月刊サティ!

2023年8月号  Monthly sati!     August  2023


 今月の内容

 
  巻頭ダンマトーク:今月は休載いたします
   ダンマ写真
 
Web会だより ー私の瞑想体験- :『瞑想を知った頃のこと』
  ダンマの言葉 :『四人の友(慈・悲・喜・捨)』・・・1
  今日のひと言 :選
   読んでみました :マシュー・ウォーカー
     『睡眠こそ最強の解決策である』(SBクリエイティブ 2018)
  文化を散歩してみよう :プライドそして人と人との間(5)
   ちょっと紹介を! :榎本憲男著『サイケデリック・マウンテン』(早川書房 2023)

     

【お知らせ】

  ※近刊される地橋先生の新しい単行本が現在最終的な段階に入っておりますので巻頭ダンマトークは少しの間お休みさせていただきます。
 

           

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。

 
     

 今月のダンマ写真 ~
   

下館道場近傍のタイ寺院『プッタランシー』(Part2)  
  本尊と両脇侍  先生より 

地橋先生提供

    Web会だより ー私の瞑想体験-

『瞑想を知った頃のこと』 Y.D.

  20年ほど前、ヨーガの先生から『瞑想』という言葉を初めて聞いた時、頭に浮かんだのは安定していて動じない仙人のようなイメージだった。あたふたと軽々しく、妄想に振り回されて不安定な自分にうんざりしていたので、そうなれたらカッコいいな、と憧れたのを覚えている。
  憧れて始めてみた頃は、座っていたはずが気がつくと別のことをやりはじめ、しばらくしてからやっと『あれ?さっき瞑想してたんだったっけ?』と思い出すほどの大変な状態だった。

<瞑想の練習を習慣づけたこと>
  その頃参加した10日間の瞑想合宿の帰り道で、ふと『私は自分がダメ人間だということを思い知るために瞑想をしてるんだなぁ』と気がついた。合宿の内容はすっかり忘れてしまったが、そのことだけ今も覚えている。
  日々、ふと実感と共に小さな発見があるのは楽しい。パズルがピタっと当てはまるような気持ちよい解決方法がひらめいたり、あの時自分は気にしてないフリをしたが本当は怒っていたとか、あの人の態度はこういう感情だったんじゃないか、などなど暮らしに役立つ妄想も次々浮かんでくる。
  子供のころの記憶と感情が出てくることもある。支離滅裂な映像が出ることもあり、意味はわからないが頭の中が片付けられていくような心地よさがある。モヤモヤしていた気持ちの理由が判明してスッキリすることもよくある。
  最初は5分座るのも難しかったが、時間をかけた試行錯誤と反復練習の結果、3060分はじっとしていることができるようになった。身体をお風呂で洗うように、心の洗濯のつもりで練習を習慣づけている。

<瞑想に教えられること>
  ソワソワしていても反射で動く前に気がついて、続けることも止めることも選ぶことができるようになってきた。そしてその力は日常生活で役立っている。イライラが出てきた時、作業に飽きた時、やりたくないことをやる時も一旦、止めるか止めないかを自分で決定することでストレスが少ない。
  いつも自分にとって、ラッキーなことが起きているように感じられる。
  例えば、たまたま最初に教わったのがヴィパサナー瞑想だったこと、いつも良い先生方に出会えてきたこと、練習に時間を取れる環境と健康状態でいること、などすべてのことが。

  些細なことでイライラしたりムカっとする時と面倒だと感じる時は、自分は今とても疲れているか頑張りすぎていると理解してひと呼吸置く。できれば自分を労わることを心がけることを学び、練習している。
  道でぶつかってくる人や攻撃的な人、やる気のない人を見つけたり出会ったりした時に、『この人も自分と同じに疲れているか、辛い目にあっている気の毒な人なんだ』と変換することを心がける。その結果、周囲の人間が敵ではなくなり、自然に人への恐怖は少なくなった。むしろ私は人が好きだし関わりたいほうだと気がついた。
  これらすべては練習による体験と仏教の教えの励ましのおかげである。
  ラベリングの練習を始めてからすぐ起きた印象的なことがあった。仕事中の空白時間に『怒りを作り出している!』と気がつき、考えるのをストップできたことだ。
  歩く瞑想を練習するようになってから、イライラの始まりで気がつくことができる回数も増えてきた。

<慈悲の瞑想が凄すぎること>
  仏教に出会えて幸せなことのひとつは、『慈悲』という概念を教えてもらったことだ。まず自分の幸せを祈るのがとても良い。自分の幸せを願ってもいいんだ、とホッとする。嫌いな人は嫌いなままでも良いし、嫌いな人の幸せを祈るという考え方も衝撃的だった。ムカムカする人に言葉だけでもとりあえず慈悲を唱えると明らかに気持ちが和らぐのは不思議だ。使う言葉が自分に与える影響の強さを実感でき、言葉を平和な方向に使っていきたいと意識するようにもなった。

<戒律を守る努力をすること>
  出来そうなことからがんばっている。
  まずは夫に対して『自分の愚痴を聞いてもらうのは止めよう』と決意し、最低限、口に出すことは我慢することにした。すると心の平安を取り戻しやすく、後に尾をひく時間は明らかに短くなった。

  他にも小さなことから気をつけているが、どれも同じように心の平安を保つ効果があると感じている。
    ・スマホで怒りの湧く情報を探すことを止め、避けること。
    ・人の仕事のアラを探すことを止め、慈悲の心をもつこと。
    ・『別にいいんだけど』で始まる言葉は最初から言わないこと。
    ・機嫌良くいるために元気さを保つこと。特に栄養をとること。

