月刊サティ!

2024年2月号                                            February 2024 

 今月の内容

 
  巻頭ダンマトーク:今月は休載いたします
   ダンマ写真
  Web会だより ー私の瞑想体験 :『私は、私を解き放った』(後)
  ダンマの言葉 :『四聖諦』(1)
  今日のひと言 :選
   読んでみました :八鍬友広著『読み書きの日本史』(岩波新書 2023)
  文化を散歩してみよう:『韓国文化の姓と名』 (2)
   ちょっと紹介を!:ギョーム・ピトロン著、児玉しおり訳
       『なぜデジタル社会は「持続不可能」なのか』(原書房 2022)

     

【お知らせ】

      <地橋先生による「巻頭ダンマトーク」がまもなく再開されます。ご期待ください!!>

               

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。

 
     

 今月のダンマ写真 ~
  

八王子プッタランシー寺院本尊

 先生より



    Web会だより ー私の瞑想体験ー

『私は、私を解き放った』(後) 柿崎 竜太

(前回より)
  「いける!・・・ここでなら自分が秘め隠していた事を打ち明けることができる」そう私は思った。
  私はここ数年、いっそのこと誰かに私の嘘を洗いざらい全部打ち明けたいと思っていた。これ以上、誰かに嘘をつき続けるのが辛かった。
  私は、口調にプライドをまといながら、重々しく、遠回しな表現で今までの私の経緯を参加者の前で話した。みんな黙って私の話を聞いてくれていた。
  話し終わり、参加者の方たちから優しい言葉をかけていただいた。中には、自分では思いもしなかった視点で前向きな発想を言ってくださった方もいた。私はとても救われた。何より大勢の前で今まで秘め隠していたことを打ち明けることができ、私はとってもスッキリした。最後に地橋先生から、「今日はぐっすり眠れますね」と言っていただいた。先生がおっしゃる通り、その日はぐっすり眠れた。
  帰り道、一人の合宿の参加者と意気投合し、その方とは後に親友(法友)になった。

  その後、1day合宿の参加は数ヶ月空いてしまったが、法友の導きにより再度参加することになり、現在は、朝カルの地橋先生の講座にも参加している。初回の1day合宿から私は心身ともにみるみる調子が向上している。最初の1day合宿が大きな転機となり、その後の1day合宿、地橋先生との面接、まとめの会、朝カルの法話などで、私の心にコペルニクス的転回が起きた。

  私がここ最近驚いているのは、私の心の変化だ。私は今の自分自身をダメなところを含め、好きだと思えるようになった。幼少期から今に至るまで、私は自分自身の弱みをちゃんと直視した上で、自分で自分に「好きだ」と言ってあげられたことは無かったと思う。
  私は今、人生が楽しい。合宿でみんなで瞑想をやるのが楽しい。地橋先生の法話を聞くのが楽しい。趣味も増えた。仲間も増えた。かけがえのない親友(法友)ができた。
  おそらく今まで生きてきた中で一番、自分が成長する喜び、気付きの喜び、瞬間を味わい、今を生きている喜びを感じているような気がする。私は今まで大した苦労をしてきた訳では無いが、去年のような苦しい思いは懲り懲りだ。今後は60点ぐらいの人生でいいから、少しの幸せを感じながら生きていきたい。

  ちょっとネガティブな表現だが、私はこんなに幸せでいいのだろうかと思ってしまうくらい、何かが以前と違う。実生活の問題は山積みで、日々私の目前には由々しき事態がどんどん舞い込んでくる。けれども冷静に対処できそうな気がするし、それらも1週間ほど経つと過去のいい思い出になり、人生の深い喜びになっている。
  それはこれまでの自分の人生では無かったような不思議な感覚で、ここ最近はこの深い喜びが頻発しているような気さえする。これが何なのか、果たしてこの感覚は正しいのか今の自分にはまだわからない。

  ありがたいことに「月刊サティ!」の寄稿を地橋先生から頼まれたのだが、締め切りはとっくに過ぎ、しかも原稿はまだ半分くらいしか書けていなかった。私の完璧主義はまだ治っていない。
  私:「もう少し時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
  先生:「あまり書きたくないことは無理に書かない方がいいですよ。この原稿の執筆は、飽くまでも執筆者の心が整理され、さらなる修行の進歩に資するところがあるからです。無理し過ぎないでくださいね。難渋しているようでしたら、現状のままでお送りいただいてアドバイスを求められてはいかがでしょうか?」
  私は期日を延ばしてもらい、半分まで書いた原稿をメールに載せた。
  先生:「前半部はこれでよいでしょう。さあ、ここからオセロの黒が全て白に一転するように、1Day合宿を契機に新しい人生が始まっていく流れですね。
  ヴィパッサナー瞑想のセオリーどおり、秘め隠していた鬱屈をありのままに自己開示できたこと、それが理解され、共感され、自分自身を解き放つことができ、法友が得られ、生き方が変わり、人生の流れが変わっていったのですから、この欄のお手本のような原稿ができるでしょう。自信をもって執筆してください。お待ちしております」

  私は先生からのメールを読んでいる途中で涙が溢れてきた。自分でもビックリするくらい声を荒らげて泣いた。内から溢れ出るように、大きな声と大量の涙が出てきた。自分でも、自分に何が起きたのかと不思議だった。大人になってこんなに泣いたのははじめてだった。
  アンケートを覚えていてくれた。私の心の変化に気付いてくれた。私の成長を見守ってくれていたと思うと、とても嬉しかった。地橋先生の優しさに涙が溢れた。
  そして、初めて自分自身に対して「今まで頑張ってきたね」と優しい言葉をかけてあげられた気がした。心から自分のことが許せたのかもしれない。
  いっぱい泣いてスッキリした。

  その後、キッチンの流し台で手を洗っているとき、妙な感覚を覚えた。
  いつもと変わらない見飽きた流し台に、前日の洗い物がまだ残っている。ただ、そのいつもと変わらない流し台がとても鮮明に、かつ輝いて見えた。生まれて初めて蛇口のシャワーヘッド、シンクを見たかのように新鮮で美しかった。実際は水垢だらけなのに。いつもと同じものでも、心が変われば全てのものは美しいのかもしれない。
  私はどん底の中、地橋先生、グリーンヒルの皆さんに救っていただいた。本当に感謝の気持ちでいっぱいだ。

  とにかく今は心身ともに健康になり、他に与える余裕が多少出てきたようにも感じられる。きっと世の中には、私と同じような悩みを抱えている人がたくさんいる。私もその人たちの力になりたい。そしてこれからも悪を避け、善を成し、驕り高ぶることなく、謙虚な気持ちで毎日修行に励みたい。
  最後まで読んでいただき、ありがとうございます。みなさんが幸せでありますように。()
               

