月刊サティ!

2023年2月号  Monthly sati!     February  2023


 今月の内容

 
  巻頭ダンマトーク:今月は休載いたします
   ダンマ写真
 
Web会だより ー私の瞑想体験- :『脳内映画館からの脱出 
                        (New New Chinema Paradise)』(4)

  ダンマの言葉 :『段階的に進めるブッダの修行法』(3)
  今日のひと言 :選
   読んでみました :ショーン・エリス+ペニー・ジューノ著
               『オオカミの群れと暮らした男』
(後) (築地書館 2012)
  文化を散歩してみよう :「田」という字をめぐって
   (新)ちょっと紹介を! :『薬物依存を越えて ―回復と再生へのプログラム』

     

【お知らせ】

  ※近刊される地橋先生の新しい単行本が現在最終的な段階に入っておりますので巻頭ダンマトークは少しの間お休みさせていただきます。
 

           

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。

 
     

 今月のダンマ写真 ~
 
三賢堂全容(タイ:森林僧院)

先生より

    Web会だより ー私の瞑想体験-

『脳内映画館からの脱出(New New Chinema Paradise)』(4)
                                by セス・プレート

★瞑想に出会ったのに() Refugee from Asura's world (瞑想難民になる)
  インドのグル系の瞑想会に何度か行き、合宿にも行ってみたが、そこの方法は感情を爆発させて一時的にスッキリするものだったので、根本原因がそのままで問題を解決できる気がしなかった。感情を表現する練習、モダンダンスに似ている瞑想方法だと思った。
  地方に拠点があるミャンマーのお坊さんの所へ行く。
  せっかく合宿にいったのに仕事の都合で二日後に東京に戻ることになり、事務方に大変怒られた。全日参加できることが条件だったのに、世俗のことを優先したのだから怒られて当たり前である。とても反省した。自分の根底にまだ身勝手さがあるとよく分かった。仕事を優先すれば許される、という昭和のオヤジみたいな心理。嫌っていたはずなのに、自分もそうなっていたのが恥ずかしかった。
  マントラ系の瞑想にも行った。
  マントラをもらってそれを唱えるタイプのものだったが、主宰のコメントを聞いたらあまりに俗物的でゲンナリしてしまった。この瞑想の結果がこの程度ならやる意味がない、と思ってそれきりだった。
  海外で瞑想修行してきた方の瞑想会に2年通った。
  ここは誘導されたとおりに瞑想するので、瞑想会に出ているときは落ち着くのだが、日常に戻ると朝のあの不安感が復活してしまった。瞑想会で得た落ち着きを壊すかのように、反動でYouTubeやアマゾンプライムビデオで映画を見まくるようになってしまった。瞑想と世俗時間の相殺である。うすうす感づいてはいたが、私は映像刺激に依存している。英語と演技の勉強のためがきっかけだったが、ストーリーからくる感情、音、視覚の刺激に依存していた。次々に新しくて刺激的な作品が世に出るし、それらでビジネスをしている企業がたくさんあるのだから、まんまと引っかかり続けていたのである。
  また、この瞑想会場には毎週往復4時間かけて通っていて、丸一日時間を取られるため、実際疲れたのだった。「週末に長く座っているんだしいいじゃないか」が恰好の言い訳となり、日常の瞑想が疎かになっていた。
  瞑想を教える方はたくさんいて、メソッドも人種も言語も様々である。瞑想難民になることはおかしくないと思った。むしろ、納得のいかない先生のもとで不信を隠しながら何年も続けるより、納得のいく先生を探すのは必要だと思う。

★瞑想に出会ったのに() Die Hard (なかなか死なない奴)
  コロナ禍で瞑想会へ行かなくなると朝の辛さがより増してきたので、なんとか出口はないものかとインターネット上で必死に探した。オンラインヨガを始めて、体力は再び取り戻した。やはりヨガは効果がある。
  外に出られないから、YouTubeもオンラインでの映画の視聴時間も増加した。かなり依存していた。Podcastも聞くようになった。 オプラ・ウィンフリーとマイケル・シンガーの対談があった。彼の経歴が面白かった。学生時代からヨガと瞑想をし、森に住み、自分の道場の資金を作るために始めた建設会社がうまくいき、より大きなヨガ道場を作り、街で見つけたコンピューターに夢中になり、その流れでソフトを開発したらバカ売れしてビリオネア(億万長者)になったというのである。が、そこで一番すごいと思ったのは、彼は<金持ちになろうとしていなかった>のである。彼は、「自分に起きることはすべて受け入れる(Surrender)」という実験をしたら、最後にビリオネアになったのだ。
  これだけでは終わらない。大企業のCEOになった彼は、社員が起こした不正の濡れ衣を着せられて、何年も政府を相手に裁判で戦うことになった。<自分のエゴが根こそぎなくなるまで、問題を受け入れた>のである。何年も結果が出ず、最後は当局側が取り下げて終わった。
  すぐに著作を読んで彼のオンラインコースを受講した。マイケルの、アメリカの良いおじさんぶりに痺れた。スリランカの長老とは違う慈愛の感じがした。『会社ってのは、何かを取りに行くところじゃない。自分がServe(役務提供)しに行くところなんだ。嫌な仕事に行くだって?Good for you、 良かったじゃないか、それこそ精神的な修行でしょう』。
  マイケルの言う通り、仕事前には、I’m here to serve. I’m here to serve.(私はここに奉仕させていただきます)と言って始めた。「私は一個の細胞です」よりも効いた。みるみる仕事が楽しくなった。驚いた。うわお、仕事ってこんなに楽しかったのか!!そして、2021年のEmployee of the year(最優秀社員賞)を受賞した。もう、抜け出せたと思った。ようやくバラ色の人生と言える!
  しかしである。
  Not again,,, I’m with evil spirit to die hard.しばらくするとまた襲ってきたのである、あのなかなか死なない、朝の重苦しい猛獣が。だめだ、これはもう、「真剣に」瞑想をするしかない。そうしないと、ずっとエゴに喰われて、慈悲も出てこず、これ以上は変われないんだと思った。なによりも、この苦しい人生をなんとか終わりにしたい。本当に終わりにしたい・・・。

