月刊サティ!

2023年5月号  Monthly sati!     May  2023


 今月の内容

 
  巻頭ダンマトーク:今月は休載いたします
   ダンマ写真
 
Web会だより ー私の瞑想体験- :
 『
ニュー・ニューシネマパラダイス(脳内映画館からの脱出)』
                        ― シーズン2 ― (1)
  ダンマの言葉 :『段階的に進めるブッダの修行法』(6)
  今日のひと言 :選
   読んでみました :榎本憲男著
   『マネーの魔術師 ハッカー黒木の告白』(中央公論社 2022)

  文化を散歩してみよう :プライドそして人と人との間(2)
   ちょっと紹介を! :司馬遼太郎著『故郷忘じがたく候』(文藝春秋 1968)

     

【お知らせ】

  ※近刊される地橋先生の新しい単行本が現在最終的な段階に入っておりますので巻頭ダンマトークは少しの間お休みさせていただきます。
 

           

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。

 
     

 今月のダンマ写真 ~
 
タイ深林僧院の黄金仏

地橋先生提供

    Web会だより ー私の瞑想体験-

『ニュー・ニューシネマパラダイス(脳内映画館からの脱出)』
                ― シーズン 2 ― (1)
                        by セス・プレート

内容

・序
・感情の逆襲 1 ― イットITそれが観えたら、終わり)  
・感情の逆襲 2 ?  The Agent (浄化の触媒) 
感情の逆襲 3 ?   Boys Town(少年の町) 
・どう生きるか      Reality Bites(俗世間はツライ?) 


・序
  初の1day合宿でコツがつかめた。瞑想を続けて人の幸せを祈れる人間になろうと鼓舞し、軽い足どりで映画館の出口扉を抜けると、そこはまた映画館だった。シネコンだったのだ。電光石火で新しいストーリーが始まったが、いままでと唯一違う点は、今や私は、好きな時に席を立って違うストーリーを選ぶ自由がある、ということだった。

・感情の逆襲 1 - イット IT(<それ>が観えたら、終わり)
  毎朝出社前に瞑想できるようになっていたのに、いつの間にか、椅子で3分瞑想。これが出来ればいいほうで、朝の瞑想をしないまま出社することが増えた。それでも、朝の瞑想が出来ない負い目があって、通勤中の瞑想は欠かさない。
  家を出たら、歩きながら足を感じて右、左、右、左とサティを入れる。電車に乗ってからは、『この車両でご一緒した皆様が、それぞれの場所で最高に幸せでありますように・・・』と祈る。小さな劣善であっても善行為をする。
  退勤後は、怖い奥さんに会いたくないサラリーマンのように外食して帰宅までの時間を稼いだり、Amazon Prime Videoの中のいろいろな映画に没入し、これでもかというくらいに瞑想を避けようとする。数日間であっても毎朝毎晩瞑想が出来ていたのだから、習慣化という意味では元に戻ってしまっていた。
  この、動画を見ること等に逃げて瞑想を避けてしまうことを地橋先生に相談すると、「瞑想が進んでくると、世俗の刺激がくだらないと分かって来るし、自然と欲しなくなる」とのこと。そんな日が来るとは今はまだとても思えないが、やっぱり瞑想を続ける他ないようだ。
  瞑想合宿後に私なりに腑に落ちたことをまとめると;

  1.合宿後は、リバウンドのように感情の起伏が激しくなるが、それは、今まで気が付いていなかったことが観えるようになっているだけ。だから、気にせず淡々と瞑想を続ける。
  2.瞑想が出来ないことに焦点を当てて落ち込むのではなく、ただ、その落ち込んだ状態を認めて客観視する。
  3.サボり、怠けを敵とみなすのではなく、ただそういう状態として認めて客観視する。
  些細なことでも善行為を続けること。例えば、短い「幸あれ!」でもいいから他者の幸せを祈ることによって、その間は不善心を止めることができる。

  とぎれとぎれでもサティを入れた生活をしているうちに確信が持てたことがあった。私の中に【何か】がいる。それは、幸せになりたい気持ちに真っ向から反対し、不幸であり続けさせようとしている。ヴィパッサナー瞑想を始めてからというもの、この【何か】は、普段から私と一緒に行動していて、むしろ、その【何か】に乗っ取られている時間のほうが長いのではないかと気づいた。決してオカルト的なことではない。それは感情の塊のようなもので、それが私を突き動かし、行動させている。スティーブンキングよろしく、以下からはその【なにか】をイット(IT)と呼ぶことにする。
  イットの登場場所は様々であるが、一番出てくるのは、一人で居てサティを忘れている時である。仕事やご近所づきあい等、大人の役割を演じている時は出て来にくいようだ。そのため、会社にいる私と一人の時間の私はまるで別人である。
  イット登場について気づけているレベルでは、下記のようなプロセスがある。

  1.記憶のイメージが浮上する。たいてい自分が失敗した場面で、自分の評判についてマイナスなことが起きた(と思い込んでいる)場面。
  2.呼吸が浅くなり、肩と首が近くなる。または、下記 3。
  3.喉から、何か圧のあるものが出てきそうになる。エイリアンの卵が喉から出てきそうな感じ。これが感情の塊だと感じる。
  4. その圧を、気分を平静にするために喉で押し戻そうとする。大人の私が内的言語でなだめることもある。この時のイットのセリフはパターン化されており、たいていこの3つ。「死にそう」「イヤ!」「吐きそう」
  5.無理やり喉の奥底に押し戻して、今までやっていた作業に戻る。