                     冬の竹林 
          Y.U.さん提供
 






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ダンマの言葉

                    『四聖諦』 (1) 比丘ボーディ

今月号より、20056月号から連載されました比丘ボーディによる法話『四聖諦』を再掲載いたします。今月はその第1回目です。

四聖諦(一)
  ―象の足跡―
  ブッダの教えの記録は膨大にあります。しかしこれらの教えはすべて一つの枠組み、すなわち四聖諦の教えに入れることができます。ブッダは四聖諦を“象の足跡”に例えています。象の足跡に他の動物の足跡、例えば虎、ライオン、犬、猫などの足跡が入ってしまうように、ブッダのさまざまな教えはすべて四聖諦という一つの枠組みに組み込まれてしまいます。
  ブッダは、「四聖諦を理解することは悟りを得ることと同じである」と明言しています。「ブッダが世に現れるときは、四聖諦の教えもそこにある」ともおっしゃられます。ダンマ(真理)は四聖諦を世に知らしめるためにあり、悟りへの道を歩む人たちが目標とすべきことは四聖諦を自分自身で理解することです。
  四聖諦とは以下のものです。
  1.苦の真理
  2.苦の原因に関する真理
  3.苦の消滅に関する真理
  4.苦から解脱への道に関する真理

  「苦」(ドゥッカ)という言葉はしばしば苦難、苦痛、不幸というふうに解釈されます。しかしブッダの言われる「苦」にはもっと広くて深い意味があり、すべての存在、命を持ったものすべてに根ざしている根源的な不満足感を示しています。その不満足感は、命を持つものはすべて変化し、無常であり、内に核となるものや本質的なものを持っていないために生じます。「苦」という言葉は完全さの欠如、つまり理想や期待にかなわない状態を表しているのです。
  「四聖諦」のそれぞれが深い意味を持っています。それは医者の処方箋のようなものです。

Ⅰ.第一の聖なる真理 ―苦(ドゥッカ)―
  ブッダはさまざまな苦の実態を示すことによりこの真理を説明しておられます。
  1)誕生
  誕生とは、一般的には妊娠から子宮から出てくるまでの期間全体を意味しています。誕生する時にはそれ自体が苦痛の経験となります。選択の余地なく、何も分からずに子宮から押し出されこの世に投げ出されることはトラウマ的な体験です。以後、生涯続く苦の始まりですから、誕生は苦です。誕生後に成長が始まりますが、それもまた苦を内包しています。

  2)老い
  成長が頂点に達すると老化が始まります。肌はしわが寄り、歯は抜け始め、感覚器官は鈍くなり、髪には白いものが混じり始め、記憶力は衰え、活気が失われます。

  3)病気
  肉体的なものであっても精神的なものであっても、病気は苦痛です。

  4)死
  最後には死がやって来ます。肉体が壊れ生命力が消滅することは苦痛です。

  5)悲しみ・悲嘆・苦痛・悲痛・絶望
  悲しみとは何かの喪失に伴う激しい苦悩、悲嘆は涙を流して泣くこと、苦痛とは肉体的な痛み、悲痛とは精神的に不幸なことすべて、絶望とはすべての望みを諦め、精神的苦痛が極限に達した状態です。

  6)不愉快なこととの出会い
  さまざまな不愉快な状況や本来なら会いたくない不愉快な人たちとの遭遇は、自分の意志に反して起こると苦になります。

  7)心地よいものとの別れ
  喜びを感じる心地よい状況があり、会いたい人々もいます。私たちは、会いたい、それがずっと続けばよい、ずっとつかんでいたい、関係を持続させたいと思っています。その喜びを感じる、心地よい状況や人々との別れに直面することは苦です。

  8)望むものが得られないこと
  通常私たちは喜び、富、名声、賞賛を望みますが、苦痛、貧困、不名誉、非難を得ることがあります。若さを保ちたいと思っても年老いてゆき、健康でいたいと思っても病気になります。これらすべてが苦です。
  ですからブッダは簡潔におっしゃっています。「つまり、執着を作る五つの集まり(五蘊)は苦である」と。
  ブッダはこの言葉で、私たちが経験するすべてのことに苦が含まれることを示しておられます。五つの集まり(五蘊)とは私たちの経験を作り出している基礎的な構成要素で、五種類あります。それは物質的な形をもったもの、感覚、知覚、心の形成力、意識です。(色・受・想・行・識)
  「形をもったもの」とは感覚器官を備えた肉体をも含み、他の四つは心の作用に関するものです。
  なぜこれらすべてに苦が含まれるかというと、すべてが無常であり、瞬間瞬間、変化するからです。事実これらはすべて一瞬の出来事であり、内なる核がありません。「私自身」と言っているものは瞬間、瞬間変化している要素の組み合わせにすぎないのです。要素の組み合わさったものが誕生し、老化し、やがて死ぬのです。

  ―深い部分での苦―
  苦とは一般的に言われている苦難以上の意味があることを明確にするために、ブッダは苦をその深さの程度に応じて三種類に分けておられます。
  1)一般的に言われている苦
  身体的、精神的な苦痛。

  2)変化(無常)という苦
  これは感覚による苦から一歩深い段階にあるものです。この段階では、心地よい経験もすべて苦であると理解されます。なぜかと言うと、それらも変化を免れ得ないからです。
  ただし、苦は心地よいものが変化することで生ずるという意味ではありません。心地よい経験自体、喜びを与えるものは、たとえ今それを楽しんでいたとしてもすでに苦なのだという意味です。
  健康は病気に蝕まれます。よって今健康であったとしても、健康という状態は苦なのです。若さは老いにとって代わらざるを得ないために、若さは苦であり、不満足が内在しているのです。

  3)条件付けられた心の形成力(サンカーラ)という苦
  これは、ブッダが「執着を作る五つの集まり(五蘊)は苦である」と言われた時に語ろうとしていたことです。私たちの個別性とは、条件によって左右される現象の組み合わせにすぎません。条件によって左右される現象はすべて無常であり、常に変化の過程にあります。その結果、それを支配したり制御したりする力は私たちにはなく、現象は勝手に変化していきます。知恵ある人にはそれが苦として経験されます。(続く)
  比丘 ボーディ『四聖諦』を参考にまとめました。(文責:編集部)

       
今日の一言:選

(1)夜道を歩いていたら、角の暗がりから突然「福は内!」と大きな声がした。
  そして、「鬼は外!」のタイミングでこちらに向かってパラパラと豆が飛んできた。
  幸福は我が家だけに、災いの元凶は他所に・・という訳か。
  嫌いな人や敵対する人にすら「幸せであれ」と祈る瞑想との落差を感じた。

(2)晴れた日は楽しく、風の日は全てがクッキリ明晰だ。
  雨の日は肌も潤い、葉群の緑も樹皮も美しい。
  淡い曇りの日は心が落ち着き大好きだ。
  雪が降る。現実が詩的になる。
  冒険好きなので嵐が来るとワクワクする・・。
  全てを肯定できれば、現象世界が達観される。
  執着がなくなると、苦が激減する・・・。

(3)狼がきたぞ!という誤情報からでも、現実の反応が起き、大騒ぎになってしまう。
  そのように、実体のない幻のような「エゴ」であっても、傷ついたという印象を受ければ、ホルモン系に一連の反応が起き、愛着障害のような問題も発生してしまう。
  「自我」を確立してから「無我」を悟る順番・・・。

