月刊サティ!

2023年6月号  Monthly sati!     June  2023


 今月の内容

 
  巻頭ダンマトーク:今月は休載いたします
   ダンマ写真
 
Web会だより ー私の瞑想体験- :
    『
ニュー・ニューシネマパラダイス(脳内映画館からの脱出)』
                                   ― シーズン2 ― (2)
  ダンマの言葉 :『段階的に進めるブッダの修行法』(7)
  今日のひと言 :選
   読んでみました :奥野克巳著
     『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして』(前)
                                  (亜紀書房 2018)
  文化を散歩してみよう :プライドそして人と人との間(3)
   ちょっと紹介を! :辛基秀著『朝鮮通信使の旅日記』(PHP新書 2002年)

     

【お知らせ】

  ※近刊される地橋先生の新しい単行本が現在最終的な段階に入っておりますので巻頭ダンマトークは少しの間お休みさせていただきます。
 

           

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。

 
     

 今月のダンマ写真 ~
 
 森林僧院のブッダ像と蓮池

地橋先生提供

    Web会だより ー私の瞑想体験-

『ニュー・ニューシネマパラダイス(脳内映画館からの脱出)』
                ― シーズン 2 ― (2)
                        by セス・プレート

(承前)
  あの父の態度はわざとじゃなくて、本人にはどうしようもないことだったのかもしれないと思うと、語弊はあるが、うれしくなった。そして、私は『ありのままの父を受け入れていなかった』ことが問題らしいと気がついた。
  よい方向へ変わる気がして、喜び勇んで家へ帰った。希望が見えたのだから、瞑想してゆっくり寝ようと思っていたのに、この期に及んで信じられないが、Amazon Prime Videoを立ち上げて、映画を観始めたのである。トムクルーズ主演の『ザ・エージェント』である。昔観たことがあったのに、どうしてもそれが観たいと思った。そして、どうしてこの映画を急に観たのか、またしても記憶の力を思い知らされる。主役のトム・クルーズは仕事も結婚もうまく行っていない。頑張っているし、家族を愛しているのに伝わらない。
  情けないトム・クルーズのルックス以外が父と重なって、号泣した。意図と行動がマッチしないために起こるトラブル。泣きすぎて上歯が痛くなった。これだけ泣いたのだから、いい加減泣き疲れて眠るだろうと思ったら、今度は深夜から朝の5時半まで小説を読んだ。どう向き合っていいのが分からず、逃避しているらしい。そのあとようやく寝落ちし、起きたら昼の14時半だった。こんなに熟睡したのは久しぶりだった。
  翌日、会社へ行く。いつも以上にイライラに気づく。父についてのわだかまりに気づいたから平穏な日々が始まるかと思いきや、ドラマみたいな激変はない。相変わらず、朝は会社に行きたくないし、瞑想はやりたくない。だけど、父親を本当にそのまま受け入れられるようになったら、何かが変わるかもしれないという望みが漠然と生まれた。
  そして、The Agent(触媒作用)が働き、確実に浄化を起こし始めており、それを裏付けることが起きた。全く仲の良くない同僚Aさんが、脈絡もなく、Aさんの父親がいかに嫌な奴で、そのせいで進学のことでもめ、いろいろ苦労した、と告白してきた。ここまでなら、最近やっている慈悲の瞑想効果でAさんが心を開いたのかな、くらいの展開であるが、私はこのAさんのことがとても苦手で、極力かかわりたくないため、仕事以外の会話を避けてきたのである。心理学の教科書のような展開だった。ああ、このAさんは私が持ってる怒りと似たようなものを持っているから、投影されていた部分があって苦手なのだなと思った。

・感情の逆襲 3 ー Boys Town(少年の町)
  浄化の触媒体験があってから2週間後。相変わらず肩が痛く、週末に整形外科に注射を打ちに行くことは続いていた。仕事はデスクワーク、昼休みと退社後は勉強。全く動かない運動不足の生活の上に、おまけに動画を観まくるので、身体が悲鳴を上げ続けていた。
  午前中に注射をし、その夜の朝カル講座に参加した。地橋先生に「瞑想中に肩に痛みが出るが、痛みを観察していると悲しくなってきて、それ以上は観ることができないので、悲しみに飲みこまれる。だからその時は肩を動かして、その動きにサティを入れているのですが、そのやり方ではだめでしょうか」と相談をした。

先生
  「例えば、鍼治療だから鍼の痛みは我慢できるけど、いきなり別のシチュエーションで針を刺されたら痛いでしょう?だから、注射だって本当は痛いものなんです。だから、毎週注射をするってよっぽどですよ。そこまでして、肩で必死に抑えているものは何ですか?」

  実はこの先生への質問が始まるとすぐに、あのイットが光速以上のスピードでやって来ていた。喉に圧を感じて、感情の卵が今にも飛び出しそうになる。喉を押さえつけるから、肩が力みに力んでいる。ああ、だからだったのか。悲しみを必死に抑えていたから、肩が痛いのか。ずっと坐っている生活習慣だけの問題ではなかったようだ。

  瞑想中の悲しみに伴って出てくるのは、いつも同じ記憶だった。父が、お前なんかうちの子じゃないと私に言ったシーン。ここだけをみたら、父親が冗談でいった会話だが、前述したように普段から父とのコミュニケーションは難しい。言葉と態度が噛み合わないのだ。当時私はまだ5才くらいだと思う。悲しくて、私はすぐに家を出ていったが、幼い私に行く当てもない。
  「ばか!絶対に家に帰らない!」と怒りながら、10分くらい先の親戚の叔父さんの家に行った。叔母さんは「どうして突然来たの?」と不思議そうだったが、私は何も言わなかった。お菓子をご馳走になって、帰らないわけにもいかないので家に戻った。父は、急にいなくなった私に「何処に行ってたんだ?」と尋ねたけれど、「おじちゃんち」と答える私に対してもちろん謝罪はない。この日から私にとって、一人で生き抜く(=家に帰らない、そのためには稼ぐ)ということと、父に甘えたい欲との板挟みを経験しながら、イットとともに成長することになる。

  父は、ここには詳しく書かないが、父の父(私の祖父)に問題があり、大変な家庭環境で子供時代を過ごした。私は父がその酷い時代を過ごしたことを家族の他のメンバーから聞いて知っていたので、父を可哀想だと思う気持ちと、父が普通の大人のように行動しないことに対する我慢を同時に持っていた。父のジキルとハイドのような態度は、家族なのに理解がむずかしい。
  こうやって、子供のころの出来事を思い出しているうちに、新たに気づけたことがある。どうして私が映画や動画依存を止められなかったのか。それは、小学校の頃、父と並んでTVで『少年の町』という古いアメリカ映画を観たことにあった。とても感動して、隣で観ていた父にいい話だといい、父も同意した。父と意見が合うということは大変稀で、この父と感動を共有したという記憶は、私にとっては一回きりの経験で、とてつもなく貴重なことだった。おそらくではあるが、この大切な感覚が欲しくて、映画に依存していたのである。
  また、この映画の内容をすっかり忘れていたので調べたところ、アメリカのある神父が、非行に走る少年少女や身寄りのない子供たちを預かって自立を促す児童自立支援施設<Girls and Boys Town>を作る話であった。父も私も、素敵な家族が欲しいという共通点があったのかもしれない。私も父もずっと『理想の父親』が欲しかったのかもしれない、と思った。
  勉強を一時ストップした。翌週の土曜には、もう注射を打ちに行かなかった。完治はしていないが、あんなに痛かったのがウソのように消えた。少し、自分に優しくして休憩することにした。(つづく)
    