★瞑想よ、こんにちは() The Visit (訪問)
  こんな苦しい状態だったのに、スリランカの長老の本とYouTubeの法話は継続してずっと観ていた。だから、仏教の通り、自分の苦しみは自分が作っている自覚はあった。どっぷり脳内映画館で貪瞋痴を増やしながら暮らしているせいもある。そして、どうすればそれを終わりに出来るかという答え(=瞑想を実践する)も知っていたのに毎日瞑想せず、奇跡的に瞑想を数日続けられても、いまいち正しくやっているのかが分からなかった。
  ある先生はラベリングはするなというし、ある先生はラベリングをしろという。「どうしよう。いや、でも、現に瞑想をしても良くなっていないってことは、やっぱり何かやり方が間違っているに違いない」。もちろん、先生やメソッドが間違っているのではなく、私が瞑想者として間違っているのだと思った。
  もう一度、ゼロから、基礎からやり直そう。そして、これでうまくいかなかったら、もう瞑想は最後にしようと思った。金輪際、瞑想をやめて、仏教もやめて、ストレスがあろうが注射を打ち続けようが、お金を儲けることを全肯定して欲にまみれて生きよう。やりたいことを全部やって死ねばいい。輪廻も来世もあるなんて証拠はないんだし。やったもの勝ちでしょ、人生なんて。そして、それは最もやりたくないことだった。覚悟を決めた。
  瞑想本の中では、地橋先生の本が一番わかりやすいと人気YouTuberが勧めていた。地橋先生のことは瞑想仲間から名前だけは聞いたことがあった。さっそく著作を読んでYouTubeを観た。基礎からやり直すと決めていたので、本当に本当に初心に戻って朝カルを受講した。(つづく)

       

光射す寒中の山茶花

 地橋先生提供
 






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ダンマの言葉

  『段階的に進めるブッダの修行法』(3)

2.「持戒」
  十波羅蜜の中で「布施」に続くのが「持戒」です。これは五戒を守ることに係わってきます。嫌悪や貪欲を減らしていき、それらの最終克服を目指しています。嫌悪と貪欲は自我妄想が原因で発生するため、これらをなくしていくとは、エゴをなくしていくことのもうひとつの方法でもあります。
  すべてのブッダの教えは同じ方向性を持っています。ブッダが心の解脱に向けてあまりにも多くの、異なる教えを説いたので、人々は混乱することがあります。しかしながら、これは巨大なジグソーパズルのようなものです。数片が本来あるべき場所におさまれば、すべてが一枚の整った絵として完成するのです。ダンマが全体として目指しているのは、まずエゴを処理可能な大きさにまで減らしていき、最終的にエゴをすっかり取り除くことです。

  戒律に従いそれを守ることは、パズルの絵の一部なのです。生命を傷つけなければ、心の中の嫌悪も消滅します。嫌悪感を持つ時にのみ、傷つけたり殺したりするのです。与えられていないものを取らなければ、食欲を減らせます。貪欲が存在するときにのみ、私たちは自分の物でない物を取るのです。性的不品行にも同じことが言えます。悪語は貪欲か嫌悪のいずれかに原因します。薬物やアルコールに手を出すのは、たいていの場合、それらを使えば簡単に手に入りそうな快楽を求める食欲のせいなのです。(アヤ・ケーマ尼『Being Nobody, Going Nowhere』を参考にまとめました)

3.「離欲」
  離欲は、出離とも訳されます。英訳ではrenunciationになっていて、これは、放棄、断念、手放すということです。
  離欲というと、僧や尼僧や、どこかの洞窟にこもって修行している行者など特殊な人たちのためのものと思われがちですが、それだけでは離欲を正しく理解したことにはなりません。離欲とは自分のエゴから生ずる願望を捨てることで、多少でもそれをしない限り、瞑想がうまくいきません。
  エゴは楽しみを求めます。繰り返し求めます。エゴは、静かにさせられ、おもしろいと感じるようなことを何もさせてもらえないと、実に激しく抵抗し、自らを守るために何とかしてその状況を打破する抜け道を見つけようとします。例えば、おしゃべり、読書、空想など、自らの欲求を満足させるためなら、あらゆることをするのです。このような性癖から離れない限り、瞑想はうまくいきません。
  また徳を積むあらゆる行いが瞑想を支えます。そのような徳は、気骨のある人間を育てます。瞑想を進めるには、骨のある人間になることが必要です。それは、背筋をしっかり伸ばすためだけでなく、しっかりした考えを持つ上で役に立つのです。

  心の世界を成長させるなら、離欲は重要な要素です。離欲とは、自分はかくかくしかじかの者である、こういう人間になりたい、何々が欲しいといった考えを手放すことなのです。
  そのような考えがエゴであり、常に「私」を主張し、間違った方向に進むのです。私たちは、「私の」家、「私の」家具、「私の」夫、「私の」妻、「私の」子ども、「私の」親戚、「私の」車、「私の」仕事、「私の」職場、「私の」友達、といった風に「私のもの」と思うことで、「私」を安心させています。それが、「私」を支えている仕組みなのです。こうしてエゴは、安定を得たような錯覚に陥ります。しかし現実には、いかなる人も所有物も永遠に存在するわけではなく、あらゆるものは常に消えつつあるのです。

