月刊サティ!

2023年4月号  Monthly sati!     April  2023


 今月の内容

 
  巻頭ダンマトーク:今月は休載いたします
   ダンマ写真
 
Web会だより ー私の瞑想体験- :『脳内映画館からの脱出 
                        (New New Chinema Paradise)』(6)

  ダンマの言葉 :『段階的に進めるブッダの修行法』(5)
  今日のひと言 :選
   読んでみました :長谷川櫂著 『俳句と人間』(岩波新書 2022)
  文化を散歩してみよう :プライドそして人と人との間 (1)
   ちょっと紹介を! :『韓国併合』

     

【お知らせ】

  ※近刊される地橋先生の新しい単行本が現在最終的な段階に入っておりますので巻頭ダンマトークは少しの間お休みさせていただきます。
 

           

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。

 
     

 今月のダンマ写真 ~
 
無言の説法

地橋先生提供

    Web会だより ー私の瞑想体験-

『脳内映画館からの脱出(New New Chinema Paradise)』(6)
                                by セス・プレート

(承前)
  次は食事の観察。先生からの宿題は、同じ食物を目を開けた状態と閉じた状態の両方で食べ比べてみてください、というものだった。目を閉じた瞬間に、噛むスピードが速くなった。普段こんなに速く噛んで食べてないので驚いた。おそらく視覚が閉ざされて、噛むことに集中したからだと推測。同じものを食べているのに、味も濃く強く感じられた。

  舌の働きにも驚いた。舌というのは、味と熱さを感じるためのものだと思っていたが、食べものを右の奥歯へ、左の奥歯へ、せっせと動かしていた。それから、頬の内側と歯茎の外側の間に食べ物が落ちるのが不快らしく、それを舌が取りに行こうと働いていた。あとは、いつまで噛むのかという判断。これは顎なのか、歯の下の神経なのか、それとも頬なのか、どこなのか場所は分からなかったが、これなら飲み込めるという柔らかさになるまで指令している箇所があることは分かった。こんなに面倒くさいことをえんえんとやり続けて太っていくんだから、食べることへの執着はすごいな、と思った。

  座る瞑想をする。一人で自室でするよりも仲間のいるほうが場の力が働くのか、集中が続く。妄想は出るがとにかく丁寧にラベリングをした。多少ラベリングの言葉が違ったとしても、不完全なサティを「怒り」で打ち消すのはやめようと努めた。「滅を視よう」とした。
  不意に、大嫌いな相手のことが浮かんだ。本当に嫌なことをされたので、思い出すと怒りが出るのが分かっていたため、普段は感情がエスカレートしないように即消す相手だった。でも、今回は違った。出てきたときに、幸せであるように即座に祈れた。そして、すぐに謝った。私が受けたことは相当に嫌な出来事で、その事実は変わらないのだけど、でも、相手にそれを実行させたのは紛れもなく私の欲と高慢が原因だった。それに、あんなひどいことを実行できたということは、あの人の作った悪業も相当なものだろうし、もしかすると他の人達にも同じことをやっているかもしれないと思うと、いたたまれなかった。

  そして、これは一瞬で起きた。無理やりあの人を赦そうとして考えたことではない。瞬間に立ち上がって、完了した。証拠なんてないけど、参加者の皆さんの慈悲のパワーだと思った。誰かがちょうど私に慈悲の瞑想をしてくれていたのかもしれない、そんな気がする。

★瞑想よ、こんにちは(3)  Return of the Jedi (始まりの終わり)
  合宿の面談で先生に確認してもらうため、ラベリングを声に出しながら歩行瞑想を行った。「この歩行瞑想をしている最中の妄想の出方はどうでしたか?」と聞かれ、ああ、そういえば妄想は出ていなかった、と気づいた・・・。安堵、安堵、安堵!ここまで、本当に長かった・・・。歓喜、歓喜、歓喜!!ようやく始まりが終わったのだ。
  合宿が終った当日の夜、驚いたことに、また家で瞑想をした。いつもなら、せっかく瞑想で落ち着いた心を乱すように、YouTubeか映画に走るのだが、全く見たいと思わなかった。信じられなかった。
  翌日会社に行くと、普段は「何それ? 宗教?」と言われるのを恐れ、決して瞑想の話をしないのだが、一番言うことがないだろうと思っていた同僚に、休憩中に話の流れで言ってしまい、意外にも、その同僚が「どうやるの?」と興味を持ったので、そのままそこで歩行瞑想の説明をした。
  ちょうど会社でクラブ活動が推奨されていた時期だったので、瞑想クラブのようなものを作り、社長と人事に相談してお昼休みに会議室を借りられるように頼んでみようと思いつき、プランを立てながら様子を見ている。
  それから、昼休みに歩行瞑想をする日と椅子で瞑想する日を分けて行うようにした。午後になんとなく落ち着いていられるし、怒りのキャッチが早くなって火消も早くなった。

  これで仕事中もずっと落ち着いていられると思った、その数日後。異常に私のボスが怒り出した。もともと、とても怒りっぽい人で私以外に対してもすぐよく怒る人だった。ただこのボスは、本人が転職をした後に私を呼び寄せたくらいなので信頼してもらっているのを知っているし、八つ当たりはあっても意地悪で怒ることがないというのは重々承知していた。それにしてもよく怒るようになった。よくある「お試し」というやつなのか?本当に私が怒りに対して気づいていられるようになったか試すテストなのか?そして、ボスが落ち着いたと思ったら、今度は同僚がよく怒るようになった。なんだこれは?またテストなのか?  
  そして、外部業者のいつも問題を起こす人がいつも以上にややこしい問題を起こした。これがお試しなら、いつまで続くんだろう。そして、次。そして、次。そして、次・・・。嫌だなと思うことはずっと起きた。
  でも、これは元々起きていたのだ。私の反応が変わっただけなのだ。ヴィッパサナー瞑想はうまく行ってないしサティもうまく入ってないけど、でも、客観性が上がってきたのだろう。「お試しなのか?」と受け止める余裕が出てきたのだから。
  そして、問題はたいがい自分のせいだと思われたし、エゴを脇において、相手の言っていることを丁寧に、正確に理解すれば、解決できるのだった。実際に自分の認識ミスが問題を起こしていることが多い。相手が敵だ、自分が攻撃されている、という捏造をして、本当はそんなことはないのに、怒りで私の客観性が曇っていただけなのだ。