百花繚乱
 
Y.U.さんより
 






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ダンマの言葉

               『段階的に進めるブッダの修行法』(7)

7.真諦
  さて、次は真諦(真理)です。これには多様な面があります。まず、言うまでもないことですが、真実を語る、ということが挙げられます。これは五戒の四番目、「嘘をつかない」という戒に当たります。しかし真諦はそれだけにとどまりません。私たちは、本当に心から正直になって、自らを発見する必要があります。これは大変困難なことです。自分以外の誰かのではなく、自らの不善を見抜くには、相当の智慧が必要です。他人のことなら、さほど難しくありません。かなり容易にわかります。けれども、自らの不善を見抜くのは難しいことであり、見抜くためには、真実への洞察と心底からの正直さが必要になります。
  それは、心の中を掘り進むように、自らに問いかけてゆくのです。最初の問いへの答えが得られたら、その答えをまた検討しなければなりません。「なぜ私はこんなことをしているのか」、「なぜこんな風に感じるのか」、「なぜこういう反応をするのか」というように。これらの問いを十分に深く掘り下げるならば、結局の所、答えはいつも「エゴ」であるはずです。「そう、それは私のエゴであり、自分ではどうすることもできないんだ」とか「それが私のカルマなんだ」と、軽々しい反応をしても役に立ちません。どちらの反応も非生産的です。なぜなら、私たちが自らの内側を何度も何度も掘り下げて、エゴの主張から来る結果を直視すれば、エゴの影響力を弱める、なんらかの方法を探し出したいと願うものだからです。
  他人が私たちを見るような目で、私たちが自らを見るのは大変難しいことです。私たちの前に鏡を置かなければなりません。姿形を映すのでなく、心や感情の成り立ちを映すのです。この鏡は、「気づき」と呼ばれます。時には、他人がどんな風に反応するかが鏡になってくれます。でも、それは全面的に真実とは言いがたいものです。その反応の中には彼らのエゴも入っていますから。ですから、主な仕事は、自らを問い直すということで進めて行かなくてはなりません。
  真理には他の面もあります。真理を知るということは、四聖諦を知ることであり、これが真実のダンマ(法)です。四聖諦がわかっているというのは、内なる洞察に依ってそれらを理解したということです。四聖諦とは、
  1)「苦」についての聖なる真理、
  2)「苦の原因」(すなわち褐変)についての聖なる真理、
  3)「苦の原因の消滅」(すなわち解脱)についての聖なる真理、
  4)「消滅に至る道」(すなわち八正道)についての聖なる真理、
の四つです。煎じつめれば、「真諦」(真理)という言葉の意味は、これだけのことに集約されます。

  すべての真理は結局の所、自由と解放へ導くものでなくてはなりません。人々は、あまたあるイデオロギーを通じ、いろいろな異なる方法によって真理を捜し求めています。それらのイデオロギーの中には、ある種の人々を抑圧する一方、別のある種の人々をもっぱら優遇しようとする、恐るべきものもあります。報復や支配につながるイデオロギーもあります。人間の心というものが、このようなイデオロギー、思考形式を創り出しているのです。悟っていなければ、人間は、エゴによる妄想の上に、自分たちのイデオロギーを創りあげます。したがって、どんなイデオロギーであれ、完全な満足をもたらすことはあり得ません。
  真理を追い求めることは善です。青年はぜひとも真理を問い続けるべきであり、年長者も追求を決して止めるべきではありません。しかし、不幸にも真理の追求は止まってしまいます。人々は、生き延びるための数多くの日常の責務で手一杯になり、すべての物事の下に隠されている真理を追求することなど、自分の能力を超えているように思うのです。そうなると、真理を求めるのに必要なエネルギーも興味ももはやありません。青年には、真理を見極めていこうとする分別がなく、年長者には、たとえ分別と経験があっても、真理を追求するだけのエネルギーがもはやない、というのは不幸なことです。まさにバーナード・ショーが言ったように、「若さが若者によって浪費されている」ことになります。
  真理を求めることは、一瞬たりとも止めるべきではありません。
  真理を求め続けるならば、最終的には、真理は人間が創り出せるものなどではないという認識に行き着くにちがいありません。真理は普遍的なものでなければなりません。それは、特定の人々、カテゴリー、性、国家、宗教にだけにあてはまるのでなく、万人にあてはまらなくてはなりません。真理は、人間の苦を取り除く道を示さなければなりません。しかも、一時的にではなく、特定のグループのためだけでもなく、完全に、元に戻らないように、苦を取り除くものでなければなりません。
  真理は絶対的なものであり、相対的なものであってはなりません。絶対的真理は、人々が抱えるさまざまな問題や私たちの日常的な問いかけを、はるかに超えたところにあります。それは、精神的な探求の世界に属しており、絶対的な真理を発見し得るのは、「精神的な道」の上においてです。私たちの住んでいる相対的な世界は、二元的な世界です。相対的な世界は、明日と昨日、善と悪、あなたと私、彼らと私達、「それが欲しい」と「それは欲しくない」といった、二元的なとらえ方で埋め尽くされています。そこには、「私の」人格と「私の」個性があり、「私が」主張し、「私が」成長したがっています。
  しかし、そのようなことは相対的なものであり、絶対的真理ではあり得ません。なぜなら、そうした状態では、すべての人を満足させることはできないからです。相対的なものは常に誰かの犠牲の上にあるものです。絶対的真理はこれらすべてを回避しなければなりません。絶対的真理を追求すれば、自己の人格や個性というものなどないという理解が徐々に生まれ、さらには、「私は」「私の」「私のもの」という考え方が誤りであり、「あなたは」「あなたの」「あなたのもの」というとらえ方が不幸な誤解であった、という認識が生じてくるでしょう。心配したり恐れたりすべき相手など、どこにもいないのです。すべては移り変わっており、堅固に見えるものは見せかけに過ぎません。絶対的真理は、特定の信仰を持ったグループや人々だけに当てはまるものではありません。
  絶対的真理は普遍的なものであり、八正道を実践することによって体験できます。波羅密の熟成によって内的な精神力が生じます。そして「絶対的な真実」へ向かって、「相対的な真実」を乗り越えていくには、多くの精神的な力が必要なのです。(つづく)
  (アヤ・ケーマ尼『Being Nobody, Going Nowhere』を参考にまとめました)

