだけでも報道を含む情報の見方が変るのではないだろうか。この稿では一部だけに触れるが、直接お読みになればいろいろ得るところがあると思う。
  定番ではあるが目次は次のようになっている。
  1章:報道は期待できない―市民が自ら情報公開請求すべし
  2章:はじめての情報公開請求
  3章:意思決定過程を解明する―狙いは非公開の「調査」と「会議」
  4章:「不存在」を疑う一役所のごまかしをどう見抜くか
  5章:請求テクニック一目的の情報にたどり着くために
  6章:黒塗りに隠されたもの-役所の「痛点」を見つける
  7章:審査請求のススメ―「不開示」がきたらどうする?

  「はじめに」と第1章から。
  著者は、私たちが役所から示された新たな計画に対して疑問を感じたり不賛成の時、ただ反射的に反論するだけではダメだという。なぜなら、それだけでは前提を飛ばした「すり替え議論」に持ち込まれたり、あるいは住民同士でいがみ合うようなことにも陥りかねないからだ。このことは、著者が「長年取材を続ける原発行政でもしばしば見られる」と言う。
  そうならないためには反論するに足る正しい情報を持つ必要がある。そしてその情報は当事者(本書の場合は役所)から出させるのが正解であり、その方法が情報公開請求なのだという。

  この例の一つとして茨城県の原発避難計画を取り上げている。
  かつて原発は「安全神話」によって事故はないことになっていたので、避難計画もなかった。しかし福島の事故以来、原発から30キロ圏内の自治体には避難計画の策定が求められている。なぜなら、避難計画がなかったために福島では混乱したから。やはり事前に備えておくのは必要だということになる。
  私も避難計画の策定はもっともだと思ったが、著者はこう述べる。
  「だが一歩引いて考えてみてほしい。運転中の原発は事故のリスクが格段に上がる、というのも福島が残した大事な教訓のはずだ。
  はっきり言えば、再稼働しなければ避難計画は必要ない。だとすると、避難計画の策定は再稼働を前提にしていることになり、いつのまにか『再稼働しない』という選択肢が消されている。それでも、『再稼働するには避難計画の策定が必要』と明文化されているなら、『再稼働につながる避難計画には協力できない』と反対することも可能だ。ところが役所は『再稼働とは関係なく避難計画は必要』とアナウンスしているので、明確に反対しにくい。結局のところ、都合よく福島の教訓を使って、再稼働を進めるために避難計画を作っているとしか考えられない」(p.21

  なるほど。「再稼働しなければいい」わけだ。言われてみればその通りで、「すり替え」の例に当たるのだろう。でも普通はなかなかそこまで思いつかない(私もそうだった)。

  さらにはこんなことが分かったという。
  避難計画を策定するために、先ずは原発30キロ圏内の市町村に避難者が収まるようにする「マッチング」と呼ばれている作業をしたという。
  茨城県では先ず30キロ圏外の市町村にある学校体育館など、避難所になり得る施設の面積を調べ、その後で「一人あたり専有面積2平方メートル」という基準によって2で割り、収容(可能)人数を割り出す。そしてそれを30キロ圏内の全住民が入れるように各避難所に配分するということだった。その結果、2018年までに94万人の収容先は「確保されたはず」だったという。
  ところが、著者が茨城県が2回にわたって密かに実施した面積調査の資料を情報公開請求で入手し、同僚記者とともに分析したところ、「茨城県内の避難先(30キロ圏外)の30市町村の実に半分にあたる15市町村で、トイレや玄関といった避難生活に使えないスペースも含む建物総面積をもとに収容人数を過大算定していたことが判明」し、「中には予定していた避難者数を収容できない避難所不足に陥っていた市町村もあった」という。(下線は本稿筆者)
  「おいおい、何だそれは!?」と普通の感覚なら思わないではいられないのでは?
  しかも、「2回目調査から2年以上が過ぎていたが、茨城県は問題を一切公表していなかった。そこから感じ取れるのは実効性ある計画を作ろうという姿勢ではない。『ハリボテ』でいいからとにかく作ってしまえという、国策への盲従しか見えない。その先にあるのは原発再稼動だ」。

  さらに、「茨城県による2回の面積調査のほか、国(内閣府)と自治体が随時開催していた非公開会議の資料を次々と情報公開請求すると共に、開示を待つ間も避難先市町村への問い合わせを続け、一つひとつの避難所の面積を直接聞き取っていった」。それで判明したのは、「茨城県内の避難先8市町で計18000人分の避難所不足が生じるという結果だったが、この事実も公表されていなかった」(p.35)。
  「何をかいわんや!?」の世界みたいだ。
  ただ皮肉な感じだけれど副産物としてはこんな逆説的なこともわかってくる。
  「情報公開請求したのに、『公にすると市民を混乱させる』と何も出てこなかったり、黒塗りだらけの『のり弁』みたいな公文書しか開示されなかったら、これまで漠然と抱いていた疑念が正しかったことになる。それはそれで意味があることだ」(p.23)。