  相変わらず家で一人で瞑想をしていると、集中は途切れるし、サティが入らないことのほうが多い。やっぱり、隙あらば瞑想サボりたいなあと思っているし、映画の誘惑に負けそうになることもある。でも、完璧に理想通りになることはあきらめた。だって、サボりたい気持ちがなくなる日はきっと来ないのだと思う。晴れて輪廻の輪から出られたら最高だが、誘惑に勝ち続けて聖者みたいに生きる日も来ない。承認欲も、高慢さも、稼ぎたい欲も、きっと無くならない。
  でも、第一歩は、そういう欲望まみれの自分を否定しないで、とにかく、ありのままに客観視できるようになること。懺悔する相手が一人もいなくなること。そして、みんなの幸せを心から祈れる優しい人間になりたい・・・と切に思う。

  最後に、これまで私に関わってくださった先生方、しごき役のトレーナーをしてくださった方、支えてくださった方々、皆々様に心から感謝申し上げます。皆様がどうかお幸せでありますように。皆様に心の平安が現れますように・・・。(fin)
    

春を彩る白木蘭と八重桜

 読者の方より
 






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『月刊サティ!』
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ダンマの言葉

               『段階的に進めるブッダの修行法』(5)

5.精進
  次は精進です。それは、自動車を動かすための燃料に例えられます。人間の場合は、その燃料を自ら作り出さなくてはなりません。それはまた、悟りに至る七覚支(注)の一つでもあり、とても重要なものです。
  精進はいろいろな方向へ向けることができます。億万長者になるにも、建物を建てるにも、他の人より有利な立場に立つためにも、大いに精進しなければなりません。すべて私たちのすることには精進が必要です。

  精進はまた、私たちに落ち着きをなくさせます。それは、この行動からあの行動へ、この考えからあの考えへ、と私たちを駆り立て続けます。何かしら満たされるものを見出すために、世界のこちら側からあちら側へと私たちを運んで行きます。精進は正しく使われなければ、非生産的になってしまう資質です。それ自体では善なるものではありません。精進は燃料にすぎませんから、それにふさわしい種類の乗り物を用意することが肝腎です。

  ブッダは五つの精神的能力(五力)について語り、それを、先頭を一頭が引き、その後に二組の二頭が続く馬車に例えました。
  先頭の馬は「気づき」であり、望むだけ早く駆けることができます。進むにあたってバランスを取るべき相手はいません。「気づき」は先導であり、先頭であり、先駆けです。それなくして馬車はスタートすることができません。
  しかし、後の二組は互いにバランスを取らなくてはなりません。二組のうち、初めのものは「精進(エネルギー)」であり、「定(集中力)」とバランスを取らなくてはなりません。
  定(集中力)は心に落ち着きをもたらします。もし、定だけで精進がなければ、眠気を催します。無感動で無気力になります。「気づき」なしの定だけにもなり得ます。なぜならば、目覚め、気付くのに十分な精進がないからです。この種の定は役に立ちません。定は精進とバランスを取る必要があります。定(集中力)なしの精進もまた役に立ちません。なぜなら、それは心を落ち着きなくさせ、いつも何かをしなければならない様にするからです。

  精進は向かうべき方向を持つ必要があります。車に燃料を入れ、出発したとしても、どこへ行くかが分からなければ何の役にも立ちません。燃料の浪費ではないでしょうか。この地球上で次から次へとエネルギー危機が起こっているのですから、どんな燃料であれ、浪費するのは許されないことではないでしょうか。私たちは、自分の乗ったこの乗り物がどこへ進んでいるのか、はっきり知っている必要があります。それは、ただ一つの方向に向かうべきです。すなわち、より高い、段階の進んだ意識を得るための、成長へ向かう方向です。

  心が成長すると、視野が広がります。私たちが十分に成長すると、鳥瞰的な視野を得ることができます。そのような、心的、精神的成長が達成され、すべてを上から見下ろせるようになるとき、下で起こっていることは、もはや私たちに影響を与えません。宇宙空間に浮かぶ、この宇宙船「地球号」で、洪水や早魅、さらには地震があろうとも、私たちの意識は影響されることがありません。意識はそれらを、「鳥の目」で見ています。そのような視野を持つと、個々の出来事ではなく、全体像が目に入ります。もし私たちが空高く上がって行き、十分な高さまで来たなら、全地球を眼下に見ることもできます。とはいえ、物理的には私たちは、ここ、地上にいますので、見ることができるのは、今いる場所だけです。

  同様のことは、内なる視野についても言えます。私たちの狭い視野では、直接に目の前にあるものしか見ることができません。体の疼きや痛み、未来に対する怖れや心配、過去への後悔、好き嫌い、私たちを取り巻く人々、などです。広がった視野を持たないので、それらしか見ることができないのです。しかし心が成長すると、一切が苦であることがわかり、もはや心配や怖れに煩わされることがありません。なぜなら、未来も過去も、一時の存在でしかないことがわかるからです。過去にも未来にも、その時々の瞬間があるだけなのです。
  何らかの結果を得ようとするなら、精進にとっては、ひたむきに向かうための、一つに絞った方向が必要です。瞑想には、驚くべき量の精神的エネルギーが必要です。ところで、精神的エネルギーは、この世界に存在する唯一のエネルギーです。物質的なものはすべて精神的エネルギーの結果に過ぎません。瞑想に上達すると、精神的エネルギーが費やされることは、もはやつらいことではなくなります。それどころか、反対のことが起こります。瞑想を通じて、新たなエネルギーが自分の中に入ってくるのです。