       

 今日の一言:選

(1)苦しい人生が劇的に変化する感動に支えられてもきたが、全てがバラ色の幸福の絵に塗り替わって永遠に続く……などということがあろう筈はない。
  業があれば、苦の現実は苦のままである。
  それゆえに、どんなドゥッカ()も受け入れれば終わっていくというダンマの確認が繰り返されていった。
  苦楽も失敗も成功も、一切の事象を等価に観て、淡々と無差別平等にサティを入れていく瞑想を続けていくうちに、こんなことを述懐するようになっていた。
  「何もうまくやる必要もなく、苦を避ける必要すらなく、ただ今という目の前にある物事に気づいて、力を出すことを惜しまずに、淡々となすべきことを成していくだけなのだと、美しい春の朝の道を歩きながら実感していました……

(2)人は、今の瞬間の事実に苦しんでいるのではない。
  消え去ってしまった現実は、もはや「過去」という名の妄想に過ぎない。
  苦しみは、その「過去」にしがみつき、囚われ、執着する精神から発生してくる……
  それゆえに、聖者たちは、今のことだけで暮らしている……

(3)瞑想を始めればすぐに華々しい成果が得られると勘違いするのは、多くの初心者の通弊と言えるだろう。
  初めて瞑想会に来て、「上手くいきませんでした。どうしてですか?」と真顔で訊かれる方も珍しくない。
  一度も触ったことのないピアノやヴァイオリンを初めて習った日に、「どうして上手くできないんですか?」と訊く人がいるだろうか?
  何事も修練を繰り返すことによって、新しい脳回路が形成されていく。
  定着させるのも容易ではないが、維持するのも、さらに進化させるのも大変なことである。
  どんな技能もスポーツも演奏も瞑想も、同じなのだと心得る。

(4)だが、ヴィパッサナー瞑想に正しく着手しても、生来の資質や傾向が手のひらを返したように変わることはない。
  急激な変化には反動があり、一時的な決意や戒めや外圧によって抑え込まれていたものは、やがて形状記憶合金のように元通りになっていく。
  ヴィパッサナー瞑想に出会い、くらくらする程のカルチャーショックを受け、物の考え方も行動も生活も別人のように一変したのだが、1年経ち2年経ちするうちに次第に失速し、浮かない顔で惰性に従っていたある日、忽然と姿を消していくような人もいる。
  ゆるやかに、少しづつ変化していくのが人の心である……

     

   読んでみました
奥野克巳著
 『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(前)
                                    (亜紀書房 2018年
  著者は立教大学異文化コミュニケーション学部教授。
  昨年、202112月に発刊された『絡まり合う生命-人間を超えた人類学-』(奥野克巳著)に目が向いて図書館から借りてみたが、残念ながら十分に読みこなすことが難しかった。ただ、そこに挙げられていた他の著作に興味がわき読んでみたところ、ユニークな内容とその考察がとても面白く、ぜひ本欄で紹介しようと思った。
  本書は亜紀書房のウエブマガジンに「熱帯のニーチェ」というタイトルで連載されたものを土台にしていているという。プナンと呼ばれる森の民の生き方がニーチェ流とも言うべきものに通じているそうで、本書のタイトルを「言わない」ではなく「いらない」としているのもそれに沿っているらしい。
  著者は大学在学中にメキシコの先住民を訪れたり、東南・南アジアを旅してバングラディッシュで仏僧になったりした。トルコやクルディスタン(クルド人が住む地理的領域)にも訪れ、卒業後は商社勤務を経てインドネシアを一年間放浪したのち、改めて文化人類学を選考したという。
  20064月からは、1年間の予定でボルネオ島にあるマレーシアのサラワク州、そのブラガ川上流にある500人ほどのプナンのもとで暮らし始める。それからは春秋の訪問を繰り返し、20179月現在では通算600日ほどになったという。本書はそうした体験をもとに人の社会の原初的な姿(ばかりではないが)について考察を進めていったものである。
  プナンというのはボルネオ島に暮らす人口1万人ほどの狩猟採集民、あるいは元狩猟採集民のことで、サラワク州には7千人ほどが住む。彼らが旧石器時代のやり方を今日まで維持しているという証拠はないが、そこには「定住農耕民とは異なる遊動民のエートスを持」った人々が、「人類は元来こうであったのではないかと思わせてくれる行動やアイデア」にあふれた暮らしをしているという。
  著者は言う。
  「厳密には、プナン社会は、私たちが自明視している前提が取っ払われた社会、前提以前の社会であるとは言えないかもしれない。彼らも今日では、マレーシアのサラワク州政府の行政の末端に組み入れられ、もともとは彼らが自由に動き回っていた熱帯雨林は商業用に利用され、その賠償金を定期的に受け取っているし、そのおかげで資本主義経済に巻き込まれるようになり、クーリー(労働者)として農耕民の農園で賃金労働に従事することもある。彼らの居住地のすぐそばには近隣の焼畑農耕民が経営する雑貨店があり、生活必需品だけでなく、噂好品を購入する。プナンがTシャツを着てスリッパを履いていたり、ビールを買って飲んだり、ことによると、車を持っていたりしても何の不思議もない。プナンの見た目は、現代人とそれほど変わらない。
  とはいうものの、プナンは、日本を含む現代社会で営まれている暮らしとは『別の生の可能性』を私たちに示してくれるように思われる。彼らの暮らしは、狩猟採集に根ざしているという意味で人類史的には古いのだが、科学とテクノロジーに頼って近未来を志向する現代に生きる私たちにとって、そんなものがほとんど想像されたことがないという点で、新しいのである」
  本書には多くの興味深い項目が並んでいる。ただ本稿では、私たちが無意識的に身につけてきた考え方や行動に改めて目を向けるのに役立つ、つまりは客観的な見方の刺激になるかもと思わせるテーマに絞って紹介しようと思う。なので、本稿は本書に沿った章立てにはなっていない。

(1)「食べる」ことの意味。
  著者によれば、今の私たちの「食べる」行為にはどうしてもくっついてくるものがあるという。それは何かというと、もちろん「食べる」のは「生きるため」なのだが、そこにくっついてくるのは「なぜ生きるのか」という問題だ。さらにはそのうえ、その「なぜ」の答えには「〇〇のため」(例えば「仕事」とか「家族」というような)というプロセスが付随してくるのだと。
  そうすると、例えば「『仕事』のために生きる」という観念に支配されると、ニーチェの言うように「仕事の悦びなしに働くよりは、むしろ死んだぼうがましだと考える人間も出てくる」のだという。
  対してプナンの人々はどうか。「〇〇のために」というような生き方が存在することすら想像していないように見えるという。彼らは日々「生きるために食べる。生きるためには、食べなければならないというテーマがあるのみ」、生きることと食べることは完璧にイコールなのだ。
  ただし著者はここで、現代の私たちの生き方が悪でプナン的な生き方が善であると言うことではないと急いで付け加えている。

