月刊サティ!

2023年9月号  Monthly sati!     September  2023

 今月の内容

 
  巻頭ダンマトーク:今月は休載いたします
   ダンマ写真
 
Web会だより ー私の瞑想体験- :『瞑想を続けていたら人生が好転した話』
  ダンマの言葉 :『四人の友(慈・悲・喜・捨)』・・・2
  今日のひと言 :選
   読んでみました :町田明広編 『幕末維新史への招待』(山川出版社 2023)
  文化を散歩してみよう :プライドそして人と人との間(6)
   ちょっと紹介を! :メルヴィン・モース、ポール・ペリー著
『臨死からの帰還――死後の世界を体験した400人の証言』(徳間書店 1993)

     

【お知らせ】

  ※近刊される地橋先生の新しい単行本が現在最終的な段階に入っておりますので巻頭ダンマトークは少しの間お休みさせていただきます。
 

           

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。

 
     

 今月のダンマ写真 ~
   
   
八王子にあるワット・バー・プッタランシー寺院
  N.N.さんより

    Web会だより ー私の瞑想体験-

『瞑想を続けていたら人生が好転した話』 永井 陽一朗

  私は発達障害(自閉スペクトラム症)です。20歳の時から強い被害妄想に襲われるようになりました。現実との区別はついていましたが、妄想の臨場感が強く、荒唐無稽な妄想であってもリアリティーが感じられるのでした。
  18歳で高校を卒業してからニートの期間と派遣の仕事の期間を繰り返していましたが、仕事は長続きしませんでした。妄想が強く、メンタルの調子は悪く、生活は不規則でした。
  20代前半の頃、元々、生き方や人生に関する哲学に興味があった私は仏教に興味を持ち、お寺に座禅を組みに行きました。週12カ月くらいの間通いましたが、怠けてしまって長続きしませんでした。
  仏教に関する書籍も読みましたが、学者の書いたものは難解で私には理解することが出来ませんでした。スマナサーラ長老の本も何冊か読みましたがこちらの理解力が及ばず、やはり分かったという感覚は生まれませんでした。
  ヴィパッサナー瞑想のやり方も本やDVDで学びましたが、当時は、少し試みただけで終わってしまいました。ただその後も、仏教について理解したいという思いは続き、それはまるで執着のような感じでしたが、そうかと言って勉強するわけでもなく、メンタルの調子は悪いままで妄想も強く、ニートと派遣の仕事とを繰り返していました。

  しかし、転機が訪れます。
  41歳の3月のある日、私はふと、「十二縁起、理解出来なくてもいいかあ」と、それまで抱えていた十二縁起を理解したいという執着を手放しました。そしてなんとなく十二縁起についてAmazonで検索してみると、『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門』という本を見つけました。
  レビューには十二縁起についての分かりやすい説明も書かれていて、「この本に書かれている十二縁起の解説なら理解出来る!」と思い、早速、購入し、読んでみたところ、書かれていることは7割くらいは理解することが出来ました。
  私は7割くらいの理解で満足でした。長年、理論的な理解を得たいと執着していましたが、その執着を手放したら、理論的な理解を得ることが出来たのです。禅の言葉に「放てば手に満てり」という言葉があるそうです。
  本を読んだ後、ゴエンカ氏の10日間のヴィパッサナー瞑想の合宿に申し込みましたが、メンタルの調子が悪く、通院していることを理由に断られました。
  41歳の12月に「True Nature Meditation」という瞑想教室があることを知って1日通い、それからマインドフルネス瞑想を行うようになりました。
  さらに瞑想を学べるところはないか探したところ、「マインドフルネスサロンMelon」という瞑想スタジオを見つけ、41歳の326日から毎日通い始めました。またそのころグリーンヒルのホームページをみつけ、その年の6月か7月にはグリーンヒルの初心者講習会に参加し、それから毎月の1day合宿に参加するようにもなりました。

  41歳の12月に瞑想を始めてから、人間関係に大きな変化がありました。良い縁がたくさんあり、嫌いな人から離れることが出来たのです。またMelonやグリーンヒルの方たちと仲良くなり、良い人間関係を築くことが出来、グリーンヒルでは親友が出来ました。
  さらに42歳の12月に新しく働き始めた職場には嫌な人が1人もいませんでした。2カ月しか働けませんでしたが、その後3月から始めた仕事の職場にも嫌な人は1人もいませんでした。その職場も5月で辞めましたが、すぐに別の仕事を見つけ、寮に入り、大嫌いな父親と離れることが出来ました。念願の自立を果たすことも出来ました。今のところその職場でも問題となるような人間関係は皆無で、人との関わりが劇的に良くなったことを日々実感しています。
  私のそれまでの人生はあまり生きがいが感じられないものでしたが、瞑想を始めてからはこのように人生に大きな変化がありました。
  妄想に囚われることや、父親に対するわだかまりもいずれ乗り越えなければならないと思っています。
    

   
ピンクのリコリス(夏水仙) 
※ヒガンバナ科ヒガンバナ属        
Y.U.さん提供
 






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『月刊サティ!』
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ダンマの言葉

              『四人の友(慈・悲・書・捨)』・・・2 

(承前)
  心は本来、慈しみを常に感じるようにはできていないので訓練される必要があります。心はもともと愛と憎しみの両方を持っています。悪意、拒絶、怒り、恐れとともに愛も持っているのです。しかし日常生活のなかでは、なんらかの策を講じて憎しみを減少させ愛を増大させようとしないかぎり、慈しみが心に作り出す安らかな感覚は体験できません。
  愛――他者に対する無条件の愛――を自分の心に持つことは心に安心感をもたらします。そうなると、ものごとにどう対処したら良いかが分かりますし、自分自身を信頼できるようになります。何の恐れも持たずに完全に自分を信頼できます。たとえわずかでも心の平安を損なう憎しみや怒りの反応が起きないように、自分自身を訓練できることも分かってきます。こうしたことが心に慈しみを育てることによって得られる第一の、そして最も重要な成果なのです。
  慈しみの心がもっとも育まれるのは、まったく愛されそうにない人と対する時です。そういう時にこそ私たちの感情と知性を本当に変えることができます。そのような時には、私たちは変化せざるを得ないのです。
  たいがいの人には、慈しみの心をもって対するのが難しい人がいます。でも私たちはそういう人がいることに感謝すべきです。とはいえ、あとで振り返って感謝するのは簡単なのですが、実際にそういう人に面と向うとありとあらゆる否定的な感情が湧き起こってきてしまいます。嫌悪、憎しみ、それらの感情に対する正当化や合理化、怒りなどが湧き起こります。こうしたすべての否定的な感情が起こる時こそ慈しみを実践する時です。まさに絶好の機会と言えます。

