月刊サティ!

2024年1月号  Monthly sati!     January  2024

 今月の内容

 
  巻頭ダンマトーク:今月は休載いたします
   ダンマ写真
  Web会だより ー私の瞑想体験 :『私は、私を解き放った』(前)
  ダンマの言葉 :『無我か非我か』
  今日のひと言 :選
   読んでみました :オリガ・ホメンコ著
   『キーウの遠い空 戦争の中のウクライナ人』(中央公論新社 2023)
  文化を散歩してみよう:『韓国文化の姓と名』 (1)
   ちょっと紹介を!:落合淳思(あつし)著
            『古代中国 説話と真相』(筑摩書房 2023)

     

     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。

 
     

 今月のダンマ写真 ~
  

下館道場のスリランカ仏

 先生より



    Web会だより ー私の瞑想体験ー

『私は、私を解き放った』(前) 柿崎 竜太

   特殊な劣等感と完璧主義が子供の時から今に至るまで徐々に増していき、私は私自身の人生を自らハードモード、生
地獄にしていた気がする。

  私は今年で39歳になる派遣労働者だ。数年前から母と同居するようになり、母との人間関係で大きなストレスがかかり、反芻思考やうつ症状が長引き半年間ほど働けない状態になっていた。
  その時期、たまたま教育系のYouTuberが地橋先生の本を動画内で紹介し、歩行瞑想を実演していたのを見て、直感的にこれは苦痛を和らげるかもしれないと思い地橋先生の本をアマゾンで購入した。これがヴィパッサナー瞑想と出会ったきっかけである。

  瞑想に出会うまでの私の人生をおおざっぱに振り返ると、私の人生は、子供の頃からこれと決めたことが続かず、なので極めて成功体験が少なく、さらに自分が何をしたいのかわからず周りに流されてばかりの人生だったように思う。
  さらに私の心に影を落とした主な出来事は、幼少期の両親の離婚。
  家庭に父がいなくなり、当たり前が当たり前じゃなくなり、心にポッカリ穴が空いた。
  母は昼は仕事で夜は飲み歩き、深夜3時まで帰ってこなかった。幼かった私は怖くて眠れず、テレビにカラーバーが出てくるまで、面白くもない深夜テレビを付けていた。家庭に大人が不在になり、より寂しさが強くなった。  
  小学校低学年から大学に入るまで、私は、私にとって安心のできる心の安全基地を見つけることができなかった。

  20代の頃は若さもあり、辛いことも乗り越えてきたし、仕事や人間関係でもそれなりに幸せだったと思う。
  30代前半に教育関係の仕事に転職したのだが、全く仕事ができず、そんな自分が許せず仕事を辞めてしまった。さらに彼女にも振られ、完全に塞ぎ込んでしまったのを覚えている。今は、仕事を辞める時にこんな私を引き止めてくれた上司や、私を選んでくれたその時の彼女に対し、本当に申し訳なく思っている。
  そこからは、新しいことに挑戦するのを極度に恐れてしまい、アルバイトを転々とし、わずかな収入で食いつなぐような生活を何年もしていた。この時の私は正直少し腐っていたと思う。意固地になり、周りからの意見を聞かず、プライドばかりが高くなっていった。

  30代半ばで、気づけば、良い大学に入り、良い会社に入り、結婚して良い家庭を作るという、いわゆる普通のレールからは完全に脱線し、フリーターで食いつないでいた私は世間に負い目を感じ、恥のような感覚も次第に強くなっていった。
  たまに会う同級生や昔の職場仲間、親戚に職業を偽ったり、低い自尊心からなのか否定されるのを恐れて、自分の好きなことや熱中していることは身近な人にほど語れなくなっていた。同級生との飲み会や親戚の集まりに参加するのが煩わしくなり、次第に友達からの連絡も来なくなっていた。
  そういう状況の中、母と実家で暮らすことになり、母が経営しているスナックバーを手伝うことになった。
  コロナ禍の時短営業の要請で長期間スナックを開店することができず、家に引きこもりがちになり、傷心していた母を助けなければと手伝い始めたのだが、私の心の未熟さゆえ母の嫌なところ、許せない言動ばかりが目につくようになり母と喧嘩ばかりするようになった。
  母といると何故か私は感情が制御できなくなり、怒ってばかりいた。そんな幼稚な自分の心がとても嫌だった。
  それに加え、私は母と暮らしていることやスナックで働いていることを虚栄心から人に話したくなく嘘をついていた。
  私は、周りの人間に嘘をつくため脳の多くのリソースを使い、疲れ、怒りや自己嫌悪でどんどん精神が衰弱していった。

  こういった事情で、私は心のケアと自己変革したいという思いから、去年の6月に初心者講習に参加した。私はヨガにも興味があり、その後ヨガを習いに行ったのだが、根本的な治療にはならなかった。
  12月に入り、症状は悪化していった。反芻思考とうつ症状が強くなり、猜疑心、被害者意識も強くなり、母だけでなく全ての人間関係で不協和を起こしていた。頻繁に悪夢を見るようになり、朝起きるのが非常に辛かった。もう自分一人の力では、この状況から抜け出すのが困難になっていた。私は、藁にもすがる思いで1day合宿に初参加した。
  合宿では歩行の瞑想も心のケアに良かったのだが、私が感銘を受けたのは、合宿中に参加者全員に向かって慈悲の瞑想をやったことだ。
  コミュニティーの中でみんなの幸せを願い、みんなからも幸せを願ってもらえることなんて、私の日常には存在しなかったが、私は心のどこかでそれを求めていた。みんなでみんなの幸せを願う空間。私はそれがとっても嬉しかった。
  合宿中に参加者全員から「ここにいてもいいんだよ」というような温かいメッセージをもらったような気がした。私も参加者全員に慈悲の瞑想とともに、同じような温かいメッセージを送った。

  合宿の最後にある「まとめの会」が私の人生の転機になった。
  参加者全員が車座になり、今日の感想や参加のきっかけなどを一人ずつ語っていく。
  最初の順番の方が赤裸々にこれまでの経緯を話していた。それに対し、他の参加者やボランティアスタッフの方たちは、温かい言葉をかけていた。その場の雰囲気は少し深刻でもありつつ、弱みを話せる安心できる場になっていた・・・。(続く)
               