  「ことほどさように」という言葉が適切かどうかは分からないが、著者が次のように言うのも、自らの経験を元にしていることから十分根拠のあることと思われる。
  「役所が政策の意思決定過程を明らかにしないのは、その政策に込めた真の目的が民意に沿わず、むしろ不合理だけを国民・住民に押し付けるものとわかっているからだ。水面下で勝手に葬り去った別の選択肢や、結論ありきを正当化するため後付けで実施した調査報告書、果ては冷酷な本音がにじみ出る関係者の発言を収めた会議録などが明らかになれば、市民に反論の材料を与え政策を一方的に進めることが難しくなる。
  政策に込めた真の目的を察知し、実現を阻止したいと考える一般市民が(誰でも)できるのは、政策の目的が民意に反し、隠蔽と嘘で一方的に進められている証拠を示すことだ。この証拠こそが意思決定過程を書きとめた公文書だ。何しろ役所の担当者が自身で作成したものなのだから、これほど確実な証拠はない。役人たちも『あんなの嘘っぱちだ』と否定したり、『市民は何もわかっていない』と見下すこともできない。
  公文書は役人の所有物ではなく国民・住民の共有財産(という建前)で、情報公開請求は法律や条例で保障された国民・住民の「権利」である。そのため、公文書の開示を求められたら役所も無視できない。市民は『どうか教えて下さい』と、情報のお恵みを求めて役所にへりくだる必要はない。情報公開請求は市民が情報の開示を役所に迫る唯一の正攻法だ」(p.41)。

  以下は一部だけを紹介することとする。
  2章では森友学園、加計学園、陸上自衛隊の日報問題などが取り上げられている。
  一連の公文書スキャンダルを受けて「行政文書の管理に関するガイドライン(公文書管理ガイドライン)」が改定(201712月)された。そして、「保存期間一年間題」や「個人(私的)メモ問題」、「当初は見つからなかった問題」などはすべてガイドライン改定後の事例なのだ。
  つまり、「不都合な公文書を隠そうとする役人たちの行動原理は改まっていない」し、「ウソをついて公文書を隠す(隠さざるを得ない)のは、情報公開請求を受ければ開示しなければならないという基本原則を知っているから」だ。だからこそ国民・住民側からの情報公開請求は欠かせないことになる。(p5859)。
  この章ではまた「冤罪を防ぐための証拠開示制度の意義」もこの情報公開制度の意義と似ていると指摘している。

  3章は原発事故をめぐる石原伸晃環境相の「(中間貯蔵施設は)最後は金目」や、今村雅弘復興相の「自主避難者は自己責任」「(震竣・原発事故が)東北で良かった」といった大臣の“失言”から。
  本来は政策そのものについての議論があるべきなのに、「大臣の理解不足、政治家としての資質の問題に矯小化され、『トカゲの尻尾切り』ならぬ『トカゲの首切り』で問題は幕引きされてしまった」(p86)。だからこそ、隠されている本当の目的を知るためには、非公開会議(「国民に言ってはいけないこと」をすり合わせる)の情報を得ることが重要になる。
  ほかにこの章では、身近な地方行政も同じ構造であることを茨城県取手市立中学校における「いじめ自殺問題」で、自戒も含めて語っている。

  4章は事例をもとに、「情報公開請求を受けた文書を開示しないため、公文書から外す脱法的な手口」を詳細に見ていく。そしてその多くは、「公文書管理ガイドライン」改定以降のもの。「いかに改まっていないか実感できることだろう」という(p.96)。

  5章は役所の防衛線を突破するための経験知とテクニックだ。その一つが次のようなもの。
  「複数の役所から担当者が集まった会議であれば、主催の役所だけではなく、担当者が出席した他の役所に対しても議事録(復命書)や配布資料を情報公開請求できる」。そのなかには面倒くさがるところがある一方で、「中には当該の政策に慎重な姿勢を持ち、むしろ情報を広く公開したい役所もあるかもしれない。だが主催者ではないので自ら発表はしにくい。そうした役所にとって、情報公開請求は“助け船”にもなり得る」(p.128129)。

