月刊サティ!

2023年11月号  Monthly sati!     November  2023

 今月の内容

 
  巻頭ダンマトーク:今月は休載いたします
   ダンマ写真
 
Web会だより ー私の瞑想体験- :『小説家の瞑想修行』
  ダンマの言葉 :『四人の友(慈・悲・喜・捨)』・・・4
  今日のひと言 :選
   読んでみました :PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会編
『PTSDの日本兵の家族の願いと思い』(あけび書房 2023)
  文化を散歩してみよう :韓国文化に触れて(2)
   ちょっと紹介を! :スヴェトラーナ・アレクデェーヴィチ著 『亜鉛の少年たち』
                                     (岩波書店 2022)

     

【お知らせ】

  ※近刊される地橋先生の新しい単行本が現在最終的な段階に入っておりますので巻頭ダンマトークは少しの間お休みさせていただきます。
 

           

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。

 
     

 今月のダンマ写真 ~
   
   
八王子 プッタランシー寺院のブッダ
 

筑西 プラッタンシー寺院の屋根飾り(チョーファー)

 先生より



    Web会だより ー私の瞑想体験-

『小説家の瞑想修行』 榎本 憲男

★二十代から映画の仕事に従事してきましたが、50歳になったことを転機として、あてもなく会社を辞めました。辞めるきっかけとなったのは、すでに45歳ころから自分の頭の中はガラクタだらけだと自覚するようになっていて、さらに、売り上げを追い求める映画作りやマーケティングリサーチなどが嫌にもなり、すこし落ち着いて自分を見つめ直したい、もうすこし落ち着いて本を読み、映画を観たくなったからだ、といえばずいぶん格好をつけているようですが、そういう面がなかったとは言えないと思います。

  辞めてからは、小さな映画を監督していましたが、鳴かず飛ばずで、このままだと餓死してしまうという危機感から、小説を書いて出版社に持ち込み、なんとか本にしてもらって、現在では小説家という肩書きで生活しています。

  物書きとして手がけたのは、いわゆる「警察小説」とよばれるジャンルで(『巡査長 真行寺弘道』シリーズ、是非お読みください)、基本的にこの界隈では、非合理なものを物語に持ち込こまないほうがよいという不文律があります。しかし、この禁を破り、近代合理性の外側、言葉や記号の外を物語の中に取り入れることを選択しました。近代合理性の外側にあるものの代表は宗教でしょう。たとえば、私の新作『サイケデリック・マウンテン』では仏教が非常に重要な役割を果たします。また、『ブルーロータス-巡査長 真行寺弘道』ではヒンドゥー教が、『テロリストにも愛を』ではイスラム教が物語において重要な役割をはたしています。

  頭の中はガラクタだらけだと悩んでいた私ですから、瞑想というものには以前から興味を抱いていました。ヨガや気功というものにトライしてみようかと思ったことがあります。結局、私が選んだのはヴィパッサナー瞑想法でした。ユヴァル・ノア・ハラリが『ホモ・デウス』で著者自身が実践している瞑想法として紹介されていたのを読んだことがきっかけでした、とひとまず説明できるのですが、ひょっとしたらもっと大きな力に導かれてのことだったのかもしれません、――と説明するのが近代合理性の外側の導入です。

  哲学等の講座を受講したことがあった朝日カルチャーセンターで、地橋秀雄先生のお名前を見つけ、まずはオンライン講座を二度ほど受けてみることにいたしました。「1日7分、3回ほど椅子に座って瞑想しています」と報告し、「いくらなんでも少ないですね。10分はやりましょう。また、健常者が椅子に座って瞑想することは、どのお寺でも認められていません」と注意を受けたのは去年の11月です。

  こうなったらきちんとやろうと思い立ち、『ブッダの瞑想法』を拝読し、またYouTubeで先生が指導されている動画なども見て、年が明けて初心者講習に参加しました。この時に、「歩きの瞑想が基本である。歩きの瞑想がきちんとできなければ始まらない」と教えていただきました。

  正直に告白すると、自分はもっぱら座りの瞑想だけやればいいやと考えていたのです。そのほうが、いかにも瞑想しているという感じでかっこよく、たまたま実践しているところを見られても「ああ、瞑想しているんだな」と納得して見てもらえるでしょう。それに比べて、歩きの瞑想は、「げっ、なにやってるんだ」という感じで猜疑心が宿った目で見られてしまうのでは、というつまらない理由から、そんな方針を勝手に立てていたのでした。

  また、「足の裏の感覚に興味を持ちなさい」などと言われても、足裏の感覚など「私の興味対象リスト ベスト100」の最下位にも位置していませんでした。いやはや、これは困ったぞと思ったものの、しかしここは言いつけに従おうと思い定め、2月に参加した1Day合宿は、歩きの瞑想一本槍で貫き通しました。以後、この方法で毎月参加しておりますが、朝から夕方までずっと歩き続け、終了を告げる鐘が鳴ったときには、軽くジョギングしたくらいの運動にもなっているのではないかと思います。

  次第に、日課として瞑想する時間も長くなっていきました。15分から30分に、30分が1時間に、そして、現在は約1時間40分を瞑想に充てるようになっております。8月は1Day合宿がお休みだったので、先生に会いたくもあり、朝日カルチャーセンターの「ブッダの瞑想法とその理論」に参加しました。ダンマトークの後に設けられた瞑想の時間では、座りの時間も設けられていたので、実にひさしぶりに座ることになりました。すると、前とは違った感覚で座っていることに気づき、現在では、1時間40分のうちの20分を座りの瞑想に充てています。「まずは歩きの瞑想を徹底しなさい」と言われた先生に断りもなく勝手に座りだし、それを私がつい書いてしまったTwitterをスタッフの方が見て、先生に伝えられたらしく、先日やはり朝日カルチャーセンターでお会いした時に、「最近は座りの瞑想もやっているんですね」と言われ、「なぜバレている!?」と焦ったわけですが、「いい流れですよ」とつけ加えられたときには、ほっと胸を撫で下ろした次第です。

  悩みといえば、瞑想の質がなかなか向上しないことです。とにかく妄想が雲のようにもくもく湧き出てきて、手なずけることが難しい。自分の心を自分でコントロールできないということを知ったことは、大いに落胆させられたと同時に、おかしなことに、新鮮で興味深い驚きでもありました。ということで、妄想とともに歩いているような状態が続いているのですが、心のデフォルト状態はすこし変化してきたように思われます。当初は、とにかく常に心が泡立ち、常に言葉が湧き出そうとしているような沸騰寸前の水面だったのが、以前よりも多少穏やかになりました。

  私は、資本主義と仏教との関係を考えることがあります。我々は資本主義社会に住み、そして世界全体が資本主義で覆われようとしています。この資本主義は需要というものを拡大しながら、資本を増殖させていくシステムです。需要は英語ではdemanddemandを英英辞典で引くと、the need or desire that people have for particular goods and servicesと出ています。desire つまり欲です。資本主義というのは欲望を刺激しながら膨脹していくシステムだと言えるでしょう。それに対して仏教には我欲を(そして我さえも)解体していく修行のシステムです。そしてその修行の大きな部分を占めるのが瞑想です(瞑想がヘタクソなくせに、こういう御託だけは言えてしまうのは問題なのですが)。

  ところが面白いことに、<我欲の解体>という資本主義ではタブーの行いにつながる瞑想を、巨大企業が、資本主義にドライブをかけるために推奨しているという現実があります。ヴィパッサナー瞑想法から宗教色を拭い去ったマインドフルネスを、Googleなどのプラットフォーム企業、ウォール街のビジネスエリートが活用していることは、どのように捉えればいいのでしょうか? 