  この1から5の流れはとても速いので、落ち着くまで4から5を何度も繰り返す。だから、喉に押し込めたものは、一時的には消えるが、無くなっていない。ヴィパッサナー瞑想者の端くれとしては、イットが出てきたらサティを入れてサッと消したいところだが、圧と気持ち悪さが凄まじくて、とてもサティが入らない。これに関しては淡々と今後も瞑想の積み重ねが必要だろう。

・感情の逆襲 2 ー The Agent (浄化の触媒)
  7月初めの朝カルで、ぽろっと私の父について話した。どうして父の話をしたのか全く理由が分からない。なぜなら、私の瞑想の目的は、仕事が辛く、何年も資格試験に受からない中年の危機を脱するためだったからだ。同年、後になってこれを書きながら振り返ってみると、瞑想のおかげで本当の悩みの原因の蓋が開き始めていたのかもしれない、と思う。
  私の父は珍しい性格をしているため、他者と適切なコミュニケーションが取れないことが多い。信じられないコメントを悪気無く言う。お酒を飲むと輪をかけて口が悪くなる。矛盾しているが、基本的には優しく私を可愛がって育ててくれた。でも、一般的な大人のようにはその優しさを表現することが出来ずに、言葉のDVになることがよくあった。私が××が嫌だと言えば、そうか悪かったな、と謝罪はするが、性格は珍しいままで変わらない。
  「(そんな父に対して、私が瞑想したって私は)ブッダみたいには変われません!」と、ぽろっと先生に言った。
  そうすると先生は、なかなか変わらない人の例を出してくださった。
  先生がある方に瞑想指導されていた時に、なかなか変わらないことに対して調べていくと、ひょっとしたらその方に大人の発達障害の可能性があると分かった。生まれ持った特徴であり、変えることができないと分かったときに視座が転換して、受け入れることができた、と。ここで大切なのは、本当に相手が発達障害かどうかは問題でなく、『自分の、相手に対する視座を変えることが鍵』で、父をそのまま、ありのままに受け入れることが大事なのだ。もし、本人に「あなた発達障害
じゃないですか」等といえば立派な差別になると思うので、注意が必要である。(つづく)

       


ツツジ 路傍に咲く
 M.I.さんより
 






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ダンマの言葉

               『段階的に進めるブッダの修行法』(6)

6.忍辱
  次は忍辱、すなわち忍耐です。日常生活で忍耐心のない人は、よく落ち着きがなくなったり、不安になったりします。計画したことの結果を早く出そうとして、かえって効果的でないことをしようとします。
  忍耐心がないとエゴがあらわになります。なぜなら、私たちは自分が計画したように物事が起こることを望むからです。また、物事が起こって欲しいときに起こることも望みます。自分自身の考えしか考慮しないのです。他の要因や他人が関与するということを忘れてしまっています。私たちはまた、自分がこの惑星の、40億人のうちの一人でしかなく、この惑星は銀河の中の、ほんの一点でしかなく、その銀河というものは無数に存在する、ということも忘れてしまっています。私たちはこうしたことを都合良く忘れ去っています。物事が「今」、自分の望み通りに動くことを望みます。前もって考えていた通りに物事が起こらないと、忍耐心のない人はたいてい怒り出します。これが忍耐心のなさと怒りの悪循環です。
  忍耐強さがあると洞察力がついてきます。計画というものは、立てることはできるが、何ものかによって妨げられる場合もあることを、忍耐力のある人は実感するようになります。計画どおり行かないことが、かえって良い結果になる場合もありますし、うまく行かないのは、カルマの結果かも知れないのです。忍耐力のある人は、もろもろの妨げを受け入れる心構えができています。人生で起こったことを受け入れられないと、二重の苦を受けます。誰でも一つの苦は経験します。しかし、その苦を受け入れないと、苦は少なくとも二重になります。なぜなら、抵抗が苦を生むからです。力を込めて何かを押すと、手が痛くなってきます。手をドアや壁にそっと当てるなら、痛みは起きません。抵抗することや求めることが、私たちのすべての苦の源なのです。
  忍耐強い人とは、できごとの全体を見ることができ、物事は変化し、動き、流転して行くということを理解できる人です。今日、たいへんな困難に思えることも、明日か、来月か、来年にはまったくすべて良し、と思えるようになるかも知れません。一年前に早急に必要とされたものが、今日ではまったくどうでもよくなっていたりします。こんな具合ですから、忍耐力のある人は、何が起きていても一方的な判断を性急に下さず、その出来事にただ注意を向けます。物事が、こうなって欲しいと望んでいたとおりにならなかったとしても、そのすべてを流転の一部でしかないと見なすのです。
  波羅蜜が大いに培われるのは、何らかの洞察が生じたときだけです。そして、洞察は、正しい方向に進むのに必要な智慧と精進を培うための源泉であり、自己本位の性向に対抗するのに必要な忍辱と離欲の源泉です。なぜなら、すべては変化し(無常)、不満足なものであり(苦)、実体を持たないもの(無我)だからです。
  仏教用語の「洞察」とは、この無常、苦、無我のどれか一つを透徹して見ることを常に意味します。無常・苦・無我は活動をやめません。活動をやめてしまうのは、それらに村する私たちの注意力のほうです。私たちは他の方向ばかり見ています。私たちはこの三つが好きではないので、抵抗し、拒絶します。その存在を否定し、さらにこの三つのものから逃れる方法について、ありとあらゆるアイデアを考え出します。無常、苦、無我から逃れるには、それらを受け入れ、理解し、それらに応じて行動するしかありません。この方法なら、完全に逃れられます。その他の方法は一時的な避難路でしかなく、結局は行き止まりになって振り出しに戻ってしまいます。
  私たちは自分に対して忍耐強くある必要があります。自分に対する忍耐心がないと、他人に対して忍耐強くなることができません。自分に対して忍耐強くないと、自分を適正に評価することができません。私たちは、自分の能力や価値に対して誇張した考えを持っており、現実が自分の考えに従わないことを嫌います。例えば、自分はもう解脱しているはずだとか、自分は動かずに2時間坐り続けることができるはずだとか、眠らなくてもやっていけるはずだなどです。あらゆる「はずだ」です。こうした考えは、次に他人に振り向けられ、他人の欠点にいら立つようになります。
  忍耐強さが無頓着に堕してはいけません。非常に忍耐強い人には、心が乱れないという素晴らしい性質があります。しかし、十分な洞察と智慧がないと、いわゆる忍耐強さは簡単に無頓着に堕してしまい、自分が何をしてもかまわないと考えてしまいますが、もちろん、これは正しくありません。健全であることと物事に熟達していることは重要なことです。忍辱を本当の波羅蜜にするには智慧を使わなければなりません。今起こっていることを受け入れ、それを生々流転するものだと見なす一方で、自分を成長させる方向へ向かう決意と精進を持たねばなりません。
  無頓着な人は自分の服を見て、「あれ、服が汚い。これはどうしようもない。どんな服でも汚くなるんだ」と言うかも知れません。これは行き過ぎです。また、ある人は自分の部屋を見て、「部屋が散らかっている。どんな部屋でも散らかるんだ」と言うかも知れません。また、ある人は自分の家を見て、「ペンキが剥げている。でも、どんなペンキも剥げるんだ」と言うかも知れません。これでは、内面と外面の向上成長に自分を向かわせるのに必要な決意と精進を持たずに、すべてを起きるがままにさせていることになります。ある人は自分の心の汚れを見ながら、「でも、これはしかたがない。誰にでも食欲と嫌悪はあるんだ」と言い、その汚れをそのままにしておくかも知れません。これではまだ望ましい姿勢とは言えません。
  他方で、食欲と嫌悪を自分の中に実際に見たなら、焦っても無駄です。時間がかかるのです。私たちは太古の昔から、この世で、繰り返し繰り返し、食欲と嫌悪を行動に移し続けてきました。食欲と嫌悪を取り除くには時間がかかります。必要なのは忍辱です。無頓着ではありません。(つづく)
  (アヤ・ケーマ尼『Being Nobody, Going Nowhere』を参考にまとめました)