  そのような機会を持ちながら活用しないとすれば、それはまったく残念なことです。もし愛することが難しいと思われる人が今はいないのなら、すべての人を慈しみの対象にしましょう。相手が誰であろうと何をしていようと、何を信じていようと、すべての生き物は私たちが慈しみを身につけるための状況を提供してくれます。彼らが何を言おうと、あなたに興味があろうとなかろうと、彼ら自身が慈しみを持っていようといまいと、それは問題ではありません。どうでもよいことです。
  唯一重要なのは自分の心であり、ただそのことだけを心に留めておけば良いのです。
  「私の心が慈しみに満ちて、すべてをあるがままに受け入れ、心から怒りと憤りをなくすことができたなら、ダンマ(法)の道への大きな一歩を踏み出したことになるだろう」
  私たちはダンマを理解し、自分のものにし、それによって生きなければなりません。
  他者に対する反応を変えるべく、自らに働きかける機会は誰にでもあります。
  誰もが四六時中人に会っていますが意見の違う人は必ずいるものです。そういう時、固く口を閉ざして何も言わないようにしたからといって慈しみを育てることにはなりません。そんな態度が作り出すものは、せいぜい憤りや抑圧や心配、あるいは無関心でしょう。そのようなものでは慈しみを育てる助けになりませんし、心を浄化することにもなりません。真心をもって相手に応対できるという確信が持てるようになってこそ、自分への信頼感と安心という大きな成果が心のなかにもたらされるのです。

  ブッダは「慈しみによって得られる十一の利点」について語っています。はじめの三つは「幸福な眠り、悪夢を見ないこと、幸福な目覚め」です。寝つきが悪いとすれば、それは、慈しみの心が欠けているからだと言ってもよいでしょう。
  不眠の問題は睡眠薬では解決しません。慈しみによって解決するのです。慈しみの心があれば潜在意識は不快な働きをしなくなり、不吉な夢や悪夢も見なくなります。すべての衆生に対する慈しみの心があれば、前夜眠りについた時と同じ気分で翌朝も目覚めることができます。
  夜にバランスシートを作るのも役立ちます。心の中で作るだけでもかまいませんが、気が向いたら実際に書いてみるのもよいでしょう。バランスシートの一方に「今日、他人に対し、何回ぐらい慈しみの心を抱いたか」を書き込みます。もう片方の欄には「他人と関わった時、どれほどしばしば怒りや苦痛、憤り、拒絶、恐れ、不安を抱いたか」を書き込みます。それぞれを合計してみてマイナスの方が多ければ、その状態を変える解決策を考えましょう。すぐれた商店主はみんな一日の終わりにバランスシートをつけ、商品が客に受け入れられていないことが分かれば必ず改善策を講じるはずです。
  このようなことは一つの技術です。生まれつきの性格的欠点や能力の問題ではありません。すべての煩悩がなくなるまで自分自身を何度も変えてゆくための技術なのです。私たちがその技術に取り組むのは、他の人々がとても愛すべき人たちだからではありません。彼らはそんな人たちではありません。もし彼らが愛すべき人たちなら、天上の世界を歩き回っているはずです。この人間界には落ちて来ないでしょう。ここは31ある宇宙界の中で下から5番目の世界なのです。全部で31ある段階の下から5番目にいる私たちは、そこで何を期待すべきでしょうか。
  この世界にはたくさんの学ぶべきことがあり、それこそたちがここにいる目的です。この世界は大人のための継続的な学習クラスであり、人間界全体はそのために形作られているのです。私たちがこの世界にいるのは、快適さを見つけるためでも、金持ちや裕福になったり物を所有したりするためでもありません。有名になるためでも世界を変えるためでもありません。たしかに人々は様々な考え方を持っています。しかし厳密に言えば、人生は大人のための学習クラスであり、心を発達させ育てることが最上の課題なのです。それ以上に重要な課題はありません。

  私たちの心は美しいバラが雑草に取り囲まれている庭のようなものです。何よりも、雑草があると栄養が雑草に奪われてしまい、バラは育ちません。私たちか花や香りを楽しむこともできなくなります。ついには雑草がバラを枯らすことになるでしょう。同じことが私たちの心の中でも起こります。バラの茂みにあたるものは、私たちの心の中で育ちつつある慈しみです。雑草を刈り取り、花が見えて香りをかげるようにしておかなかったり、雑草を適当な長さに切り取らずに伸び放題にしたりしておくと、最後には雑草が慈しみをすべて枯らしてしまいます。その雑草とは怒りとそれにまつわるすべての感情のことです。
  ほとんどの人は自分を愛してくれる誰かを求めています。自分を愛してくれる人がほんの少しいて、愛をお返しする人もいるでしょう。しかし不運にも誰からも愛されない人もいます。そういう人たちは恨みや憤りを抱くようになります。しかし実は、まったく逆の態度をとるほうがうまくゆくのです。もし自分から愛そうとすれば、周囲には数え切れない程その対象になる人々がいます。なぜなら、すべての人は愛されたがっているからです。
  誰かが自分を愛しているからといって、自分が他者を慈しんでいることにはなりません。慈しみを施す人自身は慈しみを感じていますが、私たちのほうでは何も感じていません。自分のことを愛すべき人だと見てくれたことについて、ただありがたく思っているだけです。そのような思いもエゴを支え、エゴを肥大させることになります。逆に、誰かを慈しむことはエゴを小さくする方向へと私たちの心を向かわせます。私たちは他者に慈しみを施せば施すほどより多くの人々を慈しめるようになり、自分自身もいっそう慈しみ深くなれるのです。
  私たちの心が何を生み出すにせよ、生み出しただけの分量のそのものを自分自身の中に持つことになります。これはとても単純な方程式なのですが、ほとんどの人はそんなふうには理解していません。誰もが、自分を愛してくれるより多くの人を求めて探し回っています。しかしそれはうまく行きません。自分を愛してくれる人を増やそうとするのは愚かなことですが、人生において数多くの愚かな行ないをして来たのが私たち人間です。
  いま述べたことは、ブッダが説いた十一の利点の一つである「人間にも人間でない者にも愛される」という言葉に合致します。私たちが他者を慈しめばその他者は私たちに関心を持ちます。私たちを愛してくれる人々は大勢いるのです。私たちが他者を慈しむのは、私たちが何かを与えたいためでも、彼らが愛情を必要としているからでも、彼らが慈しみに値するからでもありません。私たちが他者を慈しむことができるのはひたすら慈しみを施すように心が訓練されてきたからなのです。
  それはちょうど計算練習のようなものです。いくつかの数字が目の前に示されればあなたはそれらを「足す」ことができます。合計を知りたいならそれぞれの数を「足す」以外にやるべきことはありません。あなたの心も同じように訓練されてきました。つまり、心が訓練されていれば何が起ころうとも慈しみを施せるようになるというわけです。