  (私見ですが)一般的に生命が「生きるため」に食べるというのは本能(あるいは煩悩)がそう命じているからでしょう。それに対して仏教の出家者は、原則的にはただただ修行する躰を維持するために食べるだけと聞いたことがあります。とすると、やはり次元の違う話になるようです。

(2)「反省しない」こと。
  はじめのころ著者が感じたのは、プナンの人々は反省(のようなこと)をしないということだった。それは今でも謎のままだそうだ。そもそも「反省する」という意味の言葉が存在しない。
  あるときバイク(著者の私物)を貸したそうだ。そうしたら、「タイヤをパンクさせても、何も言わずにそのまま」返してき、今度はタイヤに空気を入れるポンプを貸すと、「木材を運搬するトレーラーに轢かれてぺチャンコになったそれを、何も言わずに返却」してきた。
  酒飲みで盗み癖のある男は妻や家族に咎められても反省するそぶりもない。で、彼が留守の間に共同体の人々が話し合った。その結果は・・・。男の責任を追及することではなく、「それぞれの持ちものを盗まれることがないようにつねに気をつけるようにしようではないか」ということでおしまい。
  木材伐採企業からの賠償金を前借り、それを頭金にヒゲイノシシ猟のために四輪駆動車を買った。ところが、仕留めた獲物の代金の9割はハンターたちの酒代に消えてしまう。そんなことが続いたためローン支払いの危機感が生まれ話し合いがもたれる。しかしそこでも責任が取りざたされることはなく、「ドライバーが主に売上金の管理を担えばいい」というあまり有効ではなさそうな策が示されただけ。結局、ローン支払ができずにわずか2か月あまりで四輪駆動車を手放すことになった。
  著者は「なんとも不思議なのである」としながらこう述べる。
  失敗や不首尾、過失をしても、「個人に責任を求めたり、『個人的に』反省を強いるようなことをしない」。それは「個人の責任というより、場所や時間、道具、人材などについての共同体や集団の方向づけの問題として取り扱われることが多」く、「たいてい、長い話し合いの後に、あまり効果を期待できそうにない今後の方策が立てられるだけである」と。
  著者はそこで今の日本ではどうかと考えた。すると、「我々のやり方に行き過ぎがあるのでは」という思いが浮かび、少しだけ「うらやましく」なったという。そして「言い切れるかどうか分からない」としながらも、プナンの社会には自死や精神的なストレスというものがない、あるいは、「少なくとも、顕在化はしていない」とも述べている。
  こうしたことから著者は、「反省する」「反省しない」というのは本来どういうことなのかを解明しようと試みる。なぜなら、プナンは著者に、「それまでは考えてもみなかったことを考えてみるように仕向けてくれた」からだ。だがどれほど文献を探索してみても、反省が人生を深めることは教えてくれるが、「反省」とはそもそも何なのか、それ自体について答えているものはなかった。果ては哲学や脳科学の分野までを探ってみたが、結局分かったことは「今の時点では、何も分かったとは言えない」ということだけだった。
  そこで著者は、さしあたって言えそうないくつかのことを書き留めておくだけにしたという。それらは次のようなこと。
  1に、「反省」は善悪の観念と結びついていると考えられるので、プナンにおける善悪の観念はどうなのかということ。
  2に、悪いこと、やってはいけないことをした時に、それをゆるやかに吸収するような社会的な仕組みがあるかどうか。
  3に、反省することが「より良いあり方」へと向かうという社会的な意識があるかどうかだ。それがないような社会では反省心は起きないだろうから。
  この第3点は時間感覚があるかどうかと関係がある。つまりプナンには「そういった時間感覚とそれをベースとする精神性は」どうやらなくて、「その社会は「『今を生きる』という実践に基づいて組み立てられている」だけなのだから。
  ただし、共同体の対応から見れば、「集団的には何らかの反省をしているのだと言えるのかもしれない」とも記し、そのうえで、「プナンが反省しないで生きているというのは、外来の調査研究者である私自身の見方に他ならない」わけで、「この地球上には、反省しないで生きる人々もいるのだと考えてみてはどうか」とも述べている。
  そしてさらに考察を進めた著者は、「反省」という行為は人間に本来的に備わっていたものか、それとも文化の産物として後天的に生まれたものなのかと考える。そしてもし生まれたものだったならそれはいつのことか、また生まれたその「反省」は人類の生存に役だったのかも知れないと考えることも出来るのではないかとも述べている。そのうえで、私たちは反省する世界の外へいったん出てみることができるのかどうかという問いを投げかける。

  (これもまた私見ですが)タイヤやポンプの話、盗み癖や四輪駆動の経験から、著者が「反省」というものの本質は何なのかを探ろうとまで行き着いたのはわかる気がします。なぜなら、「反省の有る無し」と言いたければ「反省」とは何かについて分っていなければならないからです。
  恐らくですが、プナンのそんな行為を目の前にして、著者ははたして「反省」という言葉を使っていいのかどうか逡巡した(もっと言えば途方に暮れた)のではないかと想像します。なので、「さしあたって」だけにまとめざるを得なかったのはやむをえなかったと思います。
  ついでにもう一つ著者がここにあげている3点について。
  1点は仏教で言う不善業や五戒と親和性があると思われますし、第2点の一部は出家サンガにおける布薩とも結びつけられるのではないかと考えます。そして第3点は懺悔と関連するのではないでしょうか。なぜなら、懺悔はこれからの生き方が横道に逸れないようにするセンサーともなるものですから。
  この社会で広く、だれでもが気軽に使っている「反省」という言葉ですが、その本質は仏教から見てどう捉えるのが正しいのか、あるいはまた妥当なのか、ぜひ知りたいと思います。