       

 今日の一言:選

1)苦しむだけの人生にも意味がある。
    苦受を感じる一瞬一瞬、消えていく不善業のエネルギーがあるからだ。

2)イヤだ、嫌だ、と言いながら、本当は、そのドゥッカ(苦)が好きなのではないか……

3)後になれば夢のようだと得心がいくのに、その渦中にいる時は、本気モードで反応しながらしっかり業を作ってしまう。
     ……どうすれば良いのか。
    反応系の価値観や人生観が根底から変わるまでは、サティの技術に支えられていく……

4)苦受の多い日々であっても、楽受が多くても、この世のことはただそれだけのことであって、過ぎ去ってしまえば夢のようだ……

5)業の理論上、来るべきものは来るし、原因が組み込まれていないものは、発生しようがない。
    エゴの判断基軸を捨て、理法に一切を託し、悠々と流れに従っていけばよい。

6)この世の一切を捨てていくのが原始仏教の究極の方向だが、ものごとを手放してい くのには順番がある。
    心が完全に納得了解した上で一つひとつトドメを刺していけば後戻りがない。
    それゆえに自分の現状にありのままに気づいて、在るものは在る、無いものは無 い、今は無いが再び現れるものは現れる・・と正しく知らなければならない。

7)世界最大の魚ジンベエザメとゴキブリの赤ちゃんでは、体の大きさも食べるものも 棲む場所も寿命も違っているので、優劣を競ったり、 見下したり、嫉妬し合うのは 滑稽だろう。
   そのように、人は誰も、長い輪廻の中で積み重ねてきたカルマと諸々の因縁因果が 異なるのだ。
     エゴ妄想で強引にまとめれば、苦が発生する・・。

     

   読んでみました
榎本憲男著『マネーの魔術師 ハッカー黒木の告白』
                              (中央公論新社 2022年
  榎本さんのミステリーは、謎解きとからめて、様々な社会問題について考えさせられるというダブルクリック効果が特徴です。そのため、読み終えて、「ああ、面白かった」で終わるのではなく、その後も、作品のテーマが余韻となって、生きるとは何か、人間とは何か、存在とは何かという哲学的な思考に誘っていくという不思議なミステリーという印象があります。

  『マネーの魔術師』は、リーマン・ショックの時に米国に渡り、金融関係のプログラミングや軍事のハッカーのような仕事をしていた天才プログラマーの男性(黒木透)を主軸にした物語です。軸はもう一つあって、それは、金融とは無関係な日本の伝統工芸品の美しさに価値を見出し、それらを伝承する職人たちを支援して、伝統工芸を絶やさないようにしたいという情熱を持った若い女性(柴田澪)の存在。
  黒木は、プログラミングの仕事をしながら、当時のサブプライムローンの仕組みについても、天才的な洞察でその欺瞞性を見抜きます。その部分は、前半の「長い長い夜」という章に、黒木の告白という形で見事に解説されていて、ここだけ読んだだけでも、この本に出会った甲斐があったと感じさせるほどの著者の力量を感じました。