  「天人(デーヴァ)が人を護る」という言葉があります。天人とはより高い世界の存在で、守護天使です。他者を慈しむ人は護られているのです。ところが人々はしばしば、「もし誰かがあなたに意地悪をした時に慈しみをもって応えたら、相手はあなたを弱い人間だと思い、あなたを好きなように利用するのではありませんか」と反論します。
  たしかに人々はそうしたがる傾向があるので、それは大いにありうることです。しかし彼らがそうするなら、彼らは自分たちにとって悪いカルマを作っていることになるのです。慈しみの心をもった人は決してその慈しみを失いません。自分の心の中にある慈しみがどうして失われたりするでしょうか。
  もし誰かがあなたを利用したとしたら、それは、あなたの心がすでに訓練されているかどうかを知る機会です。心に怒りを抱いていないかどうか、あなたが相手の人を本当に大切に思い、慈しみをもって応えられるかどうかを知る機会なのです。それはまた、私たちがなすべきことをしているかどうかを確かめる機会でもあります。もちろん、慈しみには他人の権利に配慮することも含まれています。つまり、他人を利用する人には慈しみが欠けていることになります。
  慈しみをもって対応すると弱さを見せることになるのではないかと私たちは恐れがちです。しかし、そのような弱さがあると考えるのは誤りです。なぜなら、慈しみは私たちに弱さではなく、強さを与えるものだからです。慈しみの感情だけを抱いている人には懸念がなく安心感に包まれており、何ごとも彼らを動揺させないのでいつでも安らいでいます。慈しみは心を強くするのであり、弱めはしません。しかし激しい感情と結びついた慈しみ――これも「慈しみ」だと誤解されることがよくあるのですが――は、相手への依存心を生み心を弱くしてしまいます。慈しみが単独の感情として心のなかにあり、それによって心が育成されるならば、心は岩のように強くなります。ある人が護られるのはその人自身の心の清浄さによって護られるのです。

  「速やかに集中できる」ということも「慈しみの十一の利点」の一つです。瞑想の修行を自らへの慈悲の心をもって始めるのはそのためです。心は「寛容さ(布施)、戒を守ること、慈しみ」の三つの基礎がなければ集中することができません。これらは、瞑想の三本柱であり、それによって瞑想修行は支えられます。
  「慈しみ」という感情は集中するために絶対に不可欠なものです。それは心に平安と静寂を作り出すからです。もしも慈しみの心が欠けていると思われるなら、瞑想の前に「慈悲の瞑想」をすることが慈しみの心を養うことを助けるでしょう。(つづく)
  アヤ・ケーマ尼『Behg NobodyGoig Nowhere」を参考にまとめました。(編集部)

       

 今日の一言:選

(1)崇高な心も、醜い心も、煩悩に目が眩むのも、智慧が閃く刹那も、どの一瞬も真実だったのだ。
   強引にまとめ上げた「自己イメージ」に執着すると、人生が苦しくなる。
   他人のイメージも一つに要約し、まとめてはならない。
   存在は一瞬の現象の連鎖であり、前後際断、個々別々と心得る・・・。

(2)一瞬の意志が、グラリと人生の流れを変えていく。
   その意志は、どのように定められていくのか。
   人の心は、どう変わっていくのだろうか。

(3)瞬間的にエゴ感覚が弱まったときに、自己客観視の任務を担ったサティが入るのだろうか。
   瞑想修行の結果、サティの脳回路が自動化されてきたがゆえに、エゴの独裁支配を客観視する瞬間が訪れるのだろうか・・・。

(4)集合された無数の情報と要因が、必然の力で一つの反応を立ち上げる。
   反射的かつ自動的なプロセスで一気に心のドミノを倒していくが、熱心にサティの瞑想をした者には、客観的に情況を把握する一瞬が訪れるだろう。
   そのまま殴り倒す自由もあるが、上げた拳を下ろす自由もある。
   闇も、光も・・・。

(5)何でも自分で考え、選び、自分の意志で決めていると錯覚している人が多い。
   だが、自分の意志がはたらいた瞬間、その0.5秒前には既に脳の活動が始まってい ることを脳科学は明らかにしている。
   自由意志とは、脳が膨大な情報処理をした最終結論を、ただ宣告するだけの役割で はないのか・・・。

(6)末端の現場の情報が経営方針を左右するように、中枢は末端の奴隷に過ぎないかもしれない。
   一瞬の意志を決定しているのは「自分」ではなく、周囲の環境の情報と過去の経験、知識、親の影響、劣等感、トラウマ、長年の夢・・・等々、膨大な要因と諸力がはたらいた結果ではないか。
   無我とは・・・。

     

   読んでみました
町田明広編『幕末維新史への招待』(山川出版社 2023)
  もう60年以上も前になる。中学入学時の担任(英語担当)が、「僕たちは明治維新によって『天下太平になった』と教わったんだ」と、憤りを感じさせる口調で語ったことを覚えている。そして「天下太平になった」などとは嘘だったと。
  その先生はのちに外国語大学で教官(退職後名誉教授)となり、最終講義では太陰暦から太陽暦への改暦、つまり明治5122日の翌日が明治611日となったことについて言及した。つまり明治5年の12月は2日間だけになり、政府は当年12月の役人の給与を払わないで済ませたこと、さらに、旧暦では翌明治6年が閏月のある年回りだったので(つまり13カ月あるはずだった)、新暦を採用して2カ月にして、結局給与支出を計2カ月分節約する意図だったことを強調した、それも批判的に。私にはそれらはやむを得ないとも思えるけれど、先生にとっては感情的に受け入れがたかったのかも知れない。
  一般的な話としては、前者を否定する形で成立した政権は前の時代を低く、当代を高く評価するだろう。文明開化へ舵を切った明治時代についても同様、明治維新を勝者の側から描けば、江戸時代をことさら未開な、あるいは暗黒社会に位置づけようとしたことは不思議ではない。ただそれは措くとしても、とくに昭和の初期のいわゆる軍国主義によって白紙状態の子どもたちへ刷り込まれた歴史教育は、なかなか消し去りがたいものだったと思う。
  たとえば、昭和191216日、神奈川県大船町小坂国民学校の初等科6年男組での大日本教育会の指導のもとでの授業は、B29の飛来を防ぐ方法を問うものだったという。(以下、若林宣著『B29の昭和史』ちくま新書2023より)
  いろいろなアイデアの中に3人、「特攻隊のやうに体当りで落します」と答えた児童がいた。授業の主旨は撃墜する方法ではなかったので、教師は「体当りする人は日本人として最も立派な方々ですが、(略)体当りをしてくれなくとも、勝てるやうなことを考へることが大切でせう」と言ったという。しかしそこで著者はこう述べる。
  「この授業内容が公に出版されたということは、特攻を称揚する世の中であったと同時に、教育目的を外さない教師もまた求められてもいたことをも示している。ただしその教育目的は、戦争遂行という国策におおきく左右されていたのであるが」
  また「体当り」と答えた児童に対しては、
  