<これからのこと>
  もっと新しいことを知りたいし、さらに練習を深めてみたい。そして家族や周りの人に修行の成果を少しでもお返しできたらよいと思う。

    

   
行田市の古代蓮 
Y.U.さんより
 






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ダンマの言葉

              『四人の友(慈・悲・書・捨)』・・・1 

今月号から5回にわたり、「四人の友」と題して慈悲喜捨についてのダンマです。本誌20047月~12月に掲載され、一部については数年前の本欄で取り上げた個所もありますが、今回はフルバージョンでの掲載となります。なお再掲載にあたっては、読点や文言に若干の修正を加えた部分があることをご承知ください。

  私たちの心のなかには、呼び出されるのを待っている「四人の友」がいます。しかし同時に、機会があればいつでも飛び出そうとしている五人の敵(五蓋)もいます。その敵は決してじっとしていません。問題は、そうした敵を退けて友人だけと親しむほどには、私たちはつねに気を配ってはいないという点にあります。友人との親交を育むのはふさわしいことであり賢明なことですが、私たちには友と敵を見分ける方法がはっきりと分かっていないのです。
  私たちの友とは四無量心のことです。つまり「慈悲喜捨」です。もし自分のなかに四無量心が欠けているせいで自らが損なわれることが分かれば、私たちは四無量心を発達させるために何らかの策を講じることになるでしょう。

1.慈しみ
  言葉とは危険なものです。言葉は「永遠」という幻想を生み出します。私たちは言葉にとり固まれて生活していますが、それらは概念にすぎません。言葉は現実そのものではないのです。「川」という言葉を想像してみてください。「川」という言葉によって流れる川の現実を表わすことは不可能です。「川」という言葉は動きませんが、川の本質は流れていることにあります。
  「慈しみ」も同様です。心から実際に流れ出てこないかぎり決して存在しません。単に言葉のなかに留まっているだけでは無意味です。価値がありません。
  「慈しみ」という言葉も、「川」という言葉と同じくそれ自体にはなんの意味もないただの記述であり、その実態を知るためには実際の経験が必要です。もし何も知らない小さな子供に「川」という言葉を言っても、何のことか分からないでしょう。しかし、その子の手を実際に水につけて川の流れを感じさせてやると、「川」という言葉を知っているかどうかにかかわりなく川がどんなものか分かるでしょう。
  同じことが「慈しみ」にも言えます。「慈しみ」という言葉自体に意味があるわけではありません。実際に自分の心からそれが流れ出てくるのを感じたときに、初めてブッダがたくさんの法話のなかで語っていたことが何であるかを知るのです。

  私たちは感情と知性の両方を働かせて生きないかぎり人生を十分に生きているとは言えません。
  よく犯す過ちですが、感情だけで生きていると感情過多の生き方に陥る傾向があります。感情過多の生き方とはすべての物事に対して反応してしまう生き方で、それではうまくいきません。
  また知性には知性の果たすべき役割があります。人は何が起こっているのかを理解しなければなりません。しかし単にしっかり理解するだけでは知的な成長はあっても感情が伴ってきません。
  感情と知性という二つのものは手をたずさえて一緒に働く必要があります。私たちはものごとを理解するとともに自分の感情を積極的に用いなくてはなりません。つまり感情が自分の心を満たし、平安と調和の感覚をもたらすようにするのです。

  「慈しみ」あるいは「愛」というものは――この二つの言葉のうちどちらにあなたが意味を感じるかにかかわらず――愛する人がいるからとか、家族や子供と共にいるからとか、誰かが愛するに値するから、といったことの結果として生まれる感情ではありません。そういう功利的で本能的な反応は、ここでいう「慈しみ」や「愛」とは何の関係もありません。しかし実際には、誰もがそんなふうに反応してしまいがちです。

  自分の子供を愛するのは特に難しいことではありません。ほとんどの人はうまくやります。自分の親を愛するのもたいへん難しいというわけではありません。なかにはそれさえできない人もいますが、ほとんどの人は何とかやっているものです。しかし、これらは「慈しみ(Metta)」を意味するものではありません。
  ブッダが説く「慈しみ」とは、どんな生き物も差別しない心の質のことを指しています。「慈経」に書かれている最も崇高な願いは、「すべての衆生をただ一人のわが子のように愛すること」です。
  子供がいる人なら自分の子供に対して抱く感情は知っていますから、その他の人々に対する感情との違いがわかるでしょう。自分の子供に対してどんなふうに感じ、他人に対してはどんなふうに感じるでしょうか。ここに人として取り組むべき課題があります。つまり、すべての衆生をわが子のように思えるくらい自ら進んで自分の心を清浄にしない限り、「慈しみ」とその重要性は理解できないのです。

  自転車からころげ落ちて泣いている子供を見たとき、その子を起こして慰めるのは自然なことです。それが「慈しみ」でありそんなに難しいことではありません。難しいのは、すべての人々に対してそういう慈しみの感覚を起こすことです。なにしろほとんどの人々はさほど愛すべき人ではないのですから。
  誰からも慕われるような人は私たちのなかにはいません。誰からも慕われるに値するのは阿羅漢だけです。私たち自身が誰からも慕われているわけではないのに、どうして他の人にそれを期待することができるでしょうか。
  なぜ私たちは愛したいと思う人と愛することのできない人という区別をしてしまうのでしょう。私たちが適切だとみなすやり方でふるまわない人々を愛せないのは当然だと、私たちは思っています。けれども、私たち一人ひとりも含めていつも適切に行動できる人などいません。
  ちょっと考えてみればわかるように、私たちは皆人生においてさまざまな間違いを犯してきました。他人の人生については分かりませんが、自分自身の人生を見ればそれは断言できます。誰でもが間違いを犯すのです。自分でさえできないというのになぜ他人には完全であることを期待してしまうのでしょう。