  精進はとりわけ本能の克服のために必要です。本能的な生き方というのは動物のものです。私たちははるかに進化しているのですから、熟慮ということをしなくてはなりません。しかし、自分自身や他人による本能的な反応を、私たちは少なからず目にします。本能を克服するには多くの精進が必要です。なぜなら、本能的な反応は、私たちの本性の多くの部分を占めているからです。私たちにとってまったく自然なこと、いとも簡単にやってしまうこと、それこそまさに超越していかなければならないことです。凡夫であるということは、苦を味わうということです。凡夫であることを超越するとは、解脱への道を行く聖者になるということです。私たちの自然のままの生き方を克服し、凡夫としての反応を克服するには、多大な精進を必要とします。

  私たちは何をするにも精進が必要です。決意によって始めることはできますが、それを継続するのは精進です。私たちは行くべき方向を知っている時にのみ、たゆむことなく続行することができるのです。そのように進み続けられる人は、たいてい他の人よりずっと多くのことを達成し、大いに賞賛されます。これは驚くべきことではありません。これらの人々は、良く方向付けられた精進を持っているのです。(つづく)

  注:悟りの七覚支(念、択法、精進、喜、軽安、定、捨)

       

 今日の一言:選

1)他人を意識する。
    不安を感じる。
    緊張する。
    ・・・現在の瞬間にすべての注意を注ぎきることができれば、無心になれるのだが・・・

2[尊師いわく、―]
  「快く感ぜられる色かたち、音声、味、香り、触れられるもの、これらに対するわたしの欲望は去ってしまった。そなたは打ち負かされたのだ。破滅をもたらす者よ。」(サンユッタニカーヤ1-4ー1-4)

3)そのとき悪魔・悪しき者は尊師に近づいてから、尊師に向かって、詩を以って語りかけた。
 ―
「かけ廻るこのこころは、虚空のうちにかけられたわなである。
  そのわなによって、そなたを縛ってやろう。修行者よ。そなたはわたしから脱れることはできないであろう。」(サンユッタニカーヤ1-4ー1-3)

4)六門に乱入してくる情報に刺激され、一瞬も止まることなく振動してしまう心・・・
  その究極のドゥッカ()に追いつめられた心は、寂滅した静けさを目指す・・・

5)瞑想をしなければ、騒がしい心が苦であるという認識も生じないだろう。
  想いが乱れ、心が乱れ、ネガティブな思考が心を駆けめぐって煩悩が生まれ、不善業が形成された結果、苦の現象に叩かれて苦受を感じる瞬間まで・・・

6)業の結果を受け取る心が一日中、落下する滝のように生滅を繰り返している・・・。
  その心とワンセットになって、眼耳鼻舌身意の情報に反応しながら、業を作る心がたたき出されていくのも止まるところがない・・・。
 「業の結果を受ける瞬間」「業を作る瞬間」「業の結果を受ける瞬間」「業を作る瞬間」→・・・
  震え続け、反応し続ける心のシステムに圧倒され、翻弄され、拘束され続ける状態には、一瞬の自由もない。
  安息もない。
  静けさもない・・・

7)自信がなく、自己肯定感の乏しかった母親が、子供の卒業式にひとり涙した。
  自分と同じ苦を受けないように、丁寧な愛情を注ぎ、全身全霊で子育てしてきた結果、 自己肯定感のある優しい子に成長し、一区切りが着いたのだ。
  瞑想に出会いダンマを指針とし、揺るぎない決意があれば、苦は乗り超えられていく・・・。

8)苦しい経験をしてきたがゆえに、人はダンマ(理法)に出会う・・・。

      



   読んでみました
長谷川櫂著『俳句と人間』(岩波新書 2022年)
  
  著者は俳人で多くの句集、評論集、エッセイ集、新聞連載があり、また俳句関連の代表や主宰に携わっている。
  時々テレビで俳句の番組を見ることがあるけれど、「なるほど!」とただ感心するばかり。しかし本書のおびに「俳句は俳句だけで終わらない」と記されていたので読んでみたところ、これもまた「なるほど!」。そこでこの欄で取り上げてみようと思った。

  著者は癌を宣告され、そのことが自分に死と人生について「あらためて考える絶好の機会」をもたらしたと考え、岩波の月刊誌『図書』に2年間連載していたエッセイをまとめたと言う。エッセイということから話題の幅もかなり広いので、ここでは全体に流れているテーマとして「時代の空気」と「言葉の影響力」の二つに絞ってみたい。

〇「時代の空気」について
  まず著者は正岡子規と夏目漱石を例にあげる。自覚のないまま思考や行動が支配されてしまうものを「時代の空気」と言い、ある時代の人々はその中に生きている。そうした見方をしてはじめて、当時の人々の生き方や考え方が理解されるし、個々としてそれに順応するか逆らうかにかかわらず、どちらもその影響下にあることに変わりはないと著者は言う。
  「小説であれ詩歌であれ優れた文学は時代の空気、時代精神を映し出す。時代の空気が作家に乗り移って書かせる、それが優れた文学なのだ。作品の登場人物だけでなく作家自身も時代の空気の中で生き、死んでゆく」

  子規は「時代の空気」に沿った生き方を志したのであり、漱石はそこから自覚的に離れざるを得なかったのだと著者は見ている。
  子規も漱石も慶應3年生まれだが、その「時代の空気」とはどのようなものだったのか。
  明治というのは、「五箇条の御誓文」の中の一つの条に、「官武一途庶民二至ル迄、各其志ヲ遂ゲ、人心ヲシテ倦マザラシメン事ヲ要ス」とあるように、「天皇から庶民まで一丸となって国家建設の役に立つ『有為の人』になる」しかない、つまりみんなが「国のために生きる」ことが求められた、著者に言わせれば「国家主義」の時代だった。