  わかりにくい、サブプライムローンについて、これほど核心をついて説明された本は、専門書であっても今までにあったのだろうかと感じるほど。特に印象に残ったのは、証券化のトリックについて。流動性を高めるため、本来、関係のないもの同士をむりやり結びつけ、細かく刻んでごちゃまぜにした上で、それを切り売りするという手法。
  そうすると、一見、リスクは小さくなるように錯覚してしまう。でも、それは、個人が全体と独立的に存在しているという仮定が前提になっているという指摘。
  でも、その前提は、特に何も危機感がない特殊な状況の時にだけ通用する幻のようなものであって、それこそが、人々の目を眩ませている原因になっていると黒木は言います。だけど、バブルがはじけるように、過熱しきった市場が崩壊する時には、個人は全体といとも簡単に一丸となってしまう。
  それは、形がある個体から、形がない液体に変わるような質的な変化だと、著者は指摘しているのです。人々の感情というか、世の中の「空気(雰囲気)」とかいうようにしか書き表せないものなのかもしれないけれど。それが、経済の基盤にあり、それこそが、「お金」の本質ではないかと著者は黒木の告白を通して訴えているような気がしてなりませんでした。
  そういう意味では、この本のテーマは、リーマンショックの本質を理解するために最適なテキストという意味合いも強いのですけど、ストーリー的には、お金に良いお金と悪いお金の区別はあるのか、もっと言えば、この世の仕事(使命)に貴賤の区別なんてあるのかという職業の差別の問題にまで追及しているように感じられました。

  黒木は、自身の卓越した才能によって信じられないくらいの大金を稼ぎ出す、現代の金融資本主義の落とし子のような存在です。でも、その大金をゲットできる裏には、破産して首を括るまでいってしまう無数の人の苦しみがあることも事実であり、それからは完全に目を背けることはできないのです。
  一方が勝てば、一方は負けることになる。その勝ち組のスケールがハンパないものであればあるほど、負け組のスケールもハンパないものになる。そして、その格差から生まれる苦しみは、エネルギーとなって自分の心に突き刺さっていく。意識では気づけなくても、無意識はそれを感じている。勝者は、その苦しみのエネルギーを抑圧するため、さらに仕事を専念して、心を麻痺させるしかない。

  そういうカラクリがわかると、簡単に得られたお金が、ものすごく汚いもののように思えてしまい、その罪悪感が黒木の心を蝕んでいく。罪悪感を少しでも浄化したいという気持ちが、儲からないと言われている伝統工芸の分野に、お金を湯水のように注ぎ込んで活性化しようという動機になっているのだと思いました。
  まさに、悪業を善業で相殺しようというプラマイゼロの思想がそこにはあります。
  だけど、証券化のリスク低減の魔法と、それはどう違うというのか。

  世間的な価値観でいうと、美しく芸術としての価値のある伝統工芸が善の象徴だとしたら、投資や軍事の頭脳に手を貸すプログラミングやハッカーという仕事は悪の象徴になるでしょう。でも、伝統工芸で食べていくためには、お金が必要なのです。伝統工芸という贅沢品を次々に買える人など、経済的に余裕のある人以外にはないことになるから。
  勝ち組と負け組の格差が広がるということは、数的に言っても、きわめて少数の勝者に、大部分の敗者がいるというピラミッドになってしまい、価値ある伝統工芸の存続は不可能になってしまうからです。そこには、単純に、善か悪かを分けられない混沌が横たわっている。
  つまり、善いように見える仕事(お金)の背景には、悪のように感じられる仕事(お金)があり、それらは糾える縄の如く、切り離せるものではないということなのです。善だけ、悪だけという部分にきれいに解体することなどできないということ。このミステリーでは、そのような絶対的平等性にいたるプロセスを追及しているのかなと思いました。

  この本の前に読んだ、『インフォデミック  巡査長真行寺弘道』と『コールドウォー  DASPA 吉良大介』は、「コロナ2019」を背景として二つの捉え方を鮮やかに描いた力作です。これらの小説では、「自由とは何か」がテーマになってしました。解放的な自由とがんじがらめの束縛の二者択一で葛藤する二人の主人公。ここからも、自由と束縛は、言葉のようにきれいに分けられるものなのかという著者の心の叫びが聴こえてくるようです。
  そして、その葛藤からは、私たちも逃れられない運命にある。そういう意味で、榎本さんのミステリーは、法と概念の識別とは何かを追及するヴィパッサナー瞑想に通じるものがあると感じました。(K.U.