  6章は例の黒塗りについて。
  一見して不合理とわかる黒塗り(不開示)に直面した著者、かつては「『こんな酷い黒塗りは許せない』と腹を立てていたが、最近はむしろ『なるほど、ここを隠すということはこういう意図だろう』と、解明のヒントを得られた喜びさえ感じるようになった」という。
  丸ごと不開示にするにはもともと無理な文書なので、もし情報公開審査会に持ち込まれるとまずい。「そこで担当者は次善の策として、『ここは出したくない』という部分を(できるだけ広く)黒塗りしようと考えたのだろう。もちろん黒塗りの理由はこじつけでしかない。
  『公にすると(不当に)混乱を生じさせるおそれがある』なんてどうにでも解釈できる。これで請求者が諦めてくれたら幸いだ-といったところだろうか」(p.150)。
  なるほど。何をどこまで黒塗りにするかは担当者によってはけっこう迷ったかも。(←あくまで性善説としてですが・・・)
  本章ではそのほか、原発避難者の住宅問題、安定ヨウ素緊急配布場所方針(案)などを例にし、また黒塗りの例ではないが伊達市の除染をめぐっての公約違反の問題を取り上げている。

  7章では不開示の取り消しを求める情報公開審査会に対する審査請求の仕方を述べる。
  情報公開請求では一定の期間内で開示・不開示の決定がされ、下のほうに小さな字で「行政不服審査法に基づき決定を知った日から3カ月以内に審査請求(審査中し立て)ができる」と添えられている。
  総務省による令和3年度の活動概況によると、情報公開に関する答申のうち不開示を妥当としたのは64.7%、一方、部分的なものも含めて35.3%を「妥当ではない」と判断しているという。一般に45%と言われる行政訴訟の原告勝訴率と比較すると、請求者の主張が認められる認容率は高い」(p.183)。

  著者の言葉は厳しい中にもインパクトがある。いずれにしても、私たちがこの社会で生活している限り、どのような立場にあっても人として適切な見方、考え方が如何に大切であるかが良く理解される一冊だと思う。(雅)

文化を散歩してみよう
                     第14回:韓国文化の姓と名 (3)

   前回、一般的に辺境には極端が生まれやすいのではと若干触れましたが、おそらくそれほど単純なことだけを根拠にするわけにはいかないとは思えます。ただ、それは措いておくとして、儒教のなかの朱子学を社会秩序の根本に置いた朝鮮時代には正邪論が徹底されていきました。正邪論というのは、どちらが正統かどうか、どちらが正しいか間違っているか、白か黒かをはっきりさせる、そういった論です。
   私見ですがこれはなかなかやっかいに思います。なぜなら、どちらかが正しいという原則に従えば妥協を拒むからです。最初から“結論ありき”というわけですから、自らの主張は主張として譲歩もあり得る、なんとか歩み寄って妥協点を見いだそうとする、そういった話し合いとか交渉などには馴染まないでしょう。仮の話ですけれど、もしそのような場面に臨めば疲ればかりが残って、後味が良くないのは当たり前だと思います。もっとも人にはいろいろな面がありますから一概には言えないでしょうけれど・・・。
   ところで、朱子学は日本では徳川幕府によって官学として取り入れられました。下剋上を絶やし、主従関係その他の社会の秩序を守るためだったと言われています。

   それはそれとして、朱子学は儒教の一学派ですが、これを興した朱熹は、女真族の建てた国「金」に圧迫されていた南宋の、その時代の人です。つまり「宋」こそが中華であり文明であり、「金」は夷狄というわけです。そのあとの展開は中国史に譲りますが、その朱子学が仏教に代わって朝鮮王朝に取り入れられます。しかも明から清の時代になると、先月号で述べたとおり「崇明排清」という流れとなって、やがて「正か邪か」という「原則重視」という色に染まっていきました。
   では、それは人々の生活や生き方、そして社会にどう影響しどう現れていったでしょうか。ここからはさまざまな韓国文化や歴史関係の文献にあるようにかなり面白い展開になっていきますが、本稿の主旨からは離れてしまいますし、それ以上に私の知識では到底カバー出来ませんのでこのあたりでストップします。ですので、ここでは一面だけを強調したような言い方になってしまいますが、原理原則を重んじる社会が生まれたというようなことをベースに話を進めます。もちろん実際の社会はもっと複雑なことは当然です。韓国の文化をテーマにした文献は豊富ですので、興味を持たれたら読んでみてください。

   葬礼と服喪に戻ります。
   前々回に触れたように、儒教における「孝」というのは「祖先祭祀」「子孫の存続」「親孝行」を総合したものでした。そしてそれら全体を覆うという意味で重要なのが、前の世代が亡くなった際に大いに嘆き悲しみを表しながら行う葬礼と服喪です。これは、これまでこの世におられた存在が、これからは「先祖」という存在に移られるにあたって子孫がしなければならい大切な儀礼です。決しておろそかには出来ません。