           日の出の予感   
        K.U.さん提供
 






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ダンマの言葉

                    『無我か非我か』 タニッサロ比丘

            <今月号は20052月号に掲載されました タニッサロ比丘の『無我か非我か』を掲載いたします>

西洋人が仏教について学ぶ時によく出合う最初の障害の一つは、アナッタ(よく「無我」と訳されます)についての教えです。この教えは二つの理由で障害となります。
  第一に、自我が無いという考えはカルマや輪廻など他の仏教教義とうまく合致しません。自我が無いとしたら、何がカルマの果報を受け、何が転生するのでしょうか。
  第二に、西洋のユダヤ・キリスト教的な背景にうまく合致しません。ユダヤ・キリスト教では基本前提として、永遠の魂または自我の存在を想定しているからです。
  ですから、自我が無いとしたら、精神生活の目的とは何なのでしょうか。多くの本がこうした疑問に答えようとしていますが、ブッダの教えを記録する最初期の文書であるパーリ経典を見てみても、それについては言及されていません。
  事実、自我があるのかどうかを単刀直入に尋ねられたところ、ブッダは答えることを拒否しました。後に、なぜ答えなかったのかと尋ねられたとき、ブッダは、「自我があると考えても無いと考えても、仏教修行の道で歩みを困難にする、両極端な邪見に陥ってしまうから」と語りました。
  ですから、このような質問は横に置いておき、放置すべきものなのです。
  この質問に対するブッダの沈黙が何を意味するのか、そしてそれは無我について何を語っているのかを理解するには、なによりも「どのように質問を発し、答えるべきなのか」「ブッダによる(上のような)答えはどう解釈するか」についてブッダ自身の教えを見てみなければなりません。

  ブッダはすべての質問を四つの種類に分類しました。
  1)断定的な回答(率直なイエス・ノー)で答えるべきもの(答えに値するもの)
  2)質問の言葉の意味を明確にしたり修正したりというように、分析的に答えるべきもの
  3)ボールを質問者のコートに打ち返すように、問い返すべきもの
  4)放置すべきもの
  です。

  4)の放置すべき質問とは、苦の滅尽に至らない質問のことです。質問された教師の最初の仕事は、その質問がどの種類に属すのかを判別し、それから適切に答えることです。
  例えば、放置すべき質問にイエスかノーでは答えません。あなたが質問して答えを得たなら、その答えをどの程度まで解釈すべきかを決めなければなりません。ブッダはこう言いました。
  「私を誤解する人には二種類ある。結論を下すべきでない言葉から結論を下す人と、結論を下すべき言葉から結論を下さない人である」と。

  以上がブッダの教えを解釈するための基本原則ですが、のちのほとんどの著作者における無我の教義の扱い方を見てみると、こうした基本原則が無視されていることに気づきます。ブッダは永遠の自我または独立した自我の存在を否定したと言って、無我の解釈を限定しようとする著作者もいますが、これはブッダが放置すべきだとした質問に対し分析的な回答をしてしまうことになります。
  自我は無いと示唆しているように思われる経典中のわずかな言葉から結論を下そうとする著作者もいます。そのように、放置しておくべき疑問に対して無理やり回答を求めるなら、結論を下すべきでないところで結論を下している、と考えた方が良いでしょう。
  ですから、自我は在るのか無いのか(相互に関連したものであれ独立したものであれ、永遠のものであれ、そうでないものであれ)という質問に「ノー」と答える以前に、ブッダはそもそもこの質問が見当違いのものだと感じたのです。
  それはなぜでしょうか。

  「自」と「他」の線引きをどのようにしたとしても、自我という考えには自己の同一化と執着の要素、つまり苦の要素が伴うからです。これは分離した自我にも、相互関連した自我(すなわち、「他」の分離を認識しない自我)にも等しく当てはまります。
  もし人が自然のすべてと同一化してしまうとすれば、その人は、切り倒されたすべての木の痛みを感じます。これは完全に他の宇宙についても当てはまります。そこでは、幸福(自分自身の幸福であれ他の幸福であれ)の追求が不可能になるほど、疎外感と虚しさによる衰弱がもたらされるでしょう。
  こうした理由で、ブッダは「私は存在するのだろうか」とか「私は存在しないのだろうか」などの問いには注意を払わないように助言したのです。というのは、どのように答えても苦を避けることことは出来ないからで、単にあるがままに認識すべきだということです。なぜなら、そうすることで直接に体験され、それぞれに適切な対応が行えるからです。
  「自」と「他」の疑問に内在する苦を避けるために、ブッダは経験を、「苦、苦の原因、苦の滅尽、苦の滅尽に至る道」という聖なる四つの真理に分類するという代案を提供しました。ブッダは、この四つの真理を「自や他」に関連付けて見るのでなく、それを直接経験したままの、単に四つの真理そのものとして認識し、それぞれの真理にふさわしい、なすべき事をなすよう語りました。

  すなわち苦は理解すべきであり、苦の原因は捨て去るべきであり、苦の滅尽は実現すべきであり、苦の滅尽に至る道は培うべきものです。これら、なすべきことをすることによって、無我の教義を最も良く理解できる状況が形成されます。
  寂静の幸福状態に至る「戒、定、慧」の道を培い、そしてその寂静の状態を使って聖なる真理の観点から経験を見れば、心に生じる疑問は、「自我は存在するのだろうか。私の自我とは何だろうか」というものではなく、「私が苦しんでいるのは、この特定の現象に執着しているからだろうか。それは本当に私や私のものなのだろうか。もしもそれが苦であるにもかかわらず、本当は私や私のものでないとしたら、なぜ執着するのだろうか」となります。

  この最後の疑問に対しては率直に答えるべきです。この疑問によって苦を理解し、苦の原因である執着(自己という感覚の残留)を摘み取ることができ、やがて最後には自己という感覚の残留がすべて無くなり、残されたものは無限の自由だけになります。
  この意味で、「アナッタ」の教えは「無我(我がない)」の教義ではなく、苦の原因を手放すことによって苦から脱却し、その結果、最高の不滅の幸福に至る「非我の戦略(我でない)」(※訳注)なのです。その幸福に至った時点で、自我か無我か非我かという疑問は解消します。そのような完全な自由の経験が生じれば、何がそれを経験しているのかとか、それは自我か自我でないのかということに関する関心は生じないでしょう。
  
  ※訳注:我があるか無いかを論じるのでなく、我という感覚の基にある執着を取り去ることにより、我という感覚も無くなり、苦から解放されるという意味でしょう。
                            * * * * * * * * * * * * * *
感興の言葉
  人間のうちにある諸の欲望は、常住に存在しているのではない。欲望の主体は無常なるものとして存在している。束縛されているところのものを捨て去ったならば、死の領域は迫ってこないし、さらには次の生存の迷いを受けることもない、と、われは説く。
  「わたしには子がいる。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかし、すでに自分が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。
  世間における種々の美麗なるものが欲望なのではない。欲望は、人間の思いと欲情なのである。世間における種々の美麗なるものはそのままいつも存続している。しかし思慮ある人々はそれらに対する欲望を制してみちびくのである。(「真理の言葉・感興の言葉」(岩波文庫 中村元訳)より)(文責:編集部)