「児童自身はそのとき意識しなかったであろうが、報道や教育に影響された結果として、大なり小なり身を挺して戦うことを目分の胸に刻み込み、あるいは優等生的であろうとすればするほど、おそらくそのように答えたであろう。『体当り』と答えたのは軍国教育の成果でもあるから、授業の目的に沿わない回答であっても、戦時下の教師としては頭ごなしに否定できないのである。『日本人として最も立派な方々ですが』という言葉が、そのことを表している」

  1931年生まれの私の中一の担任の先生は、このような、少年のころに戦争、敗戦による社会の混乱を経験しつつ黒塗りされた教科書を使った世代だった。昨日まで「鬼畜米英」と言っていたその同じ大人の口から、今日になると「平和こそは!」と言う言葉を聞くという一夜にしてひっくり返った価値観。そうした背景があって、明治維新や明治時代に対する否定的な思いがあるように見受けられた。
  戦後生まれの私の場合、そのような価値観の混乱を経験しているわけでもなく問題意識もなかった。教科書そのまま、他の教科と同じように受験に出そうな所に線を引いて学んだだけ。なので、ラジオで五代目古今亭今輔の落語(『おばあさん三代姿』:フルバージョンで)に出てくるおばあさんが、明治の御代を「治まる明(めえ)※」と嘆いているのを聞いても、「そんなものか」と思っただけだった。ただその後には、いろいろ興味をもって読んだ(小説だけではなく)ものから仕入れた雑駁な知識からも、その時代にはさまざまな事情が複雑に絡み合っていることだけはわかってきた。
  ※この言葉の出所は「上からは明治だなどと読むけれど治まる明(めえ)と下からは読む」と江戸っ子が読んだ狂歌による(地橋先生より)。

  もちろん、歴史に対する普遍的で完璧な評価などはもとより存在しない。国と国との間では当然のこと、たとえ文化的に同じ社会に属する人の間でも見られるとおり。ただたとえそうではあっても、少なくとも客観的に信頼性のある資料を求めたり、あるいは個人的に少々頭を柔らかくしておくことは十分に意味のあることと思える。広い視野を持とう、頭を柔らかくしよう、というのはこの欄のモットーでもあるので、今回はいささかそのための材料となるのではと思い、本書を紹介することにした。

  「はじめに」において編者は、最近の幕末維新史の研究や歴史教育をめぐって警鐘を鳴らすと同時に、本書の主旨として、「『時代を変えた英雄たち』という視点ではなく、朝廷・幕府などの諸勢力や当時の社会情勢について、総合的な視点からこの時代を描き出すことに」重点を置いていることを述べる。そして「序章」では、「一般常識とは大きく異なる『研究の現在』地点を、読者のみなさんにわかりやすく説明することを目的」にしているという。「なるほど面白そうだ」と思った。

  本書は22名の執筆者それぞれが担当する幕末・維新を、さまざまな角度からの現在における研究に基づいて記述している。内容の筋道としては、幕末明治に対する「一般常識」のようなものがどのように出来てきたのか、はたしてそれは事実かどうか、そして、それ以外の見方はないのかについてである。
  一例をあげれば、「幕末とは「『尊皇攘夷』派と『公武合体』派の政争」と言われているが、事実はそう単純化できるものではないという。実際にはかなり錯綜していたことを裏付ける事実が資料をもとに浮き彫りにされている。
  テーマ別には21の章とコラムから成っている。各章は簡潔にしかもたいへんわかりやすい。またそれぞれの章末に、より深く知ろうとする読者のために適切な参考文献があげられているのも親切だと思う。しかし、ここでそれらすべてを取り上げることは無理なので、とくに興味を惹かれたところだけに絞ることにした。ということで、すべての章のタイトルと執筆者の一覧は本稿の終わりに記している。
  また本稿では、今回は特に本書で引用された文献からのものも記した。なので、すでに「もう知っていた」というようなものがあるかもしれないがご了承願いたい。

  先ず一つ目は坂本龍馬のアイデアだとされている「亀山社中」と「船中八策」。実は両方とも存在しなかったそうなのだ。小説ではさんざん読まされてきたのに。
  編者は本人の著書『薩長同盟論』(人文書院、2018)や『新説坂本龍馬』(集英社インターナショナル新書、2019)のなかで、亀山社中が存在しないことや、龍馬は薩長同盟の成立の一翼は担ったけれど、それは決して彼一人の功績ではないことを論じたと言う。さらに、「船中八策は知野文哉著『「坂本龍馬」の誕生』(人文書院、2013)によって、存在自体が否定され、大政奉還も龍馬の手柄とはいいがたい。つまり、龍馬は過大評価されているといえよう」と書いている(「序章」)。
  そして、『竜馬がゆく』で肥大化した虚像をつくり出したのが司馬遼太郎であり、それはまさに当時、明治維新百年という世の中の機運にそったものだったとしている。

  二つ目目はいわゆる「鎖国」についてである。
  日本史の教科書には江戸時代の日本は鎖国しており、例外的にオランダと中国との交易があったと記述されていた(今の教科書ではどう書かれているか知らない)。つまり「江戸時代=鎖国」という概念が条件反射的に出てくる。ただ、近年には、対外的な交わりがあったことから、「鎖国」と言うにはあたらないという論調もあり、「なるほど、それはそうだな」とは思っていた。
  本書ではそのあたりを明確に論じ、17世紀には『鎖国』という概念が自体が存在していなかったと断言している。その論旨をまとめると次のようである。
  1)大学頭林復斎が編纂した『通航一覧』(1853年頃に完成)に外国が4分され認識され対応していること。その4分とは、国交を持つ「通信の国」(朝鮮王国と琉球王国)。国交を持たないが、例外的に商売関係を有する「通商の国」(中国とオランダ)、指導が必要な地と「撫育」の地(蝦夷地)、そしてまったく関係を持たない「異国」の4つである。
  2)ロシアから遣日使節レザノフの来航(1804年)を機に、対外関係を上記に限定することが確認されたが、その際の議論のなかで「『鎖国』という言葉・概念が使用された形跡は認められない」。
  3)そもそも教科書などで「鎖国令」と呼ばれている163334353639年の5つの下知(内容は本稿では省略)は「ポルトガル・スペインを念頭に置き、あくまでカトリック禁教を狙い」としている。しかも3336年のものは長崎奉行に対するものであり、39年のものは「島原・天草一揆」(1637)を契機に全国の大名に申し渡したものである。
  そしていずれのものにも「貿易の統制を意図した内容は含まれていなかった」うえに、「『鎖国令』という法例は存在しない」のであって、なぜそれらをまとめて「鎖国令」と呼ぶのかというと「この時期から『鎖国』がはじまった」とする後世のまなざしが込められているのである」としている。
  では、いつ「鎖国」という言葉が誕生したのかというと、「長崎の蘭学者志筑忠雄がケンペルの日本の対外関係に関する論文」を訳したことによるという。ここではその詳細ないきさつは省くが、志筑は蘭語再版(1733)を底本とし、付録第6編「日本帝国にとって、今のまま自国民に外国とのいかなる交易をもさせないことが有益か否かの論」を訳出した際、「原題が長いことから、志筑は本文中の表現を参考に『鎖国論』(1801)と題し、これを契機に『鎖国』という新しい日本語が誕生した」ということだ。
  