  上に述べたような安定が真実のものなら、家や車は大きければ大きいほど、友人や子どもは多ければ多いほど、夫や妻も多ければ多いほど、その人は安心できるということになるでしょう。しかし、これらすべての人や物を持つと、心配ごとややっかいごとが増えるばかりです。
  一人ではなく十人の夫がいることを想像してみてください。考えるだけでうんざりします。
  安心感を得られると私たちが思い込んでいる、誤った考えがまだあります。それは、私たちが、「私が」すること、「私のために」すること、「私のもの」などで自分自身を取り囲みたがることです。私たちは自分の概念でそう思っているだけであって、実際には誰をも自分のものにすることは出来ません。人は予期していない時に死ぬし、相性の悪い人と結婚するし、他人は私たちに「さよなら」さえ言わずに去って行ったりします。人はカルマを作っているにすぎないのです。
  しかし私たちはそれらを「私のもの」と言い、本当に自分が所有していると信じています。そう信じるが早いか、私たちはすぐに必死でそれらのものにしがみつきます。それらは「私のもの」であり続けないといけないのです。こんなふうにして、自分の家族や仕事、所有物に依って「私」という概念を作り上げるのです。私たちは、単なる一人の「私」であるだけでなく、長じるにつれ、さまざまな人々、仕事、家や身の回りのあらゆるものに囲まれて、自分との強い結びつきを感じていきます。それで自分自身が大きくなったように感じるのです。
  このような、外のものに依って作られた「私」という思いを捨てることは、大変重要なステップです。人は独り、自らの足で立ってはじめて修行が実践できるのです。これは自分の家から他の人を皆追い出してしまえという意味ではありません。しかし、他の人の言ったことや考えていること、したことに頼っていて、どうやって自由を得られるというのでしょうか。このような、外のものに依って作られた「私」という思いを離れると、エゴは正常な大きさに戻り、ただ一人の「私」になり、それ以上でもそれ以下でもなくなるのです。エゴは無くなりはしませんが、扱いやすい大きさになります。一つの体、一つの心になり、多くの人々や物を所有しようとしたり、それらに頼って、「私」という思いを抱くことは無くなります。

  何かになりたいということも、たとえその何かが優秀な瞑想者であってもエゴが主張することなのです。今どうなのか、今あることに注意を払わないで、人は将来何かになりたいと思います。将来について言えることが何かありますか。言えることは何もないのです。将来は完全に白紙です。しかし今この瞬間がどうであるかについては、私たちは完璧に気づきを入れることができます。
  優秀な瞑想者や上司になりたい、有名になりたい、金持ちになりたい、慕われたいなど、今の自分以上のものになりたいと思うこともまたエゴを大きくします。何かになりたいと思うのは有益なことではありません。今どうあるかに注意を向けることこそが有益なのです。そうすれば、エゴはまた扱いやすい大きさに戻ります。私たちは今の状態に気づくことができますが、将来どうなるかに気づくことはできません。それらは今はまだ存在しないのですから。それは空想や願望にすぎません。捨ててもいい余計なものなのです。(つづく)

       

 今日の一言:選

1)望むままに、自由に、奔放に、生きていく人生もある。
 与えられた運命に、淡々と従いきっていく人生もある。
 さしたる違いはない……

2)自然に放置すれば、全てのものが散らばって、混沌とした無秩序に向かっていこうとするのが存在の世界だ。
 その基本的傾向に逆らい、有機的に結晶した秩序ある状態を維持しようとするのが生命活動である。
 壊れていこうとする力に逆らい、抑制をしなければ、生きていくことはできない……

3)過食をすれば体が濁り、眼も耳も鼻も味覚も身体感覚も鈍重になり、すべてが物憂く、どんより、ボンヤリ、どうでもよいと投げやりになって、眠気に引きずり込まれていくのに抗う気にもなれない……
 坂道を転がり堕ち始めていく最初の無明……

4)食欲がきれいにコントロールできると、体がスッキリと整い、心も透明に澄みきって、瞑想のクオリティが格段によくなってくる。
 「ああ、この状態を保っていきたい……」と誰もが望むのだが、必ず気がゆるんで、節度を失う瞬間が訪れる。
 寄せては引き、引いては寄せながら徐々に潮が満ちてくるように、一直線の右肩上がりは、あり得ない。

5)「膨らみ・縮み」とサティを入れ、「離れた進んだ着いた」とラベリングする。
 技術的にサティを入れることはできても、エゴを対象化し、どこまで自己客観視が できているかは千差万別、ピンからキリまでの個人差がある。
 心が本当に成熟し、人格が完成してくるのに比例して、エゴレス度が深まっていく・・。

      



   読んでみました
ショーン・エリス+ペニー・ジューノ著『オオカミの群れと暮らした男』(後)
                           (築地書館 2012年)
(承前)
  著者は再びアイダホに向かった。それは放たれたのではない本当の野生の狼の群れに入るためだった。こうして彼は今まで人間に出会ったこともない狼とともに2年の間暮らすことになる。
  そのころになると、暗闇での視力を除けば五感が研ぎ澄まされ、「松の葉が落ちても聞こえたし、私の周りにはいろいろな動物がいて彼らは自分たちの世界を動きまわっている私を観察していたのだが、私は私で彼らが動くのを見なくても彼らの匂いを嗅ぎ取れた」という。それでも狼だけは、見ることも聞くことも匂いを嗅ぐこともなかった。
  しかし森林に入って4か月目、ついに小道の先約150mほどのところを一匹の黒い狼が横切るのを見る。そのあとしばらくは姿を捉えることが出来なかったが、やがて辛抱強く待つうちそれが若いオスであること、5匹の仲間(のちに4匹となり、また子どもも生まれる)がいること、またそのオスが調査役であることがわかってくる。
  それからは厳しい経験を経て次第に彼らに受け入れられていった著者、実はその期間の経験が本書の真骨頂と言えるのだが、それを斑のように紹介するとかえって趣旨を損ねかねないので、ここでは象徴的な一つのエピソードだけを取り上げることにしたい。

  ある時どうしても水が飲みたくなった著者が谷間に向かっていつもの道を下りはじめると、若いオスが彼に飛びかかってきた。
  「私はショックで一瞬息が止まり、動くこともできず、そこに寝たままだった。これは全く彼らしくなかったが、彼は本気だった」「何が起きているのか、彼をこんなに怒らせることを何かしたか、私は思いつかなかった。彼は私を殺す前に群れの他の仲間が帰ってくるのを待つつもりかなと思い始めた。私の命は風前の灯だ、あんなに頑迷を通したため自分で蒔いた種だと観念した」
  ところが夕闇が濃くなり始めると、突然「攻撃的態度が消え、彼は再び落ち着きと静けさを取り戻し、(略)私の顔と口をあちこち、まるで私に謝っているかのように、舐め始めた」。そのあと谷間への道を「ついてきなさい」と言うように歩き出し、巣穴区域から780メートル離れたところで立ち止まり、「地面が爪でひっかかれた跡の匂いを嗅いだ。私が下を見ると、そこに今まで見たこともない、匂いも全く違ったクマのどでかいフンが落ちていた。地面には深いひっかき跡と周りの樹木の皮にいくつもの溝があった」。
  「突如、すべてがはっきりしてきた。若いオスは私を殺そうとしたのではないのだ。それどころか、私が45分前にこの道を通っていたら、クマに襲われただろう。この狼は私を確実な死から救い、同時にクマが巣穴とチビたちの存在に気付かないように守ったのだ。私は彼に命を救われた」。