       
今日の一言:選

(1)外国で一度だけ出会った僧の言葉が、その後の人生の指針となったこともある。
  20年以上瞑想会を続けてきたが、事実上、一期一会となる方が多い。
  それゆえに、なんとかヴィパッサナー瞑想の本質を伝えたいと、その一瞬に集中してきた・・・。

(2)夜道を歩いていたら、角の暗がりから突然「福は内!」と大きな声がした。
  そして、「鬼は外!」のタイミングでこちらに向かってパラパラと豆が飛んできた。
  幸福は我が家だけに、災いの元凶は他所に・・という訳か。
  嫌いな人や敵対する人にすら「幸せであれ」と祈る瞑想との落差を感じた。

(3)自らを拠りどころとし法を拠りどころとするには、どうしたらよいのだろうか。
  ブッダは言う。
  「よく気をつけて身を随観し、受を随観し、心を随観し、諸々の事象を随観して、貪欲と憂いとを除け」
  つまり、ダンマが自らに顕わになるとは、サティの瞑想をしている一瞬一瞬だということ。

(4)「自らを頼りとし、他人を頼りとするな。法(ダンマ)を拠りどころとし、他のものを拠りどころとするな」とブッダは言う。
  本能の命じる声ではなく、なんの根拠もない自己肯定感でもなく、ダンマが顕わになった自分を信じる力が本当の「自信」だということ・・・。

(5)ギラギラしたエゴ感覚と煩悩に満ち満ちた自分を信じるのが「自信」なのだろうか。
  それは愚か者の我執に過ぎない。
  理法(ダンマ)に基づいて生きていく覚悟が定まった自分に揺るぎない信頼を定めていく。
  「自信」とはそういうことである。

(6)持てる力を全てやるべきタスクに投入できたら、素晴らしい結果が花開くだろう。
  自信がない人の心の中では、「やれるだろうか」「大丈夫だろうか」と不安との戦いや、内面の葛藤にムダなエネルギーが費されヘトヘトになっていく。
  「信(サッダー)」のない人は、自滅していく・・・。

     

   読んでみました
     オリガ・ホメンコ著『キーウの遠い空 戦争の中のウクライナ人』
                                   (中央公論社 2023)
  著者はキーウ出身。オックスフォード大学日本研究所英国科学アカデミーフェロー。東京大学大学院地域文化研究科で博士号を取得し、いくつかの職歴を経て現職。歴史研究者、作家であり、コーディネーターやコンサルタントとして活動中。日本語の著書に『現代ウクライナ短編集』(共編訳、群像社200511月)、『ウクライナから愛をこめて』(群像社20141月)、『国境を超えたウクライナ人』(群像社,20222月)などがある。(奥付による)

  202224日以降、日本でもウクライナという国の名前や国旗が知られるようになった。とはいえ、一般の日本人にとってその理解がそれほど深くないのは、仕方のない面もあるが普通ではないだろうか。だから、もしウクライナの話しを話題にするような時には、少なくとも本書ぐらいは読んでおくべきでは、そう思う。
  
  『国境を超えたウクライナ人』というエッセイ集を著者が出したのは、なんとロシア侵攻のほぼ3週間前だった。そのため、自身がそうなったことで、「この本の題名は運命的にしか思えなかった」と言っている。
  著者は本書を含めて日本語で著書を著わしているほどで、日本文化に造詣が深く、当然ながら知人も多い。おそらくそれもあって、ロシアの侵攻以来日本のメディアからも多くの取材の依頼があったが、途中から全部断るようになったという。なぜなら、「皆ほぼ同じ質問で『今の状況についてどう思っていますか~ どんな気持ちですか』と尋ねてくる。だが実際にその現実のなかにいる人にとって、まだ経験を十分消化しきれていないのにそのような質問を受けるのは、心にもう一度傷を負うだけにすぎないと思った」からだ。

  いくつかの質問のうちここでは一つだけあげてみる。(もっとひどいのがある)
  ・以前のご著書にウクライナは「もともと農民が多かった国なので『土地』に対する特別な愛着がある」と書かれてありました。また、ひいおじいさんがロシア革命後にソ連に土地を没収されたことも知りました。そうだとすると、ウクライナ人にとって現在のように土地を追われることは特別にお辛い経験に思われますが、いかがでしょうか。
  著者の感想:
  「この人は日本の一流の雑誌の記者だというが、このようなことを聞く人には心がないとしか思えなかった。しかもそれは私にだけされた質問ではなかった。日本のメディアの取材を受けた知人に聞くと、ほぼ同じようなしつこさだったという」

  そして、本書を著わした動機を「はじめに」で次のように述べている。
  「ウクライナは何百年もの間、語り手ではなく受け手だったが、その仕組みを変えないといけない時代になったのではないか。ウクライナの歴史や言語について語ったのは他者ばかりだったし、19世紀まではウクライナの地図を作ったのも外国人だった。だが、そろそろ受け手を卒業して、語り手になる時代になったと思う。
  そして私はウクライナと日本の最高教育機関で専門的な教育を受けた研究者で、ジャーナリスト・作家でもある。歴史や文化、今回の気持ちについて自分で語るべきだ。そこでこのエッセイ集をまとめようと思った。2022224日以降にウクライナ人の心のなかにあった気持ち、そして社会的・経済的変化について、この本を読んで、日本の読者にわかっていただきたい。()
  224日以降の苦しい道をもう一回たどりたくないのは確かだが、日本の友人、お世話になった先生、同級生たちに、ウクライナの人々の心にどのような変化が起きてきたかを知らせたいから、この本のページをめくる読者の皆さんと、もう一回この道を歩くことにした。どうぞお付き合いいただけますよう、お願いいたします」

  本書の目次をあげる。
  ○あの日のこと
   ・戦争の予感 ・家はどこ~ ・神様との会話 ・女と男、そして子どもたちの戦争 ・ 戦争とスマホ
  ○ウクライナという国
   ・一番近い国、ポーランド ・ウクライナの二つの海 ・ウクライナ人のトラウマ ・移民の歴史 ・青空と麦畑の旗
  ○戦時下の日常
   ・美術で表現する戦争 ・戦争を笑う ・日常生活について ・ウクライナと日本
  ○失われたもの、得られたもの
   ・戦争と友情 ・時代が生みだした英雄 ・国民詩人タラス・シェフチエンコ ・戦争とビジネス ・「向こう」の友達
  ○おわりに
   ・ウクライナ人にとっての国境と故郷
  目次を見ればウクライナの歴史と現状とをさまざまな角度から浮き彫りにしていることがわかる。エッセイなので読みやすくぜひ手に取ってもらいたいので、ここでは一部の概略だけを紹介することにした。