  そして江戸時代を「鎖国」とする「見解が定着していくのは、日本の帝国主義が強力に推進されだした明治20年代以降」で、「国家が国民に植えつけることを望んだ」結果とされる。1904年の第一期国定歴史教科書『小学日本歴史』には「家光期の対外政策は『外国の事情にうとくなりて、世界の進歩におくれた』」と「「西洋に後れを取った要因」として描かれている。そうした見解は、1907年に施行された歴史教科の義務教育化によって国民に浸透するとともに、このネガティブな見方は第七期『くにのあゆみ』(1946)まで踏襲されたという。まさに本稿の最初に述べたような結果をもたらしてきたわけである。
  本書はこの「鎖国」という捉え方を次のように述べている。これは重要であると思う。(下線は本稿筆者)
  「従来近世の問題としてのみ語られがちであった『鎖国』とは、じつは近世を『他者』とみなし訣別する近代日本のまなざしであり、西洋的近代化を志向した近代日本人のメンタリティにほかならない」と。

  三つ目は最初に触れたように幕末の争いが単純に「尊皇」と「佐幕」とは区別できないこと。その一つの裏付けが孝明天皇の振る舞いなのだという。
  天皇は文久3年(1863年)ころまでは幕府への対抗の核であったとしながら、その年に一旦は詔が出された尊攘派による攘夷親征をねらった政権奪取の企てを阻止する。そして、「直近の叡慮(天皇の意志)は本心ではなかったと述べた」そうである。
  また、「翌年には将軍家茂に『無謀の壌夷は朕の好むところではない』と述べ、条件付きながら『すべて幕府に委任』した」とされる。これが事実とすれば、天皇は強固な攘夷派だったという記述(これまで読んだ本にはだいたいそう書かれている)は的外れか、あまりに単純化していることになる。
  孝明天皇は慶応2年(1866)に亡くなっている。それは悪性の痘瘡によるものであり、現在では病死で間違いないことが医学的に論証されているという。ただその際毒殺説が流されたり(今でもある)したのは、「天皇が統治者としては一貫して『佐幕』派であったことが政敵にも広く知られていたためであった」からだとしている。
  そればかりではない。例えば「尊王」と言ってもその内実には、「人びとの生活維持の観点から天皇の個人的意向以上に『民心』や『天命』を思考の起点に置いたり」する意識があったし、また水戸浪士であっても、君則の奸は排除しても「将軍や徳川政権自体は否定しなかったりと、必ずしも天皇を絶対化し『幕府』と非妥協的に対立するものではなかった」という。
  同じことは「佐幕」派にも言える。京都の治安維持のために集められた浪士組から派生した「新選組も近藤勇ら首脳は十分『尊王』であった(だからこそ、のちに御陵衛士として袂を分かった伊東甲子太郎らもいったんは幹部として入隊できたし活動できたのである)」と言う。
  白虎隊の悲劇で知られる会津藩も、「一藩挙げての『尊王』で」あって孝明天皇の信任も受け、「藩主松平容保は授かった宸翰(天皇直筆の文書)を筒に入れ肌身離さず持ち歩いたという」。
  こういったことから見て、実際には、「当時の大名の大半は『尊王』かつ『佐幕』という立場で、両者はけっして二律背反ではなかった」し、幕臣のなかには「条約順守を天皇権威に優先させた勢力もいたが、主流派は天皇との協調(癒着)を選んだ」と述べている。

  本稿の最後として倒幕について書かれているところを紹介したい。これまでは長州と薩摩が列強との戦いで敗れた結果、攘夷路線を放棄してそれが武力で幕府を倒すことに繋がった(どう繋がったかはわからずに)と単純に思ってきた。ところが、結果として倒幕であっても、そうした武力によるもの(つまり討幕)ではなく、平和的な手段での倒幕(つまり大政奉還による政権委譲)路線が朝廷にも幕府側にもあったという。
  例えば朝廷では、岩倉具視が和宮降嫁を機会として事実上の王政復古を目指していたとされる。
  幕府側でも、当時御用取次の要職にあった大久保忠寛(一翁)は政権を朝廷に奉還して諸侯に下るべきだと唱えていた。もちろんただ投げ出すだけではなく、彼は大政奉還後も見据えていた。
  「京都あるいは大坂に大公議会、江戸そのほか主要都市に小公議会を開き、前者では諸侯五名を常議員として全国に関する案件を議論し、後者では大公議会に準じて議員や会期を定めて一地方に関する案件を議論するという構想があった」と本書にはある。これは、彼は幕府のみではこの難局は乗りきれないとみて、自ら倒れることで新たな政体によって国家を維持すべきと考えたからであったとも言う。
  しかし、彼はその主張のために左遷されてしまう。ただ幕府内では勝海舟が理解を示し、坂本龍馬も大久保から大政奉還論を聞いておおいに感銘を受けたという。こうして、「大久保が勝と龍馬を賛同者として得たことは、その後の歴史の展開を大きく左右することとなる」のだ。

  また元治元年(18649月、禁門の変によって朝敵とされた征長軍(第1次長州征討)の参謀の地位にあり、長州を討たんと意気軒昂な西郷吉之助と対面した勝海舟は、「『共和政治をやり通し申さず候ては相済み申すまじく』と述べたという。ここにいう『共和政治』とは、幕吏のこれまでの失政の罪を鳴らし、全国の人材を挙用して公議会を設け、公論でもって国是を定めることであった。西郷もまたこの勝の案に共鳴し、以後、小松帯刀や大久保とともにこの構想の実現をめざしていく」。
  その後のいきさつはここで紹介する余裕はないが、「幕府には勝、大久保忠寛以外に人物はなく、彼らを幕府が登用するか否かに天下の人心の向背はかかっている」との慶応2年1月23日の越前藩の中根雪江に対する大久保一蔵の発言のように、「この時点では、小松・西郷・大久保は幕府の自己改革に一績の望みをつないでいた」ようだ。
  そしてその彼らが、「久光の支持も得て討幕に大きく舵を切ったのは、慶応35月の四侯会議の決裂以降」。これについても輻輳したいきさつがあるが、本稿では省略する。
  この後、「慶応31014日に、慶喜はこれまでの幕府の失政の罪を謝し朝廷に大政奉還を上表した。じつに討幕の密勅が長州藩主に下された当日のことであった(薩摩藩主へは前日)」。
  王政復古によって新政府が発足するが、当初争点となったのが慶喜の処遇であった。「薩摩藩は謝罪の証として慶喜に内大臣の職を辞すること、相当の封地を朝廷に差し出すことを求めてやまず、それが受け入れられないならば、慶喜を討つも辞せずとの姿勢を貫いた。討幕の密勅は西郷・大久保らにとってなお効力を失っていなかった。彼らは、幕末の政局において慶喜に何度も煮え湯を飲まされており、彼を無条件で政権に加えれば、政体構想そのものが骨抜きにされかねないと危惧していたのである」と本書にはある。