文化を散歩してみよう
                    第5回:プライドそして人と人との間(2)

  前回の最後に触れた薩摩焼に関連しては今月号の「ちょっと紹介を」をご覧いただければと思います。また、その番組『歴史発見』が角川書店より出版されていて、その第7巻に補足された資料・文章とともに内容がそのまま掲載されていました。読んでみたところ、「そういえばあれも言っていた、これもあった」と思い出され、記憶の不完全さを改めて思い知らされました。 

     左は20年ほど前に友鹿洞(ウロクトン)を訪問したときのパンフレットと、いろいろお話を伺った金在徳さんからいただいた書籍(編著)です。金在徳さんは金忠善から第14代目、番組でもインタビューを受け、また日本で講演されたりしておられます。(検索:沙也可 金在徳)

  さて、秀吉による侵略やその後の交流については、すでに多くの文献が出ていますが、なかに連行された人数に比べて帰国数の少なさに「なぜ?」という疑問を抱きました。なにしろ、56万人が連れてこられたとされるのに、記録に見える範囲では7500人が帰ったに過ぎないと言いますから。(金奉鉉著『秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争』彩流社1995による) 

  これにはいくつかの理由が考えられますが、私にはその一つとして「プライド」にかかわることもあるのではないかと思いました。そこで今回は次の話題に進む前に、そのまま前回の続きとさせていただきます。
  そのようなわけで、本稿では私の体験よりは主に文献に頼るものとなったこと、また専門的な研究ではありませんので理解の浅いところ、不十分なところもあると思いますが、あらかじめご了承ください。


 1)朝鮮通信使
  富士山をはるかに江戸の街を行列する『朝鮮通信使来朝図』というものをご覧になったことがないでしょうか。たしか日本史の教科書にも載っていたような覚えがあります。その図に関しては異説もあるようですが、朝鮮通信使は1607年の第1回から江戸時代を通じて12回にわたって来訪しています。「通信」というのは「よしみを通わせる」という意味です。
  朝鮮王朝は当時の最高の知識人、つまり儒学者を随行者とともに数百人規模で派遣しました。ただそのうち1624年の第3回までは「回答兼刷還使」と称しています。これは名称通り日本から送られた国書への朝鮮国王の回答を伝えることと、連行された人々を帰国させるという役割がありました。

  実は日本側の国書は対馬藩によって偽造されたもので、そこには藩の国交回復への切実な事情(特に米における死活問題)がありました。これについても20154月に『国書偽造 秘められた真実~日朝交渉・対馬藩の憂鬱~』としてNHKの「歴史秘話ヒストリア」で放映されています(書籍にはなっていないようです)。
  朝鮮側も偽造をほぼ察しながらも応じたと見られています。おそらくそこには朝鮮側の深刻な事情もありました。
  例えば、悲惨な状況が『懲毖録』に残されています。
  「兵禍をこうむった千里の国土は荒れさびれ、百姓たちは耕すことも種をまくこともできず、非常に多くのものが餓死した」
  また、たまたまソウルに全羅道から籾千石が船で運ばれてきた際、松葉の粉10に米屑(こごめ)1の割合で混ぜ、水を加えて飢民たちに飲ませたそうです。しかしある日、「夜に大雨が降った。飢民が私の〔宿舎の〕近くに集まって、悲しげな呻き声を上げ、聞くに忍びなかった。朝起きてみたところ、非常に多くの者があちこちに散乱して死んでいた」(ソウルが2年にわたって占領されていたころの記述)
  さらに、「時期はまさに4月ではあったが、人民はみな山に登り谷に入って〔身を隠し〕、ひとつとして麦を播く処がなかった」し、全国の飢餓が甚大で、「老弱のものはみぞに転がされ、壮者は盗賊となり、そのうえ伝染病が流行して、ほとんど死亡してしまった。父子、夫婦のものが相食み、野ざらしになった骨が野草のようにうち棄てられていた」。(柳成龍著 朴鐘鳴訳注『懲毖録』の4751より平凡社東洋文庫357 1979)

  1598年に戦いが終わった後には、「拉致・殺傷・被虜・破壊・強姦・掠奪を逃れて」さすらう人々が限りなく、当時の記録では「村民は戦争と飢餓で死に絶え、いまは10人のうち23人しか」残っておらず、加えて全国の耕地面積は戦前の3分の1に減り、「日本軍の被害をもっとも強くうけた慶尚道の田野は、戦前の6分の1に激減」したとされています。(金奉鉉著『前掲書』による)

  つまり、戸籍や土地台帳という書類もおおかた焼失し、人命や耕地を多く失ったため国家運営の基礎が危機に瀕したわけです。そのうえ明の衰退があり、その期に北方の女真族の動きがあったことも講和をあと押ししたのではないかと思います。(女真族による「後金」(後の清朝)建国は1616年)

  ところで、第8回と第9回の通信使来訪時に大きな働きをした人物に雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)があります。19905月、当時の韓国の盧泰愚大統領は、来日した際の宮中晩餐会での答辞で次のように述べました。
  270年前、朝鮮との外交にたずさわった雨森芳洲は、誠意と信義の交際を信条としたと伝えられます。彼の相手役であった朝鮮の玄徳潤は、東萊に誠信堂を建てて日本の使節をもてなしました。今後のわれわれ両国関係もこのような相互尊重と理解のうえに、共同の理想と価値を目指して発展するでありましょう」(盧泰愚著 姜尚求訳『民主主義と統一の時代 盧泰愚演説集』 柿の葉会 1990
  ちなみに、198712月の大統領選挙は、「一廬三金」(盧泰愚、金永三、金大中、金鍾泌の各氏)の争いと言われました。私も友達に誘われて行列を見物しながら歩いたことを思い出します。