  「慈しみ」には、三つの段階があるといえます。
  第一の段階には「好意」と名づけるのがよさそうです。
  私たちは互いに好意を持ちます。それは人々が一緒に暮らす時に第一に必要とされるものです。互いに好意をもたなければ一緒に瞑想さえできません。私たちは立ち上がって歩き回ることもあれば皆が静かにしているときに昔を立ててしまうこともあるでしょう。人々が互いに好意をもってなければどんな国も存在できません。
  私たちがどれだけ互いに依存しあっているか今までに考えたことがあるでしょうか。手紙の配達は郵便屋さん、野菜や果物は八百屋さん、米は農家の人、水は町の水道局というようにそれぞれに頼っているのです。私たちは隣人の好意に頼っています。好意は生きていく上で基本的に必要なものですから、たいていは皆が何とか好意を保っています。互いへの好意がなくなると無秩序状態に陥ります。

  「慈しみ」の第二の段階は「友情」と呼ぶのがいいでしょう。私たちは、ある種の人々、すなわち友人や隣近所の人々、知人、私たちに良くしてくれる人々に対して友情を感じます。友情は慈しみへの一歩ですがまだ本物の慈しみではありません。
  友情には人の心を引きつけ、他人が私たちに親愛の情を抱くようにさせる性質があります。しかし、そのなかには害になりそうな愛情も含まれています。すなわち「愛着」です。私たちは愛着を好ましいものだと思っていますがそこには執着が含まれています。友人や仲間、助けてくれる人々、同居する人々に対する執着です。
  このような執着は憎しみを作り出します。愛着を感じている人々に対するダイレクトな憎しみと言うより、その人たちを失うかもしれないという思いからの憎しみです。そこには恐れがあります。憎んでいるものに対して私たちは恐れを感じることしかできません。そのため愛は純粋なものではなくなります。執着は愛を不純なものにしてしまい、満足感は減少します。完全な満足を感じることはできなくなります。これが家族のなかで起っていることです。以上のようなわけで、この種の愛着にはいつも不満足感が付きまとうのです。

  自分の家族に対する愛を、慈しみの感情を体験するための「揺りかご」にしましょう。そのなかで慈しみの感情を育て大きくし、さらに広げていくのです。そうすれば家族への愛はそれにふさわしい意義を持つことができます。さもなければ、よくありがちなことですが、家族への愛は沸騰するやかんのように激しい感情の温床になってしまいます。
  家族のなかでの愛情は心の中に真実の慈しみを育てるために使われるべきです。真実の慈しみは、「私の夫、妻、娘、息子、母、父、祖父、祖母、叔父、叔母・・・」だから、という条件づけによって生じるものではありません。そうした条件づけはすべて「私の」とか「私のもの」といった感覚を生んでしまいます。
  そうした感覚を超越して無条件の愛にまで育てない限り、家族の愛はその目的を充分に果たせません。にもかかわらず、家族の愛はエゴを支えたり生きつづけたりするために使われてきました。生きつづけるということは達成不可能な目標であり、いくら私たちが努力しても無駄なのです。原子爆弾が落ちようと落ちまいと、私たちはずっと生きつづけることはできません。私たちの誰もが向かう場所、出あう場所は結局一つしかないのです。
  友情も同じく、執着と呼ばれる困難に付きまとわれています。私たちは友人たちに執着しています。彼らを失いたくないのです。ですから、彼らが友人でいてくれるよう彼らに良くします。そして、同じように彼らが私たちに良くしてくれないと、すぐにこのまま友人でいるべきかどうかと考えます。自分が与えたのと同じ友情や思いやり、配慮が返ってくることを期待します。これではまるで営利事業のようになってしまいます。
  自分が何かを与えると同じ価値のものが返ってくることを期待する。これはほとんどの人が当たり前にやっていることで、私たちはそれについて考えもしません。こうしたことは友人たち同士でも起こりますが、愛する人とのあいだではより頻繁に起こります。与えた愛を返してもらえないと私たちは喪失感と悲しみと落胆を感じます。相手がどこかへ行ってしまうと愛が失われたかのように思います。けれとも、一人ないし二、三人の間だけで愛を独り占めするという考えはおかしくないでしょうか。

  愛は一人の人間のなかに閉じ込めておけるものではありません。人間は骨と三十二個の器官を収めてそれを皮膚で包んだ袋に過ぎないのです。そんな袋のなかにどうやって愛を閉じ込めておくことができるでしょうか。しかし、有名な悲劇はすべてそういう愛についての物語なのです。
  「ロミオとジュリエット」や「風とともに去りぬ」などは、誰かが離れていったり相手に興味を失ったり、死に別れたりする話です。人間は死によって、あるいは考えや気持ちが変わることによって互いから離れざるをえません。彼らが別れるべきか否かが問題なのではありません。愛を一人や二人の人間のなかに閉じ込めておくことはそもそもできないのです。

  愛は、ある特定の感情のなかに囲い込まれた状態で存在しています。ですから私たちは家族への愛を活用して愛のこもった感情を拡げて大きくするようにしなければなりません。さもないと、自分が執着している人が何かの理由で離れていくときに私たちはきっと傷つくことになります。
  家族愛の一番重要な目的は愛のこもった感情について理解すること、そしてその愛をもって行動することです。愛をもって行動するのは、10日間の瞑想合宿や慈経を唱える時だけに限りません。知性や感情は照明のように自由に付けたり消したりできません。私たちが愛をもって行動できるようになるには、忍耐と決意をもって知性と感情を体系的に訓練する必要があるのです。(つづく)
  アヤ・ケーマ尼『Behg NobodyGoig Nowhere」を参考にまとめました。(編集部)