  以上は、序章、第2章、第3章、第12章からで、とくに興味を惹かれた部分でもあった。他にもさまざまな視点からの論述があるが、ここですべてを紹介するのは到底出来ないので、最後に目次と著者・編者のみを記すことにする。もし興味を持たれるテーマがあったら直接読まれたい。また各章であげられている参考文献(本稿では省略)も大いに参考になると思う。(雅)

◎目次と執筆者
  はじめに 幕末維新史人気の光と影 町田明広
  序章 研究の現在 幕末維新史研究の最前線 一般理解と乖離する時代像 町田明広
第1部 「幕末」とはどのような時代なのか
  1章【世界情勢】  幕末はいつからはじまるのか? 森田朋子
  2章【鎖国】     なぜ「鎖国」から「海禁」とよぶようになったのか? 大島明秀
  3章【尊皇思想】  「尊皇」と「佐幕」は対立軸ではなかった? 奈良勝司
  4章【社会の様相】 幕末社会とはどのような状況だったのか? 須田 努
2部 ここまでわかった!朝延・幕府・諸勢力
  5章【朝廷】    幕末の朝廷は、経済的に自立できていたのか? 佐藤雄介
  6章【幕府】    開国後、諸大名との問係はどうなったのか? 藤田英昭
  7章【一会桑勢力】 畿内における幕府の統制力はどうだったのか? 篠崎佑太
  8章【薩摩藩】   幕末の財政改革・経済再建は成功していたのか? 福元啓介
  9章【長州藩】   攘夷決行はほんとうに一大転換点だったのか? 山田裕輝
3部 再検証!幕末維新史の転換点
 10章【ペリ-来航】 植民地化の危機はほんとうに低かったのか? 田口由香
 11章【違勅調印】  なぜ条約締結に勅許が必要だったのか? 後藤敦史
 12章【倒幕と討幕】 倒幕運動はいつからはじまったのか? 友田昌宏
 13章【陸軍建設】  奇兵隊などの幕末の長州軍は、明治陸軍の源流か? 竹本知行
 14章【海軍建設】  幕府海軍は明治政府へ引き継がれたのか? 金澤裕之
4部 「幕府の終焉」と「戊辰戦争」は自明だったのか?
 15章【薩長同盟】  倒幕のための軍事同盟ではなかったのか? 町田明広
 16章【大政奉還】  徳川慶喜の真意はどこにあったのか? 久住真也 
 17章【戊辰戦争】  新史料の発掘でなにがわかってきたのか? 宮間純一
 18章【新政府の組織】 公家たちは新政府でどのような役割を担ったのか? 刑部芳則
 19章【明治維新の帰結】 なぜ薩長は新政府の主導権争いに勝てたのか? 久保田哲
 終章【明治維新の評価】 明治維新はどのように論じられてきたのか? 清水唯一朗
コラム「幕末維新史の諸相」
 幕末の語学受容と発展 益満まを
 あまり使われなくなった「~派」という歴史用語 友田昌宏 
 維新直後に主導された京都の近代化――明石博高と「お雇い外国人」 光平有希

◎執筆者と編者の現職

大島明秀(熊本県立大学文学部教授)、刑部芳則(日本大学商学部教授)、金澤裕之(防衛大学校防衛学教育学群准教授)、久住真也(大東文化大学文学部教授)、久保田哲(武蔵野学院大学国際コミュニケーション学部教授)、後藤敦史(京都橘大学文学部准教授)、佐藤雄介(学習院大学文学部准教授)、篠崎佑太(宮内庁書陵部宮内公文書館研究員)、清水唯一朗(慶應義塾大学総合政策学部教授兼大学院政策・メディア研究科委員)、須田努(明治大学情報コミュニケーション学部教授)、田口由香(長崎大学教育学部准教授)、竹本知行(安田女子大学現代ビジネス学部教授)、友田昌宏(東京経済大学史料室嘱託)、奈良勝司(広島大学大学院人間社会科学研究科教授)、福元啓介(株式会社島津興業尚古集成館主任・学芸員)、藤田英昭(徳川林政史研究所研究員)、益満まを(京都外国語大学非常勤講師)、町田明広・編者(神田外語大学教授、日本研究所所長)、光平有希(国際日本文化研究センター総合情報発信室助教)、宮間純一(中央大学文学部教授)、森田朋子(中部大学人文学部教授)、山田裕輝(福 井市立郷土歴史博物館主査・学芸員)

文化を散歩してみよう
                              第9回:プライドそして人と人との間(6)

 10.長幼の序
  世界的には、平均寿命とか食糧の獲得とか、あるいは子育てとか技術の伝承とか、さまざまな背景があって長老ないし年配者を尊重する文化があることは知られています。もちろん日本にも当然ありますが、かつては食べていくためとは言え悲惨な姨捨伝説などもまた伝えられています。そうかというと、今でも一部にはあるのかも知れませんが、特に体育会系の部活動での行きすぎた先輩・後輩関係なども話題になりました。また、年令に限らず、年功序列による昇格と実力主義との間でギクシャクが起こる場合もあるようです。ただ、本稿ではそういったものには触れません。ここでは、私が見聞した韓国での話を取り上げていきたいと思います。
  この長幼の序は韓国の場合、その背景、いわれは儒教から来ていると言われています。私は儒教に詳しくありませんので、それが儒教のどういったところからはわかりません。ともかく、人と対面するときにはどちらが歳上かどうかが先ず前提となり、言葉遣いも違ってくることは前回もお話ししました。
  まずは以前にあげた参考文献(金容雲著『韓国人と日本人』)に次のような著述がありましたので紹介します。これは年功序列だけではなく家門も関係していて、二重にかなりの意味をもつものなので、そのまま引用します。