  子規は子どものころ「政治家になって明治の新国家建設に役立ちたいと夢みた」が、出身が賊藩のうえに病弱であったためにあきらめるしかなく、そこで彼は文学の世界で新国家建設の役に立とうと志す。「子規の業績とされるものはみな子規のこの悲願から生まれた」のだと言う。
  「病床の我に露ちる思ひあり」これは死を目前にしていた明治35年秋の句。
  これは、「日本の役に立ちたいという大望を抱いているのに、病気のせいでそれができない。これが子規のやむにやまれぬ『露ちる思ひ』」の句なのだと著者は解している。
  子規が『万葉集』を賛美したのも、それが「貴族や武家が政権を握っていなかった奈良時代のもの」だったから。つまり、明治政府が天皇親政モデルを過去に求めたのと軌を一に、『万葉集』を誉め称えることが子規にとっては「文学の世界で『有為の人』となる」ことだったからなのだ。

  しかし漱石はそうではない。漱石は「国家主義からの自覚的な脱落者となった」と著者は見ている。なぜか。それは第一には生い立ち(母と縁が薄かった)からとされるが、決定的にはロンドン留学だ。「そこでの挫折が漱石を国家主義とは別の位置に立たせる」ことになったと言う。
  ロンドン留学は官費によるものだったが、漱石はノイローゼになって帰国を命じられる。このことはよく知られている。
  「倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあって狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり」(『文学論』)
  漱石の挫折は明治の「国家主義」からの脱落を、すなわち明治の新国家が求める「有為の人」にはなれないことを意味していた。
  漱石帰国の後に起きた日露戦争の最中に高浜虚子に朗読会の文章を書くよう勧められ、最初の小説『吾輩は猫である』が生まれる。

  著者によれば、「明治の国家主義からの脱落が漱石を小説家に」し、そして漱石をして「世間に距離を置いて斜に構える苦沙弥先生の位置に立たせ」、「その後、漱石は時代を灸り出す、この皮肉家の苦沙弥先生をさまざまに変奏させて名作を書きつづける」ことになる。
  漱石は明治40年に東京帝国大学の講師(官職)を辞め朝日新聞社(民間)に入る。これも「当時としては非常識な反国家的な選択だった」が、「明治の脱落者の熔印が何よりあざやかに見てとれるのは『三四郎』(明治41年)の一節だろう」と言う。その一場面。
  日露戦争直後、熊本の五高(第五高等学校)を卒業した小川三四郎が東京へ向かう列車の中。乗り合わせた四十くらいの髭の男が、「日本はいくら日露戦争に勝って一等国になっても駄目だ、富士山よりほかに自慢するものは何もない」という話をする。そこで三四郎は、「『然し是からは日本も段々発展するでせう』と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、『亡びるね』と云った」のだ。
  著者は、「日露戦争の勝利に浮かれる日本人の頭に冷や水を浴びせる髭の男は漱石その人だろう」としている。私たちはその後の歴史を知っているが、「亡びるね」の一言は、あたかも日本がそれからたどる歴史を見通しているようだ。
  「董程な小さき人に生れたし」
  明治39年、日露戦争の翌年の作。「小さな菫の花とは明治の国家主義から外れた漱石のささやかな理想だった」のだ。

  「時代の空気」と言えば、渋沢栄一の『論語と算盤』には「経済における明治の国家主義がみごとに要約されている」文章があると言う。
  「事柄に対し如何にせば道理に契ふかを先づ考へ、而して其の道理に契つた遣方(やりかた)をすれば国家社会の利益となるかを考へ更に此くすれば自己の為にもなるかと考へる、さう考へて見た時、若しそれが自己の為にはならぬが、道理にも契ひ、国家社会をも利益するといふことなら、余は断然自己を捨て、道理のある所に従ふ積りである」

  さらに時代は明治の「国家主義」から昭和の「国粋主義」へと移り変わっていく。
  国粋主義は「国家への貢献を理想とする点では国家主義と同じ」だが、「しかし明治の建国者たちの広い視野と健全な平衡感覚を失った、いわば狂信的な国家主義だった。明治の国家主義は『国のために生きる』ことを求めたが、昭和の国粋主義は『国のために死ぬ』ことを強いたのである」。
  そこには、言葉の持つ大きな力が働いていた。

〇言葉というもの
  それは第一に人に大きな影響を与える力を持っていること。著者は例として南北戦争時のリンカーンの演説を取りあげる。
  87年前、私たちの祖先は自由に憧れ、すべての人間は平等に造られているという信念のもと、新しい国をこの大陸に建国しました。私たちはいま激しい内戦の渦中にあります。この内戦はこの国が、あるいは同じ理念と信念にもとづく国がはたして永続できるかどうかを問う試みなのです」
  著者は、実は兵士は北部の資本家のために戦っていたのだが、それを理想に命を捧げる英雄として士気を鼓舞したと言う。つまり、「言葉で人間を描くのが文学なら言葉で人間を動かすのが政治である。そしてリンカーンは政治家だった」。

  ただ、他本に以下のようなものがあった。言葉の内容とそれを発する適切な時期について、上にあげた面に加えてたいへん重要だと思うので紹介したい。
  内戦の期間、「リンカーンはつねに連邦を守る立場を貫き、その目的のために奴隷解放を宣言することになる」が、彼は「完璧なタイミングが来るまで宣言を発しようとはしなかった。妥協の余地のないことは一切曲げずにいながらも、それらを選択的に表明することにかけて、リンカーンほど巧みだった人間はいない」。
  そして、「186311日に、合衆国に対し謀反の状態にある州あるいは州の指定地域の内に奴隷として所有されているすべての人は、その日ただちに、また以後永久に、自由を与えられる」という宣言では、連邦側についた奴隷州の奴隷には言及していない。それは「戦争をしていない州に対して戦時権限を発動することはできなかったし、その必要はないとも承知していた」からであり、「連邦が流す血が多くなるほど、奴隷解放はより正しく、したがってより法に適うものになるだろう」からだった。
  その結果、「見かけはペンの力以上のものは何も使わずに北部が主導権を振り、南部はこの瞬間から守勢に回ることに」なったとされる。(ジョン・ルイス・ギャディス『大戦略論』早川書房、2018年より)