  著者はそののち、難しかった人間世界への適応を経て戻った世界で狼の子育てと繁殖プログラムに関わっていく。知見を込めたその一つが、テープで遠吠えを流して谷の向こうにライバルの群れがいると思わせ、メスに子どもを産ませようとするものだ。
  同時に著者は母を思うようになる。それは狼が次世代の仲間を育てるのを共同の仕事としていることからだった。母が外に出て仕事をしたのは家に食べ物を運んでくるため、そのために「子どもの養育を彼女が最も信頼できる家族のメンバーに」託したのだと。またそれ故に、年配者が歳月を経て培った忍耐と英知を学ぶことで、著者の幼年期は「はるかに豊かなものになった」と受け止めるようになった。

  そしてまた、犬についてもいろいろなことが語られる。
  例えば狼の群れの中では一番知能が高く意志決定の役割をするアルファ、しつけ係・用心棒・ボディガードとしてのベータ、そうした違いが犬の訓練にも大いに関連しているという。犬のしつけの問題は、ほとんどがそうした狼と犬の類似点を理解していないことから起きる。狼と犬のDNAの違いはわずか02パーセント、彼らの本能は基本的に狼と同じなのだ。
  例えば、アルファの子を家に持ち帰ったらどうなるか。アルファは「覚えが早く、訓練しやすいのでいつの日か、時が来たと思ったら彼は群れのリーダーになろうとする。そして彼はその日を待ちながら、この飼い主にはもはや群れをリードする能力がないと示す弱みの兆候を探」す。だから、「飼い主はいつも彼より一歩先んじていないと、あんなにかわいくて素直だった犬がわがままなヤツに変身し、飼い主が何を言っても言うことを聞かなくなるだろう」と。
  ベータの場合は群れのメンバーの規律を守り、取り締まり、外部からの脅威に対処するのが彼の役割。しかし、何を脅威と思うかが飼い主とは違うかも知れないから、彼が示す攻撃性を飼い主の視点では理解できないこともある。さらには、家の中でも群れの規則とみなすことを徹底させ始めるかも知れない。もし彼がソファーに坐ったりしてはいけないと躾けられたりしていたら、人間の子どもに対してもそれを当てはめてしまうかも知れない。犬の錯覚は危険を呼ぶ場合もあるのだ。
  また品質管理の役を持つテスター犬は、「毎日飼い主をせかせてその能力を試し、飼い主が双方にとって意思決定するに適した人間であるかどうかを確認する」から、とてもやっかいでうるさい存在になりそうだという。
  そして中位から下位の犬は、「当然ながら神経質で疑い深い。群れにおける彼らの役割は危険の見張り」で、「ときたま少々の餌を与えればそれ以上は要求せず、彼らはそれで満足」するからいいペットになる。しかしただ一つ問題があって、「吠えすぎること」と「恐怖による攻撃」が現れるかも知れないそうだ。
  しかし著者は、「オオカミの群れでは役に立つが人間社会では困る全ての特性が矯正できるように、犬の問題も矯正できる」と述べ、「成長した犬を再教育するためには、彼が生後の数か月に口にした食事を与えてみることだ」と述べている。

  また食べ物についても面白い。狼の場合、その内容が群れの性格を完全に変えてしまうほどだとも言う。例えば、アルファのメスが我が子を他のメンバーに紹介する前に、そのメンバーに与える餌を「年取った牛とかまだ母の乳を吸っている子牛(その胃の中のミルク成分が誰に対しても心を落ち着かせ鎮める働きをする)に限定」して彼らのエネルギーレベルが下がったことを確認するという。それは「群れのメンバーは、ほとんど体だけ大きくなった子オオカミみたいに、おとなしく優しく寛大な性格になる」からだ。
  つまり食の内容次第で「攻撃や闘争は消え、彼らは誰に対しても寛大になる。そんな彼らを見ていると、オオカミが人間の子どもにわが子同様に乳を与え育てたという神話や伝説は信じられなくもない」と著者は言っているが、これは狼や犬に限らず他の動物、もちろん人についても当てはまるのではないだろうか。

  最後に著者は夢を語る。
  一つは長期的な計画の元で、「オオカミが森林を閥歩すれば自然環境にとって、ひいては人類のためになるということを証明すること」。そのために「オオカミの居住スペースを持った敷地を買い――理想的には一匹のオオカミに対し1エーカー(約4000㎡)の自然林――そこで教育研究センターを経営」することだ。
  そして、ネズパース族を支援すること。つまり、何人かをイギリスに呼び、彼らが土地を管理できると証明する機会を与え、「いつの日か、かつては彼らのものであったものの一部でも取り返せればいいと思っている」。
  また、子どもたちに、「土地をいかに尊敬して使用するか、自然の賢さをいかに学ぶか、汚染された川を植物や岩や動物を使って飲めるような清らかな流れにいかにして変えるか」を示すこと。
  それからもう一つ。不適切な犬を買い、誤解することにより幾多の悲劇が起きていることから、「犬の訓練コースで、生涯の友である彼らを人々に理解してもらうこと」。

