*智慧と直結するラベリング
ラベリングにはさまざまな機能があり、「気づき」が持続するのも、認識の正確さが増すのも、一瞬の経験に対して心理的な距離が取れるのも、メタ認知や自己客観視が可能になるのもラベリングのおかげだと言ってよい。
瞑想の智慧が発現してくるプロセスとは、「気づき→観察→洞察」とサティの瞑想が深まっていく一連の流れのことだが、その重要な進行役を担っているのもラベリングである。「見た」「聞いた」「感じた」「考えた」とサティを入れた次の瞬間、意識が何にフォーカスされていくか。無意識に次の知覚対象が選ばれているようだが、ラベリングの言葉の影響を大きく受けているのである。
例えば、電線から鳩が飛び立つのが目に入ったとする。次の瞬間、鳩にまつわる連想や、電線の連想からムクドリやスズメが浮かぶのはごく自然な展開である。
このとき「見た」とラベリングすると、心のドミノは鳩や電線に向かって倒れず、「自分は見たのだ」という印象が強化される。これは「見た」という言葉が、視覚的な経験をした事実に意識をフォーカスした結果である。
あるいは、「見た」の言葉に反応し、さっき輪ゴムが床に落ちているの見たのを思い出す人がいてもおかしくはない。一瞬にして脳内では、視覚体験にまつわる出来事の検索に意識がフォーカスしたからだろう。
さらに、「見た」とラベリングした瞬間、ただ視覚が情報処理をしただけに過ぎないと確認しながら中心対象に戻っていく瞑想者もいる。
このように、意識が絞り込まれる方向はさまざまだが、心が次に経験すべき事象はラベリングの言葉によって大きく左右されていく。自分のラベリングの影響を、自分自身が最も強く受けていると言ってもよい。
*煮豆を落とした
ラベリングが浮かぶ一瞬には、その人の知性や人生の来歴全体が関わっているので、どんなラベリングがなされるかで瞑想者の内面が深堀りされてもいくだろう。
例えば、食事の瞑想で煮豆を食卓に落とした瞬間、「失敗」とラベリングした人がいる。面接で「落とした」のラベリングのほうが自然なのに、なぜ「失敗」とラベリングしたのか訊いてみた。すると厳格な家で育ち、立居振舞や箸の上げ下ろしなど非常に厳しく躾けられてきた背景が浮かび上がってきた。外面的なことを気にしたり、完全主義で苦しんできた由来が垣間見えてきたのである。
煮豆を落とした瞬間、失敗した事実よりも失敗を嫌悪する心が強かったら「嫌悪」とラベリングしただろう。上手くやれなかった自分に対する嫌悪よりも、完全主義で苦しんできたことに対する「怒り」のラベリングもあり得ただろう。失敗を恥じる心が優勢だったら「羞恥心」「人の目を気にしている」「見栄」などとラベリングしたかもしれない。
いずれにしても、言葉の力を使わなければ漠然とした心の状態を明確化しながら観察を深めていくことは至難の業となる。その言葉の力とは、言語の特性なかでも「分析」と「抽象」がラベリングとしての中心的な役割りを果たしている。そこでまず、言語を持たないが賢くて知能の高い動物と比較することによって、「分析」と「抽象」について考えてみたい。
*タイの象画伯
霊長類をはじめイルカや豚やミヤマオウムの知能は非常に高く、最も頭のよい犬とされるボーダーコリーは異なる玩具の名前を1022個も記憶する学習能力や優れた問題解決能力を持っている。象も非常に知能が高く、鏡を見て自分であることを理解する鏡像自己認知テストにも成功している。象が鏡を見ながら口の中を点検している記録映像を見て「へえ」と感心したことがあるが、それ以上に驚いたのは、象の空間認識能力と視覚処理能力の高さである。タイには素晴らしい絵を描く何頭もの象画伯がいて作品を購入することもできるのだが、ほとんどが売約済みのようだ。
上記の写真のように、象は器用に絵筆をふるい観光客の前で絵の製作過程を披露したりもする。骨や関節がない象の鼻は約10万にも及ぶ筋肉と腱から成っており、巨大な丸太だけではなく地面に落ちた1本のつま楊枝を拾い上げることもできるほど柔軟に動かすことができるのだ。
下の写真の花の絵には、象のやさしさが構図にも色彩にもあふれているように思われる。白く中和されたピンクの花、繊細に描かれた山道、山肌の緑が黄緑色の叢につながり明るい黄色に輝いている。驚くべき画伯たちの絵は、象の色や形に対する視覚能力が人間と変わらないことを示唆している。