(4)「愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる。愛するものを離れたならば、憂いは存在しない」とブッダは言う。
  「安全基地」を体験した者は、「安全基地」を手放すことができる。
  万物と繋がり合い万物に支えられていると知り、無我を体得した者は、独り犀の角のように歩む・・・。

(5)自信がなく、自己嫌悪や自己否定感覚との葛藤で苦しんでいる人たち。
  そんな自分を丸ごと受け容れてくれる揺るぎない絆に支えられれば、安心してのびのびと実力を発揮できるだろう。
  だが、その支えを失えば、絶望的な悲しみの中に失速する。
  何ものにも依存しない自己完結を目指す・・・。

(6)歩く瞑想のやり方が間違っていたわけではなかった。
  だが、インストラクションを受け、ひとつ一つの動作に溜めを作ってから感覚を取り、余韻を感じてからラベリングをするように微調整した。
  すると、頭の中が異様なほどクリアーになったという。
  自覚されない妄想の微塵まで一掃された世界・・・。

     

   読んでみました
           八鍬友広著『読み書きの日本史』(岩波新書 2023)
  著者は東北大学北大学大学院教育学研究科教授。著書に『闘いを記憶する百姓たち-江戸時代の裁判学習帳』(吉川弘文館2017年)、『近世民衆の教育と政治参加』(校倉書房2001年)など。
  本書の構成を箇条書きにすると、
  1章「日本における書き言葉の成立」では日本語の文体の変遷
  2章「読み書きのための学び」ではテキストとしての往来物の出現まで
  3章「往来物の隆盛と終焉」ではその広がりと消長
  4章「寺子屋と読み書き能力の広がり」ではそれをめぐるさまざまな実例と問題
  5章「近代学校と読み書き」ではその後の動きと今後の電子的テクノロジーの流れまで
となっていて、それぞれ膨大な資料とともに綿密に検討され記述されている。

  ところで、江戸時代の人々の識字率は世界一だったと言われたり、幕末・明治期に来日した外国人が文盲率の低さを驚いているなどと聞くとなんとなく誇らしい感じにもなる。また、時代劇などで普通の町人が手紙を遣り取りしているのを見てもあまり違和感を覚えない。時代考証はともかくとしても・・・。
  で、そこまでなら「そうですか」と感心して終りだが、著者によれば、識字率の高さは全国共通だったわけでもないと言う。「近世期の書記言語環境のなかで、公私の文書を不自由なく作成できた人口は、地域によっては相当に限られていたことは明らか」なのだそうだ。本書は、私たちの使う「読み書き」の文章がたどってきた道のりをわかりやすく述べているが、ここでは、これまで単純に思い込んでいたようなそのようなところに絞って紹介したいと思う。

  ただ、そうは言っても、日本の文章表記の変遷について少しだけ(主に第1章から)。それは漢文から始まり、漢文訓読、変体漢文、宣命体、万葉仮名、仮名交じり文、仮名文と展開してきたという。
  ・漢文はそのまま外国語として読み書きをするもので、読み方は素読。
  ・漢文訓読はご存じのように返り点などを使って日本語の語順になるように読み下すもの。高校時代に習った。
  ・変体漢文というのは和化漢文とも言い、漢字を使って漢文の形をとりながら、もともとの中国の文章には見られないような部分があるもの。
  ・宣命体とは天皇が口頭で伝達する宣命を、ほぼ日本語の語順にしたがって漢字だけで書かれたもの。変体漢文に比べ、さらに和文化の度合が進んでいる。
  ・万葉仮名文はよく知られている。本書では「余()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()」(万葉集巻五、大友旅人)を例に挙げている。

これは音だけを借りたもので、本書には例示されていないが音と意味を併用しているものもある。例えば、「春過(はるすぎ)() (なつ)(きたる)良之(らし) 白妙(しろたえ)() (ころも)(ほし)(たり) (あま)()香来(かく)(やま)」(万葉集巻一、持統天皇)など

  ちょっと道草になるけれど、日本に漢字、漢文を伝えた朝鮮半島ではどうだったかを少しだけ。
  朝鮮半島では、三国時代のころ漢字の音と意味を借用して言葉の語順に合わせた「吏読(りとう)」という表記法が生まれている。19世紀ころまで続いたとされ、日本語で言えば万葉仮名のやり方に似ているが、発音がかなり複雑なために万葉仮名からひらがなが生まれたようにはならなかった。書き言葉はあくまでも純粋な漢文が用いられた。
  尹學準著『オンドル夜話』(中公新書1983)には、素読を祖父から教わった情景が語られている。それによると、先ず漢字の読み方と意味を一通り覚えたあとに、
  「朝鮮の素読は『吐(と)』という助詞を付けて上から読み下して行くやり方で、これを『プチョイルキ』(つけて読む)という。日本のように返り点をつけて読むのではない。例をあげよう。名文のほまれ高いといわれる諸葛亮の『出師表』の一節はこう読む。
  臣本(シンボン)布衣(ポイ)口 (クウン)(ギョン)南陽(ナミヤン)ハヤ 苟全性命於乱世ハゴ 不求聞達於諸侯ロニ・・・
  文章の間に挟まれているカタカナの『ロ』や『ハヤ』『ハゴ』『ロニ』は朝鮮語の助詞(吐)である。これを体を前後にふりながらふしをつけて、それこそ歌うがごとく朗々と読むのである」
  「この「『出師表』の一節は、日本式訓読法だと『臣()布衣(ふい)(みずか)ら南陽に耕し、(いやしく)も性命を乱世に全うして、(ぶん)(たつ)を諸侯に求めず・・・』となるが、このような読み方は朝鮮にはない」。また「朝鮮では意義の説明は必ず同時に教えられる。というよりは、朝鮮語には漢字語が多いこともあって、助詞をつけて棒読みに読み下していくと、意義は自然と無理なくわかり、かつまた、あの漢文特有の味わいもかもしだされるのである」。
  この祖父による漢文講義は、おおむね早朝と夕方の一日2回と決められていたとかで、遊び盛りの子供にとってはけっこう辛かったし、そのうえ自分にとって素読の成果はほとんどなかったと告白している。しかし、「意義は自然と無理なくわかり」などと言うところはちょっと羨ましい感じがしないでもない。三日で逃げ出したくなるかも知れないが・・・。

  『読み書きの日本史』に戻ると、万葉仮名文のあとの仮名交じり文、仮名文も表記法として主流とはならず、主流は変体漢文の末裔の「候文体」と呼ばれるものになっていったという。そして、
  「とりわけ近世期においては、公文書から手紙などの私文書に至るまで、あらゆる文書が基本的にこの文体によって書かれるようになった。その生命力はきわめて強く、明治期に近代学校制度が確立し、往来物(後出)に代わり近代的な教科書で教育がおこなわれるようになって以後も、手紙などにおいては長くこの文体が使われ続けたのである」という。
  このように、候文体による文章の存在と普及で遠隔地でも交流が可能となり、幕府の統治も成り立つことになった。