  で、芳洲の著書『交隣提醒』は、対馬藩主の宗義誠(そうよしのぶ)へ交流に関する意見を54項目にまとめて提出したものですが、それは単なる具申書というより、通信使や倭館での自らの体験をふまえた「独自の哲学が展開されており、そこに『交隣捉醒』の魅力が秘められている」とされています。(下記『交隣提醒』の「はじめに」より)
  芳洲は本書で、「欺かず争わず」「誠心の交わり」をモットーに善隣外交の指針を様々な角度から述べていますが、実はここで取り上げたのは、そのなかで先入観のままに判断することの誤りとともに、互いに異なる立場を認識することの大切さを強調する具体的事例をあげているためです。「客観的な視点」を養うことはこの「文化コーナー」の一貫したテーマでもありますので、一部ですがぜひ紹介したいと思います。

  まず総論的には次のように述べています。
  「日本と朝鮮とは諸事風義違い、嗜好もそれに応じ違い候故、左様の所に勘弁これなく、日本の風義を以て朝鮮人へ交り候ては、事により喰い違い候事多くこれあり候」
  「日本にて宜しきと存じ候事を朝鮮人は宜しからずと相心得、日本にて宜しからずと存じ候事を朝鮮人は宜しく候と存じ候事限りもこれなき事に候故、朝鮮幹事の人はかようの所に心を用い申すべき事に候」
  また各論の諸例として次のようなものをあげています。
  「これ以前、国王の庭には何を種え置かれ候やと尋ね候人これあり。朴僉知返答に、麦を種え置かれ候と申し候らえば、扨々下国に候と手を打ち笑いたる人これあり候。定て草花の類少しにても種え置かれず候事はこれあるまじく候らえども、国王の御身にて稼穡を御忘れこれなしと申し候らわば古来人君の美徳にいたす事に候故、定て日本人感じ申すべしと存じ、右のごとく答え候処に、却って日本の嘲りを受け申し候。諸事、この心得これあるべき事に候」
  つまり、国王みずから農耕のことを忘れないことが昔からの美徳なので、定めし日本人も感心するだろうと思って麦を植えると答えたところ、日本人からあざけりを受けてしまったということです。(ちなみに皇居での稲作は1927(昭和2)年からだそうです)

  この外にも、輿を担ぐ人夫が寒空にも尻をまくったり足拍子をとったりするのを格好良く見られるかと思いきや、朝鮮人には無礼で不調法なことと思われたり、日本酒を三国一だと自慢したりしたところ、朝鮮人が「なるほどそうです」と言う返答聞いていい気になっていても、それはしょせん社交辞令で、「了簡もこれなき人に候と、内心にはあざけり候所」に気づくべきだともしています。
  また両国の船の構造の違いから朝鮮の船は乗り心地が良いという人もあるけれど、もしそれに習って造船したら密貿易を防げなくなるだろうとも言っています。
  そして繰り返しているのは、風習が違っているのに勝手に朝鮮人はこうだと決め付ければ「必ず了簡違いに」なるし、またこちらのやり方を押しつけることも不可だとし、最後に、「かようの事に付き日本・朝鮮嗜好・風義の同じからず候事を察し候一助と存じ書き付け置き申し候」と記しています。(雨森芳洲著 田代和生校注『交隣提醒』のうち「日本・朝鮮風義の違い①②」 平凡社東洋文庫852 2014)

  余談で恐縮ですが、前記晩餐会での答辞をきっかけに、国会議員がそのあと国会内の図書館で雨森芳洲に関する書籍を求めたと言う新聞記事があったことを覚えています。ただその時なんと「アマモリの本・・・」と言ったとか。たしかに「雨傘」は「アマ」ですが、やはり人名は正確に言ってほしかったと思います。

 2)帰国者数の少なさについて
  こうして始められた通信使は、朝鮮側にとってはもちろん友好の証しというだけではなく、日本の国情を探ることもまたその役目でした。また当初の3回は捕えられた人々の返還・帰国についてさまざまに手を尽くしましたが思惑通りにはいかなかったため、ついには半強制的に割り当てのようなことにまでなったと伝えられています。なぜなのでしょうか。おそらく外部的な理由とともに、私にはもう一つ心の内なるものがあったのではないかと思われてなりません。

  ①外部の圧力
  まず外部的な理由としては3つのことが考えられます。第一は労働力、とくに農耕です。
  連行された人の多くは農民だったとされていますが、おそらくそれまで日本国内で続いていた戦乱や朝鮮侵略に駆り出されて荒廃した農地や生産を復興させるための労働力としたのではないかと言うことです。
  日本の戦国時代、刈田、麦薙(むぎなぎ)や城下町の放火のほか民衆自体の被害が続いていました。
  「兵士たちによる『乱取り』、『人取り』すなわち物品や人間の略奪も絶えなかった。『(九条)政基公旅引付(ひきつけ)』には、守護方や根来寺の軍勢が日根庄に乱入し、放火や略奪、人の生け捕りを行っている様が、繰り返し記されている」
  「彼らを戦争に駆り立てるためには、完全に禁止することは難しく、一定の略奪は認めなければならなかったのである。上杉謙信が越山して常陸小田城(茨城県つくば市)を攻め落とした際、兵士はさっそく『人取り』に走り、城下で一人あたり2030文という安値で人身売買が行われた。しかも、それは謙信の『御意』、すなわち公認によるものだったという」(池享著『戦国大名と一揆』吉川弘文館2009