  ◎ウクライナではコロナ禍になって以来全ての大事な書類のデジタル化が進んだため、高齢者もこの流れに乗らざるをえなくなった。例えば新型コロナワクチンのネット予約。当初は若い人が手伝ってくれたが戦争が始まってからはスマホを使いこなしている。
  その結果、「それまでは機械やITが苦手で、スマホでも電話機能しか使わなかった70歳や80歳のおばあちゃんが、戦争が始まってからたった1か月で、避難先の外国でユーチューブを使ってウクライナのニュースを見るようになった。()以前はテレビのリモコンさえ使いたがらなかったのに、信じられないほどの成長だ」。
  ただし、スマホも危険にさらすものに変わる可能性がある。
  「例えば、ツイッターやインスタグラムに写真を載せると、その写真ファイルに位置情報が入っていて簡単に場所が特定できるため、非常に危険な情報になる。常に電源が入っているスマホは電波を流しているので、簡単に居場所が知られてしまって危ないという話も聞いた。
  いざというときにスマホが友達から敵に化けないよう、最近ウクライナのメディアは一般市民に戦争中のスマホの知識を学ばせている」(「戦争とスマホ」から)

  ◎ウクライナ人のトラウマの一つに第2次対戦時のドイツの占領があるという。キーウに侵攻してきたドイツ軍は2年以上占領、安い労働力としてドイツに連れて行かれたばかりではなく、700以上の町と28,000以上の村が完全に破壊され、軍人と同数の一般人、合わせて当時のウクライナの人口の4分の1に達する800万~1000万人のウクライナ人が亡くなったという。しかも、「穀倉地帯で肥沃なウクライナの土まで奪われてドイツに運ばれた」。
  「このようなことが続くので、ウクライナでは、いくら頑張っても何か余計な力が必ず邪魔をする、という迷信が歴史的な環境から自然に生まれてきた。これも自然にできたトラウマと言えるだろう」
  ウクライナの諺に「邪魔さえしなければ、助けなんていらない」というものがある。(「ウクライナ人のトラウマ」から)

  ◎隣国ポーランドとは歴史的関係が深いのは当然として、日本との関係にも意外なものがあった。「え、そんなことがあったの!」というように。
  「近代以前のポーランドは大きな王国で、ウクライナもその領土の一部だった時期もあるので、ポーランド人は歴史的にウクライナのことを『上から目線』で見ることもあった。しかし時代や場所が異なれば、ウクライナ人とポーランド人が協力しあった例も少なくなかった。そのなかの一つが、遠く離れた1930年代の満洲だった。そこには、第一次世界大戦とロシア革命で追いやられたウクライナ人とポーランド人が、ともに少数民族として手を合わせて戦い、プロメテウスというソ連解体を願う組織を作っていた」(「一番近い国、ポーランド」から)
  それより以前、ロシア帝国時代の末にもウクライナの農民たちは政府の極東開発プロジェクトの宣伝に乗って極東に引っ越したという。
  「統計によって数字は違うが、1875年から1917年までにおそらく100万人ものウクライナ人が極東に移った。そしてロシア革命とともに自分の民族の権利を強調するようになって、自治区の『緑ウクライナ』を作ろうとした。ウクライナ語の新聞や学校も作り、1918年から20年までの間にウクライナ人の集会が4回開かれた。「緑ウクライナ」憲法の草案も作った。(略)
  日本人は満洲でも、ウクライナ語コミュニティーやウクライナ人が出していた新聞に協力していた。お互いに隣にロシアがあるので、理解しあえる不安も多かったから」(「ウクライナと日本」から)

  ◎著者は「国外にいる人には信じられないかもしれない」としながら、「けれどもウクライナ人には粘り強さもあるし、怒りと笑いで気力を奮い立たせているのかもしれない」という。また「この一年間でスタンドアップコメディ(即興話芸)も非常に盛んになった」とも。
  その一人、アーニャ・コチュグーラという女性の話芸、ブラックもあるけれど充分に面白くて笑えるとしてあげられた中から2つを紹介すると。
  「各地に避難していた人たちのなかで最初にキーウに戻ったのは、親戚の家に避難していた人だった。226日に喧嘩して戻ってきた」
  「道ばたで誰かの噂をしているとヒマ人に過ぎないが、ドイツの首相やフランスの大統領の噂をすると 『政治評論家』『政治に詳しい人』と呼ばれて名誉なことだ」
  そしてこう述べる。
  「彼女の話芸は政治的に微妙なところを衝いていて、人気を集めている。皆が口にしたくてもできないことを表現しているとも言える。
  皆それを聞いて笑っているけれど、ブラックユーモアが多いし、戦争中だから笑い方もときどき暗くなる。しかし、数も少なかった女性のコメディアンが政治を話題にしているのはこれまでなかったことだし、若者の政治への関心が高まってきたとも言える。戦争という現実のなか、辛くても笑いながら乗り越えて、頑張って生き抜こうとしているウクライナ人の不屈の精神も現れている」(「戦争を笑う」から)                         

  ◎彼女の国外(おそらく日本)の友人たちのなかには、「安否を尋ねてきて、私の『無事です』という返事も待たずに『口座番号を教えて。お金が必要でしょうし、振り込みます』と言ってくれた人もいたという。とても感動して気持ちだけをいただいたが、それとは違うこんな経験もしている。
  研究者である著者は、身の安全やお金より学問の道を守ろうと日本の大学での就職先を探したという。その際、多くの人の助けられたことを感謝するとともに、その過程では「こちらは友人と思っていたのにそうではなかったと思い知らされることもあった」という。そして、「これは、私だけの経験ではなく、今後も起こりうる問題だと思うので、あえて記しておく」と述べる。
  その残念なケースにはいくつかの類型があるという。(本文では具体例が記されている。※印は私のコメント)