  ただ、身につけようとすれば何ごとも学ばなくてはならないのは候文体も同じなので、ではそのためのテキストは何かというと、それが「往来物(おうらいもの)」だったという。
  「往来」というのは手紙のこと。文字通り行き来して読まれることが役目なのでそう言われたそうだ。そういえば、昭和30年代頃には当時の大人が道のことを「往来」と言っていたのを覚えている。人が行き来するからで、なんとなく懐かしく響く。では「往来」に付けた「物」とはなにかというと、「その種類などをあらわすもの」の意味で、本書では「冬物」とか「際物」の例があげられている。

  要するに「往来物」というのは消息を伝えるもの、つまりもともと手紙の類いだったのが、次第に意味の範囲が広がっていき、やがて初歩の教科書として「編纂された書籍」を指すようになったという。
  内容としては生活に必要とされるさまざまな例文が含まれていた。本書では『商売往来』『国姓爺往来』『童子往来』『世話千字文』『万手形案文』『農家用文章』『江戸方角』『村の名』『道中往来』、はては『直江状』や、寛永白岩一揆の『白岩目安』『義経状』などの例が、それらの説明とともに示されている。(それぞれの説明は本稿では略)

  では、このような往来物がテキストになった理由は何かと言えば、さしあたり二つあったという。
  第一は、文書作成のためには文字の読み書きを覚えるだけでは不充分で、「文体」自体に習熟する必要があること。
  第二は、作成文の種類に応じて多くの約束事があり、それに習熟するためにも学習する必要があること。
  これらの理由から、往来物は文字や文書作成のための教科書として用いられたという。

  しかし明治になってそれぞれ専用の教科書が編纂され始めると、往来物は次第にそれらに取って代わられていき、ついには姿を消すことになる。「かくして、この国における読み書き教材の歴史の過半を占めていた往来物は、ついに終焉の時を」迎えたと本書では言っている。

  本書はこのように、日本における歴史的な文体の変遷とそのテキストの消長をたどったあと、一次的資料によって江戸時代の寺子屋教育のさまざまな実態を掘り起こしている。実はそれが本稿で本書を取り上げようと思った大きな理由で、その実態は地域・地方、身分、男女、職業、そして時代により、実にバリエーションに富んだものだったことが明らかにされる。
  それから、一般的には「寺子屋」と称されているが、実は「手習師」「手習師匠」「手習子取」「手習指南」「手習塾」「手跡指南」「華道指南」などさまざまに呼ばれていたらしい。ただ著者はそれより次のような点を強調している。

  「寺子屋に入門しさえすれば、基本的な読み書きができるようになったはず」というイメージがあるかも知れないが、「これまでみてきた諸資料によれば、そう簡単ではなかったよう」であり、「寺子屋で学ばれる読み書きは、それ自体として完結したものというより、むしろ実生活における読み書きの実践や、あるいは学問の世界などと接続していくことにより、はじめて完結するものだったと考えるべきかもしれない」と。
  そのような事例の一つとして民俗学者の宮本常一の外祖父の場合をあげている。
  彼の外祖父は大工であったため、「祖父と異なり相当に読み書きができた、と宮本は記している。大工という、おそらくは読み書きを必要とする職業と接続したために、読み書き能力が安定的に形成された事例といえよう」。
  また商人の場合にはさらに明瞭であるとして、「読み書き計算は必須の職業能力であった。したがって、職業能力訓練の一環として、それぞれの店においても読み書きの教育がなされていたのである」と述べている。

  本稿の最後に、寺子屋の実態のひとつとして、本書に記すところの『俗言集』と『山代誌』をあげる。『俗言集』については検索すると元の全文を参照することも可能。なお漢数字は西洋数字に改めた。

  『俗言集』は、百姓の子どもに手習を教えている武田三右衛門という人が記したもので、著者は「手習い師匠の愚痴を赤裸々に記した同資料は、当時の寺小屋の実態についてのきわめて興味深い証言ともなっている」とする。本書では著者が原本をもとにした概要を雰囲気そのままに伝えているが、ここでは字数上やむを得ずさらにそれを要略してみた。

  本人は「師匠などというほどの者ではありません」と謙遜しつつ、村人から頼まれて145人ばかりの子どもに手習を教えている。そして、「貧しい子どもらは、筆や墨なども持っておらず、山折敷(木のお盆)などに灰を入れ、箸を筆代わりに文字を学んでいる」ことから、三右衛門は自らを「灰書師」と呼んでいる。
  多くの子どもは半年や1年だが、なかには23年の者もいるという。教える中身は商売道具の名前とか百姓などが用いる文字などで、手紙文の遣り取りなどができるようになる者は多くない。それも、「教えた内容が理解できなければ、たとえてみれば、牛馬に鼓や琴、三味線などを弾いて聞かせるにひとしく、どれほど世話をしても、すぐに忘れてしまうようなありさま」だと言う。
  そのうえ、いろいろ理由をつけて読み書きから遠ざかるばかりか、「父母がさまざまな仕事を言い付けると、手習などをするよりもむしろそのほうがいいとばかりに、勉強を怠る始末」。
  あげくに、「無筆の父母などは、手習にさえ入れておけば、2年か3年で読み書きに習熟するものと思っており、うちの灰書師様は、手前の子どもには書物というものをお教えくださらないとみえ、子どもに何を読ませても、知らないとばかりいう。これは灰書師様が無精であるからに違いない。今年で3年も習わせたのに一向に埒があかない。不思議なことだ。別の灰書師様に変更してみたいものだ、などといっている者が多い。自分の子どもの無精を棚に上げて、灰書師ばかり恨んでいるとは、まったく仕方のないことです」と結んでいる。

  著者は感想として、「いかがであろうか。三右衛門のため息が聞こえてきそうな、リアリティに富む描写ではないだろうか」とし、「このような方法でどれほどの効果があったであろうか」と述べる。しかしまた、「もっとも、これは三右衛門がことさらに自己を卑下してみせたということもあるだろう。弟子の全員が実際に灰書によって学んでいたわけではなく、紙を持参した子どももあっただろうとは思われる」とも言っている。

  また著者は「『山代誌』にみる寺子屋の実態」としてその証言の例を取り上げている。ここでは著者によって現代文にされたものをさらに要略した。(『山代誌』山口県玖珂郡役所編纂1890年)
  それによると、学問などは士族や僧侶・神官などのすることで、農民には無用のものであるとされるなか、たまたま屈指の階層に属する者の子弟を寺子屋に入学させたとしても、「師匠が暇なおりに読書や習字を教えるにとどまり、そのほかの時間は、師匠の家の掃除や小間使いなどをして過ごしていた」という。なので、「5年あるいは8年も就学したとしても、学力の程度を試験したり、学問を奨励したりするわけでもないので、ただ日用の祝儀や香典の書き方、あるいは人名や村名を習うにとどまり、普通の手紙文などにいたっては、これを作成し得るものは、10人のうち1人にすぎない」と記されているという。