  前掲の『歴史発見』のナレーションにはこうあります。
  「秀吉が朝鮮出兵の準備にとりかかると、年貢がつり上げられ、農民が徴用され始めたため、各地の農村が疲弊していった。当時の農村の様子を示す文禄2年(1593)の豊後国検地帳には、耕すべき農民の名の多くが「失人」(うせにん)と記されている。その多くは朝鮮への徴用を嫌って、田畑を捨てて逃亡していった人々である」
  追加説明文には、大名に課せられた動員人数の基準は「100石につき4人、九州大名と船手部隊は100石につき5人」だったものの、暗黙のうちにそれ以上の動員数を求められ、また軍の全てが戦闘員というわけではなかったとあります。
  例えば、「五島氏の率いた705人のうち、騎馬・歩(かち)武者は計67人、足軽・小人を加えても計225人で、残りは船頭水夫(かこ)・夫丸(ぶまる)という運送人夫」でしたし、「島津氏が慶長元年(1596)に立てた動員計画でも、約12000人のうち、ほぼ半数の5900人は夫丸・水夫という運送人夫」でした。
  また村の帳面に「唐渡」、水夫・船頭の過半が「病死」、「逃亡」という書き込みや報告が記され、肥前名護屋に滞在した佐竹軍の家臣の日記には、朝鮮捕虜の哀話とともに礫や火あぶりという処刑の光景も記録されていると言います。そして「名護屋でさえこの始末であった。というよりも、海を渡れば二度と故郷へ戻れないとの意識が、より激しく人々を揺さぶったといえるのではないだろうか。天下統一者豊臣秀吉の野望は、その死まで厭戦と反抗のなかで続いたのである」と結ばれています。
  このように失われた人々の代わりに連行した人々を使ったのではないか、というのがまず推測されます。

  第二には技術や知識を得るために支配者によって留め置かれたということです。とくに第二次の侵略、いわゆる慶長の役では、学者や医者を始め、陶工、印刷工、木工、石工、製紙工、絵師、織物工等々の技術者に目を向けたようです。「焼きもの戦争」とはこの時に言われました。
  陶工の例をあげれば、『ちょっと紹介を』にあげた薩摩焼をはじめ、「鍋島直茂(肥前佐賀城主)は陶工・鍛冶工・画師など数千人を強制連行して帰った」が、そのなかの李参平や他の陶工たちによって多くの窯が開かれた結果、「磁器窯による佐賀藩の収入は莫大なものであった」と言います。
  そのほかにも朝鮮陶工によって開かれた窯には伊万里焼、平戸焼、有田焼、唐津焼、萩焼、高取焼、高田焼、龍門司焼、帖佐焼等々があり、また元々日本で作られていた清水焼、九谷焼、瀬戸焼、会津焼なども有田焼の技術が伝えられて改良されたと言われています。(この部分は多く金奉鉉著『秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争』彩流社1995による)

  このように支配者によって帰国を阻まれたのは陶工ばかりではなく、上にあげたさまざまな技術者、あるいは朱子学者や医者についても同様であったと考えられます。

  第三には奴隷として売買された例です。僧慶念の『朝鮮日々記』に次のようにあります。
   (慶長2年79日)「同九日ニふさんかいの町へあかりて見物しけれハ、諸国のあき人を見侍りて、釜山浦のまちハしよ国のまいはい人貴賤老にやくたちさわく躰 ※まいはい人:売買人
  (慶長11月19日)「十九日ニ、日本よりもよろつのあき(商)人もきたりしなかに、人あきないせる物来り、奥陣ヨリあとにつきあるき、男女老若かい取て、なわ(縄)にてくひ(首)をくゝりあつめ、さきへおひたて、あゆひ候ハねハあとよりつへ(杖)にておつたて、うちはしらかすの有様ハ、さなからあほうらせつの罪人をせめけるもかくやとおもひ侍る。
  *身のわさハすける心によりぬれとよろつあきなふ人のあつまり

  *かくせいやてるまたるミのにやくわんともくゝりあつめてひきてわたせる 
  かくのことくにかいあつめ、たとへハさるをくゝりてあるくことくに、牛馬をひかせ荷物もたせなとして、せむるていは、見るめいたハしくてありつる事也」
  ※かくせい:若い女性、てるま:下女にまかりなるべき一人、やくわん:若い働き手(朝鮮日々記研究会編『朝鮮日々記を読む―真宗僧が見た秀吉の朝鮮侵略』宝藏館 2000年)
  なお本書の序にはいくつかの特徴があげられているが、その一つに「はからずもこの真宗僧とおなじ太田軍に属し、おなじ戦場にいた武将大河内秀元の覚書『朝鮮記』との、丹念な対比を試みたことである。この企ての意義も大きく、つい武功自慢に偏りがちな武将たちの朝鮮戦記類と、一宗教者の戦場日記との違いを、くつきり際立たせることに成功している。類書にない貴重な成果といえる」と述べられています。参考までに。

  このように、「秀吉政権の朝鮮侵略は奴隷狩りであった、といってもいいすぎではなかろう」(金奉鉉著前掲書より)との評価もあります。どれくらいの人数かは想像の域を出ませんが、当時の世界の主要貿易品が香辛料と銀と奴隷だったと言われていることからも十分考えられます。


  付言すれば、もちろん略奪されたのは人間ばかりではありません。金属活字や典籍を始めとする多くの文化財も日本に持ち去られ、とくに金属活字は日本の文化に大きな影響を与えました。近年「対馬仏像盗難事件」が話題になっていますが、どちらの主張が正しいかの真偽はともかく、そうした争いの遠因とも言えそうです。

  このように、まずは外からの強制力によるものと考えられますが、ただ、それにしても帰国数が少なすぎるように思えてなりません。その理由はもちろん「あきらめ」とは思いますが、ただそうした心境になることを(積極的とは言わないまでも)後押しした要因があったのではないか、あるとすればそれは「プライド」と多少なりとも接点があるのではないかと考えています。ただ今回はあまりに長くなりましたので、続きは次回にしたいと思います。(この項つづく)(M.I.)