(3)「与えること」と「欲しがるな」という生き方。
  このテーマは、尻尾を分け隔てなく与え続けたために今は尻尾が無くなったマレーグマの民話から始まる。それは「人はケチであってはならない、寛大な心を持つべきだ」と伝えるもので、これは「循環」ということにつながるものだ。
  いつも世話になっている男性の家族にお土産を持って行った。そうするとすぐに、それらをねだる誰かから始まり、やがて手から手へと渡っていく。ある時など、遠く離れた森の狩猟キャンプで、以前プレゼントした日本製のウエストポーチを見知らぬ男が身につけていたそうだ。贈り物は「それを欲しがる別の誰かに惜しみなく分け与えることが期待されている」のだ。
  ではそれはプナンに生まれながら備わった「徳」なのかというと、どうもそうではないらしい。なぜなら、著者が訪ねたホストファミリーからは、決してみんなの前でお土産を見せないようにと言われるからだ。それは、みんなが「あれが欲しい、これが欲しいと言って品物を持ち帰ってしまい、手元には何も残らないことを危倶するから」で、「逆に言えば、手元にものを置いておきたいというのが本心であり、『社会慣習』として、ものを惜しみなく他人に与えることがおこなわれている」ということなのだ。
  ある時著者が幼児に飴玉をいくつか与えたところ、その子はそれを独り占めしようと、周りの子どもが欲しそうに眺めていてもそれを手放そうとはしなかったという。するとそれを見ていた母親が子どもたちにも分け与えるように促した。その子は、「最初は怪訝な様子だったが、母の教えに従って、幼児は飴玉を他の子どもたちに配り始めた」そうなのだ。
  「ケチの小さな芽は、見つけられたらただちにつぶしにかからなければならない」
  つまり、プナンはそのようにして後天的に「与えられたものを分け与える」という規範を広く行き渡らせてきたわけで、決して生まれながらに備わったものではない。
  ここでは簡単に触れているだけだが、マオリ族やアメリカ先住民には贈り物には「贈与の霊」というようなものがあって、それが動くことで全体が豊かになると考えられているという。
  プナンには「贈与の霊」という考え方はないが、個人占有の否定によってものを滞らせることなく循環させている。
  プナンで最も尊敬されるのは、与えられたものを自ら率先して他に分け与えることを「最も頻繁に実践する人物」で、そういう人は自分ではほとんど何も持たず、「ふつうは最も質素だし、場合によっては、誰よりもみすぼらしいふうをしている」という。しかしそれによって彼は人々の尊敬を得て「大きな男」(ビッグ・マン)と呼ばれ、その時の共同体のリーダーとなっている。
  彼のもとにはその徳を敬って彼を慕う人々が集まり、彼の言葉は「人々に受け入れられ、人々を動かす原動力になる」。そして彼の言葉によって人々は狩りに出かけ、言い争いは鎮められる。
  もし彼が与えられたものを独占し、出し惜しんで個人的に蓄えるようになれば、彼の言葉はしだいにカを失い人々は彼から去っていき、その時彼はもはやビッグ・マンではなくなってしまうということだ。
  では、なぜこのような社会道徳が発達してきたのか。著者は、それは食べることと生きることに深く関連するように思われると言う。なぜなら、狩猟生活には不安定性がついてまわるからだ。
  つまり、「ある」時は与え「ない」時にはもらう、このように互いに惜しみなく分け与え合うことで共同体の誰もが空腹を避けられる。「ケチはダメ」という規範が広く浸透しているのはその保証の仕組みを支えるためではないかと著者は言う。
  そのことと関連するのが、「ありがとう」という言葉はないが、それに相当する言い方として「よい心」という表現があることだ。それは「贈り手の分け与えてくれた精神性を称える表現」で、「感謝されるのではなく、分け与える精神こそが褒められる」ということだ。その意味で、「ビッグ・マン」は、「『よい心がけ』という言い回しによって表される文化規範の体現者」となっている。
  著者はこの仕組みを自身で体感している。「何も持たない(彼)や(彼女)は、つねに物欲を抱えている(私)を脅かしつづけ」、「この仕組みの渦に呑みこまれた(私)」は、「やがて持たないことの強みに気づくようになり、最後には、持たないことの快楽に酔い痴れるように」なったと。
  さらに、「この熱帯の贈与と交換の仕組みの中で、誰が最も強い存在であろうか? それは少なくとも持つ者ではない。何も持たない者こそが、そこでは最強」であるとのと結論に至った。(つづく)(M.I.

文化を散歩してみよう
                              第6回:プライドそして人と人との間(3)

②内面的もの
  前回は外からの強制力という事情のために帰国者数が少なかったのではないかと言うことで終わりました。今回は連行されてきた人々側の背景について考えてみます。ただ、心の内のことですからあくまでも推測を超えるものではありません。結論としてざっくり言えば、その地勢が社会的・文化的な違いを生み、それがおそらくは心情に影響を及ぼしたのではないかということです。

  ⅰ.予備的に
  第2回に朝鮮半島の地形について紹介したなかに毛利輝元の手紙があったことを覚えておられると思います。輝元が広く感じた朝鮮半島ですが、半島部の面積は223493 km²でこれは日本の本州の227943 km²より小さいのです。では、このように本州と面積的にはそれほど違わないのになぜ広く感じたのでしょうか。

   朝鮮半島は確かに山が多く、最高峰の白頭山で2,744m、その西側から北から南へ向って太白山脈と名付けられた山々が続いています。ただそれも2,0001,000m級で、だいたいにおいてですが人を拒むと言うほどではありません。

  日本の場合は2,000m3,000m級の日本アルプスをはじめとして、日本のたかやまは大部分が壮年期にあたるそうです。そうした山々は急峻で深い谷を抱え、またそこから流れ出た河川とともに人の行動を阻んできたことは十分に想像できます。
  ついでですので川の長さを比べてみると、半島南部を流れる洛東江でも525km、日本の河川で最も長い信濃川でも367kmです。もちろんその他の事柄もあると思いますが、これだけでも地勢の違いを際立っているように見受けられます。(地図は帝国書院『ワールドアトラス』より)


ⅱ.日本の場合
  第9回の朝鮮通信使(1719年に派遣)の一員、申維翰(シンイカン)が著述した『海游録』に次のような描写があります。

  「国中の諸山は、その祖を東北に発する。ゆえに、その地勢もまた、東に高く、西に低い。たいていの山形は秀麗である。すなわち、高岡大麓は必ず奇研にして峭抜、しかし雄険にして壮遠の勢いはない。そのほかの残山は野を抱き、浅岫(いわあな)は流れを籠め、おおむねみな蕭森にして朗麓、あたかも画中の景をなす。水またその源が博からず、彎環して浄碧、人工的に剪り穿った如くに似る。
  その人の、敏晳なる者多く、朴訥にして重厚なる者少なきは、その山水の気を得たからであろう」(注1・文献1
  地形的なことは別にしても、『敏晳なる者多く・・・』はちょっと、と思いますが。

  内村鑑三は『地人論』の「地理学と政治」のなかで、「地理学を学ばずして政治を談ずるなかれ」と述べ、吉田松陰の言葉として、「地を離るれば人なし。人を離るれば事なし。ゆえに事を成さんと欲する者はまさに地理を究むべし」を紹介しています。
  また「山国の欠点」の項では世界の山とその国々の例をあげ、
  「これ実に山国の欠点にして、国を山間に立つるの民は狭隘にして遠大ならざるの理由なり。山国の民の特徴として、激烈なる愛国心を有すると同時に、嫉妬憎悪の念に深く、針小些細の過失は百世にわたる怨恨の基となり、郡は郡と争い、村は村に抗し、外に強敵の犯すなき時は、内訌紛擾(ないこうふんじょう)の中に日を送るをもって常とす」と(文献2)。日本の場合にも当て嵌まるでしょうか。