  このような諸例から著者は、いわゆる手習いや識字率などの実情は今私たちが思っているようなものではなかったことを明らかにしている。

  ところで、この欄でさまざまな文献を取り上げている一つの意味は、これまで「なんとなく思い込んできた」ことに改めて気づくきっかけになるのではないか、ということ。その結果として、「なるほど」であったり、「もしかするとそうではなかったかも・・・」となるかも知れないが、それはそれでかまわないのではないだろうか。今回の寺子屋や識字率についても同じことが言えると思う。単純に、「昔から識字率が高くてよかった。日本バンザイ!」とはいかないようだ。いずれにしても、思慮はより深く、視点はより高くするようにこれからも心がけていきたい。(雅)

文化を散歩してみよう
                     第13回:韓国文化の姓と名 (2)

○男子を切望
  前回は祭祀の主催や相続のために男の子を望む、というところで終わりました。ただし、少子化が大問題になっている現在ではどうでしょう。少しは変わってきたでしょうか。
  私見ですが、ともかく「男子を」という思いはなかなか抜けきれないとも思います。それは、「もし男子が生まれないと家が滅びるかも・・・」という、そのような不安感は潜在的かも知れませんがなかなか払拭できないのではないかと思うからです。
  それはともかく、かつて日本でも七去と言って儒教から入ってきた離婚できる理由が七つ言われていました。例えば「浮気」とか「窃盗」など、そうだろうなと思うものもありますが、その中に「無子」と言うのが入っています。つまり子供ができない場合です。そう言えば「嫁して三年、子無きは去る」などという極めつきの言葉もありました。もちろん今そんなことを口に出したらとんでもないことになりますが。

  韓国ではこの七つを「七去之悪」と称しています。ですが、「無子」に対応するのが「男子を生めないもの」になっています。その他の条項は同じです。もっとも「三不去」と言って追い出しても帰るところがない場合、舅姑の喪に服した場合、糟糠の妻の場合というフォローはありました。
  この「三不去」というのは帰るべき家がない場合、夫の父母のために3年の喪に服した場合、そして婚姻当時は貧しかったが後に富貴になった場合ということです。日本では「糟糠の妻」と言いますね。

  ではありますが、次のようなこともありますので公平のために記しておきます。
  「『李朝実録』には離婚理由である七出のうち多言・窃盗に関しては特別な事件が現われておらず、また七出の律に該当しても離婚を許さなかった事例もある」と言います。
  また「三不去に該当する者に対する離婚を禁止した事例は『李朝実録』に少なくない」とも言い、さらに、「李朝時代の七出のうち無子と妬の二事由は、実際に問題となったことがなかったので、『刑法大典』制定時には削除されて五出となり、子どもがある場合の離婚を禁ずるために三不去にこの項を添加して四不去とした(『刑法大典第578条)』」とありました。(尹泰林著『韓国人-その意識構造-』(高麗書林1975

  しかし、次の「庶孽禁錮法」も含めてこれらは両班(ヤンバン)という階級に属する人々に言われることであって、一般の庶民には適用されません。両班の意味や実態、また庶民との関係などは長くなりますので、ここでは相続関係だけに絞りますが、いわゆる特権階級と捉えてください。(いろいろの文献にあります)

  朝鮮王朝には初期の時代から今述べた「庶孽禁錮法」というのがあり、両班の子でも、妾の子(庶子)とその子孫は科挙(文科)の受験資格もなければ下僕同様の扱いでした。もちろん祭祀の主催者にもなれませんし相続権もありません。また族譜でも嫡子とは区別されて記載されます。これは後に「庶孽許通法」としてやや緩和されますが、それでも限界がありました。
  では、上に記したように無子と妬(つまり嫉妬)で実際に問題がなかったというのはどういうことでしょうか。しかも庶子には資格がなかったにもかかわらず、です。ここからは私の推測なのですが、養子(後出)とともに、次のような理由があったためではないでしょうか。
  尹學準氏は、朝鮮王朝時代には『有妻娶妻』の事例が少なからずあったことをものの本などで知っているとして、次のように述べています。(上記「七去」「三不去」とともに尹學準著『オンドル夜話』中公新書1983より)
  「『有妻娶妻』とは『妻のある者が妻を娶る』ことだ。いわば重婚であるが、この場合、第二夫人となる人は妾とは違うのである。妾を囲う場合はもちろん儀式などはいらぬが、有妻娶妻の場合は所定の節次を踏んで、ちゃんとした婚礼の儀式をあげるのだ。だから族譜にも正妻同様に記載され、生まれた子も庶子ではなく嫡子としてあつかわれる。
  古老たちから聞いたところによると、この婚礼にはいうまでもなく第一夫人(本妻)の同意がなくてはならないが、たてまえとして本妻が主導するのが慣わしだとか。たいていは本妻が後継ぎを産めないことがはっきりした場合だが、祖先の奉祀のために本妻が主導して自分の亭主に妻を娶らすとは、現代人にはなんとも理解できぬ話である」

  「すごいな」と思いますが、これでは嫉妬などもっての外ですし、ひと言で言えば妻としての女性がいかなる存在であったかということも想像できます。いずれにしても、男系重視ということは変っていません。それに加えて韓国では他人を養子にすることはありません。日本の場合はそうではありませんね。全く血筋が繋がっていなくても、しかもかたちの上でしかなかったとしても、「家」というものの存続こそが第一とされてきました。夫婦養子というものも一般的でしたから。もっとも、それでも続かずに離合集散は繰り返されましたけれど・・・。

  少々脱線しますが、この「血」か「家」か、という違いが何に由来するかについて、最近読んだ本に「こうではないか」と言うことが載っていましたので紹介します。本郷和人著『恋愛の日本史』(宝島社2023)からで、著者は東京大学史料編纂所教授、日本史関係の著書が多数あります。
  著者によれば、儒教を待つまでもなく易姓革命という伝統のある中国では、王朝の交代は天命による徳のある「姓」への交代であったということです。そうであるなら、「ひとつの王朝内では天子の血は厳格に受け継がれていかなければ」なりません。そのために後宮が作られ、当然ながら男子禁制となり、それが宦官の制度が生まれることにつながったそうです。
  それに対して日本ではどうだったかというと、もちろん「遣隋使や遣唐使を通じてこの後宮制度を知っていたはず」であり、大宝律令にも「後宮官員令」があることから、後宮は作られたであろうと考えられるそうです。しかし実際には、「天照大神から脈々と血はつながっているという『物語』を作ったものの、実態で言えば、血の連続性を守ることを徹底されていない点が指摘できるのも事実」だとも。
  著者はその理由を、「古代日本において、恋愛というものが文化の中心にあったこと、そして女性の価値が高かったということと関係しているのかもしれません」として、『源氏物語』をはじめとする「平安文学には招婿婚※と目される男性が女性の元に夜な夜な通うというような事例がたくさん」あるし、「在原業平と藤原高子の逢瀬のように、天皇家に嫁ぐ予定の女性が、他の男性と恋愛関係にあるということもしばしば起こりうるのです」とも指摘しています。つまり後宮があったとしてもそのセキュリティが極めて脆弱であったと言うことから次のように結論づけます。
  「そこで生まれた子は天皇の子ではない可能性は大いにあったということになってしまいます。
  この点を考えると、日本では、物語としての『万世一系』、つまり血の連続性が言われたとしても、実態としては「血」の連続性を徹底するよりも、天皇家や藤原家といった『家』の連続性、すなわち世襲のほうが重視されていたと言えるでしょう」
  ※「招婿婚」は日本史の教科書では私は「妻問婚」と習いましたが同じ意味です。