  正当なヴィパッサナー瞑想はこれについても、回答を示してくれています。それは、慈悲の瞑想です。「すべての衆生が幸せでありますように」と祈る瞑想は、強欲な資本主義における<独り勝ち>を許しません。ヴィパッサナー瞑想のもっとも素晴らしいところはここにある、とさえ思います。私は、歩きの瞑想の前に、慈悲の瞑想をおこなうことを習慣としていますが、どうしても時間が取れないときにも、慈悲の瞑想だけはかかさずおこないたいと思っております。

    

             苗場の暁・名残の月    
N.S.さん提供
 






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ダンマの言葉

              『四人の友(慈・悲・書・捨)』・・・4

(承前)
  心ある人なら誰でも国際平和が実現していないことを嘆きます。誰もがこの地上に平和が訪れることを望んでいますが、平和がないことは明らかです。20世紀から現在にいたるまで、ほとんどいつでもどこかで戦争が行われています。どの国にも、多大なエネルギー、金、人的資源をつぎ込んだ巨大な防衛システムがあります。この防衛システムは、誰かが敵意のある発言をわずかでもしたり領空や領海を侵犯しそうな動きを見せたりしたとたん、攻撃システムに変わります。このような変化は、「私たちは国民を守るために国境を防衛しなければならない」という理屈により正当化されます。軍備縮小は私たちの望みであり願いですが現実ではありません。なぜでしようか。

  それは、軍縮とはすべての人の心から始まらなければならないものであり、そうならないかぎり全面的な軍縮は決して実現しないからです。
  じつは私たちの個人レベルで大規模な防衛と攻撃がつねに起きています。私たちはいつも自分のセルフイメージを防衛しようとしています。もし誰かが私たちを軽蔑的なまなざしで見たり、もしくは十分に評価したり愛したりしてくれなかったり、あるいは非難などしたら、その防衛は攻撃に変わります。なぜならば、私たちは「私」という「この国」を防衛し、そこに住む「自己」という国民を守らねばならないと思っているからです。世界中のほとんどの人がそうしているので、すべての国も同様に振る舞うことになるのです。
  すべての個人が変わらないかぎりこの事態が変わる望みはありません。それゆえ、私たちが自身の内面の平和のために行動することが私たち一人一人に課せられた課題なのです。おのおののエゴがいくらか減少すればそれは可能です。しかし、エゴが減少するのは自分の内面で起こっていることを情け容赦なくあるがままに見るときだけです。
  思考にラベリングすることはそれを行う手段の一つです。ラベリングを行っていると、やがて自分がどんな馬鹿げたことを考えているかが分かり、自分自身や自分の思考能力について抱いている仰々しい妄想が少なくなります。
  これがヴィパッサナー瞑想の特徴の一つです。情け容赦なく正直に自己に対するというのは、自分に不快な感覚や感情があって対処できずにいるときにそれを認めることでもあります。たとえば、自分が官能的な満足をつねに求めていることを認めるのです。そのような情け容赦のない正直さによってエゴを少し減らすことができます。それを実行してゆけば苦しみへの共感が現実に可能になります――単なる言葉ではなく苦しみへの本当の共感になりうるのです。

  言葉を使うのはたやすいことです。しゃべることのできる人なら誰でも言葉を使えます。6歳以上の子どもなら慈しみの説法(『スッタニパータ』I.143-152)を繰り返し声に出して言うことができます。とても素晴らしいことのようですが、それが何になるでしょう。そうした言葉の繰り返しだけでは感情は湧き起こりません。
  しかし私たちは感情に従って生きています。ですから、自分自身の感情を知ることがまさに必要不可欠なのです。私たちは自分の思考に従って生きていると思っていますが、じつは違います。感情が最初で次にその感情に対する反応が生じます。そしてその後に思考過程がその反応を正当化します。
  自分の感情を理解することは最も重要であり、必要不可欠です。愛するとはどういうことか、あるいは、苦しみへの共感を抱くとはどういうことかを知ろうとするとき、それらを感じずにどうやって知ることができるでしょうか。
  あるいは、それらについて知ることはできるかもしれませんが、自分で感じとれないならばどうやってそれらを現実化させられるのでしょう。解脱とは「知ること」ではなく「感じること」です。誰もが「私」というものを感じています。誰もが自分の名前を知っていると同時に、その名前が他ならぬこの「私」のことを表しているとも感じています。人は自己というものを感じることができます。ですから、非我に到達するためには非我も感じられねばなりません。

  苦しみへの共感は心に湧き起こる感情であり、特別な理由や条件を必要としません。まったく何の条件もなしに生じえます。私たちは特別な機会、すなわち、誰かが悲劇に見舞われるとか、体がとても痛いといった機会が訪れるのを待つ必要はありません。そうした機会が訪れなければ苦しみへの共感が自分自身のなかに生まれないとしたら、そのような共感は生じたり生じなかったりする類のものだということなり、おそらくは生じない場合の方が多くなるでしょう。
  そのような心は苦しみへの共感を抱く心の状態ではありません。苦しみへの共感を抱く心は――慈しみの心と同じように――「つねに」苦しみへの共感を感じています。なぜなら、すべての人に苦があるからです。誰にも苦があることはブッダが第一の聖諦で明確に説いています。苦のない人はいません。生――あるいは存在――そのものが苦だからです。しかし、生きていることは悲劇だという意味ではありません。苦とは、生起するすべての物事には軋轢やいらだちが伴い、もっとたくさん欲しいとか、このままでいたいとか、別の状態に変わりたいという願望がつねに付きまとうという意味です。すべての物事を等価なものとして眺め、完全に平静な心でいることは阿羅漢以外の人間にはできません。したがって、苦しみへの共感は、人々が悲劇に見舞われたときだけでなくつねに求められるものなのです。
  他者の苦しみへの共感は、エゴが減少しているときにのみ抱くことができます。エゴをめぐる問題は人間関係のさまざまな問題の根本にあります。誰もが同じくエゴの問題を抱えているので、他者を本当に思いやることができずにいます。本当に他者を思いやれる人は特殊な人物として目立ちます。これは悲しく、かつ馬鹿げた事態です。
  なぜなら、苦しみへの共感と慈しみの心がある人はそのおかげで幸福になれるのですから。しかし、ほとんどの人の心には苦しみへの共感と慈しみがありません。そのせいで、本当の幸福はどこを探してもほんのわずかしか見つかりません。とはいえ、この2つの感情はエゴを減少させますから喜びの源です。つねにエゴ中心の生き方をしている人には喜びがほとんどありません。エゴを満足させようとしても、エゴが満足することはないからです。
  私たちが抱える問題がなくなることは決してありません。つねに新たな問題が発生します。しかし、その問題を手放し、そのうえで、あらゆる存在に付きまとう苦、すなわちすべての生き物が免れえない苦に注意を向けるならば、苦が普遍的であることばかりでなく、自分自身が抱えている特定の苦には本当は何の意味もないということも理解できます。苦はすべての存在の一部をなしています。そのことが理解できると、自分自身とすべての生き物の苦に対する共感が生まれます。そして、すべての苦を終わらせようという決意はその達成に必要な力を得ることになります。