  「さて、知韓家として有名な椎名悦三郎が韓日国交の正常化を目的に来韓したことがあった。外交辞令という言葉があるくらい、なるべくうまいことをいい、相手のマスコミを通じ大衆の心証をよくすることが外交のABCであることはいまも昔も変わりない。堆名は最大限の親愛の情をあらわすつもりであったらしく、韓国の大統領にたいし、こともあろうに『朴正解大統領と私は親子のような間柄ですから、必ず理解しあって今度の外交会談は成功させる』と公言した。
  それでなくとも、日本の植民地であったという事実は韓国人にとって抑えがたい屈辱であるのに、国交正常化の前提が責任者たち同士の(親子の関係)とは!
  この発言は国民感情をさかなでしてしまい、日本人にはまったく理解できない反発が盛りあがり、外交会談はつぶされるのではないかとも思われるほどであった。が、とにかく、ぜひとも国交を正常化しなければならぬという現実の前に、椎名の釈明もあり、一応会談は開かれた。
  しかし、おもしろいことに、珍事はその後もう一度あった。その内容は、彼の家門観念に関する発言ととれるものであった。偶然にも彼の顔つきが、会談に強く反対した尹潽善前大統領に似ており、そのことを韓国の新聞記者がもちだしたのである。なんと彼は、尹の齢が自分より少し上であることをたしかめたうえで、平然として『おそらく彼は私の兄さん、あるいは叔父さんかもしれません』といった。
  この報道を読んだ韓国人は苦笑せずにいられなかったはずだ。その発言は暗々裡に、『私は尹氏かもしれません』といったのと同じことであり、それは尹の父と自分の母が関わりがあるのないのといった意味になり、韓国人にはちょっといえないところだったのだ。
  じつのところ、『親子のごとき関係』という発言と、他姓をさして『兄さん、もしくは叔父さんかもしれません』というのとは、それこそプラス・マイナスをなしていた。前者は倣慢さをあらわしたが、後者はまたそれくらいに卑屈であった。
  いずれにしても、この発言は、韓国の家門・姓の観念にたいして無知であることを間接的に表現した結果となった。したがって、さきの倣慢と思われる発言にたいする百の弁明より、あとのそのひと言が効果的であった。
  ふつうなら悔辱したとなろうが、なんのわけも知らずにやったのなら話にならない、という理由による。そのことまでちゃんと計算したうえで後者の発言をしたのならば、さすが椎名はたいした外交家といえよう」
  
  皆さんはどう思われますか?私にとってはただリップサービスで親愛の情を表しているだけ、しかるべき立場にある人ならいざ知らず、庶民感覚としては、「だから仲良くしましょうね」と言っているようにしか聞こえません。またもし相手側になったとしても、「ふんふん、だからどうなの。その手には乗りませんよ!」というくらいのことでしょうか。
  とにかく、年令や家門について、極めてシビア―な、そして微妙な感覚のもとにある社会なのだということを著わしているエピソードだと思います。ただ、相手が少し歳下でも地位がずっと高い人と会う時に、自分の白髪をわざわざ髪を黒く染めたと言うエピソードを聞いたことがあります。要するに自分の方が若いということにしてへりくだっているわけです。そこまでするのかと思いますが本当でしょうか。
  これらの話はともかくとして、私が直接経験したものはもっと身近な次のようなもので、韓国文化について書かれている本にも載っていることもありますので、ご存じの方もおられるかも知れません。
  一つは、こちらが40歳代の時でしたがバスの中で席を譲られたことです。「えっ!」と思いましたがご厚意なのでありがたく坐りましたけど・・・。また同じころ、鞄を持って立っていたら前に坐っている人から持ってあげようと手を延べられたことがあります。知識としては知っていたのでご厚意に甘えましたが、日本ではちょっと誤解されそうです。ただもう30年以上前のことですから、席はともかく、鞄や荷物については今もそんな習慣が残っているかどうかわかりません。
  二つ目は、年長者とか地位が相当違う方との酒を飲むときの作法で、ドラマでも度々見られます。こんなことがありました。
  前に記した研究所で事務をしていたAさん(例の日本語学習仲間4人組の一人)が契約期間が終わったので就職口をさがしていました。以前、私に背広上下を仕立ててくれた大先輩のことを彼女に話したことがあり、その方に頼んでくれないかと言うのです。先輩は通関に関する事務所を経営していましたので、職場に空きがあればと思って一度会ってほしいとお願いしたところ、快諾してくれました。結果的には空きがなくてそこで職を得ることは難しかったのですが、その顔合わせの会食をしたときのことです。
  先輩は60歳過ぎ、片方は20歳そこそこです。彼女は入ってきた時から、まったくそれまの雰囲気と違っていました。つまりおしとやかに。で、儀礼的な始まりとして、まずは小さなグラス(日本で言えばぐい飲みくらい)で焼酎(「眞露」)で乾杯となるわけですが(もちろん不飲酒戒以前の話)、その時彼女はサッと横を向いて飲みました。この礼儀は本からの知識で知っていましたが目の前で見たのは初めてでした。それは、普段の私の前での振る舞い(友だち扱い)とは全然違っていて、その豹変の見事さにこちらは感心するばかりで、実にたいしたものだと驚嘆したものです。「・・・こっちもとりあえずは歳上なんだけどなあ・・・!」

  これはまた別の話で、以前にも取り上げた通訳をしていた方の話です。
  仕事で日本に行った時のこと、街で靴磨きを見てびっくりしたそうです。なぜかというと、それは靴磨きをしている方がかなりの年配というよりお爺さんだったから。
  今はわかりませんが、当時ソウルの街頭でも靴磨きの人はおりました。その通訳の方と歩いた時にその人のハイヒールが壊れて、それを緊急で直してもらったことを覚えています。つまり修理も兼ねていたわけです。ただ、少なくともオジさんクラスで、お爺さんではありませんでした。
  これは街頭での話ではありませんが、340年前にはレストランなどで食事をしていると、ちょうど小学生高学年くらいの子供がサッとスリッパを持ってきて靴を脱がされ、食事の間に靴磨きをしてお金を稼いだりしていたものです。(単純には比べられませんが、宮城まり子の「ガード下の靴磨き」(昭和30年)を思い出します)
  いずれにしても、外見上お爺さんに見える人が街頭で靴磨きをしているなんていうのは考えられないようで、またそれよりずっと若く見える人が靴を磨かせているところを見て、かなりショックだったようです。「なぜ老人に対してそんなこと(可哀相なこと+礼儀知らず)ができるのか!」と。前に割り勘の話でもあったように、彼女はそこらあたりはかなり憤りを感じる性格に見えました。

  日本では、本人がどう思っているかはわかりませんが、どんな仕事でも職業のひとつとして割り切ったり、あるいは誇りを持ってやっている(「たとえば靴磨き日本一!」とか)というようなこともあるのではないかと思います。「この道一筋何十年」となればそれだけでもそれなりの評価を受ける文化ですから。9月5日の毎日新聞夕刊に、半世紀にわたって新橋駅前のSL広場の路上で靴磨きを続けてきた92歳の中村祥子さんに密着した記事が載っています。
  ただ韓国では前にも触れたように、汗を流すような現場の仕事に対する見方も絡んでいますので、今も街頭で靴磨きをしている人がいるとすればですが、その自分の仕事をどのように捉えているかはわかりません。