  さらに加えて、著者はご落胤説(いわば貴種流離譚の類)についても実例を示しつつ、「高貴な血筋を誇りつつも、その家本来の血は続いていないことになるわけですから、やはり重視されたのは血の連続性ではなく、『家』そのものだったということになるでしょうか」とも述べています。これもまた「家」重視を裏付けるもので「なるほどな」という感想を持ちましたが、あまりに長くなりますので興味を持たれたらぜひ直接お読みください。

  もとの話に戻ります。
  日本の「家」に対して、韓国ではあくまで血筋、そして一族という具体的で目に見える存在が第一です。伝統に沿った慣習法ではありますが、「異姓不養」と言って養子となるのは養父と同姓同本の血族が原則でした。もっとも、1958年制定の民法ではこの原則はとられなくなっています。しかし、調べてみると次のような文も見られます。
  1958年に制定された民法は異姓不養の原則をとらず、婿養子の制度は設けられたものの、旧8772項により養父と同姓同本でない限り養家の相続権は認められなかった(妻が戸主相続する)。日本の民法に規定されていた婿養子制度とは性格が異なる」というものとか、「婿養子の制度は1990113日公布の改正民法により廃止された」とありました。その中身がどのようなものなのか私にはわかりませんので、ここでは情報だけにしておきます。

  いずれにしても、家系を存続させて祭祀を絶やさないために「男子を」、という意識も次第に変化してきているようにも思えますが、私は最近の様子を知らないのでなんとも言えません。この異姓不養についてはあとでもう少し触れることにします。
  そう言えば、韓国に行き始めたころ、まだ若い女性で「東吉」という名前の方に会ったことがあります。ペンパルの弟が「相吉」だったので、「男みたいな名前だな」と思ったことを覚えています。もっとも本人は女性によくある名前を名乗っていて、本名をそっと教えてくれたのは友だちでしたけれど。きっと男のような名前が嫌だったのかも知れません。それまでして親が男の子を望んだということでしょうか。
  そこで、あまり期待はしませんでしたが、「韓国 女性 男子名」などと入力して調べてみました。予想はしていましたが、男性のような名をもつ女性の具体例は見つけられませんでした。まあ、仮にあったとしても公表する意味がどこにあるのかということですね。
  ついでのことですが、これまで韓国の女性には行列字(後出)に美、恩、賢、恵、淑、姫などをつけているものが多いのではないかと思っていました。しかし調べてみると、このごろはもっと自由にかわいらしい響きの、しかも漢字を当てない名前も増えているとか。つまり日本で言えばキラキラネームみたいなものでしょうか。これではもうこの話題から撤退するしかありません。

  ただ、この男子を望むことに関して深刻ではないかと思ったのが出生前診断、つまり男女の産み分けに関わる問題、韓国の場合はどうなのかということです。
  中国の例ですが20年近く前の朝日新聞の記事をメモしてありました。別に今回のためにとっておいたわけではなく、記事を読む限りでは儒教ともあまり関係ないようですが、せっかくなので紹介します。ただ現在どうなっているかはわかりません。
  「中国の出生人口における男女の比率が拡大の一途をたどり、04年の男女比は女児100人に対して男児約121人に達したことがわかった。第2子の男女比は約152人、第3子以上では約159人ヘと広がる。一人っ子政策のもと『産むなら男の子』という親の根強い願望などが背景にはある」
  そしてその理由。
  「農村では男の後継ぎヘのこだわりが強く、労働力としても男を求める傾向が顕著。都市でも男女の待遇を差別する企業が少なくない。こうした傾向に超音波検査の普及が拍車をかけた」とし、「政府は超音波検査を胎児の選別に使うことを禁じているが、歯止めをかけるには至っていない」とのこと。そして「2人目以降の出産には違反金に相当する支払いを課している自治体も多いが、農村では男児が生まれるまで産み、女児は戸籍に入れないという問題も深刻化している」(朝日新聞 2006.8.18より)

  そもそも、人の出生時の男女比率は105100ほどが普通なのだそうで、その理由は生物学的なものらしいのですが、そのあたりはいろいろあるようですので興味を持たれたら調べてみてください。日本の場合「出生時男女比 年次統計」で検索すると毎年の数字が出てきて、おおむね男が105前後で推移しています。

  そこで韓国の場合です。日本のような年次統計は見つけられませんでしたが、「世宗聯合ニュース」のなかに「男児選好も今は昔? 22年の出生性比が過去最低に=韓国」というタイトルでおおむね次のように記されていました。
  それは、韓国統計庁による2022年の出生・死亡統計(暫定)の発表です。それによると、出生児女子100人に対して男子が104.7人になり、1990年の統計開始以来最も低くなったと言うのです。
  また、「跡継ぎが必要だという社会通念から男児を好む傾向があったころは第3子以降の出生性比が第1子よりはるかに高く、93年は209.7に達していた。00年には1436に下がったものの依然として正常範囲からは大きく外れており、その後に徐々に下がって14年に106.7」となり、22年には「第3子以降の出生性比は前年から1.1下がった1054と、統計開始以来で最低を記録した」そうです。
  なお、「朝鮮日報」の記事(日付はわかりません)によると、「1994年に胎児の性別判断が禁止されて社会的な認識が変化した」ということもあり、また「家を継がせなければならない」という社会通念も近年は薄くなってきたのではないかという統計庁の話もネットにありましたので参考までに。
  こうした家を継がせる話はまた族譜とかかわりますので、その時に再び触れることにします。

○東方礼儀之邦の誇り
  ところで一般論ではありますが、本家より分家、末端や辺境に位置づけられる方が、中心に対して潜在的に対抗意識やコンプレックス、あるいは歴史的な軋轢を抱えていたりすると言われています。そのため、条件があれば自己主張を強くしがちになるのではないか、と言うわけです。日本の例で言えば、幕末の水戸藩(対抗意識)とか長州(歴史的事情)などはこの例にあてはまらないでしょうか。
  もしこのような見方が多少とも中国に対する朝鮮半島にも当てはまるとすれば、「東方礼儀之邦」を自負し誇りとするところも、本家以上に熱意が込められていると言うことになるのでは、と思います。と言うのも、実は明の時代の中国でさえかなり習俗が乱れていると、当時の朝鮮では認識されていたようなのです。