  それはさておき、ひとつ山を越えるだけで天候が違っていたりするように、山や谷、そして川に隔てられた地域には小さな単位の独立的な文化圏を作る要素が揃っていたと言えます。今でも「隠れ里」とか「平家の落人部落(今も百数十カ所あるとの説)」と称する集落が見られるのも、隠れて生き延びることを可能にする条件があったからでしょう。ただし、戦後まもなくのころあちこちにあらわれた自称天皇はこういった「隠れ里」とはまったく関係ありませんので念のため(注2)。

  日本では古代から五畿七道として全国が区分され、六十余州の一つ一つが「○○のくに」というように「くに」であって、江戸時代にはそのなかにまた複数の藩がありました。幕府の直轄地を別にして消長はありますがその数は江戸時代を通して260を超えるほどでした(注3)。
  例えば最上川流域には、「それぞれの土地が違った個性をもち、藩までが米沢藩、上山藩、山形藩、天童藩、新庄藩、庄内藩といったようにべつべつである。それでいて、いずれも一本の川で結ばれた運命共同体であった」(文献3)と言います。
  もちろん藩と言っても、親藩、譜代、外様では事情が違うでしょうが、内政不干渉、独立採算で生き延びるために必死だったわけで、機密が外に漏れないようにしていました。芭蕉の旅が幕府から情報収集の密命を受けたものだったというような(トンデモ?)説さえあるほどです。
  ただ、江戸時代になると五街道が整備され、またそのほかの街道や脇街道によって人は移動していますし、それにともなう交流も多々ありました。おかげ参りを始めとする旅ブーム、お遍路さんや旅芸人、信仰の登山、六部という回国行者等々さまざまです。その結果、農業を始めとする産業技術などは次第に広まっていきましたし、例えば富山の薬売りなどは薬だけではなく文化の運び手でもありました。

  でもそうかといって、中央集権的に一つに統合しようと(したとすればですが)しても、地勢的に言って不可能、というよりもともとそのような発想は浮かばなかったのではないでしょうか。つまり結論として言いたいことは、日本の場合は小規模単位のまとまりが地勢的な要因を基として地方ごとに存在し、中央の権力者もそれらの自治権を認めてきたということです。

.朝鮮の場合
  これに対して朝鮮の事情はかなり違っています。
  先ほど地勢について述べましたが、とくに川の様子について印象に残っていることがあります。釜山からソウルへの汽車に乗っていたとき、左側に見える川がまるで湖のようなのです。どこが対岸なのかさえ分らないほどで、危険は感じないもののそれこそあまり水面と変わらない高さのところを走っているようでした。ちなみに、ソウルを流れる漢江の川幅は最大で1kmだそうです。
  川底とその地域の高低差が小さく(平衡川と言います)、小規模な土木工事が通用しそうもない河川では、極端に言えば、洪水になっても余計なことはやらずに(出来ないし)我慢するしかありません。村人総出で治水工事をする例などは以前にはほとんど無かったと言います。それに23日で水は引いていくと言いますし。
  「河況係数」という数字があります。最大と最小の流量の比を示すもので、計測地点(上流・下流など)や対象期間(1年か過去全てか)によって多少違いが見られるようですが、とりあえずは1に近いほど安定的な流れ、数値が大きくなればなるほど不安定という目安になります。文献3からの数字ですが、ライン川は16、ドナウ川で17、日本では筑後川が3750、利根川で928、琵琶湖を水源とする淀川でも86です。
  朝鮮半島の川はどうでしょうか。公的数字を確認することが出来ませんでしたが、洛東江の場合、日本地理学会『地理学評論 591986)』に掲載された金萬亭氏の論文「韓国洛東江の河道特性」によると372だそうです。日本の河川より変動幅は少ないようですが、洛東江はかつて典型的な平衡河川と言われてきた(論文では細かい検討が必要との見解を述べています)こともあり、自然に任せるしかありませんでした。

  では山については? やはり奥深く逃げ込んで隠れて生き続けるという隠れ里が成立するような条件は揃っていませんでした。咸鏡道以北の山岳地帯は確かに奥地と呼ばれてはいますが、それでも中央の目を逃れることは難しかったのです。日本のように「〇〇国」と言うような半独立的な自治圏は現れませんでした。政治の形もやはりそれに沿ったものになり、手法や強弱に違いがあっても、新羅による統一後は中央集権的な政治体制が続くことになります。
  朝鮮時代初期に東北の山岳地帯の咸鏡道で勃発した李施愛の乱のため、朝鮮王朝を通じてその一帯を含めた北方出身者は撤退的に差別されました。その地方を足場にする実力者が出てくるのを恐れたためです。しかしその乱は、「その地方の自治権を要求して」起こったもので、「日本を例にとっていえば、家康が天下をとったあとで、地方の藩主がそのまま殿さまとして扱ってくれといっただけの話」なのだそうです。ですが、「韓国の政治権力がもちろんそれをゆるすはずが」なく、「反乱軍は徹底的に弾圧され、以後その地方に軍事勢力が扶植されることはなく、李朝が終末を告げるときまで、この地方の人たちは完全に下積みの階層となった」ということです(文献4)。

  先ほどあげた文献2では「平原の欠点」の項で、いくつかの国を例に述べています。
  「山の特産は自由にして、平原は圧制の巣窟なり。(略)平原国の民は一組織の一分子たるにすぎず。合集体として全土を圧するの権力を有し、一個人としては一日の生をつなぐを得ず。世界の王にして社会の奴隷たるは、平原国住民の常態なり」
  朝鮮半島は全て平原というわけではありませんが、ここに記したところはまさに当て嵌まっているように思います。
  中央から派遣された地方官(牧民官という徴税人)は長くて2年ほどでしたので、その間にせっせと財物を集め、限られた官職の中での出世を図りました。逆に言えば、任期を短くすることで、地方の人々と密接になって反中央の芽が育つことを恐れたとも言えます。
  文献4には、地方官が転任するときの住民の姿が「日本人のある本」に書かれていたと紹介されています。それによると、転任する地方官の行列を伏して待っていた住民から代表者数名が立ち上がり、輿につかまって進行を妨げるふりをし、双方ともに無理やり涙をしぼり出して別れを惜しむのだそうです。
  型どおりの挨拶のあと地方官が、「本官は、今度の発令で他郡に赴任するが、上京したのち、必ずまた一度帰任するであろうから、しばらく待ってほしい」と言い、代表者たちは、「私たち郡民一同は、ふたたびあなたさまの帰任の日を鶴首して待っておりますから、一日も早く帰任されんことを願います」と述べるそうです。でもそう言ったあとでは、「だれひとりとして、もはや別れを惜しむ者はなく、そのあとを追う者もない」し、「もちろん、彼の帰任を待つ者もいない」ということでした。