3.喜(喜びの共感)
  「四人の友」の三番目は「喜」、つまり「他人と喜びを共にすること」、あるいは「他人に共感して喜ぶこと」です。
  「喜」にとって遠くにいる敵はなにか。それは「嫉妬」です。これはわかりやすいでしょう。近くの敵は「見せかけ」や「偽善」、つまり言うことと思っていることが違うことです。たとえば、誰かに何か幸運なことがあってお祝いの言葉を言うべきときに、言葉だけで心がこもっていない場合がそれにあたります。もっと悪いのは、お祝いの言葉を述べながら心のなかで逆のことを考えることです。「なぜ私にはよいことが起きないのだろう。なぜいつも誰か他の人に起こるのだろうか」というように。
  他人と共に喜ぶことは、うつ状態への確かな対処法です。うつ状態に苦しむ人には、「他人と分かち合う喜び」や「他人に共感して喜ぶこと」が不足しています。自分自身の人生では、喜ばしい出来事や楽しい思いにつねに恵まれるというわけにはいきませんが、他人と喜びを分かち合えば、その中に何かうれしいことをきっと見出すことができます。
  他人の才能にも喜びを見出しましょう。たいていの人にとって、誰かが非常に有能であることを認めるのはとても難しいものです。そして、しぶしぶこう言うこともあります。「なるほど、彼にはそれができる、でも・・・」そしてすぐあとに悪口が続き、自分より何かをうまくできる他人と喜びを分かち合おうとはしません。他人が私たち自身よりうまくできることは無数にあります。絵を措くのがうまい人、ダンスがうまい人、翻訳がうまい人、お金儲けがうまい人、お金なしで生活するのがうまい人もいます。誰もが何らかの才能を持っています。ですから、喜びに満たされる機会は無数にあるはずです。

  他人と共に喜ぶことはまたよいカルマを作ります。私がかつて住んでいた小さな村のお寺には「特別な鐘」がありました。その村では誰かに何かよいことがあると必ずそこに行って鐘を鳴らしたものです。たとえば、収穫がもたらされたとき、娘が結婚したとき、誰かが病院から退院してきたとき、いい商売の取引がまとまったとき、屋根が新しく葺かれたときなど、何であれ喜びをもたらすこと起こったときです。
  鐘が鳴ると、皆、外に出てきて鐘を鳴らした人の方を見ます。自分の喜びを他人と分かち合えるようにしたことでよいカルマを作り、他の人々は他人の喜びを分かち合うことでよいカルマを作ったのです。
  ほとんどの村、町、都市には、このような目的に使う「特別な鐘」がありません。私たちは自らの鐘を鳴らさなくてはならないのです。これは私たちが覚えておくべき最も重要なことです。すなわち、あらゆる状況においてブッダの教えを思い起こし、その教えを実行するべきなのです。特別な機会や悲劇に見舞われたときだけ思い出すのではなく、いかなるときも心に留めておくのです。なぜなら、それこそ幸せと平和な生活のための処方だからです。
  ブッダは言いました。「私が教えてきたのはただ一つのこと、つまり『苦とその終滅にいたる道のこと』である」。ブッダは偉大な誓いを立て、その誓いを果たしました。それがすなわち、「苦の終滅」というブッダの教えです。エゴがすべての問題の根本にあることに思いをいたさず、エゴに対処しようとしないならば、私たちはブッダの教えを忘れているのです。ブッダの教えは、ときには役立つこともあるというものではありません。いかなるときも心と知性の中にあるべきものです。(つづく)
  アヤ・ケーマ尼『Behg NobodyGoig Nowhere」を参考にまとめました。(編集部)

       
今日の一言:選

(1)意識的なことよりも、なんとなく感じていることや無意識に思っていることの方が強く出力され、業を作っていくものだ。
  無自覚な思考パターンに、気をつけなければならない。
  無くて七癖の常同的振る舞いの自覚化から、人生の流れが変わっていく・・・。
  気づきの瞑想をする。
  サティを入れる・・・。

(2)過去に作った善業や不善業によって、日々経験する事象はほぼ定まっている。
  最悪の事態も超ラッキーなことも、起きることは決定的に起きてしまうのだ。
  それに逆らう自由も、受け容れる自由もある。
  古い業が新しい業によって微調整されていく瞬間だ。
  サティを入れて見送るという選択・・・。

(3)日常生活では、顕微鏡モードの厳密なサティから肉眼モードに変換しなければならない。
  眼耳鼻舌身意の情報の中身を理解しながら、「見ている」「聞いている」「考えている」と自分を俯瞰していくのだ。
  今、自分は何をしているのかに気づこうとすればよい。
  自覚の維持を心がけるマインドフルネス・・・。

(4)次々と水面に拡がっていく波紋のように、優しさから優しさが手渡され伝えられていく。
  だが、愚かな善意と智慧なき優しさは、人を真の幸福にみちびかない。
  現状を正確に把握し、何が本当に相手のためになるのか熟慮されるべきではないか。
  明晰な智慧と優しさが連動する慈しみの瞑想・・・。

(5)1年後には、記憶の40%は当てにならなくなり、感情の記憶になると60%は食い違ってしまうという。
  そもそも今の瞬間をあるがままに見ることが至難の業なのに、その不正確な記憶がさらに変容してしまうのだ。
  生きてきた証しは記憶しかないのに・・・、人生とは、何なのだろう。

(6)思考の流れが止まり、静かになった心の内奥に耳を澄ませ、どうしてもやりたいと感じることはやってみるしかないだろう。
  痛い思いをしなければ骨身に沁みないし、失ってみて初めて値打ちに気づくものだ。
  学ぶべきことを学ぶなら、自ら蒔いた種を刈り取る苦しい人生にも意味がある・・・。

(7)何のデータも入れなければ、優秀な演算機能を持つパソコンも空箱同然になってしまう。
  学ばない、考察しない、情報を集めない、練習もしないし、修行もしない。
  ただ心を空っぽにして、静かにしているだけで洞察の智慧が閃くだろうか。
  現実逃避の瞑想、虚しい空っぽ、無意味な静けさ・・・。