  またも寄り道で恐縮ですが、そのような視点から見れば日本などは論外でしょう。かなり野蛮に見えたのは間違いありません。もっとも、倭寇の被害を被ったり戦いに明け暮れている日本の戦国時代の情報は入っていたでしょうし、あげくのはてにわけもわからないまま秀吉軍がいきなり攻め込んできたのですから、そう見られても仕方ありませんけれど・・・。
  これも第4回に紹介しましたが、のちの徳川幕府との交流記録『海游録』にあるような感想と同時に、他には次のようなものもあります。いくら「通信使」(よしみを通じる使節)とはいえ、友好一辺倒とはいかないアンビバレントな心情が示されているように思います。
  「倭言にいうカンムリは、いわゆる最上者の冠である。その形は盛り炭の容器のようだ。倭言のオリエボシは、いわゆる折烏帽で第二位である。その形はT字のようだ。倭言のエボシは、いわゆる烏帽であり、その次の位である。奇々怪々で、殆ど見るに忍びない」(2回使節従事官李景稷『扶桑録』)
  「貴践なく皆草履をはいている。形は平履の制のごときである。前部に一本の縄があって、そこに足指を掛けて挟んで歩く。その形はひどく奇怪である。足袋は蛇の舌のようである」(6回使節従事官南龍翼『扶桑録』)(残念ながらそれぞれ原典には当たれませんでした)
  けちょんけちょんです。

  ちなみに、鼻緒のついた下駄や草履を履くことから、戦前に中国人を装って潜入したスパイが足の指の形から見破られてしまったといいます。これに関連して、韓国語には「チョッパリ」という日本人に対する侮蔑の言葉があります。それは見破られたスパイと同じで、鼻緒によって日本人の足の親指が残りの指から離れていることから来たもので、もともと「蹄が割れている」という意味の言葉です。
  例の姜君からこれは「豚足」から来た言葉だと聞いたことがありますが、ネットでは語源を「豚足」とするのは誤りとなっていました。多分彼も誰かから聞いたのかも知れません。また、方言として「口蓋裂」や「ヒトデ」意味するところもあるようです。
  加えて、在日の人々を指して「パン(半)チョッパリ」(つまり半分日本人)と呼んでいて、姜君もそんな心の持ち方を嘆いていました。学生時代、彼が訪問団の一員として韓国へ行った時、ちょうどお腹を壊してしまったところでホームステイのスケジュールになってしまいました。なので、せっかく出してくれた食事をあまり食べられないでいると、「あなた方は日本で美味しいものを食べているんでしょうね」などと嫌みを言われたという、そのころの話です。
  「パンチョッパリ」と在日の人を指すのはそれに通じる意識だというわけですが、この話も50年も前のことなので。今ではそんな嫌みもあまり言わなくなっているのではないかと思いますけれど。

  中華を自負する誇りの話に戻ります。先ほど述べたようにまだ明が滅びる前の話です。
  例のハングル(『訓民正音』)を創定した第四代世宗が次のように述べています。
  「今中国の風俗を聞くところによると、父母の喪にあっても数日を過ぎずに飲酒肉食し、笑い語らって宴会を楽しむことは平素に異ならないとのことである。衆論はおそれず、朝政はこれを罪としない。・・・(我が国では)大明律を天下に頒布し、永遠に遵守させ、百官に熟読させて大明律の意味を明らかに講じさせなければならない。・・・忘哀の罪は、各々大明律に照らし合わせて処断し、後には官職を与えないようにし、もって礼に薄い風俗を懲らしめよ」(『世宗実録』巻ll2286月辛卯条)
  いかがでしょうか。中華文明の本家である明においてさえ習俗が乱れていることを嘆いています。ひるがえって、朝鮮においては大明律、つまり中華の根本を尊重せよと言っているわけです。
  この世宗はまた『訓民正音』の冒頭でこうも述べています。
  「我が国の語音は中国とは異なるので、文字(漢字)と相通じず、愚民(民百姓)は、言いたいことがあってもそれを表せないものが多い。それを余は不憫に思い、二十八字を新制し、人びとが習いやすく、日常に用いるのに便利なようにした」
  先ほどの『実録』の言葉とこれとはどのように対応するのでしょうか。

  さらに言えば、世宗の時代にはハングルのほか、独自の農書『農事直説』や郷暦(朝鮮暦)が作られたり、天文や気象の観測機器や印刷技術の改良、また医学書や八道地理志の編纂などが行われています。おそらく世宗は、あくまでも厳格でありながら同時に開明的な、そして合理性を求めるに躊躇しない、そんな人物だったのではないかと想像されます。なんだか徳川吉宗とも通じるような気がしないでもありません。
  ちなみに、『訓民正音』に対する保守派の有力者による反対理由は次のようなものでした。一部だけですが。
  ・我が国は中国を宗主国として奉じておりますので、新しく文字を創れば、中国に対する親意を犯すことになります。
  ・中国の影響下にある諸国では、民族の特性や日常語が異なっているというだけで、漢文とちがった文字を創ったことはありません。蒙古や日本、そしてチベットに固有文字があるといいますが、かれらはみな野蛮人として蔑視されております。こうしたなかで、我が国が美徳を捨てるということは、我々の文化を退歩させるものでありましょう。

  ・新字の創制は学問の発展に損失をもたらすだけでなく、政治をも遅らせます。(金両基『物語韓国史』中公新書1989より)

  いずれにしても、いくら表面的には乱れているように見えていたとしても中華文明の中心は明でした。おそらく、実際の姿とあくまで観念上の明とは別だったのだと思います。
  けれどもその明は滅亡してしまい、満洲族(後金)による清王朝が開かれます。詳細は歴史関係の文献に載っていますが、結局、10万の兵を率いた清軍に対して、朝鮮王自らが受降壇に赴いて太宗の前に跪き、降伏の儀をおこなうという屈辱に耐えなければならないことになってしましました。その時の講和条約は「清には君臣の礼をもって仕えよ」から始まるものでした。
  あくまでも第三者的に見ればではありますが、このような屈辱に耐えるための心理的バランスが、それまでも潜在していた小中華意識をより強め、あるいは顕在化させたのではないでしょうか。中華文明を引き継いだのは我々朝鮮である、我が国こそが「中華」の正しい後継者「小中華」であると。そしてそれを裏打ちしたのが正邪論でした。(つづく)

  
    ちょっと紹介を!