   葬礼についてちょっと側道ではありますが、韓国ドラマに『もう我慢できない』(全101話)というのがあります。各自がいろいろの思惑から言いたいことを言い合っている面白いドラマで、最後にはハッピーエンドになるのですが、その第32話に葬礼と例の土葬の場面が出てきます。なるほど、土饅頭はこのような場所に作られるのかとわかりますので参考までに。
   もうひとつ。
   1997年に公開された『祝祭』という102分の韓国映画があります。それは、長男であることから母の葬礼の喪主となった流行作家と、伝統的な次第に則って行われる3日間に及ぶその模様を丁寧に描いたものです。集まった親類縁者たちのさまざまな思惑、立ち居振る舞い、涙あり、トラブルあり、笑いありの内容で、韓国文化における死生観や人生観なども含めて理解するには最適だと思います。さらには、韓国の伝統的な葬礼のかたちを後世に伝えていくと言う意味でも貴重だと思います。ちなみにただ一つだけあげるなら、『もう我慢できない』では喪服は黒ですが『祝祭』では白装束(伝統)です。
   ※日本では庶民の間で喪服が黒くなったのは明治時代からで、それまでは白でした。

   服喪については次のようなエピソードが伝えられています。
   李氏朝鮮王朝末期のこと、力づくで朝鮮支配を目指していたのが日本です。その日本に対し、格調高い檄文によって義兵大将に推戴された李麟栄という人物がいます。彼は西洋式の銃を持つ旧韓国軍からなる3000名の大部隊を率い、先発隊は日本軍と一戦を交えようとソウルに近づいていました。ところがちょうどその時、父親の訃報が届いたそうです。すると彼は即刻出兵を中止し、故郷の聞慶にもどって喪に服したと言うのです。部下たちは、「え!そんなんでいいのか、こんな大事な時に・・・」とは思わなかったのでしょうか。思いませんでした。
   部下たちは、「さすがはりっぱなうちの大将だ。そうでなくてなんぞ(しょう)()(大義を唱えること)が果たせるか」と言って賛成したそうです。そののち、葬礼を果たした後に各部隊長が進軍を促しました。当然でしょうね。しかし李麟栄はこう言いました。
   「国に不忠であるものは、親にたいしても不孝者であり、親に不孝であるものはまた国にたいして不孝である。その道はただひとつしかありえない。したがって、わが国で定めた孝礼の基準に従い、三年間喪に服す。そののち、また十三道の倡義軍を集め、日本軍を掃討する」と。(金容雲著『韓国人と日本人』サイマル出版会1983.17

   これまた「ホントかよ!」(私)となりますが、言われてみれば「そういうもんか・・・」と思わないでもありません。そもそも依って立つところが違いますから・・・。
   「彼の論理によれば、3年の喪にも服さないような者が、どうして国につくす義兵運動ができようかというのである。このため、旧韓末のもっとも重大な義兵運動が、ほかならぬ朝鮮時代を支えていた伝統的な倫理観により、無残にも崩れてしまう結果となった。伝統的倫理観によって盛りあげられた抵抗運動が、また同じ理由によりつぶされたのである。これほど歴史の皮肉があろうか」(同上p.1718

   ちなみに、「3年の喪」というのは、中国の黄河流域では乾燥地帯なので土葬すると白骨化するのに約2年かかり、その時に死の過程・あるいは生が終わったということで、追慕の立場から臨終の前日を数えに入れて足かけ3年・実質満2年、それが重要な区切りとなるそうです。

   なお、これまで話題にしてきた儒教ですが、これまでどちらかというとかなりネガティブに聞こえてきたかも知れません。しかしやはり何事も、「群盲象を撫で」ないようにしたいものです。
   もちろん男尊女卑や身分の締め付けと差別、妥協を拒む白黒論理などは全く馴染めませんが、良い意味での応対辞令が礼儀として働けば、社会の潤滑油となって秩序を保っていくのも事実だと思います。どういうことかというと、韓国で良い意味での儒教的な倫理が身に付いているような方に会ったことがあるからです。もちろん儒教100%と言い切れるものではなく、その方の持って生まれたもの、あるいはそれまでの人生経験に深く根ざしたものでもあるとは思います。
   ただここで言いたいのは、例えば長幼の序が敬老の精神に繋がるように、立ち居振る舞いが内面化されて人格を磨くことにもなり得るのではないか、と言うことです。「習い、性となる」とも言われますから。ものごとを習うときには先ず「かたち」から入るとされ、きちんと「かたち」が出来てはじめて中身が充実する、中身が充実してはじめて外面も本物になると言うことではないでしょうか。
   これは後に取り上げたい『朝鮮の土となった日本人-浅川巧の生涯』(高崎宗司著、草風館 2002)からの引用ですが、浅川巧の兄、伯教の茶道についての考え方だということです。
   「茶の湯といふものは実によいと思ふ。今の世の中には、目や耳から注ぎこまれるものは沢山ある、ありすぎる。併し茶の湯にやうに聞いた通り体を動かし、言はれた通り体で行ふものは余りない。この体得するといふことが実によいと思ふ。私は茶に招かれた時は、いつもよい宝を得て帰へれるのが楽しみである」(同書、P.5556