(8)習練すべき技能が修められ、必要な情報が十分に集められているならば、余計な準備や計画で頭をいっぱいにしない方がよい。
  その瞬間、即興で閃くものにはムダがない。
  脳内に用意されたものを意識的に具現化するタスクは、今の瞬間にブレーキをかけるだろう。
  心を空っぽにして、静かにしていること・・・。

     

   読んでみました
PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会編
            『PTSDの日本兵の家族の思いと願い』(あけび書房 2023)

  929日付の毎日新聞夕刊に<阿倍氏国葬1年佐高信さんと検証>という記事が載り、本文の中にとても気になる次のような文章があった。

  「歴史的に軍隊は国民を守ってこなかった。『国感』の違いなんだよ」と佐高さんは言う。先の大戦で、旧満州では関東軍がすぐに撤退し、沖縄戦では日本軍にスパイとみなされて虐殺された住民もいる。そして、元防衛庁統合幕僚会議議長の栗栖弘臣民(故人)の著書『日本国防軍を創設せよ』からの一節をあげた。<今でも自衛隊は国民の生命、財産を守るものだと誤解している人が多い。(略)しかし国民の生命、身体、財産を守るのは警察の使命(警察法)であって、武装集団たる自衛隊の任務ではない>
  佐高さんは「著書にある通り、自衛隊は国民を守らない。でも国民はいざとなったら守ってもらえると思って軍備費増強に賛成する」とみる。それは、安倍氏や岸田文雄首相のような為政者の思い描く「国」と、私たち国民が描く「国」が異なるからだと説明する。
  「本当は描いている国の姿は違うのに、あたかも同じかのように為政者は勘違いさせるわけです。さらに批判を封じておかしいと思わせない。今考えると国葬は、そうした疑問つぶしの大きな曲がり角になったかもな」


  記事はその後国葬の是非や公私の問題、議員の世襲などについても述べているがここでは触れない。いずれにしても、世界的には軍隊が「国民」を守っていると自他ともに明確に認められる国はどこなのだろうか。どんな戦争でも一番の犠牲は一般庶民に違いない。
  本書の焦点となっているPTSD(心的外傷後ストレス障害)が注目され出したのは、ベトナム戦争から帰ったアメリカの帰還兵が心理的な障害を負い、社会復帰が困難となる例が多発した頃からだと記憶する。同様なことは、2022年に出版されたスヴェトラーナ・アレクシェーヴィチによる『亜鉛の少年たち』(岩波書店)にも載っている。ソ連崩壊に繋がるアフガニスタンの戦場に送り出された兵士とその家族を襲った心の傷の深さだ。(「亜鉛」とは開けられないよう亜鉛の棺に密封して遺族に届けられたことから。「ちょっと紹介を」で触れる)
 
  同様のことは日本でも深刻に起きていたに違いない。ただ、本書のように帰還兵の負ったトラウマをその家族からの視点によって記されたものはこれまで知らなかった。そのようなことはまるで無かったことのように、これまで日本では調査もされていないという。 
  本書をまとめた黒岩秋夫さんは、2018年にPTSDの復員兵と暮らしや家族を語り合う会を立ち上げ、4年後の2022年8月7日に「PTSDの日本兵の家族の思いと願い・証言集会」を武蔵村山市の小ホールで開催した。なぜそのような会を立ち上げ、また本書をまとめるようになったのか。  
  黒岩さんの父親は1912年(明治45年)生まれ、20歳の時に満洲で招集され2年後に除隊、7年間内地にいて41年に再び応招し、34歳で戻ってきてからは次第にしゃべらなくなり「最後は廃人のようになって」亡くなったという。そして類推だとしながらも、ベトナム、アフガン、イラクなどから帰還したアメリカ兵の2割から5割がPTSDになって治療が必要だったとすれば、830万人の復員日本兵の場合はどうだろうかと黒岩さんは言う。
  
  連日家族に暴力がふるわれる家庭でも、他所に聞かれないように逃げられず、「父親が人を殺したり自殺したり、アルコール中毒になったり、私の父親のように全く働けなくなったり、さまざまなことが300万人の家庭の中であっただろうということが、世の中にいまだに明らかになっていないのです」と。
  
  千葉県市川市にあった国立国府台陸軍病院には、戦争神経症と称されたPTSD兵士が戦時中も沢山いたという。しかしそれは隠されていた。新聞でも「ガダルカナル島の米兵のほとんどが神経衰弱だが、日本人兵士というのは天皇陛下の赤子で精神力抜群の侍で、戦争に行ったくらいで心を壊すような人間は一人もいない」と報じられていたし、社会でも「皇軍の兵士にあってはならない恥ずべき兵士像ということで、存在を隠」していた時代だった。
  その陸軍病院の最後の病院長は、「自分が書いた論文以外には世間に出して発表してはならない」と箝口令を強いたと言う(部下の証言)。
  また黒岩さんの活動を知った方から、75歳になっていまだに父親の暴力を忘れることができないという体験も寄せられているという。それによると、「お酒などのスイッチが入ると、とたんに家族に暴力をふるう。一番しわ寄せを受けたのは妻です。その次は子どもです」と。しかしその家庭内暴力は恥として周囲に話せずにいた。

  前述の集会は4部で構成され、、歴史的な意味をふまえて「証言集会」という名前にしたとのこと。
  第1部:黒岩さんを含む3名の体験
  第2部:一橋大学名誉教授で東京大空襲・資料センター館長の吉田裕先生から『兵士の心と身体からみたアジア・太平洋戦争』と題する講演
  第3部:自ら初めて世の中に明らかにするこの集会の歴史的な意味をメディアによって広く知らしめてほしいことから記者会見
  
第4部:家族の交流会
  
とくに第4部では「PTSDの兵士の父親を持ち、暴力をふるわれ、アルコール中毒になられ、はては自殺され、はては殺人鬼になった自分の父親を持った子どもたちが、関東はもとより、関西からも来られ」たという。

  本書は4章から次のように構成されている。
  第1章は証言集会の第1部での3名(黒井秋夫、吉沢智子、森倉三男)の証言。中村江里広島大学教授と北村毅大阪大学教授のコメント、中村平広島大学教授の手記。
  第2章は森倉さんの父・森倉可盛さんについてのご家族からのより掘り下げた証言の書き下ろし。
  第3、4章は黒岩さんの活動を知って軍医だった父親との経験を語り始めた方、野崎忠郎さんの『PTSDの日本兵と家族の交流館』手記集から2つの手記を掲載。

  本稿については、これらすべてを紹介するのはとても難しいうえに、何をどう選んでも・・・という印象を受けたので、やむなく一部だけを取り上げることにした。全117ページと大部ではないので、事実を事実として見ることの意味の一つとしてぜひ読まれることをお勧めしたい。もちろん図書館でも借りることが出来るはずだと思う。