               ギョーム・ピトロン著、児玉しおり訳
         『なぜデジタル社会は「持続不可能」なのか』(原書房 2022)

  原稿用紙に手書きしていた時代を思うと、今はパソコンの一括変換で文言や記号も一瞬で置き換えられ、加筆、削除、修正の跡も残らない。見直すにあたっても読みやすく、内容はともかくとしても実にありがたい。個人的にはパソコンもスマホも基本的な使い方だけ、というよりそれしか出来ないのでデジタル機器をめぐる地球への負荷、とくに電力についてはあまり考えたこともなかった。ところが世界全体で見てみるとかなり深刻なことになっているようだ。

  著者は資源地政学を専門とするジャーナリストでドキュメンタリー監督。本書はこの最先端のデジタルテクノロジーのすさまじい資源消費の様子をえぐり出している。環境問題解決に向けても、その努力の陰にこのような事実があることが、数々のデータをもとにしてこれでもかというくらいショッキングに示されている。

  地球にはこの先どんな未来が待ち受けているのだろうか。現状と未来についてさまざまな角度から検討されている本書だが、正直なところ私の浅い知識ではとてもすべてを明確にイメージすることは出来ない。要点を絞った解説書でも出てこないかとも思う。ただそれでもやはり驚いたところが多いので、ここでその一部だけでも紹介するのは意味のあることだと思う。もしこのような方面に通じた方、あるいは興味のある方にはぜひ読んでいただきたいし、どうすればいいのかを考えて欲しいと思う。

  ○著者は「デジタル・テクノロジーは人類にとってすばらしい進歩をもたらすもの」としながらも、本書の主旨をこのように語る。
  「今われわれの目の前に展開しているようなデジタル・テクノロジーは、ほとんどが地球や気候に貢献してはいない。ほんの些細なことであっても、逆説的に、人類共通の家である地球の物理的、生物学的限界をもたらすものなのだ。
  そのため、私たちは、物質的なものに考えが及ばない世界について調査をしたかったのだ。光を当てることを決して好まないこの産業の暗黒面、抽象的観念を気取る産業の地理を分析すること。また、非物質化というほとんど神話的な理想の名のもとに、恐ろしく物質的な現代性を生み出しているテクノロジーを解剖してみよう。そして、一通の電子メールやひとつの『いいね!』を送ることが、これまでわれわれが思いもしなかった甚大な挑戦をもたらすという明白な事実を明るみに出そう」(p.019
  ※ちなみに、私はこれまで「いいね!」したことが一度もない。

  ○何十億台というインターフェース(タブレット端末、パソコン、スマートフォン)からデジタル汚染が生まれている。
  「その汚染はまず、インターネットヘの入口というべき、われわれが常時生み出すデータからも生じる。そのデータは莫大な資源とエネルギーを消費する巨大なインフラのなかで伝送され、保存され、処理される。そのデータのおかげで新たなデジタル・コンテンツが作り出され、さらにより多くのインターフェースが必要になる!この二種類の汚染は相互に補完し、相互に供給する。
  数字は雄弁だ。世界のデジタル産業の水、原材料、エネルギーの消費量は、フランスやイギリスのようなひとつの国全体の消費量の3倍に達する。デジタル・テクノロジーは今日、世界中で生産される電力の10パーセントを消費し、二酸化炭素の排出量全体の4パーセントを占める(世界の民間航空業界の排出量の2倍弱)」(p.013
  ※ここでは「タンターフェース」だけだが、パソコン、スマホ関係の意味のわからない横文字が次々出てくるのにはイライラする。

  ○「サービス単位あたりの物質集約度(MIPS)」と呼ばれる画期的な計算法が1990年代に開発された。それは出るものではなく入るものを見る視点で、ひとつの製品あるいはサービスを作り出すのに必要な資源量を意味している。
  「『MIPSの計算に使われるデータのほとんどは専門家の意見や推測であり』、不正確であることがよくある、とイェンス・トイブラー氏は注釈をつける。とはいえ、その真撃さには驚愕するしかない。
  たとえば、1枚のTシャツの製造には226キログラム、オレンジジュース1リットルを作るには100キロの資源が必要だ。新聞1部のMIPS10キロである。数グラムの金を含む指輪のMIPSは、イェンス・トイブラー氏が驚いたのも当然で、3トンにも上るのだ!身の回りのモノはわれわれが思い描くよりずっとかさばる。平均で30倍だ!
  サービスや消費行動のMIPSを測ることもできる。車での1キロメートルの走行や1時間のテレビ視聴はそれぞれ1キロと2キロの資源を使う。電話で1分話せば200グラム『かかる』。1本のSMS0.632キロの『重さ』だ」(p.072

  ○レアメタルなどを含むのでテクノロジーが関わってくるとさらにこの数値は大きくなる。
  2キロの重さのパソコンは22キロの化学物質、240キロの燃料、1.5トンの水を使用する。テレビ1台のMIPSはその重量の200倍から1000倍になる。スマートフォンは1200倍だ(最終製品150グラムに対して183キロの原料を使う)。しかし、最高記録を誇るのはICチップだ。2グラムの集積回路には32キロの資源が必要で、その割合はなんと16000倍にもなる」(p.073
  ※この二つの事例、どうやって集積、計算したんだろうか。ともあれ驚愕するしかない。

  ○こうして、「非物質化」が進めば進むほど資源を大量に使い、これまでにない最大の物質化に向かっているという皮肉が生まれる。
  「エコロジストになるには、『低炭素』だけでは十分でないことが読者はおわかりになるだろう。『低資源』も実現しなければならない。奇妙に思えるかもしれないが、人間を取り巻くテクノロジーが控えめで携帯可能で軽いほど、人間の存在の物質的遺産は大きくなるのだ」(p.075
  ※なるほど、現実は逆説的なことになっているらしい。と言って、ではどうすれば?

  ○クラウドサービスの電力消費
  2019年未にパリで開催されたデータセンター・ワールド見本市(クラウド業界の最大の見本市のひとつ)での講演会で、ある企業の幹部が驚博すべき発言をした。『データセンターはグラン・パリ[拡大パリ首都圏]の電力の3分の1を使用することがわかった』。(略)
  今日、クラウドサービス業界は世界の電力消費量の2パーセントを消費しているが、クラウドサービスの成長のスピードからすると、2030年には今の4倍か5倍になるだろう。(略)したがって、『クラウド』を経済発展のテコにした都市にとっては、データセンターが将来エネルギー問題の脅威になったとしても驚くべきではない」(p.122123
  ※これもそうだけど、ではどうすれば良いのだろう?

  ○デジタルの未来と人間。
  「われわれは、デジタルを、人間を救うために人間のもとに遣わされた救世主のように見なす傾向がある。ところが、現実はずっと凡俗であると認めねばならない。デジタルは人間に似せて作られたツールにすぎないのだ。(略)
  デジタルは結局、ガンジーの強い厳命『あなたがこの世界で見たいと願う変化にあなた自身がなりなさい』をわれわれに熟考するよう導くのである」(p.256257
  ※道具(ツール)はあくまで道具。「物ごとの本質は?」という問いを忘れないようにしようと思う。

  なお、末尾には14点の図表が掲載されている。例えば「電話機に含まれる元素の数」(図表2)では1960年に10元素だったのが2021年には54元素に、また「1分あたりの世界のインターネット利用の内訳」(2020年、図表7)には19000万通の電子メール通信など15項目が、すべて出典も明らかにされて表示されているのもわかりやすい。これだけでも大変衝撃的であった。(文責:編集部)
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