○姓は変えない
   以上、少々脱線しましたが、「孝」が大変重要な徳目であることが理解されると思います。そしてそのための一つである先祖祭祀、それを絶やさない証しとしての一つが、これまた重要な先祖から伝わる「姓」ということです。「姓を変える奴」というのが最大の侮辱表現にもなっていますから。
   長崎県立大学の李炯喆教授による『植民地下の朝鮮人たち』という研究報告の一部にはこうありました。
   「韓国語の慣用句に『私がそんな真似をすれば、姓を変える』、『姓を変える奴』という表現があって、前者は自分の言動を必ず守るとの誓いであり、後者は性質や品行が良くない人を蔑む表現である」(長崎県立大学国際社会学部研究紀要、第32018:ネットから)

   このことからも、いかなる理由であれ、またいかに自主性を装っても、日本統治時代に行った「創氏改名」は乱暴な文化の破壊であり大失策というほかはありません。
   創氏改名については例の姜君からからこんな話を聞きました。
   その時に彼の親族はどうしたかというと、もちろん変えたくありません。でも仕方がないので一族で相談しました。姜氏の起源は中国の三皇五帝の一人、医療と農耕を人々に教えたという神農氏と伝えられているそうです。そのことを踏まえて姓を「神農」にしたということでした。学生時代に彼の家に遊びに行った時、彼は掛かってきた電話に「はい神農(ジンノウ)です!」と受けていました。それまで「キョウ」「キョウ」と呼んでいたのがいきなり「ジンノウ(本来は「シンノウ」だそうです)」だなんて、今では失礼とも思いますが、その時は変な感じで、「何それ?」と思わず笑いたくなってしまいました。

   ただ歴史上では、やむなく自ら姓を変えて生き延びるという、そんな悲劇もありました。
   これまでも触れましたが、ハングル創成にかかわって韓国でもっとも尊敬されている李王朝四代目の世宗の韓国ドラマを見ていたところ、たしか初回だったと思いますが、子供時代の世宗が暗殺されそうになる場面がありました。まあ「ドラマだから」とは思いましたが、捕まった犯人は李氏の朝廷に恨みを持つ確信犯で「Ok(オク)」という人物でした。はじめは「Okってどんな姓なんだろう?」と思っていただけでしたが、そのうち彼は「玉」と言ってかつての高麗王朝の一族だったことが明らかになりました。

   王氏には多くの系統があるようですが、そのなかの「開城王氏」の(わん)(ごん)を開祖に持つ高麗王朝は第24純宗(じゅんそう)の時に終焉を迎えます。純宗は朝鮮王朝を開いた李成桂( い そん げ)に政権を禅譲したにもかかわらず、その血を引く一族はのちに李成桂によって一個所に集められ殺されてしまいます。そこで、王姓の人々は生き延びるため、王の字に点を加えて玉にしたり、縦線を加えて田、あるいは申や全に姓を変えていきます。また高麗王朝から王姓を下賜されていた人々も元の姓に戻したと言います。
   今回調べてみると、韓国にはいくつかの系統の(高麗王族ではない)「王」氏があるようです。でも人数としては5千万を超える韓国の人口のうちわずか0.05%にも満たないほど(2015年の国勢調査)でした。高麗末期にはかなりの割合で王姓があったと言いますから、深刻な弾圧や摘発が長く続いた結果に違いありません。

○族譜
   このような姓にかかわる一族の土台となっているのが族譜です。4月号で少し触れ、また7月号では『衿陽雑録』を著わした姜希孟を紹介したりしましたが、彼は晋州を本貫(この場合は出身地)とするいわゆる晋州姜氏の一族です。例の「姜」君も本人が自覚しているかどうかはわかりませんが同族です。始祖は高句麗の姜以式という将軍だそうですが、姜氏に限らず族譜というものの編纂や記録は今年の1月号で述べたように15世紀初期から始まったとされ、尹學準著『オンドル夜話』(中公新書1983)には次のようにありました。