  第一の類型:官僚的とも『公平さの衣』をかぶった冷淡さ
  大學関係者の言。
  「ウクライナの研究者の支援は重要な課題ですが、状況が多様で流動的なので、学会でも大学でも、まとまった方針はまだ議論されていません。苦労されているのだと思いますが、ロシアに占領された地域に住んでいた人、戦争により家を破壊された人など、もっと大きな支援を必要とすると考えられる研究者が潜在的には少なからずいるなかで、すでに外国に避難してひとまず安全が確保されている方を、これまで当大学と特段の交流がなかったのに長期間招くのは、かなりハードルが高いというのが正直な印象です」
  ※なるほどありそうに思う。この大学は現在(232月)に至ってもウクライナ人の研究者を一人も受け入れていないそうだ。

  第二の類型:人生論的な説教
  知人の言。
  「『研究職を求めているのです』と話すと、『このような状況に置かれたら、今まで歩いた学問の道や学位を一切捨てて、普通の職場を探すべきではないか』と助言してくれた。(略)
  別の知り合いからは、『君は避難民なのだから、身のほどをわきまえて、妙なプライドを捨てるべきだ』と正面切って言われたこともあった」
  ※「いったい何様のつもり?」と(私なら)言いたくなるだろう。

  第三の類型:早急な恩返しを求める
  これも知人から。
  「日本語には『恩着せがましい』という便利な表現もある。数週間、宿泊する場所を提供してくださったことは感謝しているのだが、お礼を申し上げて、幸い就職が決まったので退去したいと告げると、『単なる善意で滞在を許したと理解しているのですか。今後、こちらで身を粉にして働いてもらおうと思ったから、そうしたのですよ』と『叱責』されてしまった」
  ※ストレートな物言いに「こんな人がいるのか!」と驚いてしまう。これは「正語」や「反応系」以前の問題だろう。

  こんなケースもある。
  かつて面識のあった研究者は著者のツイッターに自身の名前で『いいね』を押し続け、テレビや新聞にはいつも登場して『ウクライナの状況がとても心配』と言っている。その人は著者のアドレスは知っているのに直接『大丈夫ですか?』というメールさえ来ない。「情報源とも言うべき当事者に実際の状況を聞こうとしない」のはなぜだろう。そこで「問い合わせてみると、『近況をどのように聞けばいいかわからなかった』という返事だった」という。
  ※私の感想は「なんだそれ?」しかない。

  もう一つ。
  「『日ウ関係の現場で働けるようにお手伝いしましょうか』というのだが、話を聞くと、どうも『ウクライナ避難民』の世話をして関係官庁など多方面に『顔を売る』ことが主目的のようだった。お礼を申しあげて鄭重にお断りしたら、『あの人は手助けする必要はない』とあちこちで触れ回っておられたという。後日、ある機関に就職の相談をしたのだが、その方から雇わないほうがいいと『ご助言』があったという。ウクライナ支援を象徴する青と黄のネクタイを締めて多くのイベントに出席されているが、何ごとも『内情』は不透明である」
  ※まあ、「こんな人もいるのか」と思う程度。何を考えているんだか「慚愧」とは無縁なのかも。

  そして著者は次のように言う。
  「以上は、私だけの個人的体験であればいいのだが、同様な立場の友人も似たような体験をしている。欧米諸国に比べて、日本では、避難民や難民という境遇の人に慣れていない面もあるだろうが、日本とそこに住む人々が好きなだけに、今後は変わってほしいと思う。
  出典はアリストテレスとされているが、『不幸は、本当の友人ではない者を明らかにする』という言葉がある。今回の『非常時』には、いろいろなことを教えられ、私なりに学ぶことが多かった。(略)
  今回の経験は、人間の本性や研究者の世界の問題に気づかせてくれた。友情の本当の意味も教えられた。友情とは、単にやさしい言葉をかけるのではなく、人が大変な状況に直面したときに、その人のために勇気を持って行動に出ることだ。今回、『友人』は減ってしまったが、『親友』は増えたとも言える。ありがたいことだ」(「戦争と友情」から)

  本書にはこの外、ロシアとウクライナ、ロシアの友人、ゼレンスキー大統領、国旗の話し、2つの海の話し、国民的詩人等々、取り上げれば切りがないほどの内容が詰まっている。繰り返しになるが、とても取っ付き易い文章なのでぜひ手に取って読まれることをお勧めしたい。(雅)

文化を散歩してみよう
                     第12回:韓国文化の姓と名 (1)
  今回から韓国文化の中での名前をめぐる話題です。実は、はじめは1回完結のつもりだったのですが、だんだん膨らんでしまい、結果、字数の関係から数回に分けることになってしまいました。また私は韓国の文化の専門的な研究者というわけでもありませんので、認識の浅さや勘違いもあるかと懸念しますが、その点はあらかじめ承知ください。
  また文中に「調べてみると」と書いてあるのは、ネットで検索したものや旧いメモからです。自分の経験や出所の明らかな資料を一次的とすれば、二次的なものとしてそれらも使っていますので、あわせてご了承ください。なお、引用した文献・資料は本文中に明記してあります。また参考にしたもので私の文章との境界がはっきりしない場合もできるだけ明記しました。

○素朴な疑問
  40年ほど前のことです。前回ちょっと触れましたが牧師さんから紹介された保育研修に来ていた人(女性)がアメリカ移住を熱望していました。そこでその人に付き添えをたのまれてアメリカ大使館に行ったことがあります。受付の部屋で腰掛けながら順番を待っていると、3メートルぐらい離れたところで30代くらいの男の人が窓口で話をしています。その時「ワン」というその方の名前が聞こえてきました。
  私は彼女に韓国語で「中国人(chunguk saram)だね」と言い、彼女も「そうみたい」と話していたら、その会話が聞こえたらしく、「韓国人です」とそれも韓国語で言われてしまいました。何しろ有名な王選手が台湾ルーツなので、「王」というのはてっきり中国だろうと思い込んでいたわけです。でその時は「韓国にも王という人がいるんだ!」と変に納得したことを覚えています。
  言われてみれば、諸説ありますが古代に百済から王仁が千字文と論語を伝えたとされています。そこで今はどうかと調べてみると、「王さん」はわずかですがおりました。しかしおいおいわかってきたのは、例えば高麗王朝の創始者が「王建」で、他姓のものにも王姓を与えたとされているのに(徳川幕府が松平姓を与えたのと似ていますね)、今の韓国になぜ王姓が少ないかの理由でした。それについては姓を変えることと絡んでいるのでもう少し先で触れることにします。