  この稿の最後に著者の次の言葉を紹介したい。
  「私が住んでいた、そして仲間として属していると感じていたオオカミの世界は、きわめて単純でバランスが取れていた。ごまかしや、悪意や、根拠のない残酷さのない世界だった。何かがなされるには必ず誰でもが理解できる理由があった。それはときに手荒く攻撃的で、自分のものに対しては争うが、彼らはその本性の片面として優しさと思いやりをも持ち合わせ、私が実際に見て経験したように、仲間を大いなる愛情で手厚く面倒をみた。
  彼らにとっては家族という単位の安全を守り養うことが最も重要なことだが、この世界を共生している生物に対しては尊敬の念を持っていた。彼らは遊びではなく食うために殺生するが、決して食べられる以上の殺しはしない。
  れと対照的に、人間はあらゆることを当たり前のことと考えている。人間は貪欲で、利己的で、人間しか大事な種はいないかのようにこの地上を略奪している。だから私たちの社会に危険と思いやりのなさが蔓延している。飛行場で出発を待つ間、両親が子どもたちと口論し、何でもないことで子どもを折檻しているのを目撃した。私は叫びたかった、『止めろ。子どもとは楽しめ。授かりものに感謝しろ』と」

  ここでは本書の枠組みの、それもわずか一部を紹介したに過ぎない。例えば、一時は著者と行動を共にした相棒のこと、あるいは狼との緊張感のあるやりとり等々、やむなく見送ったものも多くある。数ある動物に関する書籍のなかでも、本書は良い意味で群を抜いて異色さを放っている。「認識が改められた」というような平凡な言葉ではなく、「人は狼の崇高さに及ばないのではないか」というレベルの印象さえ受けた一冊だった。()

文化を散歩してみよう
                                第2回:「田」という字をめぐって

  前回は異文化に接する時のこちらのありかたや、言葉のやりとりの場面から垣間見えるものについての話題でした。今回は、日本と韓国じ漢字を使っていても指す意味が違う一つの例として、「田」という漢字を取り上げてみたいと思います。

1.「田」という字
  当然ですが「田」という字は中国で作られたものです。中国語辞典を見ると「『農地』(地方によっては専ら「水田」を指す)」という説明があります。つまり中国大陸では、作物を作るために区切られた土地を「田」の字で表しました。
  では日本ではどうでしょう。「蓮田」などもありますから稲ばかりではありませんが、だいたいは稲が水田一面に青々と
広がっている景色が目に浮かぶのではないでしょうか。「田」といえば水を張る「水田」、つまり「田んぼ」というわけです。

でももちろん「はたけ」もありますから、それを区別して「畑」と「畠」という字を作りました。国字とか和製漢字と呼ばれています。中国から伝わったものではないのでもちろん「音読み」はありません。

  では日本よりも遥かに大きな影響を受けている朝鮮半島(注1)ではどうだったでしょうか。「ハングル」(注2)がつくられるまでは、日本の「かな」にあたるような表音文字はありませんでした。表記は漢字のみですし、文章はいわゆる漢文で書きました(3)
  そこで、朝鮮半島に入ってきた漢字の「田」は何を意味したかです。それは日本で言う「はたけ」でした。では水田はどのように記したかと言うと、やはり固有の漢字を作りました。「田」の上に「水」を付けた「」という字です。なのでこの字を他の漢字のようには読みません(注4)。  
  このように同じ「田」の字を使いながら、その指す意味が違っているのはなぜでしょうか。
  簡単に言えば、朝鮮半島と接する中国東北地方は畑作地帯だったから、日本では早くから水田が開かれていたから、それで終わりかも知れません。でもそれだけではただ表面を撫でただけになってしまいますので、なぜ畑作地帯なのかというその背景を少々眺めてみたいと思います。

2.稲という作物
  木の実や豆類に比べると、イネ科のなかでも特に米や麦は面積や労働あたりの収穫量が多いと言われます。そればかりではありません。無毒である上に栄養的にも優れていて、玄米が「完全栄養食」と呼ばれているのもご存じの通りです。また芋類に比べると、運搬や保存にもずっと適しています。
  日本でも、今は健康志向の人以外は忘れがちですが、かつては麦(大麦)や粟、稗などの雑穀米が普通でしたし、お米のご飯をおなかいっぱい食べたいと人々が思っていたのはそれほど昔のことではありません。米の収量を増やし、寒さに強い稲を育てる、そうした願いが長い間続いてきました。江戸時代から明治時代と、篤農家と呼ばれる人々や農業試験場によるたくさんの努力の積み重ねで今があります。

  では、そもそも人は稲をどのように栽培してきたのでしょうか。雑駁ですがこんなふうにです。
  稲と言えば私たちは原産地として先ず南アジアを思い浮かべますが、実は他にもアフリカ系、オーストラリア系、アメリカ系などがあります。例えばアフリカにはアジア稲(高収量性)とアフリカ稲(耐乾燥性・耐病虫性)を交配させたネリカ米という品種が育てられ、食糧事情の改善が期待されています。
  南アジアには今でも野生種が自生している湿地があるそうです。その野生種には多年生と一年生のものがあって、栽培種としては一年生のものが選ばれました。なぜかというと、多年生のものは親株が残るため種が少なく、また発芽しにくいのに対して、一年生の稲は多年生に比べて種の数も多く、それに年ごとに土地を整えられるので雑草を抑えるためにも有利だったからです。
  でも、「いざ栽培」となればそれだけでは不十分です。なぜなら、おそらく生き残るための戦略でしょうが、穀類の野生種は種がこぼれやすいからです。ですから栽培するためには種がこぼれにくいものを選ぶ必要がありました。
  また収穫にあたっても、てんでんばらばらに成熟されてはかないません。少なくとも一つの穂でまとまるか、出来ればその田んぼ全体で一斉に実ってくれるのが望ましいわけです。ですから人は望みに合うような個体を選んで栽培を繰り返してきました。
  また米作りには人手がかかりますし、当然その土地の自然環境や技術などいろいろ関係してきます。自然環境で言えば「地形」「土壌」「気候」「雨量と時期」等々、それらの条件と人手、技術などがからんで「畑地か水田か」、また「直蒔きか田植えか」などが形となって現れます。
  日本に伝わったころには先ず焼き畑で栽培され、次第に水田で作られるようになったと考えられています。畑地で栽培される稲を陸稲とか「おかぼ」と言い、水田のそれを水稲と言いますが、種に違いがあるわけではありません。