   族譜の起源は中国の後漢時代に王室の系譜を記録することから始められたと言うのが通説のようだと述べたあと、「朝鮮では族譜は高麗時代から作られたそうである。やはり王室の系譜を記録することからはじまったのだが、門閥貴族の形成で族譜作りが急速にはやりだした」と。
  それは、「階級社会を形成するためには絶対に必要な作業であったのだろう。つまり地方や中央を問わず、官吏選抜の推薦資料が族譜であり、姻戚関係を結ぶ段になって身分をたしかめるための資料でもあったわけだ」。しかし当時はまだほとんど筆写によっていて親模も小さかったそうです。
   「族譜の編纂事業が最も盛んだったのは壬辰・丙子の乱を経て相対的な安定期に入った頃だった。当時は族譜がない家門は自動的に常民に転落するのだが、常民は兵役の義務を負うなどさまざまな差別を受けねばならない。だから常民たちは班列に加わろうとして多大な金品をかけるのである。官職を買ったり、族譜を偽造したりもするのだが、最も一般的な方法としては、名家の族譜が編纂されるときにその譜籍に加えてもらうことだ。『ヤンバンを売る』とか『族譜を売る』という言葉があるが、それはこのような買手があるからだ」(同書、p.73

   ただ、族譜に掲載される範囲は宮嶌博史氏の論文(※)によれば変化があったとされています
   それは、17世紀前後を境に、それまでは男系・女性を問わず載せていたものが父系以外は載せないようになったことです。そのように男系だけに絞られてきたということは、一族というものの考え方が変わってきたことを意味し、宮嶌氏はこれを双系的なものから父系的な考え方へと変わってきたと表現されています。そしてまた、絞られたことと一族の結合が強くなったこととは結び付くのではないかと言うことでした。
   宮嶌博史氏の論文『東洋文化研究所所蔵の朝鮮半島族譜資料について』でも解説とその例がネットで見られますのでぜひご覧ください。
   では女性はどうだったかと言うと、伝統的には配偶者は姓と本貫のみが載せられ、女子には本人の名が載せられずにその本貫と夫と子の姓名が記されたと言われています。ただこれも、「韓国 族譜 写真」として調べてみましたが、かなりいろいろな形があるようですし、私には釈然としないところがありました。

   前号で紹介した本郷和人氏の著書に日本の中世の有名な女性の例がありましたので、本稿とは直接関係ありませんがちょっと面白かったのでそのまま紹介します。(すみません、ちょっと息抜きのつもりです)
   「鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の妻である「尼将軍」こと北条政子という名も、本当の名前ではありません。上洛して天皇や上皇の前に出る際に名前がないとまずいということで、父親の北条時政から一字をとって、政子としたのです。それならば時子でもよいはずですが、時子は平清盛の妻の名でした。時子にしても、彼女の父・平時信から一字をとったもので、本当の名前ではありません。時子では平清盛の妻の名前とかぶってしまうので、北条政子となったのです。ですから、頼朝は妻のことを「政子」とは呼んでいなかったと考えられます」(同書、p.35)。面白いですね。

   また族譜は単に一族の系譜を示すだけではなく、次にあるように様々な役割からも大変重要でした。
   「祭祀を始めとして相続・養子・婚姻などに関する昭穆(しょうぼく)の序(訳者注・祖先を祭る際の位牌の順序)、行列(訳者注・親族間の階級)の区分を明白にし、嫡庶の区別、族内婚禁止律に該当する姓族派別、階級的内婚制に必要な門閥家乗(訳者注:一家の記録としての系図、文集など)を明らかにするなどの存在意義がある。李朝社会においては両班貴族の社会的特権が世襲され、その子孫は納税・賦役・兵役のような国民的義務の免除が公認されていたので、両班貴族の後裔にあたる者は誰もが、家系上の身分を明確にするために族譜を重視した。
   このような特権があったため、両班の後裔だと自称する者、族譜を偽造する者、族譜によって利をむさぼろうとする者が生じた」(尹泰林著、馬越徹、稲葉継雄共訳、『韓国人-その意識構造-』高麗書林1975、p.109

   少し表現が難しいようですが、要するに社会的に自分たちの一族がどのような位置にあるのか(つまり地位)と、またその中における個々の序列を明らかにするためだったということでしょう。また、当然ですが特権を持つというのはその部分は排他的でもあるわけで、それはまた族譜に載る祖先の働きであり、同時に誇ることにも繋がることにもなります。
   ですから、万一何か災難が起こって避難する時には、日本ではよく位牌を持って逃げる(揶揄的ですが)などと言われますが、韓国ではそれに加えて、例えば朝鮮戦争の時など族譜を持って逃げたとも言われています。ですから偽造の族譜の売買も起こったということです。