  1900年代の初めに著わされた『朝鮮の悲劇』の舞台、おそらく16世紀末も変わりなかったでしょう。日本に連行されたにもかかわらず帰国を断念した(あるいは望まなかった)人々の背景の一面がここに集約されているように思います。少々長いですが、
  「一般国民の犠牲のもとでの微税請負制と収税地特許制は、政府の二大弊制であった。徴税請負制のもとでは、監司や守令は、なるべく巨額の税を徴収するための自由行動を認められていたので、彼は、その徴収した中央政府要求分以上の余分の額を、自分自身の収益として保有することができたのである。繁昌して富裕になったような人は、たちまちにして守令の執心の犠牲となった。
  守令は、とくに秋の収穫の豊かであった農民のところへやってきて、金品の借用を申し出る。もしも、その人がこれを拒否すれば、郡守はただちに彼を投獄し、その申し出を承認するまで、半ば絶食同様にさせたうえ、日に一、二回の苔刑を加えるのであった。もちろん善良な守令も悪徳な守令もいたが、総じて官衙は、すべての勤労大衆にとって恐ろしいところであった。
  ある朝鮮の農民が、あるとき私にたずねた。
  『私が、なぜ、もっと多くの穀物を栽培し、もっと多くの土地を耕作しないのかって? なぜ、私はそうしなければならないというのか? より多くの穀物収穫は為政者のよりひどい強奪を意味するだけなのに』と。(略)
  このような制度の下では、個人的企業の厳しく制限されることはたしかである。特殊な産業に対する心からの誘因を誰もが持ちえなかったのである」(文献5
  当時の身分制度は両班・中人・常民・賤民と厳しく分けられ、陶工や農民は常民とされていますが、ともに収奪に呻吟していたのは同様でした。まして、「陶磁器焼きは農業から分離され、李朝の官営手工業場におかれた奴碑の仕事であった」(文献6)とも言いますから。

ⅳプライドと内面の葛藤と
  前号であげた姜沆の『看羊録』に次のような記述があります
  「ここ(大津:現在の愛媛県大洲市)に着いて見ますに、わが国の男女で前後して擄(とら)われて来ている者が実に1000余人にものぼり、新しく〔擄われて〕来た者は、朝晩巷に群をなして哭(な)き叫んでいたのであります。以前に〔擄われて〕来た者は、半ば倭〔人〕になってしまっていました。帰〔国しようという〕計〔画〕も絶えていたからでありましょう。私がひそかに、身を挺して西の方〔故国〕に奔(のが)れ帰ろうとの一事をもって諭(さと)してみましたが、応じる者とてありませんでした」(文献7
  「前後して」の「前」とは1592年の第一次侵略(文禄の役)のこと、姜沆が藤堂高虎の水軍によって家族ともども捕らえられたのは15979月の第二次侵略(慶長の役)の時です。先に捕らえられた人々はすでに「あきらめ」の心境になっていたのでしょうか。姜沆はその後、98年に大洲から伏見に移され、その約1年半の後1600年に釈放されました。藤原惺窩が姜沆を師とし、ここから朱子学が幕府の中心統治理念となっていったのは歴史的に知られています。

  もちろん「あきらめ」の心境になったとは言え、故郷への切実な気持ちは捨てがたかったはずです。故国での生活と日本での日々や処遇、その迷いと葛藤を経た末にあえて帰国を断念した、私はそこには自覚の有無とは別にもう一つの背景があったとではないかと思われてなりません。それがこの稿の「タイトル」にあえて「プライド」を付けた理由です。

  日本では「たくみ」にものを作るような人を「匠」と呼び、一芸一能に秀でた者に対しては一目置く文化的な特徴があります。江戸時代の各藩は、その思惑はさまざまあったとしても、身分はともかく技術とともに技術者は尊重されていましたし、陶工が士分を与えられた例もあります。そもそも天照大神自身も機織りをしましたし。
  一方朝鮮ではどうかというと、「することがなければ、念仏でも誦えておれ」という警句はあっても、「たくみ」にあたる言葉がないのです。それを象徴するのが「君子不器」(君子は器ならず)という熟語ですが、それと「額に汗する労働は尊い」とする日本文化との比較については稿を改めたいと思います。
  では、農民は? 連行されたのは大多数が農民だったと言いますから、他の理由(人身売買など)を考えても、いくら何でも帰国数が少な過ぎるように感じます。ここからはまったく私の推測ですが、帰国しなかった背景には小単位で完結する日本の地勢とその社会制度があるのではないかと思っています。
  もちろん、農民をはじめとする庶民生活が厳しく苦しいのはどこでも同じです。ですが、その苦しさの中でも何かしら「やりがい」とか「誇り」を感じられるかどうか、それが心の決断には大きくものを言うのではないでしょうか。
  おそらく連れてこられた場所は、故国とは比べられないくらい細かく区分されていた土地だったはずです。もちろん、労働自体は過酷ですし飢饉などに襲われる危険もあります。ですがそれぞれの藩における生産奨励策などもあり、その単位の中で自分たちの働きが目に見えるという期待が生まれたのではないでしょうか。つまり、田畑を耕して汗を流せばそれだけの結果を得られる、たとえその中から多くを差し出されられたとしても、トータルとしては自分たちのためにもなると言う実感、つまりそうした「働きがい」、大げさに言えば「生きがい」に通じる心情が芽生えたのではないかと思っています。
  「彼らのだしうる能力の範囲内で治水工事が可能であり、それによる報いも充分に保障されるものであった。逆をいえば、こまめに働かなければ、元も子もなくなる恐れもあったが、じつに働き甲斐もあったわけだ。日本の自然はまったく適当な鞭と飴を、その地の国民にあたえてきたのだ」(文献4
  極端に少なかった帰国者数には、検証は出来ませんがこのような背景があったであろうことも、一概に否定できないのではないでしょうか。

  いずれにしても、連行されてきた人々の懊悩が尽きることはなかったでしょう。伝えられる帰国者数の少なさ、その背景には幾多の思いが渦巻いていたに相違ないということ、あまりにも当たり前ですが、恐らくそれが唯一答えられる結論的なものだと思います。
  なお本稿で取り上げた情報について、金容雲氏の著書(文献4から多くのヒントをいただいていることを申し添えます。(M.I.)

注:
  1)第9回は徳川吉宗の将軍就任の祝賀のため。申維翰は製述官(文章の起草者)で、『海游録』の付篇である『日本聞見雑録』にある。また『海游録』とは「海上の道を通しての紀行」という意味。
  2)保阪正康著『十九人の自称天皇-昭和秘史の発掘』(悠思社1992年)には、表題を含めた12の短編ドキュメンタリー作品が掲載されています。
  31万石以上の大名の領地。支藩などあり曖昧。

文献:
  1)申維翰著、姜在彦訳『海港録-朝鮮通信使の日本紀行』東洋文庫252平凡社1974
  2)松沢弘陽編集『内村鑑三』日本の名著38 中央公論社 1984
  3)富山和子著『水の文化史』中公文庫 2013
  4)金容雲著『韓国人と日本人』サイマル出版会 1983
  5F.A.マッケンジー著、渡部学訳注『朝鮮の悲劇』東洋文庫222 平凡社1972
  6)金奉鉉著『秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争』彩流社1995
  7)姜沆著、朴鐘鳴訳注『看羊録-朝鮮儒者の日本抑留記』平凡社東洋文庫440 1984


                                      

               ちょっと紹介を!
 