10.「早く、早く」と「全取っ替え」
   これは「人と人の間」には収まらない話ですが、「ケンチャナヨ」精神と同じように韓国文化の特徴として「ParriParri(早く、早く)」文化と言われることがあります。とにかく急ぐのです。
   日本のバスで降車する時には必ず「ドアーが開いてから席をお立ちください」と放送されます。これは聞いた話ですが、韓国では「ドアの前で待つように」と言われるそうです。ただ事実かどうか確認したわけではなく、「あり得るかも知れない」と思える程度ではありますが・・・。
   良いにつけ悪しきにつけ、この「ParriParri」は何でも急ぐことを意味しています。ものごとを素早く行うことから、考える前に突っ走るなどと言われることがありますが、私から見ると望ましい面に見えるところがあります。「検討させていただきます」が「聞くことは聞きました。でも何もしません」と言う意味の文化もありますから・・・。もっとも「何もしません」文化でも、反対意見を聞いたふり(アリバイづくり)というプロセスは踏んだ上で強引に事を進める面も持ち合わせています。それはその社会の、一度決めたら見直しが出来ずに誰も止められない宿痾のようにも思えます。
  まあ、上意下達が良いのか、時間がかかっても下からの積み上げが望ましいのかは措いておくとして、おどろいたのは、東京でホームドアーの設置がぼつぼつ見えだしたころ、ソウルに行ったらもう地下鉄全部にホームドアーが付いていたことです。「エーッ、すごいなあ!」とびっくりしたのと同時に、「日本では何年かかるんだろう?」とも思いました。

  ソウルには以前「清渓川(チョンゲッチョン)」を覆って高速道路が走っていました。それが20037月からの撤去と川の復元工事で200510月に5.8kmの人工河川として生まれ変わり、いまは憩いの場になっています。なんと2年ちょっとです。日本橋の上の高速道路、地下ルートの開通は2035年、全面撤去は40年だそうです。条件や事情は違ってはいますが・・・。

  これと似たような面で、また「全取っ替え」の文化とも言われたりもします。
  権力者が交代するとその系譜が入れ替わったりするのは、理由や及ぶ範囲はいろいろでしょうが、大は国家から民間組織まで、どんなところにもある程度は見られるものです。国家として大統領制をとっている韓国の場合にも当てはまります。
  私の知る限りではありますが、研究院の当時の院長のことです。私の大学の教授が訪韓し、私が世話になっている研究院を訪ねてきました。その院長は政治の要職に就いていた方です。教授はその院長と面談した場で、「なぜ研究院に来られたのですか?」と(実に率直に)質問すると、「追放されたのです」と答えました。私には半分冗談に聞こえ、また教授は一瞬意味が分らなかったようです。ただ、当時は全斗煥大統領の時代で、詳細はわかりませんがその取っ替えの範囲もかなりの規模だったようです。もっともそんなことがありそうなころでもありました。詳細はわかりませんが、「こんなことでは国が滅ぶぞ!」と誰かが言っていたと聞いたことがあります。先ほど紹介した金容雲氏の別の著書『韓国人大反省』(徳間書店1993)にはこんな記述もありました。
  「筆者は、全斗換時代に彼を私席で、「大統領」と呼ぶ学生に合ったことがない。「斗煥」と呼び捨てにするのはまだましなほうで、「ハゲ」と呼んだり、果ては犬の名に「斗換」とつける者までいた(韓国では最大級の侮蔑表現である)」
  大分評判が悪かったようです。

  この小見出しの例とは言えないかもしれませんが、リーダーの権力が大きいことからこんなことも見られます。
  ソウルの郊外に「民俗村」という約30万坪の野外博物館があって、朝鮮半島各地の生活、文化、住居などを集めたもので時代劇のロケ地などとしても利用されています。開館は1974年で朴大統領の時代ですが、以前はその一帯は普通の農村でした。反対意見もありましたが、住民を強制的に立ち退かせ強引に作ってしまったそうで、当時そこに住んでいた人々はその後その民俗村の職員になったと聞いています。韓国でも次第に歴史的な庶民の生活はだんだん見られなくなってきましたので、今では朴大統領に先見の明があったと評価されています。
  同じようなことですが、ソウルの大通りにもかつては路面電車がありました。でも1969年に私が初めて行ったときにはすでにレールだけが少し残っている状態で、当時大通りの拡張工事を見た記憶があります。もちろん拡張はその場所にある店や住宅を立ち退かせなくては出来ません。
  日本では、地権者や所有者(危険ブロック塀など)とか、あるいは行政側の担当の問題とかがからんで、例えば通学路の危険性がいくら言われながらもなかなか改善が進まない現状なのはご存じの通りです。しかし当時の韓国では地権者がどうのこうのはお構いなし、こうと決めたら有無を言わせずにそうするのだと聞いたものです。このようなことはケースによりますから、単純に一方的な可否は言えないと思いますが、いかがでしょうか。(つづく)(M..

 

                
    ちょっと紹介を!
 

メルヴィン・モース、ポール・ペリー著、木原悦子訳
『臨死からの帰還ー死後の世界を体験した400人の証言』徳間書店1993

  この本では、臨死体験者400人の証言が、体験者の言葉でそのまま語られている。
  そして、その多数の証言を分析して、筆者なりの結論を出している。臨死体験の中核的な要素を抽出して部類別にみてみると、以下の9つに集約される。
  ①死の自覚
  ②苦痛が消え、やすらぎが訪れる
  ③体外離脱体験
  ④トンネル体験
  ⑤光の人々
  ⑥光の存在
  ⑦人生の回想
  ⑧戻りたくなくなる
  ⑨人格の変容
  私は、この中で光の体験と人格の変容について、興味を惹かれた。それらについて、主要な部分を抜き出して紹介したい。
  「本研究の結果、臨死体験をすると人は変化し、その影響は終生にわたる。特に大きく変化するのは、光の体験をした人々である」(p.222
  「光の体験は臨死体験中もっとも重要な出来事であり、これを体験すると必ず変容が生ずる、ということがわかった。臨死体験の本質は、愛に満ちた白い光にある」(p.270
  「幼いころに光の洗礼を受けた人々は、ボランティア活動に参加して社会に奉仕しようとする傾向が強く、慈善活動にも多くの寄付をしている。また、看護や特殊教育など、人道的な職業に就いている者が多い。
  光の体験には、人々をこうした職業に向かわせる力があるらしい」(p.262
  「この光の体験を除けば、臨死体験に特有の現象はすべて、右側頭葉をショートさせることによって再現できるこれを実証
したのは、カナダの神経外科医ワイルダー・ペンフィールドだった。ただし、変容をもたらす光の体験だけは、原因を脳内に見いだすことができない」(p.271

  筆者は、臨死体験者が見るこの光は人間の体内に由来するものではない、と確信しつつ、またその光の体験が特に重要な要素であると述べている。(文責:編集部)
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