  第二に、言葉の影響は白紙の状態への刷り込みによって知らぬ間に定着していくこと。幼い頃から「教育」することで、やがて「国のために生きる」から「国のために死ぬ」という「時代の空気」に何の疑いもなく順応する人間を作っていく。その影響の深さ、あるいは恐ろしさも時代場所にかかわらず決して見過ごせないと思う。
  そのなまなましい例として、ここで山中恒著『戦時下の絵本と教育勅語』(子どもの未来社、2017年)をあげたい。それは、戦時下における教育勅語や著者の直接体験をもとに、かつて子どもたちに与えられたさまざまな絵本からその背後にあるものを詳細に追ったもので、ここでは目次の一部のみを紹介する。

  【2】では「歴史観をすり込む絵本」として、✶紀元二六〇〇年祭と『講談社の絵本 国史絵話』 ✶『講談社の絵本 国史絵巻』 ✶神話以降の歴史を語る『学校エホン 国史ノ巻』が取り上げられる。
  【5】では「戦う子どもの教育」として、✶遊びも戦争『ヘイタイゴツコ』 ✶理想の男の子像『僕ハ男ノ子』 ✶『クルマハマワル』などなど。
  【8】では「撃ちてし止まむ」として、✶「勝ちぬく僕等少国民」と『ウチテシヤマム』 ✶『テキキサアコイ』 ✶子どもも竹槍持って『日本ノコドモテキゲキメツ』といったもの。
  これを見ただけでも背筋がうすら寒くなる。
  小さいうちにこのように刷り込まれるのは本当に恐ろしいし、今も世界のどこかで行なわれているのではないかと想像させられる。

  第三に、その性質の一つとして著者は「言い訳」に使われることをあげている。人は言葉によって自分の考えや行動を正当化しようとするが、「その滑稽な姿を描くのが文学ということになるだろう」と指摘し、漱石の『こゝろ』に出てくる先生の言動はこれにピッタリと当てはまるという。
  なるほどと思った。例えば、「誤解を招いたとすれば申し訳ありません」という言葉をよく聞くけれどどうだろうか。「前後がカットされ一部の発言のみ取りあげられた」というような言い分はあるかも知れない。しかし、まるで聞いた方が「真意を読み取る能力に欠けている」とでも言っているように聞こえる。次はその数例。

  「政治と言葉の問題は、むしろ国政の次元で相次いでいるから深刻だ。言葉をめぐる文化状況が劣悪になっていることの反映だ。ネット社会における無責任な言葉の発信、その最悪のものとしてのネットいじめやヘイトスピーチなどが、今やネットの中だけでなく社会や政治における生身の言葉の世界にまで影響を及ぼしているのだ」
  「『原発事故によって死亡者が出ている状況ではない』、『(憲法改正は)ナチス政権のやり方に学べばよい』など、その言葉の重大性を考慮しないで発言する例の何と多いことか」「現場の声も聞かずに、東京で『金目でしょ』という無神経さ」(柳田邦男著『この国の危機管理 失敗の本質』毎日新聞出版、2022より)。

  終わりに、全部ではないが、本書で述べられている他の話題を簡単に。

〇「言葉と文化」について
  自分たちの文化にはピッタリした用語を見いだせない時には、入ってきた言葉はそのまま使わざるを得ない。カタカナ語の氾濫と同様なことが漢字がもたらされた時にも起きている。それは目に見えるものに限らず、見えないもの、いわゆる「概念」についても同じだった。例としては「死(シ)」と「かくれる」などの和語の対比、「愛(アイ)」と「こい」との違いなど。

〇芭蕉の境地と静寂との関係
  「古池や蛙飛こむ水のおと」「秋深き隣は何をする人ぞ」などを取りあげ、とくに「秋深き」の句について、かりに「秋深」とした時、「し」と「き」というたった一字だが、そこには俳句の解釈に大きな質的な違いが現れることを述べる。

〇言葉の虚構性について
  言葉は虚構を生む力を持つ。
  「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮」藤原定家
  「花も紅葉もないといいながら、読者の心には薄墨色の夕暮れに重なって花や紅葉がほのぼのと浮かび上がる。これが言葉の幻術によって出現する虚の花、虚の紅葉である」

〇人はなぜ「地獄」を想定したか
  地獄の役割の一つは罪を犯そうとする者への威嚇だが、もう一つはこの世の不均衡を解消する因果応報としての仕掛け。刑務所はこの世でその不公平を精算するための装置。
  「近代以降、人道主義者は罪人の更生、社会復帰こそ目的であるという。しかし勘違いしてはいけない。刑務所も刑罰も存在理由の第一は罪を犯した人間を野放しにしておくわけにはゆかない、罪人は罰を受けなければならないと誰もが考えるからである」

〇なぜ人は墓をつくるか
  墓は「人間が魂の不滅を信ずる」がゆえの「永遠の命という幻想の器」。
  では魂の不滅を信じようとしたのはなぜか。それは人間が言葉によって目の前にあるものだけでなく目の前にないもの、「空間ばかりか時間も超越して過去や未来まで想像できる」ようになったから。まさに「言葉という想像力の翼を得て人間は生死の境を越えてしまった」。

〇生死と言葉
  人は「生きる」「死ぬ」という言葉によって「生」とは何か「死」とは何か考えはじめる。それに「喜び、楽しみ」より「悲しみ、苦しみ」のほうが多いし重い。「にもかかわらず『人生は喜びにあふれている』と考えるなら、それは生きていることを正当化しようとしているだけのことだろう。人間はいつも言葉によって自分を正当化しながら生きているのだ」。

  本書を読んで俳句の一端に触れるとともに、その背景には歴史や文化が深く潜んでいることに気がつかされた。なので、これからものごとを見る時には、とくにそういうところへの視線を意識していこうと思う。()
  