象の優れた認知能力は、分析力や抽象能力もふくめ、こうした視覚能力に基づく映像思考によって司られていると考えてよいだろう。
イメージを中心とした思考システムがすべての動物に普遍的なのは、駅舎やどこにでもいる鳩が数千の視覚パターンを認識し、記憶し、区別できることからも納得できる。鳩の高次視覚概念研究は数多く行われ、図形、パターン、個体、食物、絵画などの認識能力が示されていて、例えば、ピカソとモネの絵を識別する訓練を受けた鳩は、初めて見る両者の絵でも見分けることができるのだ。ピカソとモネの特徴を分析し、映像思考で抽象化した結果とも言える。
*カラスもササゴイも考える
ササゴイの擬似餌漁(ルアーフィッシング)は、言葉を持たない動物でも分析力や抽象能力を立派に活用している証左だろう。熊本県の水前寺公園で、人が魚にパンやポップコーンを投げ与えるのを観察していたササゴイが独自のルアーフィッシングを編み出して人気となり、多くの観光客がやってくるようになった。
ササゴイがパンのかけらなどを拾って水面に浮かべ、魚をおびき寄せては一瞬にして捕食する背景には、「観察」「分析」「抽象化」「一般化」など高度な認知的処理能力が認められる。ササゴイは人間の行動と魚の反応との因果関係を分析し、その本質を独自の狩猟行動に応用しているのだ。
岐阜や福島のササゴイは葉っぱや羽毛や小枝を撒き餌に使っているし、クチバシで水面を突いて波紋を作り出しては魚をおびき寄せるササゴイもいる。この波紋漁法は、水面に落ちた葉っぱや昆虫が作る波紋に誘われた魚を観察して編み出されたと推測されている。つまり魚の餌の概念を一般化して自然物の小枝や葉に拡張され、さらに波紋にまで抽象化と概念形成能力が及んだことを示唆している。
ササゴイよりも頭がよいとされるカラスは鏡像自己認知にもマシュマロ・テストにも合格するし、道路に硬いクルミを置いて走行車に割らせて中身を食べることもできる。クルミと路面とタイヤとの因果関係を理解し、車の走行頻度や速度を視覚情報から判断し、最も効率的な位置にクルミを設置することができるのだ。
情況を把握し、分析し、推論し、問題を解決するカラスの能力は動物たちのなかでもトップクラスだが、こうした高度な抽象能力や分析力も、人間と比べれば雲泥の差があり、足元にも及ばないことは言うまでもない。その決定的な違いは、人類が進化させた言語能力に由来する。ものごとを概念化し、どんな対象も記号化して自在に操作できる言語の特性は、動物たちの映像思考による分析力や抽象能力を異次元のレベルにまで飛躍させたのである。
*言語の奇跡
視覚的情報や身体感覚の体験に基づく動物たちの映像思考は、イメージの個別性に制約され縛られるので、シンボル操作は限定的にならざるを得なかった。しかるに約7万年前に言語能力を得た人類は、記号として言葉を使い、あらゆるものに無制限に名辞できるようになったのである。
今まで個別のイメージで認識していたものに「山」と名づけ、「太陽」「月」と名づけ、「手」「頭」「闇」「稲妻」・・・と、どんなものにも名前を付けてシンボル操作ができるようになったのだ。その結果、凄まじい抽象化の進化が起きたことは言うまでもない。
それまで視覚や聴覚、嗅覚、触覚などによって直接とらえていた対象が概念として頭のなかで再編され始めたのだ。例えば、「雨」「川」「滝」「滴」など個別のイメージが【水】という一つの言葉に集約されることで、異なったものに共通する概念が抽象されて自在にシンボル操作ができるようになったのである。人類史上最も激烈な認知的革命が始まったといえるだろう。
映像思考では、「魚」は秋刀魚やホオジロザメやチョウチンアンコウなど特定のイメージが付随してしまうが、言語思考では、メダカから巨大なジンベエザメまで魚類全般を普遍的に示すことができる。さらに「動物」や「生物」といった上位概念のカテゴリー化が可能となり、漠然としていた世界が構造化されて認識できるようになったのである。
*名前の衝撃・・