   日本にも江戸時代には家系図作りを生業とする「系図屋」というのがあったと言います。もちろん過去帳やその他の資料によって真面目に作成する業者もあったでしょうけれど、需要に合わせて捏造したり改竄したりのにせ物も作ってもいたようです。なので、検索すると系図屋の意味の一つに「故買屋」が出てくるのも納得です。
   また、逆に「系図買い」と言う言葉もあって、「人柄より家柄を重視した縁組」や「盗品買い」という意味もあるようですが、文字通りには自分たちの家柄をよく見せるために他の良い家柄の系図を買い取ることでしょう。まあ、権威とか身分がものをいう社会ではいずこも同じようなものだったのでしょうか。(つづく)(M.I.)
 
  
    ちょっと紹介を!

  ニコラス・シュラディ著、山田和子訳
         『リスボン大地震―世界を変えた巨大災害―』(白水社 2023)

   昨年114日付けの毎日新聞「今週の本棚」欄の本書の書評に、1755111日にリスボンを襲った巨大地震の経緯とその後の詳細、また当時のポルトガルの国際的な位置づけなどが簡潔に描かれていた。そのなかでも最後の一節、「フランス革命とは、リスボン大地震の巨大な余震だったのかもしれない」がたいへん印象に残り、さっそく図書館から借りて読んでみた。
   その結果、この最後の一文についてはやや私の早とちりだったことがわかった。私はリスボン大地震がフランス革命そのものを誘発したかのように受け取ってしまったのだが、実はそうではなく、内容的な面でかなり影響を受けていると言うことだった。その意味で「巨大な余震」と表現されたものだったと(今は)解釈している。

   著者はワシントンDCのジョージタウン大学で学位を取得(哲学)後に著述活動を始め、多数の著名な雑誌・新聞に幅広く評論、エッセイ、書評を寄稿するとともに、多くのインタビューも行なっているという。また翻訳家でもあり編集者でもある訳者には多数の訳書がある。
   とくに本書の訳者は当時の国際情勢をはじめ、ポルトガルの歴史や文化、政治について極めて知識が深く、「訳者あとがき」には本書の要点と特徴が過不足無くまたわかりやすく書かれ、また「訳注」も読者にとって理解を助けるものとなっている。もし本書を読むことになったら、最初にこの「訳者あとがき」を読むのが適切ではないだろうか。(←私は最後に読んでそう思った)

   たとえばその「訳者あとがき」の一部には次のようにある。
   「本書は、災害と復興という現実的な側面から、文化や思想といった人間の精神活動にいたるまで、様々なレベルのファククーを織り込みつつ、リスボン大地震の全容をドキュメンタリータッチで描いたノンフィクションである。
   当時のリスボンは世界各国が交易拠点を構え、大勢の商人が居住・活動するグローバル都市だった。この商人たちが自国に送った報告や目撃証言はおびただしい数にのぼり、また、王族や貴族、外交官、聖職者や旅行者や学術関係者、思想家、ジャーナリストたちの間で交わされた書簡も多数残されている。そうした潤沢な資料をもとに、再現ドラマふうに始まる導入部から、災害対応、ポルトガルとリスボンの通史、カトリックとプロテスタントの戦い、異端審問、宰相カルヴァーリョの社会・政治・経済・教育改革、都市再建など様々なテーマが縦横に語られていく。中でも、ヨーロッパじゅうの思想家たちの間でリスボン地震をめぐる議論が沸騰する様子は圧巻で、この地震が文化史上どれほど大きな衝撃をもたらしたかを改めて考えさせずにはおかない」(p.274

   著者自身は「エピローグ」でこう述べる。
   「意識に大々的な衝撃を与えたところには、かなりの程度まで、いくつかの偶然の特殊性がかかわっていると言える。ヨーロッパがこれほどまでの自然災害に見舞われたことは史上かつてなく、まして、それが、殷賑をきわめる国際的な大都市リスボンであったという事実は何よりも大きかった。(略)
   自然災害は様々なことを明らかにする。社会が災厄をどのように解釈し、混乱にどのように対応するかによって、ひとつの文化――突然、不可解にも、全面的な荒廃のシーンに直面させられた文化――が、それまで真実として受け入れてきたことや偏った先入観、希望や恐怖が、白日のもとにさらされる。リスボンの場合、あらわにされたのは、神・人間・自然という旧態依然たる絶対的真実に強固に根づいたポルトガルの社会のありようだった。リスボン地震が、これら頑迷固晒な考えの多くを次第に消滅させていく要因となったこと――これは、廃墟の中から立ち現われてきた注目すべきポイントのひとつである。
   一方、地震が啓蒙主義の“最善説”に与えた打撃もまた決定的なものだった。地震の報を突きつけられたヴォルテールは否応なく、我々が生きている世界はありとあらゆる世界のうちで最善のものだという考えに疑義を呈さざるをえなくなった。
   リスボンが廃墟の荒野と化していなかったら、あるいは、ヴォルテールも、あれほどまでに急迫した思いに駆り立てられることはなかったかもしれない。リスボン後、世界は突然、元に戻すことのできない根源的な変容を示した。神は公正であることをやめ、自然は慈悲深き存在であることをやめた。これによって、頑迷固晒な聖職者も開明的な哲学者も、誰もが、それまで後生大事に抱いていたドグマをどうしようもなく再検討しなければならない状況に追い込まれた。こうして、ヨーロッパじゅうに沸き起こった多様な思索と論争は、人類をほんの少し賢くした」(p.248249