3.畑か水田か、直播か田植か
  では水田で作る利点は何でしょう。
  家庭菜園などを手がけている皆さんはよくご存じでしょうけれど、地力を維持するため畑には肥料を入れなくてはなりません。そうしないと生産力がどんどん落ちてしまいます。また一般的に畑作物は滞水を嫌いますが、そうかと言って排水が良すぎれば雨で肥料も流されやすくなってしまいます。ですから例えば焼き畑でも、数年持たずに新しいところに移らなくてはなりませんでした。
  朝鮮半島には「火田民」と呼ばれる焼き畑を行なう人々が20世紀後半まで残っていたと言われていますし、当然日本列島でも山間地ではかつて普通に行なわれていました。例えば対島でも焼き畑のことを木場と言って蕎麦などを作っていましたが、それも1年限りだったそうです(注5)。
  水田の場合はどうでしょう。たとえ灌漑されていなくても(雨待ちなので「天水田」と言います)、ともかく水を張れば利点が生まれます。なぜなら、雑草も水を嫌うものなら生えませんし、動物の被害も畑よりは避けられます。また土壌の浸食や養分の流出もある程度は防げるからです。(水温、防風、客土、藻の発生と窒素の固定など、いろいろ関係しますがここでは触れません)
 要するに、たとえ灌漑されなくても低いなりに一定の収穫があるわけです。養う人口が少ないところならそれでも良かったということです。

  では灌漑が行なわれた場合にはどうでしょう。水路の長さや途中での水のロスなどの課題もありますが、水は肥料分を運んでくれます。ですから水の管理さえしっかり行えば収量の安定や増加が期待出来わけです。

  余談ですが、学生時代に1年間、カリフォルニアの農場で千葉県と岩手県の後継者と一緒に米作りの実習経験をしました。サクラメントから高速バスで2時間ほど北へ向かった、シェラネバダ山脈と海岸山脈に挟まれたサクラメント川が流れる北緯40°あたりのところ、サマータイムのころは夜の10時頃にやっと日が沈んで暑さが和らぎました。
  大規模な圃場で真ん中に土木用のスコープから指示を出しながら等高線に沿って機械で畦を作り、出来たところへサクラメント川から引いた水を入れていきます。そしてほとんど同時に小型飛行機で空から播種するのですが、それももう前処理されていてすぐに根が出そうな籾でした。私たち実習生の仕事はボスが上空から見つけた畦の弱い部分をスコップで補修して回る、つまり機械では出来ないところの担当です。
  それはともかく、日本に帰る時土産にもってきたカリフォルニア米、1年過ぎたころ食べたのですが、その美味しさに驚きました。で、なぜだろうと。科学的な根拠はないのですがおそらく三つの理由があるのではと思ったものです(全くの私見です)。
  一つ目は気候、5月から10月まで雨はおろか雲さえめったに見ませんでした。
  二つ目は土壌、その当時はまだ当地の米作りは50年ほど、つまり土壌が若かったのではないか。
  三つ目は保存、籾のまま大規模倉庫に山積みにしての管理。農家で食べるのは「今摺り米」と言って美味しいのだとは千葉県の実習生から。
  で、雑草の抑制や緑肥にもなるへアリーベッチというマメ科植物との輪作も毎年ではありませんが行なわれますし、また当面は灌漑水で十分なのでしょう、施肥は見たこともありませんでした(これが言いたかった)。
  ※「カリフォルニア 稲作」で検索すると米作りの様子がわかります。


  こんな例は大規模な米作りでこそですが、当時の東アジアの稲作では当たり前ですが考えられません。そこではばら撒き(直播)ではなく田植えという方法が次第に採られるようになっていきます。田植えをすればムラも無くなり除草も効率的になるからですが、そのためには手間や人数がかかるのは昔話に夕日を招いた長者の話があるとおりです。こうした面積あたり労働力を多投するやり方を「労働集約的」と言いますが、水田に限らずかつては日本農業の特徴をひと言で表す言葉でした。
  灌漑設備も労働力もある、でもそれで田植えOKかと言えばそうでもなく、実はもう一つ揃わなくてはいけません。稲の苗は乾燥に弱く、田植えには水が絶対条件です。つまりその季節に水が不足だったり不安定であれば田植えは出来ないのです。
  このようなことから、田植えには一年トータルの降水量ばかりではなく、降る時期がいつなのかという問題が残ります。またたとえ溜池があったとしても、それが十分に大きいかどうかもかかわります。

4.稲作のための水
  朝鮮半島の話に戻ります。
  朝鮮半島の場合、南部の一部を除くと春と秋が短かく冬が長い大陸性気候に近いのですが、気温としては北部の山岳地帯の一部を除いては稲作が可能です。
  一般的な話ですが、稲の栽培には年間1000ミリの降水量が必要とされ、朝鮮半島の場合は日本の78割、平均的には大丈夫です。しかしその降る時期が問題で、田植え時期の35月にはあまり多くありません。ちなみに、ソウルでは平均1250ミリ内外、でも78月に半分ほどが降ってしまい、35月には15%くらいなのです。このように降り方が片寄っているうえに貯水池や用水も小規模だったため、朝鮮王朝時代の中ごろまで、稲作は南部の一部を除いてほとんどが直播きで行なわれていました。同じ稲でも直播きされた稲ならある程度は乾燥に耐えられるからです。田植えが普及するのは1600年代以降と言われています。

  では朝鮮半島と接する中国の東北地方はどうでしょう。
  南船北馬と言う言葉があるように、中国大陸は南から北に行くほど年間降水量は少なくなります。遼東半島あたりで8001000ミリ、東北の大興安嶺以東で500750ミリとなっています。降水量が少ない地域では小麦、高梁、粟、黍、また耐寒性の強いライ麦などが作られました。つまり朝鮮半島に近い地域は基本的には畑作地帯です。
  これらのことから考えれば、中国の畑作地帯では「田」は「はたけ」のことで、朝鮮半島に入ってきた「田」の字は「はたけ」を指したのも自然なことでした。つまり、最も大きかった理由が中国との地理的な関係だったということ、回り道をしましたがその裏付けになったと思います。
  最後に地形的な視点にも少し触れてみます。