文化を散歩してみよう
第4回:プライドそして人と人との間(1)
   1月号の本欄の感想をいただいたなかに、はからずも「プライド」という言葉がありました。そこでその言葉をタイトルに含め、それに多少とも係わるのではないかと思われる事柄を綴ってみました。中には少々ズレていたり屋上屋を重ねるようなところもあるかも知れませんが、ご了承ください。

1.これもプライド?
  1988年夏、韓国からの帰国間近に1年間お世話になった研究室の方々数人で送別会を開いていただいた時の話です。崔さんという30歳代後半の男性が私にこう言いました。
  Iさん、私は自分の先祖を恥じている」
  「え?」と思いました。
  そもそも韓国の人たちは先祖を大切にしていて、時には自慢話になることがあります。例えば小学生が作文で先祖のことを誇らしく書いて発表したとしても、それはほほえましいこととも言えます。では日本では? もし日本で先祖の自慢などすれば、本人の思惑に反して「それがどうした!」と思われるのが関の山、下手すれば付き合いを遠ざけられるかも知れません。
  で、「恥じている」とはおかしなことを言うなあと思いながら、「どうしてですか?」と聞いたところ、「私の先祖は、豊臣秀吉が朝鮮を侵略した時、祖国を裏切って日本軍の道案内をしてしまった。私は恥じている」と言うのです。
  思いもよらない言葉でした。いくら何でも400年も前のことで。ところが続きがありました。
  Iさんの先祖はそのころ何をしていましたか?」と。「え!×2」です。もう答ようがありません。
  1964年の東京オリンピックも1970年の大阪万博も、今の日本では大方の人にとっては歴史の一部ではないでしょうか。私も祖母や親から聞いた「二二六事件」や焼夷弾が落ちてきたときの光景も、やはり写真や手記などの書物とか当時のフイルムで知るよりないわけです(もっとも、記憶にないのですから仕方ありませんが・・・)。まして400年前なんて・・・。

  「日本では歴史を学校で習うが、韓国では家で学ぶ」という言葉を直に経験したことになりました。トゲのように刺さっている両国間の問題が時々浮上してくるのも、なるほどと思ったものです。
  もちろん日本にも長い歴史を繋いできた家があったり、あるいは飛鳥時代からの金剛組という千年企業や明治以前を含む創業百年以上の老舗が伝統と誇りを持って存在していますが、それはまた別の話だと思います。

  もう一つ。
  大学の研究室に李さんという方が尋ねてきたことがあります。その方は『日韓併合ニ関する条約』に調印した、当時の大韓帝国側の代表、日本で言うところの内閣総理大臣の立場にあった李完用の子孫でした。
  ご存じかも知れませんが、2005年 に韓国では『親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法』が公布されました。ニュースを聞いた当時「ひどい話だなあ」と思いましたが、李完用ならびに親日派とされた9人の子孫から土地が没収されることになったのです。
  そればかりではありません。李完用は1926年に亡くなっていますが、彼の墓は子孫が潰してしまったと言いますし、長男夫妻の墓もひどく潰されたまま発見されたとのことです。

  注:韓国マスメディアでは、大韓民国憲法第13条の「遡及立法禁止の原則」(事後法)に抵触するおそれがあるのではないかと懸念され、本特別法に対して否定的な意見もある。事後法か否かの違憲審査判断は現時点ではなされていない。(上記「特別法」で検索)

  で、その方から「李完用をどう思いますか?」と訊ねられました。
  李完用をはじめとする当時の様相は本号の「ちょっと紹介を」の書籍に詳しいのですが、私はそのあたりを良く知りませんでしたので、「その時の国や社会の事情や立場のためにやむなくそうせざると得なかったのですから、誰であってもそうするより仕方がなかったのだと思います。個人的にはそれほど責めを負わなければならないということはないのではないでしょうか」と答えました。
  その方自身がどう思っているかも良く分かりませんでしたが、今でもずっと気にしていられる様子をたいへん気の毒に思ったものです。

  この二つのエピソードは一見プライドとはそぐわないように見えますが、私にはそうは思えないのです。プライド=自尊心とすれば、前者は自己(あるいは一族の記憶)によって、後者は社会からそれを傷つけられているように感じます。
  もし自尊心を持たずに済むなら気にすることもないはずですが、人は誰しもそうはいきません。まして韓国文化においてはなおさらだろうと思います。どちらかと言えばプライドの高さがその気質の特徴と言われていますから。つまり、プライドがあるからこそ今でも心に抱えざるを得ないのではないか、それもまた厳しい現実だのだと思わざるを得ませんでした。

  ※李完用については一部には見直しの声もありますが、積極的には取り上げられていません。

  参考として小説ですが、梶山季之の『族譜』(『李朝残影』所収、光文社 2022)をあげます。
  日本が朝鮮半島を統治していた時代、一家揃ってまさに親日の見本であった薜鎮英が最後の一線である創氏改名から『族譜』(一族の系譜)を護る、つまり先祖から伝わる姓を護るために自ら井戸に身を投げた悲劇です。いかに無謀に創氏改名が行われたかを軸にして、重層的な展開が込められています。

  では逆に、このような意識を持たせてしまう、罪有りとされた人を死後まで鞭打つような「忘れない」社会はなぜなのでしょうか。推測ではありますが、おそらく儒教に関係すると思われます。なぜなら、儒教では罪人は永遠に罪人であって決して赦されないそうですから。

  中国での「秦檜」「汪兆銘」「東條(条)英機」、朝鮮時代では「金玉均」、明治維新前に沈められた「咸臨丸」の幕府兵、「土方歳三」、「招魂社のいわれ」等々、検索してみてください。周恩来や鄧小平が遺灰を海に播くように遺言したというのもこのことと関連しているとの見解があります。

  かなり以前の中国でホームステイをした女性の新聞投稿です。
  「中国の生活は、新鮮な驚きの連続、連日だった。
  
なかでも西湖近くにある、南宋の将軍・岳飛の墓に向かってこうべを垂れる罪人4体の像が印象的だった。彼らは、『岳飛を死に追いやった裏切り者』ということで、訪れる幼い子供たちまでにも、さげすまれ、唾を吐かれ物を投げつけられていた。それでもじっと耐えているように私には見えた。私は、いたたまれない気持ちになった。