  第1章「日本兵の家族の証言」の①、黒岩さんの証言
  5年前に亡くなった8歳年上の兄(長男)は、黒岩さん以上に父親を嫌っていて、「こんな男とは離婚しろ」と母に言っていたという。その「兄貴の思いを込めて、父親と一緒に今日のお話をさせていただきます」ということだった。
  黒岩さんの父親は軍曹として中国で12~20人ほどの部下を持って指揮していた。20歳で招集されたその翌年に次のように書き残している。
  「昭和維新の第一日であらねばならぬ。南嶺城頭の血庫に斃れたる勇士! それは同胞救生の先駆、昭和維新史をかざる導士でなければならぬ」(写真あり)。
  黒岩さんは述懐する。
  「黒岩慶次郎が生きた時代に日本が戦争さえ起こさなければ、どういう父親がいただろうか」
  「この父親が人間を捨てて抜け殻のようになって、孫に対して無反応になってしまい76年の人生を終えた。どうしてこうなったのか。誰の責任なのか」
  「父親のことを知らないで、あの世に行きたくないのです。戦争を起した責任者は全く謝罪もしない。でも天皇の赤子、子どもとして死ねといわれていた人たちが、これほどまでに自分の精神を崩してまで生き抜いて抜け殻のようになって、あの世に行ったのです」
  「本当にこのことを日本国民に知らせていただきたい。そうすれば今はまだ気づいていない人や声を出せない人たちに。『俺の親父と同じだ』と思う人も現れるように」

  証言②、中村平さん
  中村さんは当事者でもありまた研究者でもあり、トラウマを抱えた祖父との関係を語る。そこでは復員兵とともに生きてきた家族の生きづらさ、それを語るには父親からの暴力の恐れという呪縛があること、しかし語らなければそこから逃れられないこと、語れば親族に負の影響を与えてしまうのではないかと言う恐れを率直に話している。
  中村さんの祖父は中国戦線で足を負傷し、前述の国府台陸軍病院に送られる。中村さんは何度か関係機関に照会を試みるがカルテはみつからない。そうかといってPTSDやトラウマと無縁であった証拠もなく、「むしろそうであったことを裏付ける、多くの出来事の痕跡が」あるという。
  父から聞いたそれは、戦後祖父は、「足の怪我の治療もしながら、日本社会に対して怒りのような感情を抱き、『人を殺してきたんだぞ』という憎悪にも似た言葉を放ち、自家用車に刃渡り40センチになる小刀を忍ばせて」いると同時に、「祖父は、平和は大事だということも」言っていた。また時として「子どもたちに在郷軍人会による賞状を読ませ、子どもたちは嫌がって逃げ」たという。そして1983年には、戦友会で中国に「慰霊」の旅に行っている。
  そしてこう結ぶ。
  「戦争へと駆り出され、自ら暴力を行使し暴力にさらされた一世、私の祖父たちの苦しみが日本社会のみならず世界に理解されることを望みます。またその掘り起こしをしっかり行って、戦争の歴史のリアルな理解と、真の意味での中国人等の被害者との和解の作業を、今後も行っていく必要があると思います」

  証言③の森倉三男さんは略

  第2章、「森倉可盛の復員後を振り返る」では、「戦後に持ち越された陸軍兵士の心 ありふれた一事例の報告」として概要が語られる。キーワードは「こころに戦争の芯ができる」「戦争ボケ」「アルコール中毒」となっており、また「招集から除隊までの移動概要」「戦線後退と可盛移動地」が戦後入植した北海道下川町の地図ともども示されている。
  さらに特徴とされるのは、「壊れた心を追撃する戦後社会」として「前線勤務」「手のひら返しの社会」「自我統制が困難な状態から支援者がいない、理解者がいない」「精神医学の隠蔽」「生活苦・貧困」そして「アルコール使用障害」までが図解されていること。
  また実弟の栄一さんは「兵隊に何年も行ったら誰でもそうなります」、次男の次郎さんは「私と父と戦争と家族 やっぱり戦争はいけない」、三男の三男さんは「戦争は人を変える‥森倉可盛の戦後生活に映し出された戦争」として記している。
  実弟の栄一さん。
  栄一さんには兵隊の経験があり、予科練に昭和18年4月1日から2年半入営していた時のことを次のように述べている。
  「はたかれて(殴られて)歯が全部折れて食事がとれなくなってしまいました。ひどい目に遭いました。死ぬかと思いました。昭和20年の小樽空襲に遭いました、飛行機がすれすれに飛んできました。小樽には特攻隊もありました。今思えば私たちは弾除けにされたのだと思います」
  次男の次郎さん。
  今だから書ける話として、電気も水道もない一度目の入植地(※戦後北海道に入植した)、父は「ここが痛い、あそこが痛い」と、「消毒さえきちんとしていれば問題ない」と言って家族に注射をさせていたという。
  そして、昭和18年9月以降、日本軍が敗走に次ぐ敗走を重ねたことは父の任地の移動の激しさからもそれはよくわかるとして次のように綴る。
  「よく父は戦闘について『話にならなかった』といっていました。物量に勝る敵に対して、飛行機を整備して戦友を乗せる=死ぬことがわかっていてもです。こちらは数機しか飛ばせないのに、敵機はその何倍もやってくる。撃ち合うというよりは友軍機が上昇しても下降しても敵機に追われて撃ち落とされたり、自ら海に突っ込んだりして亡くなった光景を目の当たりにしたと語っていました」
  三男の三男さん。
  復員者対策を併せもつモサンル(※入植地名)開拓事業は、作物がとれる土地、技術や設備、運転資金と生産物販路が極度に欠けていることが見込まれながら進められたものだった。その厳しさのなかで、
  「社会の流れから取り残され、出口の見えない極貧生活の中で可盛が自分を防衛するために採用したのは、アルコールで武装しながら軍隊で身に着けた威圧的で怒りっぽい態度を復活させ、兵士の体験をいって聞かせることでした。それによって可盛は生死を賭けて過ごした南方の戦場を再現させました。その誰も振り向かなくなった戦争の体験は、可盛にとっては大切な存在の根拠でした」
  ここに引用したのはほんの一部だけであって、より以上に悲惨な有様が記されていることを付記しておきたい。