  今回のテーマを取り扱いながらこのようなことが思い出されてきたのですが、それとともに気になってきたのは、今まで全く意識しなかった「なんで韓国では中国のように姓が一文字なんだろう」ということでした。もっとも中国にも二文字姓の諸葛や司馬がありますし、韓国にも南宮や鮮于などがあることは知っていました。ですから一文字姓が100%というわけではありませんが、二文字姓は13姓にすぎないというのです。これは2000年の調査をもとに2003年に統計庁が発表したもので、こんな時にはネットって便利だと思いました。
  ところで、古代に日本に渡ってきた人々のなかには百済からの渡来()した中に鬼室集斯とか憶礼福留という名前があり、また新羅からは後に武烈王となった金春秋が日本を訪れたりしていたことは、たしか日本史の教科書にも載っていました(多分)。あるいは随の侵略から国を守った高句麗の乙支文徳や唐の軍隊を撃退した淵蓋蘇文という将軍の名も朝鮮史関係の本には必ず載っています。(鬼室、憶礼、乙支、淵蓋が姓です。読み方などは後で)
  ※念のためですが「帰化」とは意味が違います。「帰化」は国という概念が前提ですから、この場合どれほどの自覚があったのでしょうか。まして政治や文化、あるいは技術の担い手でありしかも集団ですから、むしろアメリカ建国時代の移民とオーバーラップする感じではあります。ちなみに、大宝2年(702年)に派遣(前回は669年)された遣唐使ではじめて「日本」を名乗っています。

  ではそのような名前はその後どうなったでしょうか。変わってしまったのでしょうか、消滅してしまったのでしょうか。
  「韓国 姓 消滅」と入れて調べてみました。そうすると、消滅した姓の数は圧倒的に一文字姓が多いのですが、二文字姓もいくつか消滅していることがわかりました。これは私には意外な発見でした。ただその消滅した二文字姓の中に鬼室や乙支はありましたが、なぜか憶礼や淵蓋はありません。現存する二文字姓の中にもそれらは無かったので、どうなったのでしょうか。
  それはさておき、これまで私は古代にあった二文字姓は単純に消えたり一文字姓に変えたのだろうと思っていて、その背景に何があったのかにはとくに関心があったわけでもありません。でもここにきて、このままではなんとなくスッキリしなくなってきました。
  なぜかと言えば、韓国の人々にとって姓はいわばアイデンティティとして最も守らなくてはならないもの、自分の依って立つ大切な基盤、というのはもう常識みたいなものだとこれまで理解してきたからです。ですから、第4回でも述べたような、梶山季之の小説『族譜』も生まれたとも言えるのではないかと。

  しかしながら、その大切な
族譜が編纂され始めたのはそもそも高麗時代からでしかありません。しかもそれが普及したのは朝鮮王朝中期だとされています。高麗時代以前にはなかったし、それもすべての人々が作り始めたわけでもなく、あとで触れるようにそれ自体にも問題が無いとは言えないからです。
  それでも乗りかかった船で、なにはともあれこの機会に姓について調べてみました。そのあれこれを記(しる)していこうと思いますが、肝心の一文字になった理由は、とどのつまり「こうだったのではないだろうか・・・」ということにならざるをえませんでした。なにしろず―っと昔のことなので(言い訳です)。ということで、なにはともあれ「当たらずといえども遠からず」というところから始めようと思います。

○姓の数は多くない
  まず何と言っても姓の数が少ないことです。三百に及びません。その少ない姓のなかでも、金、李、朴、崔、鄭が五大姓と言われ人口の半分、20位の洪まででほぼ8割です。ジョークで「明洞で石を投げると必ず金さんにあたる」と言われますが、投げたことがないので本当かどうかはわかりません。
  ただ姓の数は増えているようです。以前、それまでなかった「松」という姓が新しく韓国で生まれたというのを何かで読んだことがありました。今回改めて調べてみたところ、このようにありましたので参考までに。
  「松吉晩は、日本で孤児だったが、幼少時に釜山に住んでおり、母を探して1946年(松吉晩が18歳の時)に帰還船に乗って釜山に渡り、親の姓氏が分からないため、1959年の戸籍申告時に、日本で松吉と呼ばれていたので、松吉氏で届け出て、和順松氏の始祖となった」
  2015年の国勢調査によると松氏の人口は18人だそうです。この外にも姓は増えているようですが、この話題はとりあえずここまでに。

○「孝」と先祖
  ところで、私は儒教に詳しいわけではありませんが、その儒教の実践項目として重要な徳目の一つが「孝」とされています。「孝」というとイコール「親孝行」と思われるかも知れませんけれど、実はそれだけではありません。その「親孝行」に「祖先祭祀」と「子孫の存続」が加わって、この3つがトータルされてはじめて「孝」になります。つまり、先祖・親・子孫という世代の連続を前提に、現役の世代が子や孫とともに祖先を祀っていく、そしてその流れを切らないことこそが「孝」なのだというわけです。(これも含めて、儒教関係は主に加地伸行著『儒教とは何か』中公新書1990に負うところが多い)
  ではその祖先を祀るという祭祀、それ自体は何のために行うのでしょうか。ひと言で言えばそれは「招魂再生」です。つまり先祖の「魂」をお招きしておもてなしをし、楽しく喜んで過ごしていただいてお帰り願う、そうしてこそ子孫の繁栄がもたらされるという考え方がしっかり根付いているということです。
  それではなぜ帰ってきてもらうのでしょう、その背景にはどんな考え方があるのでしょうか。一説には、それは東アジアに生きる人々の思い、つまり、あくまで「この世は懐かしく帰りたいところ」だからと言うのです。あの世がどんなところか、加えてこの世も住み良いかどうかはわかりません。しかしともあれ、こうした考えが生まれるほど東アジアの風土は恵まれていたと言うことでしょうか。風土の他にも違った理由があるかも知れませんが、それはそれとして、あくまでこの世が中心ということです。
  これはこの世を「苦」とした仏教とは全く違いますね。私は中国に行ったことがないので住み良いかどうかはわかりませんが、ともかくこの世での生を中心に置いている、その傍証として七福神のなかの「福禄寿」と「寿老人」をあげることが出来そうです。福は子孫、禄は財産、寿は健康長寿を意味する神様、つまり願いの象徴なのですから。寿だけが「寿老人」と独立しているのも、中でももっとも望まれたからでしょう。

  例によってちょっと横道に入るのでお許しを。
  子孫繁栄への願いと言えば洋の東西を問わないはずですよね。また、当たり前ですが人に限らずすべての生命が望むものです。「孫の顔が見たい」などとも言いますし・・・。日本ではこのごろはなかなかそうもいきませんし、また人の考えにはいろいろありますけれども。
  かなり以前、猫(のらちゃん)が5匹ほどの子を生んで、その子どもたちが家の周りではしゃぎ回っていたことがあります。そんな様子を見ていると、なぜかとても楽しいような、なんとも言えない幸せな気持ちになったことを覚えています。そしてその時浮かんだのは、「なるほど、生命(いのち)が増えるって言うのはこんな気持ちにさせるのか」というフレーズでした。その後には独立してみんなどこかへ行ってしまいましたけれど。
  科学的にはどんな仕組みなのかはわかりませんが、ともかく命が増えた場面を見ただけでも幸福感が刺激されたのは事実でした。