5.地形
  以前、お世話になった韓国の大先輩(戦前の卒業生でした)に伺った話です。その方がはじめて日本へ来て列車で東京へ向かった時、山や川、あるいはトンネルを過ぎて駅に止まるごとに受ける印象が違うことに驚いたと言われました。地形も文化も細かく分かれている感じだったそうです。「訛りは国の手形」などと言いますが、これはおそらく封建制度とも相互に関係しているのではないでしょうか。
  秀吉が朝鮮に兵を送った時、毛利輝元による半島南部の星州(当時は慶尚道、現在は慶尚北道に属する)から国元への手紙には、「さてさて此の国の手広き事、日本より広く候すると申す事に候」と記されているそうです。
  また、朝鮮半島の河川は川幅が広く底が浅いのに加えて、傾斜度が小さいため流れは前に進むより横に広がります。つまり流域が広くなるのです。河床勾配という指標がありますが、たとえば淀川と洛東江とを比較すると淀川は洛東江の概ね17倍、つまり高低差が大きいわけです。
  それに加えて、朝鮮半島の西海岸では干満の差が大きく、そのため海水がかなり逆流してきます。ソウルの西にある仁川では干満差が810mだそうですし、それよりずっと南ですが天童よしみが歌った「珍島」のあたりでも5mほどと言います。「海が割れる」のももっともです。
  このように、幅の広さや海水の逆流というような条件のもとでは、大きな堤を築いて水を制御するのはかなり困難でした。水田が作られても移植ではなく直播きを選択するしかなかったのです。かなり昔から貯水池や用水施設が作られてはいましたが、それもほとんどは小規模なものでした(注6)。

6.「麦」という字
  「田」という字をきっかけに畑、水田、そして稲と続いてきましたが、ついでですので畑に作られるイネ科のもう一つの例として「麦」という字についての話題です。夏の季語の「麦秋」とか「麦の秋」がありますが、恥ずかしいことに「麦秋」というのは秋の風景なのかと長い間思っていました(反省!)。
  それはともかく、大麦の原産地は中央アジア、小麦のそれは西アジアと言われ、いずれも稲の育つ気候とはかけ離れた地域です。中国には西方から伝えられ、面白いことにそれが漢字にも反映されています。
  「麦」という漢字の旧字が「麥」というのはご存じだと思います。下の部分は「下向きの足」のかたちを表していて、つまり根が深く地中に伸びていくので乾燥に強いということだそうです。上の部分は単独では「來」と記されて「禾(のぎ)のついたムギ」を表し、もとになった象形文字では「ライムギ」だったそうです。
  この「ライ」と発音された字をまだ字の無かった「くる」という意味の「ライ」という言葉に借りてきて、「來」=「ライ」=「くる」となりました。まさに西から「来」たわけです。(こうした漢字の作られ方を仮借【かしゃ、かしゃく】と言います)ちなみに、ライ麦は小麦より乾燥に強く、またマイナス25℃にも耐えられるそうです。

7.おわりに
  たしかに米は日本でも朝鮮半島でも好まれたに違いなく、多くの収穫が期待された穀物でした。しかしその栽培には気候だけではなく、技術、地形、人口といった条件が影響していることは、大雑把ではありますが見てきたとおりです。
  私がかつて韓国の農業関係の本を見ていた時、その頃はまだ漢字が使われていてそこに出てくる「田」の字が日本で言う「畑」指していることを知りました。当時、和辻哲郎の『風土』にはまっていて、「なるほど『風土』か。面白いな」と思い、それからはさまざまな事柄が文化の違いを反映していることに興味を持ってきました。
  今回は「田」という字がきっかけとなりましたが、結局ある言葉を使って表したい意味、その究極のところはそこに住む人々の経験の枠を出ないのではないでしょうか。それでも、共通の言葉を使うとすればその背景には違いがあることを、たとえ背景自体は分からなくても、あらかじめ頭に置いておきたいものです。
  いずれにしても、一つのことであっても簡単にスルーするのではなく、その背景にはけっこう沢山のことがあるのではとちょっと気をつけてみると、さまざまなことがわかってくるようです。そんなことをこれからも見ていきたいと思います。(M.I.

 ※1:ここでは地理的な表現では「朝鮮半島」、言葉には「韓国語」を使いますが、これは筆者のこれまでのパターンですのでご理解願います。

 ※注2:「ハングル」というのは韓国語の表音文字です。韓国語は日本語と比べると発音が複雑なので「万葉仮名」のように漢字の発音を使うのは難しかったのです。日本語の「仮名」にあたる表音文字は、1446年に「民衆を訓える正しい音」という意味で「訓民正音」と名づけられた「ハングル」が出来るまでありませんでした。
 また、NHKに「ハングル」を附した講座がありますが、これは、北では「朝鮮語」と、南では「韓国語」と自称しているための苦肉の策です。「ひらがな語」とか「カタカナ語」がないのと同様、「ハングル語」などはあり得ません。

 ※注3:「送り仮名」的に漢字を利用した「吏読」(リト)というものがあって公文書などに使われましたが、広く庶民に普及したわけではありません。
 ※注4:韓国では漢字を訓読みにはしません。例えば「山」は「サン」と音で読むだけで「やま」とは読まないのです。ですから、「水田」を意味する言葉は韓国語では「tap」と言いますが、tap」と仮名を振ることはしません。
 ※注5:『日本残酷物語1貧しき人々のむれ』(平凡社1995)には焼き畑を行ないながら山間で暮らす人々の姿が数多く載せられています。
 ※注6:全羅北道の金堤にある万頃平野には西暦330年頃に作られた碧骨堤(国家史跡111号)と呼ばれる貯水池がありました。水門や堤防の一部が現存し、博物館、公園などが整備され、観光に供されています。
 

  ちょっと紹介を!