  第3章「私が背負った昭和の業」、第4章「昭和への挽歌」はいずれも軍医という父を持つ野崎忠郎さんによる手記。
  野崎さんの父とほぼ同年齢の柄沢十三夫さんという軍医がいた。日中戦争勃発後軍医学校からまっすぐ731部隊に配属、ソ連軍の捕虜となってシベリアに送られ1956年の日ソ共同宣言に伴って恩赦で釈放されることになったが、明日にも帰国命令が出されると思われていた夜自殺したという。
  一方、野崎さんの父(以下:彼)はまず国内の陸軍病院に配属される。日中戦争が起きると中国戦線に出征、そして「たぶん38年か39年初め頃、731部隊に配備された」。野崎さんは、「父も柄沢と同じように細菌戦要員として養成された軍医だったと思っている」と言い、「父と柄沢は、細菌培養や人体実験をしている部隊の建物と同じ敷地にある、東郷村と呼ばれていた隊員宿舎に隣組同士として住んだ。私はその東郷村で、40年1月に生まれた」という。
  しかし、彼は柄沢とは違って最後まで731にいず、43年暮頃(推測)に南方戦線に配置転換された。731にいればほぼ死は免れるが南方では敗北に敗北を重ね、「家族を内地に帰して南方に向かった父は、その時死を覚悟していたかもしれない」と。
  だが彼は死なず、北に向かって敗走する中で本土決戦要員に指名される。その結果、硫黄島も沖縄も跳び越して九州に配備される。つまり今度は軍の人事が彼を死の淵から遠ざけ、「そして無条件降伏によって本土決戦が避けられた後、父は私達のもとに復員したのだった」。
  長野県下の山村で開業医として戦後の生活を始めた彼には、「敗戦によってうちのめされた翳など全く見当たらなかった」という。村の有力者と酒盛りで彼は「日中戦争やジャングルでの戦闘を語る時と全く同じ調子で731でやったことを大きな声で話していた」が、ある時期からまったくその話をしなくなった。野崎さんはGHQによって口止めをされたのではないかと推測している。そして、帝銀事件とも関係があるのではないかとも。
  そのころまだ小学校1、2年生だった野崎さんは、襖を隔てて細菌培養、人体実験、飛行機からの細菌爆弾の投下を語る彼の話をすべて鮮明に記憶しているという。それは、「幼い心にも、それがあまりにも異常な話だったと思えたからだったろう」。
  長野県下の別の農村に移り住んで村の診療所長として大型のオートバイで往診に回っていた彼は、あるとき村にいられなくなるような不祥事を起こしてしまう。結果、夜逃げ同然に辺郡な寒村に引っ越したという。
それ以後の数年は次のようだったと言う。
  「父は心の中で何かが壊れたように、家族や仕事をかえりみないまま酒と薬物の中に沈んでいった。病者を癒し、病気の蔓延を防ぐことを使命とする医師の身でありながら、逆に大量培養した病原菌をばら撒いて病者や死者を出し、さらには罪のない人間を捕まえてきて人体実験をするという背徳の中で生きてきた父の倫理の荒廃が、あの頃、心の奥深くにまで達したのかもしれなかった」
  そして数年後のある夜、彼は自殺した。
  野崎さんは第3章の最後にこう語る。
  「父は最期まで、731を含めた自分の戦争体験を考え直すことをしなかった。お国のために人を殺し、お国のために何度も死を覚悟した体験が、父の精神を縛り続けていた。父はその体験と戦後社会との乖離のために道を見失って一度は地底にまで引き降ろされかかり、辛うじてその危機から生還した後も、731を含めた戦争体験から脱却することができないまま自ら命を捨てた。
  それもまた昭和史の中に無数にあった悲劇の一駒であったと父の生涯を歴史の中に突き放すことで、私はようやく私の人生をも強く呪縛していた『昭和の業』から解き放たれたのだった」

  第4章は「昭和への挽歌」として「父の原像」「傷痍軍人」「従軍慰安婦」「結語」が語られる。それぞれ重いが一つだけ。
  野崎さんが1970年頃、都立松沢病院に勤務する医師から聞いた話。戦争で頭に大怪我をして脳に傷がついた人たちがまとまって入院している病棟がある。その病棟では気圧が変化する時期、いわゆる木の芽時になると荒れだすという。で、そういう時に医者が行って軍歌を唄うと収まるという。
  その時は「医者と精神病者が肩を組んで≪貴様と俺とは同期の桜≫って唄うのか、おかしいな」思っただけだったが、その後あの時の医師の言葉の持つ意味が変わっていったという。それは、
  「医師や看護者は、荒れる病者を鎮めるために様々な試みをしただろう。(略)医師にとってそれもまたその場しのぎの一策だったとしても、病者にとってはその時医師が治療者としての上からの目線を捨て、病者と同じ目線に立って自分達の苦しみや悲しみ、湧き上がってくる戦場での恐怖や絶望を共有してくれたと感じたのではなかったか。その時、病棟は戦友会の場になった。(略)いっさいの医療行為が無効だと知った時、医師はその先に、人間として悲しみや絶望を共有するという境地を見出した。たとえそれもまた一時的な効果しか持たないことだとしても、それこそが、そしてそれだけが、心と体を病んだ病者にとっての唯一の治療法だということを、医師は私に教えてくれたのかもしれない」
  「私たちが昭和の中へ置き捨ててきた負の遺産は、限りなく大きく、重い」ということだ。

  繰り返しますが、今回紹介できたのは氷山の一角よりもなおわずかな部分に過ぎないことを申し添えます。(雅)

文化を散歩してみよう
                              第11回:韓国文化に触れて(2)
  はじめから言い訳で恐縮ですが、この欄でエピソードを取り上げているうちにいろいろ思い出してしまい、話題があちこち飛んでとりとめのない印象になりました。ご了承ください。

  2)ペンパルのお宅で
  ソウルではペンパルのお宅に滞在させていただきました。今では考えられませんが、当時は迷惑かどうかなどは全く考えもしませんでした。
  ソウルに着いた当日、案内書に載っていた『バンドーホテル(半島ホテル)』のコーヒーショップで友人と一緒にやってきたペンパルと待ち合わせました。どうやって場所と時間を連絡したのか今ではすっかり忘れてしまっています。ともかくタクシーでお宅に向ったのですが、その時の市内の高速道路は今は取り払われていて(9月号)、清渓川という昔の川筋に流れを復活させ、ススキがあったりトンボが飛んでいたりの散歩道になっています。
  タクシーで思い出したのが、何年も後になりますが前に述べた同僚と訪韓した時のこと。私は車のことはさっぱりですが、その時のソウルのタクシー(普通の)はみんな同じ形に見えました。現代自動車製のポニーとかいう車種だったようで、エンジンは三菱のものをモデルにしていると聞きました。ただタイヤが見た目にも減っているのにけっこうスピードを出したりしていたので、同僚と一緒に「大丈夫か?」と話したことを思い出します。今となってはそんな時代もあったのだなあという感じですが。