       

 今日の一言:選

(1)ネガティブな情況の流れを静かに受け止めているのか、否定的なものの見方と反応の結果を自ら具現化させているのか?
  どうしようもない嫌なことに巻き込まれたのではなく、無意識に自分の望んだことが起きているのではないか。
  悲観と負のスパイラルの中で、業が帰結し、新たな業が作られていることに無自覚な人・・。

(2)チワワからセントバーナードまで、これだけ色も大きさも顔も形も異なるのに、同じ「犬」として一つにまとめてしまう。
  その能力が、万物の中に無常の法則を洞察させるのだろう。
  いつまでも昔のことを恨み、邪推し、将来不安に怯えながら暮らす、妄想の地獄も手に入れてしまったが・・・。

(3)人は、「理不尽」と感じた時と「自分が正しい」と思ったとき、最もよく怒る。
   因果論を徹底的に理解すると、「起きたことは全て正しい」という意味が腹に落ち るだろう。
   すると、怒りに気づいて抑止するのではなく、怒りという反応そのものが激減する。
   愚か者は、よく怒る・・・。

(4)ツイッターの原稿を書こうとタブレットに触れた瞬間、いきなり操作不能となり アッという間に初期化されてしまった。
   再使用可能となるまでの煩わしさを思い、一瞬、呆然としたが、冷静だった。
   時間を空費する不善業が現象化したのだろう。
   腹が括れていれば、嫌悪も失望もあり得ない。

(5)聖者でない限り、不善業を作ってしまう瞬間も悪意が浮かぶ一瞬も、悲しいかな、 無くすことができない・・。
   人生苦を受ける原因をゼロにはできないのだから、この世は一切皆苦の構造であり 続けるだろう。
   のみならず、久遠の過去世からの負債はいかばかりか。
   解脱するしかない・・・。

(6)なぜ、あの人に・・と首をかしげたくなるような事に襲われるのが人生だ。
   だが、現象が生起したからには、相応のカルマを作った瞬間があったはずである。
   お釈迦様ですら、罵られたこともハメられたことも足指に棘を刺したこともあった のだ。
   起きたことは全て、引き受けていく覚悟・・・。

     

   読んでみました
マシュー・ウォーカー著
           『睡眠こそ最強の解決策である』(SBクリエイティブ 2018)
  本書はマシュー・ウォーカーという睡眠科学の第一人者(現在、カルフォニア大学ルバークレー校教授)が書いたベストセラー。この本では、睡眠の重要性や効果、不足のリスク、改善の方法などについて、最新の研究をもとに分かりやすく説明している。
  睡眠は記憶力、創造力、ダイエット、免疫力、幸福度、長寿など、すべてのパフォーマンスに影響を与えるということが科学的に証明されているが、睡眠について、これほど広範囲で科学的に書かれた本は今まで読んだことがない。面白くて、寝食を忘れて読んでしまった。
  本書については、特に実験によってデータ提示しておこうとする科学的な態度が気に入っている。そしてまた睡眠の効果的な取り方についてのTips(ヒント)が満載である。

  まず睡眠時間の考察、これがとても面白い。睡眠は、7.5時間は寝た方がいいようである。その理由も方法もこの本を読めばよくわかるが、私も試して以来7時間は寝るようになった。その結果すごく調子がよい。
  一般的に人間は16時間起きていると脳の機能が下がりはじめるという。認知力を維持するには1日に7時間より長い睡眠が必要であるということである。睡眠6時間という日が10日続くと、1日徹夜した時と同じくらい脳の機能は衰えるが、本人は自分が睡眠不足だとは認識できないらしい。また、寝不足の状態が1週間続いた後で、回復のための長時間睡眠を3日続けても、脳の働きは通常のレベルまで回復しない。

  こんなことを読むと恐ろしくなる。それほど、睡眠時間は重要である。それも、質の良い睡眠の時間が重要である。45時間睡眠になると、食欲が大幅に増し、ジャンクなものが食べたくなるという。ダイエットをしようとする人は、十分な睡眠がまず必要である。
  さらに、それよりなにより、長時間労働による事故や自殺など、要するに過労死レベルの出来事の背景にはこのような睡眠と脳サイドの健康問題があるように思えてならない。

  ところでこの本で私がもっとも興味を惹かれたのが、ノンレム睡眠とレム睡眠の話である。人間は睡眠の間、まったく違う2つの状態を繰り返している。レム睡眠とノンレム睡眠である。レム睡眠では、寝ているときに眼球が激しく動き、脳波の状態も活発になる。ノンレム睡眠というのはその眼球運動を伴うレム睡眠前後の長い睡眠で、そこでは脳波の活動は穏やかである。このレム睡眠とノンレム睡眠は、睡眠中一定のパターンで何度も繰り返される。

  この二つの睡眠の役割には違いがある。
  ノンレム睡眠の役割は、新しい記憶を長期の保管庫に移動させることにある。
  私たちが毎晩寝ている間、脳の中では海馬から皮質の間で情報の移動が行なわれている。こうしてノンレム睡眠によって記憶は定着する。しかし学習したその日に寝ないと効果がない。
  また、深いノンレム睡眠で一晩寝た後には、寝る前にアクセスできなかった情報にもなぜかアクセスできるようになる。つまり、ノンレム睡眠は失われた記憶を回復させられるということだ。
  さらには記憶の選別機能によって、つらい記憶や問題のある記憶を忘れることも可能にする。
  また睡眠は運動スキルも高める。身体を使った練習をすると、その練習をやめてからも脳は独自に練習を続けている。この脳の練習は寝ている時にしか行われない。だから、睡眠の後にはスキルが向上しているのだ。これはつまり、「躰に覚えさせる」ということと関連しているように思われる。