  元に戻ります。
  この儒教とともに中国文化で大きな伝統の一角を占めているのが道教ですが、その理想は「羽化登仙」だそうです。登仙というのは天に昇って仙人になることですが、死なないのか単に長寿だけなのかは知りません。また貴人が亡くなった時も敬って登仙とも言ったりするそうですが、いずれせよこの世を心の底から嫌っているようには思えないし、なにかそれなりにこの世の延長線上のようにも感じられます。
  それはさておき、韓国には現世中心をよくあらわすことわざがいくつかありますので紹介します。
  「馬糞につまずいて転んでもこの世がよい」
  「死んだ大臣は生きた犬にも及ばない」
  「逆さにつり下げられても自分が住んでいる世界がよい」
  「歯が息子より良い」(これは、息子が世話をよくしてくれても歯がなければ食べられないと言う意味です)
  「今年の鳥の足が来年の牛の足より良い」などです。(尹学準『オンドル』夜話 中公新書 1983より

○先祖を招くには
  では「招魂再生」というその「魂」をどのようお招きするのでしょうか。
  そもそも儒教では人は死ぬと「魂」と「魄」に分かれるとされています。魂という字に使われる「云」は「雲」にも使われているようにモヤモヤしたものを表していて、天に昇るとも地に残した魄の周りに漂っているとも考えられています。魄は文字通り「白骨」で、あくまで地(この世)に留まっているというわけです。
  で、この分かれた「魂」と「魄」を結び付ければ再び甦るのではないか、再生するのではないかというわけです。それには一時的にでも魂に帰ってもらって魄と結びついていただく、そのためには一定の儀礼を行えばよいということになります。
  なので結びついてもらう対象の魄がなくてはなりません。つまり依り代が必要です。当初は保存した頭蓋骨だったと言いますが、やがて「神主」とか「木主」というものになりました。
  そしてその「神主」をのちに伝来してきた仏教がとり入れ、「位牌」とします。同じように、先祖を祀る壇は仏壇に、神主に書かれ題字は戒名に、ということです。また儀礼は「先祖供養」と意味づけされるという、見事に換骨奪胎されたわけですね。

○墳墓
  それはさておき、骨である魄は地上に残されているため管理する必要が出てきました。そこで「お墓」が作られるようになります。ですから、お墓というのはもともと魄だけがあって、魂がそこにあるわけではありません。ですから、「お墓参り」は人情としてはよくわかりますが、厳密に言えば「千の風になって」が正解ということですね。
  ということで、墓にあるのは「灰」ではなく白骨ですから本来はそのまま土葬のはずです。韓国の場合、それは一人一基の土饅頭で、私が滞在していた80年代ころには国土利用の面から問題になっていました。それは場所と面積についてです。つまり土饅頭があるのはたいていは南向きのゆるやかな傾斜地で冬の北西からの風もある程度は防がれ、だいたいは牧草地などに適した場所だからです。そんなところが風水的に良いというわけです。
  日時がわからないのが残念なのですが私のメモにありましたので。土饅頭の占める面積の平均が50m2,で、対して東京では0.8m2というものです。さらに全国合計では8ha、これは釜山広域市の約7.63haより広く、なんと国土面積9.9万平方km1%弱にもなるというのです。
  そればかりではありません。韓国の集落は墓守りや祭祀のために同族が集まって発生してきたと言いますから家からそう遠くはないはずです。日本で言えば里山か、それよりちょっと近い裏山と言った感覚でしょうか。山はまたオンドルの薪も提供してくれていて、かつてははげ山が多い理由の一つとされていました。(家は墓より上に家は建てません)
  そんな場所に作られるお墓ですが、世代が進めば当然増えていき、分散もされていきます。そうなると儀礼を行うのもかなり大変になったので、まとめて一個所に合葬したということを長老の方に聞いたこともあります。
  いずれにしても、生産性からもなんとかしなければと言うことだったのでしょう、30年ほど前に私のお世話になった研究院から数人が日本のお墓事情を視察にみえました。八柱霊園(千葉県松戸市)などに行かれるということでした。
  その方々に、ちょっと意地悪でしたが、気安く「この研究の成果の見込みはどうでしょうか?」と訊いてみたところ、「50年経っても無理でしょう」との答えでした。なぜなら、もしお墓の改革などを言い出す国会議員がいたら、次の選挙で落選すること火を見るより明らかだからです。ただ、最近のドラマには時々集合墓のようなものが出てきていますので、だんだん意識も変わってきたのかとは思います。
  ちょっと注のようになりますが、「墳墓」と言う「墳」は土盛りしたもの(例えば古墳)で、「墓」には土盛りはしません。ですから土饅頭は本来なら「墳」ということになります。また、日本には両墓制と言って埋め墓と参り墓というものがかつて見られました。

○長男の役割
  話を戻しますが、こうして先祖を祀る祭祀を絶やさないことが子孫の務め、しかも本家の長男はそれを主催しなければなりません。経済的にはどうやりくりするのかはわかりませんが、奥さんも含めて経済的・精神的な負担は相当なものだと思います。しかも「4代奉祀」と言って4代(高祖父母、曽祖父母、祖父母、父母)にわたり、それぞれの命日の前日の夜中に行われます。5代以前になると正月と秋夕節に行われるようになりますけれど・・・。
  それだけでもたまらないと思いますが、そのほかにも目白押し。年に数回、多ければ十数回になってしまいます。
  正月1日、2月の寒食節、旧暦815日の秋夕節、99日の重九節、さらには時節として旧暦の10月吉日に行なう墓参り、茶礼という祖先の誕生日の朝に行なうものなども(まさに続々と)あります。しかもそれぞれ餅、肉、魚、果物等々・・・、格式を重んじるから簡素には出来ません。費用も半端ではないでしょう。逃げ出したくもなるのではないでしょうか。私の同級生の姜君(4男ですが)もそう言っていましたから。
  とはいえ、歴史的には変遷もあったようです。それは奉祀輪回と言って長男だけではないやり方が1600年代中葉から1700年代にかけておこなわれていたそうです。同じように財産の相続も長子だけではなく、15001600年代中葉までは子女均分だったと言います。その後は次第にやり方が変わり、1700年代中葉からは財産も祭祀も長子が、ということになっていきました。これはまさに女性差別が進んだ一つの証しのようにも思えます。おそらく、儒教が次第に社会に徹底されて浸透していった結果ではないでしょうか。
  この儒教は朝鮮時代に国の中心に据えられるのですが、同時に高麗時代に国教として優遇されていた仏教は特権を剥奪され次第に弾圧されていきます。それは李朝初期の財政を賄う意味もあったと言いますが、とくに第3代の太宗の時には寺は廃止統合されて山中へ追いやられ、また多くの僧侶は還俗させられ賎民階級に落とされました。
  例えば、朝鮮時代の朱子学者の李珥(号は栗谷)(※)は「仏教は夷狄の教えである。中国(朝鮮のこと)に施してはならない」(『栗谷全書』巻一詩上)などとも言っているようですから(確認はしていませんが)。
  ※李珥は二大儒者(朱子学者)として李滉(号は退渓)とならび称されます。