   『日本人は、偉い人は像にするけど、罪人をこんなふうにしない。罪を犯した人は悪いし、罰せられるべきだけど、これほどまでにしないような気がする』と私が言うと、中国人の友人はすかさず、『彼らはそうされて当たり前の罪を犯したのですよ。1000年の罪ですから、まだ許されていません』と答えた。
   中国の人たちの考え方は、この4体の罪人の像に象徴されているようだ。国際理解とは、このような体験の積み重ねかとも思った。分からないこと、知らないことが多すぎる」(毎日新聞「みんなの広場」より 2001.6.21

  いずれにしても韓国の文化や社会については、さまざまな立場からたくさんの著作が出版されていますので、詳しくはそれらを参照していただければと思います。

2.小中華
  話を戻しますが、東アジアはかつて中国大陸の王朝を中心にした冊封体制にあったことはご存じの通りです。とくに1392年に建国された朝鮮王朝は明を宗主国としてきました。
  しかし1644年の明の滅亡ののちには、新しく中国の支配者となった清はもともと満州族であり、正当な中華文明を引きついでいるのは自分たち朝鮮であるとして自らを小中華と自負していました。本号の「ちょっと紹介を」にもありますように、「大韓帝国」という国名への変更にあたってはそれが如実に現れています。
  日本は冊封体制の外にあったためか、文化としては朝鮮から教えを受けるレベルとみられていたようです。実際、江戸時代の朝鮮通信使の紀行文『海游録』には多くの日本人が通信使を訪ねて漢詩の添削を依頼していることが記されています。ただ同書にはこんなことも書かれていて、驚いた様子もうかがえます。

  「大坂は、摂津州にあり・・・そのなかに書林や書屋があり、冓(ボウ)をかかげて、曰く柳枝軒、玉樹堂等々。古今百家の文籍を貯え、またそれを復刻して販売し、貨に転じてこれを蓄える。中国の書、我が朝の諸賢の選集もあらざるはない」
  「もっとも心を痛めたことは、金鶴峯の『海槎録』、柳西厓(本名は成龍、西厓は字)の『懲毖録』、姜睡隠の『看羊録』などの書には、両国の隠情(機密)が多載されているのに、いまそのすべてが大坂で梓行されていることである」
  「国家の紀綱が厳ならず、館訳の私的取引がかくの如くである。人をして心寒からしむるものがある」(申維翰『海游録』姜在彦訳注 平凡社東洋文庫 1974
  公式でないかたちでそれらが伝わっていることを嘆いています。

  またあの甘藷先生、青木昆陽の『昆陽漫録』には次のようなことも記されています。巻之六「穀品」の条です。
  「衿陽雑録〔朝鮮ノ書〕ニ、穀品ヲ載ス。我国ニナキモノアリ。朝鮮ヨリ貢セシメテ作り試ミバ、民ノ益ニナルモノアルベシ。其文左ノ如シ」として稲をはじめ小豆、緑豆、黍、稷、粟、稗の品種が。例えば稲では「救荒秋所里(一名氷折稲)」「於伊仇智」等々早稲から晩稲まで27品種、芒の長短や穂や粒の色とともに記されています。「貢セシメ」はちょっと恐れ入りますが、それほど情報が入ってきたと言うことでしょう。(日本随筆大成編輯部編『日本随筆大成第20巻』吉川弘文館1994より)

  もちろん入ってきたばかりではありません。こちらからも伝わっていきます。そのころは、前回触れたサツマイモをはじめ、ジャガイモ、トウモロコシ、トマト、唐辛子、タバコ、ゴム、落花生等々のアメリカ大陸原産の作物が世界に広がりましたし、その逆に稲や小麦、ブドウ、イチジク、オリーブ、砂糖キビ、バナナ、コーヒー、そして柑橘類がアメリカ大陸へと伝わりました。
  なかでも唐辛子です。キムチがすぐに思い浮かぶかも知れませんが(多分)、唐辛子が伝わる以前は塩漬けでした。(今でも唐辛子を使わないキムチもあります)。
  また、蒙古が高麗に持ち込んだ肉食文化、その肉の保存や調理には胡椒が必須です。もちろん全てが輸入なのでなんとか自国で栽培しようと、中国や日本に胡椒の種子を要請した例もあると言います。もちろん日本でも栽培は無理なので応ぜられませんでしたが。そればかりではありません。琉球に対して共に南への渡海を提案したこともありました(これも実現しませんでした)。

  こうした状況のなか、秀吉の起こした戦争のために胡椒が入らなくなってしまいます。ところがそんな時に伝来したのが唐辛子です。その伝わり方には諸説あるようですが、17世紀初めの『芝峰類説』には唐辛子を「南蠻椒」と記し、「倭芥子」と呼んで次のように記されています。毒があると信じられていたようです。
  「南蠻椒有大毒 始自倭國來 故俗謂倭芥子 今往往種之酒家利其猛烈或和焼酒以市之飲者多死」(李晬光著『芝峰類説』(1614)花卉部 木条)

  話が横道に逸れてしまいましたので戻して・・・。
  朝鮮王朝は建国以来、前王朝高麗の仏教保護を取り止めたうえ抑圧していきます。これを廃仏政策といいますが、宗派を統廃合し寺院数を減らし、僧侶を強制的に還俗させたり土地や奴卑を没収したため、多くの仏教寺院は山中に移っていきました。今ではソウルにある仏教寺院は観光スポットになっていて、それぞれ謂れがあると思いますが、私は詳しくはありません。
  いずれにしてもそうした政策の背景には、仏教寺院の権力との結びつきを絶ち、経済的な基盤を喪失させるためだったとも言われています。つまり、新しい朝鮮王朝の財政的な基礎を整える意味も少なくありませんでした。