辛基秀著『朝鮮通信使の旅日記 ソウルから江戸-「誠心の道」を訪ねて』
                                    (PHP新書 2002年)

  江戸時代の朝鮮通信使、本書はその歴史的遺産の発掘と調査を一般向けに分りやすく、しかも興味深く述べています。先月号ではわずかに触れただけなので、ここではそれが日本にとって一大イベントであった様子を簡潔にまとめている著作から興味深いエピソードを紹介します。
  ところで、徳川時代を鎖国時代と称するのは誤りで、本書によれば鎖国という言葉が使われ出したのは1801年から。幕府の記録や文書には朝鮮王朝や琉球王朝を「通信の国」、オランダや清を「通商の国」と記してあるそうです。
  朝鮮通信使はひとことで言えば大規模な「文化使節団」、その規模は400名から500名、幕府側の費用は100万両(国家財政の1年分)を超えていたと言います。幕府や大名は通信使と民衆の直接の触れあいを禁止はしていましたが、民衆のエネルギーはそれを超えていたようです。興味があればぜひ図書館で借りてお読みください。期待を裏切らないと思います。
  なお文中は読みやすくするために漢数字の一部を算用数字に直しました。

○プロローグ「船で見物に行って沈没しかける」の項
  釜山-大坂間800キロの波涛を越えてくる大型木造船6隻と、案内する日本の1000隻の大船団の航行は瀬戸内海沿岸の民衆にとって最大の見物であった。通信使の船団に毎回数多くの見物船が近寄ってきた。(略)
  船に近寄ってはならないというきびしい御蝕も上の空、宝暦14年(1764、明和元年度)厳冬の1月には、備前日比沖で大胆にも小舟に乗り込んだ見物人が朝鮮船に近づき、書を求めようとしたが、三十数メートルの吃水の深い大型船に吸い込まれ、沈没しかけたのを助けられ、命がけで求書の目的を達した記録(趙曮『海槎日記』)がある。
  延享5年(1748、寛延元年度)の4月には、加古川の二子村の見物船が朝鮮船に吸い寄せられて下敷きになりそうになり、大人、子供ら78人が朝鮮船の甲板に引き揚げられ難を免れた。おだやかな春日和で天気はよし、船上では思いがけない音楽の交流が始まった。見物船の一人が持参した三味線を弾けば、朝鮮の楽人たちは朝鮮楽器を演奏する。(略)正徳度(1711)の楽隊は総勢51人であった。(p.2728

○相ノ島・下関「荒天がもたらす思いがけない交流」の項
  第九次享保度の通信使は、荒天のため18日間もこの島で停泊しただけに、福岡藩の費用は桁はずれである。その代償は福岡藩の送りこんだ学者たちとの交流、大陸・朝鮮の政治や文化の情勢についての情報交換、詩文唱酬の文化交流である。(p.66

○牛窓「秋祭りに伝わる唐子躍り」の項
  通信使一行に含まれた儒者、文人、医師、馬上才(曲馬師)、楽師、小童らの多彩なメンバーは瀬戸内の寄港地の民衆を魅了した。
  東西に細長い牛窓町の西にある紺浦の疫神社で、毎年秋十月に奉納される「唐子踊り」は、通信使の小童(日本の小姓)の村舞を真似て伝わったものであろう。各地の通信使の風流が消えてしまった今日では、通信使の貴重な置き土産として人気が高まっており、保存会の人々の熱心な努力で若い世代に受け継がれている。
  申維翰の『海游録』には、兵庫の港で小童対舞を楽しんだ記述がある。
  「夜、姜子青と湾岸の板を鋪いたところに出て、楽手たちに鼓笛を奏でさせ、二人の童子を対舞させた。群倭(日本人の群衆)が雲の如く集まった」(p.102

○大坂「農民奉納の船絵馬にも通信使船を描く」の項
  申維翰が「大坂は文を求める者が諸地方に倍して劇しく、あるときは鶏鳴のときに至っても寝られず」(『海游録』)と記しているように、求書、求画の過熱ぶりは悲鳴をあげるほどであった。(p.123

名古屋「下級武士・朝日文左衛門重章の日記」の項
  正徳元年(171110月、将軍家宣の将軍襲職を祝う第八次通信使の一行が性高院に到着。(略)その日記には、朝鮮人の好む鹿の肉を供するため、6月には2500人の勢子が平山谷において、棚落としという捕獲法で鹿16頭を生け捕りにしたことが記されている。(p.156

○江戸「江戸の宿舎は浅草本願寺」の項
  江戸市中では南町奉行大岡越前守忠相が警備の最終点検、確認を行なっていた。通信使の江戸入りにあたり、幕府は他の通過町同様、町奉行を通じて、警備はもちろん、道路・橋梁の修復、木戸・垣の修繕、一行が通過する通り筋の清掃と町家の修繕の徹底を命じる。(p.169
  江戸はすでに人口100万人の大都市であり、市民たちは諸大名の参勤交代行列やオランダ人、琉球人の行列にもさほど驚かなくなっていた。オランダ人の医師ケンペルは「わが一行のことは、彼らの好奇心をそそるには、あまりに微々たる存在であったためだろう」(『江戸参府紀行』)と記している。(p.170

○江戸「市中の道路は見物客で埋まり・・・」の項
  正使・任絖が見た江戸は「江戸市中の道路は見物客で埋まり、塀を築いたようだ」とその人出の多さに驚いている。町家の軒先に彩色した簾を垂らした見物席はもっぱら武士の家族のための見物席であり、結構な席料を徴収したという。「道の両側に槍や剣を地に立て、脆いている者が列をなし、道には杖をもった日本人が列をつくつて脆き見物人達が通れないように遮断していた」(任絖『丙子日本日記』)。
  朝鮮通信使一行の到来は、幕府にとっては将軍一代の盛儀として威信を高める行事であったため、見物が奨励されていた。とはいえ、高い席料を払ってまで早くから黒山の人垣がつくられたのは、江戸時代において、朝鮮だけが心を開いて交わる「通信の国」であったためと思われる。(p.171

○江戸「新井白石の提案で歓迎に雅楽を演奏」の項
  鮮通信使一行は、雅楽演奏もさることながら、朝鮮本国で絶えている高麗楽が目の前で演じられたことにことのほか感動した。(p.179

○江戸「町絵師・英一蝶の『馬上揮毫図』」の項
  絹本著色の「馬上揮毫図」では、小童は手慣れた筆遣いで漢詩を書いているものの、後ろの行列に急がされ、前方との距離が開くのを気にしてか、いらいらしている様子である。この調子では、通信使行列山行が通りすぎるのに5時間ほどもかかったのもうなずける、そんなことを思わせる絵画である。(p.190
(文責:編集部)
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