  この仏教に対する弾圧とは反対に、儒教を尊重する政策が推進されていくにともなって奉祀のための負担も同じように長子の役割となっていったということです。これが男子の切望に繋がっていった理由だと思われます。(祭祀や歴史的な内容は尹学準『オンドル』夜話 中公新書 1983を参考にしました
  ただ、私見ですが現在でもこのような祭祀がフルで続いているとはとても思えません。社会もどんどん変わっていますし、はたしてどうでしょうか。(つづく)
    ちょっと紹介を!

  落合淳思著『古代中国 説話と真相』(筑摩書房 2023)

  著者は博士(文学)。立命館大学白川静記念東洋文字文化研究所客員研究員。『殷代史研究』『甲骨文字辞典』『漢字字形史字典【教育漢字対応版】』『漢字の音-中国から日本、古代から現代へ』など、漢字についての多数の著作がある。(ぜひ検索してください)

  この書の題名(だけ)を見た時、おもわず「邯鄲の夢枕」とか「太公望」の話しなどのネタバレのような本かと思った。それはそれで面白そうなので、例によって図書館から借りて読んでみた。そうしたら本書はお気楽な私の思惑とはまったく相違したものだった。
  本書は古代中国で「あったこと」と伝えられている話しについて、それが史実かどうか、改変や創作があったとすればもとの事実はどうで、どのように変えられたか創られたか、その理由はなぜかなどを数々の根拠をあげて明らかにしている。なかでも漢字の字形の変遷などの史料を使って正面から切り込む鋭さは、その合理性とともに並みではない印象を受けた。
  目次からいくつかをピックアップすると、上古の時代からは《三皇五帝》や《酒池肉林》の説話、春秋時代からは《管仲説話》など(もちろんその他にいくつも)の虚構性が明らかにされる。例えば「焚書坑儒」、事実は「焚書」はあっても「坑儒」はなかったのだ。世界史で習ったし、熟語として何の疑問もなく「焚書坑儒」と覚えていたが、それはいったいなんだったのだろう。

  著者は「はじめに」で、本書での「説話」とは、「歴史上の事実として伝えられたが、実際には事実ではないもの」の意味で使っているという。そして、
  「古代中国史について言えば、実際の歴史よりも説話の方が有名な場合が少なくない。そして、本書でも取り上げる《酒池肉林》や《臥薪嘗胆》などの説話が事実として信じられていることが多いのである。(略)
  説話には面白い話が多く、また教訓になる話も少なくない。そうであるから、説話が信じられても問題はないように思われるかもしれないが、実は歴史学における大問題なのである。その理由は、学術としての歴史学の存在意義に関わるからである」と。

  本稿では一つだけを例にあげることにする。有名な「管鮑の交わり」の話。文中の参考文献などは略す。
  「春秋時代には上級貴族が大臣になることが一般的で、中級貴族ですら要職への登用は希であった。まして、≪「管夷吾は(上級貴族の)高傒よりも統治に優れている」≫などという発言が公式に記録されたはずがない。
  さらに、春秋時代の身分制は社会の末端にまで及んでおり、貴族層と農民層・商工層は区別されていた。そうであるから、高位の貴族階層の人物が≪商売をし≫たはずもない。万一、何らかの理由でそこまで没落した場合には、貴族に戻ることは不可能である。
  一方、戦国時代になると、世襲の貴族制が崩壊して非世襲の官僚制へと移行する。そのため、官僚であっても「若いとき貧しかった」や、「没落して商人になった」などの状況があり得るようになる。管鮑の交わり》の説話は、明らかに貴族制が崩壊した戟国時代以降に作られたものである。(略)
  『春秋左氏伝』は先に挙げた資料の中では最も古くに作られたものであるが、それでも基本部分の成立は戦国時代前期(紀元前4世紀中期)であり、桓公の時代からは三百年も後のことである。それに対し、同時代の資料では、現状では管仲を宰相とする記述がない。しかも、貴族としての管氏・飽氏は実在したものの、人物としての管仲(管夷吾)や飽叔は実在すら証明されていない。≪管飽の交わり≫などの説話は、全て創作と考えるのが妥当である」(P.127

  これは一例に過ぎないが、当時の政治や社会の歴史的状況を基に説話を考察しているのが良く理解される。
  実は、本書を紹介しようと思ったのはこうした説話についてばかりではなく、所々に現代の政治や世界の力のバランスと平和、それらと古代中国の政治状況との類似についても述べていて、それが実によく当てはまるしまた納得もされるからでもある。そのひとつを紹介したい。
  例えば戦争の形態すらも戦国時代になると法律によって制御されるようになったという。つまり、「法治」ということになるが、そのシステムには違いがあるとされる。
  「近代の『法治』は法によって国家が運営され、また為政者の権力が制限されるものであるが、古代中国の『法治』は『以法治国』(法をもって国を治める。『管子-明法解篇・『韓非子』有度篇』)であり、独裁君主が自身や国家にとって都合のよい法律を制定し、それに官僚や人民を従わせるシステムであった。ちなみに、前者が民主制をとる現代日本の「法治」概念であるが、独裁国家である現代中国(中華人民共和国)が「法治」と言った場合には後者の概念であり、その食い違いには注意が必要である」(p.240
  いかがだろうか。これなどは現代の世界の情勢が古代の中国とが相似形のように見える。
  ほかにも「なるほど」と思わせるところがいくつもあり、付け加えれば、読むのに中国の古代について教科書程度にしか知らなくてもとても興味深い。そしておそらく、伝えられている情報の理解に「うっかり」ということを少しでも減らすのに良い教材となるのではないだろうか。(文責:編集部)

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