  ではレム睡眠の役割は。
  深いノンレム睡眠は記憶を定着させるという働きがあるが、それらの記憶を統合し、より高度な目的のために活用するのはレム睡眠である。レム睡眠は、人類への贈り物であると著者は言っている。
  レム睡眠は、新しい記憶を取り出して、それまでの経験の記憶と衝突させて創造性を生み出すのだ。レム睡眠を十分とることによりEQ(心の知能指数)が高くなるらしい。すなわち、日々の生活で自分の感情をコントロールできるようになる。逆に、レム睡眠を奪われると鋭く感情を見抜く能力も奪われる。人類は、他の類人猿に比べてレム睡眠の割合が大きくなり、創造性やEQが発達して複雑な社会を築けるようになった。
  レム睡眠中には、記憶の倉庫の中を自由に走り回ることができる。レム睡眠で夢を見ている脳はほぼ「何でもあり」の状態であり、現実離れすればするほどいいのである。

  私が面白いと思ったのは、人間と脳とコンピュータの違いのところである。コンピュータは大量のデータを正確に記憶することができる。しかし一般的なコンピュータは、それらのデータの関連性を見つけたり独創的な組み合わせを思いついたりすることはできない。ただ、ハードディスクの中に保存しておくだけだ。
  人間の記憶は関連というウェブの中で密接につながり合っている。だからこそ、そこから柔軟な発想や正確な予測が可能になる。人間にそれができるのはレム睡眠と夢のおかげである。
  レム睡眠は情報を斬新な発想で結びつけることだけではなく、もっとすごいこと、個々の情報から「抽象的な」概念もつくり出すことができる。そういう観点では、レム睡眠が洞察力を養うと言える。

  この本を読むと、自分の睡眠におけるノンレム睡眠とレム睡眠がどうなっているかが気になってくる。私の場合は、睡眠測定器により自分の睡眠の質を毎日計測して睡眠の質をチェックしている。
  筆者はここで、良い眠りを得るための若干のヒントを紹介しているが、なかでも夜に人工光を浴びないようにすることを勧めている。画面で青色LEDを使っているタブレットを寝る前に2時間使うと、メラトニンの分泌が23%も抑えられてしまい睡眠には大敵である。具体的な方策は以下の通りである。

  ・天井の強い明かりは避け、ほの暗い間接照明に切り替える。
  ・夜の間は、青い光を遮断するメガネをかける。(この「夜の間」とは特に時間的な記述はなく、またメガネは「ブルーライトカットのメガネ」ということと思われる)
  ・寝ている間は、寝室を真っ暗にする。
  
  そのほか、窓に遮光カーテンをかける。パソコン、スマホ、タブレットに、夜に青い光を出さないようにするソフトをインストールする、等々。


  なお、寝酒は睡眠に良いと思っている人がいるかも知れないが、アルコールを飲んだ後は浅い睡眠となり、自然な眠りとは違う。
  また、ほとんどの人にとって理想的な寝室の温度は18.3度。現代人のほとんどは気温が高すぎる環境で眠っている。そのことも眠りの質や量に満足できない一因になっている。

  なおこの本の付録に「健やかな眠りのための12のアドバイス」が載せてある。これらは参考になると思われるので以下記すことにした。
   1.いつも同じ時間に寝て、同じ時間に起きる。
   2.夜寝る前に運動してはいけない。
   3.カフェインとニコチンを摂取しない。
   4.寝る前にアルコールを摂取しない。
   5.夜の遅い時間に大量の飲食をしない。
   6.可能なら、睡眠を妨げるような薬を飲まない。
   7.午後3時をすぎたら昼寝をしない。
   8.寝る前にリラックスする。
   9.寝る前にお風呂につかる。
  10.寝室を暗くする、寝室を涼しくする。寝室にデジタル機器を持ち込まない。
  11.日中に太陽の光を浴びる。
  12.眠れないままずっと布団の中にいない。

  以上本書の概要を述べてきたけれど、それぞれに納得できる裏付けや理論的説明があり、詳細については手に取って読まれることをお勧めしたい。(N.N.

文化を散歩してみよう
                              第8回:プライドそして人と人との間(5)

7.人と人との間
  前回取り上げたような「面倒を見る」心情はなぜなのか。たとえその背景にプライドがあるとしても、それよりも文化としての傾向それ自体によるのではないかと思っています(答えになっていませんが・・・)
  人によるのはもちろんですが、ひとたび他人行儀なところが抜けてしまうととても親密な感じになります。それもハードルはけっこう低いようなのです。ピッタリした日本語が思い当たらないのですが「身内のような雰囲気」とでも言ったら良いかも知れません。
  客人に対して親切なのはもともと韓国の人々の美風ともされていて、私もそれは当たっていると思います。ただ、いずれ日本に帰ってしまうIさん(私)なので安心なのかはわかりませんが、いろいろと不満を聞かされたこともあります。もっともそのあとではケロッとしていましたが。