  Nam(南、以下漢字で表示しますが読み方は“Nam”です)さんというペンパル(以下:彼女、)のお宅はソウルも東寄りの清涼里というところにありました。どこで高速道路を下りたのか覚えていないのですが、おそらく清涼里駅から続く広い道だったと思います。もしソウル駅が東京駅にあたるとすれば、清涼里駅は上野駅に符合するような感じで、たたずまいもそんな雰囲気を受けました。後に大きなロータリーに変貌する駅前はまだ未舗装で大きく開かれ、彼女のお宅の近くまでそこから広い道が続いています。あまり自動車も通らず、どちらかというとのんびりした感じでした。なぜそんなことを覚えているかというと、私の街にも環状7号線が開通する以前に雰囲気がよく似たところがあったからです。
  私の街には、かつて軍用道路のために整備された広い道が常磐線の北側まできていて、長い間そのままになっていました。そこは線路で行き止まりになっていますから車もめったに入ってこないので、未舗装でただのだだっ広い場所だったという印象しか残ってはいません。昭和40年代の中頃、常磐線が高架になると環状7号線の工事も進み、街並みはすっかり様変わりしてしまい、今では四六時中車の絶えることがなくなっています。
  で、清涼里から彼女の家までの道の様子がちょうどそんな感じだったというわけです。

  彼女のお宅は2階建ての縦割り住宅でした。日本で縦割り住宅といえば一般的に2世帯らしいのですが、そうではなく、何軒もが一続きになっているようでした。ただその建物はおそらく日本が統治していた時代のものではなかったかと思われます。なぜなら、滞在中に使わせてもらった2階の部屋が畳敷きだったからです。戦後に建てられたものなら畳敷きなどあり得ませんから。
  彼女の下には二人の弟と一人の妹。お母さんは多分当時40代ではなかったでしょうか、日本語は聞くのは多分OKですが話す方は少し苦手にみえました。お父さんとはもう普通に日本語で話しました。彼女や弟(高校生)との会話は片言の英語や、こちらの怪しげな発音の韓国語単語を断片的に並べただけです。もちろん私はまだハングルを読むのもたどたどしくて、国民学校(日本では小学校)2年のもう一人の弟にも及びません。そこで、外に出たときにはできるだけ看板を読むようにしたりの訓練です。ただ、高校生の弟がとても察しが良くて、「Iさんが言うのはこういう意味だ」と回りに説明してくれたりしましたので、実に助かりました。

  私は高校生の頃からテープレコーダー(もちろんオープンリール)で、親戚の集りや近所の人が家にお茶を飲みに来たときなどの会話を面白がって録音をしていた時期がありました。また受験生時代にそれで英語を勉強したこともあり、その時に小型のレコーダーをプレゼントに持っていって、ついでに彼女に練習帳にあった韓国語会話を吹き込んでもらったりしました。
  2000年を過ぎてから、かつて録音したテープには貴重な故人(祖父や祖母、叔父叔母、父母、近所の人など)の声などが入っていますので、それをCDにコピーし直そうと考え、ためしに一部を業者に委託してみたことがあります。業者からの回答は、テープ自体が古くなってブツブツ切れてしまうので到底出来ませんということで、がっかりしました。

  もうひとつ凝っていたのが「スライド」と「8ミリ」です。「8ミリ」は別として、スライドでは汽車や電車、近所の雪景色、花、神社の神輿などなど、自分では「けっこうセンスある」と思いながら撮っていました。
  余計なことですが、第2回で触れたカリフォルニアでの派米農業実習生に応募し、合格を目指して力んで農業の勉強を始めたきっかけは、先輩の帰国報告会で見たスライドの雄大なアメリカの景観でした。それほど強烈なインパクトがあって、やる気が俄然高まったものです。もっとも、5万円(当時)の保証金で1年間アメリカ生活を経験出来るというのも大きな魅力だったので、なおさらですが・・・。
  で、スライド映写機まで持って行って、これまで自分で撮り溜めたスライドを見せたりしました。
  私:Do you want to go to Japan?
  彼女:ネー(韓国語で「はい」) 多分社交辞令でしょうけれど。

  ちょっとエピソードです。
  100円から文通が始まり、韓国語(のはずの)手紙を彼女の友だちが真っ赤に添削してくれたことは第3回で述べました。今とは違い大学書林の『朝鮮語入門』くらいしかほとんど教材もない時代で、それも「韓国」語ではなく「朝鮮」語です。それで例の在日の同級生が私が韓国へ行く前に、『イムジン河』(北朝鮮の楽曲、当時日本でも流行っていた)をとりあげて、「Iさん、この歌ソウルの町の真ん中で歌ってごらん、捕まるよ」と言ったりしたついでに、「『朝鮮語』勉強してる?」と聞いたので、「NoNo、『韓国語、韓国語!』」と言ったら、「その調子、その調子!」と苦笑いしたものです。
  とはいえ、教科書だけでは、文章の仕組みはなんとかわかっても、口の開け方の図を見てそのようにやってみたところで、あたりまえですが発音が正しいかどうかはまったくわかりません。テープなどの教材や韓国語教室もほとんどないころです。それでも、どこでどう探したのか覚えていませんが、お茶の水にある韓国YMCAで韓国語を教えているのを知り1年ほど通いました。先生は東大大学院への留学生で、国民学校1年生の教科書を使って「カナタラ」(あいうえおに相当)から始め、まがりなりにもなんとか慣れていきました。
  そのあと、縁あって日暮里にある韓国協会の牧師さんから日本に保育の研修に来ている方たちを紹介してもらったところ、なんと私の学科の留学生がその人たちと知りあいだったということもあり、けっこうグループで時間を過ごしたりしたものです。で、あるとき2週間韓国に行ってきたら、「Iさん急に韓国語うまくなったね」と言われて少しはうれしく、また「やっぱり言葉は中に入るのが一番だな」と思ったり。

  もとの話しに戻ります。
  はじめての韓国訪問にスライド映写機やテープレコーダー、もちろんカメラも、それもあちこち回り道してよくもまあ持っていったと今となっては思います。
  お土産にしたのはテープレコーダーのほかに、洋酒(あの頃はとにかくジョニ黒)とタバコ(多分マイルドセブン)です。洋酒は容量にリミットがあったり、日本製タバコは禁止だったと後で知りました。でも、なぜか税関では何ごともなく、またお父さんは知ってか知らずかお構いなしで、タバコを近所に配ったりしていたようです。
  で、こちらへのお土産はというと、一族の長老らしい方から青磁の花瓶、パジチョゴリ・チマチョゴリ、螺鈿の飯台でした。青磁の花瓶は残念ながら割れてしまい、パジチョゴリ・チマチョゴリはボロボロになってしまいましたが、螺鈿の膳はいまでも別の目的に使っています。いずれ食事の話題が出たらまた触れようと思います。