編集部より:
  この欄は編集部に寄せられた情報をきわめてポイント的ですが紹介しようとするものです。もとより書籍に限るものでもなくまた毎号ではありませんが、関心のある方々の一助となれば幸いです。


   近藤 恒夫著『薬物依存を越えて-回復と再生へのプログラム』

  今回紹介する著作は、20195月号の「読んでみました」で一度紹介されています。ただ、そこでは本文からの文章が少なかったこともあり、今回、これからの本欄の構成および内容的にも意義深いものと考え、再び取り上げました。ぜひ、20195月号の記事も合わせてお読みくださいますように。

  薬物依存について書かれた本書の著者の近藤恒夫さんは、自身も覚醒剤中毒でひどく苦しんだ経験をし、自身が壮絶な経過を経て回復されたのち、日本で初めて薬物依存者の更生施設「ダルク」を創設し、今度は依存症に苦しむ人々を助ける側に回っておられました。
  この本からは、依存症からの回復にはいくつかの大切なことがあることが知られます。それは第一に、回復に最も重要なのは「自分自身を徹底的に客観視すること=自身の無力を認めること」だということです。そして、それに加えて重要な役割を果たすのは、「同じ依存症に苦しむ仲間とのミーティング」です。
  確かに本書は薬物依存を対象にしていますが、考えてみれば人は誰しも何らかの依存症を持っているのではないかとも思います。例えば、自分の中の欠落感、恨みの感情、寂しさ、痛みなどなど。
  その苦しさから、人は薬物やアルコール、あるいは食べ物や異性など、ありとあらゆる手段を使って忘れようとします。でも、根本的な原因を解決しない限り、結果的にはどんどん悪化の道をたどるのではないでしょうか。
  この本に示された薬物依存症からの回復方法は全ての人にとって参考になると思えますし、ダルクで実践されているプログラムは、グリーンヒルの反応系の修行とも重なる部分が多いのではないかと感じました。一部ですが本文からの抜粋です。

【自助グループという方法論をとる理由】
  「薬物依存者が薬物をやめる(=回復していく)道のりは、最終的には本人のやる気一つにかかっている。いくら周囲の人間が『やめなさい』と言ったところで、結局やめるやめないは本人の責任だからだ。しかし一方で、本人の意思で簡単にやめられるなら、そもそも依存症などという問題は発生しないことになる。
  そこで重要な意味を持つのが自助グループ、すなわち同じ問題を抱え、同じように苦しみながら回復をめざしている“仲間たち”との出会いの場なのだ。自力で薬物依存の地獄から抜け出せず、絶望しかかっている人間にとって、仲間たちの存在は何よりの励ましになるし、同時に具体的な回復のモデルとして希望の光にもなる」(P.30

【自分の無力を認めるということ】
  このミーティングのテーマとも深く関わるのが、「12のステップ」と呼ばれるプログラムである。12ステップとはアメリカのAA(アルコホーリクス・アノニマス、アルコール依存症者の自助グループ)から生み出されたプログラムなのだが、ダルクはこれをもとにしたプログラムを採用している。そしてダルクの仲間たちは、この12ステップこそが回復への道を切り開くものだという信念を持って、日々実践に励んでいる。12ステップの詳しい解説はやはり第四章で述べるが、ここではやや先回りをして、その冒頭に掲げられているステップ1についてだけ若干解説しておこう。
  ステップ1にはこうある。
  「われわれは薬物依存に対して無力であり、生きていくことがどうにもならなくなったことを認めた」
  12ステップ全体のトーンを規定するステップ1に、いきなり「薬物依存に対して無力」という言葉が出てくることに、戸惑いを覚える読者もいるかもしれない。普通に考えれば、薬物をやめるためには鉄のように固い意志が必要だ、ということになるだろう。一体なぜ”無力”なのか。しかし、ここの部分に薬物依存から回復するための大きなターニング・ポイントが存在するのである。
  とはいえ、このステップについて言葉で説明するのはなかなか難しい。私自身、最初に12ステップと出会い、「無力を認める」という言葉を聞いたときには、さっぱり意味がわからなかった。そんなことより、いますぐクスリをやめる方法を教えてくれ、というのが正直な気持ちだったし、オレはそのうち自分の意志の力でクスリをやめてやるんだ、という気負いのようなものもあった。
  そのあたりが十分に腑に落ちないまま、とりあえず毎日三回のミーティングには通っていたのだが、相変わらず幻聴、耳鳴りはやまないし、周りの仲間たちと比べてもさっぱり自分の病気がよくなっている実感がない。そんな日々が約1年ほど続いた頃、ふと、一年間もミーティングに通っているのに、これではひょっとしたら何年やってもダメかもしれない、というあきらめのような気持ちが湧き上がってきた。同時に、ようやく自分の無力を認めるということがわかったというか、現実にそれを認めざるをえない境地に達した。そして不思議なことに、ちょうどその頃から、クスリをやめ続ける精神的肉体的苦しさがグッと軽減されるようになったのである。(P.34

【鉄格子越しに見た雪の中のタンポポ】
  198011月初旬、判決期日を検察官による論告求刑、弁護人による弁護が行われ、さらに私には最終陳述の場が与えられた。
  この事件を担当した奥田保裁判長(現在、弁護士)が私をまっすぐ見つめ、『何か、最後に言いたいことはないか』と尋ねた。
  この瞬間、私の人生の中で、信じられないことが起きた。
  『私は、シャブをやめるために今日までさまざまな努力をしてきたが、すべて無駄でした。もう、もう・・・・疲れました。私のいまの希望は、刑務所に入ることです』
  傍聴席のざわめきと同時に、老いた母親の嗚咽(おえつ)が背中に突き刺さってきた。
  傍聴に来た家族、兄弟、親戚のみんなが期待していたのは、私の反省と更生を誓う言葉だったに違いない。しかし、私の口はみんなの期待をさらに裏切るように、勝手にしゃべり始めた。
  『刑務所に入れてください。私の意志の力ではどうにもなりません』
  生温かい涙が頬を伝わって流れ、拘置所用のゴムスリッパにポトポトと落ちていく。
  しかし、しゃべり終わると、なぜかわからないが胸に詰まった重苦しさが消えて、急に体が軽くなった感じがした。これが、薬物(覚醒剤)に無力で、どうにもならなくなった自分を認め、受け入れる最初の出来事だった。
  私の言葉に奥田裁判長は驚いたようだ。戸惑いか、手に持ったペンを右に左にしきりと動かしていた。その姿を私はいまも鮮明に覚えている」(P.96
(文責:編集部)

  この本の著書近藤恒夫氏は、残念ながら昨年2月、享年80をもってお亡くなりになりました。ここにあらためてご冥福をお祈りいたします。


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