  それはさておき、「面倒見」がとてもいい上に人と人との関係をとても大事にします。そんなこんなで、韓国の人たちは「人というもの(人自体)がもともと好きなんだな!」という感じさえ受けました。
  話は多少ズレますが、全斗煥と盧泰愚の元大統領が1996年に裁判にかけられました。法廷写真が新聞に掲載されましたので覚えている方もおられるのではないでしょうか。日本では考えられないのですが、そこに写っていたのは両氏が手を繋いでいる姿です。
  女性同士や恋人ならともかく、男性同士が街中で手をつないでいたり(たまにですが)するのには少々驚きました。感情表現の激しさと同じように人と人との距離のとり方やその濃さなど、「ここではそれが自然なんだなあ」という印象でした。
  ただ、人間関係で言えば、その濃厚さになじめずに国外に出て行くケースもあるそうですから、100%あてはまるわけではありません。もちろんそれはどんな文化、あるいは国でも同じことでしょう。それはそれとして、一般的な話としては常に誰かと一緒にいるのが当たりのようなのです。一緒にいると心が落ち着くのかも知れません。例えば日本では孤食などと言われますが、特に食事を一人で済ませることなど考えられないようでした。

  研究所で事務をしていたAさんとBさん(ともに20代前半くらいの女性)とその友だち二人が日本語を習いたいと言うので、時々簡単な会話を教えたりしていました。彼女たちはとても気さくな感じで、今度は私に韓国語のスラングやぞんざい言葉を教え、「Iさん他の人に使ってごらん。面白いから!」などとからかったり(もちろん使いはしませんでしたが)、また一緒に食事をしたりしていました。
  日本での「おはよう」「こんにちは」などと同じように、韓国では時間によりますが「食事しました?」が挨拶代わりになることがあります。で、ある日の夕方Aさんから電話があってそう聞かれました。
  その時はもう近くの食堂で済ませていたのでそう言うと、「誰と一緒だったか?」と訊くのです。「えっ?」と思いましたが、「一人で」と答えると、一人で食事するなんてとても信じられないようでした。その上、誰かと一緒じゃなかったかという具合に何度も訊かれ、なにか疑われているようで、こっちは一人で食べても別にどうということはないのに、「なんで・・・?」と思ったものです。
  なぜそんなに気になるのか。単に一人で食事をしたのが信じられなかったのか、それとも彼女がけっこう焼き餅やきなのか、どうも後者らしいのですが特に根拠があるわけでもなく、とりあえずは不明です。いずれにしても、どんな気持ちであってもそれがストレートに出てしまう、このシリーズの最初に触れたようにその分りやすさに頷けるところもありますが、少々煩わしいところもないとは言えず、そこらあたりは若干微妙ではあります。

8.呼びかけの言葉
  韓国では相手の歳が自分より上か、同じくらいか、明らかに下か、また肩書きはどうかによって言葉遣いにはけっこう神経を使います。ネイティブでなければ細かいニュアンスまではなかなか理解できないのでこれは私の理解の範囲ですが。
  まず一般的なものとして、例えば業務上で誰かを呼ぶときの言い方です。
  韓国での一般的な呼びかけは「○○シ(氏)」で、これは「○○さん」という感じです。かなり前に空港で女性職員がフルネームに「シ」をつけて客を探していたのが耳に残っていて、おぼろげながらその映像まで今でも覚えています。
  「○○シ」は日本語で言えばだいたい「○○さん」に対応します。肩書きがない(あるいはわからない)人で自分と同等か下には使いますが、感覚的には特に親しいわけではない、あるいは第三者的な感じです。親しい知り合いなら互いに名前で、そうではなく相手に肩書きがあればその肩書きで呼ぶのが普通です。

  ただ肩書きで呼びかける場合、相手が目上ならば必ず「ニム(nim:子音で終わる)」を付けますし、あるいはそうでなくても習慣的に付けたりします。これは日本語に直訳すると「様」にあたります。
  例えば「会長」「社長」「部長」「課長」との呼びかけは日本では当たり前ですが、韓国では全てに「ニム」を付けて「○○ニム」と言わないと失礼になるどころか、極端に言えば喧嘩を売っているかのように聞こえてしまいます。ただ、「ニム」を付けるのは目上や歳上ばかりではありません。タクシーやバスの運転手にも呼びかけは「キサ(技師)ニム」、それが礼儀です。
  「ニム」についてはこんなこともありました。ペンパルの従姉妹でとても親しくしてくれた人がいます。これは呼びかけと呼び方の両方ですが、自分のことを「キムヌナ(金姉さん)」と呼びなさいと言い、旦那さん(歳上)に対しては「〇〇氏(シ)」ではなく「ヒョン(兄)ニム」と言いなさいと申し渡されました。「キムヌナ」はともかく、「ヒョンニム」はあまり使う機会がありませんでしたが・・・。
  また一般的に使っているのが「ソンセン(先生)ニム」です。もし日本で「先生様」といえばどう感じますか。たとえ「先生」だけでも、普段そう呼ばれるような職業以外の人にとっては、ことによるとからかわれているか馬鹿にされたような感じを受けるかも知れません。まして「様」を付けられたりすれば「なにそれ?」ではないでしょうか。
  ついでで恐縮ですが、日本の病院での呼び出しの「患者様」、なんとかならないものでしょうか。「患者さん」で十分だと思うのですが・・・。聞いていてかなり違和感があるのは私だけ?