冷たい井戸水を手に受けたヘレン・ケラーが、「water(ウォーター)」が「水」を意味することを知った瞬間、あらゆるものに名前があることに衝撃を受け、帰り道で一気に30もの単語を覚えたという。手に触れたどんなものにも名前があり、その意味を知り、言葉という記号を使って自在に表現し、伝え合うことができる認知世界に分け入ったのである。ヘレンの人生にとって、最大の革命的な瞬間だっただろう。どんな物にも、感情にも、状態にも、関係にも、名前があり、意味を知り、理解することができ、大切な人たちとコミュニケーションできることを知った感動である。
ヘレンとは逆に、7万年前に言葉を得た人類は、ありとあらゆるものを次々と無制限に名辞できる感動に打ち震えただろう。ピンポイントで対象を指示し、狩りの現場でも日常生活でも、互いの意志を正確に伝達し合うことができるようになったのだ。のみならず、目の前の物や現象を正確に、詳細に理解し、分類する能力が飛躍的に向上し、その結果、記憶する能力も、記憶世界を整理し、構造化して認識世界を構築できることにも、欣喜雀躍したと思われる。
ヘレン・ケラーはあらゆるものに名前があることに感動し、7万年前の人類はあらゆるものに名前が付けられることに感動したのである。
*マージ(併合)
それだけではない。言語の最大の特性の一つは、複数のシンボルを結びつける「マージ(併合)」という機能である。例えば、「白い」と「犬」を組み合わせて「白い犬」と表現することができる。単語を自由にマージ(併合)しながら複雑な概念を果てしなく生成し、感情や時間、因果関係、法則性など、高度な抽象概念が操作できるようになったのである。
例えば、「うっかりミスに対する執拗な自己嫌悪はプライドに由来していた」という心理状態は、マージがなければ「うっかり」「ミス」「執拗な」「自己嫌悪」「プライド」「由来」と情報が断片化され、全体の概念が把握できなくなるだろう。しかるに、マージの併合する力によって相互関係や因果の流れまで分析して正確に表現することができるのだ。
動物たちの分析力や抽象能力がいかに優れているかを見てきたが、どんなものにも名前が付けられる言葉の無限の生成力とマージの機能によって、人類の認知能力は異次元のレベルへと爆発的な進化をとげていったのである。
*一本の帯のように・・
かつて森林僧院に籠もって修行していたある日、計画どおり、ラベリング無しの歩く瞑想を開始した。集中力が高まり、「離れた」→「進んだ」→「触れた」→「圧」とセンセーションが常ならぬ鮮明さで感じられた。ところが、歩行感覚が4つの分節に区切れなくなったことに戸惑い、ショックを受けた。身体実感が、離れた進んだ触れた圧・・・、はなれたすすんだふれたあつ・・・と一本の帯のように、ただ滑らかに推移し、起伏しながら流れる水流のように変滅していくだけになってしまったのだ・・・。
言葉がなければ、区切ることができない!
このとき連想されたのは、脳卒中で左脳の言語野に深刻なダメージを受けた脳科学者ジル・ボルト・テイラーの述懐だった。
浴室でシャワーを浴びていたジルの脳卒中が進行するにつれ、彼女は文字が読めなくなり、しゃべろうとしても動物のうなるような声が洩れるだけになり、やがて壁や周囲のものと一体化する不思議な融合感覚を経験していった。
言語野が停止すると、言葉を失うと、ラベリングがないと・・・、対象と自分を明確に分別することができず、自我感覚が崩壊し、存在と自分が融け合い渾然一体となってしまうのだ。(「奇跡の脳」)
*仏教の分析論
ものごとを個々別々の要素や分節に区切ることができるのは、言語野が司る言葉の力に由来している。人類の分析力が他の追随を許さないレベルにまで爆発的に進化したのも、言語に固有の仕分ける力に端を発している。言葉がなければ世界はカオス状態となり、何がなんだかわからない「無明」のなかに逆戻りするだろう。
その混沌状態を構成因子や要素に仕分けて明確にしていく手順が原始仏教の分析論であり、智慧の技法でもある。得体の知れない無明の塊を分析し、要素に仕分け、その本質を抽象して真実の状態を洞察していく観察の瞑想である。気づき→観察→洞察・・・と智慧の瞑想を深めていくのに、ラベリングの力を使って分析や抽象化の方向へ視座を導いていくプロセスが不可欠となる。
言語には分析や抽象だけではなく、伝達性や共感性、再帰性、自己観照機能など、多くの特性がある。その言語の構造に深く根ざしているラベリングについてさらに考えていこう。(以下次号)
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