  そこで国を治めるための理念の柱としたのが儒教です。さらには前に述べたような明滅亡後の小中華意識が加わり、儒教はますます人の生き方や社会の隅々にまで染み込んでいくことになりました。
  表面的な理解に過ぎませんが、私は儒教は先に述べたように族譜を護り、子孫として祭祀を絶やさぬことに加えて、生活の上で身分や長幼の序を始めとする秩序を背景に、振る舞いや面子を何より重んじるところに特徴の一つがあると思っています。特に支配階級や知識階層にはそれが顕著で、おそらくそこからプライドをはじめとする心の傾向が育まれていったのではないでしょうか。
  そのような意味からも、戦国時代とそれに続く当時の「倭国」はまさに武の支配する東夷の国に見えたのだろうと思います。


3.秀吉の侵略の一断面
  では、秀吉の侵略そのものに対しては? もちろん武人(武官は文官に対して下に見られていました)ばかりではなく庶民も義勇兵として各地で立ち上がり、果敢な抗戦が行なわれたことはよく知られています。
  エピソードとしては晋州城の攻防戦で、論介(ノンゲ)と言う妓生(身分としては奴卑。また夫の仇として妓生に扮したとも)が、日本軍が楼閣で宴席を開いている際に日本の武将に抱きつき、南江に身を投げたと言います。(「論介」で検索)
  ※韓国では殉国の英雄。ただ2011年の「中央日報」によると、晋州市が論介祭りで子どもたちに論介投身体験をさせたことで批判も起きたそうです。(「論介祭」で検索)

  そのようななか、この侵略の際には多くの人々が日本に連れてこられました。この戦はまた「焼きもの戦争」などとも呼ばれ、連れてこられた中の陶工によってそののち日本の各地に有田焼や薩摩焼をはじめと優れた陶磁器文化が根付くことになります。次回はこの続きですが、ちょっとその前に。

  以前NHKの「歴史発見」に薩摩焼14代目の沈壽官氏が出演されました。(19921124日:教育テレビ)検索するとタイトルは「『朝鮮出兵400年・秀吉に反逆した日本武将』故郷を捨てた鉄砲集団」でした。
  記憶だけなので恐縮ですが、その武将の名は金忠善といい日本名は沙也加、侵略初期に朝鮮側に下ったとされています。その実像については様々な見解があるようですが、数々の手柄を立てたことで朝鮮王朝から大邱から近い友鹿洞というところに土地を賜りました。そこには私も何度か行ったことがあります。
  番組の中で特に印象に残ったシーンがありました。沈壽官氏がそこに住む方々に、「日本人の子孫と言うことで苦労が多かったでしょうな」と言ったのに対し、「日本の統治時代の方がよほど辛かった」と答えたというのです。それはつまり、「おまえたちは裏切り者の子孫だ」ということで、職に就けなくするなどいろいろと差別や嫌がらせを受け、大変な思いをしたと言うことでした。
  沈壽官をはじめとする薩摩焼をめぐる話はまた次に。(つづく)
  ちょっと紹介を!

 編集部より:
  この欄は編集部に寄せられた情報をきわめてポイント的ですが紹介しようとするものです。もとより書籍に限るものでもなくまた毎号ではありませんが、関心のある方々の一助となれば幸いです。


森 万佑子著『韓国併合』(中公新書 2022年)

  著者は東京女子大学准教授。選考は韓国・朝鮮研究、朝鮮近代史。
  あとがきに本書の特徴を三つ記してある。第一は韓国から見た併合の歴史、第二に資料を最重視していること、第三はこの30年ほどの間の新たな研究成果を組み込んだことである。
  なかでも特筆したいのは第一の特徴で、これまでの視点を日本側から韓国からの視点に転換させたというところだ。日本の出版物でこうした視点からのものはこれまで読んだことはない。もちろんそれには日本におけるものはもとより、韓国側の、しかも漢文の資料の読み込みが欠かせない。本書はそれに加えて膨大な研究史の蓄積が裏付けとなっている。
  これまで漠然とし知ったつもりになってきたさまざまなできごとの背景や経緯について、本書によって教えられ認識を改めることが出来た。その中から典型的なものを取り上げるとすれば、朝鮮王朝における「小中華」という自負をめぐるもの、そして「大韓帝国」という国家名への変更についてである。特に国の名称を改めは戦後もけっこう世界では行なわれていることもあり、朝鮮から大韓帝国へがそれほどの意味を持っていたとは知らなかった。そこでごく一部であるけれど、それについての著述の一部を紹介したい。

  「明亡き後、儒教文化を堅持するのは朝鮮だけで、朝鮮こそが明朝中華を正統に継承すると自負する、いわゆる「小中華思想」「朝鮮中華主義」と呼ばれる意識が強くなった。朝鮮は儀礼上は清朝皇帝に朝貢し冊封を受けるが、内心は明朝中華を慕い、中華の正統な継承者は朝鮮自らだと考えたのだ」(P.7
  1897103日、ついに高宗は皇帝即位の上疏を受け入れた。(略)
  高宗は、明の皇帝即位式と同様に、圜丘壇で10月12日午前零時から4時頃にかけて、皇帝即位式を行なった。高宗は、王太子および臣下とともに天地と、朝鮮王朝の太祖李成桂に、新しい皇帝国の開国を告げる告由祭を行い、即位式を行った。天地に即位を告げるのは、政治的な権威は天命を受けることで生まれるという中華世界の理念に基づく」(P.72
  「翌1013日には、高宗は皇帝として皇太子と皇后を冊封した。冊封儀式のために高宗は皇帝の朝服(礼服)である通天冠服を着用した」(P.74
  1014日には、国号を「大韓」と改めた。「朝鮮」を改めて新しい国号を立てたのは、朝鮮が箕子朝鮮以来、中国に冊封された国名であり、天下を支配する帝国の国号にはふさわしくないという考えに基づく。
  ここに大韓帝国が成立した。以後、高宗が皇帝に即位した陰暦917日は、「継天紀元節」という祝日となった」(P.7576 (文責:編集部)

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