  それはそうとして、韓国では「ソンセンニム」は普遍的、というよりとても大切です。なので、もし初対面で相手と自分との関係がはっきりしていなければ、「ソンセンニム」と言えばまず間違いはないでしょう。それどころか、これは聞いた話ですが、もし一見あまり教育を受けていないようにみえる、たとえば田舎からソウルに働きに出て来たような若い女の子(当時は焼き肉屋とか喫茶店にそんな子がたくさん働いていました)が呼びかけ言葉として「ソンセンニム」と言ったら、その子はきちんと礼儀、教養を身につけていると判断出来ると言うことでした。

  ただ「ソンセンニム」についてはこんなこともありました。例外には思いますが。
  あるとき、私より少し歳上の同僚、そのゼミの男子学生、そして私の3名でソウルを訪ね、旧知の退役されていた韓国陸軍の将軍(少将)と普通の韓国食堂で会食をしていました。その人は朝鮮戦争で多富洞(タブドン)の英雄と呼ばれるほどの方で、とても気さくな人格者でユーモアもあり、私もなにかにつけてずいぶん親しくさせていただきました。
  多富洞というのは大邸の近くの地名で、朝鮮戦争当時最後の防衛戦と言われたところです。もしそこを失えばまさに韓国も存在できなくなる危機にありました。田中恒夫著『朝鮮戦争多富洞の戦い』(かや書房1998)にも名前が何度も出てきています。
  それはさておき、私がトイレに行った間に、同僚はその人に「ソンセンニム」と呼びかけたそうです。もちろん日本語で会話していたなかで、ちょっと覚えたから使ってみたわけです。そうしたらその人は「私はチャングンニム(将軍さま)と呼ばれたい」と言ったそうなのです。別に怒ったわけではありませんが、同僚から「Iさんがトイレに行っていた時に云々」と、そのあと何度も繰り返しその時の様子を聞かされました。そして聞かされるたびに「さもありなん」という感じでその人が胸を張ってそう言っている姿が目に浮かんだものです。こんな情景を思い浮かべると、英語で「プライド」と言うより、(感覚的には)日本語の「誇り」の方が相応しいようにも思えます。


  ただ、その時に食堂の若い男の店員がそれを聞いて、「ふん、チャングンニム」みたいなことをつぶやいたそうで、私が見たわけではないのでハッキリしたことは言えないのですが、同僚が言うには、その店員はいわゆる「将軍がどうした」みたいな感じだったと、これまた何度も聞かされました。それが当たっているかどうか、いろいろな見方があるものです。
  余談ですが、その方の人柄などなどをとても気に入った日本人(誰かは聞いていませんが、おそらくある程度地位のある人でしょう)が、どこかで「あの人は大統領になっても良いくらいの人だ」という趣旨の発言をしたそうなのです。もちろん言った本人はリップサービスのつもりだったと思います。
  ところがその発言が時の政権(1987年以前の)の耳に入り、「あいつは野心をもっているのではないか!」と疑われ、将軍は大迷惑を被ったということを、これまた繰り返して聞かされました。発言にはほとほと気をつけてほしいということです。たとえ褒め言葉であっても、自分と異なる文化の中では問題になって思わぬ波紋を呼ぶこともあると心得ておく必要がありそうです。

  それから呼びかけと言えば夫婦の間です。日本では個々のケースでかなりバラエティに富んでいる(調査したわけではありません)ようですが、韓国では互いに「ヨボ」が一般的です。直訳すると「もし」で、「ちょっと」とか「ねえ」と同じように使います。
  この「ヨボ」に丁寧語尾「セヨ」を付けて「ヨボセヨ」は、誰か知らない人に呼びかける時、また日本の電話の「もしもし」と同様に使われています。

  もう一つ夫婦の間では日本語の「あなた」に当たる「タンシン」という呼びかけがあります。これは夫婦だけではなく特に親しい異性、恋人を呼ぶような親密さをイメージさせます。もっとも、「タンシン」以外にも「クデ」(これも「あなた」とか「君」にあたります)があります。歌などには「タンシン」も「クデ」も親しい間のいわゆる恋人を呼ぶ表現として出てきたり(その他にもあるかも知れません)しますが、どれが一番なのか、親しみの度合いは私にはよくわかりません。使ったことも使われたこともないので。
  それよりなにより、「タンシン」は安易には使わない方が良いと思います。なぜかと言うと、何かのことで議論が始まって言い合いがだんだんエスカレートしたとします。で、相手を「タンシン」と呼んだらそこからは明確な喧嘩になる、そのギヤーチェンジとなるひと言だということですから。

  呼びかけとは違いますが、もう一つ重要なのは韓国では日本の「相対敬語」と違って「絶対敬語」だと言うことです。日本では自分の側であれば上司でも「うちの社長は・・・」となりますが、絶対敬語なので「うちの社長様は・・・」となります。ただ、同僚の職員同士の会話では「ニム」を付けていないようで、互いに「うちのイサジャン(理事長)が・・・」と言っているのを聞いてはいます。

  このように韓国では、儒教文化の根強さからも呼びかけ言葉だけではなく相手との関係性によって言葉遣いを改めるのはたいへん厳格です。もちろん日本でも礼儀として当たり前ですが、「アザス!」にあたるような言葉(あるかどうかわかりませんが)を若者が目上、歳上に向って使ったらとんでもないことになるのが目にみえています。
  ただ、こうした習慣もはじめは「ん?」となりますが「郷に入れば郷に従え」、そのうちだんだん慣れてきます。

  それはそれとして、韓国社会の特徴の一つとして「ケンチャナヨ精神」などと言われることがあります。もちろんその「ケンチャナヨ」にも丁寧からぞんざいまであって、次にこの言葉をきっかけに言い方の違いを見ていきたいと思います。

9.丁寧な言い方、ぞんざいな言い方
  この「ケンチャナヨ」という言葉は韓国ドラマを見ているとよく出てきますので、ご存じの方も多いのではないでしょうか。直訳すると「大丈夫」と言う意味で、例えば精神的にも肉体的にもアクシデントがあった人に対して気遣うときは語尾を上げて尋ね、答えるときは語尾を下げて答えるというのは、おそらくどこの国の言葉でも同じだと思います。
  語尾の上げ下げというアクセントだけではなく、語尾自体も相手によって違えなければなりません。簡単に言えば、ぞんざいな「ケンチャナ」、普通に少し丁寧な「ケンチャナヨ」、それからもっとも丁寧な「ケンチャンスムニカ、ケンチャンスム二ダ」の三種です。ぞんざいな言い方は特別な友達か歳下だけ、友達でも普通は「ケンチャナヨ」、そして安全なのは最も丁寧な言い方です(注)。
  注:本来の発音はケンよりクェンに近いのですがここでは便宜のために単純化します。また「スムニダもsumnidasumunidaではありません。
  では、なぜ韓国文化を揶揄して「ケンチャナヨ精神」などと言われるのかと言えば、私の考えでは、「大丈夫」からの派生で「どうと言うことはない」という意味で使われているからだと思います。