   ここでは本欄の主旨に沿って本編のなかから一部だけを紹介する。(読みやすいように段落を付けた)
  「『神の怒りの日には、富は何の役にも立たない』と箴言は警告している。そして、1755年の万聖節の日、これが現実のものとなった。それまで何世紀にもわたって、強引な交易と遠隔地の鉱山の搾取と人間という商品の取引の上に罪深い繁栄を重ねてきたリスボンだったが、大災厄に襲われたこの日、まるで聖書の決算日だとでもいうかのように、この街とその住人が貪欲に獲得してきたものがことごとく瓦礫と化し、津波にさらわれ、灰となって風に吹き飛ばされてしまった。
   同時に、忌まわしいものの多くもまた消え去った。異端審問所の壮麗な執務局は二つの監獄ともども廃墟となり、審問官が有罪判決文を読み上げ、修道士たちがユダヤ人を虐殺せよと大衆を煽り立てたサン・ドミンゴス教会も同じ運命をたどった。疫病が蔓延し汚水の悪臭にまみれた中世以来の無数の迷路も、そこに密集していた狭苦しい家々も瓦礫の下に埋もれた。
   だが、それ以上に大きかったのは、旧来の絶対主義の観点が根幹から揺らいでしまったことだった。リスボンは、その熱烈な宗教的自意識と信仰心にもかかわらず、神に見捨てられた。神は正義であることをやめ、自然は慈悲深くあることをやめた。そして、街がまだ嘆きのただ中にあるうちから、この災厄が実は、新たな時代の――既成概念に疑いを抱くという健全な感覚と理性の力が宗教的ドグマの絶対性に取って代わり、神の摂理なるものによって植えつけられてきた思考停止状態、無感覚な諦めの意識が、人間の意識の解放に道を譲っていく時代の先触れであったことが明らかになっていく。
    この意味で、リスボン大地震は、取り返しのつかない悲劇としてだけでなく、歴史の決定的な転換点であり、またとないチャンスでもあったととらえなければならない。時の宰相セバスティアン・カルヴァーリョは、まさにそのように考えていた」(p.136

   「カルヴァーリョがポルトガルを支配した27年間は、モラル的に矛盾した内容に満ちみちている。それらを詳細に見ていけばいくほど、一個の明確な宰相像が現われるどころか、完全に対極に位置する二つの像がはっきりと浮かび上がってくる。
   『ボンバル――啓蒙主義のパラドックス』という啓発的な評伝で、ケネス・マックスウェルはストレートにこう述べている。『1750年から1777年の間、ポルトガルを事実上、完全に支配していたボンバルは、ある者にとっては、ロシアのエカチェリーナ二世、プロイセンのフリードリヒ二世、オーストリアのヨーゼフ二世と並ぶ、啓蒙専制主義の偉大な人物であり、また、ある者にとっては、ただの半可通の思想家、徹底的な暴君である』
   カルヴァーリョに関しては、中間領域というものがほとんどないようで、見る者それぞれの政治的見解、社会的地位、宗教的立場、経済的状況に応じて、救世主ないし独裁者、高潔な政治家ないし日和見主義者、ヴィジョン溢れる人物ないし『半可通の思想家』という真っ二つの評価に分かれる。そして、実際に、いずれの評価をも裏づける充分な証左があること――これが最も興味深いところだろう。カルヴァーリョの支配形態が釈明のしようもない圧政であったことは否定すべくもない」(p239

   圧政の具体的内容は本書に詳しい。重い問いかけになっているようだ。
   カルヴァーリョは国王から委託された形で改革を断行したが、国王の死とともにその権力は剥奪される。しかし再建(復興ではない)開始から250年を経た今日、名誉は完全に回復させられている。(文責:編集部)
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