<参考までに>
  朝鮮通信使の様子については辛基秀著『朝鮮通信使往来』(労働経済社1993)に絵画や図が多く掲載され、また私の場合上垣外憲一著『雨森芳洲元禄享保の国際人』(中公新書 1989)に多く学びました。朝鮮の歴史の概略については、金両基編著の『韓国の歴史を知るための66章』(明石書店2007)がテーマごとにコンパクトにまとめられ、また参考文献も多数掲載されています。(いずれも個人的なものですが)

 
                        



          ちょっと紹介を!
 

司馬遼太郎著『故郷忘じがたく候』(文藝春秋 1968年)

  秀吉の朝鮮侵略の結果、島津氏によって薩摩に帰化せしめられた陶工の人たちの記録と14代沈壽官氏を主人公にドキュメンタリーふうに語っているものです。今回の「文化を散歩する」と関係が深いのですが、その本文の流れとしては挿入を憚れますので、ここで紹介したいと思います。

  著者は、島津勢は全羅北道の南原城の攻撃にあたって最初から陶磁の工人を捕獲する意図をもっていたのではないかと想像しつつも、次のように記します。
  「当時、日本の貴族、武将、富商のあいだで茶道が隆盛している。茶器はとくに渡来物が珍重され、たとえば韓人が日常の飯盛茶碗にしている程度のものが日本に入り、利休などの茶頭の折り紙がつくことによって千金の価をよび、この国にきた南蛮人たちまでが、『ちょうどヨーロッパにおける宝石のような扱いをうけている』と驚嘆するまでになっている。(略)
  島津勢は、そういう時代の流行のなかで朝鮮に討ち入っている。宝の山に入ったような思いであったであろう」(p.22

  そして、本書のタイトルになった出来事では。
  天明のころの医師でもあり旅行家でもあった橘南谿の旅行記の一つ『西遊記』に、彼が薩摩の苗代川を訪れた時の記録があり、挨拶に来た五人組の代表者が、南谿に問われるままにそれぞれ村の風習について語ったそうです。(『』内は同書による橘南谿の『西遊記』からの引用です)

  「一つきくごとに好奇心のつよい南谿は声をあげてめずらしがった。しかしそれにつけても、『これらの者に母国どおりの暮らしをさせ、年貢を免じ、士礼をもって待遇している薩摩藩というのは、なんと心の広いことをするものであろう』と南谿は感じ入りつつも、ひるがえってかれらがはたしてこの境遇をどう受けとっているかということに関心をもった」
  すでに先祖が渡来してから200年近く経ったことを聞いた南谿は、『昔や遠し』とうなずいて、
  「すでに日本に渡来されてから数代を経給うておりますために、ふるさとの朝鮮のことなど想い出されることもございますまい、ときくと、『さにあらず』というように伸老人はゆるやかにかぶりを振り、そのこと奇妙なものでございます、と語りはじめた。なるほど二百年近くも相成り、しかもこの国の厚恩を受けてかように暮らしております上はなんの不足があるはずもございませぬが、ひとの心というものは不思議のものにて候。故郷のことはうちわすれられず、折りにふれては夢のなかなどにも出、昼間、窯場にいてもふとふるさと床しきように想い出されて、『いまも帰国のこと許し給うほどならば、厚恩を忘れたるにはあらず候えども、帰国致したき心地に候』と言い、『故郷忘じがたしとは誰人の言い置きけることにや』と、老人は語りおさめた。
  『余も哀れとも思いて』と、南谿も共感したのか、ひっそりと書き添えている」(p.19

  もう一つは「裏切り者」に関連して。著者は戦いに関する朝鮮側や島津側の記録、また『留張』(正確には、先年朝鮮より被召渡留張)などを参照したと思われます。
  到着して3年ほど経ち、故郷の景色を偲ばせる鹿児島まで六里ほどの苗代川にとどまっていたころのこと、鹿児島城下にはすでに他の経路でやってきた朝鮮人には「高麗町」と称する町割りが与えられていました。で、そこに住まいを移すように勧められたとき、長老たちは「上意であるぞ」との使者の言葉にも動かず、移動を断る理由の一つが次のようなものでした。(もう一つは略)
  「『理由ハ、二ツアル。ヒトツハ鹿児島ニハ朱嘉全卜言フ韓人ガヰルト聞ク。カレハ裏切り者デアル。君父ノ仇ハ倶ニ天ヲ戴カズ』
と、おそるべきことを長老たちはいった。かれらのいう裏切り者朱嘉全というのは、かつてかれらと同じく全羅北道南原城の住人であり、身分低からぬ者であったが、島津勢が来攻するにあたって寝返り、道案内をつとめ、城内の様子などをことごとく教えた。戦いがおわり、日本軍が撤収するということになったとき朱嘉全は狼狽した。母国に残れば殺されるということで島津氏に頼み入り、その家臣にしてもらい、ともに日本へ渡っていまは日本姓ももらい、城下に住んでいる。
  そのうわさを長老たちはすでに耳にしていた」(p.32 (文責:編集部)

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