  こんなことがありました。
  あるとき釜山で日本語を教えている大学の年配の先生とケーブルカーで街を展望できる見晴台に行き、そこのそれほど広くない屋外テラスでコーヒーを飲んでいました。ところが左側にある木の枝がちょっと邪魔になって視界を遮っています。そこで先生がそこのおばさんに、「あの木が邪魔になってよく見えない」と言うと、「ケンチャナヨ。見えるところだけ見ればいい」と堂々としたものです。先生苦笑い、一本取られた形でした。
  またデパートというより少し下のランクの百貨店(30年前のことなので恐らく今はないでしょう)に夏用のズボンを買いに行った時のこと。ずらっと並べられた中に明るい灰色の縦縞のものがあり、なかなか良さそうなのでそれを買おうかと考えて手に取ってみたところ、一部に少し汚れがついていました。そこで若い女性店員に「ここが汚れているけど、ほかに同じのないの?」と聞いたところ、「ケンチャナヨ。洗えばいい」と。たしかにそれはそうだけれど・・・、結局買わないで帰ってきました。

  もちろん「ケンチャナ」「ケンチャナヨ」「ケンチャンスムニダ」の内、最もぞんざいな言い方は目下や歳下、そしてとても親しい間だけで使われます。なので、普通の友達なら2番目です。単なる知り合いだったり歳上に対してはもちろん最も丁寧な言い方をしますが、これがなかなか難しいのです。教科書的に言えば「ヨ」をつければ丁寧言葉になるので、それで済むのかと思うと、それだけではまだ失礼で最上級の丁寧語尾でなければという場面もあります。
  こうした使い分けは、何年も住むかあるいはネイティブでないと使いこなせないのではないかとさえ思います。個人的な例に過ぎませんがこんなことがありましたから。

  私より2歳ほど下の兵役を終わった人と縁があってかなり親しくなったことがあります。二人とも20代後半で、彼の部隊がいた休戦ライン方面に案内されたり、彼の結婚式に呼ばれたりしたものです。その彼とは、当然ながらこちらは韓国語教室で習った言葉遣いで会話をします。つまり真ん中の普通の丁寧語です。
  ですがあるとき彼が、Iさんの方が歳が上、つまり韓国的には「兄さん」にあたるので「パンマル(半言葉:つまりざっくばらんな、ぞんざいな言い方)」を使ってほしいと言うのです。それで「う~ん」となったのですが、韓国語教室では「こういうシチュエーションではこう使う」というようなことは習っていませんでしたので、どのように使えばいいか分からず、結局そのままになってしまいました。
  せっかく親しくなったのに変に感じたのだと思います。23度言われましたが、そのうち無理だと諦めたらしく言わなくなってしまいました。今にして思えば、私の言葉の使い方がいつまで経っても「よそ行き言葉」のように聞こえたのではないでしょうか。でも、それが出来たら完璧なバイリンガルですから・・・。今でも「そんなの無理だよな」と思っています。

  直接私に関係する話ではありませんがこんなこともありました。
  私がお世話になっていた研究院の部屋に、公務員を定年になった後にのんびりと過ごさせるためか、天下り的なのですがとくに仕事があるようにも見えない年配の方がいました。そのシステムがどのようなものかは知りません。今もまだあるとは思えませんが、当時はそんな制度があるようでした。
  韓国では部屋に複数いる時に電話が鳴ったら受話器を取るのは若い方の役割になっています(当時は部屋に一つの電話でした)。ですから普段二人でいるときには私が取る役割のようでした。「ようでした」と言うのはそのルールはあとから知ったからで、その時はけっこう無頓着でしたが・・・。
  で、たまたま私が不在の時に東國大学の教授から電話があったそうです。教授は相手がおそらく若い人だと思ったのだと思います。「Iさんいますか?」ではなく、「Iさんいる」みたいに、多分「半マル」を使ったのではないでしょうか。
  次の日にその方から、「もし相手の人に会ったら、こちらは年齢がいくつで、元公務員で云々」としっかり伝えておいてほしいと言われました。つまり、自分の方が歳上だぞ、ぞんざいな言葉遣いは失礼だ、ということを(暗にではなくはっきりと)強調したかったわけです。私が外国人なので押さえ気味でしたが、けっこう憤慨している様子でした。とりあえず「外国人で良かった」と思ったものです。(つづく)(M..


                                      

               ちょっと紹介を!
 

榎本憲男著『サイケデリック・マウンテン』(早川書房 2023)

  榎本憲男さんの新刊が523日に発売になりました。
  今回のテーマは、マインドコントロール。ミステリー的展開の面白さに加えて、マインドコントロールの本質にせまる慧眼はさすがだと感嘆すると同時に、自分だけは、マインドコントロールとは無縁だと思い込ませる正常性バイアスの闇の深さの恐ろしさを痛感しました。
  この小説を読んで、ヴィパッサナー瞑想とは、自分で自分にかけたマインドコントロールを解いていく瞑想なのではないかと感じています。
  これまでの榎本さんのミステリーが、さらにパワーアップされた印象です。(K.U.
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