  実は、ペンパル時代に日本人形を彼女に航空便で送ったことがありますが、当時は(今はわかりませんが)日本文化を彷彿させるようなものに対する規制があって返送されてしまいました。そんなこともあって土産ものには少し神経を使いました。
  そんな時代ですから、もちろん日本の歌謡曲などはもっての外だったはずです。ですが、先ほど述べた練習のために吹き込んでもらうついでに、興味に任せて会話や私の親へのメッセージを録音したりしていたら、彼女は西田佐知子の「アカシヤの雨がやむとき」を唱ってくれました。私はそういう歌謡曲などは疎いのですが「えー!」と思いました。そんな疎さの証明みたいなものですが、それからほぼ20年後、7月号で触れた通訳をしている女性が「恋人よ」を唱ったのを聞いた時も、歌手が誰かも知らなかったし、おまけに名前も「ごりん」と読んだくらいで、まったく・・・。もっともカラオケが入るようになるとそこでは日本の歌謡曲もあって、細川たかしの「北酒場」などもありましたけど・・・。
  いずれにしてもいろいろ規制したところで隙間はどこかにあるようです。
  ※韓国ではカラオケ店をノレバンと言います。ノレは「うた」、バンは房の漢字読みで部屋のこと。喫茶店はタバン(茶房)と言います。ついでですが、韓国語では漢字の読み方は原則ひとつですが、「茶」は珍しく読み方に「タ」と「チャ」のふたつがあります。

  ところで、日本にも東・西・南・北という一字姓があります。そのため“Nam”さんは悪名高い創氏改名政策でも改名せずに済み、日本人からは「みなみさん。みなみさん」と呼ばれてとても親しくされていたそうです。それどころか、お父さんが日本のことを「内地では・・・」と言われたのにはちょっとびっくりしました。(韓国の姓名については別に取り上げたいのですが、以前先生の著書を韓国語に翻訳された南さんはルーツを同じくする一族です)
  で、お父さんと日本語で話をしているのが聞こえた近所の人から、南さんの家には日本人が来ているのか、それとも在日韓国人が来ているのかと訊かれたりしたそうです。そして、お母さんのお姉さんや旦那さん、つまりおじさんやおばさん、従姉妹たち(金ヌナ(第7回)やその弟たち)を始め、親戚の人たちがとっかえひっかえ尋ねてきた(見に来た?)り、賑やかでとても楽しい経験でした。

  そんなこんなで、毎年夏になると夏休みを利用して訪韓することが続きました。とくに記憶に残るのは、815日、南さん宅でテレビを見ながら「今年もまた815日は韓国だった」という年がけっこうあったことです。そして暑い夏のこと、あっちで昼寝こっちで昼寝、私もラフな格好で・・・。それがまったく不自然ではありませんでした。
  ただ朝晩、というより朝はけっこう湿度が低いためか清々しく、朝鮮という名前が「朝の鮮やかな国」を意味すると自負しているのももっともだと思いました。(※李成桂が建国した朝鮮の国名については歴史的な話があり、この欄のテーマではないので触れません)
  このような、遠慮というものをすっかりどこかに置いてきたようなおつきあいが、私の韓国の印象のベースになっています。ただ、その後いろいろな人と知り合っていきましたので、どこの国でもさまざまなのは同じだな、と思うようになりましたが。(つづく)(M.I.)
                
    ちょっと紹介を!
 

スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ著、奈倉有里訳
『亜鉛の少年たち』岩波書店 2022

  著者は2015年にノーベル文学賞を受賞、日本語に訳されたものには『戦争は女の顔をしていない』などがある。今回の「読んでみました」で日本兵のPTSDを取り上げたので、ここで本書の中から帰還した兵の語ったものだけを紹介する。また、カバーの内側に本書の主旨と内容が簡潔かつ明瞭に記されているので、本書の概要はそれにのみに依ることにした。

  「『国際友好の義務を果たす』という政府の方針でアフガニスタンへ送り出されたソ連の若者たち。やがて彼らは一人、また一人と、亜鉛の棺に納められ、人知れず家族のもとへ帰ってきた。あるいは生きて戻った者も、癒しがたい傷を負い、鉛のような心を抱え苦しんでいた……。作家がみずから体験し、聴き取り、書き留めた、同時代の戦争の記録。棺とともに封印され葬られた真実が、帰還兵、現地の兵士、事務員、看護師、戦没者の母親や妻たちの肉声を通じて明かされる。新版では、本作の内容をめぐって作家自身が証言者の一部から告発された裁判の顛末など大幅に加筆、旧版の約二倍の増補となる。新訳」

  本書には以下のような叫びが記されている。

  「俺たちは『アフガン帰り』と呼ばれてる。そらぞらしい呼びかただ。レッテル貼りだよ。烙印みたいなもんだ。俺たちが人とは違う、別の人間だっていう。どう違うんだ?自分がどういう人間なのか、俺にはわからない。英雄なのか、後ろ指を指されるような馬鹿なのか。あるいは犯罪者なのか。(略)
  アフガンの友情なんて話だけは書かないでくれ。そんなものは存在しない。俺は信じない。確かに戦場では俺たちは団結していた――誰もが同じように騙され、同じように生き延びたくて、同じように家に帰りたがってたからだ。ここで俺たちをつないでいるのは、誰もなにも持っていないということだ――この国では富はコネと特権のある連中が山分けしてる。でも俺たちは血を流したぶんを補われなきゃならないはずだ。みんなが同じ問題を抱えてる――年金問題、住居問題、まともな医薬品、義足、家具……。それさえ解決したら、俺たちの団結なんて途端に崩れ去る」(p.39

  「俺たちを現地に送り込んだ奴らと現地にいた俺たちを一緒にしないでほしい。俺は戦友を亡くした……少佐のサーシャ・クラヴェツを……。あいつの母親に……奥さんに……子供たちに……あいつは悪いことをしたなんて言えねえだろ……。俺は、医者に『正常です』と言われた。正常なわけあるかよ?! これだけ多くのことを背負って……」(p.165

  「病院では両足のない負傷者はひとつの病室にまとめて収容された。俺のところは4……。それぞれのベッドの脇には2本ずつ木の義足が置かれ、一部屋に8本の木の足が並んだ……223日、ソ連軍の祝日に、小学校の先生が教え子の女の子たちに花を持たせて俺たちのところへ寄こした。お祝いのために。その子たちは病室に立ちすくんで泣いていた。それから2日間、誰も食べ物を口にしようとしなかった。ただ黙っていた。
  ある負傷者の親戚で、ケーキを持って見舞いにきた奴がいたが、
  『すべては無駄だったんですよ、みなさん。無駄だった。でも大丈夫、退役年金がもらえるでしょうし、日がなテレビでも見て暮らしましょう』なんて言うもんだから、『帰れ!』と、四人して松葉杖を投げつけた。
  一人、あとになってトイレで首を吊ろうとして助け出された奴もいた……。首にシーツを巻きつけて、窓の取手に吊るそうとして……。恋人からもらった手紙に、「「アフガン帰り」なんてもう流行らないんだって」と書かれていたんだ。あいつだって足を二本とも失くしたのに……。
  墓にプレートを掲げて、その石に『すべては無駄だった』と刻んでくれ。死んだ奴らにもそう教えてやればいい……」(p.241)。

  「確かに、俺たちは現地でのおこないを裁かれなきゃならないんだろう。でも俺たちを現地に送り込んだ奴ら、祖国の名を用いて、宣誓を守って任務をこなせと強要した奴らもー緒にだ。1945年にファシズムが世界から裁きを受けたのと同じ罪で……」(p.389
  (文責:編集部)
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